1にちめ 前編
目次クリックすると開きます
「うわああっ!やばい、追いつかれる…っ!」
捕まったらエサにされてしまうような大きさのけものから草をかき分け逃げ続けて、はや10分ほど経とうとしていました。なおもけものは執拗に二人を追い続けていましたが、逃げる二人の体力は既に切れかけていて、じわじわと距離が縮んでいっています。
「お兄ちゃん、あそこ!」
走りながら、二人のうちの女の子の方が、遠くに見えるものを指さします。それは、ちょうど二人が通れそうでけものには通れないくらいの幅の鉄格子がついた穴のようでした。
あそこに入ることができれば、けものが諦めて帰って行くまで中でやり過ごすことができそうです。距離はおおよそ走って30秒かかるほど。たどりつくことができれば二人の勝ち、できなければ負け…けものにぺろりと食べられてしんでしまうという、とても分かりやすい展開です。お兄ちゃん、と呼ばれた男の方は妹の手を引っ張り、最後の力を振り絞って、その穴まで向かっていきました。
「うおおおおおっ!!!」
みるみるうちに穴が近づいて、大きく見えるようになっていきます。火事場の馬鹿力とはよく言ったもので、兄の方はこの時、普段なら30秒かかる距離を20秒で走り抜けてしまったのです。
鉄格子をすり抜けて振り返った時、けものは勢い余って鉄格子に激突していました。二人の方に来ることはないと分かっていても、その激突の衝撃や、しばらく二人を睨みつけながら唸っている姿は、恐怖を植え付けるのには十分な材料でした。やがてけものはお尻を向けて去っていきました。二人は揃って地面にへたり込みます。鉄格子の向こうににゃあにゃあと何度もなく声を聞いて、こんなことでは先が思いやられる、と二人は思いました。駆け込んだ場所は、虫か、小人でもなければ通り抜けることができないような、人間の家に取り付けられた換気口の中なのでした。
「いつの間に暗くなってきたね」
格子の向こう側に見える空を眺めて、女の子がつぶやきました。彼女の名はロコ。年は人間で言うと13歳にあたります。
「そうだな、今日はここに泊まることにするか…」
答えた彼の方は名をハルと言います。年は人間で言うと16歳、そして、ロコの兄でもあるのでした。
この小人の兄妹は、訳あってこのニホンコクを旅している最中なのです。最中、といっても、昨日自分たちの暮らしていた場所を出発したばかりの、駆け出しの旅人たちでしたが。
そういうわけで、これからやってくるのは、見知らぬ場所で迎えるはじめての夜。不安と緊張、そして未知の領域に足を踏み入れることへの少しの気持ちの高揚が混じって、二人の口数は普段よりも少なくなっていました。
ぐぅー。
それまで延々と聞こえていたこおろぎの合唱に、奇妙な音が重なったのをハルは感じました。見ると、ロコが顔を赤くして隠すようにお腹を抑えています。
「腹が減ってるなら言ってくれればいいのに」
「…だって恥ずかしいもん」
「何言ってんだ、これからますます過酷な旅になる可能性が高いのに、そんなことで食欲を我慢してたらやっていけないぞ」
「そっか、ちゃんと食べないと体が持たなくなっちゃうよね…」
恥じらいながらも自分のいうことを素直に聞き入れてくれるロコのことを、世界一の妹だとハルは思っています。
「よし、今から俺が外で食べれそうなもの探してくる!」
「えっ…」
ロコが戸惑いを覚えた時には、既にハルは鉄格子を抜けようとしていました。
「大丈夫?暗くなってきたし、いつさっきみたいな生き物に襲われるか分からないよ…?」
「そしたらさっきみたいに逃げ切ればいいだけさ」
「逃げ切れなかったらどうするのっ」
「相変わらず、ロコは心配性だなぁ…大丈夫、危険だと思ったらすぐに引き返してくるよ。食べ物を取ってこれないまま戻ってくるかもしれないけど、その時はゴメンな」
「食べ物なんかより、お兄ちゃんの命の方が大事だよ!」
ロコの声が、換気口の中にじんじんと響き渡りました。この時ばかりは、こおろぎも合唱をやめていたように思えます。
「そうだよな…悪かった」
ハルは苦笑いを浮かべることしかできませんでした。できることなら、妹の健気な心遣いに答えてあげたいというのが、ハルの率直な気持ちでした。
「でもロコ……俺はこの旅に、命をかけるつもりで出てきたんだよ」
その背中は、ハルがはじめて旅に出ると言い出した時に見たものと一緒で、ロコは返事を失いました。まっすぐな意思と確かな覚悟を持った、一人の男の背中です。
