3話 怖さと優しさ
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「あっついね〜…」
「そうだね〜…」
初夏の日差しが情け容赦なく、家路を辿る小学生たちに照りつけていました。へとへとという音が聞こえてきそうなほど、あかねちゃんとさくらちゃんの二人は疲れ果てた様子で歩いています。ぶつぶつとさくらちゃんが呟く恨み言のようなものを、暑さで意識が朦朧とし始めた中、あかねちゃんは隣で聞いていました。適当に返事するばかりで内容はほとんどあかねちゃんの頭には入ってきていなかったのですが、さくらちゃんの愚痴はこの暑い中で運動会の練習をさせるなんてどうかしているといった内容に終始していました。
「あかねは運動会の個人種目何に出るんだっけ…」
反応の鈍い今のあかねちゃんでは愚痴の吐き甲斐がないと感じたのか、さくらちゃんの話はいつの間にか別の方へ移っていました。
「ピンポン球スプーンに乗せて走るやつだよ」
「あーあれか…私苦手なんだよなー」
今年も含めてさくらちゃんはずっと女子リレーのアンカーを務めているので、ピンポン球競争をしているところは見たことがありませんが、速く走ることばかり考えているせいでピンポン球を何度も落としてしまうさくらちゃんの姿が目に浮かぶようでした。彼女に言わせると、スポーツがスポーツたる条件は何物にも変えがたいような爽快感を感じる瞬間が存在することであり、ピンポン球競争とかいうのは爽快感どころかイライラが募っていくばかりで運動会の種目を名乗るのもおこがましいのだそうです。
さて、さくらちゃんのようにはっきりと感情を吐露するようなことはないものの、あかねちゃんの方も続く暑さと積もる疲労の合わせ技にはだいぶんこたえている様子でした。そんなさくらちゃんが苦を乗り切ることができたのは、この後、家に帰った後で待っているであろう、ある「楽しみ」のおかげでした。
さくらちゃんと別れると、あかねちゃんは脱兎のごとく駆け出しました。本当はさくらちゃんの愚痴に適当に返事をしていたのも、半分はそわそわしていたからだったのですが、そのことを勘付かれた様子はなかったのであかねちゃんはほっとしていました。
「ただいまっ」
玄関の扉をくぐるのとほとんど同時に、ぽいぽいっと軽快に靴を脱ぎ、その勢いのまま自分の部屋に駆け込みました。部屋に入った途端にあかねちゃんの足の動きはぴたっと止まり、視線はある一点に釘付けになっているようでした。
その視線の先には、いつもの藤色のワンピースに身を包んだ、小人のアオイちゃんの姿がありました。
「おかえりなさい、あかねちゃん」
あかねちゃんの文字教室を卒業した後も、アオイちゃんは週に一度ほどの頻度で部屋に遊びに来てくれていました。あかねちゃんに今日のアオイちゃんの来訪が予想できていたのも、ちょうど今日が、前回会いにきてくれた日から一週間経った日だったからです。
「あっ、部屋の中暑かったでしょ?クーラー入れるね」
クーラーをつけると、既に乗っているアオイちゃんを驚かさないように気をつけてベッドに寝転びました。
「はー涼しぃー…」
快適さに陶酔するあまりに、あかねちゃんは喋るのも忘れてしまっていました。くいっと顔を横に回してみると、そんな自分の縮図のようなアオイちゃんの姿があかねちゃんの目に映りました。ちらりと覗く白い首筋には、ちょうど見ているだけで涼しくなるような、陶器のような感じがありました。
「アオイちゃん、もしかしてあんまり汗とかかかない?」
見ているだけで暑かったさくらちゃんの汗だくな姿と比較してみたとき、アオイちゃんのそんな姿はますます不思議なものに感じられてきました。
「そんなことないよ、今だって汗びっちょりで…」
「本当?見えないなあ」
水滴が小さすぎて見えないのか、かいているのが分からないほどにアオイちゃんの汗が透き通っているのか…あるいはその両方かもしれません。
「ね、触って確かめてみてもいい…?」
「えっ…?」
そんな風に聞かれるとは思ってなかったのか、アオイちゃんは困惑の表情をあかねちゃんに返しています。実際これはあかねちゃんの咄嗟の思いつきで、決してここまで持っていくために汗のことを話題にしたわけではありません。ただ、アオイちゃんの汗が気になる気持ちと、アオイちゃんの体を触ってみたいという気持ちが偶然重なっただけにすぎないのです。
「…うん、いいよ」
しばらく考え込んだ末に、アオイちゃんはこう答えました。
「む、無理しなくてもいいんだよ!断ったって私別に何かしたりしないし」
今度はあかねちゃんが驚かされる番でした。なにしろ、絶対に断られると思っていたのです。
これまでアオイちゃんはずっと、あかねちゃんに触られることを怖がっていましたから…。
「無理なんてしてないよ。いいって言ったのは、その、あかねちゃんだからで……」
「アオイちゃん…」
アオイちゃんが、自分のことを信用している、と言ってくれている……あかねちゃんにとって、これほど嬉しいことが他にあるでしょうか。
「それじゃあ…お顔、触るね」
素肌の見えている部分で、いちばん汗をかきやすいのが頰のあたりだと思ったので、あかねちゃんはそうっとアオイちゃんの顔に指を近づけます。
(顔、やっぱりちっちゃいなあ…)
その顔の小ささは、こうして人差し指を近づけて比べてみると、より強く感じられるようでした。指の腹にすっぽり収まってしまう、パチンコ玉くらいの小ささです。
指が触れるか触れないかというとき、まるで注射器が刺さる寸前の子供みたいに、アオイちゃんはきゅっと目を瞑りました。
(怖いのかな。…ううん、怖いに決まってるよね)
どんなにあかねちゃんのことを信用していたとしても、指先だけで自分の顔の数倍の大きさである人差し指が近づけられて、怖いと感じないはずがありません。誤って潰されたり、骨を折られたり…そんな想像を避けられないほど、築かれたばかりの信用などでは決して埋めきれないほどに、あかねちゃんとアオイちゃんの間には体の大きさの違いがあるのです。
怖い時間は短いほうがいいと思ったので、あかねちゃんはさっさと確認を済ませてしまおうと思いました。
触れたアオイちゃんの頰はとても温かく、なぜか平常の人間の体温よりも少し高いようにさえ感じられました。そういえば、陶器のような白だった顔も、少しだけ赤くなっているような気がします。
「あ、本当。ちょっと濡れてるかも」
優しく2、3度アオイちゃんの頰をなでてみた後の指先には、雨粒の量にも満たないくらいの透き通った液体が滴っていました。
(これがアオイちゃんの汗、なのかなあ?)
