1話 発見と手当て
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ある日、人間の少女あかねちゃんは、自分の部屋の床に何か見慣れない物が落ちているのを発見しました。顔を近づけて見た後、あかねちゃんは目を丸くしました。布切れか何かだと思っていたそれは、ひらひらとした藤色のワンピースに身を包んだ、小指のにも満たないくらいの小さな女の子だったのですから。
しかし近づいても、小人の少女は死んだように動きません。あかねちゃんは焦りましたが、かすかにおなかのあたりが動いているので、気絶しているだけのようです。おそるおそる小人の少女を持ち上げて、手のひらの上に優しく乗せました。乗っているのを感じないほどの体の軽さに、あかねちゃんはハッとさせられます。
(お人形さんみたい…)
さらさらとした栗色の髪の毛、ちょっと引っ張っただけでもげてしまいそうなか細い腕、そして、手のひらに簡単に収まってしまうほどの小さなシルエット。注意して見なければ本当にお人形と見間違えてしまいます。けれど、この小さな体から手のひらに伝わってくるしっとりとした肌の温もりが、紛れもなく生きた小人の少女であることを感じさせてくれます。
「ぅ…ん……?」
天使の産声のような声をあげて、小人の少女が体を起こしました。目を擦りながら、ふるふると周りを見回していました。見たことのない景色に段々と表情に不安の色が表れていくのが、上から見ていても分かりました。あかねちゃんはどきどきして見ていました。声をかけていいものか分からず、ただ見ているしかありませんでした。驚きと緊張で手のひらが震えそうになるのを、なんとかこらえていました。
ひとしきり周りを見回した後、ふっと顔を上げてきた手の中の少女と目が合いました。それまでせわしなく動いていたのが嘘みたいに、少女の顔は、あかねちゃんに向けられたまま静止していました。
「ひ、ぁ……」
かたかたという少女の体の震えが手のひらを通して伝わってきます。明らかに少女は、大きな大きなあかねちゃんの姿を見て怯えていました。固い動きで立ち上がって、逃げ出そうとする様子を見せていました。ですが、少女はすぐにまた地面に崩れ落ちてしまいました。
(が、がんばれ…!)
怯えさせているのは自分自身であるのにもかかわらず、あかねちゃんは手のひらの上を(もっとも、自分が今いるのが手のひらの上であることを少女が気づいているのかは疑問ですが)懸命に逃れようとする小人の少女を固唾を飲んで見守っていました。
ところが、少女はいつまで経っても、崩れ落ちたまま起き上がろうとしません。変だと思ったら、少女は膝のあたりを手で押さえて、痛そうに顔を歪めていたのです。
「怪我をしているの…?」
あかねちゃんの声に、少女は小さな顔をむくりと上げて、目に涙を浮かべるばかりで、何も答えてはくれません。無理もないとあかねちゃんは思いました。目覚めたら目の前に巨人がいて、その巨人に話しかけてこられたら、いくら敵意が込められていなくたって腰が抜けてしまうに決まっています。足を痛めて逃げることもできないと分かったら、怖くて泣き出してしまうに決まっています。
あかねちゃんは少女を、手のひらの上から封を開けたポケットティッシュの上に、優しく移し替えてあげました。
「待っててね、すぐに治してあげるから…!」
あかねちゃんは駆け足で部屋を出て行きました。その間、小人の少女は逃げようと何度も体を起こそうとしました。ですがそのたび足にズキズキと痛みが走って、立ち上がることすらままなりません。4回目のチャレンジに失敗して、ついに少女は逃げ出すのを諦めて、ティッシュのベッドに仰向けに寝転がりました。真上に見える天井に手を伸ばしてみますが、どれだけ手を伸ばしても、あかねちゃんの部屋の天井には手が届きそうにありませんでした。大聖堂の中みたいに広くて静かな部屋に、一人で取り残される心細さを少女は感じていました。別の恐怖はもちろんありましたが、あかねちゃんの温かな手のひらに乗せられていた時には、感じなかった心細さでした。
「おまたせっ…」
声と共に突然扉が開いて、少女の心臓が跳ねました。あかねちゃんは、右手に救急箱を下げていました。ティッシュの上で横になっている少女を見つけると、すぐに駆け寄って行きました。
「押さえていたのはここだったよね」
氷のかけらを、ちぎったサランラップで何重にも包んだものを、小枝のように細い少女の左脚に当てました。小さい氷のかけらを体温で溶かさないように、ピンセットで持って当てています。あかねちゃんはずっと少女の脚だけに目を向けていましたが、小さくて、不安げで、弱々しい視線が自分に向けられているのを、その間ずっと感じていました。
2分ほど冷やし続けて、あかねちゃんはピンセットを離しました。次に、救急箱からガーゼを取り出して、小人の脚のサイズに合うように細く細くちぎって、指先に乗せて慎重に運びました。
(あ…)
巻いてあげようと、伸ばされた少女の脚に目をやったとき、近づけようとしていたガーゼを持つ手が思わず止まりました。
少女の脚があまりにも細くて、ガーゼを巻いている途中にあっけなく折れてしまうという想像をしてしまったからです。今でもあんなに苦しそうなのに、もし自分が安易に触って、あの小さな脚がポキっと変な方に折れてしまったら……あかねちゃんはそう考えて、青い顔になっていました。
「ごめんね、ガーゼを巻くのは自分でできるかな…?私がやると危ないから…」
小人の少女はしばらく私の顔を探るように見た後、小さく頷いてくれました。
(か、会話ができた…!)
