6話 友達と虫かご

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お母さんにお使いを頼まれたあかねちゃんは、ふくれたエコバッグを片手に帰り道を歩いている途中、夕焼けをバッグに、手を振りながら自分の方に向かってくるシルエットを見つけました。
麦わら帽子を被り、手には背丈ほどの捕虫網、そして肩には紐付きの虫かごという、少年の夏休みという題で一枚の絵でも描けそうな格好をしたその女の子は、あかねちゃんの親友のさくらちゃんです。


「オッス。おつかい?」
「うん。さくらちゃんの方は分かりやすいね」
「あかねも行きたかった?」
「私はクーラーの効いた部屋にこもってるのが性に合ってるよ…」


あかねちゃん達の通う小学校は、一昨日から夏休みに入りました。二人にとっては、小学校生活最後の夏休みということになるので、それぞれちょっとした意気込みを持ってスタートを切っていました(具体的に言うなら、あかねちゃんの方はちょっと背伸びした本を夏休み中に五冊以上読むこと、さくらちゃんは毎日朝から日が暮れるまで遊ぶことです)。


「成果はこの子だけ?」


さくらちゃんの肩から下がる虫かごの中に入った、小さめのくわがたを指して言いました。この辺で取れるものとしてはもっともポピュラーなノコギリクワガタで、あかねちゃんでも知っています。


「他のは全部ガキンチョどもにもってかれた…」
「あ、そうなんだ…」


さくらちゃんがガキンチョどもというのは、彼女のことを慕っている近所の年下の子供たちのことで、今日はその子たちと一緒に虫捕りに出かけていたようです。
さて、ノコギリクワガタとしてもとても小さなこのくわがたですが、非常に元気は良いようで、ツルツルとした虫かごの壁を登ろうと、体を起こして懸命に前足を壁に擦り付けています。
それでも、まるでルームランナーの上を走っているときのように、くわがたは一歩も上の方に進むことができずにいました。


「かわいいね。ふふ、えいっ」


顔を近づけて、あかねちゃんがプラスチックの壁越しに胸の辺りを指でこつんとつついてみると、それだけでくわがたはバランスを崩して、後ろ向きに倒れ込んでしまいました。


「ひでぇ」
「捕まえたのはさくらちゃんでしょ」
「それを言われちゃうとな。まあ、この子は後で逃しちゃうんだけどね」
「えーっ、もったいない……どうして?」
「私の{家|うち}じゃ、これ以上飼えないし……最近は捕まえた虫はだいたい一晩観察したらもとの場所に返すようにしてるよ」
「そっかあ」


さくらちゃんの家では、こういった昆虫の他にも、犬や熱帯魚など色々な生き物を飼っているので、お世話が追いつかなくなってしまうのも無理はありません。でもあかねちゃんが遊びに行ってみると、その生き物たちはいつも元気な状態でいるので、きっとさくらちゃんのお世話の仕方がいいのでしょう。見かけによらず。


「ところで、最近アノ子の様子はどう?」


中で起き上がらなくなっていたくわがたに手を貸してあげながら、さくらちゃんはそう聞いてきました。あの子とは、あかねちゃんのもう一人の友達である、小人のアオイちゃんのことでしょう。


「元気にしてるよ。夏休みに入ったから、一緒にいられる時間も多くなったの」
「へぇー、そりゃよかった。ね、やっぱりまだ私とは会えそうにない感じ…?」


さくらちゃんがねだるような目で見てきます。否定すれば、今から会いに行くと言い出しそうな雰囲気をあかねちゃんは感じ取っていました。


「んー……分からないけど、少なくとも本人は会いたがってはいない…と思う」
「そっかー。ま、とにかく元気そうならよかったよ」


あっさりと引いたところを見ると、あの事件のことでまだ、さくらちゃんなりに負い目を感じているのかもしれません。


「それに、多分今日はアオイちゃん来てないと思うし」


何気なく漏らした言葉でしたが、さくらちゃんはそこに引っかかりを覚えたようでした。


「ん?あかねの部屋で飼ってるわけじゃないの?」
「か、飼ってるって……。普段は私も知らないところに住んでるみたいで、来てくれる日と来られない日があるんだよ。最近はよく来てくれるんだけどね」
「ふーん」


ほんの少し嫌な予感がしました。さくらちゃんが情報を飲み込んだときの反応は、大まかに分けて「へぇー」と「ふーん」の二種類になるのですが、「ふーん」だった場合に、その後で彼女がろくなことを言い出さないのを、あかねちゃんは知っているのです。


「じゃあさ、あかねもアオイちゃんを、虫かごか何かに入れておけばいいんじゃないの?」


そしてその手の予感は、このお話では得てして的中してしまうものなのです。


「しないよ、そんなこと!」


アオイちゃんのそんな心ない提案に、流石のあかねちゃんも難色を示さずにはいられませんでした。


「でも、そうしたら毎日アオイちゃんをそばに置いておけるじゃん。あかねはアノ子といつでも一緒にいたいと思わないの?」


今度はしかし、あかねちゃんはしばしの間黙ってしまいました。


「そ、そりゃ……思うけど」
「じゃあ、なんでそうしないのさ」
「なんでって……虫かごなんかに入れたらかわいそうだよ!」


あかねちゃんがそうして来なかった理由は、本当はそればかりではないのです。でもこの時、あかねちゃんは変に焦りを感じていて、うまくそれを言葉にすることができない…というよりは、その自信がありませんでした。


「そうかなあ…案外悪くないと思ってもらえるかもよ?ほら、虫かごの中って安全だし、忘れずご飯さえ与えてあげれば生きていけるし、退屈そうにしてたらかごから出して一緒に遊べばいい話だし、遊び道具を一緒に入れておくこともできるしね」


ちょっと立ち止まって考えれば、さくらちゃんの言っていることは根本的におかしいと分かるはずなのに、でも、彼女の口から出る言葉には妙な説得力があって、あかねちゃんは今度は完全に黙りこくってしまいました。


「……」
「あ、今ちょっと悪くないかもって思ったでしょ」
「なっ…思ってないもん!」


もちろんそれは、虚勢でしかありませんでした。こういうとき、あかねちゃんは思うのです。結局またさくらちゃんのペースだ、またその気にさせられてる、ずるい、ずるい、さくらちゃんはずるい、と。
口喧嘩では誰にも負けたことのないさくらちゃんのことを、小さい頃はただ純粋に尊敬の眼差しで見ていました。自分が言いくるめられることもありましたけれど、それさえ何か清々しさのようなものを感じていたはずでした。だから、ほんの最近なのです。こういうとき、妬ましさや惨めさに似た感情まで抱くようになってしまったのは。もちろん、さくらちゃんのことは今だって変わらず大好きですが、それを別として感じてしまうのです。それは、さくらちゃんが持っている強さで、自分には決定的に欠けている部分であるという自覚に、11年の生を送ってきてようやく辿り着いたことから来ているものに他なりませんでした。


「それに、アノ子あかねにすごく懐いてるみたいだからさ、ずっとそばに置いてもらえることで、案外喜んでくれるんじゃない?」


それだけ言い残すと、さくらちゃんは満足したように自分の家の方に帰って行きました。






「ただいまあ」


頼まれていたものを渡すために廊下を歩いていると、次第にザクザクと野菜を刻む音が聞こえてきました。


「あらおかえり。助かったわぁ」


台所まで行ったところでようやくお母さんに帰りを知らせることができたので、荷物を置いて自分の部屋に戻ろうとしました。が、あかねちゃんはすぐにその足を止めて、ほんの少し間を置いたのち、再びお母さんの方に振り向いて、こう聞きました。


「ねえお母さん…うちに虫かごってあったっけ?」
「無かったと思うけど……なあに急に、友達と虫捕りにでも行くの?」
「ううん、そういうわけじゃなくて。…ちょっと聞いてみただけ。無いならいいの」






時刻は少し進んで、8時頃。お風呂から出て、ぽかぽか湯気をまといながら部屋に戻ってくると、ベッドの上の定位置に、アオイちゃんがちょこなんと座っているのが目につきました。


「あれ?アオイちゃん。こんばんは」
「えへへ、来ちゃった」


あかねちゃんが入ってきたのに気がつくと、アオイちゃんは笑顔を咲かせて、ベッドの端まで駆け寄ってきてました。そんなアオイちゃんを、あかねちゃんはいつものように手のひらの上に乗せてあげました。


