2話 餌付けとお勉強

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あかねちゃんは席に着くなり大きなあくびをしました。先生が教室に入ってきたので、あくびの途中で慌てて口を塞ぎました。先生はそれに気づいた様子もなく、挨拶を終えて、ゴールデンウィークが近いからってうかれすぎないようにだの放課後にどこどこの委員会で集まりがあるから該当の者は忘れるなだのと話しているのを、あかねちゃんはぼんやりと聞いていました。


昨日は、遠足の前日の一年生みたいに気持ちが落ち着かなくて、よく眠れませんでした。原因はもちろん、昨日出会ったあの小人のアオイちゃんです。最後にアオイちゃんを手のひらに乗せた感触が忘れられなくて、あかねちゃんはベッドに仰向けに寝たまま右手を天井にかざして、意味もなく何度も握ったり開いたりしていました。


「珍しく眠そうだけど、なんかあった?」


隣の席に座る、友達のさくらちゃんが話しかけて来ました。いつのまにか朝の会は終わっていたようでした。


「あっさくらちゃん聞いて、昨日ね!こび…… ………」


言いかけて、ハッと口を手で押さえました。アオイちゃんのことは、他の人にはなるべく話さない方が良いのではないかと思ったのです。


「こび?」


さくらちゃんはもちろん興味津々という様子で聞いて来ます。あかねちゃんは背中が汗でびっしょりになるのを感じていました。「こび」のつく言葉を頭の中で手当たり次第に探します。


「コビッ……ストイコビッチのスーパープレイ集を見てたら寝るのが遅くなっちゃって!」
「おおっ、ついにあかねもサッカーに目覚めたか!」


適当に返事をして、どうにかその場はやり過ごしました。さくらちゃんは根っからのスポーツ少女で、特にサッカーは見るのもやるのも大好きなのです。ストイコビッチはいつかさくらちゃんから聞かされた名前ですが、こんなところで助けられるとは思いませんでした。顔も声も年齢も知らないストイコビッチ選手にあかねちゃんは感謝しました。



あかねちゃんとさくらちゃんは昔からの友達で、家が近いので、下校時刻になるとこうしていつも二人で一緒に帰っています。今日は調理実習でクッキーを焼いたので、二人のクッキーを交換し合って食べ歩いていました。あかねちゃんは最初「私はいいよ」と言って受け取るのを断ったのですが、さくらちゃんが「なはは、遠慮すんなって!」と何度も勧めて来たので、受け取るしかありませんでした。どす黒くこげた見た目の通り、さくらちゃんのクッキーはすさまじい味でした。


「ねー本当は、ストイコビッチじゃないんでしょ?」
「えっ?」


下校の集団から離れて、周りに人がいなくなると、さくらちゃんはそんなことを聞いてきました。


「今朝の話。よく考えたら、あかねが急にサッカーを好きになるなんておかしいもん」


あかねちゃんは弱ってしまいました。上手くごまかせたと思いましたが、付き合いの長いさくらちゃん相手となるとそう簡単にはいかなかったようです。加えて、さくらちゃんは昔から、妙なところで勘の働く子だったのでした。


「実は、そうなの。だけど…」


あかねちゃんは人差し指でスカートの裾をしきりにいじっていました。さくらちゃんになら明かしてもいいかもという気持ちと、やっぱり今は秘密にしておくべきだという気持ちの間で揺れていました。


「言いづらい話?」
「うん、ちょっと…」
「ふーん、ま、無理に話さなくてもいいや」


あかねちゃんは驚いてさくらちゃんの顔を見ました。さくらちゃんはこういうとき、何が何でも口を割ろうとしてくるようなたちの女の子でしたが、あかねちゃんの知らないうちに、人のプライバシーをわきまえるようになっていたのかもしれません。あかねちゃんの顔を見て、さくらちゃんはにっと笑いました。


「自分の力で暴く方がずっと楽しいからね!」


あかねちゃんはがっくりと肩を落としました。もっとも、頭の片隅ではそんなことだろうと思っていたのですが…。


「それよりさあ」


さくらちゃんはそう言ってから、持ち歩いていた袋からあの黒焦げのクッキーを一枚取り出して口に放り込みました。平気な顔をして食べているのを見ると、あれはひょっとすると失敗でもなんでもなく、狙って焦がしたのではないかという疑念があかねちゃんの中に生じてきました。


「クッキー、あいつにあげなくて良かったの?」
「あ、あいつって?」
「とぼけなさんな、あかねちゃんの想い人のあ・い・つ、ですよ」


そう、これもさくらちゃんが口を割らせたことの一つで、あかねちゃんは、四年生の時に一緒のクラスになって、今は隣のクラスの黒田くんに片想いをしているのです。


「む、無理だよ…絶対私以外に何人か渡しに行ってるし、私のクッキーもそんなに美味しくできなかったし、そもそも大して仲良くもない私なんかに貰ったって嬉しくないだろうし…」


