4話 旧友と共有(前編)

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学校から帰ってきたあかねちゃんは、いつも通りお母さんにただいまのあいさつを済ませ、自分の部屋に向かっていました。ただ、普段と少し違ったのは……


「久しぶりだなー、あかねの部屋におじゃまするの」


さくらちゃんも一緒に、後ろを歩いているところでした。


「二か月くらい前に来たばっかりでしょ…?」
「二か月は久しぶりだよ。昔は毎日のように私を家に引きずり込んで帰そうとしなかったというのに」
「い、いつの話してるの…」


あかねちゃんがぷいと前へ向き直ったので、さくらちゃんからは後頭部しか見えなくなってしまいます。
こういう反応をしていますが、実際二か月前までは、毎日とは言わないまでも、一週間に一度くらいの頻度でさくらちゃんとは遊んでいました。その習慣が崩れることになった理由はいくつかありますが、その一つとして、小人のアオイちゃんと遊ぶことが多くなった、ということも挙げられるでしょう。昨日もアオイちゃんは部屋に来てくれましたが、そういう日はもちろん他の人間の友達を部屋に上げることはできないのです。特にさくらちゃんは勘が鋭いですから、警戒レベルは最大でした。
ですが、出会ってから二か月以上経ち、アオイちゃんがどの日に来るのかおおよそ分かってきていたので、今日だったら大丈夫だろう、とあかねちゃんは考え、さくらちゃんを家に入れてあげたのです。
しかし、それが誤算であったことに、あかねちゃんは間もなく気づかされることになります。


(え……)


部屋のドアを開けかけていた手を、思わず途中で止めてしまいました。
ドアの向こうに、いつもの位置にちょこんと座って、いつものように帰ってきたあかねちゃんに笑いかける、アオイちゃんの姿があったからです。まずい状況を生み出してしまったなんて微塵も感じていない——この時のあかねちゃんとは、まるで正反対な様子でした。


(ど、どうして?今日は来る日じゃないはずなのに…いや、それよりも———!)
「おーい、なぜ急に牛歩戦術?」


視線の先には何も知らないアオイちゃん。そして、すぐ背後には急かしてくるさくらちゃん。


(こんなことになるんなら、連れてくるんじゃなかった…!)


アオイちゃんと出会って以来、最大のピンチかもしれませんでした。




遡ること、およそ20分前。


「なーなー、そのへんでアイスでも買っていかない?」


帰り道を歩いていると、隣にいたさくらちゃんがそんなことを言ってきました。


「駄目だよ?買い食いなんて…」

「そーいうと思いました。しかしよく考えてほしい…友達が今すぐコンビニでアイスを買って食べないと死んでしまうという状況で、いけないことと承知で買い食いに付き合うよりも、友達を見捨てて先生の言いつけをきっちり守る方が、本当に正しい選択と言えるのかね?」

「死ぬの?」

「いや死なないけど」

「だよね。今日歴史で習ったナントカの飢饉が今やってきても、さくらちゃんはなんかしぶとく生き残ってそう」

「現地で日本がワールドカップで優勝する瞬間を見届けるまでは死ねないね」


途方もない話だなあと、あかねちゃんは苦笑いしました。


「でも死にそうなのは本当…水筒もとっくになくなっちゃったし」


買い食いには付き合ってあげられませんが、さくらちゃんがそれほど疲れていることは理解できています。昼休み、空調の効いた図書室にこもっているあかねちゃんとは違い、さくらちゃんは男子に交じって炎天下のグラウンドでボールを追いかけていますし、加えて陸上クラブの朝練にまで毎日出ているのです。友達として何かしてやれることはないか、あかねちゃんは歩きながら考えました。


「あっ、そういえばこないだ家にメロンが届いたんだけど、食べにこない?」

「なぬ…?」


歩みを止めて、さくらちゃんはがばっと首をあかねちゃんの方に回しました。一昔前のアニメだったら、目が🍈になっていたかもしれないくらいの食いつきようです。


「ちなみに…私史上最高級においしいメロンだったよ?」

「今日ほどあかねと友達でよかったと思った日はないっ…!」

「いや、それはそれでなんか複雑だけど…」

「冗談冗談!そうと決まればあかねん家ちまで急ぐぞっ!」

「え、ちょっと!疲れてるんじゃなかったの!?」


そう呼び止めたときには、さくらちゃんの姿はすでに大分小さくなっていました。みんみんとセミたちが鳴く夏の空に、待ってよーという声が響きました。

そして、今に至る、というわけです。




「さ、さくらちゃん!お部屋が汚いからちょっと片付けさせて!」


「え、おい───」


さくらちゃんの返事などお構いなしに、バタンと部屋の扉を閉めます。多少強引にでも、アオイちゃんと二人きりになれる状況を作り出す必要がありました。

外から聞こえた別の人間の声、そしてあかねちゃんの動揺した様子で、ある程度状況を察したのか、アオイちゃんは一転して不安げな顔で、あかねちゃんのもとに駆け寄ってきていました。ベッドの上のアオイちゃんに顔の高さを合わせて、あかねちゃんはささやき声で、手短に用件を伝えようとします。