何気なくその液体を舐めてみたところ、ほんのりと塩気を感じたので、どうやら本当にアオイちゃんの汗のようです。
「なっ、何やってるの!?」
「へ?」
聞こえた声に反応すると、何やらアオイちゃんが動転した様子でいます。
「だってあかねちゃん今、私の汗をぺろ、って…!」
「あー、それなら大丈夫だよ?アオイちゃんの汗結構おいしかったし」
「へ、変なこと言わないで!そもそもそういう問題じゃないよ!」
ひょっとするとアオイちゃんは、あかねちゃんに自分の汗を舐められたのが恥ずかしかったのかもしれません。たかが汗の一滴二滴でそこまで狼狽えなくても、とあかねちゃんはほっこりとした気分になりました。
しかし、そんな気分でいられたのもつかの間でした。
「ちょっと、帰ってきたら顔くらい見せなさいよね…」
この突然のお母さんの来訪は、あかねちゃんには予測できませんでした。
あかねちゃんの手元には、赤面していたのが一変青ざめて固まっているアオイちゃん。きっとあかねちゃんも同じような顔をしているのでしょう。暑さから来ているのではない嫌な汗が頰を伝い、ぽたぽたとアオイちゃんの周りに落ちています。
隠すにはもう遅すぎました。あかねちゃんが振り向いたとき、お母さんは既に注意をあかねちゃんの手元に向け、怪訝そうな表情を浮かべていたのです。
「…さっさと部屋に行って何をするのかと思ったら、人形遊び?」
「え、人形?」
真っ先にアオイちゃんのことを問い詰められてもおかしくない状況で、呆れたようにお母さんがそんなことを言ったものなので、拍子抜けしないではいられませんでした。
「あら、違うの?」
「あ、えっと……うん、そう!昨日寝る前にちょっと部屋片付けてたらこのお人形が出てきて、なんだか懐かしくなっちゃったの!あははは…」
「ふうーん…」
熊に出会ったら死んだふりをしろとはよく言いますが、どうやら小人が人間に見つかってしまった場合、生きていないふりをするのが有効なようです。
あかねちゃんは急いでアオイちゃんに目配せをします。しかしそんなことをするまでもなく、アオイちゃんは既にじっと固まって、お人形のふりを始めていました。律儀に息まで止めているようなので、いつまで持つのか見ていて不安になりました。
「…あんた、こんな人形持ってたっけ?」
何の断りもなくお母さんが横から手元を覗いてきたので、あかねちゃんは悲鳴に近い声をあげそうになります。
「も、貰ったんだよ。ほら、さくらちゃんがすぐ人形遊びとかおままごとに飽きて、お外で遊ぶようになっちゃったから。それでお母さんには見せてなかっただけで」
「はー、なるほどねえ」
とっさに考えた誤魔化しにしては悪くないと自分で自分を褒めてやりたい気分でしたが、そんな余裕はありませんでした。もっとも今言ったことはまるきり嘘というわけでもなく、あかねちゃんは昔実際に同じような理由でさくらちゃんからお人形の類を譲り受けていたのです。(貰ったのは皮膚が海苔の佃煮みたいな色の怪獣と額に肉の文字が書かれたキャラクターでしたが)
あかねちゃんが説明を終えた後も、お母さんはしばらく興味深そうにアオイちゃんを眺めていました。何しろ、お人形にしてはあまりにも皮膚や髪の質が生身の人間のそれに近いものですから、珍しがるのも無理はありません。
お母さんの視線を一身に受け止めている間も、アオイちゃんはピクリとも動かずお人形を演じ続けていましたが、その間アオイちゃんが感じているであろう緊張が、見ていて痛いほど伝わってきました。
(早く…早くどこか行ってよ…!)
お母さんの隣で、あかねちゃんはしきりに貧乏ゆすりをしています。
ボロが出る前に、いっそのことこの場でアオイちゃんを回収してどこかに隠してしまおうかと思いかけたとき、ようやくお母さんはあかねちゃんの隣から離れてくれました。
「ま、思い出に浸るのはいいけど、もうあんたもいい年なんだからほどほどにしときなさいね?」
「はーい…」
相変わらず呆れたような調子のお母さんの声を背中に受けながら、あかねちゃんが「頑張って、あと少しだから!」のメッセージを込めて両手を合わせるジェスチャーを送りました。返事をしないことが、そのメッセージに対してのアオイちゃんの返事でした。
「それはそうと、親戚のお家からメロンが送られてきたから、食べたかったら切ってあげるわよ」
「えっ、メロン!?食べる食べる!」
メロン、という言葉を聞いただけで、あかねちゃんの目も声もパッと輝きました。
こういうあたり、あかねちゃんもまだまだ子供だと言えるでしょう。
「ちゃんと手洗ってから来なさいよー」
そう言ってようやくお母さんは部屋から出て行きました。
足音が完全に部屋の向こうに消えると、その音に取って代わるように、今度は安堵の息を吐く音が聞こえました。
「ごめんねアオイちゃん、もう大丈夫だよ」
あかねちゃんは努めて優しい声をアオイちゃんにかけてあげました。
本当にもう、よく頑張ってくれたという気持ちでいっぱいでした。実に3分の間、アオイちゃんは息ができない苦しさと、見知らぬ人間に無遠慮に凝視される恐ろしさに耐えながら、お人形のフリを貫いたのです。3分と書くと短い時間に感じる人もあるかもしれませんが、そういう人も同じ体験をしてみれば、その3分の長さに気づき、その間一つもボロを出さなかった二人の辛抱強さに舌を巻くことになるでしょう。
ぷは、という文字通り気の抜けた音とともに、ようやくアオイちゃんはお人形から小人に戻りました。
「アオイちゃ——」
あかねちゃんはかけようとした言葉を中断せざるを得ませんでした。なぜかといえばその瞬間に、アオイちゃんの目から涙がぽろぽろとこぼれ落ち始めたからです。それも何か、尋常ではない泣きようでした。体は一目見て分かるくらいにかたかたと震えていて、顔は時間の経過とともにどんどん青ざめていき、さっきまでこの子が顔色一つ変えずお人形のフリをしていたのが嘘のように思えてしまうほどでした。洪水のような形でアオイちゃんを飲み込もうとする恐怖、それをずっとせき止めていた堤防のようなものが、気が緩んだことで決壊してしまったのでしょうか…。
早い話が、久しく見ていなかった、出会ったばかりの頃の怖がりなアオイちゃんに、今この時間は戻ってしまっているというわけです。
あかねちゃんはなんだか見ていられなくて、気づけばうずくまるようにして泣いているアオイちゃんの背中を、人差し指の先で撫でていました。アオイちゃんは気づいているのかいないのか、それでもしばらくは変わらずにえんえんと泣き伏していました。
「ぐす……。あの、私…」
「ん、なあに?」
思いっきり泣いたおかげでだいぶ落ち着きを取り戻したらしく、アオイちゃんは十余分ぶりにその口を開きました。
「じ、実は、あの人間さんに、スリッパで叩かれそうになったことがあって、それで……」
それを聞いて、ようやくあの尋常ならざる泣き方に納得がいきました。その時はきっと、陰から陰に素早く移動しているところをお母さんにたまたま見られて、ゴキブリか何かと勘違いされてしまったのでしょう。自分よりも何十、何百倍も大きいというばかりか、過去に死にそうな目に遭わされた相手に、無言で凝視され続ける……その間、アオイちゃんがどんなに怖い思いをしていたことでしょうか?
