7話 アオイちゃんとミドリちゃん
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チャイムの音と入れ替わるように、あかねちゃんの心臓はドキドキと鳴り始めました。周りの子たちがランドセルを背負い始めている中、何もせずじっと座って待っていましたが、その間もずっと、心臓の音はこんな調子で静かになってくれる気配がありません。
今日の放課後は、グループで集まって修学旅行に向けた調べもの(というよりほとんど顔合わせといった感じですが)をすることになっています。それで、どうしてあかねちゃんがこんなにドキドキしているのかと言いますと……
「ほら、来たよあかね。しっかりしな!」
「!」
隣に座って待っていたさくらちゃんにポンと背中を叩かれ、そこで初めて、教室の入り口からこちらに向かってくる男の子の姿を認めました。
「悪い、待たせちゃったか?」
「んーん、ついさっき帰りの会終わったとこだし。ね、あかね」
「は、はいぃ!」
変な声が出てしまいました。隣でさくらちゃんが必死に笑いを堪えているのが分かります。
「首藤か、よろしく。喋るのは4年のとき以来だよな。この笑い転げてるバカはほっといてさっさと始めちゃおうぜ。もう一人の奴はすぐに来るらしいからさ」
「う、うん。そうだね!こちらこそよろしくお願いします。…黒田くん」
(く、黒田くんが私に話しかけてくれた!どうしよどうしよ、キャーッ)
そう、待っていた二人の前に現れたのは、あかねちゃんの憧れの男の子である、黒田くんだったのです。黒田くんとサッカー仲間であるさくらちゃんの粋なはからいによって、あかねちゃんは彼と一緒の班になることができたのです。
修学旅行が行われるのは12月、つまり今から約三ヶ月後です。行き先は日光。子供たちが自由に組んだ4~6人の班で行動することになります。
あかねちゃんたちの班は4人。あかねちゃん、さくらちゃん、黒田くん、そして黒田くんの友達の金子くん(あかねちゃんとは2年生と4年生のときに一緒のクラスになったことがあります)というメンバーです。
「じゃあ、軽く自己紹介でもする?」という金子くんの一声で、班は動き始めました。言い出しっぺの金子くん、右隣に座っていた黒田くん、その向かいのさくらちゃんという順に進んでいって、最後はあかねちゃんの番です。
(うわぁ、く、黒田くんが私を見てる……)
簡単な内容でいいのに、前の3人だって、別にそんな凝った自己紹介だったわけじゃないんだから……と思っていても、一度黒田くんの目を意識すると、途端に喉に運ばれていくはずの言葉が、洗濯機の中の服のようにぐるぐる、ぐるぐると回り始めてしまいます。だって、昨日までボールを持って校庭を駆け回る姿を、三階の教室の窓から眺めているしかなかった黒田くんが、今は机を介した斜向かい僅か1メートル程の距離から自分に視線を注いでいる……そんな状況に立たされたら、きっとあかねちゃんでなくたって平静を保ってはいられなかったでしょう。
「――――――、――――――」
結局、あかねちゃんは自己紹介をするにはしましたが、自分が一体どんなことを言っていたのかも思い出すことができません。逆に言えば、自己紹介の内容以外のこと――――その時の頭ののぼせ具合、視線の逃げ場にしていた、いつ誰が刻んだのか分からない机の上の「{田|1+1=}」の文字、そしてそして、喋りの途中でうっかり黒田くんと目があってしまったかと思うと、途端にきまりが悪そうに目を逸らされたこと――――は、ふとした時にフラッシュバックする記憶の1ページとして、しっかりと彼女の内に残ってしまったのでした。
「はぁー………うぅ……」
「だから、大丈夫だって!そんな変なこと言ってなかったよ!」
項垂れるあかねちゃんに、励ますさくらちゃん。今日の帰り道はこの構図に終始していました。
「そりゃ、まあまあしどろもどろではあったけど……」
「ほら~~~っ!やっぱり変だったんだ……!」
「あー違う違う違うって!あのほら、逆にかわいげがあるくらいのレベルにとどまってたから!」
「黒田くんにも途中目逸らされたし……絶対不審に思われたよぉ……」
「……まあそれは間違いなく違う理由だと思うけど……」
「なに…?違う理由って…」
「んにゃ、こっちの話。とにかく元気出しなって、今日変に思われてもまだまだ会う機会はたくさんあるんだから、ちょっとずつ印象よくしていけばいいんよ」
さくらちゃんは分かってない、と思いました。黒田くんの前で自己紹介するだけでもあんなにあがってしまうのに、これから先やっていけるのか、もっと酷いボロを出してしまうのではないか、という考え方に行ってしまうのです。
でも、残ったのがいやな記憶ばかりというわけではありません。顔合わせが終わって別れるとき、黒田くんは「またな」と確かにあかねちゃんに個別に、さわやかな笑顔を向けてくれたのです。
「……えへ、えへへ……」
「ひっ…なんか急に笑い出した……」
総じて、今日はあかねちゃんにとっては激動の一日でした。いつしか彼女は、きっと今頃自分の帰りを待っているであろう、友達の顔を思い浮かべていました。その友達―――アオイちゃんも、さくらちゃんと同様に、あかねちゃんの恋を応援してくれています。今日のことについても知っていますし、終わったらいの一番に話を聞かせて、という約束もありました。
とにかく、アオイちゃんに報告したい気持ちが強まってきていました。駄目だったことも、うれしかったことも。家に帰るまでが~とはよく言いますけれども、あかねちゃんにとって、何かが起きた後にアオイちゃんに話すということが、もはや欠かすことのできない最後のステップになりつつあるのでした。
さて、そのアオイちゃんですが、実をいうとまだ、自分の住処を発つことができていないという状況にありました。それは、どうしてかというと。
「いやぁ、本当に助かったわ。(もぐもぐむしゃむしゃ)…私、ミドリっていうの。あなたは?」
「私はアオイ。そ、それにしても、よく食べるんだね」
「あら、私ったら恥ずかしいわ……なにしろ、ここ1週間何の食べ物も口にしていなかったから…」
「い、いっしゅうかん!?それはつらかったね…」
「もう本当に、あなたが見つけてくれなかったら行き倒れるところだったわ。命の恩人よ(ぱくぱくむしゃむしゃ)」