まだ、自分に怯えてはいるけれど、小人の少女が自分の言葉を聞いて、返事を返してくれた。たったそれだけのことが、あかねちゃんにはとても嬉しいのでした。
ガーゼを指先に乗せて、少女の前に差し出してやると、少女は自分よりも大きなあかねちゃんの指にまず怯えましたが、おそるおそる手を伸ばして、その上に乗るガーゼを取りました。
ガーゼをちまちまと巻いている少女を、あかねちゃんは穏やかな表情で見つめていました。
ふかふかのティッシュの上に収まった小人の少女を見つめていると、ベビーベッドの中の赤ちゃんを上から見ているときみたいに、不思議と何か声をかけたくなる気持ちが起こってきます。
「小人さん、お名前はなんて言うの?」
ガーゼを巻き巻きしている横で、あかねちゃんは話しかけました。ですが、少女は返事をしてくれません。
「私、あかねっていうの。お友達になってくれると嬉しいな」
ガーゼを巻く手が、少し止まりました。返事を期待して待っていたあかねちゃんですが、すぐに少女は前のように手を動かし始めました。警戒されて当然だというのは分かっていますが、それでも2度も無視されてしまったことはあかねちゃんには応えました。
「お名前聞くのも、ダメかな……?」
それでもやはり、少女は答えてくれません。ガーゼを巻き続ける少女からとうとう視線を外して、あかねちゃんは俯いてしまいました。初めて少女と会話ができたとき、もしかしたら本当に友達になれるんじゃないかという期待が、あかねちゃんの中に芽生えたのです。
でもその想いはあかねちゃんの一方通行で、結局小人からは人間が怪獣のようにしか見えていなくて、友達になるなんていうのは単なる夢物語だったのかもしれません。
「……アオイ、です」
俯いていたところに、聞いたことのない小さな声が、あかねちゃんの耳に入ってきました。
「えっ?」
顔を上げて、周りをきょろきょろ見回しましが、声の持ち主と思われる人間は当然いません。だとすれば、考えられるのは一人しかいません。あかねちゃんは机の上に置かれたポケットティッシュに目をやると、既にガーゼを巻き終わっていた小人の少女が、座りながら自分を見ているのに気がつきました。
「名前……」
少女は言葉少なに、今のが自分の名前だとあかねちゃんに伝えていました。小さくか細い声で、聞こえたのもほんの一瞬だったけれど、あかねちゃんの耳には、少女の放った言葉がちゃんと耳に残っていました。
「アオイちゃん……」
呟いた後も、アオイちゃん、アオイちゃん、と心の中で何度も、確かめるようにして唱えていました。
「かわいい名前だね」
何気なくあかねちゃんがそういうと、アオイちゃんの小さな顔がみるみるうちに赤くなって、素早い動作でポケットティッシュの袋の裏側に潜り込んでしまいました。
(恥ずかしがり屋さんなのかな?)
一箇所だけこぶができたみたいにぷくりと膨れたポケットティッシュの袋を、あかねちゃんは微笑ましく思って眺めていました。まだまだ友達には程遠いですが、ほんのちょっとだけ距離が縮まったような気がしました。
ところが、何分経ってもアオイちゃんがポケットティッシュの袋から出てこないので、あかねちゃんは変だと思いました。(やっぱり、私のことが怖いから出てこれないのかな…)と、寂しい気持ちが少しずつ湧き始めていました。
「アオイちゃん?」
声をかけても、何も反応がありません。この時あかねちゃんは別の不安を持ちました。
(まさか、窒息死なんてことは…)
考えるや否や、あかねちゃんは慌ててティッシュの出し口を少し持ち上げて、横から中のアオイちゃんの様子を覗きました。
すると、予想もしていなかった光景が目に映りました。中ではアオイちゃんが、すやすやと気持ちよさそうに眠っていたのです。
(かわいい…)
アオイちゃんがこれまで見せていた顔は、どれもあかねちゃんへの恐れで少しこわばっていたのですが、今のあかねちゃんの顔からはそういったものが抜け落ちていて、本当に可愛らしい寝顔でした。
あかねちゃんは静かにティッシュの出し口を戻しました。ちょうど、お母さんが仕事から帰ってきた気配もしたので、アオイちゃんを起こさないように、そーっと部屋を出て行きました。本当は写真の一枚にでも残しておきたかったのですが、それはアオイちゃんと友達になれたとき、許しを貰ってから心置きなく撮ってやろうと思いました。
ご飯を食べてから部屋に戻ってくると、あかねちゃんはすぐに、ティッシュの袋にできていたこぶが引っ込んでいるのに気がつきました。中を確認してみると、やっぱりアオイちゃんはもういなくなっていました。
(帰っちゃったのかな)