「そっか、それは怖かったね…」
よしよし、と撫でてあげたいところなのですが、あいにくというべきか、あかねちゃんは今指が塞がっているのでそれはできません。
仕方がないので、アオイちゃんが完全に立ち直るまで、しばらくこのままにしておいてあげようと思いました。
10秒が経ちました。
「……」
30秒が経ちました。
「………」
1分が経ちました。
「あのう……私、まだこうしてた方がいいかな?」
ずーっと動こうとしないアオイちゃんに、とうとうこう言いました。
どこからって?…そう、あかねちゃんの指からです。かれこれ、アオイちゃんが口を開く五分前くらいから、こうしてきゅっと、人差し指を抱きしめて離さないでいるのです。
「へ…?……わああっ!?ご、ごめんね…!私ってば、つい……」
「ううん、大丈夫。別に嫌だったわけじゃないよ」
なんだかアオイちゃんの反応が、指摘されて初めて自分がずーっと抱きついたままでいることに気づいて、慌てて離れた、といった風でした。(私が何も言わなかったら、アオイちゃんはずーっと私の指に抱きついたままだったのかな?)と思うと、もったいないことをしてしまったような気がしました。アオイちゃんが数秒前までの自分をひどく恥じているのを見るに、当分はもう同じようなことは起こらないように思えて、あかねちゃんはもったいなかったという気持ちをさらに強くしたのでした。
そもそも、なぜアオイちゃんがあかねちゃんの指に抱きつくようなことをしたのか気になっている人もあるでしょうから、その話をしておきましょう。
前にも書いた通り、あかねちゃんはしばらく顔を伏せて泣くアオイちゃんの背中を撫でていました。ですが…少し涙の勢いが収まってきたからか、アオイちゃんがやっと顔を上げた時、背中を撫でていたあかねちゃんの指はふっと止まりました。
そう、不謹慎は承知ながら、アオイちゃんの泣き顔を見た瞬間に、あかねちゃんは“きゅん”としてしまったのです。
そのすぐ後に浮かんだ考えがいけない考えであることは、あかねちゃん本人にも分かっていました。でも、どうしてもそれを試さずにはいられなくて、人差し指を背中から離して、そのまままだ泣いているアオイちゃんの目の前に差し出して見せました。
「む、胸は貸せないけど、私のここで泣いてもいいんだよ…?」
ここ、のところで、第一関節から上の部分をちょいちょいと動かしました。急に現れた人差し指を、アオイちゃんはしばらく泣きながら見つめているばかりでしたが、やがて…
きゅっ…。
(かっ、か………かわいい〜〜っ……!)
興奮のあまり叫びそうになるのを、あかねちゃんはなんとかこらえます。今の心中をもしアオイちゃんが知ったら、再び心を閉ざしてしまいかねませんから。しかし、人差し指に腕を回しつつ、そこに顔を埋めているアオイちゃんから目を離すことは、どうしてもできませんでした。
あかねちゃんは今までも何度かアオイちゃんが泣いているところを見てきましたが、そういうときにはきまって心を痛めていたはずでした。ですが、今日は全く状況が違っていました。
自分がそうさせてしまったという罪悪感のフィルターを外して見たとき、アオイちゃんが怖がって震えたり泣いたりしている姿は、とても可愛らしい姿としてあかねちゃんの目に映ったのです。楽天的な庇護欲と言い換えても良いかもしれません。
「ねえアオイちゃん、一緒にメロン食べに行かない?」
「めろん?」
「んーとねえ……甘くて丸くて冷たくて美味しい食べもの、かな。どう?」
ここでアオイちゃんの目がぱあっと輝いたのを見て、あかねちゃんは小さくガッツポーズをします。あかねちゃんと同じで、アオイちゃんも美味しいものには目がないのです。
「でもー、また他の人間さんに見られたら…」
そんな風に言いつつもそわそわしていて、気持ちは既にメロンの方に向いているのが丸わかりです。
「それなら、食べるまではここのポケットの中に隠れてるといいよ。食べてるときは…まあ見られそうになったら私がどうにかするから、ねっ?」
あと一押しとばかりに、あかねちゃんは言葉を続けます。
「ちゃ、ちゃんと守ってね?」
「うんうん、任せてよ!さ、乗って」
手に乗せたアオイちゃんを胸のポケットに入れると、あかねちゃんの心はようやく軽くなりました。
実のところ、今まで不安でいたのです。最前のアクシデントで、アオイちゃんが人間の怖さを再確認し、自分もまた出会ったばかりの頃のように、強く警戒されるようになってしまうのではないかと。
今やあかねちゃんが手を差し出すと、アオイちゃんは少しも躊躇せずにその上に乗ってくれます。一時的とはいえポケットに閉じ込められることに何の抵抗も示さないなんてことも、あの頃では考えられなかったことです。
それに何より、ようやくアオイちゃんに元気が戻ったことが、あかねちゃんには嬉しいのでした。
手を洗いに行こうと思ったとき、人差し指の先がまだ、アオイちゃんの涙でほんの少し濡れていることに気がつきました。
立ち止まって、今度はアオイちゃんの目が向いていないのをきちんと確認してから、指の先に残っている涙を、ぺろっと舐めてみました。
(ん、やっぱりしょっぱい)
それだけ確かめると、あかねちゃんは何事もなかったように再び歩き始めました。
部屋を出てから10分。あかねちゃんは今、居間に隣接した和室の中央に、つくねんと座っています。伸ばした膝の上には、平らなお皿が置いてあります。そのお皿の上には、半月型に切られたメロン。そして、メロンの橙色の果肉のてっぺんには……うつ伏せのような体勢でメロンを齧っている、アオイちゃんの姿。
「おいしい?」
あかねちゃんの言葉に、アオイちゃんはこくこくとめいっぱい頷いています。
「ほ、ほ、本当にこれ、好きなだけ食べてもいいの?」
「本当だよー」
実際のところ、アオイちゃんの一口の小ささでは、いくら食べてもメロンが無くなりそうにないどころか、まだあかねちゃんが食べるには十分な量が残っていそうなので、その言葉に嘘偽りはありません。またアオイちゃんの方でも、メロンの上の方のいちばん甘い部分をずっと食べていられるので、いいことずくめなのです。
それにしてもアオイちゃんが本当に美味しそうに食べるので、あかねちゃんもスプーンを手にとって一緒に食べたくなってきます。けれど今はそういうわけにもいきません。アオイちゃんが食べている間、お母さんがやってこないか常に周りを警戒するという大事な役目があるのです。
ところへ、居間の方から声がかかりました。
「買い物行ってくるから、留守番頼んだわよ」
これはしめたものだと思いました。あかねちゃんは油断せず注意を張っていましたが、別にそこから和室に顔を出すこともなく、お母さんは靴を履いて、さっさと家から出ていきました。
ようやく一安心できたあかねちゃんは、ゆっくりアオイちゃんがメロンを食べる様子を眺めていることにしました。
アオイちゃんがメロンを食べ始めてからそろそろ五分になりますが、見ただけでは最初の状態からどこがどう減っているのか分かりません。しかし、寝転んだまま、ご機嫌そうに足をぱたつかせているのを見ると、別段食べるのに苦労しているというわけでもない様子です。
気になってこっそり横からアオイちゃんの口もとを覗いてみると、なるほど確かに、あかねちゃんの大きな顔がぐっと近づけられているのにも気づかないくらいには、夢中になってメロンを食べています。幸せそうに表情をとろけさせているのを見ていると、あかねちゃんの方も自然と頰が緩んでしまいます。
