5話 旧友と共有(後編)

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時刻は午後の6時半。ぽつりぽつりと、住宅街に散見される窓に明かりが灯り始める頃。
あかねちゃんは鉛筆も消しゴムも持たずに、部屋の机に向かっていました。
机の上にぽつんと置かれた、一パックのポケットティッシュ。その上には、つい先ほど目覚めたばかりでまだちょっと眠そうにしている、小人のアオイちゃんの姿。


「少しは、良くなった…?」
「うん、話すだけだったらもう全然問題ないよ」


じっさい、そう話すアオイちゃんの顔には眠気こそ見られど、苦痛の色はもうほとんど残っていませんでした。それが分かるとあかねちゃんの表情も、ようやく、ほわり、と柔らかくなりました。ひょっとすると、アオイちゃんは見かけによらずタフな小人さんなのかもしれません。


「よかった…。それで、体の方はどう?」
「大丈夫、動くのだってもうだいぶ……」


そう言ってアオイちゃんは立ち上がろうとしましたが、なんだか様子が変です。


「あ、あれ…?」


ふらふら、よたよた。アオイちゃんはティッシュの上で、見ていて不安になるような舞を披露した後、ついに腰から倒れてしまいました。


「あはは…なんかまだ力が入らないや」


アオイちゃんはしばらく決まりが悪そうに笑っていましたが、ふいにその顔が、全く別の方向に向けられました。
その視線は、窓の外に向けられているようでした。すっかり暗くなってしまった外の景色を見つめるその横顔に不安が宿っているのを、あかねちゃんは認めました。
考えてみると、いつもであれば、アオイちゃんがお家に帰っていてもおかしくない時間です。けれどあんな調子で、果たしてアオイちゃんが一人でお家に帰れるのか……いや、帰れない、でしょう。


「アオイちゃん。今日は、私の部屋に泊まっていくといいよ」
「え…?」


振り返ったアオイちゃんは、きょとんとした様子でした。


「い、いいの…?」
「いいも何も、こんな状態のアオイちゃんを一人で帰せないよ」


そう言っても、すぐに快い返事が返ってきたわけではありませんでした。
もちろん、人間のお家に泊めてもらった経験などアオイちゃんにはないでしょうから、あかねちゃんの前では言葉にすることはなくとも、きっと色々不安に感じていることはあるのでしょう。
そしてあかねちゃんの方も、思うところがないわけではありませんでした。逡巡するアオイちゃんを見ていると、やっぱり困らせてしまっただろうか、ありがた迷惑だっただろうか、という思いが募ってきます。でも反対に、今はそうするのが最善だ、という考えも確かに持っていました。
数秒の沈黙を経て、ようやくアオイちゃんは答えを出したようです。


「じゃあ…えっと、ふつつかものですが、よろしくお願いします」

「う、うん」(どこでそんな言葉覚えたんだろう…)


こうして、二人でのはじめてのお泊りが決まったのでした。



「お母さん。今日はご飯部屋で食べるね」

そう言ってきたあかねちゃんに、お母さんはただ「あ、そう」とだけ返事をして、ご飯をお盆に乗せて渡してくれました。


日の沈みかけていた5時ごろのこと。いってきますも言わずに家を飛び出したあかねちゃんが、5分と経たないうちに戻ってきたかと思うと、その顔からは涙がぼろぼろと落ちていました。さばさばとしていて大雑把な性質で、どちらかと言えば放任主義のお母さんですが、一人娘のそんな姿を見たとき、流石に何があったのかと狼狽えました。


「…さくらちゃんと喧嘩した」


問いかけるお母さんの顔も見ずに小さくそう言って、あかねちゃんは自分の部屋に帰って行きました。……

そんなことがあったから、お母さんの方も、このあかねちゃんの急な提案をはねのけることが出来なかったのです。


「まあ今日はどれだけへこんでもいいけど、明日以降もそんな調子じゃ困るんだからね?」


居間を出るとき、あかねちゃんは背中にそんな声を受けました。騙している身のあかねちゃんからすると、深刻な顔つきで心配されるよりもずっと気が楽で、ありがたいと思いました。

ただ、居間を離れても、申し訳ないことをしてしまったな、という気持ちはやっぱり尽きませんでした。お盆の真ん中で空元気に湯気を漂わせているのは、あかねちゃんの大好きな煮込みハンバーグでした。






