受験生が落とされた先は年下女子の足下でした【後期】
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7.
この事件が引き金となって、これからもふとした時に靴下の幻が立ち現れるようになり、その度俺は本物の少女の靴下…その臭い、湿り気、ぬくもりの実感への憧れを強めるだろうという確信めいた予感が俺の中にはあった。
ところが、その憧れの実現のチャンスは、ことのほかすぐに俺のもとに舞い降りた。
あの事件から数時間ののち、少女が学校から帰ってきた。
ドスンと遠くで鞄を下ろす音がすると、すぐに少女は生活スペースの方に向かってきて、蓋を外してから、腰をかがめるようにして俺のいる内部を覗き見た。制服姿をの少女がそのまま俺の頭上の景色だった。
「残さず食べれて偉いですね」という褒めてるんだか馬鹿にしているんだかよく分からない言葉を残して、少女はすぐに蓋を閉めて踵を返した。俺は少女のこういう言葉に腹を立てなくなっていた。少女が俺を静かに見下しているのは相変わらずだが、拾われて間もなかった頃に比べれば、彼女の俺に対する敵意のようなものが多分に希薄になったように思うのだ。そう考えると最前の少女の言葉も、彼女なりの精一杯の冷やかし、親しみのこもった侮辱であったように思えてこなくもなかった。
彼女がいる間、天井の向こうからミストシャワーのように優しく降り続けていた、思春期の爽やかな汗の香りが、まだ少し俺の鼻に残っていた。
戻っていく少女の後ろ姿を、入り口の陰から食い入るように見つめていた。俺の視線は常に少女の足下に向けられていた。素足のときよりも床を踏みしめるときの音が柔らかく、離れる所作もスッと軽やかだった。だがかかとから足が持ち上がる時に、ほんのわずかな間だけ足の裏が晒されるのは同じだった。靴下を履いたあの足で優しく踏んでもらえたらどんなに気持ちいいことだろう…そんなことを思っていたら、いつの間にか少女が床の上に見えなくなっていた。部屋から出た様子もないので、おそらくベッドの上に寝転がったのだろう。見えなくなってしまったのを少し残念に思いながら、入り口に背を向けた。その次の瞬間だった。
ぱたっ。
背後でそんな、間の抜けた音がしたのだ。
俺は脊髄反射的に音のした方を見た。見ると、生活スペースの入り口から少し離れた床の真ん中に2枚の紺色の靴下が力なく身を横たえていた。
俺は入り口の枠を握るともなく握りながら、目はしっかりと、たった今少女が脱ぎ捨てた靴下に向け続けていた。淡い色のフローリングに、靴下の紺が不気味なくらい映えて見えた。
今俺が握る手を離して、あの靴下に近づいていき、飛びついたりしてみたらどうなるんだろうか。自分の靴下に身をうずめて、毛虫のように悶える小さな年上の男の姿を見て、あの少女は何を感じ、どんな行動を取るのだろうか。
あの少女のことだから何をしてくるか全く予測が立たない。だが俺の頭にはひとつはっきりと、そんな俺を見る少女の眼差しが描き出されていた。
いつだったか少女が見せた、スープで溺れる小蝿を見るような、嫌悪と軽蔑と憤怒に満ちたあの眼差しが。
思い浮かべてぞわりとする。あの眼差しの前では、どんなに屈強な男であろうとたちまち無価値で汚らわしいゴミクズと化してしまうような気がする。言い換えると、少女はあの目によって、ゴミとして存在する資格をあらゆるものに与えるのかもしれなかった。
俺が、ゴミと化してしまうのを恐れながら、ゴミとして生きることに憧れているのは前にも述べた通りである。したがってこの時も俺の中に激しい葛藤が生じていた。しかもそれは激しく長丁場のようでありながら、結果の見えている茶番のような葛藤だった。
すると、視界の外から白い脚が伸びてきて、靴下からほど近い場所に到着した。こうして少女の素足がそばに置かれると、靴下はますます強く、少女の脱ぎ捨てたものであるという印象を与えた。
「じゃあ私、お風呂に入ってきますから」
俺の方を向くこともせずにそう言って、少女は部屋から出て行ってしまった。
脱いだ靴下は、そのまま床に残して。
少女と入れ替わるようにして訪れた閑寂の中に、乱れる呼吸の音だけが聞こえていた。あまりにも唐突に、そして事もなげに目の前に現れた好機に、俺は度を失っていた。
靴下は依然禍々しい雰囲気を纏いながら、床の中央に気怠げに身を横たえていた。
用心深く周囲の気配を探る。出て行ったように思わせておいて、どこかで俺の行動を見張っているんじゃないかと思ったからだ。その場合あの靴下は、俺をおびき寄せるトラップということになる。だがどれだけ意識を凝らしたところで、少女の気配らしきものはどこにも感じることはできなかった。
本当に少女は何の意図もなく、男一匹残した部屋に靴下を放りっぱなしにしているのだろうか。だとすればあまりに不用心であると言わざるを得ない。現役女子中学生の使用済みの靴下という言葉の持つ響きが、男たちにとっては刺激的に甘美なものであるということを、少女は理解していないのだろうか。自分が目を離した隙に靴下の臭いを嗅がれることを、考えはしなかったのだろうか。
動き出す俺の足を止めるのに足りる理由は失われていた。少しだけ、少しだけだからと自分に言い聞かせながら、そのままふらふらと靴下に近づいていく。昨夜、少女の素足の誘惑にあてられた時とほとんど同じ感覚だった。少女の素足も靴下も、小人一人を悩殺し、身も心も委ねさせてなお余りが出るほどの魔性を孕んでいた。ただ昨夜と違うのは、近づくにつれて、汗の臭いに埃っぽさの混じったような濃密な臭いを感じるようになってくるということだった。離れていても存分に鼻を打ってくる臭いは、あの靴下にたどり着いた場合についての想像をますます甘美なものにさせた。近づいて見ると靴下の塊は存外大きく、床の中央に陣取る姿には、さながら絶海で桃太郎一行を待ち受ける鬼ヶ島のような得体の知れない風格が漂っていた。腕っぷしの強さもないただの一般人が、お供もなく一人丸腰で、理性を奪おうとしてくる鬼が数千数万と潜んでいるあの中に乗り込んで行く…今の状況はそういう風に説明することができた。
さらに近くまで来て、今まで靴下のシルエットしか捉えられていなかったのが、いよいよその細部まで把握することができるようになった。深く、なめらかに彫られた皺、すり減りや汗の染み込み具合によって生じたであろう紺の濃淡、少女の歩行によって無差別に地上から攫われ、足の裏に取り込まれてしまった数多くの微細なゴミたち…いずれも俺の情欲を激しくかきたてるものでしかなかった。
しかしあと10歩ほどでたどり着こうかというところで、俺の歩みがすっと止まった。
緊張で足が震えている。大きな夢を叶えられる瞬間がすぐそこまで迫ってくると、このように緊張がふっと湧いて出てくるものなのだろうか。
姉妹もなく、中学からの6年間をずっと男子校で過ごしてきた俺は、女子の脱ぎ捨てた靴下を嗅ぐことはおろか、それを目にする機会だってほとんど持ったことがなかった。そんな環境での生活の中、いつしか生じた靴下を手に入れたいという願望が、俺の腹の底でぶくぶくと肥え続けていくばかりだった。
その願望がとうとう叶えられようとしているのだ。しかも手に入れるどころか、全身を靴下に包まれるという形で。
俺は足の震えが引いていくのを待った。
けれども、それよりも先に、今度は地面が揺れ始めたのに気がついた。
この種の縦揺れには覚えがある。しかも、普段通りならじわじわと近づいてくるはずの揺れが、凄まじい勢いをもってこの空間に迫ってきているのだ。靴下に対する酔いが急速に冷めて行く。間違いなく、少女が駆け足でこの部屋に向かって来ている…!