小さな小さな口で、微量の果肉をちぎってはもぐもぐ、ちぎってはもぐもぐ……そんな姿を見て、あかねちゃんはなぜか、小型のクワガタが昆虫ゼリーを食べているところを想像しました。ゼリーの器に顔を寄せて、あの小さなおひげで一生懸命に食べてるところがもーカワイイんだよねーっ、と熱く語っていたさくらちゃんの気持ちが、今少し分かったような気がしました。
「私も少し貰っていいかな?」
驚かしてしまわないように顔を元の高さに戻してから、あかねちゃんは言いました。
「もちろん!」
その返事を聞いて、今まで皿の上に置かれていたスプーンを手に取りました。そして、アオイちゃんを巻き込まないように気を遣いながら、メロンの皮から果肉を切り離していきます。果肉はあまり力を入れなくても簡単に切り離せるくらいに柔らかく、アオイちゃんが苦心することなく食べられているのも納得です。もしあかねちゃんがこのメロンの品質改良に初めて成功した人物だったなら、「小人メロン」と名付けていたかもしれません。
メロンをすくい取ると、あかねちゃんはすぐにスプーンを口に運びました。
「んん〜〜〜っ!!」
ほっぺたが落ちるとはこのことでした。芳醇であるが決して過剰だとは感じさせない上品な甘み、とろけるような舌触り、湧き水に付けて冷やしたかのような新鮮な冷たさ……どれをとってもパーフェクトです。
「あ、アオイちゃん!これやばいよ、美味しすぎるっ!なんでうちにこんなメロンが!?」
すぐにでも感想を共有したかったがために、つい興奮冷めやらぬ口調で話しかけてしまいました。
しかしそんなあかねちゃんの反応も意に介さず、アオイちゃんはある部分を食い入るように見つめていました。
「…?どうかした?」
「な…なんでもないよ。うん、すっごい美味しいよねっ」
慌てたような様子に引っかかりを覚えないこともありませんでしたが、あかねちゃんはそれほど深く考えはしませんでした。
アオイちゃんが信じられないとでもいう風に見つめていたのは、あかねちゃんの持つスプーンによって一瞬で果肉を掬い取られ、すっかり切り通しのようになってしまった部分でした。
だって、つい数秒前まで、確かにそこは今アオイちゃんが身を置いている地帯の一部として存在していたのです。それが、あの大きくて冷たく光るスプーンがズブリと差し込まれたかと思うと、まるで今まで存在していたのが嘘であったかのように、綺麗さっぱり消えて無くなってしまったのです。アオイちゃんが言葉を失うのも無理はありません。
「あれっ、もう食べないの?それじゃあ、残りは私が貰っちゃうね」
「え——」
呆然としていたアオイちゃんが、その言葉を聞いて少し遅れて振り返ると、今度はさっきの反対側に当たる、あの少し反り上がっていた端の部分が、やっぱりさっきと同じようにぽっかりと無くなっているのです。
アオイちゃんが見上げると、そこには頰を抑えて、いかにも美味しそうに口を動かしているあかねちゃんの姿がありました。それは悪意なんて微塵も感じない、本当にただ美味しいものを食べて喜ぶ女の子の、微笑ましい姿であったはずです。
なのにどうしてか、アオイちゃんはその時確かに、背筋に悪寒が走るのを自覚しました。見てはいけないものを見てしまったような気さえしました。
(っ……!?)
アオイちゃんは、そんな気持ちを整理する時間も与えてもらえませんでした。
咀嚼を終えたあかねちゃんの顔が、ちょうど今アオイちゃんが立っている辺りに向けられているのです。そのすぐ近くでは、つい先ほどあかねちゃんの口の中から引き出されたばかりのスプーンの先が、キラリと光っていました。——そして次の瞬間、スプーンは地上に向けて降ろされ始めました。
身体が、金縛りにあったように動きません。それでいて、心臓ばかりがどきどきと激しく脈を打っています。
スプーンはあっという間にアオイちゃんの目の前を通過し、深く深く、橙色の地盤の中に潜って行きました。そこから、つま先から先の地面が流れるように切り離されていく様子を、アオイちゃんはただ息を詰めて見つめていることしかできませんでした。
何がいちばんアオイちゃんを戦慄させたかって、音が全くしないことです。これほど大掛かりな事業には、「がらがら」とか「ごごご」といった重々しい音が付いて回るのが当然です。ですがそんな音どころか、もっと些細な音ですらこの場には無いのです。けれど確かに目の前では、地面が持ち上がるという天変地異に等しい変動が現在進行形で起こっていて、自分の聴覚の方が狂ってしまったのではないかと疑ったくらいでした。 これほどまでに不自然な静けさを、アオイちゃんはこれまでに経験したことがありません。
切り離された地面がスプーンに乗せられてぐんぐんと昇っていくのを、アオイちゃんはやはりただ目で追っていました。そして、スプーンも、アオイちゃんの視線も、おてんとさまみたいに高くて大きな、あかねちゃんの顔の前でぴたりと止まりました。
これから始まることを想像して、アオイちゃんの動悸は最高潮に達しました。
(やめて、あかねちゃん……)
どれだけアオイちゃんが切に願おうとも、はるか高くで恍惚の表情を浮かべているあかねちゃんを、振り向かせることすらできませんでした。
そこからは、あっという間でした。
あかねちゃんの口が開いたかと思うと、その中に勢いよくスプーンが突入していき、橙色のシルエットが完全に見えなくなった瞬間、ぱくっ、と元のように閉じられてしまったのです。
ぴっちりと閉じられた唇から引っこ抜かれるように、スプーンが帰還を果たしました。そこに乗っていたはずの、あの大きな橙色の塊は、跡形もなく消え去っていました。代わりに残ったのは、あかねちゃんのかん高い感嘆の声と、その口の奥から微かに漏れる、しゃくしゃくという咀嚼の音だけでした。
アオイちゃんはこうして、今度ははっきりと見てしまったのです。 自分をがっしりと支えている地面の一部だったはずのものが、虫も殺さないようなあかねちゃんという人間の女の子によっていとも簡単に掬い取られ、あっけなく食べられてしまう…その、一部始終を。
アオイちゃんはふと我に返って、自分の周りの光景を見直してみます。
人を何人も載せて大海を突き進むバイキング船のようななりをしていたはずが、その両端の大部分をごっそりと切り離され、まるでみすぼらしいいかだのように頼りなくなっていました。メロンを船に喩えるなら、あかねちゃんの摂食行為はさしずめ、これまでに数々の船や人を飲み込んできて、畏怖の対象とされてきた大嵐といったところでしょうか。だとすれば今のアオイちゃんは、いかだ一枚で、いつまた嵐が来るのかも分からない海の真ん中を漂っているようなものでした。
そこまで考えたとき、アオイちゃんはほとんど反射的に上を向きました。
じー。
見上げてすぐ、アオイちゃんの視線は、あかねちゃん黒く透き通る瞳にぶつかりました。
その瞳の中心に自分の姿が映し出されているのを見たとき、アオイちゃんは血の気が引くような思いがしました。
今、あかねちゃんは確かに、アオイちゃんを見つめているのです。さっきまでのように、下に広がっている(た)メロンではなく、自分を見つめているのだということが、アオイちゃんにもはっきりと分かってしまいました。
あかねちゃんは、口を半開きにした、無表情に近い表情でじっと見続けています。
きっと普段であればそんなことはなかったのでしょうが、今のアオイちゃんにはその表情、その視線から、恐ろしい可能性のことを考えてしまうのでした。
この時、ついさっき見た、メロンのかたまりがあかねちゃんの口の中に消えていった光景が、アオイちゃんの頭によぎりました。
(まさか、あの優しいあかねちゃんに限って、そんなことはしないだろうけど、けど…!)