「はい、どうぞ」


ハンバーグをお箸の先で小さくちぎって、ふーふーして冷ましてから、ティッシュの上でちょこんと座るアオイちゃんの前に差し出しました。アオイちゃんはそれを両手で受け取って、ちょうど大きめのハンバーガーを食べるような格好で、もそもそと小さな口で食はみ始めました。


「おいしい?」
「うん」


よっぽどお腹が空いていたのでしょうか。一口は小さくてもそのスピードには目を見張るものがあり、夢中でお肉の粒を食べ進めては、次々に「おかわり」を要求してきます。


「もう……ちゃんと噛んで食べなきゃだめだよ?」


こう言いつつ、あかねちゃんもついついその「おかわり」に応じてしまいます。そして、もともとあまり食欲のなかったあかねちゃんですが、アオイちゃんの食べっぷりがあまりにもいいものだから、いつからか一緒になって食べるようになっていました。
もしかして、あかねちゃんを元気づけるために、アオイちゃんは食べることに精を出していたのでしょうか。


「お、おかわりっ」
「はいはい」


七回目の「おかわり」を差し出しながら、たぶん違うんだろうな、と苦笑いしました。



食後、二人は向かい合っておしゃべりをしていました。あんな事件の後であるせいか、こうして二人だけでゆっくり落ち着いておしゃべりをするのは、久しぶりのことであるような気がしました。

その時間は二人にとって、確かに楽しいひとときでした。

けれどその間、あかねちゃんがどこか心ここにあらずという感じであったことを、見抜くことのできないアオイちゃんではありませんでした。



しゃべり始めてから、小一時間ほど経ったという頃。


「アオイちゃん…?おーい、アオイちゃん」

「………………はっ」


うとうととまどろみかけていたアオイちゃんは、少し遅れてあかねちゃんの呼びかけに反応しました。えへへ、ごめん……とはにかんでいましたが、そのすぐ後で、アオイちゃんは口からあくびを漏らしていました。あれだけ食べた後で、前の疲れもあるでしょうから、眠くなるのも無理はありません。


「今日は少し、早く寝た方がいいかもね」

「でも、もうちょっとあかねちゃんと話していたいのに…」

「私も。元気になって、明日からたくさんおしゃべりすればいいよ」

「それもそっか」


ポケットティッシュをポンと机の上に置いてはいベッド完成!…というのも少し味気ないような気がしたので、一つアオイちゃん専用の簡易的なベッドをこしらえることにしました。

何が入っていたのかは思い出せませんが、デザインが可愛いからと保存していた、手で掴めるくらいのサイズの正方形の小箱。その中に、十字に折り畳んだハンカチを敷いて、タオルケット代わりにティッシュを一枚入れれば、アオイちゃんが寝るベッドの出来上がりです。


「こんなのしか用意できなくて悪いんだけど」

「全然!むしろこんなに大きくて立派なベッド、私にはもったいないくらいだよ」

「そ、そう…?」


確かに、アオイちゃんの大きさを基準に考えてみると、箱の中はベッドというより、一つの部屋くらいの広さはあるかもしれません。けれど別段大きすぎて困っているような気色も見えないので、さしあたり問題はなさそうです。


「ふかふかで気持ちいい~…お布団で寝るのなんていつぶりだろ…」


ハンカチの布団の上でコロコロと寝転がる姿の、どこか間の抜けた愛くるしさは、日向ぼっこの子猫さんを思わせます。いつまでも眺めていられそうなくらいなのですが、そういうわけにもいかないので、あかねちゃんは最後も仕上げに取り掛かりました。

ベッドの大きさに合わせて、自由帳のページを少し切り取り、それを箱の口に蓋をするようにかぶせ、箱と紙の接辺一か所をセロハンテープでつなぎ合わせます。こうすることで、アオイちゃんの姿が外からは見られなくなり、さらに何かあった時に、アオイちゃんが自力で蓋を開けて出られるようにしたのです。それだけでなく、白い紙を蓋に用いることで、外の光が程よく遮断され、中にいるアオイちゃんがより快適に眠ることができるようになる、とあかねちゃんは考えたのでした。


「出られそう?」


その質問にアオイちゃんは、箱と蓋の隙間からひょっこりと顔だけを出して答えました。


「うん、大丈夫そうだね」


あかねちゃんが頭の先を撫でると、アオイちゃんはすぐにむずがゆそうに顔を引っ込めてしまいました。


「それじゃあ、私は今からお風呂に入ってくるからね」


ベッドに向けてそう声をかけると、再びアオイちゃんが、今度はちょっぴり口をとがらせて、最前よりも控えめに顔を出してきました。


「あ、また出てきた。もっかいなでなでしてあげようか?」

「もー、からかわないで…」


最近はこんな風に、あかねちゃんがアオイちゃんをいじるということが増えてきました。元来あかねちゃんは人をからかうことのできないたちであり、むしろ毎日のようにさくらちゃんのおもちゃにされてきた身なのですが、そんな彼女にさえからからかってみたいという気を起こさせてしまう何かが、アオイちゃんにはあるのです。