すぐに引き返すべく駆け出した。しかしその2歩目で不運にもフローリングの継ぎ目に足を引っ掛けてしまい、俺は前向きに転倒してしまった。
次の瞬間、背後で巻き起こった突風が床に倒れこんだ俺の体を通過していった。振り向かずとも、少女が部屋の扉を開けたのだと分かった。
血の気が引いていく。起き上がって、後ろを振り返るだけの勇気がなかった。扉が開かれてからというもの、少女に一切のアクションがない。そればかりか、押しつぶされそうになるほどの視線を背中に感じていた。俺の姿を見て、少女が言葉を失っているということは明白だった。
もし自分が少女の立場だったら、ちょっと目を離した隙に、最前まで身につけていた靴下のすぐそばまで寄って来ていた小さな男のことを、訝しまないなどということがあるだろうか?
「ぐエッ」
突如横っ腹を殴打されるような衝撃を感じ、うつ伏せに倒れ込んでいた俺の体は強引に仰向けに戻された。あまりの痛みに俺はしばらくのたうち回っていた。
「ひッ…!?」
顔の真横に柱のように太く長い何かを、ズドンと杵で餅をつくような勢いで落とされて、その瞬間に痛みに悶えていた体がぴたりと静止した。顔に接するかしないかのスレスレのところで、少女の薄桃色の爪がギラリと光っていた。あと一センチでもズレていたらこの美しい爪に串刺しにされていたかと思うと、全身から汗がどっと噴き出した。最前の衝撃もこの指によるものだと、いつまでも床に突っ伏している俺を少女が指ひとつで弾き起こしたのだとこの時に思い当たった。
ところで断じて言うが、俺がのたうち回っていたのは決して過剰な演技などではなかった。爪で顔の隣を鋭く突かれた瞬間、俺の本能が全身に警鐘を鳴らしたのだ。大人しくしなければ殺される、と。俺の動きを止めたのは俺の意思ではなく、俺の身体の意思だった。しかも動きばかりではなく、痛みまでもが嘘みたいに俺の身体から消え去った。本能レベルでの恐怖が、痛みを上書きしたからだった。
指がすっと床から離れて行く。俺はほとんど自然に昇っていく指を見送っていた。
だから俺の視線は必然、その指の向かう先で待ち伏せていた、少女の目に捕まってしまった。
「……」
あの目だった。万物をゴミに帰してしまう例のあの目を、少女ははっきりと俺に向けていた。それも今度は以前同じ目を向けられた時のような理不尽がなく、そうするだけの正当性が少女に与えられていたためか、その目には少しの遠慮も容赦もなかった。
また少女は一切口を開かずに徹底的に俺をその目で苛んだ。耳からの情報に気を散らすことさえ俺は許されていないのだった。
視姦というには、少女のその目はいささか尖りすぎていた。視線はくすぐるのではなく容赦なく俺を突き刺し、彼女の目に宿るのは戯れの熱っぽい光ではなく、罰や暴力の冷たい光だった。
「や、やあ…どうしたのかな…?」
とにかく主導権を握ろうと、俺は口を開いた。しかし声を震わせ、笑顔を引きつらせている情けない姿から、誰が主導権を感じ得ただろうか。
「…お母さんに、ちゃんと脱いだ靴下も洗濯物に出しなさいって言われたんです」
鋭い視線に反して、少女の声は静かだった。だがその静かさは少しだって俺に安心を与えなかった。こういう不釣り合いには、怒りや憎しみの形相でなく、落ち着き払った笑顔を浮かべながら人を殺す狂人に似た不気味さがあった。
「そちらこそ、そんなところで何をなさろうとしてたんですか」
「いや、えっと、それは…」
言葉に詰まったのは、気が動転していて咄嗟にいい言い訳が思いつかなかったのが一つ、どんなに賢しい誤魔化しで俺の矮小な身の守りを固めても、少女の「嘘ですよね?」の一言だけで、全て吹き飛ばされてしまいそうな気がしたというのが一つだった。
俺がそんな調子でいると、すうっと地上に向かって少女が手を伸ばしてきた。すばしっこい虫をなんとか捕らえようとする幼い子供のような余裕のない手の伸ばし方ではなく、また気配を殺して背後から捕まえようとするときの繊細なゆっくりさでもなかった。こんなちっぽけな男が、自分の手から逃れられるほどの能力も精神も持ち合わせていないことなど全てお見通しであるかのような少女の手だった。事実俺は頭上の景色を飲み込みながらじわじわと果てしなく巨大化していく手のひらからは、少しも逃れられる気がしなかった。
このあと俺はあの指によってひょいと空中にさらわれてしまうのだろう。そこでは少女の無慈悲なお仕置きが待っているのだと少しも疑わなかった。
だが、俺の想像に反して、少女の手は俺がいる場所の手前でぐんと沈み込み、着地した。指先に触れていたのは、あの紺色の繊維の塊。初めから少女が俺ではなく靴下を取ろうとしていたと分かると、体の緊張が一気にほどけていった。一方で、少女のお仕置きを受けられなかったことに、煮え切らない気持ちがしないでもなかった。
(うん…?)
靴下はそのまま無抵抗で床から引き剥がされ、空中に連れ去られていくものかと思われたが、全長の半分ほどめくられたところでふっと静止したので、俺は違和感から上空を見上げずにはいられなかった。見上げたところでは、俺の全身を瞳の中に閉じ込めた、少女の二つの目が待ち構えていた。
はっきりと視線が冷たかった先ほどと違って、少女の目は無味乾燥なものであり、何を考えているか読み取ることができなかった。だが俺はそこからはっきりと嫌な予感だけは感じ取った。本当に少女が靴下を取ろうとしていたなら、その視線も同様に靴下を対象にしているはずではないか?と考え始めたのとほとんど同時に、静止していた靴下が再び動き出した。
そう、俺の持っていた嫌な予感は、間も無く的中することとなってしまうのだった。
「……!」
少女は手から吊り下げていた靴下を持ち上げて回収したのではなく、そのまま俺の立っている正面に、ぐいと突き出したのだった。目と鼻の先、ちょうど頭の高さに靴下のつま先部分が来ている。つま先部分は同時に靴下の一番底の部分でもあり、表面の臭いばかりではなく内部に沈澱した臭いまでもが繊維を貫通してむわりと漂ってきていた。これほどの至近距離で靴下の臭いを持ち主に”嗅がされる”という状況は本来であれば手放しで興奮するべきものなのだが、それよりも俺は何のために少女がこんなことをしてきたのか理解ができなかった。理解できない空恐ろしさがあった。だが、理解できないのも無理のない話だった。少女の行動はこれで終わりではなかったのだから。なんと、少女は俺の目の前で、靴下をはためかせたのだ!