「ごめんアオイちゃん…!今友達が来てるから、その間どこかに隠れてて欲し——」


その途中で、さくらちゃんが勝手にドアを開けて部屋に入ってきてしまいました。


「ちょっと、私にもガサ入れもといお片付けを手伝……」

(ひーっ!)


たまらず咄嗟に、アオイちゃんをベッドの上から掻っ攫い、その手をきゅっと軽く握って隠しました。


「なーんだ、全然綺麗じゃん…私のママにも見習って欲しいくらいだよ」

「さ、さくらちゃんてば…自分の部屋は自分で掃除しないとダメだよ?」


手の内側で、アオイちゃんがばたばたと暴れているのを感じます。いきなり手の中に閉じ込められたのだから、取り乱すのはもっともだと感じていながらも、眼を瞑って(お願いだからおとなしくして…!)と願っていました。その願いが通じたのか、暴れても無駄だと諦めたのか、少しするとアオイちゃんはおとなしくなりました。


(ごめん、アオイちゃん——!)


今更出してやることもできず、あかねちゃんにできることはただ、手の中のアオイちゃんを苦しませないように気を使いながら、さくらちゃんという嵐が去ってくれるのを待つことだけでした。

落ち着いたところで顔を上げると、さくらちゃんが怪訝そうにじーっとあかねちゃんを見つめていたことに気が付きます。ひょっとすると不自然な様子に見えていたかもしれないと、気が気ではありません。


「ど、どうしたの?」

「やはり、なんか慌ててるな…?ふふーん…これは何か、隠したいことがあると見た」


顎に手を当てて、ぐいっと顔を寄せてきたので、あかねちゃんは心臓をばくばくならせていました。さくらちゃんからすればただの探偵ごっこのつもりなのですが、あかねちゃんの方はまさに、探偵にしっぽをつかまれた真犯人のような心地がしていました。


「や、やだなあもう…そんなんじゃないって」


あかねちゃんは無意識に、アオイちゃんを握る手の力を強めてしまいます。そればかりか、手のひらは不快なほどに汗でびっちょりと湿っています。張り裂けそうなくらいの緊張と、自分がどんどんアオイちゃんを過酷な環境に追いやっているという罪悪感に苛まれ、あかねちゃんはどうにかなってしまいそうでした。


「あっ、もしかしてこれか!?」


そう言ってさくらちゃんが見つけていたのは、部屋の隅に積まれている、育児用の絵本の数々でした。アオイちゃんが読みたいと言うので、物置から引っ張り出してきたものです。習った文字の復習がしたいからと本人は言っていますが、本当は絵本のお話の方に興味があるのだとあかねちゃんは思っています。それはともかくとして、積まれた絵本がアオイちゃんと関わりのあるオブジェクトであり、それがさくらちゃんに目をつけられてしまったという事実は、ますますあかねちゃんたちを窮地に追いやりました。

似たような状況が前にもありました。あのときはお母さんに訝しまれたのですが、機転を利かせてどうにかごまかすことができました。しかし、相手がさくらちゃんとなるとわけが違います。勘が鋭く、一度くらいでは引き下がらなくて、口が薬包紙よりも軽いゴシップ大好き少女…つまりアオイちゃんの秘密を守り抜くうえで、さくらちゃんはもっとも厄介な相手なのです。

あかねちゃんは本当に追い詰められると、何も言えなくなってしまう女の子でした。その無言が肯定ととらえられてしまう女の子でした。さくらちゃんも当然そのことをよく知っていますから、これがあかねちゃんが隠したがっていたものに違いないと思って、一冊一冊積まれた本を手に取って見ていきました。

次第に、さくらちゃんの顔は不審の色が濃くなっていき、やがてある一冊の本を持ったまま、動きがぴたりと止みました。こうも絵本だらけなのですから、不自然に思うのは当然です。もし、さくらちゃんに問い詰められたら、隠し通せる自信がありませんでした。もちろん、何を言われても口を割るつもりなどありません。ですが、もしその途中で、ずっと右の手を握ったまま開かないでいることに気が付かれたら———いえ、さくらちゃんなら気づくに決まっています。