だんだんと尻すぼみになっていく声を黙って最後まで聞き終えると、さくらちゃんはまっすぐに私の方を見て、こう言いました。


「あかね、今、私のクッキー“も”って言ったでしょ!」
「ひーん!」


頭を拳でぐりぐりされて、落ち込んでいるのにあんまりな仕打ちだとあかねちゃんは思いました。


「あかねみたいに可愛くて優しい子は、黒田なんかにはもったいないくらいだと私は思うんだけどなー…」


ぐりぐりの刑からあかねちゃんを解放した後、さくらちゃんは不可解そうに呟いていました。昔からあかねちゃんはさくらちゃんに可愛いと評されてきましたが、それで自信を持てたことは一度もありませんでした。黒田くんはあかねちゃんを含め、多くの女の子からかっこいいと言われていますから、多くの男の子から可愛いと言われるような女の子でなければ彼には釣り合わないと考えてしまうのでした。



「ただいまぁ」


間延びしたあかねちゃんの声が玄関を流れました。靴を脱いで、居間の扉を開けると、それまで洗濯物をたたんでいたらしいお母さんが振り向きました。


「あら、おかえり」


帰っていたことに気がついていなかった様子なので、2度目のただいまを言いました。保護者宛のお手紙をテーブルの上に無造作に置くと、あかねちゃんはさっさと居間を出て、自分の部屋に閉じこもってしまいました。
今日はなんだか疲れてしまいました。部屋に入るやいなやランドセルを投げ捨てて、ベッドのシーツの海に身を投げました。かといって眠気が押し寄せてくるような気配もなかったので、少しして近くに置かれていた、読みかけの小説を手にとって読み始めました。先日買った、はやみねかおる先生の新作です。けれど読んでいても、いつもみたいに物語の世界に入り込むことができずにいました。
20ページ近く読んで、今日はもうやめておこうかなと思い始めた頃でした。


「あ、あの…聞こえますか…」


どこからともなく、そよ風の音にさえかき消されてしまいそうなくらい小さな声が聞こえてきました。それはひょっとすると、無意識にあかねちゃんが今一番聞きたがっていた声だったかもしれません。あかねちゃんはすぐさま本を閉じ、腰を起こしてきょろきょろと周りを見回しました。


「ここです、後ろです」


言葉の通りに後ろを振り向くと、ベッドのヘッドボードの上、ちょうどあかねちゃんの顔と同じくらいの高さの場所で、昨日と同じ藤色のワンピースを身に纏ったアオイちゃんが、ぴょこぴょこ跳ねて存在をアピールしていました。


「アオイちゃん…来てくれたんだ!」


興奮の乗ったあかねちゃんの声に驚いたのか、跳ねていたアオイちゃんは着地の時にバランスを崩して後ろによろめいていました。


(落ちちゃう!)


そう思った次の瞬間には、アオイちゃんの体はヘッドボードの上から空中に振り落とされていました。あかねちゃんは慌ててヘッドボードの後ろに手を回しました。構えた手のひらに、ぽとりと何かが落とされるのを感じると、あかねちゃんはもう片方の手で胸をなでおろしました。ヘッドボードの裏側からゆっくり手を引き上げると、アオイちゃんがあかねちゃんの手にへたっと腰をついて、ホッと息を吐いているのが見えました。


(安心してる……。私の手のひらの上は、安全な場所だと思ってくれてるのかな?)


そうだといいな、とあかねちゃんは思いました。昨日は、手のひらに乗せられたら、あかねちゃんに捕まる危険性ばかり考えてしまったでしょうから。実際、今この場であかねちゃんがきゅっと手を握るだけで、簡単に閉じ込められてしまうくらいにアオイちゃんは小さくてか弱い存在なのです。
それでも、あかねちゃんの顔が近くに寄せられていると分かると、アオイちゃんの顔は緊張でこわばりました。あかねちゃんもそれに気がついたので、何か声をかけてあげなければならないと感じました。小さな者を安心させてあげるのは、大きな者の役目です。


「でも、今日も会いに来てくれるだなんて思わなかったよ」
「えっ…えっ…?だ、だって昨日、また会いに来てって言われたから……」


アオイちゃんは戸惑い果てている様子でした。それを聞いて、あかねちゃんはちょっとだけがっかりしました。アオイちゃんはあかねちゃんに会いたいからではなく、あかねちゃんにそう言われたから来ていただけだったのです。