それは、下卑た金持ちが人に言うことを聞かせるために万札をはためかせたり、人間が警戒心の強い猫を籠絡するために猫じゃらしを振ったりするのによく似た動きだった。つまるところが下等の者を釣るための動きである。
少女は靴下を揺らし続ける。静止した状態でも存分に俺の嗅覚を刺激していたつま先の臭いが、靴下の動きによって発生している微風に乗って浴びせられる。この靴下の臭いの波状攻撃を防ぐ手段を俺は持っていなかった。臭いを乗せた風によって、じわじわと俺の身体から理性を引き剥がされていく。
少女の狙いが俺には分かっていた。要するに少女はこの行為によって俺の人道にもとる行いの決定的証拠を抑えようとしているのだろう。思えば実に少女の考えそうなことだった。あくまで容疑を否認し続ける俺の態度を、立場の差を利用して真っ向から否定することもできたはずだが、それでは生温いと彼女は考えたのだろう。
――とぼけるのでしたらそれでも構いません。…せいぜいゴールのない我慢大会を楽しんでくださいね。
無味乾燥な瞳の奥から、少女のそんな心の声が聞こえてくるような気がした。
もし俺の理性が完全に引き剥がされ、目の前でゆらりゆらりと動く靴下に飛びつきでもしたら、釣り糸の先の餌に食いついた魚のように、靴下ごと上空に連れ去られてしまうだろう。
空中で、落ちないように必死の思いで汚れた靴下の先にしがみつく惨めな俺を冷ややかな目で観察したあと、今度こそ容赦無くお仕置きを加えるだろう。身動きが取れず、手も塞がっているので、抵抗することすら許されない。また、言い逃れすることだってできないのだ。なぜなら、靴下に飛びつき、そのまま離れていない俺という構図自体が、俺の犯した罪の証明に他ならないのだから。だからといって靴下から手を離すことはできない。空中で少女のお仕置きを受ける間、命を繋いでくれるものは少女の靴下だけなのだから、俺はその靴下にしがみついていなくてはならない。犯罪の証拠になろうと、どんなにその姿が惨めに移ろうと、少女の靴下にすがることしかもはや俺にはできないのだ…。
少女は靴下を揺らし続ける。俺の正気を失わせようとしていたのは臭いばかりではない。靴下の動きには少しも変調がなく、見続けているとこっちの気が変になってきそうだった。ひょっとするとこれは俺という人間をゴミにするための催眠術なのかもしれない。
ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた、ぱた。
…時間にして30分くらいだろうか、狂いのない靴下の動きを見せつけられながら、この催眠術堕ちてしまわないように必死に抗い続けた。(実際のところ少女が靴下をはためかせていたのはたったの2分間にすぎなかった。しかし想像してみてほしい。2分間でも中学生の少女が、小さな生物に向かって無言、無表情で靴下の片方だけを淡々と揺らし続けるその姿の異質さを)
少女は靴下を揺らし続ける。理性はすでに風前の灯だった。早く楽になってしまえばいいのにと、どこからともなく囁きかけてくる声まであった。
実際、俺は早く楽になってしまいたかった。この気持ちが初めから存在していた情欲に重なって、目の前の靴下に飛びつきたいという衝動はいよいよ抑えがたいものになってきていた。
少女は靴下を揺らし続ける。
(――もう限界だ)
俺の足はついに、目の前で舞う靴下に向けて、その一歩を踏み出そうとしていた。
だが、俺が足を動かすか動かさぬかのところで、少女はスッと靴下を胸の高さまで引っ込めた。そして靴下を持ったまま、何事もなかったように部屋から出て行った。
(た、助かった…のか?)
へなへなと地面に崩れながら、頭の中は未だ整理がついていない。だが結果として、俺は少女の前ではついにあの靴下に対して何の反応も見せなかった。なぜ彼女が突然靴下を引っ込めたのかは判然としないが、大方、なかなか俺が反応を見せないので興が削がれていったというところだろう。兎にも角にも、俺はこうして無事に生還することができた。俺の長時間に渡る我慢はようやく報われたのだった。
…そのはずなのに、一体何なのだろう、この腑に落ちない感じは。
ひょっとすると俺の我慢は、助かることなどではなくむしろ少女のお仕置きでしか報われることがなかったのかもしれない。ちょうど禁欲が、本当の性欲の喪失でなく、我慢の解かれた時の何物にも変えがたい快感でしか報われることが無いように。
8.
その日以降俺と少女の間に何か変化が生じたかといえば、全くそんなことはないのであった。俺の罪の決定的な証拠は得られなかったが、また無実を証明する証拠も見せられていないのであり、少女の俺を見る目が変わってもおかしくはないはずだと思っていた。だがあの日以降の俺に対する接し方といえば、どういうわけかまるで今までのそれと差異のないものだった。朝の通学前と夜の夕食後の計2度顔を合わし、時折淡白な言葉をかけてくる…しかしそこから、俺への嫌悪感の増加などは決して見てとることはできない。
そのうち俺は、この不自然にも思える平穏を、いわゆる嵐の前の静けさ、これから先で起こると決まっている不穏な出来事の予兆と考えるようになった。ここから先は、俺の妄想の一部の抜粋である…。
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その日の夜も、少女は天井をそっと剥がして、今日の夕飯の残りであろうゴーヤチャンプルーの入った小さな食器を俺の前に置いてくれた。そのあと少女が一旦席を外すと、俺もまたいつものように与えられた食事を黙々と食べ始めた。
そうしてスッキリとしたお皿の上を、片付けに再びやってきた少女がじっと見た後、こう言うのだ。
「前から思ってたのですけど、あまり好き嫌いのしない方なんですね」
「ああ、そうかも」
相変わらず抑揚のない声だったが、少女に飼われ始めてしばらくになるということもあって、これが別に皮肉の混ざっていない褒め言葉であることが俺には分かった。少女のこういう飴とムチは絶妙だった。いや、少女の場合実際にはムチを振るうことはなく、常に隠し持って時々ちらつかせるというやり方だと言った方が正しいかもしれない。彼女はこれまでに一度もその圧倒的な巨体に備わる力に訴えたことはないが、言葉や態度はいつもその力の行使の可能性を暗示していた。そうすることで俺に少女に対しての畏怖の念を持つことを忘れさせず、時々思い出したようにほの甘い言葉をかけ、恐怖と同居していた少女への批判だけを取り除くのだ。「怖いけど悪い人間じゃない」という飼い主像の形成。意識してかせずしてか、少女はこうして俺にペットという立場を刷り込んでいく…。
「何か特に好きな食べ物とかあったりするんですか」
別に俺の好みになどさして興味のなさそうな様子で聞いてきた。とするとこの質問の意図は、俺の好みを知るというよりも、ひょっとすると俺の好きな食べ物を今度出してあげるというところにあるのではないか、と思い当たった。
「うーん、そうだなあ…当ててみてよ」
会話を盛り上げるために選んだ言葉だったのだが、それに対して少女は一瞬面倒そうに顔をしかめた。別に興味があるわけじゃないからさっさと答えてほしい、と心のうちで少女は苛立ちを感じているのかもしれない。
「私の靴下とかですか?」
だからだろうか、少女が吐き捨てるようにこんな言葉を発したのは。
ピシャリ、とそれまで和やかだった周りの空気が瞬時に凍てついたような気がした。
「は、はは…」
俺は引きつった笑いで答えることしかできなかった。そうすることで少女の発言を冗談にしてしまいたかったが、当の彼女が少しも笑わなかったためにこの目論見はあえなく失敗に終わった。
こんなところであの一件を蒸し返されるなんて少しも考えていなかった。勝手に、もう許されたものだと決めつけていた。だから弁解の準備も整っておらず、俺はまごつくばかりだった。
そんな時、薄い壁を隔てた向こう側で衣摺れのような音がしているのに気づく。嫌な予感がする。音がおさまって頭上に顔を向けたとき、その予感は確信へと変わっていった。
目が合うと同時に、少女の手を離れて、靴下が静かに自由落下を始めていた。
ぽふっ。
着陸と同時に、靴下に押し出された空気が、瞬時に靴下に汚染されて目と鼻の先にいた俺の全身を襲った。
あの時よりもさらに近くに、しかもものの数秒前まで少女が着用していた、正真正銘の脱ぎたてほかほかの靴下が横たわっていた。この生活スペースの半分以上の領域はこの靴下によって占領されてしまっていた。
…少女が上空で靴下をこの空間に投下する構えを見た時から、俺はまたあの時のような我慢を強いられるのを覚悟していた。だがそれすらあまりに楽観的な考えであったと言わざるを得ないだろう。
中学生の少女の脱ぎたてでよく蒸れた靴下というものが持つほとんど病的な魅力は、全長わずか3センチの免疫のない男の身にあまるものだった。故にこの靴下から発せられた新鮮で濃縮された臭いを吸い込んでしまった瞬間、俺の持っていた我慢という機能はいともたやすく破壊されてしまったのである。
まずはじめに俺は少女の靴下に触れた。手で思う存分に少し湿った靴下の感触とぬくもりを確かめた。次に、靴下に触れた手を顔の近くまで持っていき、試みに臭いを嗅いだ。
すると、もっとその臭いを欲するようになり、這いつくばって、顔を靴下の生地に擦り付けるようにしてじかに臭いを嗅ぎ始めた。少女の臭いを体に取り込めば取り込むほど、もっともっと少女の臭いが欲しくなっていく。ついに俺は靴下にかぶり付き、生地に染み込んでいる少女の汗を懸命に吸い始めた。初めて少女の靴下の味を知ってしまった。こんなものを飲み続けていたら、いよいよ俺は少女の汗以外の飲み物は口にできなくなってしまうかもしれない。そう思ったところでもう止めることなどできなかった。
このとき、興奮しきっている一方で、第三者のように冷静に自分を見つめている俺がいた。
少女の目には、今の俺がどんなに無様に映っていることだろうか。そんな想像がさらに興奮を加速させる。そんな無様な俺をもっと少女に見てほしい、無様で汚らわしい俺の姿をもっと、もっと、も…
熱に浮かされていた脳みそが急速に冷えていく。
少女に、見られている?今までの俺の行為の、一部始終を…?