さくらちゃんの視線が、手元の絵本から、あかねちゃんの方に向けられます。しかし、そこで、あれ?と違和感を覚えたのはあかねちゃんの方でした。

他人の秘密を暴こうとするとき、たいていさくらちゃんはニヤリと悪い顔をするものです。なのに、向けられたさくらちゃんの顔には、動揺だとか、信じられないだとか、聞いても大丈夫なのだろうか、などといった、およそ「らしくない」ような感情が顕れていたのです。

そんな表情のまま、さくらちゃんは口を開きました。


「あ、あかね…もしかして……………………………産んだの?」

{本気|マジ}のトーンで発せられたその言葉の意味を、あかねちゃんはしばらく理解できないでいました。

動揺するさくらちゃん……産んだ……そして、育児用の絵本……それらの要素を繋げて考えた結果、あかねちゃんの顔が、みるみるうちに赤くなっていきました。

「なっ、なっ……!」

想像を超えるとんちんかんな答えに、安心するよりも先に感情が昂ぶりを見せ、ついにあかねちゃんは、

「なわけないでしょーーっ!!」

火を、噴いたのでした。






意外にも、さくらちゃんはそれ以降、隠し事については触れてきませんでした。
「ちょっくら便所借りるよ」
少しして、女子に言ってほしくないランキング30位以内には入っていそうなセリフとともにさくらちゃんが部屋を出て行ったあと、あかねちゃんは大げさなくらいに安堵の息を吐きました。
いえ、安心している場合ではないのです。


「ごめんっ、アオイちゃん!」


握りっぱなしにしていた右の手を開くと、真っ先に謝りました。


「だ……だい、じょうぶ……だよ……」
「……っ」


向かい風が吹けば返されそうな声で返事をしたアオイちゃんは、息も絶え絶えで、ぐったりとして起き上がろうとせず、見るからに弱っていました。全身を異常なほどにぐっちょりと湿らせているのが、アオイちゃん自身の汗なのか、それともあかねちゃんの手汗なのか判然としませんでした。
一言謝るくらいで済まされることではないのは分かっています。けれどあかねちゃんは、受けたショックがあまりにも大きく、それ以上何の句も告げることができませんでした。
アオイちゃんをここまで弱らせてしまったのは、ほかの誰でもない、自分なのだという事実———この事実が、あかねちゃんに重くのしかかってきていました。それが故意ではなかったとはいえ———いや、故意でないからこそ、あかねちゃんにはこれほどまでに応えるのでしょう。もちろん、少し苦しい思いをさせてしまうかもしれない、くらいには最初から考えていました。それでも、ただ純粋に「友達を守りたい」という気持ちからの行動だったのに……その行動によって、アオイちゃんはこんな……今にも死にそうな状態にまで追い込まれていたのです。「守りたい」なんて気持ちは、あかねちゃんのエゴでしかなくて……つまり、あかねちゃんがアオイちゃんを守るなんて図は、最初からあかねちゃんの精神でしか完成されないもので、そこを出た途端、あかねちゃんの身体、そしてアオイちゃんの身体が、有無を言わさずに全く正反対の図に描き換えてしまうのです。


「…ごめんね。そろそろ友達が戻ってきちゃうから、暗くて心細いかもしれないけど、引き出しの中に隠れていてほしいの」


覇気の絶無な声で、そう伝えるので精一杯でした。アオイちゃんが目で頷いていたので、あかねちゃんはことり、と引き出しの底面に寝かせてやりました。本当はもっと快適な場所でゆっくり休ませてあげたいのですが、そういうわけにもいきません。


(ごめんね…)


もう一度心の中で謝って、そっと引き出しを閉じようとした時でした。


「あかねちゃん……あんまり気にしないで。私を守ろうとしてくれたことくらい、ちゃんと、分かってるから……」
あかねちゃんの手が、その言葉で止まりました。中ではアオイちゃんが、体勢を変えないまま、少し無理をするように笑っています。でもそれは、笑いたくないけれど無理して笑っているのではなくて、笑いたいから無理して笑っているような顔でした。


「アオイちゃん…」
「それに、ちょっと寝たら回復するよ。今だって、大分声が出るようになってるしね………だから、大丈夫だよ」


どうやら、あかねちゃんは一つだけ大きな勘違いをしていたようでした。
確かに、物理的には、あかねちゃんがアオイちゃんを苦しめるという、思い描いていたものとは真逆の結果になってしまったかもしれません。けれど、アオイちゃんは一度だって、あかねちゃんに苦しめられている、とは感じなかったのです。あかねちゃんがアオイちゃんを守る図は、あかねちゃんの精神の内側にしか存在しえないものなどではなくて、ちゃんとアオイちゃんの精神の内側でも、同じ図が共有されていたのです。
屁理屈と言ってしまえば、それまでです。あかねちゃんがアオイちゃんを弱らせてしまった、という客観的な事実を変えることは誰にもできません。それでもこの、友達二人の信頼関係のたまものともいえる屁理屈によって、あかねちゃんの心がいくらか晴れたというのもまた、変えようのない確かな事実なのでした。