「こんなにすぐじゃなくたって、アオイちゃんが来たい時に来てくれればいいんだよ…?もちろん、無理に来てとも言わないし」
「ご、ごめんなさい…」


アオイちゃんはそこで俯いてしまいました。そんなことよりももっと言うべきことがあったと、あかねちゃんは反省しました。


「でも、来てくれてありがとう。とっても嬉しい」


幼い子供に話しかけるみたいに、アオイちゃんと目線が同じ高さになるように顔を持ってきて、あかねちゃんは言いました。俯いていたアオイちゃんが、その言葉に少しだけ照れるような仕草をしてみせたのが、こうして正面からまじまじと見つめてみると分かったのでした。


「せっかくだし、しばらくここでゆっくりしていきなよ。ええと、なにしよっか…」


視線をアオイちゃんから天井に移して、顎に手を当てて考えました。


「そうだ!今日学校の調理実習でクッキーを作ったんだけど、アオイちゃんも食べない?」

「ちょーりじっしゅー……?くっきー……?」


口で説明するよりも実際に食べてもらった方が早いと思って、ふかふかのシーツの上にアオイちゃんを降ろして、地べたに置かれたランドセルの中からクッキー入りの袋を取り出しました。


(あ……)


見ると、袋の中の円い形をしていたはずのクッキーは、割れていくつかのかけらになっていました。おそらく、ランドセルを床に投げ捨てた時に、着地の衝撃で割れてしまったのでしょう。


(でも、これなら逆にちょうど良かったかも)


そのままではアオイちゃんが食べきることの出来なそうな大きさでしたが、クッキーのかけらは一つ一つがおはじきくらいの大きさになっていて、これならアオイちゃんでも問題なく食べきることができそうです。
かけらの中でもとりわけ小さなものを袋の中から取り出して、シーツの上に所在なげに立っていたアオイちゃんの前に置いてあげました。


「それがクッキーだよ。私が作ったんだ」


足下のクッキーのかけらを戸惑い混じりに見つめた後、アオイちゃんはそれを抱きかかえるようにして持ち上げました。


(あ、あれ?)


その持ち方に、あかねちゃんは引っかかりを覚えました。クッキーのかけらを胸の高さくらいまで持ち上げた後も、まるでずっしりと重い荷物でも持ち運んでいるみたいに足をふらつかせるばかりで、いつまでたっても口に運ぼうとしません。


「もしかして…それでもまだ大きい?」
「はい…」


仕方がないので、あかねちゃんはアオイちゃんからクッキーのかけらを返してもらいました。確かに改めて見てみると、クッキーのかけらはアオイちゃんの体よりも横に広いですから、食べるには少し大きすぎたかもしれません。あかねちゃんはさらにそのかけらを、ごま粒くらいの小ささになるように、爪の先を使って砕いていきました。砕いたものを人差し指の先に乗せて、落とさないようにゆっくりと運び、再びアオイちゃんの前にころんと転がしました。こうしてシーツの上にひとつだけ乗っていると、ゴミとなんの区別もつかないくらいに、小さなクッキーの粒でした。
そのクッキーの粒を手で掴んで、アオイちゃんは口に運びました。ところが、一口かじったきりで、すぐに口の外に戻してしまいました。
アオイちゃんは顔色を伺うようにしてあかねちゃんの方を一瞥すると、すぐまた視線を戻して、思いつめたような表情で正面の粒を見つめていました。あかねちゃんはこの時、どんな表情を向けてやれば良かったのか分かりませんでした。


「す、すみません……まだ少し大きいのと、硬くて食べられなくて…」
「そ、そっか。じゃあもっと小さくしないとだね」


アオイちゃんが言いづらそうにしていたのがよく分かって、あかねちゃんは同情を寄せないわけにはいきませんでした。受け取ったクッキーの粒は、息を吹きかけたらどこかに飛んでいってしまいそうなくらいで、どんなにアオイちゃんの小ささを理解しているとはいっても、これでもまだ大きいなどと信じることができないでいました。
一度あかねちゃんは粒をもと入っていた袋に戻しました。そして、中に入っている全てのクッキーのかけらを、袋の上から手で圧迫して、文字通り粉々に砕きました。アオイちゃんの口は、さくらちゃんの家の水槽で飼っているグッピーの口の大きさとほとんど変わらないのです。だからきっとグッピーと同じように、アオイちゃんにも固形物を食べるのは難しいのでしょう。だからこうして粉末状にしてあげれば、今度こそきっと食べられるはずです。果たして、それがクッキーと言えるのかどうかは分かりませんが…。