恐る恐る体の向きを変えると、天井が完全に塞がれてしまったかと思うほどに、少女は顔を近づけて、全てをゴミと化すあの眼差しを、空間の中央に位置する俺に向けていた。
痛いほど注がれる視線。恐ろしいほどに乱れのない少女の呼吸の音が、この生活スペースに浸潤していく。
肉体的にも精神的にも逃げ場なんてどこにもなかった。追い詰められた俺にとどめを刺すように、少女はゆっくりと口を開き、こう言ったのだった。
「…気持ち悪い」
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~~
~
ガタンっ!と生活スペース全体が激しく揺れたことで俺は現実に引き戻された。最初にやってきたのは後頭部の痛みだった。揺れによって床に倒れてしまい、その時に頭を打ち付けてしまったのだと思われた。
「…さっきからずっと声かけてたんですけど」
苛立ちの隠しきれない声が聞こえてきた。見上げたところには、少しばかり眉間にしわを寄せた少女の顔があった。
「ご、ごめん」
「ああ、いえ…私の方こそつい箱ごと蹴ったりしてすみません」
言われてから、入り口付近の壁に、ちょうど自分の後頭部に出来ているこぶと同じようなものができているのに気がついた。
少女の要件はなんでもなく、ただいつものように夕食を持ってきたというだけのことだった。もちろんゴーヤチャンプルーではなかった。
最近ますます俺の妄想が洗練されてきているように感じる。それは現実に共に生活してきて、少女の身体的特徴のみならず、人格、思考、感情にまで理解が及んできたからだった。最初は不気味にしか感じていなかった少女の無表情も、そこからも感情の機微を読み取れるようになった今は、かえって彼女の魅力の一つであるとさえ感じていた。
もう一つ。それは自分の中で何か破滅願望のようなものが大きくなりつつあるのを自覚したからだった。これを自覚してから、俺の妄想はほとんど極限と言っていいほどにまで高められた。最前のものにも見られたように、少女の足に発情しているところを、少女に見られてしまうという展開が常になった。
実現が難しいものにほど、強い憧れを抱くのが人間という生き物である。俺がこの手の発覚に強い憧れを抱くのも、また実現が難しいことであるからだと言えよう。いや、この言い方には語弊があるかもしれない。少女に対して情欲をさらけ出すことそれ自体は簡単だ。その行為によってかつてないほどのエクスタシーを手にすると同時に、エクスタシー以外の全てを失うことになるのである。この危惧が、情欲の公開の実行の番人となっていた。(貧弱だった理性は番人をクビになった)
9.
疑いをかけられたあの日から三週間が経ったが、依然として状況には何の変化も起きなかった。そのために欲求不満になっていた俺は、ある日から、勉強に打ち込む少女の姿を
生活スペースの陰よりこっそり眺めることを習慣にし始めた。夏休みが明けてからの少女の1日の行動の流れは、
朝、昼食を俺に与えてから学校に行く→学校から帰る→朝の皿の回収→勉強→入浴と食事→俺の分の夕食を持ってくる→勉強→就寝
といった感じだったが、俺は眺めることにしたのはこのうち最初の勉強の時の姿だった。
もはや言うまでもないことかもしれないが、俺は常に視線を椅子にどっかりと乗せられた少女の尻よりも下に集中させていた。平時は脚は机の下に隠れていて、机のほとんど真横の位置、しかも距離も離れた生活スペースの陰からではほとんど覗き見ることはできないが、それだけに気まぐれに少女が膝を畳んで足を椅子よりも後ろ側に出したり、椅子をくるっと回転させたのち、脚を浮かせてピンと伸ばす仕草などをしているのを見れた時の喜びもひとしおだった。また隠れさていて足を拝めない時だって、机の下で行われている少女の足の活動を色々に想像することで退屈を感じないで済んだ。特に好んだのは、少女の足が活発にうごめくその机の下に、小さな自分の姿を投入することだった。密室の、さらに人目のつかない机の下で、ひっそりと、たかが少女の足に翻弄される自分。思えばこの妄想は、自分がまだ図書館通いの受験生だった頃にもしていたものであり、また少女に捕らえられたあの時の状況にも近しいものだった。巡り巡って俺は原点に戻ってきたらしい。
そんな調子で1週間ほど少女の観察を続けたところ、俺はある重大な発見にたどり着いた。
学校から帰って、俺の食べたあとの皿を片付けると、少女はいつも制服も着替えずに机に向かい始める。その時点では靴下も着用したままである。だが少し経って再び現れたとき、少女の足は肌色が輝かしいあの姿に変容しているのだ。観察初日から裸足にお目にかかれた俺は、自分の幸運を喜んだ。それはちょうどあの図書館で、初めて少女の足の裏を目撃してしまったときのような僥倖だった(この時にはまだその足の裏にこれほどまでに執心することになるなどとは考えもつかなくて、勉強漬けで心が荒みかけていた俺に神様が与えてくれた束の間の癒し程度にしか考えなかったのだ)。
けれどもこれは単なる幸運ではなかったのだ。なぜなら初日以降も毎日、しかもほとんど同じタイミングで、靴下に包まれていた少女の足は、素足への変貌を遂げていたのだから。
あの俺の目の及ばない机の下で、足だけを使って少女が靴下を脱いでいたということは1日目から察しがついていた。その時点では、単なる気まぐれでそんな脱ぎ方をしたのだとばかり思っていたが、一週間も続くと流石に俺の見方も変わってきていた。何せ少女がそんな靴下の脱ぎ方をしているのを今までに見たことがなかったのだ。ベッドの上で脱いだ靴下を床にはしたなく放り投げる…それこそが最も慣れ親しんだ所作だった。
なぜ急に少女はそんな脱ぎ方をするようになったのか?その疑問に対する答えは今日、思わぬ形で明かされることとなるのだった。
少女が頭上に腕を突き出しゆっくりと伸びをするのは、勉強の中断の合図でもあった。いつもは少しでも覗きをしているのを知られるリスクを減らすために、その合図を見ると早々に生活スペースの中に引っ込んでいた。しかし今日に限っては違った。勉強を終えて部屋から出て行くところまで、注意深く観察してみようと思ったのである。
ひとしきり伸びをしたあと、少女はゆったりとした動作で椅子から腰を上げた。かと思えばそのまま立ち上がるのではなくかがみこんで、机の下に手を入れて何かを取り出す風にしていた。戻ってきた少女の手に収められていたのは、俺の見立て通りに脱ぎ捨てられて裏返しのまま丸まった紺色の靴下であった。
だがそこで引っかかることがあった。回収した靴下を、少女は何か大事なものでも抱えるかのように、素早い動作で胸の前まで持っていったのだ。そのまま少女は踵を返し、靴下は背中に隠されて俺の位置からでは死角となってしまった。これだけの動作にどうして引っかかりを覚えるのかこの時にはまだ分からなかった。
少女は歩き出した。もうこれ以上の収穫は望めないだろうと落胆しながら、俺はその背中を見送っていた。
一瞬だった。
部屋の扉に差し掛かった時に立ち止まり、少女は俺の隠れている方を、ちらりと振り返ったのだった。――警戒に満ちた表情で背後を窺うその仕草は、まるで夜道でストーカーの気配を察知した少女のようだった。
すぐに顔の向きを戻して、何の反応も見せるでもなく少女は部屋から出て行った。
あの遠目から、生活スペースの扉の陰に隠れる小さな俺の姿を認めることはできなかったはずである。だから少女は振り返ったのは、おそらく陰から俺が覗いていることへの確信からではない。むしろ陰から俺が覗いているのではないかという懸念から振り返ったように思われた。
今の少女の仕草によって、一つ俺の中ではっきりとした答えが導き出された。少女があの日のことを言及してこなかったのは、決して俺の無実を認めたからなどではなかった。机の下で隠すようにして靴下を脱ぐのも、今まで親に注意されるほどに放りっぱなしにすることの多かった靴下を、あれほど注意して持っていくようになったのも、目を離した隙に忍び寄ってくる小さな俺の影を気味悪がって、靴下を俺から遠ざけようとしていたからに他ならなかったのである。それはほとんど害虫に対する生理的嫌悪に等しかった。また俺には少女のそういう行動の一つ一つが静かな拒絶、罵倒なき罵倒のように思えた。
――気持ち悪いから近寄らないでもらえますか。
そういうメッセージは、今や俺の情欲を刺激するには一番うってつけのものだった。
夜、一連の出来事をネタに自慰を行いながら、改めて一週間観察を続けてきて良かったと思った。
10.