……つまり、こういうことです。アオイちゃんがあかねちゃんの部屋に向かっていた途中で、視界のすみで誰かが倒れているのを認めました。近寄ってみると、なんとそれはくたびれた旅装束を身にまとい、どんぐりの笠を頭に被った、アオイちゃんと同じ、小人の女の子だったのです。慌てて呼びかけてみると、まだ少しだけ意識が残っているのが分かったので、アオイちゃんはその子に肩を貸して、自分の住処まで連れて行き、ためていた食糧(そのほとんどは生活の苦しい彼女のためにあかねちゃんが持たせてくれたものです)を食べさせることにしました。
そして、今に至ります。
ミドリちゃんの食の勢いがようやくおさまってきた頃、アオイちゃんは彼女に、どうしてあんなところで倒れていたのかと尋ねてみました。そうして、彼女が絵描きさんで、色んな地を一人で旅しながら、見た景色や出会った者、心を動かされたものを絵に残しているのだということを知りました。さらには、その絵を誰かに売ることで食べてきたのだ、ということも。色んなことがアオイちゃんに驚きをもたらします。それは、(ミドリちゃんは私とそうかわらない歳の女の子なのに、自分でお金を稼いで生活しているなんて、すごい)という尊敬のまじった驚きであったり、また、(私の故郷の他にも、小人の暮らしている場所があったんだ。私がまだ会ったことのない小人が、世界にはまだまだ生き残っていたんだ)という希望に満ちた驚きであったり……とにかく、このミドリちゃんとの出会いは、アオイちゃんに対して、とても大きな意味を持っていました。
「アオイさんも何か買わない?」
「でも私、お金なんて持ってないから……」
「なあんだ。ま、お金がないのは私も一緒だけどね。絵を買ってくれる人どころか、アオイさんの前で最後に人に会ったのなんて、いつだったかもう覚えてないもの」
「へえー……苦労してるんだね」
「でも、そう悪いことばっかりでもないわ。売るあてがないのも度を越すと、お金にするのを考えずに絵と向き合ういい機会になるのよ。それより、あなたこそ苦労してるんじゃない?なんか、幸薄そうな感じだし…」
「あ、あはは…そう見える?」
実際、アオイちゃんは2年前に母親を亡くし、一人故郷である小人の里を出て行ってからというもの、とても辛く、厳しい生活を強いられ続けてきました。それでも……それこそアオイちゃんだって、辛いことばかりではありません。あかねちゃんが友達でいてくれることが、今では大きな心の支えになっていますし、今日、こうして久しぶりに自分以外の小人と会うことができたというのは、とても喜ばしいことです。
でも、とアオイちゃんは考えます。もし、あかねちゃんにも、ミドリちゃんにも出会えないまま、ずっとひとりぼっちで暮らしていたとしたら、今頃自分はどうなっていたんだろうと。きっと、心が壊れてしまっていただろうと思います。だからやっぱり、辛いことはあっても、アオイちゃんは自分が不幸であると思ったことはありません。曲がりなりにも、こうして普通に生きていられている。それだけで、幸せなことだと思うのです。
それから、ミドリちゃんは両手を合わせて、上目遣いに尋ねてきました。
「ね、しばらくここに置いてもらえない?掃除でも洗濯でもなんでもするから!」
それに対して、アオイちゃんは少しだけ目を丸くしましたが、すぐににっこり笑って答えます。
「もちろん大歓迎だよ!あと、そんな気を遣わなくてもいいよ、ミドリちゃんが一緒にここにいてくれるってだけで、すごく嬉しいんだもん」
「でも、それじゃあ私の気が済まないわ……そうだ!私がここにいる間、あなたのために何か絵を描いてあげる!それならどうかしら?」
「えっ、本当に!?」
「あなたは命の恩人だもの。それにお近づきのしるし、ってところかしら?」
お近づきのしるし、いい言葉だとアオイちゃんは感じました。ミドリちゃんは、私と友達になりたいと思っているということです。そしてもちろん、アオイちゃんもミドリちゃんと友達になりたいと思っています。
新しい友達もできそうで、今日は素敵な日になりそうです。このことを早くあかねちゃんにお話しして、そしていずれは、三人で仲良く遊べるときが来るといいな、とこの時は前向きに思っていました。
「でも、こんなに人間の家に近いところで暮らすなんて、ちょっと危険じゃない?」
「うーん……今のところそんな感じはないけど」
「あのねえ、そんな甘い考えじゃだめよ。見つかってからじゃ遅いんだから」
ミドリちゃんは呆れた風に言っています。実際、彼女のいうことはもっともです。以前のアオイちゃんであれば、それに対して素直にうなずいていたはずです。
「で、でも……人間がみんな、そんな怖い人だとは限らないんじゃないかな?」
ミドリちゃんはまだ、そのことを知らないのでしょう。以前の、いつもひとりぼっちで、人間に怯えながら生活していたアオイちゃんのように。やっぱり、ミドリちゃんをあかねちゃんに会わせてあげたい、と思いました。それはただ、二人に仲良くなって欲しいというだけではなくて、心優しい人間の存在を、その目で見て知って欲しかったから。
「あなた、なに言ってるの?」
けれど、返ってきたミドリちゃんの声は、震えそうになるくらいに冷たく、鋭いものでした。
ムードの一変したのを、アオイちゃんは肌で感じます。
「いい?私がここに来るまでの長い間、他の子と出会うことがなかったくらい、私たち小人が数を減らしてしまったのも、あなたがこんなお世辞にもいいとは言えない環境で生活させられているのも、全部人間のせいなの!好き勝手に自然を壊して、私たちみたいな弱い種族を{虐|しいた}げて、乱獲して、見せ物にして……そんな人間たちのどこが信用できるっていうの?」
ここまで聞いて、アオイちゃんはようやく、彼女が以前までの自分と同じように、ただ人間を怖がってあんなことを言ってきたのではなかったのだと気づきました。きっとミドリちゃんは、人間が「怖い」のではなく、人間が「嫌い」なのです。
何か言いたくても、何も言い返すことが出来ませんでした。一つは、ミドリちゃんと喧嘩がしたいわけではなかったから、もう一つは、ミドリちゃんは間違ったことを言ってはいなかったからです。
(そんなの分かってるよ。だって、お母さんが病気になったのだって、きっと本当は人間のせいなんだもん……)