「だからどんなに危険を冒すことになっても、必要な食料があれば取りに行くし、手がかりが見つかりそうな場所があれば迷わずそこにいく」
反論がないのを確かめると、ハルは背を向けたまま歩き出しました。
「…っ」
ロコは、ハルが出て行ったまま帰ってこないことを何よりも恐れていました。
あの日、病気をしてしまった私のための薬草取りからハルが帰ってきた時、一緒に行っていたはずの両親がハルの隣にはいなくて、誰よりも強い心を持っていたハルの目から、涙がとめどなく溢れていて———突然地獄に落とされたような、そんな感覚だったのです。
もう絶対に、あんなことが起きて欲しくない。そう思った時には既に、足が動き出していました。
「だったら、私も行くっ!」
「ロコ…」
振り返ったハルは、困ったような表情を浮かべていました。しかしそこには、手がかかる生徒ほど可愛いと感じてしまう先生のような感情がありました。
「言い出したら聞かないもんな、お前は…」
「それはお互い様だよ」
いつの間にか、二人の会話がいつもの調子に戻っていました。
「うわー…」
二人はあるところで立ち尽くしてしまいました。上の方でトマトが実っている木の前です。ここは人間の家の庭ですから、このトマトの木も人間が植えたものなのでしょう。ハルはさっそくその木を登って実を落としにいこうと思いました。しかし木の根元で、恐ろしい光景を目にしてしまったのです。
それは、きりぎりすがこおろぎを捕まえて、むしゃむしゃと食べているところでした。
ロコがうっかり悲鳴をあげそうになったので、ハルがとっさにロコの口を手で塞ぎます。気づかれては、今度は自分たちがあのこおろぎと同じ道をたどることになるかもしれないのです。ですが幸い、きりぎりすは食べるのに夢中で、二人には目もくれませんでした。
「お兄ちゃん…」
ハルの背中に隠れながら、ロコはちらりちらりと様子を伺っています。
「分かってる、あれじゃとても木には近づけないよな。引き返そう」
こくり、とロコが静かに頷きました。俺一人なら行ってたかもしれないけど、という台詞が後に続きそうになるのをハルはぐっと飲み込みます。
換気口に戻ろうと歩く二人の足取りは、行きと比べて少し重たいようでした。再びぐぅーという腹の音が鳴りました。これはハルの音です。と思いましたら、今度はハルの隣で別の腹の音が鳴りました。この時ばかりは二人に笑いが起きました。ですがその笑いも長くは持たず夜のやみに消えていってしまいます。
ハルは、自分の妹一人笑顔にしてあげられない自分の無力さを感じていました。ハルが敵に回そうとしている相手は、きりぎりすなど比較にならないくらい大きくて、恐ろしい生き物なのです。もしそんな大きな相手に襲われたとき、果たして自分はロコを守ることができるのだろうか…彼が頭で考えるのは、そんなことばかりです。そうしていると、ロコが立ち止まって何やらきょろきょろと辺りを見回しています。
「ねえ、なんだかいい匂いがしない…?」
言われてみれば確かに、どこからか美味しそうな匂いが漂ってきています。美味しそうで、嗅いだことのない匂いなのに、どこか懐かしい感じがします。少ししてハルの頭の中に、台所に立つお母さんの背中が浮かんできました。
「…中で人間がご飯を作ってるのかも」
「いいなあ…おいしいごはんに、ぽかぽかおふろ…」
ロコが匂いにうっとりしている間に、ハルは家の壁をくまなく調べていました。匂いが外まで伝わってくるということは、必ずどこかに空気の通り道があると考えたのです。そしてその予感は当たって、頭上で小窓が開いてるのを見つけました。
「なあロコ、人間の家なら色々食べ物や道具を調達できると思わないか?」
「えっ、お兄ちゃん、それってまさか…」
ハルは黙って頷いています。そして、窓の高さまで伸びている植物のツルに手をかけました。
「お前もあそこまで登れるよな?」
今度はロコがおずおずと頷きます。小人たちにとって、この程度の高さを登ることは朝飯前です。SAS●KEのふぁいなるすてーじは、彼らにとってはジャングルジムみたいなものです。
「ほ、ほんとに行くの?」
「おうよ、それに、これからのことを考えて、お前も一度人間っていうのを見ておいた方がいいんじゃないか」
それはその通りだとロコは思いました。ハルと違ってロコは、人間のことは話で聞いたことしかなかったのです。
「捕まったらどうしよう…」
ツルを登りながら、ロコがつぶやきます。