「あかねちゃんの手、なんだかいつも以上にぽかぽかしてる…」
「お風呂に入ってきたところだからね。アオイちゃんも入りたかった?」
「私は、もう体キレイにしてきたから」
「そっか。それにしても珍しいね、こんな時間に来るなんて」
「そ、それなんだけど……」


アオイちゃんははじめもじもじとしていましたが、やがて意を決したように真っ直ぐあかねちゃんの目を見て言いました。


「あの、今晩あかねちゃんのお部屋に止めて欲しいの」
「えっ?」


あかねちゃんが驚いてうっかり漏らしてしまった声を、肯定的な返事ではないと捉えたのか、アオイちゃんの視線はまたゆっくりと沈んでいきました。


「ご、ごめん、急にこんなお願いされたら困るよね…」
「確かにいきなりでびっくりはしたけど……困りなんてしないよ。むしろ大歓迎!」
「ほんとう…!?」
「うん!でも、どうして?」


アオイちゃんの様子を見るに、ただ泊まりに来たい気分だったからではなく、何か深い事情があるに違いありません。


「今日の夜、嵐がやって来るみたいだから…」
「嵐?あ、そういえば天気予報では大雨になるって言ってたような……あれ、でもアオイちゃんはどうやって知ったの?」
「空模様を見てれば、だいたいの天気は予想できるよ」
「へぇー、すっごい!」


感心しながら、あかねちゃんはちょっとした意地悪を思いつきました。


「嵐、怖いんだ?」


そうからかうように(最近、あかねちゃんも少しずつこういう言い方に慣れてきました)聞けば、アオイちゃんがいつもみたいにかわいい反応を見せてくれるだろうと期待していたのです。


「……うん」


けれどそれに対するアオイちゃんの返事が存外に素直なものだったので、あかねちゃんもそれ以上は発展させることができませんでした。





10時半頃。布団に潜ってから少し経つと、アオイちゃんの言っていた通り、窓の向こうに酷い嵐がやってきました。強い雨が絶えず窓に打ちつけられ、風はざわざわと木の葉を騒がせ、時折それら全てを遮るようにして、雷が真夜中の空に激しく鳴り響くのでした。


「きゃ…!」


ピカリと光る稲光は、壁に守られているはずのあかねちゃんの部屋の中にまでも緊張感を走らせます。

あかねちゃんは、嵐を恐れてやってきたアオイちゃんを他人事のようにからかっていた少し前の自分を恥じていました。こんな状況では、心を落ち着けてぐっすり眠るなんて到底不可能であるように思えました。

ですが、怖がって震えているのはあかねちゃんばかりで、アオイちゃんの方は妙に落ち着き払っていました。その口で、アオイちゃんは呟きました。


「こんなに心の休まる夜は初めて……」

「えっ?」


それが強がりなどではないのは一目瞭然でした。だからこそ、それが一体どういうことなのか、あかねちゃんは理解できないでいました。


「あ、アオイちゃんは怖くないの…?」

「怖いよ。もちろん怖いんだけど……」


落ち着いた調子のまま、アオイちゃんは続けます。


「……私ね。いつも夜が来るのが怖いの。寒さに凍えない日はないし、いつ、どんな生き物に襲われるかも分からないし、雨の日は家の中に水が流れて来るし……きっと今日みたいな日はもっと酷いことになってる」


あかねちゃんは、言葉を失っていました。だって、アオイちゃんの口から発せられたのは、全てあかねちゃんが知らなかった、知ろうともしてこなかった事実だったのですから。


(私、そんなことも知らないで……)


てっきり、あかねちゃんはずっとアオイちゃんが自分と同じレベルで嵐を怖がっているものだと思っていました。だから、それをからかおうなんて浅はかな考えに至ったのです。

あの時、アオイちゃんが素直に認めたのは、自分の抱いているものなんかとは比較にならない、生命のレベルでの恐怖からだったのだと、あかねちゃんはようやく気づかされたのでした。


「でも今は、こんなに温かい布団が私を受け入れてくれてる。……大好きなあかねちゃんが、こんなにすぐそばにいてくれる。だから、私今、すごく安心してるんだよ」


アオイちゃんの柔らかな笑顔に、胸が締め付けられるのを感じました。


「……こうしてずっと、あかねちゃんのそばにいられたらいいのにな」

「アオイちゃん……」


その時、あかねちゃんは夕ごろ、さくらちゃんが去り際に放って行った言葉を思い出しました。


——それに、アノ子あかねにすごく懐いてるみたいだからさ、ずっとそばに置いてもらえることで、案外喜んでくれるんじゃない?


「……私も、おんなじ気持ちだよ。だから……」



と、途中まで言いかけたあかねちゃんでしたが、体の正面を彼女の方に向けたまま、アオイちゃんはもう既に目を閉じて、安らかに寝息を立てていました。


(寝ちゃった、か……。……って、寝ちゃったかじゃないよっ!)


お喋りをして嵐の怖さを紛らわせるために一緒にあかねちゃんのベッドの上にいたのであって、もともとアオイちゃんには、前に泊めた時に作った専用のベッドで寝てもらおうと考えていたのです。これだけの体の大きさの違いがある中で一緒のベッドで寝たら、事故が起きないとも限らないですから…。


(……出来るだけ端っこに寄って寝よう)






……それから、何日か経ったある日のこと。
プラモデルに使用する塗料を購入すべく、さくらちゃんは近所のホームセンターに来ていました。
もっとも、もう既に目当ての物は10分ほど前に買い物カゴに確保しておいたのですが、さくらちゃんはこういう場所に来るといつも色んなコーナーに目移りしてしまうたちなのでした。


(ん?あれは…)


その途中でふっと、目を一点に向けて立ち止まりました。とてもよく見慣れた背中が目についたのです。せっかくなので声をかけようと、さくらちゃんはその背中に歩み寄っていきました。


「よっ、何見てんの?」
「わぁっ!?」
「うおっ」


触れた肩があまりに勢いよく跳ねたものだから、さくらちゃんの方までびっくりして声をあげてしまいました。やがておどおどと向けてられたのは、さくらちゃんが思っていた通りの、あかねちゃんの顔でした。


「あ…さ、さくらちゃん……いや、あの、別にたいしたものじゃないの!ほ、ほんとに!」
「なんでそんな慌ててんのさ? …………ん?」


「うぅ…」


さくらちゃんが、あかねちゃんの背後に陳列されているのを見つけたそれは、彼女にとって、誰よりも一番さくらちゃんには見られたくなかったものでした。


「ふーん、なるほどねえ」


あかねちゃんが何を見ていたのかも、罰が悪そうな様子の意味も全て理解し、さくらちゃんはニヤリ、と意地の悪い笑みを浮かべたのでした。






ガチャガチャ、とドアノブを一回余計にひねる音は、最近二人で考えた、入ってくるのがあかねちゃんであることを知らせるための合図です。開かれたドアからは、その合図通りに、見上げるほどに大きなあかねちゃんが姿を現し、悠然とアオイちゃんの方に歩み寄って来たのでした。


「あかねちゃん!おかえり!」
「アオイちゃん。ごめん、待たせちゃった?」
「ううん、ついさっき来たところだよ」


そこでふと、ベッドの上に立つアオイちゃんの目線の高さ、つまりあかねちゃんの肌色が眩しい膝ほどの高さに、買い物袋が下がっていることに気がつきました。


「どこか買い物に行ってたの?」
「そんなとこ。あ…これはね、アオイちゃんにと思って買ってきたんだよ」
「私に?へーっ、なんだろ」


中身を決して透かさない材質でできた買い物袋であったため、得られる情報といえば、ある程度の大きさくらいでした。でもそれが、アオイちゃんにふさわしいような「小物」の大きさではないらしいので、いよいよその正体が分からなくなってしまいました。


「ねえ、アオイちゃんはもし私といつでも一緒にいられるようになるとしたらどう思う?」
「そりゃ…もちろん嬉しいよ。でも、危ないし、きっとあかねちゃんに迷惑かけちゃうし…」
「ん、そっか。それだけ聞けて良かった」
「?」


このあたりから、今日のあかねちゃんはなにか少し様子が変だと感じ始めていました。でもそれを口に出せるほど、アオイちゃんはまだ確信には近づけていませんでした。そんなとき、あかねちゃんの手のひらが、すっとアオイちゃんの前に差し出されました。
見上げると、ニコッと笑うあかねちゃんの顔がありました。