最近、あかねちゃんが勉強していた「こうがい病」。その症状や発症の原因には心当たりがありました。それで、アオイちゃんは気持ちが抑えられなくなって、あかねちゃんの横でそのことを言ってしまったのです。そのあとでハッとしました。(そんなこと、あかねちゃんに言ったってなんの意味もないのに……)
「ごめんなさい、本当に、ごめんなさい……」
でもその時、あかねちゃんが悪いわけではないのに、まるで自分が罪を犯してしまったかのように、涙を流して謝ってくれました。嘘の涙を流すような子でないことは、アオイちゃんもよく知っています。
「…ありがとう。あかねちゃんは、本当に優しいんだね。大丈夫。だからって私、あかねちゃんを恨んだりなんかしないよ。ね、だからもう泣かないで、顔を上げて」
「だって…だって……っ」
もちろんあかねちゃんが謝ったって、お母さんが戻ってくるわけではないけれど。別の人間の罪を自分の罪と感じ、アオイちゃんの痛みを自分の痛みと感じられるくれる彼女の優しさが、アオイちゃんの心を温めてくれたのです。
(…ミドリちゃんの言う通りだよ。みんながみんな、あかねちゃんのような人間でないことだって分かってる。私たちのような小さな生き物のために泣くことのできる人は、どれくらいいるのかな……。でも、そういう子だって確かにいる。私はそれを知って欲しいだけなんだよ…)
それからもミドリちゃんの人間に対する悪態は続き、やっとそれがおさまるのは、20分ほど経った頃でした。
「…ごめんなさい。つい感情的になってしまったわ」
「う、ううん。私の方こそ、もっと危険意識を持つようにするよ」
もっと他に言いたいことはありましたが、せっかくミドリちゃんが落ち着いてきたのにまた蒸し返すこともないと思い、黙っていました。
「ところで、さっき外を歩いていたけど、何か用事があったわけではないの……?」
「や…ちょっと、散歩してただけだよ」
「そう……何度も言うようだけど、外に出る時は本当に気をつけた方がいいわよ」
(…本当は、あかねちゃんに会いに行くつもりだったんだけど、それも言わない方がいいよね。はあ、今日はもう行けないなあ……。……約束破っちゃったから、あかねちゃん、きっと今頃悲しんでる。今度、ちゃんと謝らなきゃ)
きっと今はまだ、ふさわしい時期ではないのでしょう。でも、ここから少しずつ、ほんの少しずつでいいから、ミドリちゃんにも、優しい人間もいるってことを知っていってもらうんだ、とアオイちゃんは胸に誓いました。
(それで、いつか三人一緒に…)
楽しそうに笑うアオイちゃんと、ちょっぴりぶっきらぼうに振る舞うミドリちゃんと、そんな二人を穏やかな顔で見下ろすあかねちゃん。そんな光景に思いを馳せることは、沈んだ心を、ほんの少し暖かく照らしてくれていました。
次の日の昼過ぎ。
「私、スケッチに行ってくるわ」
日が落ちる頃には戻ることを告げて、ミドリちゃんどこかに出かけて行きました。
それから、彼女が十分に離れただろうというタイミングで、アオイちゃんはそわそわと落ち着きのない様子になります。
(今ならきっと、こっそりあかねちゃんに会いに行ける…)
なら、早く行けばいいという話になるかもしれませんが、昨日、約束を破ってしまった手前、あかねちゃんに会うのが少し怖いのです。
でも、悩んで悩んで、やっぱり謝らないままでいるなんてなおさら最低だ、と会いに行くことを決心しました。
「気にしないで。きっと何か事情があったんだよね」
悩んでいたのはなんだったのだろうと思ってしまうくらい、あかねちゃんはあっけらかんとしていました。それに、アオイちゃんが訳あって来れなかったのだということも、ちゃんと分かっていたのです。
やっぱり、あかねちゃんはできた子だ、と思いました。けれど同時に、もうちょっと怒ってくれてもいいのにな、という気持ちもあったのは内緒です。
「あのね…実はうちに、初めて私以外の子がやってきたの」
「それって、アオイちゃんと同じ、小人さんってこと……?」
「うん。歳も私とおんなじくらいの女の子なの」
おんなじくらい、と言ったのは、ミドリちゃんに何回年齢を聞いても、「忘れた」といって語りたがらないからです。アオイちゃんはそれを、不器用な彼女なりの「歳の上下なんて気にせずに仲良くして」というアピールなのだと勝手に解釈していました。
「へぇーっ…!よかったねアオイちゃん!これで一人で過ごす時間が減るんじゃない?」
具体的ではなくとも、普段、自分の見えていないところで、アオイちゃんがつらく、寂しい生活を送っているということを、あかねちゃんは知っています。だからこの間、アオイちゃんを自分の部屋で保護する、という試みもしたのですが、途中途中で問題点が浮き彫りになっていき、結局うまくいかずに終わってしまいました。そんなこともあって、あかねちゃんは今の話を聞いて、とても嬉しそうにしていました。
「うん、その点は本当に助かってるの。でも、一つ大きな問題があって……」
アオイちゃんは少し話しづらそうに、ミドリちゃんが人間を嫌っていることを話しました。あかねちゃんのことも、そしてミドリちゃんのことも大好きだからこそ、話しにくく感じてしまうのです。
「…そっか」
あかねちゃんは、それを聞いてどんなことを感じたのでしょう。そっか、としか言わなかったけれど、その後ろに、言葉にしても意味がない感情が、たくさん隠れているような気がしてなりませんでした。
「じゃあ、その子がいる間は、あんまり私には会いに来れないよね」
「うん…」
「仕方ないよ。そのかわり、会える日はうんと遊ぼう!今こうやってここに来れてるってことは、全く会えないってわけではないんだよね?」
「うん。ミドリちゃん、今はスケッチに出かけてるみたいだから。そういうときは、私もここに来れると思う」
「でも、私のことは気にせずに、ミドリちゃんとの時間も大切にね。やっとアオイちゃんに、同じ小人さんの友達ができそうなんだから」
「え…う、うん」
その言葉を聞いて、どうしてかアオイちゃんはほんの少し、胸がざわついたのを感じました。でも、原因がはっきりとは分からないし、だいいちそれを言ったあかねちゃんに一つも悪気は見えなかったから、戸惑いつつも、うなずく他はありませんでした。
「あ、ミドリちゃん。今終わったとこ?」
住処の近くまで来ると、アオイちゃんよりも先に中に入ろうとしていたミドリちゃんの姿が見えたので、小走りで寄って行きました。スケッチブックと筆を小脇に抱えたミドリちゃんは、なんだかいかにも芸術家という感じで様になっており、ちょっと憧れてしまいます。