「もうすぐに寝るの?」


ん、とアオイちゃんは短く頷きました。


「じゃ、おやすみを言いに来てくれたんだ?」

「あ、うん、そうなんだけど…」


何か言いたそうで、でも躊躇っている。そこで俯いたアオイちゃんが、あかねちゃんにはそんな風に見えました。


「あの…私、あかねちゃんのせいだなんて、本当に全然思ってないからね」


ここですぐさまあかねちゃんが「急にどうしたの?」とでも聞き返してきたのなら、アオイちゃんはきっと、自分の思い違いだったと安心できたでしょう。


「…うん、ありがとう。おやすみなさい」


少し、間を置いたあと、あかねちゃんはにこっと微笑んでそう言いました。でも、その笑顔に翳りが残っていたのが、アオイちゃんにはやっぱりどうしても気になってしまうのでした。






湯船につかりながら考えるのは、夕べ、頬を思いっきりはたいてしまった親友のこと。
がさつで、自分勝手で、距離感なんて全く考えてくれなくて……でも、今も昔も、あかねちゃんが一番気兼ねなく付き合うことのできる、さくらちゃんのこと。


(明日から、どんな顔して会えばいいんだろ…)


あれだけ食欲があって、楽しそうに会話もできるのであれば、アオイちゃんにはもう心配はいらないでしょう。一晩寝れば、きっと明日の朝には体の方もすっかり良くなっているに違いありません。けれど、それが分かったとたん、今度はさくらちゃんの顔が頭の中に浮かんできたのです。
あの時、あかねちゃんは考えるよりも先に、さくらちゃんの頬をひっぱたいていました。そして今になって省みても、そうしたことに後悔はありません。……でも、後悔はあるのです。矛盾のように聞こえますが、今のあかねちゃんの心境についてはこれより他に説明の仕方がないように思えます。


(…きっと、あんなことされて、私のこと嫌いになったよね)


俯くと、水面にあかねちゃんの浮かない顔が映し出されていました。もうしばらく、自分はこんな顔でいたのだろうか、とあかねちゃんは考えました。だとすれば、アオイちゃんが心配するのも無理のないことでしょう。やがてその顔を見せられているのが嫌になって、あかねちゃんは湯船の外に視線を外しました。水が滴るタイルの上に置かれた洗面器が、石鹸で濁った水で満たされていました。あかねちゃんはなんだかそれも見ていられないような気がしたので、結局視線は天井に落ち着きました。
もし、さくらちゃんが腹いせに、昨日のことを誰かに話してしまったら。
それを考えるのは、とても恐ろしいことでした。
アオイちゃんの噂が学校中に広まり、やがて、学校の外の大人たちにまで知れ渡り、大勢の人がアオイちゃんを一目見たいと訪ねてくるようになったり、あるいは、アオイちゃんを我がものにしようと狙う人まで現れたり……もし、そんなことになってしまったら……。お風呂に使っているのに身が震えたことなんて、今までありませんでした。
でも、あかねちゃんの心がいつまでも晴れないでいる一番の理由は、そこではなくて。


(もう、さくらちゃんとは一緒にいられなくなっちゃうのかな……)


ぜっこう。あかねちゃんが心の中で呟いたその言葉は、泣き出してしまいそうになるほど残酷な響きを持っていました。
いい子なんかじゃない。宿題は人に手伝わさせるし、約束は遅刻するし、プライバシーは侵害するし、借りたものは返さないし、何かあるとすぐからかってくるし……愚痴を並べればきりがありません。
でも昔から、困ったときにはいつも味方になってくれる。言いたくても言い出せないようなことを、自分の代わりになって言ってくれる。なにより、いつだって自分の隣で元気に笑っていてくれる……本当はそんなさくらちゃんが、あかねちゃんは大好きなのです。


(…ぜんぶ、明日になれば分かることだよね)


なまじっかぬるま湯につかり、浴槽に背を預けているせいで、あかねちゃんはそんな投げやりな結論に至りました。それはもちろん、自分にはどうすることもできないという、けっして前向きとは言い難い種類の、あきらめに近い投げやりでしたが。