「乗って」
「う、うん」


その笑顔に、アオイちゃんはやっぱりどこか引っかかるものを感じました。いつもの、見ていると胸がぽかぽかするあの笑顔と何が違うのかと言われると、説明できる気はしませんでしたが……。


「目をつむってくれる?」
「こう…?」
「うん。ありがとう」


次回から完全に黒に覆われたとき、自分を乗せた手のひらがゆっくりと動きだすのを知覚しました。どこに連れて行かれるのかと気にしだした頃、よそで何か物音がするのが聞こえてきました。ガタガタ、ゴトゴトという硬質な音に、パカッ、と取り付けのしっかりした蓋を開けるような音が混じります。ひょっとすると、あの袋に入っていたのは、プレゼントの入ったケースだったのかも、とアオイちゃんは考えました。なるほどそれなら、こうやってサプライズのために目を瞑らせるのも納得です。


「そのままゆっくり前に歩いて、手から降りてくれる?」
「うん」


一歩、二歩……とゆっくり足を進めていき、やがて六歩まで来たところで、ブーツの裏に受けるのが、柔らかい皮膚の感触から、硬い地面の感触に変わりました。
「はい、お疲れ様。目を開けていいよ」
両足がその地面につくと、上の方からあかねちゃんの声が聞こえました。その指示通りに目を開けてみますが、入ってくるのは先程までと同じベッドの上の景色ばかりで、目を瞑っている間になんの変化がもたらされたのか、判然としませんでした。


「今日からはそこが、新しいアオイちゃんのおうちだよ」


そのとき初めて、アオイちゃんは反響するように聞こえる声にたいする違和感を覚えました。いつも同じ場所で聞くあかねちゃんの声は、そんな質ではなかったはずです。

次に気づいたのは、確かに自分の足元に広がっている、薄桃色のベッドのシーツと、実際に足に感じている地面の硬さの不釣り合いでした。そこでようやく、アオイちゃんははっきりと(何かが変だ)と思うに至りました。

変といえば、たった今あかねちゃんが放った言葉も、どういう角度から捉えようとしたところで、やっぱり変なのです。


「あかねちゃん、ここ、どこ?ねえ、新しいおうちって、どういうこと……?」


あかねちゃんは何も答えてくれません。きっと、自分の声が聞こえていないからだと信じて、もっとあかねちゃんに近づくべく、いやに硬くて歩きやすいシーツの上を歩き出しました。


「……!」


でも、その足はすぐに止まりました。その時、頬を伝って落ちた汗を、シーツに見えている地面は当然のように吸ってはくれませんでした。

アオイちゃんは、恐る恐るその場で手を伸ばしてみました。

その腕が伸び切る前に、アオイちゃんの小さな手のひらは、震えるほど冷たい透明な壁に出会ってしまったのでした。

あまりに急に押し寄せてきた焦燥感。一度壁の存在に気づくと、連鎖的にそれがどういう形状で張り巡らされているのかもはっきりと見えていきました。

アオイちゃんの四方を囲むように存在する、景色を透かした壁。出口らしきものは、どこに見つけることもできず。

異質なこの空間に自分が閉じ込められていることを、アオイちゃんはようやく知ったのでした。


「で、出られないよ…!助けて、あかねちゃん…!!」


壁をぱたぱたと叩いて、アオイちゃんは懸命に主張しました。

閉じ込められた——大好きな友達の、あかねちゃんに。何かの間違いだと思いたくて、アオイちゃんはひたむきにあかねちゃんの言葉を求めていました。

すると、透明の壁を隔てたアオイちゃんのすぐ目の前に、ぬっとあかねちゃんの顔が現れました。その時、アオイちゃんは息を呑んで、我知らず一歩後ずさりしていました。

壁を取り除いてしまえば、あかねちゃんのあたたかな体熱すら伝わってきそうな距離。高いと思っていたはずのこの透明な壁ですら、全容を収めることのできないくらいに大きいことを思い知らせてくるあかねちゃんの顔。そんな顔の中心から、普段では気づくことのできないであろう冷たい光を宿して、ぎょろりと自分だけに向けられている瞳。

彼女の方から、こんなに無遠慮に顔を近づけてきたことなんて今までありませんでした。

閉じ込められているという事実を考慮しなければ、アオイちゃんの視界に映し出される景色はいつも見ているものと変わらないのです。けれど、あかねちゃんの方からすれば……虫かごの中に収まるアオイちゃんという、明確にいつもとは違った景色が見えているのです。このずれが、いつもは確かに一致していたはずの二人の距離感に狂いを生じさせてしまったのかもしれません。


「ごめんね、自力では出られないと思うけど、そこなら安心して過ごせると思うから」


希望をあっけなく打ち砕かれて呆然としている間に、あかねちゃんの顔は視界からフェードアウトしていきました。

それでも、あかねちゃんがみずからの意思で自分をここに閉じ込めたのだという事実をまだ受けられないでいると、突然、蛍光灯の光が及んでいたはずの周囲が、薄暗い影に覆われるのを認めました。

見上げると、四角いふちの向こう側で、何やらあかねちゃんが、網目状の穴がところどころに刻まれた、黄緑色の板のようなものを構えていました。

ここまでくれば、もはやそれが一体何であるのか考えるのは、アオイちゃんにとって難しいことではありませんでした。

アオイちゃんを、あかねちゃんの生活する世界から完全に隔離してしまう装置であるその蓋は、人工的な黄緑で視界を覆い尽くしながら、どんどん、どんどん、アオイちゃんのいるこの空間に迫ってきていました。


「そんな、聞いてないよ…!あっ待って、閉めないで!あかねちゃん!あか———」


声の途中で、縁と接する寸前まで来ていた蓋はすっと横にスライドしていき、代わりに、少し困ったようにアオイちゃんを見下ろす、あかねちゃんの顔が露わになりました。


「そんなにいや…?」

「う、うん」


そんな顔をされるとは思わなくて、アオイちゃんはかえって戸惑ってしまいました。でも、やっとあかねちゃんらしい部分を覗くことができたような気もします。突然、なんの予告もなく、優しかったあかねちゃんが、昔アオイちゃんの思い描いていた、小さい者の言葉なんて聞こうともせず、平気でその命を弄ぶ残虐な人間に豹変してしまったのではないかと、精神にヒビが入りかけていましたから。


「んー……じゃあ、ちょっとしたゲームをしよっか」


そう言って、あかねちゃんは人差し指を一本、アオイちゃんの頭の少し上くらいの高さに降ろしてきました。


「私があちこちに移動させる指に掴まることができたら出してあげる」


見上げながら、アオイちゃんはごくりと唾を飲みました。要するに、あの指との鬼ごっこをさせられるというわけです。高さで言えば、思い切りジャンプすればどうにか掴まることができそうというところ。ゲームというからには、絶対に手の届かないような位置には、少なくともあかねちゃんの性格から言えばしてこないはずです。


「そのかわり、できなかったらもう二度とそこから出してあげないよ」

(え?)


それ以上の説明はなく、あかねちゃんはニコッと、またあのいつもと何かが違う笑みを浮かべただけでした。


「ちょ、ちょっと待っ」

「制限時間は私が60数えるまでね。それじゃあスタート!」






「にじゅーよん、にじゅーご」
「はぁ……はぁ……っ」


鬼ごっこが始まってからおよそ20秒が経過しましたが、何か形勢に変化が見え始めるというでもなく、走り続けるアオイちゃんの体力がただただ削られていくばかりでした。
横の距離は少し離れた位置、でも追いつきさえすれば充分に掴まることが出来そうな高さに指を構えて、アオイちゃんをギリギリまで引きつけてからひょいっと素早く引っ込めて、そこからまた少し離れた場所に指を降ろして……そんな単調な繰り返しでも綻びの生じることがないくらいに、二人の間には立場の差がありました。


「さんじゅーろく、さんじゅーなな」
「はあ…っ…!……あっ…!」


もう何回同じことを繰り返したのか分からなくなってきた頃、渾身の飛び込みをするりとかわされたアオイちゃんは、勢いそのままに前方向に転倒してしまいました。


「よんじゅーいち、よんじゅーに、よんじゅーさん」


その間にもあかねちゃんは無慈悲に、淡々と時の進行を告げていきます。それが確かにいつも聞いているあかねちゃんの声であることが、アオイちゃんの心を折ろうとする力が最も強い要素でした。


「よんじゅーなな、よんじゅーはち」


ようやく立ち上がったとき、残り時間はもう10秒しかありませんでした。もう、勝ちを確信しているのか、あかねちゃんはアオイちゃんのすぐ頭上に指を垂らして、動かそうともしていませんでした。