「…ありがとう、アオイちゃん」


そう言って、ゆっくりと引き出しを閉じていきました。あかねちゃんがようやく笑顔を見せたので、アオイちゃんの方も満足したように瞼を閉じたのでした。


「ただいマイケルジャクソン!」
「わあっ!?」


最後の最後で、思わずバチン、と急な勢いで引き出しを閉じてしまいました。


「お、おかえり…えーと、り…リンゴスター」


振り向いて、自然、後ろの引き出しを手とお尻でかばうような格好になりながら、戻ってきたさくらちゃんに言葉を返します。そのあと冷静になって、さっと引き出しから体を離しました。これでは余計に怪しまれるかもしれない、と考えたからです。慌てるあまりそんなことに気づくのが一瞬遅れてしまったことが、命とりになりはしなかったかとあかねちゃんの心は休まりません。


「あかねママがメロン用意できてるって言ってたよ!はやくいこーぜ!」


しかし、さくらちゃんには別段そのことを気にしているような気色もなかったので、そこについては安心です。けれど、あかねちゃんが懸念していたのはそのことばかりではありません。


(アオイちゃん、さっきので頭打ったりしてないよね…)


気がかりで仕方ありませんが、確かめようもないので、この不安はため込んでおくよりほかはありませんでした。


「?あかねは食べないの?なら、その分は私がもらうけど…」
「い、いくよ!もう、さくらちゃんせっかちすぎ」


行かなければ変に思われるというのが半分、メロンをさくらちゃんに取られたくないのが半分…そんな心境で、アオイちゃんを引き出しに残したまま、あかねちゃんはさくらちゃんとともに部屋を後にしたのでした。






「な、なんだこれは…」


メロンを一口味わうなり、さくらちゃんはそう言いました。隣ではあかねちゃんが、ふふん、どうだ美味かろうという顔をしています。穴場と言われるような飲食店で、出された料理の味にお客さんが感激しているとき、店主よりもむしろ、そのお客さんを連れてきたもう一人のお客さんの方が得意がるものです。今のあかねちゃんも、それと似たような心境でいました。
ひとしきりさくらちゃんのうっとりとした顔を眺めると、あかねちゃんもメロンをすくって、そのまま口に運びました。するとたちまち、さくらちゃんと全く同じ顔になりました。


(こんなにおいしいんだから、アオイちゃんだってきっと何事もなくいてくれてるよね…!)


そんな支離滅裂な感想まで飛び出してしまう、級友と過ごす放課後おやつタイムでした。






食べ終えた後、しばし居間で談笑していた二人は、のんびりとした足取りで部屋に戻っていきました。


「あ、私トイレに行くから、先に部屋に戻ってて」
「おっけ」


手を控えめに挙げる簡素なあいさつを交わしただけで、それぞれ行くべき場所に、変わらない足取りで向かいました。


「ただいまー」


誰もいない……この時点でのさくらちゃんからすれば、誰もいない部屋にそう言って入りました。さくらちゃんにはこういう癖がありました。ただ独り言が多いというより、言葉もなく行為をすることに対して漠然と「寂しい」と考えているのです。
「さてと、」とさくらちゃんは言いました。


「あかねめ、引き出しの中に何か隠していたな…?」



——一方そのころ、あかねちゃんはご機嫌に鼻歌なんて歌いながら、下着を下ろして便座に腰かけたところでした。


「~~♪」


あかねちゃんに過失があったとすれば、それはさくらちゃんの性格を知り尽くしていたにもかかわらず、あっさりと絵本についての追究を切り上げたことや、引き出しを隠すような仕草をしてしまったことに少しも触れてこなかったことに、疑いの目を向けようともしなかった…というところにあるでしょう。もっとも、自分に都合のいい解釈ばかりをとってしまいたくなるほど、気持ちに余裕がなかったのですから、そこを責めたって仕方はありません。それに、今更そんなことをしたって、状況がいい方に転ぶことなどけっしてありません。
こうなってしまった以上、さくらちゃんがこれから引き出しを開けて、中に隠れていたアオイちゃんを発見するという展開を修正することは、もう誰にもできないのです———。



床が急な勢いでスライドするような感覚…そして、暗闇に押しよせるように差し込んだ、瞼を焦がさんばかりの強い光によって、否が応でもアオイちゃんは目を覚まされることになります。