アオイちゃんは本当に、あかねちゃんのことを信頼しているつもりです。それでも、一度頭に浮かんだ最悪の可能性を、どうしても払拭することができずにいました。
現実、あかねちゃんにはできてしまうのですから。
アオイちゃんを捕まえて、ぺろりと一口で食べてしまうことが。
一方で、もちろんあかねちゃんは、アオイちゃんを食べようなんて気持ちは微塵も持っていませんでした。
(なんだか、アオイちゃんさっきから顔色が良くない?どうかしたのかな…)
これが、アオイちゃんを見つめている間の、あかねちゃんの心の中でした。
「あ…もしかして、まだ食べていたかった?だったら別に、私のことは気にせずに食べてていいからね」
あかねちゃんはいつもの、アオイちゃんを安心させるための表情で言いました。けれども今度ばかりは、そんな表情だけで心を落ち着けるのには無理がありました。
気にせずに、なんてどうしてできましょうか。そう、あかねちゃんはまるで分かっていないのです。メロンの上にちょこんと乗っているアオイちゃんの目に、今までの自分の行為がどのように映っていたかなんて。
もっとも、それは無理のないことかもしれません。だってあかねちゃんは、ただ世間一般の人間たちがするのと同じように、メロンを食べようとしていただけなのですから。みなさんも、普段から道端を歩いている時に、近くにいる蟻さんからどう見えているかということを意識しているかどうか、考えてみれば分かるでしょう。
「違うの、そうじゃなくて——」
そうじゃなくて、あかねちゃんがメロンを食べるところを見ているのが、ちょっと怖かっただけ……そう言おうとして、声が止まりました。どうしてか分かりませんが、あかねちゃんには伝えてはいけないような気がしたのです。それは決して、怖いなんて言われたらあかねちゃんが傷つくだろうから、などといった殊勝な心遣いからではありませんでした。
思えば、あの時もそうでした。あかねちゃんがゴマ粒くらいの大きさにクッキーを砕いてくれたのに、それでも食べることができなかった、あのとき。なかなか言い出すことができないでいた中、最初に出てきた言葉は「すみません」で、それに対してあかねちゃんは「そ、そっか…」と困ったように笑っていて——。
もう分かった人もいるかもしれません。この、アオイちゃんが謝って、あかねちゃんがフォローをするという構図……この中心には何か「罪」があるはずなのです。その罪とは——小さすぎる、という罪です。アオイちゃんがあかねちゃんに伝えることができなかったのは言い換えれば、「あかねちゃんがメロンを食べる光景が怖いと感じてしまった」という罪を告白するのをためらった、ということなのです。
そして、こうした小ささに対する罪の意識を確たるものにしてしまったのは、ひょっとするとあかねちゃんだったかもしれません。
あのとき、あかねちゃんが「どうして謝るの?」「アオイちゃんは何も悪くないよ」とでも言って、アオイちゃんに微笑んでいたなら、あるいは——。
しかし、それであかねちゃんを責めることはできません。罪を否定してあげるのと、罪を赦し、フォローしてあげるとでは、優しさの種類が違うというだけで、どちらの方がより優しい選択であったなどと言えるようなものではないですから。
ここまででくどくどと説明してきましたが、アオイちゃん本人はまだ、この潜在的な罪の意識を自覚することができていません。いつか、自覚する日がくるのか……そして、そしてそうなったとき——自分が存在する限り、滅ぼすことが不可能である罪と向き合わなければならなくなったとき、アオイちゃんはどうなってしまうのか……それは、のちに分かることでしょう。
「そうじゃなくて?」
あかねちゃんは小首を傾げて、アオイちゃんの答えを待っています。
言えない理由も分からなければ、代替の理由を思いつくということもなく、アオイちゃんは返答に窮してしまいました。
「と…とにかく、私はもう十分貰ったから、本当にもういいんだよ」
アオイちゃんはとにかくこの状況を脱したくて、すぐにでもメロンの上から降りようと、慌てた所作で動き出しました。
ですが、すぐに立ち往生することになります。
「っ……!」
アオイちゃんはこのメロンの上に自分の力で乗ったのではなく、あかねちゃんに乗せてもらったのです。だから、あかねちゃんは分かっていませんでした。このメロンの高さが、一体どれくらいの高さであるのかということを。いや、確かにこのメロンが立派なメロンであることは間違いありませんが、別段高さが突き抜けているというわけでもありません。それでも、アオイちゃんにとっては、一般的な建物の二階にいるのと同じように感じられていました。その高さから…まして、下にはピカピカと光っていかにも硬質そうなお皿の表面が広がっていますから、飛び降りるのには覚悟がいります。
(降りなきゃ……降りなきゃ……!)
何も飛び降りる必要はありません。壁にしがみつきながら慎重に降りていくという方法だってあるのです。でもそれで、うっかり手を滑らせるなどしてしまったら……そんなことを考えると、足がすくんで一歩が踏み出せなくなります。
(やっぱり、だめ——!)