粉末状にしたはいいものの、あかねちゃんはどうやってアオイちゃんに食べさせてあげればいいのか分かりませんでした。この粉を、これまでと同じようにシーツの上に出してしまうと、アオイちゃんが食べきれなかった場合に片付けるのが大変ですし、勝手に部屋にお皿を持っていくとお母さんに叱られますし、皿の代わりになりそうなものは部屋の中を探しても見つかりません。
仕方なしに、あかねちゃんは片手でお皿をつくって、その中にクッキーの粉を注ぎ入れました。注ぎ終わると、手のお皿の上にアオイちゃんを招待してあげました。


「これなら食べられる、よね…?」


あかねちゃんは不安を募らせていました。これ以上問題が出てきてもあかねちゃんにはどうすることもできないでしょうし、第一、こんなただの粉でしかないものを食べて、アオイちゃんが喜んでくれるのでしょうか…。
アオイちゃんはまず膝をついて、自分を乗せている大きなあかねちゃんの手と同様、皿のような形に曲げた手で目の前に溜まったクッキーの粉をすくい取り、そのまま口に運びました。あかねちゃんは落ち着かない気持ちで、一連の動作を見ていました。


「おいしい……」
「ほっ、本当!?」
「はい……とっても」


アオイちゃんはその後も2、3回はクッキーの粉を手ですくって食べていましたが、よほど美味しかったのでしょうか、途中で膝立ちから四つん這いのような体勢になって、手のひらの地面に撒かれたクッキーの粉に、直接口をつけるようにして食べ始めました。
その食べ方にあかねちゃんは最初(小人さんとはいえれでぃーがそんな食べ方をするのははしたないんじゃ…?)と若干戸惑いましたが、クッキーの粉に顔を近づけて夢中で食べているアオイちゃんの姿は、キャットフードを食べる子猫みたいで、見ているうちにとてもかわいらしい姿だと思うようになりました。また時々、せわしなく動くアオイちゃんの口が手のひらの皮膚に当たって、心地よいくすぐったさをあかねちゃんに感じさせます。
どうしてでしょう、アオイちゃんがいつもよりずっと、愛しい存在に思えるのは。手のひらにちょこんと乗せられて、自分の与えた食べ物をとても美味しそうに食べて、時折無防備な笑顔を見せるアオイちゃんが、あかねちゃんは愛しくてたまりませんでした。
だからでしょうか、それまで静かに見守っていただけだったのですが、あかねちゃんはアオイちゃんの体を撫でてあげようと、無意識のうちにそっと人差し指を伸ばしていました。
「きゃっ…」
小さな悲鳴と、人差し指に伝わったぴくっという肩の震えが、ハッとあかねちゃんを我に帰らせました。
「ご、ごめん」
「い、いえ…」
考えてみれば、食事中にいきなり体を触られたらびっくりしてしまうのは無理もないことですし、それが自分の体よりもずっと大きくて、太くて、丈夫な指だったのなら、なおさらです。軽はずみな行為だったと、あかねちゃんは反省しました。
あかねちゃんが指を引っ込めてくれたと分かると、アオイちゃんは気を取り直してクッキーの粉を食べ始めていました。その様子を見ておや、と思いました。あかねちゃんはてっきり、今ので食べる気を無くすかと思ったのですが、アオイちゃんは何もなかったかのように食べ続けています。あかねちゃんはこういうところに、アオイちゃんの自分に対する恐れが薄れつつあるのを感じました。でも、まだ心を許しているというには程遠くて、もう一度触ろうとしたら、もう二度と姿を見せてくれなくなるような気もしていました。






「ふー…お腹いっぱいです」
「あれっ、もういいの?」


手のひらにまだたくさん残っているビスケットの粉を見て、あかねちゃんは妙だと感じました。全く減っていないというわけではなさそうですが、あれほど良い食べっぷりを見せていたことを考えると、減っている量があまりにも少ないように思えます。具体的にいえば、あかねちゃんが指先でひとつまみしたくらいか、それ以下の量しか減っていないのです。
遠慮をしているのかとも思いましたが、アオイちゃんが口のまわりに景気良く生やしたクッキーのヒゲに、遠慮という文字は結びつきませんでした。あかねちゃんが指摘すると、恥じ入ったように口元を拭っていました。


(まあ、考えてもしょうがないよね…)


アオイちゃんを一度ベッドの上に退避させて手に残ったクッキーの粉を、がばっと口の中に流し込みました。粉薬を飲んでいるのとほとんど同じで、当然ながらクッキーを食べたという感じは全くしませんでした。