「ん……どうしたの?あかねちゃ——」


声が、そこで止まりました。のみならず、動きも、息も、思考も…アオイちゃんのすべてが、固まっていました。
そのせいで、目に映る景色を「あかねちゃんではない、全く知らない大きなの女の子の顔がある」とほとんど無加工で情報化することにさえ、少しの時間を要しました。


「…え、ぁ……」


しかもその顔が、その目が、はっきりと自分に向けられている…そこまで理解したとき、硬直していた体が、ようやく震えるということを思い出しました。
見つかった、なんで、どうして、いやだ、やめて、怖い、怖いよ、助けて……。心の中をそんな声が満たしていきます。が、ついにそれらの声は一つとして声にはなりませんでした。
こういうアオイちゃんの情況は、あの時のそれにほとんど全くと言っていいほど同じでした。あの時とは…あかねちゃんと初めて出会った時のことです。
目覚めたら覚えのない、まるで人肌のように{温|ぬく}く、柔らかな場所に体を横たえていて…ふと頭上を見上げて、それが本当に肌——人間の手のひらの上だったと知った時の絶望と言ったら、忘れたくても忘れられるものではありません。
それでもあの時は、捕まることも傷つけられることもありませんでした。恐怖で凍りかけていた心を、あかねちゃんはその優しさで少しずつ溶かしていってくれました。
だから——希望を見出したというより、藁にも縋るといった方が適当に思えますが——まだ、ひどいことをされると決まったわけじゃない、とアオイちゃんは考えようとしました。
この女の子がもしあかねちゃんの友達だったら、あかねちゃんと同じように優しい心の持ち主で、このまま見なかったことにして引き出しをとじてくれるかもしれない……と。
———ですが、少なくとも私はここまでで、さくらちゃんをそういう子として語ってはこなかったつもりです。珍しいものを発見したら、好奇心の糧にすることを第一に考える……それが、さくらちゃんという女の子なのです。


「ふーん、秘密ってコレのことか……」


引き出しの中に降り注いだその第一声は、決してアオイちゃんを安心させるような声ではありませんでした。言葉の内容を正しく理解するだけの精神的な余裕はありませんでしたが、ただその声の「恐ろしさ」だけは敏感にとらえていました。
四角く、広く切り取られた頭上の景色に、大きな手が姿を現した時、アオイちゃんは自分の命運を悟りました。現れた手は間を置かずに、アオイちゃんを捕まえようという明確な意思を持って、静かに引き出しの中に伸びてきます。
アオイちゃんは走りました。自分だけではこの引き出しの中から逃れられないことには、どこかでアオイちゃんも気づいていました。でも、引き出しの奥に逃げ込めば、あの手の大きさでは入ってこられないかもしれない、それで時間を稼いでいれば、きっとあかねちゃんが助けに来てくれる——ただそういう思いだけで、暗くて深い、トンネルのようになっている引き出しの一番奥を、我武者羅に、無我夢中に、一目散に目指しました。
けれど、アオイちゃんは知りませんでした。この引き出しが、どこまで開くようになっているのかということを。あかねちゃんもさくらちゃんも、引き出しを全開にはしていなかったのです。
何が起きたか、アオイちゃんには分かりませんでした。トンネルの真っ暗闇の中を走っていたはずなのに、気づいたら強く尻餅をつき、明かりの下に晒されているのです。そういえばこうなる直前、何か床が、信じ難い速さで動いたような錯覚がした、と思い当たったちょうどその時、呆然とお尻をついたままでいたアオイちゃんの前に、ぬっと姿を現したモノがありました。腕を回しきれないくらいに太く、手の届かないくらいに高い、不気味でありながらどこか神秘的で、同時に力強く生命の息吹を放っているその肌色のモノが何であるのか、日頃から人間に接しているアオイちゃんにはすぐに分かりました。
青ざめている暇もなく、次の瞬間にはもう、アオイちゃんの体は引き出しの床を離れていました。



親指と人差し指の間でばたばたしているアオイちゃんを、さくらちゃんは物珍しげに観察していました。


「うわ、ほんとに生きてるんだ。あかねのやつ、どこでこんなの捕まえたんだろ…」


さくらちゃんの目には、ばたばたもがくアオイちゃんの姿が、ひっくり返って自力で起き上がることのできなくなった甲虫が、6本の足でひたすら空気を掻き続ける姿のように、どこか滑稽に映っていました。けれどこの時、アオイちゃんは恐怖や絶望で頭がおかしくなりそうで、狂ったように暴れていたのです。(ひっくり返ったコガネムシも、実際はこんな心境でいるのかもしれません)