「ごじゅーに、ごじゅーさん」
「っ…、っ…!」


触れることはできるのに。あと少しで、あと少しで掴まることができそうなのに。


「ごじゅーご、ごじゅーろく」


最後のチャンスなのに、あかねちゃんが変わってしまうかもしれないのに。


「ごじゅーなな、ごじゅーはち」


友達だと、信じていたのに。



「ごじゅーきゅう、ろくじゅう。…はい、おしまい」



(そんな…)


体を支える力が全て抜けていくかのように、アオイちゃんははたりと腰から崩れ落ちてしまいました。


俯いたまま、あかねちゃんの顔を見ることができません。正しくは、それだけの気力が湧いてこないのです。どうしてこんなことになったんだろう……昨日まで、あんなに楽しく一緒に過ごしていたのに……カゴの底に手をついたまま、その答えを探すでもなくまるで呪文を唱えるかのように考えていました。



そんな時、ずっと膝に向けられていたらしいアオイちゃんの視線に、とうとう最後まで掴むことが出来なかったあかねちゃんの人差し指が割り込んできました。


「ふふっ、冗談だよ。はい、掴まって」


その手をたどるように上を見上げると、あかねちゃんが笑っているのが見えました。まるで憑物が落ちたみたいな……いや、憑物なんて最初からなかったかのような笑顔でした。






「ひ、ひどいっ!」


指に掴まったアオイちゃんを落としてしまわないよう慎重に運んで、手のひらの上に乗せるや否や、アオイちゃんからそんな非難の声が浴びせられ(というよりは水鉄砲をかけられたくらいの感じですが)ました。


「ご、ごめん。流石に悪ふざけが過ぎちゃってたよね…」
「……まあ、反省してるんならもうこれ以上は言わないけど。それにしても、なんであんなことしようと思ったの?なんか、あかねちゃんらしくない…」
「…それは」


アオイちゃんが説明を求めるのは当然でした。いくら冗談だったと言われても、何の説明もなくいきなりあんな酷いことをされて、「そうだったのか」と納得できる人がいるはずもありません。
何も断らずにアオイちゃんを虫かごに閉じ込めようとしたのは、一度そうしてしまえば、後はそのまま流れるように事が運んでくれるのではないかという期待もあってのことでした。どんなに倫理に{悖|もと}ることでも、自分のすることなら、アオイちゃんもきっと受け入れてくれるだろうという、自惚れた期待が…。
けれど、現実はそうではありませんでした。顔面を蒼白にし内側からしきりに壁を叩いて訴える様は、つるりとした壁をよじ登って脱出しようと懸命に足掻いていた小さなクワガタと、一体どれほどの違いがあったのでしょうか。
たとえ善意からの行動であったとしても、どんなにあかねちゃんのことを好いていたとしても、そんなのは関係ありませんでした。あかねちゃんが虫かごの中に見たのは、拒絶……純粋の恐怖を孕んだ、アオイちゃんの拒絶だったのです。
自分の行いを冗談にすることで、あかねちゃんはこのショックの強い光景から目を背けました。けれど、また同じことをすれば、アオイちゃんはきっと同じような反応を見せるでしょう。
だから次の言葉は、あかねちゃんにとってとても言い出しづらいものだったのです。


「あの、アオイちゃん。本当はまるっきり全部が冗談だったってわけでもないの。……えっと、つまりね……アオイちゃん、あの中で生活してみる気はない?」


そのときあかねちゃんには、アオイちゃんの瞳に、再び不安が宿ったように見えました。やっぱり言うんじゃなかった、と思いました。


「って、そんな気あるわけないよね。ごめん、今の話はわす——」
「待って、それじゃ分からないよ!もっとちゃんと説明して!それに、私まだ何も言ってない!」


不安げな顔でいても、アオイちゃんはあかねちゃんから目をそらしはしませんでした。


「そんなこと言うのには、何か理由があるんでしょ?聞くよ、私…」
「アオイちゃん…」


そんな風にまっすぐ見つめられたら、そんな風に言われたら、きっとどんな人でも打ち明けずにはいられなかったでしょう。





「…アオイちゃん、こないだ、夜が来るのが怖いって話してたでしょ」
「うん」
「私、アオイちゃんにこれ以上そんな思いをさせたくなくて、それで……」


きっかけは、さくらちゃんに{唆|そそのか}されたことでした。でも、それはほんの些細なきっかけにすぎません。実際、家に虫かごがないことが分かった時点で、もうその話は綺麗さっぱり忘れるつもりでいたのです。
そのはずが、あの夜、外で嵐が暴れ狂うのが壁や窓を隔てていても鮮明に伝わってくるような状況に身を置きながら、今までで一番安心できる夜だと言い切ったアオイちゃんを見て、平時、彼女がどれだけ過酷で孤独な環境で生活しているのかを告白されて…自分がやらなければならないという思いを強く持ったのでした。たとえ嫌われたとしても、アオイちゃんを守れるなら、それでいいとさえその時は思っていました。結局、困惑したように、やがて少し怯えたように、そして何より、悲しそうに向けられたアオイちゃんの目に、耐えることはできなかったのですが。


「もう…そういうことなら、最初から言ってよ」


呆れからか、それとも安堵からか、大きくため息をついてから、アオイちゃんは言いました。



「いいよ。私、しばらくその中で暮らしてみることにする。……ううん、住まわせてください」

「えっ……」


あかねちゃんは耳を疑いました。あんなに嫌がっていたのに、あんなに怖がっていたのに、こんなにあっさりと了承されるなんて予想していなかったのです。

「もしかしたら、勘違いしてるのかもしれないけど……怖かったのは、別に閉じ込められること自体じゃないよ。急にあかねちゃんが別人みたいに変わってしまったように見えて、それが怖かったの」


その言葉は、不思議なほどすっと中に入っていきました。

アオイちゃんも、同じだったのです。あんなに自分を慕ってくれていたアオイちゃんが、別人になったように自分に怯えるようになってしまう……そのことを、何よりも恐ろしいと感じたあかねちゃんと。


「それに、ずっとそこから出してもらえないってことでもないんだよね?……もしそうなら、ちょっと考えるけど……」

「も、もちろん!出たいって言ってくれればいつでもすぐに出すし、居心地が悪かったらお家に帰ってもらって構わないし、ご飯だって、毎日持ってきてあげるし…」


それを聞くと、アオイちゃんはにっと笑いました。OK、とでも言っているようでした。






「それじゃあ、私一旦必要なもの取りに帰るから」


そう言って、アオイちゃんは部屋から出ていきました。
さて、あかねちゃんの方もその間何もせずに待っているというわけではありません。虫かごの中は、このままでは一人の女の子が生活するにはいささか殺風景です。なので、現状ただの虫かごであるこの空間を、アオイちゃんのおうちと呼べるような空間にリフォームする必要がありました。
まず、掃除機をかけるお母さんの目を盗んで台所に行き、食器棚の奥からお父さんのおちょこを取り出してきました。500円玉であれば口を塞げてしまいそうなくらい小さなこのおちょこは、きっとアオイちゃんにとってはちょうどいい大きさ、深さの湯船になるだろうと想像します。
そして次に、かごの中に彩りを与えるのと、少しでも居心地を良くするために、ポケットタオルを絨毯代わりに床全体に敷いて、その上におちょこのお風呂をはじめとするアオイちゃん用の家具を置いていけるようにしました。
ここまでくれば、あとは他に必要そうな家具を設置していくだけです。あてはあります。アオイちゃんを初めて自分の部屋に止めた日(5話参照)から数日後、あかねちゃんは物置から、もっと幼かった頃に使っていたお人形用の家具を発掘していたのです。その中には、あかねちゃんが自作したものよりも幾分か寝心地の良さそうなベッドも入っていました。なのでそれは入れるとして、あとはどんなものを入れればよいか。といっても、残っているスペースから考えると、入れられるものはあと一つでしょう。
そんなとき、さくらちゃんがあかねちゃんを唆すとき、遊び道具を入れておくといい、といった旨のことを話していたことを思い出しました。


(遊び道具かあ…んー、これでいっか)


そう考えて中に設置したのは、親指と人差し指の間に収まるくらいの小ささのすべり台でした。なんだか、一気に空間の対象年齢が下がってしまったような気がしないでもないですが、それは置いておきまして。
ひとまずこれで、アオイちゃんのおうちが完成。あとは、アオイちゃんの帰りを待つだけ。なのですが……。




(こないなあ……)


アオイちゃんが部屋を{発|た}ってから、かれこれ20分は過ぎています。支度に手間取っているのかなと思って、もう少し待ってみることにしましたが、40分近く過ぎた頃でも、やはりアオイちゃんは姿を見せません。

そんなとき、あかねちゃんはある考えを持つようになりました。


(どうしよう、何か事故にあってしまったんじゃ…)


もちろん、そうなっていたら問題です。でも、それを心配することには、なんの問題もありません。友達として、か弱いアオイちゃんの身を案じるのは当然のことです。

けれど、あかねちゃんが考えた可能性は、それだけではなかったのです。


(——もし、アオイちゃんがこのまま、二度と戻ってこないつもりだったら?)