「ええ。そっちはまた散歩?」
「う、うん。そんなとこ」
「ふうん」
訝しまれて、怯んでしまいそうなところでした。不審に思われるのも無理はありません。ミドリちゃんからすれば、昨日あれほど忠告したにもかかわらず、また呑気に散歩している、という見方になるのですから。でも、結局このことについてはそれ以上深く詮索してきませんでした。
「どんな絵を描いてたの?」
そう聞かれるやいなや、ミドリちゃんはスケッチブックの1番新しいページを開いて、ん…とアオイちゃんの目の前に突き出しました。
「わあ……これが、今日描いていたものなんだよね?」
「そ」
「へぇー………すっごーい………」
その絵の中の景色は、アオイちゃんが知らないものでした。だから、ミドリちゃんは一人で、まだアオイちゃんが行ったこともないような場所まで行っていた、ということなのでしょう。
紙面の大半は、人間たちの暮らす、とても大きな家々によって占められていました。それは別に、ミドリちゃんの人間嫌いを反映して、恣意的にまがまがしく描かれているというわけではなく、ごく自然に、きっと彼女の目が捉えたままの色やアングルで描かれています。だからでしょうか、しばらくこの絵を見ていたアオイちゃんは、まるで自分がこの景色の中に入り込んでしまったかのような錯覚に陥っていました。
でも、そんな中でもっとも見る者の目を引くのが、道の片隅に小さく咲いた、一輪のたんぽぽでした。変な強調もなく、周りの住宅よりもずっと小さく描かれているのに、肩身が狭そうにするでもなく、どうしてこんなに力強い存在感を放っているのか、アオイちゃんは不思議でなりませんでした。もっと、ミドリちゃんの描いた絵を見てみたくて仕方がありません。
「ねえ、他の絵も見ていい?」
「ええどうぞ」
過去のページには、水彩で描かれた本当にたくさんの景色が詰まっていました。広大な湖や、雪の降る土地、時には、誰からも見捨てられてしまったような場所まで、本当に、色々……きっとこれが、ミドリちゃんの旅のこれまでの軌跡なのでしょう。
「私……ミドリちゃんの絵、すごく好き。うまく言えないけど、優しげで、懐の広さが伝わってきて……なんかちょっと、意外な感じ。でも、すごく好きなの」
「悪かったわね、似合わなくて…」
「ごめん。言い方が悪かったかも。意外だったけど、似合わないなんて全然思ってないよ。私のこと心配してくれたり、ミドリちゃん、結構優しいところあるもんね」
「…あ、ありがと」
話すときはちょっと無愛想だし、人間に対するあたりは強いけれど、ミドリちゃんはつめたい人なんかでは決してないのです。褒められると照れくさそうにしてしまうあたりは、アオイちゃんのような女の子と少しも変わりません。
「なんか、見てたら、私のために一枚描いてくれるって話がもっと楽しみになってきちゃった…」
「描いて欲しいものがあるなら、明日にでも描いてあげるわよ?」
「ほんと?」
「何を描いて欲しいの?なんでもいいわよ、風景でも、物でも、人物でも」
「それじゃあ…」
そこまで言いかけて、アオイちゃんは口を{噤|つぐ}みました。ミドリちゃんの絵で1番見てみたいものとして、その場で、ぱっと頭に浮かんだものをそのまま言うつもりだったのです。
アオイちゃんの頭には、ただ一つ真っ先に、あかねちゃんの姿が浮かんでいました。ミドリちゃんのタッチであかねちゃんを描いたら、どんな素敵な絵になったでしょう。…それに、あかねちゃんに会えなくて寂しいときも、その絵をそばに置いておけば、きっといくらかそんな気持ちが薄まってくれるはずです。でも……。
「…それじゃあ、私をモデルに一枚描いてくれるかな?」
やっぱり今は、そんなことをミドリちゃんに頼むことはできません。あかねちゃん以外で描いて欲しいものがとっさに思いつかなかったのでこう言ったのですが、自分の絵なんか描いてもらったって仕方ないのに、という気持ちもないわけではありません。
「任せて。これは、下手なもの描いたらどやされちゃうわね」
「ふ、ふつーに描いてくれればいいよ。ふつーに、描きたいように」
そして、次の日の朝、二人は昨日の言葉通りに、絵描きとそのモデルとして向かい合っていました。
「そういえば、人の絵を描くのなんて随分久しぶりかも…」
「そうなの?」
「そもそも、人と会うことがなかったから」
「あ、そーか…」
もしかしたら、気丈に振る舞っているけれど、本当はずっと寂しかったのかもしれない……なんて、アオイちゃんは考えました。あかねちゃんに会う前のアオイちゃんがそうだったみたいに。でも、そんな奥深くにある感情を読み取ろうとしても、ミドリちゃんの透徹した瞳にはのれんに腕押しです。本当にただ、他人に対する執着心が人よりも薄いだけだったとしても、彼女に限っては不思議ではない気がします。
話はそれっきりで、ミドリちゃんは真剣な面持ちで筆を動かし始めます。それだけミドリちゃんが集中していると、モデルをしているアオイちゃんの気も自然、引き締まってきます。
こうやって自分の絵を描かれるのって、なんか不思議な感じ。でも、嫌な気はしませんし、自分を描いた絵なんか見たって仕方ない、なんて気持ちはとっくに消えていました。ミドリちゃんがこれだけ真剣に描いてくれる自分の絵は、いったいどんなものになるのかと、気になってくるのは必然と言えるでしょう。
「へぇー、それで、アオイちゃんの絵はもうできあがったの?」
次の日。アオイちゃんはミドリちゃんの絵の話を聞かせるために、やっぱり内緒で、あかねちゃんの部屋を訪れていました。
「うん。しかもミドリちゃんね、私が気に入ってるのを見て、今度また私の好きな絵を描いてくれるっていうの!もう友達ってことでお金は気にしないって!こういうの、友達料金っていうのかな?」
「そ、それはちょっと違うような……というか、どこでそんな言葉覚えたの?」
あかねちゃんはそのあと、アオイちゃんから、小指に乗せることもできそうなくらいに小さな紙を渡されます。どうやら、これがミドリちゃんが描いたというアオイちゃんの絵のようです。見てみると確かに、その板の上には小さく何かが写されています。が、そのままではとても鑑賞できそうにありません。
あかねちゃんは机の中から虫眼鏡を取り出し、早速それを使って見てみました。