「いやああぁっ!!」


アオイちゃんを取り巻く状況の全てが、アオイちゃんを恐怖のどん底に突き落とします。
さくらちゃんに捕まったとき、まずその無造作なつまみ方に取り乱しました。脇腹を圧迫されて、たまらず体をよじって逃れようとしますが、そうすると指の方も、逃しはしまいと力を強めてきます。こんな扱い方を、あかねちゃんにされたことはただの一度もありませんでした。
抵抗の{最中|さなか}、ふと顔を下に向けたときも、アオイちゃんは肝を冷やしました。高さおよそ120センチから見下ろす景色——それは、アオイちゃんにとって初めて見る景色でありました。絶景だとか、壮観だとか……安全が保障された場所から見たならそんな感想もあったんでしょうが、この状況では、アオイちゃんの頭の中には、全く別の一つの可能性しか浮かんできませんでした。それは、落ちたら一巻の終わりであるということ。そして、さくらちゃんが気まぐれで、あるいはうっかり指を離してしまったら、それだけで簡単に最悪の可能性は実現してしまう——そこまで理解が行ったとき、アオイちゃんの暴れ方は一層激しくなりました。もっともそこに、これまでのような「抵抗」という目的はありませんでした。抵抗は二重の意味で意味を失っていたのです。ですから、この時のアオイちゃんの状態を指して言うなら、半狂乱だとか、パニックといった方が相応しかったでしょう。
そして、アオイちゃんを最も戦慄させたのは、これほどまでに度を失ったアオイちゃんを前にして、全く何事もないような気色でいる、正面に聳えるさくらちゃんの顔でした。声が届いていないはずはないのです。だって、我知らずあかねちゃんの名前を叫んだとき、ほんの一瞬だけ驚くような表情に変わったのを、アオイちゃんはこの目で見たのですから。
やがて、アオイちゃんは悟りました。
この人は、あかねちゃんとは違うんだ、と。
あかねちゃんに出会ってからというもの、アオイちゃんは少しずつ、人間に対する認識を改めていきました。自分が…いや、小人たちの間で言われていたほど、人間は恐ろしい生き物ではないのかもしれない…と。


「もらっちゃえ」


けれど、そんな幻想は、残酷な現実によって、粉々に打ち砕かれてしまいました。皆が皆、あかねちゃんのように小人に優しく接してくれる人間ではないのだということを、アオイちゃんは思い知らされました。
いつの間にか、アオイちゃんは足場もわからないほど真っ暗で、窮屈な場所に落とされていました。さくらちゃんのホットパンツのポケットの中に入れられてしまったのですが、ここがどこであるかなんて、もはやアオイちゃんにとってはどうでもいいことでした。然るときが来るまで、ここから出してもらえないということは明らかだったからです。


「出してっ!!お願い!!出して下さい!!」


見えない壁を、アオイちゃんは力任せにたたき始めました。そんなことをしたって壁はびくともしないし、出してもらえることがないのだって頭ではわかっています。けれど、しないではいられませんでした。


「うるさいなー…」


暴れるアオイちゃんを、さくらちゃんはポケットの上から、潰してしまわない程度に片手で押さえつけました。


「———、———!!」


何が起きたのか、外の景色を見ることのできないアオイちゃんには分かりませんでした。外からかかってきた圧倒的な力によって、たった一瞬で、いやおうなしに、アオイちゃんの全身の動きも、声も、封じられてしまったのです。
痛い、辛い、怖い、重い、暑い、狭い、汗臭い、息苦しい……さくらちゃんが片手を添えただけで、ポケットの中はたちまち過酷な環境に変わり、アオイちゃんの体力も精神力も、容赦なく蝕んでいきました。
そんな時でした。壁の向こうで、がちゃ、と誰かが扉を開く音を、アオイちゃんは確かに聞いたのです。


「おまたせ~」


その声を、アオイちゃんが聞き間違えるはずがありませんでした。


(あかねちゃんだ……!)


暗闇の中に、一筋の光明が射したような心持ちがしました。さらに、あかねちゃんの登場に合わせて、ポケットを押さえる手の力が緩まり、アオイちゃんは口と、わずかながら手足を動かせるようになりました。天の神様はまだ、アオイちゃんを見放してはいなかったようです。