翌朝、食事を運びがてら少女がこんなことを言ってきた。
「私が大事にしてたヘアピンを無くしてしまって…ベッドとか箪笥の下に隠れてるかもしれないので、私が学校に行ってる間に探していただけませんか?」
頼みごとをするとあって、いつものふてぶてしい態度とは打って変わってしおらしくしているが、この媚びるような表情の裏で例の俺に対する生理的な嫌悪感が渦巻いていると思うと、上手く少女と目を合わせることができなかった。
自分によく懐いていると思っていた後輩が陰で自分の悪口を言っているのを知ったとき、大抵の先輩はそれを責めることができない。今も自分に向けられている人懐っこい笑顔と、それよりも前に偶然聞いてしまった鋭い批判の数々とのギャップに、人知れず苦しみ続けることしかできないのである。
もっとも俺の場合、こういう少女の嫌悪と態度の相背馳を指摘することで、「嫌いだったらなんなんですか?」とかえって少女を開き直らせて、虐待などを誘発してしまうことを最も懸念しているので、不問に付すより他はなかったというのもあるが(今更ではあるが俺の肉体的被虐嗜好は精神被虐嗜好に比べると微弱なものである)。
「探すのは良いんだけど…この部屋時々君のお母さんが掃除しにくるだろ?あれに出くわしてしまうとまずいんだ」
「それでしたら、お母さんは今日はパートで夜までいないので心配ないかと」
「そうか、ならしっかり探しておくよ」
「すみません、お願いします」
もとより居候させてもらっている身なので、少女の頼みごとを聞いてあげることに異存はなかった。少女を見送って、朝食も済ませると、俺はすぐにヘアピン捜索へと乗り出した。
少女が俺にヘアピン捜索の依頼をした1番の理由は、人間では手を突っ込むことができるかできないかという狭い隙間に、この小さな体で入っていくことができるからだろう。だから俺がやるべきことは、少女の言葉通り箪笥やベッドの下の僅かな隙間を集中的に探すことで、少女でもできる、例えばこの広々とした床の上を隅々まで探すなどといったことをする必要はないのである。該当するような隙間の数は決して少なくはないだろうが、少女が帰宅するまでおよそ10時間、それらを全て探して回るのには十分に足る時間だろう。
まずはじめに、生活スペースから一番手近なところ、勉強机の背中と壁の間にできた隙間を探ってみることにした。俺の小さな体をもってしても、壁伝いにカニ歩きで進まなければならないほどに狭い隙間になっていた。そのような狭さなので当然人の手も及んでおらず、少女の歩行のために用意された大通りの脇に形成された暗い路地裏のようなこの場所は、埃たちの温床となっていた。他にも短くなった鉛筆、ひび割れたキャップ、消しゴムのかけらなどが所々に転がっていて、地に落ちた枯れ枝のような哀愁を漂わせていた。
抜けた先で一番近くに見えていたのが箪笥だったので、今度はその隙間に潜って探してみることにした。ここもやはり、何か忘れ去られた場所のような趣があった。頭上を全て箪笥の底面に覆われ、日差しが奥まで入り込めるほどの高さもないために机の背後よりもさらに視界が暗くなっていたが、しかし目が慣れてくれば全く見えないほどではなかった。
奥の方まで進んでいったが、それらしいものは見つからなかったので次の場所に移ることにした。順当に行けば次に探す場所はベッドの下ということになる。
(これは骨が折れるぞ…)
前の二箇所は合わせて40分ほどで終えることができたが、ベッドに覆われた床の面積はそれらとは比較にもならないほどに大きく、また今いる場所から見ることのできる範囲だけでも本当に様々な物が放置されていて、進みづらい上にヘアピンを見つけにくくなっているため、少なく見積もってもここで2時間は費やすことになるだろう。
意を決してベッドの下に入っていく。幸い箪笥の下よりは天井が高く、また机の裏側みたいに幅が狭いわけでもないため身動きは取りやすくなっている。
一歩ごとに両脇を入念に調べながら、俺はじりじりとベッド下の洞窟の奥深くへ進んでいく。その間は発見の連続だった。空になったシャー芯のケース、出来の悪かったらしい、くしゃくしゃになった中2の頃の定期試験の回答用紙、賞味期限に2年前の日付が書かれたお菓子のゴミ、見覚えのあるタッチの絵が表紙に描かれた、なぜか12巻だけの少女漫画……奥に行くほど昔の物が落ちているらしく、このベッドの下の地表全体が少女の年表になっているようだった。しかもそれは少女のプライベートに密着した、少女の人生というよりは生活の年表だった。俺は依頼を越えていつしかこの探索を楽しむようになっていた。
そんな時だった。それらのような生活廃棄物が方々に散らばっている中に、明らかに異質なものが落ちているのを発見したのである。が、暗くてそれが何であるか分からなかったため、俺はもっと近づいて見てみることにした。歩み寄って行くにつれて、少しずつその物体の視覚情報が詳らかにされていく。その物体が柔らかそうな繊維でできた物であること、そして淡い黄のような色をしていることまで分かった時から、ある悪魔的な仮説が俺の脳内ですくすくと育ち始めていた。そしてさらに近づき、今まで暗闇に溶け込んでいた、しわくちゃな”くまさん”の絵が浮かび上がってくるのをこの目で見たとき、ようやく俺は理解した。
それはいつからここに放置されているのかもわからない、少女のぱんつだったのだ。
理解してからも、俺は進行方向を変えたりなどせずに歩いていた。言うまでもなく、あのぱんつの周辺にヘアピンが落ちている可能性を考慮してのことである。歩行中、俺は露骨にあちこちに振り向いて探すふりをしながら、だんだんぱんつが間近に迫るのをちらりちらりと確かめずにはいられなかった。
俺がちょうど別の方向を向いていたタイミングで、正面にあった柔らかいものにぼふっと全身がぶつかってしまった。見ると例のしわくちゃくまさんが至近距離で俺に笑いかけていた。
あの冷淡な少女がこんな子供っぽく可愛らしいぱんつを着用しているところを想像することができなかった。おそらくこのぱんつは、少女が今よりも一回り幼かった頃に使用していたものなのだろう。それにこのちぢれた感じは、幼き日の少女が脱ぎ捨てたきり、一度も洗濯をされていないままということではないだろうか。
「も、もしかしたらぱんつの中にヘアピンが紛れ込んでいるかもしれないもんな…」
誰が見ているわけでもないのに俺は言い訳じみたことを言った。強いて見ているとすれば、このぱんつに描かれているくまさんということになるだろうか。
このくまさんは、もちろん現実の熊ほど獰猛ではなかった。しかし人間を魅惑し、誘き寄せ、食ってしまうというこのくまさんは現実の熊よりももしかしたら危険であるのかもしれない。
そして俺はまんまと罠にはまり、くまさん…もとい幼き少女の使用済みのぱんつに、身も心も食われてしまうのだった。
ぱんつの内部は、別に少女の香りで充満しているというわけではなかった。これを少女が履いていたのは何年も前になるはずだから、当然鮮度はとうの昔に失われ、臭いも枯れてしまっているのだろう。だが同時に、洗濯されて汚れのないぱんつのような無味無臭でもなかったために、これが使用済みであるという俺の確信は少しも揺らがなかった。さらに俺はぱんつに潜入していく途中で面白いものを発見した。5-2と油性ペンで書かれたのが消えかかっているような文字で、タグの部分に書かれていたのである。これ以上の説明は必要あるまい。
綿製の生地をかいくぐって、とうとうぱんつ内の最深部に行き着いた。外で見た時からぱんつはくしゃりと丸まっていたため、進んでいる時も、そして今も、折り重なったぱんつの天井がやんわりとのしかかってくる上、重なった生地は光を通すことを少しも許さず、内部はほとんど真っ暗闇だった。そのままではムードに欠けていたが、ふとした思いつきから俺はこの暗闇の中で仰向けに寝転んでみることにした。するとたちまち感じ方が一変した。
抵抗するのではなく受け入れることで、のしかかってきていた天井は俺を優しく包み込む羽毛布団のようになった。また余裕が出てきたことで、この布団に、前に誰かが使っていたような温もりが残っているのにも気がついた。
(ほんの少しだけど、まだあたたかい…?)