考えてみれば、閉じ込められること自体嫌なことではない、という言葉が建前で、心の内ではすごく嫌がっていたとしても、別に不思議な話ではありません。いくら友達にされることであっても、嫌なものは嫌であるというのは、あかねちゃんにも理解できることです。そして、そんなとき、友達に失望する権利だって、当然アオイちゃんにはあります。

もしアオイちゃんが本当にそう思っているのだとしたら、直前に与えられたこの自由を、利用しないという手があるでしょうか?アオイちゃんは今、どこへでも逃げられる状態にあるのです。アオイちゃんを信じていないというわけではもちろんありません。ただ、それだけ自分がアオイちゃんに酷いことをした、そしてそれを今も繰り返そうとしているという自覚が、あかねちゃんを不安にさせるのです。


(そんな、いやだよ……そんなことになるって分かっていたら、私、アオイちゃんを———)


そんなとき、背後から、小さな声が聞こえました。


「あ、あかねちゃん……遅くなって、ごめん……」


その声に、あかねちゃんは素早く振り返りました。少し先に、ピンポン球くらいに膨らんだ風呂敷を背中に抱えて、息を切らしているアオイちゃんの姿が見えました。






あかねちゃんのそばでアオイちゃんが風呂敷の結び目を解くと、まるで薔薇の蕾が開くみたいに、中から服やタオルなどが飛び出してきました。どうやらアオイちゃんが遅くなったのは、この大量の荷物を風呂敷一枚の中に詰め込むことに、そしてその重くなった風呂敷を一人であかねちゃんの部屋まで運ぶのに時間がかかったからであるようです。


「へえー…本当にこのワンピース、同じのを何着も持ってるんだね」
「うん。とりあえず荷物になりそうだったから4着しか持ってこなかったけど、家に帰ればもうちょっとあるよ」


好奇心をそそられたあかねちゃんはそのうちの1着を貰って、少し観察してみました。当たり前ですが、アオイちゃんの体の大きさに合わせて作られているので、人差し指の上に乗り切ってしまうくらいに小さいです。くしゃみなんかしたらどこかに吹き飛んで行ってしまいそうなので、注意していなければなりません。そして、それほど小さいのに、網目はきっと顕微鏡で見なければ分からないであろうほどに細やかで、見た目も可愛らしく、きっと人間ではとてもここまでのものはつくることができないだろうと感心しました。


「…それにしても、アオイちゃんがちゃんと戻ってきてくれて良かったよ。私、アオイちゃんがどこかに行っちゃったんじゃないかって……」


積もった荷物の中に観察した服を戻してから、そう言いました。


「……?なんで?」


それに対してアオイちゃんがきょとんとしてそんなことを言うものですから、本当に私を疑うってことを知らないんだな、と嬉しさを通り越してちょっと心配になってしまうくらいでした。でも、それがきっとアオイちゃんの良いところで、あかねちゃんはそんな彼女のことが好きなのです。
それにしても、たった一度、虫かごの中に閉じ込めただけで、逃げられることがこんなに心配になってしまうのだから、もっと長い間入れていたら、アオイちゃんを本当に手放せなくなってしまうのではないかと考えると、一抹の不安が残ります。ちょうど、首輪とリードに依存するあまり、それなしでは犬と外に出られなくなってしまう飼い主たちのように…。






荷物と一緒に虫かごの中に降ろしてあげると、アオイちゃんは周りをきょろきょろと見回しながら、目を輝かせていました。


「すっごーい……さっき入ったときと全然ちがう…!」


こんな反応をされると、あかねちゃんの方もまんざらではありませんでした。


「えへへ…これでちょっとは住みやすくなったかな…?」
「ねえ、もしかしてこのベッド、あかねちゃんが作ったの!?」
「私じゃ無理だよ〜。昔、お母さんに買ってもらったお人形用のベッドを持ってきたの」
「へぇーっ…あ、あとこれ!この丸いのはなに!?」
「それは、お湯を入れたらアオイちゃん用のお風呂になるんだよ。ほんとはお酒を飲むための容器なんだけど、お母さんに内緒で持ってきちゃった」


あかねちゃんは悪戯っぽい笑顔に、「しーっ」というジェスチャーを重ねました。アオイちゃんはそれに、同じような表情で応じます。
1時間くらい前は、同じ場所でおろおろしていたのが嘘のように、アオイちゃんは楽しそうでした。


「これなら、今の私の住んでる所よりずっとステキだよ!なんか、全然虫かごの中って感じしない!」


そんなアオイちゃんを見ていると、あかねちゃんまで楽しい気分になってくる……それは、間違いありません。
けれど、一方で……リフォーム後の虫かごの中に初めてアオイちゃんを入れたときからずっと、どこかもやもやとしたものも感じていたのです。その正体が、今のアオイちゃんの言葉で分かってしまったような気がしました。



(でも、やっぱり虫かごは虫かごだよ、アオイちゃん)


確かに、印象は変わりましたが、結局外から見ているあかねちゃんにとっては、一人でぽつんとかごの中に閉じ込められているか、小さな家具もろともかごの中に閉じ込めているかの違いでしかなかったのです。

これでは、なんだかアオイちゃんを騙しているようで、その自覚がほんの少しのやましさを、あかねちゃんの胸の内に生じさせるのでした。






こうして、アオイちゃんの新しいおうちでの生活が始まりました。…と、いっても、あかねちゃんが部屋にいる日中はかごから出してもらって、今までと変わるところのない過ごし方をしているので、変化があったといえば日が沈んで以降の時間です。


「お湯加減はちょうどいい?」
「ん……」


時刻は夜の9時頃、アオイちゃんは、あかねちゃんがお湯を注ぎ入れたおちょこのお風呂に浸かっていました。
ちなみに、あかねちゃんは今、そのおちょことは全く別の方向に目を向けています。どうもアオイちゃんは人に、たとえ同じ女の子にでも裸を見られるのが恥ずかしいようで、おちょこのそばでワンピースを脱ごうとしていたときも「見ないでっ」とふくれ気味にあかねちゃんの視線を拒んでいました。
…でも、そんなことを言われると余計に見たくなるのが人間の{性|さが}というものです。といっても、あかねちゃんの場合動機はそれほど{邪|よこしま}なものでなく、自分と同じくらいの年齢の、小人の少女のからだは一体どうなっているのか、というもっと純粋な好奇心からでした。そしてもう一つに、アオイちゃんがいつも同じ格好をしているから、たまには違う姿のアオイちゃんも見てみたい、というのもありました。


(うー……でもでも、見ないでって言われたし……。………でもなぁ…………………………ちら)


静かなる視線は、こちらを向いているアオイちゃんの顔にたどり着きました。
少し下にその視線をずらせば、一糸纏わないアオイちゃんのからだ……のはずでしたが、真っ白い石けんの泡に首から下がもこもこと覆われて、肌の色なんてほとんど見えていませんでした。
少しがっかりして視線を戻すと、アオイちゃんの顔はやはり、あかねちゃんの方を向いていました。おそらく、たまたまあかねちゃんがちらりと目を移したタイミングで、アオイちゃんの方も何気なく正面を向いてみたというだけだったのでしょう。
もともとお湯に浸かってほてり気味だったアオイちゃんの顔は、じわじわとからだに着いた泡が映えるくらいの赤色に変わっていきました。その様はゆでだこなどよりも、 導火線に火のついた爆弾を思わせました。


「あ…あ…あかねちゃんのばかーーっ!!エッチ!でばがめっ!」

「ご、ごめんなさ〜い!(どこでそんな言葉覚えたんだろう…?)」


かくして、泡の内側を見ることができないまま、アオイちゃんにおちょこの中からお湯を飛ばされ(もちろん、それがかごの外のあかねちゃんにかかるということはなかったのですが)、追い払われてしまったのでした。