「ちぇっ、もうちょっとトイレでゆっくりしててもよかったんだけどな。これじゃガサ入れもできやしない…」
「何言ってるの、そんなの許しません」


アオイちゃんはこの時、壁を隔てたすぐ向こうであかねちゃんの声がしていることに気が付きました。気づいてもらうには今しかないと思い、のどを潰す勢いで叫びます。


「あかねちゃん!ここだよ!助けて!!」


その後しばらく、アオイちゃんは反応を待っていました。


「どうする?この後もゆっくりしていくでしょ?」

「もちろん。あ、そうそうあかね、修学旅行の班決めた?」
「ううん、まだだけど…」
「だったら一緒に行こーぜ!」
「いいけど、今から班決めなんて気が早くない?修学旅行なんて4ヶ月以上も先なのに」
「かーっ、甘いねーあかねは!こういうのは早め早めに動いておくのが大事なの。あかねはともかく、私なんて引く手数多だから、ボヤボヤしてたら一緒に行けなくなっちゃうでしょ」
「む……でも、確かに一理あるかも」


ここまで外の声を聞いていて、アオイちゃんの中にある一つの懸念が生じ、狼狽えました。


(聞こえて、ない…?)


しかしアオイちゃんの本能は、その懸念を理解に変えることを拒みました。だって、あかねちゃんの声はこんなにはっきりとアオイちゃんに聞こえているのに、アオイちゃんの叫び声があかねちゃんにはちょっとも聞こえていないなんて、そんなことがありましょうか。


「あかねちゃん!!気づいて!!お願い!!あかねちゃん!!あかねちゃん!!」


アオイちゃんは焦燥感に駆られて、見えない壁を激しくたたきながら、再びすぐ向こうにいるはずのあかねちゃんに呼びかけました。


「でさ、私に秘策があるのよ」
「なに?秘策って」
「去年クラブの先輩から聞いたんだけど、班は男女2:2以上じゃなきゃダメらしい」
「へー」
「へー、じゃないでしょ。ここまで言って私の狙いが分からないの?」
「や、ごめんだけどさっぱり…」
「だーかーらぁ、私たちの班に、あかねの愛しのダーリンを入れてやろうってわけ」


——けれど残念なことに、アオイちゃんの必死の呼び声は、ポケットを押さえるさくらちゃんの手という分厚い壁を、ついに一度も通り抜けることができませんでした。
しかも、アオイちゃんに対するむごい仕打ちは、それだけでは終わらなかったのです。


「あかむぐっ…、———!————!!」


先ほどから懲りずにポケットの中で暴れだした小人を鬱陶しく感じていたさくらちゃんは、あかねちゃんの注意が手から確実に逸れるであろうこのタイミングに、さりげなくポケットを押さえる力を強めました。


 ええっ。ま、まさか黒田くんを?
 ご名答。ま、あかねが嫌って言うんならいいんだけど。
 い、嫌じゃないけど。でも、む、ムリっ、ドキドキしすぎて死んじゃう!黒田くんと一日中一緒の班で行動して、しかも同じ部屋で一夜を過ごすなんて…!
 あのね、付き合い始めたらいつかは通る道なんだから、本気で結ばれたいって考えてるなら、そんなところで尻込みしてるようじゃだめだっつの。それに、何かあったら私がボコボコにするし、心配いらないって。


声をあげようと努めるどころではありませんでした。叫びつくしたところに強烈な圧迫を受けたアオイちゃんは、深刻な酸素不足に陥り、意識が少しずつ薄れていくのを感じていました。それでもアオイちゃんは諦めず…もとい、諦めることができず、心の中で何度も何度も、あかねちゃんに呼びかけます。


(助けて!助けて!あかねちゃん!)


あかねがしっかりやれるように、私も全力でサポートするからさ。ねっ、どうよ?


なんだか、外の声が最前よりも随分遠くに聞こえるような気がしました。それは、最前よりも強い力で体を押さえつけられているからなのでしょうか。あるいはそれだけ、アオイちゃんの意識が遠くなっていっているということなのでしょうか……。誰にも気づかれないまま、孤独に海の底に沈んでいくような感覚でした。

(あかねちゃん……!あかね…ちゃん……)


そ、そんなに言うなら。えへへへ……


(そんな……)



最後に聞こえたのは、なんだかだらしなく緩んだ表情が目に浮かんでくるような、けれどそれだけに、今のアオイちゃんにはずうっと遠くに感じられてしまうような、あかねちゃんの声でした。






「おじゃましましたー!…じゃ、また明日ね。久々に遊べて楽しかったよ。あとメロンごちそうさま」
「うん。あ…よかったら今度そっちにもお邪魔させてよ」
「今度といわず、明日…や、今から来てもいいけどね」
「あはは、それは遠慮しとく。…それじゃ、気をつけて帰ってね」