「そのときは、そのときさ」
いかにも適当な返事でしたが、声の調子などから、ハルが適当を言っているのではないということはロコにも分かりました。もしかしたら、ハルはロコよりもよほど、人間を恐れていたかもしれません。人間に目の前で両親を攫われたハルだからこそ、その恐ろしさはよく知っているはずでした。
窓を通り抜けて見た光景に対しての衝撃を、ロコは一生忘れることがないでしょう。
すぐ近く、窓辺から飛び込めば届きそうなほど近くで、人間が活動していたのです。
ロコはあっと声をあげそうになりましたが、すんでのところで回避します。調理台より下は隠れていて見えませんでしたが、見えている部分だけでも、ロコの全身の何十倍もの大きさがあるのです。カレーの入った鍋が、ロコには地獄の釜に見えていました。
「おい、ぼーっとしてると見つかっちまうぞ」
なるたけ小さな声でハルが話しかけます。そうでした。今は人間の意識がカレーに向いているので見つかっていませんが、もし気まぐれにあの大きな顔を上げられたりでもしたら、簡単に視界に収まってしまうのです。二人は移動を始めます。猫に追われていた時よりもよほど生きた心地がしませんでした。気づかれないように調理台に降りて、さらに安全に床に降りられそうな場所に向かいます。
調理台を歩いている途中、キャベツやにんじんなどの野菜の切れ端が落ちていました。切れ端とはいえ、ハルたちにとってはひと抱えほどの大きさです。人間たちはこんなに大胆に野菜を切り捨てるのか、と思いながらハルはキャベツの切れ端を拾いました。
調理台の端まで来たところで、二人はカバンから落下傘を取り出します。高いところから降りるときの必需品です。落下傘を装着して、調理台から地面を見下ろします。地上まではだいたい40メートル。ということは落下時間は5秒~10秒になると、ハルは瞬時に計算します。落下傘を使えば、確かに安全に降りることができます。ですがその分、落下している時間が長くなるのです。空中にいる時ほど、人間…もとい小人が無防備になる時間はありません。おまけに、隅っこでこそこそ歩いているときよりも見つかる可能性も高くなります。空中をゆっくりと落ちていくという点で、落下傘は危険をともなうのです。例えば、ふわふわと落下している間に人間に見つかって、着地点に手のひらを構えられるだけで、もう小人は何も抵抗できないのです。ぽとり、と着地と同時に人間の広い手のひらに収まって、そのままきゅっ、と包まれてお持ち帰りされてしまいます。二人は再三、料理をしている人間の動向を確認していました。反対側から別の人間がくる気配も、今のところはありません。思い切って、二人は調理台の地面を蹴りました。
やんちゃで冒険好きのハルは、落下傘にも慣れていましたが、この時は初めて落下傘で高いところから降りた時にもまさるドキドキを感じていました。むろん、ロコはそれ以上にドキドキです。だいいち、落ちていくときに見える景色が今までとはまるで違うのです。まず、使い方のまるで分からない四角い機械…その下には、ぴしりと並べられた、使われなくなった空飛ぶ円盤みたいなお皿…そして、中身の見えない大小の棚…もし捕まったら、あの中に閉じ込められてしまうのかもしれません。
なるたけ隅によるようにして、二人は床を進んでいきます。ですが、どれだけ隅っこに縮こまっていようと見つかるときは見つかってしまうものだとハルは分かっているので、慎重にというよりはそそくさと移動しています。ここは人間の家なので、人間は外にいる時よりも侵入してきた虫たちに敏感なのです。道路の真ん中を歩いている大アリの集団よりも、家の端っこを1匹で歩いている小アリの方が、人間の目にとまりやすいのです。
歩き続けて、二人はとある部屋に辿り着きました。勉強机や、本棚が、二人を威圧するように立っています。さらに見回すと、ベッド、そのそばにぬいぐるみ、床には何かの雑誌が落ちています。きっとここは、人間の女の子が生活している部屋なのでしょう。ピンクの絨毯もしいてあります。その上を歩いてみると、ところどころに何かが散らばっているのが見られました。手にとってみると、ハルはそれが、おかしのかけらであることに気がつきました。かじってみると、少ししけってはいますが、それほど時間が立っているわけでもないようでした。散らばり方からしても、きっとこの部屋の主である女の子が、絨毯に寝転びながらお菓子を食べていたのでしょう。なんとだらしない女なのか、とハルは思いました。これでよくゴキブリが出ないものだとも思いました。「ロコはこういう女の子にならないでくれよ?」という言葉に、ロコはあははと苦笑いで答えています。ですがこの人間のおかしの食べこぼしも、二人にとっては貴重な食料なので、何かけか拾って持ち歩くことにしました。