「あかねっ!昨日はホンッットごめん!!」


翌朝、いつもの待ち合わせ場所を通ると、すでにそこで待っていた(こんなことは初めてです)さくらちゃんが、開口一番そう言ってきました。
さくらちゃんの方から謝ってきて、自分が許してきれいさっぱり仲直り。それはあかねちゃんのもっとも望んでいた形でもあったはずですが、あまりにもあっさり実現してしまい、あかねちゃんはなんだか拍子抜けしてしまいました。
そしてそれは少しと持たないうちに、沸騰直前のお湯のような、ふつふつとした苛立ちの感情に変化していきます。


(謝れば、簡単に許してもらえると思ったの?)


確かにあかねちゃんの中には、さくらちゃんと仲直りがしたいという思いもあります。けれど同時に、昨日のさくらちゃんの行為は、そう簡単に許していいようなものではない、とも感じているのです。
そこへきてさくらちゃんのこの、勢いばかりよくて、まるで誠意のかけらもこもっていないような謝罪。
いや、あかねちゃんが苛立ちを覚えたのはそこだけではないのです。


(あんなに悩んでいたのは、私だけだったの?)


一度は投げやりな気持ちになろうとしてみたものの、やはりあかねちゃんの{暗澹|あんたん}とした悩みが消えることもなく、夜もなかなか寝付けずにいました。今朝だって、さくらちゃんと会うのが怖くて、玄関のドアノブを何度も握っては放し、握っては放し、といったようなことをしていたほどです。
それなのに、さくらちゃんはあかねちゃんの顔を見たとたん、何をためらう様子もなく駆け寄ってきて…。


「……知らない」


結局、あかねちゃんはそっけなくそう言って、ひとりでさっさと歩いて行ってしまいました。


(ああ、これで今度こそ本当に絶交だな)


後ろを振り返ることはできませんでした。
周りに歩く人が誰もいなかったことが、あかねちゃんにとっては救いだったかもしれません。このときのあかねちゃんの様子を知ることができたのは、ふと曲がり角に立つカーブミラーに目を向けた、あかねちゃん自身だけなのでした。





ところが、朝礼前。


「あかねごめん!このとーりだ…!」
「…」
「おい百木、さっさと席につけ」



それから、一時間目の休み時間。


「マジごめん!お詫びになんでもいうこと聞くから!」

「……」



またまた、三時間目、音楽室への移動時間。


「待って、聞いてよあかね!ほんとに悪かったって思ってるから!」

「………」



今度は、お昼休み、図書室にて。


「ごめん!ごめんよあかね!」

「…………」

「図書室では静かに!!」




そして、帰り道。

「あかねぇ……ごめんて……」

「……………はあ…」




あかねちゃんは立ち止まって、とうとう口を開きました。


「…昨日見たことは、絶対誰にも言わないって約束して。それなら返事してあげるから」

「い、言わない!言ってないし言わない!絶対に言わないから…!」


それを聞いて、あかねちゃんはやっと後ろに振り向きました。

今日初めて、ちゃんとさくらちゃんの顔を見た気がします。

少し涙ぐんだ両の目。ほっぺには大きく押された薄赤い手形。


「…ふ、ふふっ」


そんな間の抜けて気の弱そうなさくらちゃんは見たことがなくて、それがおかしくって、あかねちゃんはなんだかもう全てがどうでもよくなってしまいました。


「しょうがないなあ…さくらちゃんは」


さくらちゃんはそこに、最前までの仏頂面が嘘のように自然で柔らかな、少しあきれたようなあかねちゃんの笑顔を見ました。


「ゆ、許してくれるの……?」

「許す許さないっていうか、なんかもう怒る気失せちゃった」

「あっ…あかね〜〜〜〜っ!」


ぎゅーっと抱きつかれ、ほとんど一方的な頬ずりを受けながら、あかねちゃんは思いました。

そうだった、さくらちゃんってこういう子だったな。

それは何か、心地が良いくらいの納得でした。考えてみればみるほど、どこまでもさくらちゃんらしい仲直りの仕方であるような気がして、笑ってしまうほどです。

きっと、さくらちゃんもあかねちゃんと同じように、昨晩はずっと喧嘩別れしてしまったことが頭から離れなかったのでしょう。いや、あかねちゃん以上に、かもしれません。何しろ、あのとがったところがないような性質のあかねちゃんに、頬を思いっきりぶたれたことなんて、何年も一緒にいて一度もなかったのですから。