玄関でさくらちゃんを見送った後、あかねちゃんは急いで自分の部屋に戻っていきました。
そして、真っ先に引き出しを開けて、中に向けて声をかけました。


「アオイちゃん、もう出ても大丈夫だよ!」


しかし、返事は帰ってきませんでした。


「アオイちゃん?」


奥の方で寝ているのかと思って、そーっと引き出しを全開にしていきました。
けれども、隅々まで探したところで、ついにその姿を見つけることはできませんでした。







友達と遊んできたときの帰り道が、さくらちゃんは好きではありませんでした。ほとんどの場合隣を歩く人が誰もいないこと、哀愁の代名詞みたいな夕空、友達と過ごす楽しい時間に対する名残惜しさ……いろいろな要素が重なって、アンニュイな気分にさせられるからです。後に残された宿題のことなんて、考えたくもありません。

そういった気分がさせたことなのか、道の途中でさくらちゃんは我知らず、ポケットに手を突っ込んでいました。


(あ…)


そのとき、中指の角が、くにゅ、と何かにぶつかったのを感じました。


(……やば、完全に忘れてた)


一瞬、さくらちゃんは歩みを止めて狼狽えましたが、それ以上に感想が発展することもなく、家もすぐそこに見えていたので、何事もなかったかのように再び歩き出そうとします。

その時でした。


「待って、さくらちゃん!!」


さくらちゃんが振り返ると、すぐそこに息を切らして膝を押さえる、あかねちゃんの姿がありました。


「…っ、さくらちゃん!私の大事なものを勝手に盗んだりしてない!?」

「えっ?い、いやあ、何のことやら……」


糾問に対する返事ではなく反応を見て、あかねちゃんはさくらちゃんに詰め寄っていき、そのまま右のポケットの中を手でまさぐります。観念したのか、さくらちゃんもその間は何の抵抗も見せませんでした。

少しと経たずに、ポケットからあかねちゃんの左手が引き抜かれました。

その手のひらの上にあかねちゃんが見たのは、ぐったりとして動かなくなってしまったアオイちゃんの姿。


クラスでは、デリカシーのない男子たちからちんちくりんとからかわれてしまうあかねちゃん。でも、手のひらを見つめたまま静止していたこの時のあかねちゃんは、さくらちゃんにはなんだかいつもよりずっと小さく、脆く見えました。


かける言葉が見つかりません。だって、ほんの悪戯のつもりだったのです。昔からの大親友であるあかねちゃんが、こんなことも自分に話してくれなかったということにムカついて、その腹いせにちょっと困らせてやりたくなって。

でも、さくらちゃんは決して、こんなあかねちゃんが見たかったわけじゃありませんでした。


「あ、あちゃー、ばれちったか…いやーごめんごめ」



バチン、と何かが強くはじけたような音を、さくらちゃんは一番近くで聞きました。

しばらく視界は黄色だか白色だか判然としないような色に包まれ、ようやく元のように見えるようになったころ、あかねちゃんはさくらちゃんに背を向けて、幾分か離れたところを走っていました。

その背中を呆然と目で追いながら、じんじんと燃えるように痛みだした左の頬を、ただ何の意味もなく押さえているしかありませんでした。あかねちゃんが消えて行く西の空は、いつの間にか群青色に染まりきっていました。






「アオイちゃん!目を覚ましてっ……アオイちゃんっ……!!」


走りながら、近所の人たちに聞かれてしまうのも、目から涙が流れ落ちるのにも構わず、あかねちゃんは手のひらに横たわったままのアオイちゃんに、必死に呼びかけ続けました。
その甲斐あってのことでしょうか。家の門が見えてきた頃、ぴく、ぴく、とアオイちゃんの眉が動いたのです。
やがて、その数秒後、アオイちゃんの瞼がゆっくりと開かれました。
仰向けのまま、視線は頭上の涙に濡れた顔に向け、その顔がずっと自分が求めていたものであると認めると、アオイちゃんは静かに微笑みました。


「……よか、った……あかねちゃんだ………」


そう言うと、アオイちゃんは満足したようにゆっくりと瞼を閉じました。


「……っ!」


あかねちゃんの顔は、いよいよ涙でぐちゃぐちゃになっていきました。
生きててよかったという心の底からの安堵…傷ついた友達を見ることの辛さ…守ることができなかった自分への不甲斐なさ…こんな目にあっても、まだアオイちゃんが自分に笑顔を向けてくれているという、心の痛みを伴う嬉しさ……様々な感情が混ざり合って、文字通りぐちゃぐちゃな涙でした。


涙が人を強くする、という言葉があります。あかねちゃんの人生の中で一番といっても過言ではないこの日の涙は、実際にあかねちゃんを強くしてくれたかどうか……それは分かりません。
けれどこの時あかねちゃんは、もう二度とアオイちゃんをこんな目には合わせない、何があったって、私がアオイちゃんを守るんだと、固く、強く、胸に誓ったのでした。