急に押しかけてきた期待に応じるように、俺はその体勢のまま、鼻から思う存分に空気を吸い込んでみる。この時に受けた俺の衝撃たるや。
鼻腔を通過したのは、少女の局部に滴るおしっこの残滓が染み込んだ、正真正銘の使用済みのぱんつの香りだったのだ。
(馬鹿な、4年前以上前のぱんつだぞ!?そんなに昔の臭いが残ってるはずが……いや、しかし)
俺は速やかにこういう推測を立てた。俺が見ているこの通り丸まったぱんつの中は真っ暗闇で、おしっこを乾かす日差しなど少しも入ってこない。そればかりか、このぱんつの中といえば窮屈で外気もほとんど入ってこないような所だから、何者の干渉も受けず、また逃げ道を持たないおしっこ混じりの空気が、長年の間ずっとこの場に溜まっていたのではないか?(実際彼の推測は的を射ていたが、もう一つ彼の気づいていない重大なファクターがあった。それはこれがただ小学五年生の少女が脱ぎ捨ててそのままベッドの下に紛れ込んでしまったようなぱんつではない、ということである。何を隠そう、このぱんつは、小5の少女が年甲斐もなくおねしょをしてしまい、家族に見られないようにするために、意図的に丸めてベッドの奥に隠したものなのである。おねしょといっても、布団に地図が出来るような大掛かりなおねしょではない。普通の生活の中でぱんつに浸潤する臭いならいくらあのような環境でも4、5年もあれば枯れてしまうものだが、少女がおねしょをしてしまったことで通常よりもずっと多くのおしっこを吸収したことにより、今でも残り続けているのだった。だがこの見落としは別に彼の興奮を半減させたりしなかった)
もっとも、こんな推測はどうでもよかった。大事なのはただ、今俺がこうして、小学五年生だった頃の少女のぱんつの臭いを嗅いでいるということである。小学五年生の少女の局部を覆っていたぱんつが、今では俺の全身を包んでいるということである。
つんとしたおしっこの香りは、オールドヴィンテージワインのようにこのぱんつの中で熟成し、俺の脳みそを甘く麻痺させ、ペニスを覚醒させるには十分な味わいを持っていた。視界に薄い黄色のもやがかかったような幻覚を見始めたのは、俺が少女のおしっこやぱんつのことしか考えられなくなってしまった証左である。
俺は手探りでぱんつの生地を探し、その生地で硬くなった俺のペニスを扱き始めた。しながら考えるのは、やはりおしっこの臭い、ぱんつのほのかなぬくもり…そして、脱ぎ捨てたぱんつの中で自慰を行っているところを、小学五年生の日の少女に見つかってしまう、というシチュエーションだった。
少女が拾い上げたことによって、丸まっていたぱんつがほどけて、俺の身体は床に放り出される。地面に打ち付けられたことが引き金となって、俺のペニスは勢いよく白濁の液を噴射し始めていた。はっと上に目をやると、自分のぱんつの中から裸体の俺が出てきたこと自体が予想外だったのか、幼き少女は目を丸くして射精の収まらない俺の姿を見つめていた。
だが、足の指や爪の表面にまで液が飛び散ったとき、少女の身体ははじめてビクッと震え、反射的に2歩ほど後ずさりをした。次には俺を見つめる少女の顔が、本当に虫が苦手な女の子が虫を前にしたときのような、目に涙すら浮かべそうな拒否感に満ちたものになっていた。
「やだぁ、なんか気持ち悪い…」
小学五年生という幼さの少女は、性の知識を頼りにしない、純粋な感覚のみによって俺の行為、存在を嫌悪し、拒否する。ミミズやナメクジなど人間に害のないはずの生き物に感じるような、理屈抜きの嫌悪感。言い換えれば俺は少女にとってミミズやナメクジと同列の存在となってしまったのだ。
それを裏付けるかのように、いつのまにか少女の右手には殺虫スプレーの缶が握られていて、その噴射口は俺のいる場所に向けられていた。
「ま、待ってくれっ!これには事情が」
「いやっ、来ないで!」
弁解に駆け寄ろうとした瞬間、噴射口から勢いよく多量の殺虫剤が放たれる。
ミスト状の殺虫剤でも、その勢いは流れ落ちる滝のように激しく、まず俺の動きはその勢いによって物理的に殺されてしまった。床に押し倒された後も、どうにか這いつくばってこの攻撃から逃れようとした。しかしそれも無駄な足掻きだった。少女は一切の妥協も許さず、例えば俺が少しでも前に進もうとすれば、同様に少女も噴射口の向きを少し前にずらして、常に最大限のダメージを与えようとしてくるのだ。
そんな容赦のない攻撃によって俺の身体はだんだん言うことを聞かなくなり、殺虫剤そのものの効能によって意識も薄れ始めていた。
「死んだかな…」
少女は恐る恐る足の先で俺の身体を揺すり、生死を判定しているようだった。それを終えても少女がそれらしい反応を見せなかったため、どうやら意識がうっすらと残っているばかりで俺の体の方は完全に死んでしまったらしい。
朧げな視界が、しゃがみこんだ少女の色で染まる。俺が死んでいると少女が思っているからか、それとも単純に警戒心が足りていないだけなのか、大胆に開かれた股の間に桃色のぱんつが見えた。この時だけ視界が息を吹き返してくれたらと願ったがそう都合よくもいかない。
しゃがみこんですぐ、少女は俺に向かって手を伸ばして来た。その指と指の間にはティッシュが摘まれていた。身動きのできなくなった俺をティッシュに包んで処分するつもりなのだ。視界は真っ白、そしてすぐに真っ黒へと変化した。おまけに激しい揺れまで起きる。きっと少女かティッシュの塊を手に握って、適当な場所に運んでいるところなのだろう。
窓から雑に放り出されるのか、玄関で靴に履き替えた少女に踏み潰されるのか、あるいは便器の中に落とされて、ついでにと便座に腰掛けた少女のおしっこに溺れながら最期を遂げることになるのか…。だがいずれの場合でも、俺が少女の下す処分を体感できることはなさそうだった。かろうじて生きていた意識も、もってあと数秒というところだろう。俺は少女の握られた手の中で人知れず生を終えることになるのだ……。
射精とともに妄想は幕を閉じた。こういう想像力をフル稼動させながら行う自慰は疲労を伴う。加えて少女のヘアピン捜索のために歩き回った後ときたものであるから、俺の体は次第に強く睡眠を求めるようになっていった。しかも、俺の体を全方位から包み込むふかふかのぱんつの生地は、問答無用で俺を眠りに誘ってくる。
(ちょっとくらいなら、いいよな…)
その抗いがたさといえば真冬のコタツの比ではなかった。1時間後に目を覚ますという誓いを立てて、結局俺は小学生女子の使用していたぱんつの中で、ぐっすりと眠るのだった。
11.