「そういえば、私が来たとき、寝転がって何をしていたんですか…?」


何かしていたっけ?と一瞬考えたあかねちゃんですが、傍らに置かれていた文庫本が目について、アオイちゃんが何のことを言っているのか理解しました。


「本を読んでたんだ。ほら、こういうの」


表紙がアオイちゃんによく見えるように、その本を両手で掲げました。


「本…」


そう言われても、まだピンときていない様子です。
あかねちゃんはすぐにうつ伏せに寝転んで、本を読む体勢を作りました。


「アオイちゃん、私のそばに寄ってこれる?」


遠まきに見ていたアオイちゃんは、その言葉におずおずと頷きました。
鞄に入れて簡単に持ち運びのできる文庫本とはいえ、アオイちゃんには映画館の大きなスクリーン、あるいはそれ以上に見えているかもしれません。そんなスクリーンに映し出された物語が一番よく見える、あかねちゃんの顔のそばの特等席に、小さなお客さんを座らせてあげました。


「わ…これ全部、人間さんの文字ですか…?」


挟んでいたしおりを無視して、最初のページを開いて見せてあげると、アオイちゃんは驚いた声で言いました。


「そっか、アオイちゃんには読めないんだ…」


アオイちゃんにも読ませてあげるつもりだったのですが、その可能性は見落としていました。考えてみれば、クッキーを見たことも食べたこともなかったアオイちゃんですから、文字を読むことができなかったとしても不思議ではありません。


「そうだ!アオイちゃん、私と一緒に文字のお勉強をしない?」
「えっ?私が、人間さんの文字を、ですか…?」
「うん、どうかな?」
「でも、私に覚えられるかどうか…」


前向きな返事は貰えませんでしたが、アオイちゃんはなんだかそわそわしていて、まるきり興味がないというわけではなさそうです。


「そんなに難しいものじゃないから大丈夫だよ。私もアオイちゃんが文字を会得できるまでいくらでも付き合うから、ね?」


アオイちゃんの背中を、優しくひと押しするような言葉をかけてあげます。あかねちゃんも決して教え方が上手い方ではありませんが、あいうえおくらいならきっと問題なく教えてあげられるはずです。


「そこまで言ってくださるなら…やってみたいです」


決まりだね、と満足そうに笑って、あかねちゃんはさっそく準備に取り掛かりました。



アオイちゃんを待たせて、あかねちゃんは部屋のそばの物置を探っていました。


(ええと、このへんに確か…あっ!)


探していた段ボールの箱を見つけて、ジェンガを引っこ抜くみたいに、物置に積もった荷物の山の中から取り出しました。箱の上面に稚拙な字で『だいじなもの』と書かれています。さっそくその封を開けてみました。


(わーっ、懐かしいなぁ…)


中には、絵本や、おもちゃや、お絵かきのクレヨンなど、あかねちゃんが子供の頃に好きだったものがいっぱいに詰め込んでありました。それらをかき分け掘り進めていくあかねちゃんの手が、あるところで止まります。その時、一番上に見えていたものを、そっと取り出しました。あかねちゃんが3歳のころに、あいうえおのお勉強に使っていた本でした。


(まさか、また使われることになるなんてこの本も思ってなかっただろうなあ)


あかねちゃんは、この本を使ってお母さんと一緒にお勉強をしていた頃を思い出していました。今度はあかねちゃんがお母さん……もとい先生になって、アオイちゃんにあいうえおを教えてあげるのです。