「あ、へえーこれが………いい絵だね。アオイちゃんの特徴をよく捉えられてる。それに、なんていうか落ち着きがあって……それでいて、優しい絵」
「すごいよね、ミドリちゃん。これで私たちと同じくらいの歳なんだよ?」
「うん。すごい。これだけの絵をかけて、それで、たった一人で色んなところを旅してるんでしょ?ほんと、すごいや……」
「でもね、どうもミドリちゃんにとっては、この絵は不満の残る出来だったみたいなの」
「そうなんだ、こんなに描けてるのに……多分、描いた本人にしか分からない感覚なんだろうな」
そのあとも、あかねちゃんはしばらくその絵を眺めて、もう十分見られたと思うと、アオイちゃんに返しました。
「私も、会ってみたいなあ……」
それから、あかねちゃんは独り言のつもりでそう小さく呟いたのですが、アオイちゃんにはしっかりと聞こえていました。
ある日、アオイちゃんはミドリちゃんの付き添いで、あかねちゃんの家の庭に咲くお花の近くまで来ていました。お花に乗って休んでいるアオイちゃんを描きたいのだといいます。
指示に従ってアオイちゃんがお花の上に登ってからしばらく経ち、お日様が心地よくてうとうととしかかっていた頃。ミドリちゃんの呼びかける声ではっと目を覚ましました。
「ねえ、早く降りた方がいいわ!人間が帰ってきたの…!」
状況が掴めないまま、ミドリちゃんの言う通りに土の上に飛び降ります。そして、間髪入れずにミドリちゃんに手を引かれて、花の陰に隠れさせられました。この辺で、アオイちゃんもようやく状況への理解が行きはじめました。
どうやら、あかねちゃんが学校から帰ってきたようです。高い垣根に遮られて姿は見えないけれど、聞こえてくる足音があかねちゃんのものだったから分かるのです。そうと分かれば、別にこそこそと隠れる必要なんてないのですが、ミドリちゃんが一緒にいる以上、今あかねちゃんと顔を合わせてしまうと話がこじれかねません。なのでここはミドリちゃんに合わせて、しっかりと見つからないように身を忍ばせることにしました。
やがて、ランドセルを背負ったあかねちゃんが、アオイちゃんたちのいる庭へと足を踏み入れてきました。隠れたとはいえ、そのまま庭の横を通過して家の中に入っていくものだと思っていたので、この想定外の行動にアオイちゃんはいくらか動揺していました。そしてそれは、ミドリちゃんも同様です。
「何をするつもりなのかしら…」
「さ、さあ…」
二人は身を寄せ合いながら、その大きな侵入者の動向をの動向をこっそりと見守っています。くっつくミドリちゃんの体の内側から、心臓が刻むリズムがはっきりと伝わってきます。
あかねちゃんが何のためにこの庭に入ってきたのかは、彼女のことをよく知っているはずのアオイちゃんにも分かりません。けれど、あかねちゃんが右手に持っている、ゾウさんの頭を模したような形状の容器が、先ほどから気になってはいました。
のし、のし、と芝生を踏みしめて歩く音を聞いていると、いよいよアオイちゃんもドキドキと緊張した気分にさせられてきます。あかねちゃんと初めて出会った夜に、ペン立ての後ろに隠れたときのことを思い出していました。
「あんな一見気の丸そうな女の子だって油断しちゃダメよ。きっと私たちを見たら、迷わずに捕まえにきて、逃げられないところに閉じ込めようとするに決まってるわ」
その言いように、アオイちゃんはムッとして、思わず口を尖らせてしまいました。
「…そうやって決めつけるのはよくないと思うけど」
「この間もそうだったけれど、あなた、やけに人間の肩を持とうとするのね?」
「い、いや、そういうわけじゃないんだけど………私はその、ミドリちゃんにもっと広い見方を持って欲しいというか…」
「広いも狭いもあるもんですか…!私は実際に色んな場所で、人間の悪行を見てきたっていうのに」
そう言い合っている間に、あかねちゃんがだんだんと二人の隠れる場所に近づいてきていたのに、周囲一帯が彼女の作り出す薄暗い影で覆われるまで、全く気がついていませんでした。
二人ともはっとして正面に目を向けると、そこには二人の背丈の優に倍はありそうな、ピンク色の子供用のシューズがずっしりと構えていました。そこから目線を上げていくと、そう遠くないところに(といっても、二人が肩車をしたところで到底手の届かないような高さにですが)見慣れた顔がありました。あかねちゃんが、二人の隠れる花のすぐ前でしゃがんでいたのです。その顔はじっと、何か少し楽しげに二人のいる方を見下ろしています。もう、あかねちゃんに見つかってしまったのでしょうか?でも、アオイちゃんが慎重にその視線を辿ってみると、どうやら二人ではなく、花の方を見ているようでした。
アオイちゃんはそこから、顔を下に戻すことができませんでした。小さな二人を匿ってくれる、背の高い一輪の花。でも、そんな花でも、あかねちゃんの曲げた膝の高さにすら遠く及んでいないのです。
ちょっと前なら、そんなあかねちゃんの途方もない大きさにただただ戦慄するばかりだったでしょう。でも、今はむしろ、興奮の混じったようなドキドキを感じています。
(人間って…あかねちゃんって、こんなに大きかったんだ……。)
そして不思議なことに、ちらりと横に目をやると、あれだけ人間を毛嫌いしているミドリちゃんの方も、見惚れたようにずーっと上を見上げているのです。ひょっとすると、人間の中身は嫌いでも、その巨大な肉体には、芸術家として惹かれるものがあったのかもしれません。
「おっきいね……」
「ええ……」
こっちには見向きもしないまま、ミドリちゃんは口だけで答えていました。それ以降は言葉もなく、二人してあかねちゃんの、大きくて美しい体の虜になっている、そんな時間が続きました。
そのせいで、二人のいる土に注がれようとしていた大量の水への反応が遅れてしまったのです。
「~~♪」
ご機嫌に鼻歌を歌いながら、あかねちゃんはお庭に咲いた花に水をあげていました。学校から帰った後に、綺麗に咲いてくれたキキョウやガーベラといったお花を見るのが、近頃のあかねちゃんの楽しみになっています。それに、最近撒いたタチアオイの種も芽を出しはじめていて、来年の夏頃に見せてくれるであろう成長した姿の想像に花を咲かせていました。
(あっ、虹ができてる!)
それを見ると、あかねちゃんの心はいよいよ弾んできました。
(アオイちゃん、今日は来てくれるかな?)