部屋を横断しきって、奥の壁まできたところで、二人はまたしても思いがけない発見をします。壁に、トンネルの入り口のような穴が開いていたのです。恐る恐る中を覗いて見ましたが、他の生き物が潜んでいる気配もありません。入ってみると、天井が少し低いものの、小人二人が入るには十分なスペースの空洞になっていました。これはしめたものだとハルは思いました。今日はここで寝泊まりすれば良いと考えたのです。もし人間が帰ってきたとしても、穴の中に隠れていれば見つかることはありません。ロコも同じことを考えていたのか、安堵のため息をついて持ち歩いていた荷物を床に下ろしていました。
懐中電灯で穴の中を照らして、二人は今日の戦利品であるキャベツとお菓子のかけらを分け合って食べました。質素な食事でしたが、ハルは、お母さんの料理の次くらいには美味しいと感じました。また、ロコが幸せそうにキャベツをかじっているのを見ると、心が満たされていきました。
「よし、俺はもうちょっとあの部屋を探索してくる!」
ハルがそんなことを言い出したのは、二人が食事を終えたすぐ後のことでした。また始まった、とロコはため息をつきました。ハルは変な言い方をすれば、冒険中毒者なのです。昔から、暇さえあれば外に冒険に出かけ、傷を作って帰ってきてはロコに治療をしてもらっていました。ロコはそんなハルのことを本当に心配しているのですが、言っても治らないということは十分に学んできました。今回は真剣な旅になるので、流石に抑えてくれるだろうとロコは期待していましたが、そんなことはなかったようです。これを含めて今日だけで三回は症状が発症しています。
「無茶しないようにね。なるべく早く帰ってきてね」
「任せとけ!」
これほど信用できない台詞もないなと思いながら、ハルの背中を見送ります。ですが、見知らぬ地でも変わらない兄を見ていると、なんだか少しだけ心が落ち着くような気もしていました。
穴から出たハルは、周りをじっくりと観察しながら歩いていました。先程見たときはさほど気にしませんでしたが、明かりも、音もなく、ただ物だけがそこにある空間というのは何か不気味な感じがします。ぬいぐるみも、机も、本棚も、ベッドも……まるで息を潜めて、何かを待っているようでした。それは人間の帰りではないかと、ハルは考えました。なるほど、人間の部屋というのは、人間が入って初めて活性化するものであるのかもしれません。
30分ほどの探索の結果、特に使えそうな道具も見つからないので引き返そうとしたその時でした。ずんずんと、地響きが近づいてくるのを感じたのです。振り返ると、大きな、本当に大きな人間の女の子が、部屋に現れたところでした。
女の子の手1つだけで薄暗かった部屋全体に明かりが灯ったのを見て、ハルはこの女の子が部屋の支配者であることを、一瞬にして悟りました。早く穴に戻らなくては…その一心で駆け出していました。穴からは、外の異変に気付いていたロコが顔を出して、お兄ちゃんはやく、というじぇすちゃあを送っています。しかしすぐにロコの顔が、絶望の色に染まります。何かと思った次の瞬間には、ロコを中に閉じ込めたまま、穴がどこからか飛んできた、大きな黒い物体に塞がれていました。重量のある物体の落下の衝撃で、五歩分ほど後ろに飛ばされてしまいます。後ろに下がったことで、どうにか物体の全貌を見れるようになりました。黒い革が不気味に光るそれは、女の子の学生鞄なのでした。とても、ハル一人で動かせる大きさではありません。鞄の上部の取っ手にぶら下がっている可愛らしいマスコットが、ハルには自分の小ささを嘲笑っているように見えました。ハルはこの鞄の持ち主のことを思い出して、ハッと後ろを振り向きます。しかし女の子は、まだハルの存在に気づいた様子はありません。きっと鞄は適当に投げ捨てて、そのまま放りっぱなしでいるつもりなのでしょう。もはや鞄のある方など気にもとめず、ベッドに腰を下ろして、四角い板のような形をした機械を手に持って見ています。その奥では、ハルたちがもと入ってきた入り口の扉が閉められていました。そうなると、ハルにはもうどうすることもできません。部屋から出る手段も、穴に戻る手段も失い、完全に袋のねずみと化してしまったのです。