「むっすーーー」

「ご、ごめんってば〜…」


お風呂から上がって、新しいワンピースに着替えたアオイちゃんは、まだ少し拗ねているようでした。


「……もう覗かないって約束する?」

「するよぉ、するから」

「〜……。まあ、そこまで怒るほどのことじゃないといえばそうかもしれないけど、本当にやめてよね?見られるの恥ずかしいもん」

「うう、反省します、はい…」


机の上から小人のアオイちゃんが説教をしてくるのを、その何十倍も大きなあかねちゃんが頭を垂れて聞いているというのは、何かの風刺画にさえ見えてくるような不思議な光景でした。

今にして考えると、何故覗きなどしようと思ったのか、本当に分かりませんでした。少し、テンションがおかしくなっていたのかもしれません。それに、行為も、その結果もなんだか普段のさくらちゃんのそれみたいで、恥ずかしいやら落ち込むやらで、あかねちゃんはうなだれてアオイちゃんの言うことを聞いている他ないのでした。


「じゃあ、運んで」

「ふぇ…」


その言葉に戸惑ったように顔を上げると、アオイちゃんの少しあきれたような顔が見えました。


「運んでくれないと、あの中に戻れないでしょ」

「あ…そっか、ごめん」


言われた通りに、アオイちゃんを手のひらに乗せて、そっと虫かごの中に入れてあげました。

するとそのとき、今度ははっきりとあかねちゃんにも自覚できるくらいの違和感を覚えました。

ついさっきまでアオイちゃんに怒られていたはずの自分が、今度はそのアオイちゃんを虫かごの中に閉じ込めようとしている……こんなことがあってもいいのだろうか、とふと手を止めて考えてしまったのです。言うなれば、重罪人が看守を牢に閉じ込め、その状況がまるで当たり前のことであるかのように流れていく…そんな現象に似た不条理が、今まさに自分の手によって起こされようとしているのではないか、と…。


「……あかねちゃん?」

「…ん、なんでもない」


でも、アオイちゃんには別段そのことを気にしている様子もなかったので、あかねちゃんもあまり深くは考えないようにしました。






そんなこともありましたが、二人の新しい生活の日々は、驚くほどなんの支障もなく進んでいきました。はじめはしぶしぶといった感じだったアオイちゃんも、どうせ長続きしないだろうと考えていたあかねちゃんも、ついに何も言いださないまま、一週間が経っていたのです。ひょっとすると、このままずっと今の生活が続いていくのかもしれない……そんな雰囲気さえ漂い始めていたのを、言葉にはせずとも、二人ともすでに感じ取っていました。
ですがまもなく、そういった空気は一変することとなります。





アオイちゃんが居候を始めてから、ちょうど10日が経った日だったでしょうか。


「それじゃあ、いい子にお留守番してるんだよ…?」


その言葉をのこして、あかねちゃんは出かけていきました。今日はお母さんと一緒に、離れたところにある親戚のお家に遊びに行くのだといいます。アオイちゃんは、自分も一緒に連れて行ってほしいとお願いしたのですが、万が一のことを考えて、あかねちゃんはそれを頑として聞き入れませんでした。


家の外に出て、見知らぬ人間がそこら中を闊歩している世界に連れられて行くことがどれほどに危険なことであるか、けっしてアオイちゃんにも想像できないことではありません。もし自分に何かあったら、悲しむのはあかねちゃんなのだということだって、ちゃんと理解しています。だから、あかねちゃんのいうことに、一度は納得したつもりでした。でも……


(やっぱり、ひとりでいるのは寂しいよ……)


一時間もたたないうちに、そんな気持ちが無視できないほどに大きくなっていました。

あかねちゃんがそばにいない時間を過ごすのは、けっして初めてのことではありません。それどころか、あかねちゃんに出会うまでは……いえ、夏休みが始まって、こうやって虫かごの中で暮らし始めるまではまだ、一人で過ごす時間の方がずっと多かったはずなのです。それが、あかねちゃんがいなくなってからたった一時間で寂しさがこみあげてくるようになってしまったのは、それだけ、彼女と一緒にいることが、彼女のそばに置いてもらえることが、当たり前のことになってきているからなのでしょう。

なんにせよ、いくら寂しいよ、帰ってきてよと念じたところで、現実がその通りになるというわけでもないので、この寂しくて空虚な時間の埋め合わせになるくらい、あかねちゃんが帰ってきた夜にたくさん遊べばいいのだと割り切って過ごすことに決めました。








ところが、それから二時間ほど経った頃。


(どうしよう……)


アオイちゃんは、ある重大な問題に直面していました。
それは一体、どんなものかというと。


(……おしっこに、行きたい)


焦燥感に駆られて虫かごの中を見回してみますが、当然、捕らえられた生き物のための逃げ道なんて、どこにも用意されていません。
いつもなら、おしっこをしたくなった時は、あかねちゃんを呼んでお庭の隅っこまで連れて行ってもらい、そこで用を足します。けれど今はあかねちゃんに外に出してもらうことができませんし、かといって、この虫かごの中にアオイちゃんがトイレとして使える場所が用意されているかというと、そういうわけでもありませんでした。しかも、運の悪いことに、アオイちゃんのお昼ご飯を置くスペースを空けるために、いつもは中にあるおちょこのお風呂も今日は外に出されています。もしそうでなければ、最悪の場合それをトイレ代わりにするという選択肢もあったのでしょうが…。
追い詰められたように、アオイちゃんは足元に目をやります。そこにはただ、薄青色の絨毯が敷かれているだけでした。
もし、アオイちゃんが耐え切ることが出来ずに、ここでお漏らしをしてしまうようなことがあったとしても、折り重なって層の厚くなっている絨毯がしっかりと吸収してくれることでしょうし、おしっこを吸った絨毯を洗濯して貰えば済む話です。赤恥をかくことにはなるでしょうが、逆に言えば、ほんの少しの間恥ずかしい思いをすればいいだけなのです。
でも…。アオイちゃんの目は、我知らず別の方に移っていました。絨毯の端からひょっこりと顔を出している、小さな白いタグ。そこには、あかねちゃんの字で「6-2 首藤」と書かれていました。


リフォームされた虫かごの中に最初に降り立った時から、床全体に敷かれたこの絨毯が、あかねちゃんのポケットタオルで、それも彼女が普段から使っていたようなものであることに、アオイちゃんは気付いていました。本人の口から直接聞いたというわけではなく、また、さっきのようにすぐにタグの存在に気付いたから、ということでもありません。
洗剤の香りの中に、もうすっかり嗅ぎ慣れて、それでいて大好きなあかねちゃんの手のひらのにおいが、ほんのわずかに残っているような気がして……だから、それが彼女が手を拭くのに使っていたタオルなのだと分かったのです。


そんな、あかねちゃんの大事な持ち物を、自分のおしっこで汚してしまう……想像することさえ、アオイちゃんには耐えがたいことでした。


(我慢、しなきゃ…)


遠くに見える窓の、そのさらに向こうでは、白い雲がのんきに正午の空を漂っています。その空を見ていると、なんだか夜が来るまでの時間が、永遠のように長く思えてくるようでした。









どれくらい、経ったのでしょう。
脂汗を吸いきったワンピースが肌にまとわりつき、今にも破裂しそうであるかのようだった膀胱の痛みさえ今はほとんど感じないほど、意識が混濁していました。
汗が
み、涙が滲み、乱れた呼吸で開きっぱなしの口もとはよだれで滲み…もはや、どうしておしっこだけが出ていないのか、分からないような状態でした。
そんなとき、ぼんやりと、遠くで物音がしているのが聞こえた気がしました。
あかねちゃんが、帰ってきたのかな。
感情の移ろいもなく、ただ事実の復唱として、アオイちゃんはそう思いました。






「ただいま〜!」


退屈していたであろうアオイちゃんに、一刻でも早く自分の帰りを知らせたくて、玄関に上がるなりあかねちゃんはよく通る声でそう言いました。
いえ、本当はあかねちゃんの方が会いたくてうずうずしていたのかもしれません。お母さんに怪しまれないようにしつつ、土産話を聞かせたいという一心で、早足に部屋に向かって行きます。


「アオイちゃん、ただいまっ…!」




部屋の中は静まり返って、なんの声も続いては来ませんでした。
入り口からでは、アオイちゃんの小さな返事が聞こえるはずもありませんから、それは当然のこととも言えます。けれど、あかねちゃんはその静けさに、何か不吉なものを感じないではいられなくて、焦心したように虫かごのある方に駆け寄って行きます。
蓋を取り外すと、隅っこでうずくまるような体勢のまま、ぴくりとも反応しないアオイちゃんの姿が見えました。