でもそんなとき、悩みを内側に抱え込んで苦しみ続けてしまうのがあかねちゃんなら、考え込むのをスッパリやめて行動に移してしまえるのがさくらちゃんなのです。

そうして出てきたのがあの不器用で、無鉄砲で、しつこくて、しおらしさを毫も感じさせないような謝り方。平謝りという表現ですら控えめであるような気がします。言うなれば謝罪のごり押しです。

もし、何か悪いことをしてしまった子供が、先生にあんな謝り方をしたら、「本当に悪いと思っているの?」という反応をされ、火に油を注ぐことになってしまうでしょう。事実、あかねちゃんだって最初はそれに似た感想を抱きました。

でも、何度も繰り返されるうちに、あかねちゃんの見方は変わっていきました。心の底から反省してるように「見える」謝罪よりも、よほどまっすぐで、ごまかしの無い謝罪であるように思えてきたのです。

そして、何より。

自分よりもずっと友達の多いさくらちゃんが、それだけ自分との仲を大事に思ってくれていたことが、あかねちゃんはとても嬉しかったのです。






「ねえ、できたら昨日酷いことしちゃったあの子にも謝らせて!」
「えっ…?」


一件落着して、いつものように帰り道を歩いていた途中、さくらちゃんがそんなことを言い出したので、あかねちゃんは思わず会話の流れを止めてしまいました。


「このままじゃ私の気が済まないの」
「うーん…」


正直なところ、あかねちゃんは気が進みませんでした。昨日の今日で、さくらちゃんと対面することになったら、アオイちゃんがどうなってしまうか分かったものではありません。 ようやく心身の状態が落ち着いてきたというのに…。でも、さくらちゃんの目を見ても他意は感じないので、そんなの無理に決まってると突き放すこともできないでいました。


「…まあ、謝るだけならいっか」


自分が横で見ていれば、少なくとも昨日くらい酷いことになる恐れはないと思って、あかねちゃんはしぶしぶながらさくらちゃんの頼みを聞いてあげることにしました。






部屋に入ってすぐ、机の上に置いたままにしておいたアオイちゃんの寝床に目をやり、そこに誰にもいじられた様子がないのを確認して、あかねちゃんはまず一つ安堵しました。
そんなあかねちゃんを見て、さくらちゃんもその中にアオイちゃんがいることを察したのか、ここ?とでも聞きたげに箱の方を指差しています。あかねちゃんは黙って頷き、小箱のベッドにそっと顔を寄せました。


「アオイちゃん…開けるよ」


そう小さく声をかけると、すぐに中でアオイちゃんが起き上がったような気配がしました。


「おかえりなさい。開けていいよ」


アオイちゃんの声ももうすっかり聞き慣れているので、表情を見ずともその声が「嬉しそうな時の声」であることが分かりました。何もない箱の中でじっとしているのが退屈だったということももちろんあるのでしょうが、アオイちゃんがそれほど自分の帰りを心待ちにしていたのだと考えると、あかねちゃんも嬉しくなります。一方で、そんな反応をされると、さくらちゃんも一緒にいることを言い出しづらくなってしまったような気もして、少し躊躇しながら天蓋代わりの白い紙を取りました。
すると、あかねちゃんの見立て通り、中ではアオイちゃんが表情を華やがせて待っていました。


「ただいま。調子はどう?」
「もうすっかり元気!ほら、この通りだよ」


そう言って、その場でぴょこぴょこ跳ねだすアオイちゃんを見て、あかねちゃんはくすっと笑ってしまいました。このくらい元気なら、ひょっとするとさくらちゃんを前にしたって平気かもしれません。


「あ、あのね、アオイちゃん。実は今日——」
「へぇー、この子アオイちゃんっていうんだ。こんにちは!」



あかねちゃんはその時、誇張表現でもなんでもなく本当に人が「凍りついたように動かなくなる」ことがあるのを知りました。あかねちゃんの言葉を遮って、突如このベッドの中を覗き込んできたもう一つのとても大きな女の子の顔。アオイちゃんがその顔を、覚えていないはずがありません。


「えっと、昨日はあんな酷いことしちゃってごめんね…」


アオイちゃんはうんともすんとも言わず、ただひたすら体を震わせていました。口を開くことができないのか、さくらちゃんが何を言っているかすら頭に入ってきていないのか……あるいは、その両方なのかもしれません。
あかねちゃんはその時、とても強く、胸が締めつけられるような思いがしたはずです。アオイちゃんのそんな姿は、彼女が昨日、あかねちゃんの知らないところで、どれほど怖い思いをしていたかを、そして今もなお、その傷は決して癒えてなどいなかったのだということを、これでもかというくらいに物語っていましたから。