「おまたせ!」


部屋の入り口のところにいても、ベッドの真ん中のアオイちゃんの姿はすぐに目につきました。あかねちゃんの声が発せられると、それまでうわの空でいたらしいアオイちゃんがハッと振り向きました。そういえばこの状態でアオイちゃんを部屋に置いておくのは少し危険だったかもしれません。もし絵本を探していた間にお母さんが入って来たりでもしたら、一発で見つかっていたでしょうから…。
ベッドの上のアオイちゃんが空けてくれたところに、あかねちゃんはうつ伏せに寝転んで、顔の手前にあいうえおの絵本を開いて置きました。そして絵本の上に、アオイちゃんを乗っけてあげます。
チャイムも号令もなく、あかね先生のあいうえお教室は始まりました。たった一人の大切な小さい教え子に、あかね先生は熱心に文字を教えています。ひらがな50音が載っている最初のページをまず開いて、指で指し示しながら、あかねちゃんは一文字一文字よんで行ってあげます。アオイちゃんもその声と、指についていきます。例えばあかねちゃんが「あ、い、う、え、お」と読んで、それに合わせて一列目を指でなぞったら、アオイちゃんはその後に続いて「あ、い、う、え、お…」と言いながら、一列目の上をとことこ歩いて、一文字一文字確認していくのです。そんな風にして、アオイちゃんは初めて「あ」から「ん」までのひらがなを知りました。
あいうえお教室は、何日にも渡って開かれました。もっともアオイちゃんはずっとあかねちゃんの部屋に寝泊まりしていたわけではなく、毎日部屋に来たわけでもなく、だいたい週に2、3日くらいの頻度であいうえおのお勉強にやってきていました。
その中であかねちゃんは、アオイちゃんのために色々なテストを行いました。まずは、最初のページで、あかねちゃんがランダムに指さした文字を、アオイちゃんが走って見に行き、その文字を答える、というのを何回か繰り返すというテストを行いました。アオイちゃんが懸命にページの上を走り回る姿を上から見守っていたあかねちゃんですが、途中で、どこに動かしてもアオイちゃんが自分の人差し指に駆け寄ってきてくれるのがクセになってしまい、本当は5、6回で終わらせるつもりだったのですが、うっかりアオイちゃんが疲れ果てて倒れるまでテストを続けてしまいました。アオイちゃんにとっては、体育館でのシャトルランとほとんど変わらなかったでしょう。しまった、と思ってあかねちゃんはすぐ部屋から出て行き、麦茶を入れたペットボトルのキャップを持って戻ってきました。ぜえぜえと呼吸を乱しているあかねちゃんの横に「ごめんね…」と呟いてキャップを置きました。そんなあかねちゃんを責めるでもなく、アオイちゃんは疲れて弱った笑顔で「合格でした?」とだけ聞いてきました。まだあかねちゃんのしたことに気がついていなくて、最初からこういうテストだったのだと思っているようでした。それが分かって、あかねちゃんはますます胸が痛くなりました。アオイちゃんは一文字も間違えませんでしたし、何よりも、こうして倒れてしまうくらい懸命にやっていたのですから、不合格にする理由なんてどこにもありませんでした。


また別の日に行われたテストは、絵本の2ページ以降を使った、単語と、その上に描かれた動物や食べ物などの絵を見て、何と読むのか当てるというものでした。最初は上の絵をあかねちゃんが手で覆い隠して、文字だけでは分からないようだったらヒントとしてその絵を見せてあげる、という具合に行いました。もっともアオイちゃんは、2、3文字の単語でしたら、難なく読めるくらいには力がついていたので、絵をヒントとして使うことはなく、ほとんど答え合わせとして見せてあげていました。
テストをしながら、あかねちゃんはページに何個も描かれた絵に懐かしさを感じていました。この可愛い絵が好きで、あかねちゃんはあいうえおを習得した後でも、何度もこの絵本を見返したものでした。


「猫もとかげも、こんなに可愛くないです…!」


もっとも、なぜか絵に向かってぷりぷり怒るアオイちゃんが、今では一番可愛いのですが。



そんな風にいくつかのテストを済ませると、今度はあかねちゃんがアオイちゃんに絵本を読み聞かせてあげるようになりました。ページの全体を見渡せるように、手のひらにアオイちゃんを乗せながら、あかねちゃんは絵本を音読して行きます。手のひらの上から、アオイちゃんは夢中で読み進められていく文字を追っていました。そんな様子を見ていると、あかねちゃんの方も絵本の音読が楽しくなって、2冊、3冊と、アオイちゃんのために読んで聞かせてあげたくなるのでした。


「最近、あかねの部屋に子供の読むような絵本が色々置いてあるけど、どうしたの?」


アオイちゃんに文字を教え始めてからそろそろ1ヶ月が経とうとしていたある日、お母さんに突然こんな質問をされた時は、流石にどきっとしました。


「え、えっと…ほら、絵本の絵って可愛いのが多いでしょ?それで最近集めるのにはまってるんだ!」
「ふうん。そういえばあんた、可愛いもの好きだったもんねえ」


それだけで解放してもらえたので、お母さんの見えないところで、あかねちゃんはふうっと息を吐きました。



「さむい、ふゆが、きたかたから、きつね、の、おやこ、の、すんでいる、もりへ…」


その頃になると、アオイちゃんはすらすらと文字が読めるようになっていて、あかねちゃんが読み聞かせてあげなくても、一人で絵本を読むことができるようにまでなっていました。
縦に流れる文字をとことこ追いかけながら読む姿は微笑ましいですし、アオイちゃんが確かに文字を読めていること、そして、あかねちゃんが昔好きだったお話が、アオイちゃんの儚くも綺麗な声で再生されているという事実が、あかねちゃんの心に温かな感動を生み出していました。


(でも、そろそろおしまいにした方がいいよね…)