突然の揺れに意識が覚醒する。二度目の揺れに瞼が開き、三度目の揺れで意識はよりはっきりとし、四度目の揺れでようやく状況を察する。
少女が、学校から帰って来たのだ。しかし、俺がぱんつに潜り込んだ時はまだ昼間の明るい時分だったはずだ。一体俺はどのくらいの間寝ていたというのか?
いやそんなことを考えるのは後でいい。少女が帰った以上いつまでもこの中に居続けるわけにはいかない。俺はちょうど時計を見て自分の寝坊にようやく気づいた瞬間に高校生が感じるような焦りとともに、ぱんつの中から脱出した。
が、外気を浴びることで、下半身に寒気が集中しているのを感じる。そこで俺は初めて、ジーンズを脱いだままぱんつの中に残してきてしまったことに気がつくのだった(彼がノーパン生活を強いられるようになっていたのは随分前に述べた通りである)。
「まだ探してくれてるんですか?とりあえず、お皿は片付けておきますから」
自分のベッドの下で一人の小さな男が下半身を露出させていることなど知る由もない少女の声が反響する。こんなあられもない姿であの少女の前に出て行けるほど命知らずではなかった。
途方に暮れていると、ベッドの下の出入り口に映された、横に長い少女の部屋の床の上の景色の中を、あの紺色の靴下に覆われた二頭の足が、重々しい揺れを発生させながら通過していった。残された部屋には、害獣に踏み荒らされた畑のような虚しい静けさが漂っていた。
兎にも角にも、俺は再びぱんつの中に潜り込み、ジーンズを見つけて、適切な姿で少女の前に出ていけるようにしなければならない。少女が皿を片付けて戻ってきた頃には既にジーンズを履いている、ということを目標に俺は丸まった少女のぱんつの中に身を投じた。
しかし結論から言うと、俺はジーンズを見つけることができなかった。分かっていたことではあるが、ぱんつの内部は光の一切差さない暗闇であり、その中で俺は触覚だけを頼りにジーンズを探さなければならなかった。その上、ジーンズが繊維ならば、ぱんつもまた繊維なのである。材質が違うとはいえ、繊維の中で繊維を探すというのは、目を瞑って手触りだけで河原の石を仕分けるようなものだ。さらに厄介なのが、しわくちゃに丸められたぱんつにいくつも存在する、生地と生地が折り重なってできた狭い隙間の中に、俺のジーンズが何かの拍子で入り込んでしまったという可能性である。ここまで考えた末、俺はジーンズ捜索を一旦断念せざるを得ないという結論に至った。苦肉の策で、外からぱんつの塊を解して見つけ出そうともしてみたが、俺がいくら力を込めて押したり引いたりしたところで、小学生の履いていたぱんつはピクリとも動かなかった。
(ん…?)
ため息混じりに、ベッド下の出入り口の方を見るともなく見てみると、そこから見える景色の奥の方に、ぽつりと何かが落ちているのを発見した。
あれこそまさに少女の探していたヘアピンなのではないかと思い当たった。不幸の連続の中で一筋の光明を見出した気分になった俺は、すぐさまそこを目指してベッドの下を飛び出した。
ベッドの下を出た時、まずその眩しさに俺の目蓋が反応した。別段強い明かりが差しているわけでもなかったのだが、しばらく暗い場所に滞在していたことが影響しているのだろう。ようやくまともに景色を見られるようになると、俺はすぐに息を飲んだ。
ベッド下から出てすぐの場所、そこが先程少女の足が通過していった場所だということを瞬間的に思い出した。なぜかといえば、今まさに俺の目の前には、床が曇ってできた少女の足跡が残されていたからだ。風呂から出た時にふと足を上げてみると床にできているのが分かる足跡と同じようなものが、この少女の部屋の床にもくっきりと映し出されているのだ。それは、風呂上がりたてほかほかの素足と同じ温度と湿度を持ってしまうほどに、今日の少女の靴下履きの足が蒸れているということを意味していた。
だがそのことに心を乱している場合ではない。今俺がやるべきことは、一刻も早くあのヘアピンの落ちている場所に駆けつけ、少女の目のつく位置に運び出した後、生活スペースの中に身を隠すことだった。ひとまずあの中にさえ帰ることができれば、ティッシュで下半身を隠すなど応急処置をとることができるはず。あのぱんつの中から俺のジーンズを回収する方法はその後でゆっくり考えればいい。無論少女の蒸れた足も後で夢想すれば良いことだ。
件の少女が通っていった道を挟んでベッドのトイ面にある、長い、というよりは広いトンネルのような空洞、その奥に目的のヘアピンが落ちている。幸いそこに向かうまでに障害となる物は何もなかったため、走って進んでいた俺は比較的すぐにヘアピンの近くまでたどり着くことができた。
「さて、運び出すとするか。ふん…っ!」
ここで初めて気づいたことだが、俺には一つ見落としていたことがあった。この少女のヘアピン、俺の小さな体で持ち上げるにはいささか重すぎたのである。もっとも、ヘアピンの大きさが俺の身長と同じかそれよりわずかに大きいというくらいなので、少し考えれば分かりそうなことではあった。
仕方なしに俺は引きずるようにして運ぶことにした。時間は少しかかってしまうが、それもこのヘアピンを外に運び出すまでの間だ。前に述べた通り四方を壁に覆われているトンネルのような場所のために、運んでいる間に少女の目についてしまうということはそうそうないだろう。そんなことを考えていた矢先、部屋に戻ってくるところであろう少女の足音が聞こえ始めた。
それにしてもここは一体少女の部屋のどこにあたる場所なのだろう。出入り口が一つしかなく、壁も天井も全て木製で、ベッドの向かい側に形成された広々とした空間……。
ベッドの向かい側、というヒントを最大の手がかりに、俺はそう時間をかけずに答えを導き出した。そうだ、ベッドの向かい側にあるのは、少女が勉強するときにいつも使用していたあの机ではないか。ということは今俺のいるこの場所は、あの机の下にできた空間ということになるのだろうか。
なるほど普段から使用しているこの勉強机の下こそ盲点だったというわけだ。灯台下暗し…もとい少女の足下暗し、である。
それにしても、俺の方もなぜここが机の下であるということに気づけなかったのだろうか。つい昨日まであれほどこの机で勉強している姿を熱心に観察していたというのに――
少女はいつも俺の食事を片付けると、すぐに机に向かい始める。一昨日も、昨日も……そして、今日も。
(まずい、このまま机の下にいたら――)
ヘアピンを捨てて駆け出そうとした瞬間、とてつもない爆音と揺れに襲われ、有無を言わさずその場で転倒させられた。ドアを弾くように開け、少女が堂々と帰還したのだった。そこからは文字通りあっという間も無く事が進んでいった。
転倒してから顔を前に向けるのとほとんど同時に、出入り口の外に、巨木の根と見紛うような回転椅子の足が現れた。だがその存在感に圧倒されていた時間はたったの1、2秒にすぎない。重厚感があり、黒々として不気味さをはらみながら、生命力を力強くぎらつかせ、そして何より、冗談のような大きさである少女の足がこの場に現れてしまった瞬間、威風堂々俺の目の前に聳えていた人工の巨木は、人間に対して絶対服従を強いられたただの道具としての椅子に成り下がった。
少女の足による机の下の領域の侵略が始まった。俺はただその様を固まったように見ているしかなかった。後ろは行き止まり、前には迫り来る少女の足。逃げ場なんてものはどこにもなかった。
気づいた時には既に、少女の足のつま先が、文字通り俺の目と鼻の先に突きつけられていた。不幸中の幸いというべきか、少女は足を今の位置以上に前に突き出しては来なかったため、俺の体と少女のつま先の接触によって存在に気づかれてしまうということはなかった。
だが…
「けほっけほっ!」
俺は涙が漏れてくるほどに噎せ返った。床にくっきりと足跡を残すくらいに蒸れた足の臭いを、不用意に吸い込んでしまったがために。
なぜ少女の足がこれほどまでに蒸れているのか、俺は知っている。
今日…いや今日に限らず、毎週火曜日、少女は6限目にある体育の授業で疲れ切って帰ってくるのである(今の彼の生活態度から曜日の感覚など当然無くなっていると思われているかもしれないが、少女の登校のために曜日感覚だけは一度も失わなかった。要するにそれだけ彼の生活が少女の生活に依存しているのだということである)。実際先週の火曜日も、食事の片付け時、開いた天井からいつもより濃い汗のにおいが漂ってきていたばかりか、雨漏りでもしているみたいに、ぽたぽたと定間隔で汗の粒が落とされていた。「すみません…」と少女は珍しくばつが悪そうに謝りながら、生活スペースの床に落ちた汗はすぐに全部ハンカチで拭き取ってしまった。しかし、ベッドとして使用しているティッシュに染み込んだ汗の粒が2、3あったので、少女が天井をかぶせた後、俺は真っ先にそのにおいを嗅いだ。少し口で吸ってみたりもした。
あの時に嗅いだ少女の汗のにおいが、どれほど鼻に優しいにおいだったか今になって知ることになる。もっとも、この少女の蒸れきった足の臭いの前では、くさやですらただの魚の干物と化し、スカンクでさえ凡百の愛玩動物に成り下がってしまうのであるが(少女の足がそれほどに臭いというわけではなく、小人である彼の感じる臭いがそのレベルであるということ了解していただきたい)。
汗の時と違って、俺はこの時けっして少女の足の臭いを積極的に嗅ごうとはしなかった。あれほど少女の足の臭いを嗅ぐことに対して憧憬を抱いていた俺がこういう姿勢を取っている時点で、どれほどその臭いがすさまじいかは理解してもらえると思う。だがそれでも、俺は少女の足の臭いを嗅がされる。壁際に追い込まれてのっぴきならない俺に、少女は蒸れたつま先を突きつけて、無理矢理に臭いを嗅がせているのだ。
しかも少女は、それだけでは飽き足らなかった。
(え?)