アオイちゃんはうつむきながら、とうとうきゅっと目を瞑ってしまいました。これ以上、お皿の表面を見下ろし続けるのに耐えられなくなって……人間の食べ物から降りることすらできない自分が、惨めでたまらなくなって——目を閉じずにはいられなかったのです。
目を閉じているところに、スッと何かの気配が寄せられるのを感じました。
恐る恐る目を開けてみると、最初に見えた景色に目を見張りました。
本来目を開けたところに広がっているはずだった寒々としたお皿の白、それを覆い隠すように、温かみのある肌の色がアオイちゃんの視界を占領していたのです。
「滑るから一人で降りるのは危ないよ?はい、乗って」
差しのべられた手のひらに、優しさで全てを包み込むかのような微笑みに、アオイちゃんはただ戸惑いました。どうしてあかねちゃんはこれほど自分に優してくれるのか、どうしてこんなにも優しいあかねちゃんを、自分は怖がらなくてはいけないのか、どうして自分は、この子の笑顔だけは曇らせたくないと思ってしまうのか……あらゆることが、アオイちゃんには分かりませんでした。
分からないけれど、気づけばアオイちゃんは、あかねちゃんの指先に足を乗せていました。
手のひらの上から、あかねちゃんが最後に残ったメロンの果肉をすくい取る様子を、ぼんやりと眺めていました。つい先ほどまでアオイちゃんをその上に乗せていたいたメロンの最後は、上から見ているとあっけないものでした。あれは本当に、あかねちゃんの3時のおやつにすぎなかったのだと理解させられます。
「ごちそうさま、美味しかったね!今度友達にも食べさせてあげようかな?」
いくら美味しいといっても、アオイちゃんはもうメロンの上はこりごりでした。
それに比べて、あかねちゃんの手のひらの上にいるとなんだか安心します。柔らかくて、あったかくて、それに少し、あかねちゃんの匂いがして…。
アオイちゃんの口から欠伸が漏れました。それだけでなく、先ほどからうとうととまどろみかけています。
このまま眠りに落ちてしまうのでしょうか。でも、小人が人間の手のひらの上で眠るなんて、本来あってはいけないことです。意識が落ちて無防備な間に、人間に何をされるかなんて分かったものではありませんから。もちろん、あかねちゃんとてそれは同じで、だというのに、体はあかねちゃんの手のひらに身を委ねることを求めていて、ついにアオイちゃんは、ぱたりと横向きに寝転んでしまい……
「わ、大変!服がべちゃべちゃ!」
そんなアオイちゃんを現に戻したのは、あかねちゃんの慌てたような声でした。
なんのことか最初アオイちゃんには分かりませんでしたが、直後に出たくしゃみによって、自分の服がメロンの果汁でべっちゃり濡れていることに気がつきました。
「うぅ、ほとんだ…それどころじゃなくて、全然気づかなかった」
気づいた途端急に体が冷えていくように感じたので、アオイちゃんは横になったまま手のひらに全身を密着させ、あかねちゃんの体温で暖をとり始めました。
「ねえ、その…大丈夫?アオイちゃん、その服しか持ってないんじゃないかなって…」
あかねちゃんが、なぜか少し聞きづらそうに聞いてきます。
「そんなことないよ?これ以外にも何着か持ってるから、帰ってから着替えれば大丈夫」
「そうなんだ。アオイちゃんって会うときはいつも同じ服だから、てっきりその一着しか持ってないのかと…」
ほっとしているあかねちゃんを見て、アオイちゃんはようやく合点がいきました。
「あ、えーっと……そっか、あかねちゃん、そこのところ誤解してたんだ……」
「誤解?」
ひょいと起き上がって、自分の来ている藤色のワンピース(今は濡れて普段よりどんよりと暗い色になっていますが)を掴んで示しながら、アオイちゃんは言いました。
「さっき他にも何着かあるっていったけど、正確に言うとね、この服と全く同じのを、何着か持ってるってことなの」
「ええっと…つまり、ずーっと同じ一着を着ているように見えて、毎日ちゃんと同じデザインの違う服に着替えてたってこと?」
「そういうこと。っていうか私、何日もずっと服を替えないようなコだと思われてたんだ……」
実際は少し演技が入っているのですが、ショックを受けている様子のアオイちゃんを見て、あかねちゃんはデリカシーを欠いた発言をしてしまったと思いました。
「あ、あはははは。そうだよね、いくらなんでもそれはあり得ないよね…。でもさなんで、同じ服しか持ってないの?」
「それはね。ちょっと話すと長くなりそうだけど、私たちの種族の間で、そういうしきたりみたいなのがあって…」
アオイちゃんが話してくれたのは、こういうことでした。
アオイちゃんたち小人は、生まれる前に自分の「色」が決められるらしく、10歳になるとそれぞれの母親からその「色」の糸で縫った服を決まった数だけ与えられて、以降はずっとその服を着ていくことになるのだそうです。アオイちゃんの「色」は、今着ているこのワンピースの藤色だったのでしょう。
あかねちゃんはアオイちゃんの話すことを、終始興味津々といった様子で聞いていました。
「へーっ、じゃこの服は、アオイちゃんのお母さんが作ってくれたものなんだ?」
「そうなの。可愛いよね、この服!私、すごく気に入ってるんだ」
「うん!それに、すっごくアオイちゃんに似合ってると思う」
「えへへ…」
てれてれと、アオイちゃんは顔を伏せてしまいました。こういう仕草は見慣れたものですが、いつもに増して嬉しそうに見えるのは、自分のことだけでなく、お母さんの作ってくれた思い入れのある服が褒められたからでしょうか。
「そういえば、アオイちゃんのお母さんってどんな人なの?」
そう聞くと、アオイちゃんはやっぱり少し嬉しそうに答えてくれました。
「優しくて、色んなことを教えてくれて、逆に私の話もなんだって聞いてくれて、ご飯が美味しくて、お裁縫も得意で、それから…」
変な話ですが、あかねちゃんはこの時のアオイちゃんの「話す」に対しての最も適切な対応は、「聞く」よりも「見る」であるような気がしました。とはいえもちろん、話は最後までちゃんと聞いていました。
「大好きなんだね、お母さんのこと」
「うん…あ、そういえばちょっと、あかねちゃんに似てるかも」
「私に?なんだかちょっと会ってみたくなってきたかも。…………ダメかな?」
あかねちゃんが聞くと、アオイちゃんは困ったように笑いました。もともと断られたら仕方がないと思って聞いたことなので、その反応自体は想定の範囲内でした。けれど…
「お母さんには、もう会えないの」
その言葉に込められた意味をあかねちゃんが理解するのには、少しの時間が必要でした。
「えっ……ごっ、ごめん、私…!」
「いいんだよ。今聞かれなくても、いつかは教えることになってただろうからね」
事実アオイちゃんには、少しも気にしている様子はありませんでした。もうそんな時期はとっくの昔に過ぎ去った、ということでしょうか。だってそうでなければ、さっき語っていたくらいに大好きなお母さんのことを思い出して、感傷的にならないはずがありません。
「他に家族はいるの…?」