一方であかねちゃんは、教えることがなくなったことで寂しさを感じていました。そろそろ、アオイちゃんを卒業させてあげるべきだということは分かっています。けれどあかねちゃんは、まだアオイちゃんの先生でいたいと思っていました。
この一か月で、アオイちゃんが少しずつ心を開いてきていたのを、あかねちゃん自身感じていました。あかねちゃんのちょっとした動きにいちいち怯えるようなことはもうありませんし、何よりも、アオイちゃんはいろんな顔を見せてくれるようになりました。新しい文字を覚えて嬉しそうな顔、天敵らしい動物が描かれているのを見て怯えている顔、お話を読んであげた時に見せる、満足そうな顔、悲しそうな顔、ちょっと眠たそうな顔……。また、テストに一個も間違えずに合格して、あかねちゃんの指とハイタッチを決めたことなど、出会ったばかりの頃では考えられません。
でも、先生と生徒という関係から、人間と小人という元の関係に戻ったら、この一か月で変わってきていたものも、全て元どおりに戻ってしまうのではないか……いや、元どおりどころか、卒業したらアオイちゃんをあかねちゃんのもとに縛り付けるものは何もなくなるのですから、勝手にどこかへ行ってしまい、もう二度と帰ってこないのではないか……そういう不安を消し去ることができないでいました。
あかねちゃんは一つため息をつきました。すると、読む声を止めて、アオイちゃんが心配そうな視線を送ってきたので、「なんでもないよ。続けて」と笑顔を繕って答えました。
そう、そんなことを考えてたってしょうがないよね、とあかねちゃんは自分に言い聞かせます。
あかねちゃんは今この場できっぱりと、アオイちゃんを卒業させてあげることに決めました。やはり、先生のわがままで生徒の卒業を引き延ばすなんてあってはならないことですし、あかねちゃんが本当になりたいのはアオイちゃんの先生ではなく、友達なのですから。



「そつぎょうしけん…?」


絵本を読み終わって余韻に浸っていたアオイちゃんに説明すると、クッキーの時と同じような反応が返ってきました。


「ええと…つまり、もう私に教わる必要がないくらいあいうえおをマスターしたよ、っていうことを証明するテストみたいなものだよ」
「テスト…難しいんですか?」
「どうかな、アオイちゃんだとちょっと苦労するかも…でもやるべきことはシンプルで分かりやすいから、それができるのかどうかってところだね」


試験の内容は既に考えていて、あかねちゃんの勉強机の上にはもうその準備も済ませてありました。つまり、アオイちゃんが望めば、今すぐにでも卒業試験を始められる、ということです。


「…今から、受けてみる?」


首を振られるのを全く期待していなかったといえば嘘になりますが、それまでの熱心な姿を見てきましたから、アオイちゃんがこの質問に黙って頷くのも、あかねちゃんには分かっていたことでした。
手に乗せて机まで運んでいると、アオイちゃんの緊張が伝わってくるようです。しかしそれはあかねちゃんと出会いたての頃にいつも見せていた緊張ではなく、武者震いにも似た、どこか前向きな緊張でした。
机にセットされたA4サイズの一枚の白紙と、使い倒してのっぽというよりはずんぐりに近くなった鉛筆が、あかねちゃんの手に乗せられてきたアオイちゃんを出迎えました。
隣にアオイちゃんを降ろし見比べてみると、短くなった鉛筆より、アオイちゃんの背丈の方がかろうじて高そうでした。おおかた、これからすることの予想がついたのでしょうか、難しい算数の問題を前にした小学生のような表情で、足下に横たわる鉛筆を見ています。


「アオイちゃん、その鉛筆を持つことってできる…?」


あかねちゃんの問いかけに、アオイちゃんは細い腕で鉛筆を抱くように持って答えました。とはいえやはり自分の身長とほとんど変わらない鉛筆は重たいようで、持ち上げることなどはできず、押したり、倒れないように支えたりするので精一杯という様子です。


「じゃあ、今から試験の説明をするよ。といっても、さっきも言った通りやることはいたってシンプルで、その一枚の紙にアオイちゃんが鉛筆で好きな言葉を書いて、ちゃんと書けてると私が判断したら合格を出してあげる、ってだけなんだけどね」
「書くのは、何文字の言葉でも良いんですか?」
「じゃあ、3文字以上にしようか。……どう、書けそう?」
「なんとか…」


煮え切らない返事に、あかねちゃんの心配は増すばかりです。けれどアオイちゃんには難しいということは百も承知で、鉛筆で文字を書くことを卒業試験に選んだのです。


「えっと…それでは、試験を始めます」


あかねちゃんの声で、卒業試験は始まりました。アオイちゃんはよいしょ、よいしょと鉛筆を動かして、紙の上に文字を引いていきます。アオイちゃんの力ではどうしても鉛筆を引きずって動かすことしかできないので、かたつむりが通ったあとに粘液が残るように、書きたい文字とは関係ないところにも薄い線が引かれてしまうのですが、必要な線だけを力を込めて濃く書くということで、余計な線を目立たなくしていました。