反応の隙さえ与えられずに、口と、視界と、動きを同時に封じられ、そのまま床に押し倒されてしまった。すなわち俺は、少女の靴下履きの足の裏の下敷きになってしまったのである。
仰向けにされたまま、全身を押し潰さんばかりの巨大な足を両手で押し返そうとしていたが、動かすどころか、その力は外側を覆う分厚い靴下(しかし、夏物のスクールソックスである)によって全て吸収され、向こう側に隠れているはずの少女の素足に届くことすらなかった。しかも、靴下を全身に押し当てられているということは、外気に薄められも、冷やされもしていないそのままの靴下の激臭を、否が応でも嗅がされるということである。そんなことをされ続ければどうなるか。意識はいよいよ朦朧とし始め、体の内も外も、彼女に汚染されていく。少女一色で染められていく。身動きが取れない。圧迫されているからというのはもちろんなのだが、動こうとしても体に力が入らない。俺のしてきた妄想に似たような状況に陥ったものがあったような気がする。彼女の靴下の臭いは天然の殺虫剤だった。
動きがないからか、幸か不幸か、俺は少女にたまたま机の下に落ちていたゴミだと思われているらしかった。こうして何かを足で無意識に弄ぶことは、ひょっとすると少女が勉強に集中しているときのサインなのかもしれない。この机の上で少女は、自分の足の下で一人の男が地獄の苦しみを味わっていることになど気づきもせず、淡々と問題を解いているのだ。
口内がいやに粘ついてくる。それを洗い流してくれる新鮮な空気など当然この環境には存在しなかった。
いつになったら少女はこの地獄から解放してくれるのだろうか。勉強が中断されるまで、ずっとこの状況が続くのだろうか。普段通りであれば、少女は風呂に入るまで二時間ほど机に向かう。ならば俺も二時間という長い間、この過酷な苦しみに耐えなければならないということだろうか?この状況に陥ってからもうそろそろ二時間になるような気がするし、五分も経っていないような気もする。
早く楽になりたかった。そして俺は、すぐにでも楽になれる方法を知っていた。
すなわち、抵抗するのではなく、受け入れること。理性も尊厳も彼女の足に差し出してしまえば、それだけで俺はこの苦しみから救われる。しかしそれは、悪魔と契約を交わすことに近かった。
これまで、どれだけ身体が臭いに侵されようとも、精神だけは支配されまいと耐えていた。一度取り込まれたらもう終わり。そのことを理解していたから、俺は自らの奥底から湧き出てくる、しかもだんだんと勢いを強めている情欲に懸命に蓋をし続けていたのだ。
もちろん、苦しんでいたのが純粋に少女の無意識からの攻撃が過酷であったからということに間違いはない。だが同時に、苦しんでいる間は、あの白濁とした下劣な欲望は鳴りを潜めていたから、俺は必死で苦しんでいたのだ。
そんなとき、体にかかる力、熱がすっと消えるのを感じた。そして次の瞬間には、待ってましたとばかりにさわやかな空気(彼は確かにこう感じたが、実際は僅かばかり埃っぽくよどんだ、机の下の空気だった)が口に、鼻にどっと押し寄せてきたものだから、その反動で少しむせてしまった。
(おわった、のか……?)
圧迫が解除されて、力を振り絞れば這いながらでも場所を移ることができないでもなかったが、とてもそんな気力は残っておらず、おれは頭の真上から少し前にずれた位置にかざされた少女の足をぼんやりと眺めていた。少女の毒に侵された影響なのか視界はぼやけていたが、足がその位置で何か動きを見せ始めたことだけは分かった。その動きに俺は特に深い意味を感じず、仰向けのまま気だるげに眺め続けていた。
時間の経過とともに、視界は少しずつクリアになっていった。ある段階で、かの位置では二本の足が絡み合うというか、じゃれあうようにして動いているのだということが判明した。何か意味のある動きなのだろうかとその時初めて気にしてみたが、肝心の脳はほとんど機能を停止していたために、疑問を抱く以上の進展はなかった。
さらに視界が鮮明になると、足同士は漫然とじゃれあっているのではないということがはっきりと理解された。なぜかといえば、足はじゃれあいの中で決まった動きを繰り返していたからだ。その動きとは、片足の親指を、もう片方の足の脛……それも、靴下と地肌の境目の部分に、重点的に擦りつける、というものである。そしてその動きによって、境目は元の位置から少しずつ下がっていき―――ようやく少女の目的に気づいたときには、くるぶしのあたりまで来ていた。
視界が、思考が、急速に回復していく。もし彼女の目的が本当に俺の考えた通りならば、早くこの場から退散しないと危険だ。
「ぐっ…!」
だが、俺の考えていた以上に体に残っているダメージは深刻で、仰向けの状態から起き上がるまでに一瞬のインターバルを挟んでしまった。それが、命とりだった。
起き上がってから再び顔を上げたとき、つま先からだらんと垂れるスクールソックスの黒によってひときわ映えている、少女の美しい素足が目に留まった。
そうだ、彼女はいつもこうして机の下で、足だけを使って靴下を脱いでいたんだ―――つま先に捨てられた少女の靴下が俺のいる場所めがけて落下する間に、今更ながらそんなことを思い出した。
少し後に、少女がもう片方の靴下も同じ位置に脱ぎ落としたため、今俺は一足、つまり二枚の靴下の下に埋もれているという状況にあった。
二枚分の重みがかかっているとはいえ、少女の足に敷かれていた時のように身動きが取れないというわけではなく、靴下の生地と床の隙間を苦心してこじ開けながら、這うようにして出口を目指していた。障害物競走にこんなエリアがあったような気がする。
だが、圧迫が強くないから最前の状況よりも楽であるかと問われれば、そうと言い切れるようなものでもなかった。圧迫を受けないことで、前よりも強く少女の靴下の激臭を意識せざるを得なくなったのだ。加えて、最前嗅がされていたのが片足の臭いだけだったのに対し、今は二枚分の臭いが、重ねられた靴下の最底辺、すなわち俺が這っているこの場所に溜まっているのである。