もちろん、そのアオイちゃんが今足もとで、自分の注いだ水でびちょびちょになっていることなんて、あかねちゃんが知る由もありません。
「くしゅんっ!」
「散々な目にあったわね……」
あかねちゃんが庭から出て行ったことを確認すると、服も髪もびしょ濡れになった二人は、とぼとぼと引き上げて行きました。
「もう、ゆるせない!さっきの絵も濡れてさっぱりダメになっちゃったし」
「ええっ、それは悲しいね……」
「一から描き直す気も起きないし、お蔵入りにするしかないわね……付き合ってくれたアオイさんには申し訳ないけれど」
「仕方ないよ。でもすごかったね。私、あんなに近くで人間さんを見たの初めてだったよ…!」
「すごいって……あなたね、もう少しで見つかるところだったのよ……?」
そういうミドリちゃんには、心なしか、普段人間をこき下ろすときのような威勢がありません。絵がダメになってしまったショックからなのでしょうか?もしかしたら、あんまり呑気なアオイちゃんにほとほとあきれ返ってしまったのかもしれません。でも、そればかりではないように思えました。
あのときの、しゃがんだあかねちゃんを見上げるミドリちゃんの視線……あれほど何かに心を奪われているミドリちゃんを、アオイちゃんは見たことがありません。ちょっと残念でもありますが、先日、自分の絵を描いていた時も、そして今日あかねちゃんが帰る前までも、ずっと、どこか冷めた、大人なミドリちゃんを見ていたのです。
けれど、あのときは確かに―――未知の美の発見に心を躍らせる、無邪気な子供のミドリちゃんが顔を覗かせていました。
「…ねえミドリちゃん、あの子を描いてみたら?」
「何を言い出すかと思ったら……そんなことできるわけないでしょ」
でもミドリちゃんは、興味がないとは言いませんでした。
「さっきみたいに、見つからないようにどこかからこっそり描いていれば問題ないよ」
「だとしても、モデルに好き勝手動かれるようだと上手く描けないわ」
「それは、私が頼んで………あっ、じゃなくて!私実は知ってるの!あの子、いつも決まった時間に読書にふけっているから、その間ならゆっくり観察できるんじゃないかなっ!?」
言ってから、人間一個人に詳し過ぎると不審がられはしないか不安になりましたが、どうやらそんなことも気にとまらないくらい、ミドリちゃんはこの提案に心をぐらつかせているようでした。
「……本当でしょうね?」
「……って、ことなんだけど……」
日付けは変わって、アオイちゃんはまたあかねちゃんの部屋に来ていました。目的はもちろん、あかねちゃんとの口裏合わせです。
「つまり、私は明日の昼くらいから、確実にここで本を読んでいるようにすれば良いんだね?」
「うん。勝手なお願いで悪いんだけど…」
「いいっていいって、別に苦になるようなことじゃないし」
「ありがとう、ほんとに助かるよ」
このお礼は、いつかちゃんとした形で返すつもりです。そう、あかねちゃんのところに、ミドリちゃんを合意の上で一緒に連れてくることで……今回の企ては、きっとそのための大きな一歩になるに違いない、とアオイちゃんは思っています。
「でも、私のことまで描いてくれるんだあ……えへへ、なんか照れちゃうなぁ」
それにそうです。最初は意識していなかったけれど…アオイちゃんの念願の一つであった、ミドリちゃんの描くあかねちゃんが、ついに見られるかもしれないのです。
そして当日。ミドリちゃんとアオイちゃんの二人は、そろそろとあかねちゃんの部屋に忍び込んでいました。それまでの道のりは、アオイちゃんが案内していました。もちろん、普段からあかねちゃんに会いに行くためにこの道を通っている、なんて言えませんから、生活に必要なものを時々「借り」に行っている、ということにしてあります。
かくして、いよいよあかねちゃんが向かっている机の上に乗り上がります。何も手を施さなければ、机は小さな二人にとっては高過ぎてとても登っていくことなどできませんが、今回はあらかじめあかねちゃんに、机の上から床に向かって、細い一本のコードを垂らしてもらっていました。コードは、あかねちゃんが一年生の頃から使っている、電動鉛筆削りにつながっており、無事登り切れば、そのまま鉛筆削りの陰に隠れることができるようになっています。
物陰から少し顔を出し、正面を覗いてみると、その先にははっきりと、机の上に置いたハードカバーの本に目を落としている、あかねちゃんが見えました。
「わ、す、すごい。近いわっ、この間に負けないくらい…!」
興奮気味のこの声は、ミドリちゃんのものです。
「ふふっ、人間のことあんなに嫌いって言ってたのに、結構ノリノリだね」
「嫌いは嫌いよ?でも、芸術に私情を挟まないっていうのが私のシュギだし。それにあの子、絵のモデルとしては申し分ないわ。第一印象は地味だけど、素材はなかなかどうして悪くないと思う」
「だっ……だよねだよねっ!!私もそう思う!!」
「わ、ちょっと静かにしなさい、見つかっちゃうでしょ!てか、なんで急にそんな熱くなるの」
「え?あ、あははは……」
その頃、読書中のあかねちゃんは……
(ふ、二人とも、聞こえちゃってるよー……)
もしこれが自分じゃなければどうなっていたんだろう、と気が気ではありませんでした。会話の内容までは聞き取れないけれど、音の根もとを辿れば、二人がどこに隠れているのか丸わかりです。急に鉛筆削りをどかしてびっくりさせてやろう、という悪い考えもほんの一瞬脳裏をよぎりましたが、流石にそれはやめておきました。やがて、話し声が落ち着いたので、きっと今自分の絵を描き始めたのだろう、と思い至りました。
絵を描いてるミドリちゃんに下手に話しかけて邪魔してしまうのも悪いので、アオイちゃんはその隣で、物陰の向こうのあかねちゃんをぼーっと眺めていました。
そうしていると、今更ながらモデルとして申し分ない、というミドリちゃんの言葉は、決して嘘なんかじゃないんだろうな、と思えてきます。こうして、誰もいない空間で静かに本を読んでいるあかねちゃんは、なんだか本当に「絵になる」のです。もう半年近くあかねちゃんと一緒にいますが、こんな一面があったということは、この時になって初めて知りました。それはきっと、仲がいいが故に、こんな風に第三者の目線を借りて、じっくりと彼女を見つめたことがなかったからなのでしょう。
アオイちゃんは、あかねちゃんの恋愛相談に乗ってあげたときのことを思い出していました。片思いをしている男の子がいる、なんて言われてもぴんとこなかったけれど、照れながらにそう話すあかねちゃんは、なんだかいつにもましてきれいで、たったそれだけの理由で、アオイちゃんは彼女の恋のために力を貸してあげることに決めたのです。
(きっとその男の子だって、今のあかねちゃんを見たらイチコロだよ)
でも、誰かに見せるのは、少しもったいないような気もしました。
「ねえミドリちゃん、暗くなってきたからそろそろ帰った方がいいかも…」
途中途中でまどろみながら、ふと遠くの窓の外を目を向けると、その向こうには染まりたての夜の色が見えました。このくらいになると、普段であればあかねちゃんとも別れている時間です。なぜなら、真っ暗な道をこの小さな体で歩くのは、とても危険なことだからです。
「あら、もうこんな時間……」
それはもちろん、ミドリちゃんだって分かっているはずで、紙面と窓を交互に見つめて、葛藤している様子です。
「ごめんなさい、もう少しここで描いていたいの……あとちょっとで完成まで持っていけるから。だから、アオイさんは先に帰ってて。これ以上暗くなると危ないもの」
一度そう決めたミドリちゃんからは、もう引っ張らても動かないという固い意志を感じました。日を改めて描くことだってできないわけではないはずです。それを選ばないのは、自分の心についた火を、消してしまいたくなかったからではないでしょうか。