「アオイちゃん…?帰ってきたよ」


顔を近づけて、そっと声をかけると、ゆっくりとではありますが、アオイちゃんが顔を上げる動作を始めました。呼びかけても動かなかったらどうしよう、と考えていたところだったので、ひとまずはほっとします。でもそれは、上げられたアオイちゃんの顔を見るまでの、ほんの束の間のことでした。こっちが見えているのか見えていないのか分からないような虚ろな目をしている、その顔を見るまでの。


「ど…」


どうしたの、と聞こうとしたとき、アオイちゃんはたどたどしく口を動かし始めていました。あかねちゃんがそこにいるとようやく認識できたからなのか、虚ろだった目にほんの少し、生気が戻ってきているように見えました。


「お…お、しっこ……した、くて…」
「……!」


弱々しく、途切れ途切れな声でしたが、聴覚を集中させていたあかねちゃんには、その全てを聞き取ることができました。



私のせいだ。

私が、忘れていたから。

アオイちゃんは私がいなかったら、トイレに行くことができないのに。

また、私のせいで。



頭の中が、そんな言葉でぐちゃぐちゃになっていきます。でも、今は自分を責めている場合ではありません。一刻でも早くアオイちゃんを楽にしてあげるのが、何よりも優先してやらなければならないことなのです。


「立てる?」


アオイちゃんは小さく首を振っています。かわいそうに、痛みに耐えるように目をきゅっとつむって、小さな身をさらに縮こませ、全身をぶるっと震わせています。


「…わかった。じゃあ、今から私が持ち上げるから、ちょっと我慢してね」


よほどのことがない限り、あかねちゃんの方からアオイちゃんをつまみ上げるということはほとんどありません。アオイちゃんが苦しくならないようにあまり力を入れすぎず、かといって今はたとえ少しの高さであろうと落としてしまうことは禁物であるため、ある程度しっかりと持ってあげなければなりません。精密機械をピンセットで扱うよりも、よほど神経をすり減らす作業でした。

無事、アオイちゃんを手のひらに降ろした後は、あかねちゃんの部屋からほど近いところにあるトイレに急ぐだけです。いつもは、中に落ちてしまう危険を{顧|かえり}みて外に連れて行っているのですが、今回ばかりは一刻をも争っているのですから仕方ありません。

それを察してか、アオイちゃんはまた何かを言おうと口を動かしています。


「……っ……揺れると、出ちゃいそうだから……ゆっくり、歩いて…………」


それを聞いて、平時よりも控えめに一歩を踏み出すと、アオイちゃんの背中がびくっと跳ねたのが分かりました。今くらいではダメだというはっきりとしたサインでした。なので今度は、もっとゆっくり、静かに足を動かしました。抜き足差し足忍び足、という言葉が似合うような歩き方です。


「このくらいなら大丈夫…?」


アオイちゃんは、すまなそうに頷いていました。

でも、こんな歩き方をしていたら、いくらトイレが近くにあると言っても、たどり着くには結構な時間を要してしまいます。その間、アオイちゃんはまだ我慢していられるのでしょうか……もう、そう信じるしかありません。

しかし、この後に待っていた不運を、あかねちゃんたちはまだ知らなかったのです。

トイレまでもう少しというところまで来た時、居間の方から、お母さんが歩いてくるのに気づきました。あかねちゃんは立ち止まって、とっさにアオイちゃんを乗せた手のひらに、もう片方の手のひらをかぶせます。

アオイちゃんを見られなかったか、挙動不審だとは思われなかったか、気が気ではありません。でも、こっちには目もくれずさっさと横切って行ったので、どうやらその心配はなさそうです。むしろ、このあとが問題なのでした。


あかねちゃんの前を通り過ぎて行ったお母さんは、そんなに急いでどこに向かっていたのでしょう?もう、なんとなく予想がついた方もいるかもしれません。あかねちゃんが、その疑問を抱くとほとんど同時に頭に浮かべた答えもまた、きっとみなさんの予想と同じものであったことでしょう。




ばたん、と戸が締められる音が無慈悲に響きました。その音は、周りの状況なんてもうほとんど把握できないくらいの状態にあったアオイちゃんにも、はっきりと聞こえていました。


「…………お外、いこっか」


暗く沈んだあかねちゃんの声は、答え合わせに等しいものでした。


(待って、あかねちゃん)


もう、アオイちゃんを乗せた手のひらは次の目的地に向かって静かに揺れ始めていて、呼びかけたところで、止まってくれる気配もありませんでした。ひょっとすると、もうまともに声が出ていないのかもしれません。


(もう、いいの。場所なんて選ばないから)


本当の限界がすぐそこまで来ていることを、アオイちゃんは分かっていました。きっと、もう1分も持たないだろう、と。


(この場で下ろしてくれればいいから。後始末だってちゃんとするから)


あかねちゃんが、外に出たのでしょう。虫かごの中で生活していて、久しく味わっていなかったうすら寒い夜の外気が肌に触れるのを感じました。
いくらそう懇願しても届いてくれない。届けなきゃ、いけないのに。その事実は、アオイちゃんを穏やかな絶望へと{誘|いざな}うのでした。






時刻は夜の8時を回っており、外はすっかり暗くなっています。それでも、夏ということもあって、足元が見えないほどくらいというわけでもありません。これならいつもの場所までは問題なく歩いて行けそうです。そう思って、庭に足を踏み入れた時でした。


(あ……)


右の手のひらの中心から、じんわりと熱っぽいものが広がっていくのを感じます。

こんなに温かいのに、なぜかどうしても、お湯という単語と結びつけることができませんでした。それは、温かくありながら、流れる小川の水のようにさらさらと清らかでもあったのです。

自然、あかねちゃんは足を止めて、熱っぽい水が滴った自分の手のひらに目を落としました。うっすらと白い湯気が立ち昇るその中心にアオイちゃんはいました。

暗くて表情は見えないけれど、でも、ぼろぼろと、壊れたように泣いていることくらいは分かりました。






消えて、なくなりたい。そう願うのすら、生ぬるいことでした。
大好きな友達の手の上で、おもらし。あったかくて、柔らかくて、綺麗で、心地の良いにおいがする………そんな、あかねちゃんの手のひらを、自分のおしっこで{汚|けが}してしまう。
耐えて、耐えて、意識が朦朧とするくらい限界を超えて我慢して、その果てにたどり着いたのが、こんな、世界で一番最悪な結末。
こんなことになるなら、タオルの上で漏らしていた方が、まだ、どのくらいよかったでしょう。


「……大丈夫だよ、アオイちゃん。私、別に気にしてないから」


心からの本音です。悪いのは自分で、アオイちゃんは何も悪くない…。
でも、今のアオイちゃんに何を言っても届かないということも分かっていました。せめて、アオイちゃんの涙を全部肩代わりしてやりたいのに、それもできない。鈴虫がなくような小さな{嗚咽|おえつ}を聞きながら、こうした無力を噛み締めているしかないのです。


「ごめんね。おトイレ、ちゃんと作るから」


そう呟く声は、夜の闇の中に溶けていきました。数分前、土産話をすることに心を弾ませていたことなんて、もう遠い記憶のようでした。






それから、とぼとぼと家の中に戻って、2時間くらい経ち、アオイちゃんはようやく少し落ち着きを取り戻したようで、今は新しいワンピースに着替えて、元着ていたものを洗濯しているところでした。
正確にいうと、泣き止んだ直後、アオイちゃんがまた今にも泣き出しそうな顔で何度も謝ってくるという時間があったのですが、同じ数だけあかねちゃんが「いいよいいよ」「気にしないで」「私が悪いんだから」と言い続けて、先程やっとそれが伝わってくれたのでした。


「はい、できたよ」


洗濯するアオイちゃんの横で、あかねちゃんが作っていたもの。それは、アオイちゃんが一人でも使えるようなトイレでした。完成したものを見てもまだ戸惑った様子でいる彼女に、使い方を説明し始めます。