「ねえ、アオイちゃん、怖がってるみたい…」
「そっか…よしよし、怖くないよ」


怯えるアオイちゃんを撫でてあげようと、さくらちゃんはゆっくり箱の中に向けて手を伸ばしました。決して悪気があって、そんな動作をしたわけではありません。ただ、今のアオイちゃんにそれがどのように見えているのか、彼女は分かっていなかったのです。
空からじりじりとアオイちゃんに迫ってくる、大きな大きなさくらちゃんの右手。アオイちゃんの頭の中に、ずっと消し去ろうと努めていた昨日の記憶が蘇ってきます。
どうしたって、あの手から逃れることなどできないという絶望。
ポケットの中で味わわされた、地獄のような苦しみ。
どれだけ必死に叫んでも、ついに一度もあかねちゃんに届かなかった声。


(なんで、どうして、また……いや、やめて……)


心の内でどれだけ拒んだって、あの手は止まってくれません。
また、捕まって、酷いことをされてしまうのでしょうか。再びあの手に触れられたら、今度こそアオイちゃんの心は、体は、頭は、壊れてしまいそうで————



「っ、触っちゃだめっ…!」


とっさにあかねちゃんは、アオイちゃんのすぐ近くまで伸びていたさくらちゃんの手を払いのけました。


「な、なんだよぅ…」
「今触ったら、多分アオイちゃんもっと怖がるから…」


となりでさくらちゃんがちょっぴり不満げな顔をしていましたが、一方で悪いことをしてしまったという自覚もあるからか、大人しくあかねちゃんの注意に従ってくれました。


「アオイちゃん、大丈夫だよ。私がついてるから…」


つい先ほど見た時よりももっと怯えてしまっているアオイちゃんのそばに、そっと手を差し伸べます。すると、アオイちゃんはまるで逃げ込むようにして、その手の上に乗ってくれました。そのまま、刺激を与えないように、あかねちゃんは静かに手を胸の高さまで持って行きました。


「いいなぁ、あかねにはそんなに懐いてて…まあ、自業自得なんだけど」


さくらちゃんの声が聞こえただけで、アオイちゃんは肩をビクッと震わせて、すぐさまあかねちゃんの人差し指にすがり付いてきました。そんな姿を見ると、アオイちゃんがさくらちゃんに心を開くというのは宇宙よりも遠い話であるような気がします。もともと、今日さくらちゃんをここに連れてきたのだって、あかねちゃん以外にもう一人、アオイちゃんを守ってくれる存在が増えてくれるかもしれないという期待があったからです。でもこんな状態では、守るどころではないでしょう。


「あかね、なにニヤニヤしてんの?」
「えっ?」



だから、不意にさくらちゃんにそんなことを言われて、あかねちゃんはドキンとしました。


「私、今笑ってた…?」

「そりゃもう、にんまーって」


慌ててもう片方の手で口元を隠しました。

どう考えたって変です。笑うのなんて。だってここは、がっかりするのが当然のはずなのに。

もしくは、未だに怯えているアオイちゃんに同情を寄せるというのでもおかしくはないですが、いずれにせよ、あかねちゃんが頬を緩めてしまうような要素は、どこにもないはずなのです。

だから、ひょっとするとまた、さくらちゃんのたちの悪い冗談なのかもしれません。けれどそれにしては、どういうわけか、自分が少しも笑っていなかったと言い切れるだけの自信が、あかねちゃんには無いのです。

はっとして、あかねちゃんは手の方に目をやりました。視線の先で、アオイちゃんはまだ人差し指にぴったり抱きついていて、あかねちゃんに見られていることに気づいている様子もありません。

そこであかねちゃんは小さく安堵の息をつきました。もし、自分が怯えている姿を見てニヤニヤしていたなんてアオイちゃんに知られたら、これまで築いてきた信頼関係が崩壊してしまう可能性だってあるでしょう。いや、実際もうすでに、その信頼を裏切ってしまったのかもしれません。それに等しい行為をしてしまった自分、そしてそんな行為が、アオイちゃんに知られなくてホッとしている自分が、あかねちゃんはとても嫌になりました……。






「本当に、本当にもう大丈夫…?」
「うん。多分あの人…えっと、さくらちゃん…?がそばに来ると苦しくなっちゃうだけで、こうやってあかねちゃんと二人で話している分には何も問題ないよ」