「だったら、私も残るよ。最後まで付き合わせて。あ、邪魔じゃなかったらだけど…」
「邪魔なんかじゃないわ。でもダメよ、ちょっとって言ったけど、あと1時間以上は必要だわ。終わる頃には本当に真っ暗よ。だから…」
「だったらなおさら、ミドリちゃんを一人で帰らせるわけにはいかないよ。私なら大丈夫!ここから{家|うち}までの道なら、私の方が詳しいんだから」
「……勝手にすればいいわ」
そう言うと、ミドリちゃんはぷいっと紙面に向き直りました。そうしたのは怒っているからではないのだと、数日間の付き合いの中でようやく分かってきたような気がします。
あとは、もう本当に完成を待つだけです。途中で、あかねちゃんがご飯に呼ばれていなくなってしまったけれど、もう必要ないと言わんばかりに、ミドリちゃんは脇目も振らず筆を動かし続けています。のっけからアオイちゃんは描き途中の絵を覗くことはしないと決めていたので、どこまで進んでいるかを詳細に知ることはできませんでしたが、いよいよラストスパートに差し掛かっているということが、隣に座っているだけで伝わってくるようです。
「できたわ……!」
勢いよく立ち上がると同時に、ミドリちゃんはそう声をあげました。
「ほんとっ!?おめでとう!」
その報せを受けて、アオイちゃんもめいっぱいの喜びをあらわにします。
「ええ!でももう暗いから、アオイさんには帰った後でゆっくり見せるわ!久しぶりに、満足のいく絵が描けた気がする!」
道具を回収する動作の節々にまで、なんだかミドリちゃんの抑えきれない興奮が表れているようでした。ミドリちゃんをここまでにさせる絵が一体どんなものなのか、期待が膨らんで止みません。でも、それ以上に。
「ありがとうっ、アオイさんが付き合ってくれたおかげよ!!」
こんなにも嬉しそうなミドリちゃんを見られたことで、アオイちゃんは、隣でずっと待っていた甲斐があったと感じるのでした。
真っ暗になった夜道を抜けて、二人はどうにか無事に住居に帰ってきました。
「は~、怖かったぁ…ほんと、あんなに暗くて静かな道一人じゃ無理だよ……」
「そうね。やっぱりアオイさんに残ってもらって良かったわ。せっかく絵が完成しても、帰る途中で道に迷って何か危険な目に遭ってたら世話ないもの……」
「…そう、絵だよ!あか…じゃなくて、あの人間さんの絵!私はやく見たい!」
「そんなに焦らないでもすぐ見せるわよ。てか、私も見てもらいたかったんだから」
そう言って、ミドリちゃんは持ち帰った絵を、鑑賞ができるように設置しました。
それはとても美しく、気品のある絵でした。例えば、大きな図書館のエントランスホールの静謐な空気の中に置かれても、決してその調和を乱さないくらいには。だから、最初の数分、思考を忘れるほどにその絵に見惚れてしまっていたことは、必然だったでしょう。
(あれ、でも、この絵……)
絵に描かれていたのは確かに、最前、ミドリちゃんの隣で眺めていた、読書をするあかねちゃんです。画上のあかねちゃんも、本物と比べて遜色がないくらいにきれいでした。けれど、その絵をずっと見ているとしだいに、感動よりも何かざらざらとした違和感が{勝|まさ}ってくるのです。
(なんでこんなに……ユーウツそうに感じてしまうの……?)
アオイちゃんの中でのあかねちゃんのイメージは、優しくて、心が広くて、素直で、頼りがいがあって、笑顔が素敵な子、というようなものでした。だから、絵の中の憂鬱で儚げなあかねちゃんは、アオイちゃんにとっていつしか受け入れがたいものになっていました。
このことについて問うと、ミドリちゃんには「自分の絵の説明なんてしたくない」と素っ気なく返されてしまいました。「私があの子から感じたものを描いた、とだけ言っておくわ」
これが、ミドリちゃんからみたあかねちゃんなのでしょうか?アオイちゃんが気付けなかったあかねちゃんの一面を、ミドリちゃんの鋭い観察眼が捉えたということなのでしょうか?
(そんなことないもん。あかねちゃんのことなら、私の方がよく分かってるんだから……)
一度そう言った方向に思考が傾き始めると、どんどん(ミドリちゃんは人間が嫌いだからそういう風に見えるんだ)と思い込むようになっていきました。いつも一緒にいるアオイちゃんより、昨日初めて知ったミドリちゃんの方が、あかねちゃんのことをよく見ている、なんてことを簡単に認められないのは無理もないかもしれません。
別の日、アオイちゃんはあかねちゃんに見せるべく、あの絵を持ち出していいか、とミドリちゃんに尋ねました。けれど「なんのために?」と訝られると、答えに困ってしまい、結局あかねちゃん自身に見てもらうことは叶いませんでした。仕方なく、何も持たずにあかねちゃんに会いに行ったところ「そっかぁー……残念だけど、しょうがないよね。それで、どんな絵だった?」と聞かれ、「あかねちゃん、綺麗に描かれてたよ。本物そっくり」と当たり障りのない返事しかすることができませんでした。本当に感じていたことを伝えるのが、なんだか怖かったのです。そしてそれ以前に、ミドリちゃんに絵の持ち出しを断られたときだって、残念に思う反面、(絵を見せて、もしあかねちゃんが「すごいね。ミドリちゃんは私のことをよく見てる」なんて言ったら…?)という懸念が打ち消されて、ほっとする自分がいることにも気付いていたから、アオイちゃんは(私、ひきょう者だ…)と自己嫌悪に陥らずにはいられませんでした。
一方で、ミドリちゃんは今、自分でも戸惑ってしまうくらいに、もっとあの人間の絵を描きたい、という意欲が{漲|みなぎ}っているのを感じていました。他の絵を描いていても、夕食の時間でも、暖を取るために、アオイちゃんと身を寄せ合って寝ている時でも、あかねちゃんを描くことばかり考えてしまいます。
(あれだけ人間を唾棄していた私がこんなザマじゃ、世話ないわよね)
自嘲気味の態度をとってみても、この気持ちを静めることはどうやらできないようです。
まだ、今よりももっと幼かったミドリちゃんが、一人で旅に出ることを決めたわけ。それはたったひとつ、「世界一美しいモノを描きに行きたい!」という無鉄砲な熱意が、ついに抑えきれなくなったからでした。
旅の中で、彼女は確かに様々なことを識りました。でも同時に、その場限りの出会いや発見を重ねて行ったり、行く先々で現実の厳しさ、恐ろしさを識っていったりしたことで、元来のそういった猪突猛進な性質を、いつしか失くしてしまっていたのかもしれません。
ふと、目を開けてみると、まつ毛が触れ合いそうなくらいの近さに、アオイちゃんのあどけない寝顔がありました。
(のんきな子だとばかり思っていたけれど、私のほうが大事なことを思い出させてもらっちゃったわね)
苦笑しながら柔らかなその頬を突っついてみると、「ふへ」と耳に毒のないような声が漏れました。
そして別の日、ミドリちゃんはいよいよ再度単身、あかねちゃんの部屋に潜り込むことを決心しました。アオイちゃんには内緒です。危険な行為に彼女を巻き込みたくなかったというのが半分、あれほど人間を貶した手前、人間を描くことに熱意を滾らせているのを知られることが気恥ずかしいというのが半分でした。
先日たった一度訪れただけではありますが、あかねちゃんの部屋までの順路は頭に入っています。この辺はさすが旅人さんといったところでしょうか。わずかな隙間をかいくぐって、物陰と物陰の間を、物音を立てずにすばしっこく駆け抜けて……ミドリちゃんは無事に、目的の場所にたどり着くことができました。
ついた時点では、部屋の中に人の気配はありませんでしたが、人間の子供たちが「がっこう」という場所に通うことは知っているので、それも想定済みでした。あの時と同じ、鉛筆削りの陰で画材をセットしながら、幼くて大きなモデルの女の子の到着を待ちます。
(…!何者かの気配!)