聞きたいことは他にもたくさんありましたけれど、流石にそれはぐっと飲み込んで、一つだけに絞りました。アオイちゃんはその質問少し強めに首を振りました。こういう所を見ると、ただの空元気であるようにも思えてきて、あかねちゃんはきゅっと胸を締め付けられるような思いがします。
「もともと、お母さんと二人で暮らしてたから。お母さんがいなくなってからは、ずっと私一人だよ」
加えてこのアオイちゃんの返答。「もう会えない」の意味を察した瞬間に、あかねちゃんの内にもやっと現れた悪い予感が当たってしまいました。
こんなに小さくて……何よりあかねちゃんと同様にまだ幼い女の子なのに、誰の支えもなく、たった一人で生きていかなければならない——それがどんなに辛くて、苦しくて、怖くて、寂しいことであるか、当たり前のように色々な人に大事にされているあかねちゃんには、想像もつきませんでした。
「…心配してくれてるんだよね、あかねちゃん」
アオイちゃんは穏やかに笑って、あかねちゃんの方を向いていました。よっぽど顔に出ていたのかと、あかねちゃんは場違いな恥ずかしさを少し感じました。
「大丈夫、今はそんなに寂しくないよ。…だって、あかねちゃんがいるんだもん」
えへへ、とアオイちゃんはいつもの照れ屋さんな仕草を見せていました。見慣れたものであるはずなのに、いつもよりずっと心が動かされるのをあかねちゃんは自覚しました。
そこにあるのは「可愛い」を遥かに超えた、何か別の感情でした。もし体の大きさが同じだったならば、きっとアオイちゃんのことをほとんど衝動的に抱きしめて、ぎゅーっと強く強く抱きしめて、しばらくは離さなかったことでしょう。
でもそんなことはできません(いうまでもなく、意志がないというのではなく、不可能という意味です)から、その感情は行き場を失い、いつしか一つの疑問に変わりました。
(どうして、抱きしめてあげることもできないんだろう…)
何か世の中の理不尽に対する抗議のような疑問でした。わがままを言えるようなたちではないあかねちゃんは、この種類の疑問を抱いたことがありませんでした。
そんなとき、手のひらの真ん中で、アオイちゃんが小さな大あくびをしているのが目に入りました。
「眠いの?」
「うん…ちょっと…」
これまでの話もあり、ひょっとしたら疲れがたまっているのかな、などとまたあかねちゃんは心配しました。
「ねぇ……この上で寝ちゃっても、いいかな……?」
「え?どういう…」
あかねちゃんが聞き返す前に、アオイちゃんはその場でパタリと横向きに倒れてしまいました。すうすうとしっかり寝息を立てていて、あかねちゃんは、本当に自分の手のひらの上で眠ってしまったのだと理解しました。
「ど、どうしよう…」
あかねちゃんは戸惑いましたが、幸いにも手だけはじっと静止させていられるくらいの器用さはもっていました(これがたとえばさくらちゃんなら、気持ちの同様に連動して手をぷるぷると震えさせてしまっていたでしょう)。
アオイちゃんを起こすべきか、起こさないべきか、それが問題です。忘れかけていましたが、アオイちゃんの服は依然としてべちょべちょで、そんな状態のまま寝ていたら風邪をひいてしまうかもしれませんし、だいいちこのままでは手を動かすことができません。
しかし、それならばと安直に起こすわけにもいかないのです。だってそのくらい…きっと誰もが起こすのをためらってしまうくらいには、心地よさそうに寝ているのですから。
思えば、こうしてアオイちゃんが寝ている姿を見るのは、初めて出会ったあの日以来でした。もっとも、あのときアオイちゃんはポケットティッシュのパックの中に隠れていましたから、こうしてまじまじゆっくりと眺めるのは初めてです。
以前に見たときには、やっぱりあかねちゃんは、ただシンプルに「可愛い」という感想しか持ちませんでした。でも今、手のひらの上で無防備に寝姿を晒しているアオイちゃんを眺めながら、こんなことを考えるのです。
(私が見ていないところでも、こんな風にちゃんとぐっすり寝られているのかな…それならいいんだけど、でも、さっきの話を聞いたら…)
アオイちゃんのような女の子が、家族と触れ合うこともなく一人で、何が起こるか分からない真っ暗な夜の中、果たして本当に毎日安心して眠られているのでしょうか?…あかねちゃんがもし同じ立場だったら、きっと心細い夜を過ごすことになると思います。
もし、このような心配が杞憂だったならば、それ以上に望むことは何もありません。けれど、あかねちゃんの思った通りならば——せめてこんな時だけは、アオイちゃんを静かに寝かせてあげたい、と思いました。
(お母さんが帰ってくるまでなら、こうしていてもいいよね)
藤色のワンピースはまだ湿ったままですが、風邪を引きそうになっている人の寝顔には見えません。それに、着ている本人が途中まで濡れていることに気がつかなかった程度なのだし、その問題は大丈夫なのだと思うことにしました。そして、手を動かせないことは——それで、この愛しい寝顔を守ってやれるのなら、あかねちゃんにとって、大した問題ではありませんでした。
アオイちゃんが目覚めたのは、それから幾時間か経った頃でした。三時のおやつを終えたばかりだったはずが、いつの間にか夕方になっており、寝起きのアオイちゃんの顔を、障子の隙間から漏れる茜色の光が穏やかに照らしています。
「おはよう、アオイちゃん」
寝返りを打つように上を向くと、視界の真ん中に、あたたかな目で見降ろしている、あかねちゃんの大きな顔がきました。そこでようやくアオイちゃんは、あかねちゃんの手のひらの上で寝落ちしてしまったことを思い出しました。
「…あああっ!ごめん、私うっかり寝すぎちゃって…!もしかしてずっと動けなかったんじゃ…!?」
「気にしないで、アオイちゃんの寝姿観察してるのも面白かったからね。ふふ、どうだった?私の手の上の寝心地は」
「それはもう最高…ってそうじゃなくて!本当にごめんねっ、すぐ降りるから!」
恥ずかしいやら、申し訳ないやらで、必要以上にアオイちゃんは慌てていました。
(あ…そうだった、私ひとりじゃ降りられない…)
そのせいで、手の端から地上の景色を見降ろして、初めてそんなことを思い出すという有り様でした。
「乗ってていいよ?この方が話しやすいし」
アオイちゃんが寝ている間は、手が動かせなくて疲れることもありましたが、こうして起きていてくれれば比較的自由に(アオイちゃんを驚かさない範囲で)手を動かせるので、困るようなことは何もありません。また、もう少しだけアオイちゃんを手に乗せていたい気分でもありました。
すると、家の外から、バック駐車をするときの聞きなれた音が聞こえてきました。
「まず…お母さん帰ってきちゃったかも」
お母さんが玄関をくぐる前に部屋に戻ろうと、あかねちゃんは立ち上がりました。
「続きは部屋に戻ってからにしよっか」
「ま…待って!私、もう帰らないと…」
「えっ、もう?まだ遊んでいたい気分だけど…」