実際、そう語るアオイちゃんに強がっている様子などはありません。ただ今日のことで、アオイちゃんの中に、いわゆるトラウマという形で昨日の出来事が残ってしまっているということが分かりました。それが、あかねちゃんに対しての恐怖心に繋がらなかったのが、お互いにとって不幸中の幸いだったと言えるかもしれません。


「ごめんね…もうさくらちゃんをここに連れてきたりしないから」
「私のことなんて気にしないで!あかねちゃんの部屋なんだし、連れてきたい時に連れてくればいいんだよ?」


どこまでもアオイちゃんは健気で、胸の中心を銃弾で射抜かれたような心地がしました。
どうして、こんな子が自分の手の中で酷く怯えているのを見ながら、笑ってしまったんだろう。あかねちゃんは、いくら自分を責めても、責めきれないようでした。






「どうだった?」


部屋を出るとすぐ、廊下で待ってくれていたさくらちゃんが話しかけてきました。


「とりあえず大丈夫みたい…でも、当分はさくらちゃんとは会わせられないかな」
「そっか、残念……んじゃ、私はやることはやったし、この辺でオイトマするよ」
「あ、それなら私送っていくよ。…ちょっと聞きたいこともあるし」


さくらちゃんは少しの間あかねちゃんの顔を眺めてから、おう、と短く返事をしました。長い付き合いですから、二人っきりで話したいことがあるのだと、さくらちゃんにはなんとなく分かったのでしょう。






今日はさくらちゃんが帰ろうとするのが早かったため、夕空がまだ浅く、近所の公園で子供たちがはしゃぐ声なども漏れ聞こえてきます。
玄関を出てから数歩、二人の間に言葉はありませんでした。この二人に関して、こういう状態は珍しいといえます。なぜかといえば、あかねちゃんが黙っていても、大抵さくらちゃんが勝手に一人で喋りだすからです。
だから、こういう状況が生じるのは、きまってさくらちゃんが、あかねちゃんの言葉を待っているときなのです。


「今更だけど、昨日はあんな強く叩いちゃってごめんね」
「めちゃくちゃ痛かったけど、ヒャクパー私が悪いし、あかねが謝ることじゃない」
「で、でもやっぱり、暴力は良くないと思うし…」
「はー…」


さくらちゃんはそこで大げさにため息をついたかと思うと、あかねちゃんに近い方の手を、頬に向かって伸ばしてきました。
ぎゅむー。


「ひゃ、ひゃひふんほ」
「はい、じゃあこれでおあいこ」


あかねちゃんのほっぺをつまみながら、さくらちゃんはけらけら笑っています。そんなさくらちゃんを横目で見たあかねちゃんは、やっぱり許さなきゃ良かったかもしれない、とほんの少しの後悔を覚えました。
けれど、さくらちゃんの指は思いの外すぐにほっぺから離れて行きました。


「てか、こーいうときにすぐ本題に入ろうとしないの、あかねの悪いクセだぞ?」
「う…わ、分かったよ」


そう、さくらちゃんの指摘の通り、あかねちゃんが今本当にしたい、そしてするべきであるやりとりはこんなものではないのです。
さくらちゃんに話を聞いてもらおうと思ったのは、彼女ならきっと、自覚の行き届かない部分でもズバリ的確に言い表してくれるだろうという信頼があったから。けれど、自分の知らない、醜い部分を他人に掘り出されて、自分の目の前に突きつけられてしまう……それはあかねちゃんにとって、多大な覚悟を必要とすることでした。だから、いざ話そうとなると、逡巡が生じてしまったのです。


「ねえ、私ってなんであのとき、アオイちゃんを見て笑っちゃったのかな」


少しだけ間を置いて、あかねちゃんは口を開きました。


「なんか、自分では分かってないみたいな言い方だよね」
「うん…笑ってるなんて自覚なかったし、ちょっとショックだった」


それを聞くと、さくらちゃんは珍しく真剣に考えているような姿を見せてくれました。「百木」の表札には目もくれず、そのまま通り過ぎてしまったので、あかねちゃんもそれに習って歩き続けます。長くなりそうだからと、わざと通り過ぎてくれたのでしょうか。それともただ単に、自分の家の前まで来たことに気づかなかったというだけなのでしょうか。