あかねちゃんはしょんぼりしました。けれど帰ったということは、アオイちゃんの怪我が治ったということだと前向きに考えました。学校の宿題も残っていますから、落ち込んでる場合ではありません。
あかねちゃんはノートを開いてから、鉛筆を取ろうとペン立てを手元に引き寄せました。
「あ」
するとなんと、今までペン立ての後ろに隠れていたらしいアオイちゃんが、その姿を現しました。お互いに予想外の出来事だったのか、二人ともしばらく目をぱちぱちさせていましたが、やがてアオイちゃんは腰が抜けたようにへなへなと地べたに座り込んでしまいました。
「……めんなさい…ごめんなさい…」
「え?」
消え入りそうな声で、アオイちゃんが自分に向かってごめんなさいと言ってくるのが、どういうことかあかねちゃんにはわかりませんでした。
「もう逃げないから、殺さないで……」
その瞬間にあかねちゃんは、消え入りそうな謝罪の意味も、アオイちゃんの目から涙が溢れ、ワンピースの下からぽたぽたとおしっこが垂れて、あかねちゃんの机を濡らしている意味も理解しました。アオイちゃんは、勝手にティッシュの袋から脱走した罰として、本気であかねちゃんに殺されると思って、命乞いをしていたのです。
それを知ってあかねちゃんはなんだかたまらなくなりました。怖がられているのは分かっていましたが、自分を殺してきそうなくらいに凶暴で残酷な生き物に見られていたなんて思いもしませんでした。
「逃げるなんておかしいよ、アオイちゃん」
話を聞いてもらうために、あかねちゃんは少し語気を強めて言いました。アオイちゃんはそれを、自分を咎めていると受け取ったのか、一層からだをびくつかせました。また怖がらせてしまった、と胸が痛ませましたが、あかねちゃんはめげないで次の言葉を続けました。
「だって、誰もアオイちゃんのことを殺そうとか、捕まえようだなんて思ってないもん」
「え…」
アオイちゃんは驚きながら、まだ少し震えていましたが、真っ直ぐに向けられたあかねちゃんの瞳は、嘘をついている人間のものとは思えませんでした。
「友達って、捕まえるものじゃなくて、なっていくものでしょ?」
あかねちゃんは照れくさそうに頭をかきながら言いました。しばらく驚きと困惑と不安がないまぜになったような顔であかねちゃんを見つめたあと、アオイちゃんは小さく口を動かして何かを呟いたようですが、聞き取ることはできませんでした。
「きっと、机の上から降りれなくて困っていたんだよね。降ろしてあげる」
手のひらをアオイちゃんの前に差し出します。アオイちゃんは2、3歩後ずさって、警戒した様子で手を見つめたあと、ちらりとあかねちゃんの顔に目を向けてきました。それを何度も繰り返しているのを、あかねちゃんもまた息を詰めて見ていました。(お願い…!)と何か、祈るような心境でした。
すると、その祈りが通じたのでしょうか、アオイちゃんが1歩、2歩…と、手のひらに向かってゆっくり歩き始めました。そして、おそるおそる、あかねちゃんの中指に右足を乗せて、それから同じように左足も乗せました。あかねちゃんは、心臓がとくん、とくんと静かに脈打つのを感じました。バランスを崩さないように足下を確かめながら、1歩1歩中指の道を進んでいきます。歩を進めるたび、アオイちゃんの小さな裸足の裏が、指の肉に浅くめり込むのが伝わってきます。手のひらの真ん中に到達すると、アオイちゃんは縋るようにあかねちゃんの顔を見上げてきました。あかねちゃんはこのとき、何が何でも無事に、アオイちゃんを床に送り届けてあげなければならないと思いました。宝物を持っているみたいに、大事に大事に、手のひらに乗るアオイちゃんを運びました。
「あの、本当にいいんですか…?」
床の上から、アオイちゃんが語りかけてきます。あかねちゃんはそれを腰を屈めて聞いていましたが、それでも目線の高さが違いすぎて、机の上に置いていたときよりもさらに小人との意思疎通の難しさを感じていました。
「うん。あ、それとももしかして本当は私に捕まえられたかったり?」
アオイちゃんは慌ててふるふると首を振り、あかねちゃんに背中を向けて走り出しました。あかねちゃんはそれを引き止めるでもなく、廊下の隅っこを進んでいく小さな背中を見送っていました。
「そのかわり、またいつかここに会いに来てくれると嬉しいな!」
あかねちゃんの声に、アオイちゃんは立ち止まって振り返りました。もうだいぶ離れたところにいて、あかねちゃんからは顔を認識することができないくらいに小さく見えていました。それでも、その米粒みたいに小さなシルエットが、自分に向かってちょこんとお辞儀をしたのが、あかねちゃんには分かりました。それからまた廊下の向こうに消え去っていくアオイちゃんの姿を、あかねちゃんはいつまでも目で追い続けていました。