ミドリちゃんはそこでぴたりと動きを止め、意識を研ぎ澄まします。はじめは部屋の主が帰ってきたのかと思いましたが、どうやらもっと小さな生き物のようです。その姿を確認しようと、ちょっとずつ、慎重に鉛筆削りの陰から顔を出していきました。
(なっ、あれは……アオイさん…!?)
その通り、もう一人の侵入者の正体は、あのアオイちゃんだったのです。ミドリちゃんが呆気にとられている間に、彼女はピラミッドのように床の上に積まれた大小の本の上をぴょんぴょんと跳ねていって、広い広いベッドの上までたどり着いていました。
(何やってるのよ、こんなところで…!)
ミドリちゃんがここに来ようとしていたことに気付いて、連れ戻しに来たのかもしれない、と考えましたが、どうやらそういうわけでもなさそうです。なぜかといえば、ベッドの上に上がってからというもの、アオイちゃんは周りを探すような素振りも見せずに、その場でごろんと寝転んでしまったのですから。
(とにかく、早く助けにいかないと…!あんなところにいては、すぐにあの人間に見つかるに決まってるわ!)
そう思い、ミドリちゃんが陰から飛び出そうとした時でした。
ただいまぁ~
「っ…!?」
遠くの方から、あの人間の女の子のものであるとか思えない声が聞こえたのです。空耳でもありません。その証拠に、声の後に続くように、だんだんと人間の重々しい足音が迫ってきているのです。
慌ててアオイちゃんの方に視線を戻すと、流石の彼女も女の子の帰宅に気づいたようで、体を起こして足音の聞こえてくる方をじっと見ています。けれど、何か様子が変です。
(は、早く逃げなさいよ…!!)
起き上がったまま、アオイちゃんがその場から動こうとしないのです。
腰が抜けて動けなくなっていてもおかしくはありません。でもベッドの上は、ミドリちゃんのいるところからは大分離れているので、今からミドリちゃんが助けに行こうにももう時間がありません。下手に飛び出して、二人まとめて捕まえられてしまうというのが最悪のケースです。そうなっては誰からも助けてもらえず、二人仲良く一生あの子のペットとして生きていかなければならなくなるでしょう。
アオイちゃんは、絶えず出会いと別れを繰り返す旅の中で、初めてできた友達でした。旅の間、ミドリちゃんは必要とされているのは自分の絵であり、自分ではないのではないか、という不安を慢性的に抱え続けていました。でもそんな悩みも、アオイちゃんといる間は忘れることができたのです。心のどこかで、絵を描かせる依頼主ではなく、絵に付き合ってくれる彼女のような友達の存在を、ずっと求めていたのかもしれません。
そんな友達が今、絶体絶命の危機に陥っているのに、自分は指を加えて見ていることしかできない。長旅の経験も、ずっと飼い慣らしてきた人間への敵対心も、こんな肝心な時に何にも役に立ってくれない。相手はたった一人、自分たちと同じくらい幼い女の子だけなのに……。これまで味わったことのない無力感に、ミドリちゃんは泣きたくなってしまいました。
直後、足音は最高潮に達し、ついに部屋の主の女の子が、威風堂々とその姿を現しました。
(見つかった…)
その瞬間はあまりに呆気なく訪れました。しゃがみ込んで、ベッドの上の異物を、心なしか嬉しそうに見つめる女の子。あんな大きな存在に見下ろされるアオイちゃんは、どんな気分でいるのでしょうか。
やがて人間の女の子は、アオイちゃんに向かって手のひらを差し出します。それに合わせてすぐにアオイちゃんも、ぴょんっとその手のひらに乗り、そのまま女の子の顔の高さまでさらわれていきました。
ミドリちゃんはそこで、ようやく違和感を覚えました。
(今あの子、自分から手の上に乗らなかった?)
それも、なんの躊躇もせずに。それまで腰が抜けて動けなかった者の行動として、あまりに不自然ではないでしょうか?
アオイちゃんが別に動けなかったわけではないのなら、それは同時に「人間が来るのを分かっていながら動かなかった」ということになります。
その意味を考え、ミドリちゃんは首を振ります。まさか、そんなはずはない。そんなことあってはならない、と。
でも、次の瞬間、初めて直に聞くあの女の子の声が、全ての答えを明かしたのでした。
「ただいま、アオイちゃん」
遠くから、ミドリちゃんが呆然と女の子の方を眺めていると、その上にお尻をついて座っているアオイちゃんの姿が確認できました。人間と小人を並べて見たことなどなかったミドリちゃんは、そこでよりはっきりと、自分たちがどれだけちっぽけな存在であるかというのを思い知ることになりました。でも今は、それはさほど大事な発見にも感じませんでした。
手のひらの上のアオイちゃんが、女の子に向かって何か話しています。人間のものと比べて一回り小さくてか細い声は、遠く離れた場所では聞き取ることができません。
でも、視力に自信のあるミドリちゃんには、アオイちゃんが今そこでどんな表情でいるのか、見てとることができました。二人がどんな関係であるかを理解するには、それだけで十分だったのでした。