「きゃ…っ!」


そろそろ一文字目を書き終わるかというとき、アオイちゃん鉛筆の重さでバランスを崩し、派手に転んでしまいました。そのはずみで鉛筆はアオイちゃんの体を離れ、紙の外までむなしく転がっていきました。
ちょうど一文字目を隠すように、膝を押さえて倒れています。苦痛に顔を歪めているのを見ると、転んだときに強く膝を打ってしまったのでしょうか。


「大丈——」


手を貸しそうになるのをぐっとこらえます。本当は助けてあげたい気持ちでいっぱいなのです。けれど今はアオイちゃんの先生ではなく、アオイちゃんが卒業に値するかどうか冷徹に見極める試験官なのですから、心を鬼にしなくてはなりません。
また、アオイちゃんの方も弱音を吐いたり、あかねちゃんに助けを乞うたりは決してしませんでした。ゆっくりと立ち上がって、服に少しついてしまったらしいすすを払って、鉛筆の飛んでいった方へ駆けていきました。


(頑張れっ、アオイちゃん…!)


床に敷かれていた運動用のマットをロール状にしていくときみたいに、鉛筆を両手でころころ転がして戻そうとしているアオイちゃんを、心のどこかにあった卒業して欲しくないという気持ちも忘れて、あかねちゃんは応援していました。
鉛筆を元の位置に戻して、文字を書くのを再開してからは、順調に進んでいました。何かコツのようなものを掴んだのでしょうか、あるいは、あかねちゃんの声なき応援が届いて、アオイちゃんに力を湧かせたのでしょうか……本当にテンポよく、一画一画書き進めていきます。画数がある程度まで進むと、書き途中でもアオイちゃんが何を書こうとしているのか把握することができます。そんな調子で、2文字目、そして3文字目があかねちゃんにも分かってきて…


(えっ…?)


3文字目が判明した時点で、あかねちゃんは目を大きく見開きました。
だってまさか、アオイちゃんがその言葉を書こうとしているなんて、思ってもみなかったのですから。
それは、誰よりもあかねちゃんがよく知っているであろう言葉でもありました。
4文字目、5文字目と、答え合わせみたいにアオイちゃんが書き出して行くのを、あかねちゃんはまばたきもせずに見つめていました。
そして、6文字目を書き終えた時、アオイちゃんは鉛筆を静かに紙面の上に置いて、ほっと息をつきました。


(これ、夢じゃないよね…?)


それくらいにあかねちゃんは、目の前の光景が信じられませんでした。ひょっとすると、1ヶ月前に、自分の部屋で藤色の小人を発見したところから始まった夢が、今も続いているんじゃないか、とさえ思いました。
でもほっぺをつねった時の痛みが、現実であることを教えてくれました。
動かせなかった口がようやくほぐれて、あかねちゃんは試験の結果発表も差し置いて、一番にこう聞きました。


「アオイちゃん、それ、なんて書いたのか教えてくれる…?」


もちろん、なんて書いてあるかなんてとっくに分かっています。それでもあかねちゃんは、聞かずにはいられなかったのです。


「……~~~~~~」


声に出して読むのはまだ照れくさかったのでしょうか、アオイちゃんは小さなほっぺを目一杯赤らめて、俯きながら答えました。聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声で、たとえ聞こえたとしても、普通の人には何を言っているのかまでは分からなかったでしょう。でもあかねちゃんには…あかねちゃんだから、アオイちゃんの言ったその言葉を、はっきりと聞き取ることができたのでした。
それが、アオイちゃんが初めて、あかねちゃんの名前を呼んだ瞬間でした。






アオイちゃんが帰って行ったあとも、あかねちゃんはしみじみと、机の上に残された一枚の紙を眺めていました。
よれよれで形も崩れていて、周りの余白に飲み込まれしまいそうなくらい弱々しい字でしたが、確かに紙の上にはアオイちゃんの字で「あかねちゃん」と書かれていました。
どんなに偉大な書家だって、これほどあかねちゃんの心を揺さぶる字を書くことはできなかったでしょう。
しばらくして、あかねちゃんはその紙を丁寧に畳んで、最初に使っていたあいうえおの絵本に挟みました。そしてあの「だいじなもの」の箱の、一番上にしまいました。
およそ10年ぶりの、箱の中身の更新です。そしてきっと、これからも箱の中には、アオイちゃんと一緒に過ごす中で見つかっていく新しい「だいじなもの」が入れられていくことでしょう。
(そうなったら、箱ももうちょっと大きなものにしなきゃいけないかもね。あっ、その場合新しい箱の名前も決めないと)
そんなことを考えることすら楽しくて、あかねちゃんの顔は自然とほころんでしまうのでした。