あかねちゃんは物足りなそうな顔をしていますが、アオイちゃんからしてみると、今日以上に濃い時間を過ごしたことは数えるほどというくらいでした。これが単に遊びに対するキャパシティの差であるのか、それとも、アオイちゃんには重大に感じられた出来事の数々も、
あかねちゃんにとっては取るに足らない日常の一部にすぎなかったというのか……おそらく後者であるように思われました。
「わ、私も同じだけど…今日はやっておかなきゃいけないことが色々あって…この服も洗濯しなきゃダメだし」
「あ、そうだったね…」
そう言われてしまうと、あかねちゃんとしても仕方ないと思うより他はありません。けれど、週に一度や二度しか会いに来てくれないのだから、やっぱりもう少し一緒にいたいというのが本音です。
名残惜しそうにアオイちゃんを降ろそうとしますが、何を思ったか、その手を途中で引き戻しました。
「あかねちゃん…?」
そのまま降ろしてもらえる気でいたアオイちゃんは、突然のそんな行動に戸惑ってしまいます。これは、まだ帰したくないという意思表示なのでしょうか?でも、そんなわがままなあかねちゃんを見るのは初めてのことで、アオイちゃんは少なからず不安を覚えました。
何せ、万が一あかねちゃんがわがままを言ってきたら、アオイちゃんは逆らうことができないのですから。…そう、例えば今この場で「一生おうちに帰してあげないもん」なんて言われたら、どうしたってアオイちゃんは逃れることができないのです。今の二人の関係があるのは、これまでに一つもあかねちゃんがわがままを言わなかったおかげであると言っても言い過ぎではありません。
そんなアオイちゃんの不安を、あかねちゃんも途中で察しました。
「あ…そういうつもりじゃないの。えーっと、このまま私が、アオイちゃんをおうちまで送って行くってのはどうかなって」
それを聞いて、不安はすぐに解消されました。それくらいなら断る理由もないと思って、アオイちゃんは返事を出しかけました。しかし、出しかけたところで口が止まります。寸前で、また別の重大な懸念が、アオイちゃんの中に生じたのです。
「それって、私が住んでる場所を、あかねちゃんが知ることになるってこと……?」
「ダメかな…?いい機会だから、と思ったんだけど…」
実際、あかねちゃんはこのことを見落としていたわけではなく、付き添い(この表現が適切かどうかはさておいて)を提案した理由の一つでした。今日のことであかねちゃんは、アオイちゃんのことをもっと知りたいという気持ちを強くしました。その上でアオイちゃんがどんなところに住んでいるのか知っておくことは、大事なことだと考えたのです。
アオイちゃんはその質問に、はっきりとした答えを出すことができないでいました。
教えてもいいか、それともいけないのか、二つの選択肢の間で板挟みになっていました。
小人が人間に住処を漏らすなんて、自殺行為に等しいのです。
もちろん、あかねちゃんを信頼していないわけではありません。ですがそれだけで片付けられるほど単純な問題でもありませんでした。あかねちゃんの意図に反して、何かの拍子に他の人間に知られてしまったりでもしたら……アオイちゃんはもう、あかねちゃんと一緒にいられなくなってしまうかも知れないのです。
それでもアオイちゃんには、教えてあげたいという気持ちもありました。だって、あかねちゃんは友達なのですから。住んでいるところも教えてあげないなんて、なんだか裏切りのような気がして、たまらない気分になってしまいます。
いや、何もこんな後ろ向きな理由ばかりというわけではありません。一緒におうちに帰ったり、また、あかねちゃんの方から、遊びに誘ってきてくれたり……そういうことに対する憧れを、アオイちゃんは感じていたのです。だって、なんだか本当に……人間だ、小人だなんて関係のない、どこにでもいる普通の友達同士みたいではありませんか。
(私…私は…)
「アオイちゃんの考えてること、なんとなく分かるよ」
その言葉に、アオイちゃんは顔を上げました。
「これは私の考えなんだけど…私は、友達にも教えられない隠し事があったっていいと思う。あ、隠し事っていうと、なんだかちくちくした言い方になっちゃうかも…。もちろん、そういう考え方じゃない子もいるかもしれないけど、私は全然、そんなことで薄情だー、とか思わないから」
無理して言わなくてもいいんだよ、とあかねちゃんは微笑みました。
問題をいつまでも解決できないときに、背中を押してくれる———それもまた、友達の姿でありました。
実際、あかねちゃんのこの言葉のおかげで、アオイちゃんは思考の堂々巡りを脱却することができたのです。
「ごめん…やっぱり、今は教えられない」
「そっか」
あかねちゃんは小さく頷いて、それ以上は何も言いはしませんでした。
「ただいまぁー、荷物運ぶの手伝ってくれない?」
そのとき玄関から、気だるげなお母さんの声が聞こえてきました。
「おかえりー!今いくよ」
返事をした後、再び手の上に目をやると、アオイちゃんがなんだか上の空でいるように見えました。やっぱり、断ったことを気にしているのでしょうか。
けれど、先程の言葉に偽りはなく、あかねちゃんは本当に全然気にしていませんでした。
だって、アオイちゃんが悩んでいた……それはつまり、少しでも、あかねちゃんになら教えてもいいかもしれない、と考えてくれたということなのですから。
でもそんなささやかな喜びを本人に伝えるのはこそばゆくて、自分の胸に、それこそ隠し事のようにしまっておくことにしました。
「アオイちゃん。すぐ終わるから、荷物運んでる間だけポケットに入っていてくれる?」
そう聞くと、アオイちゃんはハッとして、すぐに快い返事をくれました。
手伝いを終えて、あかねちゃんは靴を履き、玄関の外へ出ました。
「お待たせ、もう出ても大丈夫だよ」
胸ポケットの底に向けて人差し指を入れると、中ですぐにアオイちゃんの細い腕が回される感触がしたので、そのまま指を引き上げ、いつもみたいに手の上に乗せてあげました。なんだか魚でも釣るような出し方ですが、これが一番安全だと考えられる方法なのです。
「このへんで降ろしても大丈夫?」
なるべく目立たないような場所を見繕って尋ねましたが、アオイちゃんはそれには答えず、何か言いたそうにしています。
「あ、あの…」
「うん?」
あかねちゃんが立ち止まると、アオイちゃんはゆっくりと言葉を発しました。
「いつか、その時が来たら、絶対に話すから……それまで待っていてくれる…?」
…そう、アオイちゃんが出した本当の結論は、教えるでも教えないでもない、「保留」でした。リスクなんて顧みず、本当に心の底からそうしたいと思える日が来た時に、あかねちゃんに教えてあげたい……アオイちゃんはそう考えたのです。
そして、そんな選択を取ることができたのは、あかねちゃんならきっと待っていてくれる、という確信を持ったからでした。
「…!うんっ、わかった!」
そんな嬉しさが弾けたようなあかねちゃんの声を聞き、笑顔を見て……何があっても、いくらかかっても、この約束は守ろうと、アオイちゃんは強く心に誓ったのでした。