「まあ、私にはあんなに怯えるアオイちゃんが、あかねには心を許してるってのが愉快だったとかじゃないの。よく考えるとムカつくけど」
「そうかな…そうなのかも」


そう言われて、自分の胸に聞いてみても、何も返事は返ってきません。でもなんだか、あかねちゃんにはそれが無言の肯定であるように思えてなりませんでした。


「うー、最低だ、私」


汚くて、ねじ曲がっていると感じました。アオイちゃんの恐怖を、アオイちゃんの信頼を利用して、気持ちよくなっている自分。想像すると悲しくすらなってきます。
アオイちゃんと友達になりたいと思ったのは、ただ、アオイちゃんと友達になりたかったからではなかったのでしょうか。弱い者に愛され、拠り所として見られる自分に酔ってみたかったからなのでしょうか。他の人間に対して覚える優越感の出汁(だし)を、アオイちゃんで取るためだったのでしょうか…。


「そんな悪いことかね」


一方で、さくらちゃんは横で首を傾げていました。


「そんなこと言ったら、私だってあかねに対してそういう気持ちになることあるよ。ほら、あかねって私以外友達いないでしょ?でも私はそれが誇らしかったりすることもあるわけよ。あかねの良さに気付いてるのは私だけ、あかねが心を開いてくれるのは私だけ…ってね」


なっはっはっは、という笑い声を聞いて、あかねちゃんはがっくりと肩を落とします。何のフォローにもなっていないし、さくらちゃんちょっとだけ真面目モードの充電が5分も持たずに切れてしまったことが分かったからです。


「…はー、もういい、さくらちゃんに真面目に聞こうと思った私がバカだった……てか、別に他にも友達いるしっ!」


そう言うとくるりと{
踵|きびす}を返して、通り過ぎたさくらちゃんの家の方に引き返し始めました。
もちろん、昨日のように本気で怒っているわけではありません。それが分かっているから、さくらちゃんも昨日のように立ち尽くすことなどなく、すぐに早歩きで進むあかねちゃんを追っかけたのでした。


「まあなんだ、あんまり考えすぎることないって。お互いが友達だと思っていれば、その二人は友達なんだよ。条件があるとしたらそれだけ。私はそーいうことがいいたかったの」


追いついて、横に並んださくらちゃんがそう言うと、あかねちゃんは歩を緩め、やがて不安げな顔を横に向けました。


「…そうなのかな?」
「そーだよ!私たちみたいにねっ」
「わっ」


すると、さくらちゃんがいきなり飛びついて、肩に手を回してきたので、あかねちゃんは思わず声をあげてしまいました。しかもそのまま密着して離れてくれません。


「もー…」


眉をハの字にして困った様子でいましたが、その顔は穏やかに笑っていました。
こんな風にスキンシップを受けたり、宿題を手伝わされたり、半ば強引に遊びに付き合わされたり……さくらちゃんに困らされてしまうのは日常茶飯事です。でも、今も昔も、それが二人の「友達」の形なのです。
そして、さくらちゃんがあかねちゃんを本気で怒らせるのは、きっとあれが最初で最後となることでしょう。いや、さくらちゃんのことですから、ひょっとするとこれからも何度かそういうことがあるのかもしれません。けれど、もしそうだとしても、2人が友達でいたいと思い続けている限り、きっといつまでも友達でいられることでしょう。
形がないけれど、形がたくさんあるもの。そして、模範解答もなければ優劣もなくて、「みんなちがって、みんないい」。それが、友情というものなのかもしれません。さくらちゃんにひっつかれながら、あかねちゃんはそれが少しだけ分かったような気がしました。






「ほんじゃ、また明日」
「うん、また明日……あ、さくらちゃん」


玄関の扉に手をかけていたさくらちゃんが、体勢はそのままに顔をあかねちゃんの方に向けたので、あかねちゃんはそのまま続けます。


「会わせることは難しいけど、時々でよかったら、アオイちゃんの話を色々聞かせてあげる。…というか、聞いてほしいな」


その言葉に、さくらちゃんはいつもの、気持ちのいい笑顔で答えました。


「期待してる」


おそらく、アオイちゃんを守ってあげられる人間は、依然としてあかねちゃん一人だけでしょう。けれど、アオイちゃんの存在を知り、アオイちゃんの話題を共有できるような人間……それができたということは、あかねちゃんにとってはとても大きなことです。さくらちゃんと別れ、一人でいても、今度は自分が嬉しくて笑っていることが、あかねちゃんには分かったのでした。



そう、この時はまだ、昨日、そして今日の出来事が、のちに起こることになる大事件の鍵を握ることになるなどとは、誰も知らなかったのです…。