そのトイレは、ペットボトルのキャップに折り重ねたティッシュを詰めて、工作用の厚紙を蓋に使ったという、実に簡素な作りでした。でも簡素であるからこそ、使うときも複雑な手順を踏む必要はありません。小さく切った厚紙くらいならアオイちゃんでも労せず動かすことができるでしょうから、おしっこがしたくなったときは蓋をあけて、キャップの縁に腰かけて、詰められたティッシュの上に出せばいいのです。そして、おしっこを吸ったティッシュはあかねちゃんが捨てて、また新しいティッシュに換える…という仕組みです。


「………。」


説明を終えたあと、アオイちゃんはしばらく黙っていました。でも、何か言いたそうな顔でこちらを見てきたことが、あかねちゃんは気になりました。


「やっぱり、それだとしづらいかな…?」


そう聞くと、アオイちゃんは小さく首を振りました。その顔は、何かを恐れているようにも見えました。


「そうじゃない……けど、これじゃまるで」


「まるで?」



トイレも管理。食事も管理。出入りも、入浴も、全部あかねちゃんの管理。そう、これではまるで————。

「……やっぱり、なんでもない」






——まるで、友達じゃなくて、あかねちゃんのペットみたいだよ。
喉まで出かかったところで、アオイちゃんの口はその言葉を言うのを拒みました。
プライドが邪魔をした、というのもなくはなかったのかもしれません。
でも一番は、それを言ってしまうことで、自分のプライドなんかよりもよっぽど深く、あかねちゃんを傷つけてしまうような気がしたからなのでした。






アオイちゃんが、前よりもかごの外に出たがらなくなりました。理由ははっきりとは分かりませんが、失禁をしてしまった日からのことなので、きっとそこに原因はあるのでしょう。
とはいえ、全く遊ばなくなったわけではありませんし、あの日のショックから立ち直れていない、ということではなさそうです。何かもっと深いところで、心境の変化でもあったのでしょうか。でも、アオイちゃんはそれを教えようとはしてくれません。


そんなとある日のお昼時です。
アオイちゃんの様子が気になって、ふとかごの中を覗き込んでみます。すると、ちょうど彼女がおしっこをしている最中だったうえ、すぐに目が合ってしまい、慌てて目を背けました。


「っ…ご、ごめん…!」


一瞬とはいえ、女の子同士であるとはいえ、こういう事故にあってはやはり、言葉が出なくなるくらいに恥ずかしく、気まずくなってしまうものでした。見る方も、見られる方も。
今にして思うと、あの不幸があった時に、こういった反応がお互いにほとんど起こらなかったというのは、異様なことであったのかもしれません。


「終わった…?」
「……ん」


答えると、あかねちゃんはおずおずと顔を戻した後、虫かごの蓋を外して、キャップのトイレを回収していきました。
目の前で、自分がしたばかりのおしっこの処理をされるというのは、なんともいえない気分です。ただ、アオイちゃんのおしっこが染み込んだティッシュを、汚れた雑巾を扱うようには持たないというところに、あかねちゃんのさりげない、あるいは無意識かもしれない優しさを感じて、それがいくらかの心の救いになっていました。





どうしてなんだろう。
空っぽになった穴に、まっさらなティッシュを詰めながら、あかねちゃんは思いました。
いつでも一緒にいられるようになって、前よりももっと、距離は近くなっているはずなのに。
どうしてこんなに、遠くなってしまったように感じるんだろう。




「ここ、置いとくよ」

「あ……ありがとう」


キャップを戻したとき、アオイちゃんは地べたに座って、顔は少し俯き気味に、何か考え事をしているようでした。最近になってそういうことが増えてきているのですが、何を考えているのか聞くと、彼女は決まって「大したことじゃないよ」というのです。

だから、あかねちゃんにはアオイちゃんの考えていることは分かりません。

でも、少なくとも今のそんなアオイちゃんが、虫かごに住む前のアオイちゃんよりも幸せそうであるようには、とても見えなくて。




「出してもいい…?」

「え?うん……」


あかねちゃんがかごの中に手を下ろすと、アオイちゃんはなぜか少し戸惑ったようにそこに乗ってきます。


「どうかした?」

「いや、あかねちゃんの方からそう聞いてくるの、珍しいなって…」

「…そうだっけ?」

「うん。というか、初めてかも」


手を止め足を止め、あかねちゃんは辿れる限りの記憶を辿ります。アオイちゃんをあの虫かごに住まわせてから、2週間と少し。その中でほとんど毎日、一緒に遊んだりお喋りしたりするために、アオイちゃんを外に出すということをしてきました。でも。


「言われてみれば……」


こうして思い返してみると、そうする前にはいつも、アオイちゃんがあかねちゃんを求める声があったのです。

あかねちゃんにとって、アオイちゃんがかごの中・にいることで、そこまで不都合に感じることはありませんでした。それでも存分に、アオイちゃんを感じることができたから。対して、アオイちゃんはそうではなかったのかもしれません。ずっと、あかねちゃんが外・にいる。アオイちゃんがあかねちゃんを求めるのは、そうした不安が無意識裡に生じた時ではなかったでしょうか。そして、呼べば簡単に出してもらえるからこそ、アオイちゃんはこの不安を自覚できずにいたのです。


けれど、それが今、あかねちゃんはこうして、初めて自分からアオイちゃんを求めるようなことをした。それが意味することは、きっと、そう難しいことではないのです。



じっと、自分のことを見つめてくるあかねちゃんから、アオイちゃんもまた、目を離すことができません。初めて虫かごの中から覗かれたとき、あんなにも不気味だと思ったあかねちゃんの瞳は、こうして彼女の手のひらの上から眺めていると、とてもきれいで、見惚れてしまいます。それに、故郷の星空を見ているような、懐かしさも覚えるのです。

その瞳が、ゆっくりとアオイちゃんに接近してきます。いいえ、正確には、アオイちゃんを乗せる手が、引き寄せられていっているのです。やがて、二人の距離は0になりました。


「あかねちゃん…?くるしいよ」


本当は、そこまで苦しくなんてありません。なんだか面映くて、そう言わずにはいられなかったのです。あかねちゃんにはそれが全てお見通しなのか、それとも、聞こえないくらいに夢中でいるのか、アオイちゃんをぴっとりと頬に寄せたまま、離そうとはしませんでした。


「でも、やーらかい…」


アオイちゃんもそっと、あかねちゃんの頬に、自分の頬を寄せました。それを遮るような壁は、もうどこにもありません。

まるで、長い隔絶を乗り越えて再会した恋人たちのように、二人はいつまでも、そうしていたいと思いました。






夏休みも終わりに近づいてきた頃。またしても買い物帰りにさくらちゃんに遭遇して、一緒に喋りながら歩いているところでした。今日は重い荷物の半分を、さくらちゃんが引き受けてくれています。


「最近どーよ?あの子とは」


すっかり日焼けした彼女が、唐突にそう聞いてきます。もちろんアオイちゃんのことでしょう。


「まあまあかな」
「なんじゃそら。なんかもっとあるでしょ、あんな{虫かご|もん}買っといて」


呆れたように言う彼女に、あかねちゃんは苦笑いで返します。


「あー…あれはもうやめちゃった」
「ええ、そりゃまたなんで」



——やっぱり、なんか違うのかもしれない。


あの後、あかねちゃんがそう言うと、アオイちゃんも少し考えてから、やがて


——……うん、私も、そう思い始めてたの。


と、ちょっとだけすまなそうに言ったのでした。


——おしまいにしよっか。

——うん。



それで、本当に虫かご生活はおしまいになったのでした。始まりに比べると、なんだかあっけない終わりであったような気がします。

また、辛くて苦しい環境にアオイちゃんを帰らせてしまうことだけが心残りで、いつでも泊まりに来てもいいんだからね、と伝えると、彼女は久しぶりに見せるような柔らかい笑顔でうなずいて見せたのでした。


だから、きっとそれでいいのです。ちょっぴり寂しいような気もするけれど、あかねちゃんにはあかねちゃんの生活があって、アオイちゃんにはアオイちゃんの生活がある。

その生活に疲れたとき、アオイちゃんの身も心も癒してあげられるような……そんな存在でありたいと、あかねちゃんは思ったのでした。




「まあ、私とアオイちゃんの友情は、虫かごなんかじゃ収まりきらないってことだよ、きっと」
「ほーん。そりゃ羨ましいねえ」
「あ、もちろんさくらちゃんのことだって、同じくらい大事に思ってるよ?」
「いや、それじゃあ私が拗ねてるみたいじゃん!」


夕空の下にしとやかな笑い声を響かせ、あかねちゃんは家路を歩いていました。心には、きっとまたベッドの上で帰りを待っているであろうアオイちゃんを描きながら。