とりあえず今は机の陰に隠れて、こっそりと女の子の様子を伺うことにします。ハルの見立てでは、女の子はロコと同じくらいの歳のようでした。
ハルは確かに、無意識の行動でも命を奪いかねないこの女の子を恐れていました。ですが、ハルがこの女の子から目が離せないのは、恐怖からだけではありませんでした。年頃の女の子が、一人で部屋にいるときにどんなことをするのか、ハルは興味津々でいたのです。ロコの部屋に入ろうとすると、すぐさま追い出されてしまうので、ハルは部屋で過ごしているときのロコを最近は見ることができていません。まだ幼かった頃は、部屋に行くとそれだけで喜んでくれたのに、とハルはかなしく思っていました。
ですが、この女の子は、自分以外の誰かが部屋にいるなどとは到底思っていません。ハルは人の目を気にしない、ありのままの女の子の姿を見ていることができるのです。あれほどだらしないと思っていた、絨毯に寝転びながらお菓子を食べこぼす姿を、今は見てみたいとさえ思いました。
ですが、女の子は例の機械を弄り続けているだけで、一向に他のことをする気配がありません。退屈になってきたハルは、とある考えを持ち始めました。
——今なら、あの女の子に近づいても気づかれないのではないか?
ハルは小人である以前に、一人の男の子でもあるのです。大きな女の子のからだは小人を恐怖させますが、それ以上に男の小人を魅了する力を持っているようです。恐怖を忘れさせてしまうというのは、恐怖を与えるというよりも恐ろしいことかもしれません。12、3歳の人間の女の子が持つそんな危険な魅力に引き寄せられるように、ハルの足は動き出していました。
ハルは、ベッドの下をくぐって、女の子の足下に近づくことにしました。よく考えてみれば、ベッドの下にいる方が、机の陰に隠れているよりも見つかりにくく安全です。(言い訳のようにも聞こえます)
やがて、女の子の座るほとんど真下にあたる場所にたどり着きました。ベッドの上から、大木のような足が降ろされているのがすぐ近くに見えています。女の子の履いている白いくつ下の網目がはっきりと見えるくらいに近づいてみます。こんなに間近で人間を眺めることなんてなかなかできないだろうと、ハルは少し感動していました。ですが、ベッドの下から見えるのは足だけで、ほとんどの部分は、女の子の前まで出ていかなければ見ることができません。流石に、女の子のからだを見るためだけに見つかって捕まるリスクを負うほど、ハルも無鉄砲ではありません。
ただぼーっと足だけを眺めているのにもだんだんと退屈を感じ始めて、かといって他にできることもないので、今日はここで寝てしまおうかと考え始めたときでした。突然、片方の足がベッドの天井の上に消えていきました。近くに来てから、初めて女の子に大きな動きがあったのです。ハルは長時間待ってようやくルアーに反応があった時のような期待を抱きました。
まず、ベッドの上から何かがぽす、と落とされました。丸められていて分かりづらいですが、これはさっきまで女の子が履いていたくつ下でした。縮こまっていても、ハルを簡単に中に隠せてしまうほどの大きさです。そして次に、再び足が戻ってきました。さっきまでと違うのは、女の子がくつ下を脱ぎ捨てて、裸足になっていたことです。同じようにして、もう片方の足も裸足に変わります。
ハルの目の前で、女の子の裸足が様々に動きます。ぶらぶらと揺れたり、つま先でくつ下をもてあそんだり、つま先を立てて、我知らず足の裏をベッドの下の小人に見せつけたり。女の子の足の裏は、決して綺麗とは言いがたいものでした。ですが、それを見ていて、ハルはなんだか顔が熱くなっていくのを感じ、ついには目を逸らしてしまいました。なんだか、女の子の見てはいけない部分を見てしまっているような気がしたのです。うっかり、ロコが裸でいるときに洗面所に入ってしまったときに似た気分でした。じっさい、この女の子も、知らない男にまじまじと自分の足の裏を見られていると知ったら、いい気分はしないでしょう。小人の世界でも足ふぇちの概念はあり、ハルはそういう嗜好を持つ小人のことを理解できないでいましたが、彼らの気持ちが今、少し分かったような気がしました。
少しして、女の子は部屋の外に消えていきました。緊張がほどけて、ハルは床に寝転がります。さっきまで女の子が足を着けていた部分です。ほどよいぬくもりと、女の子の残り香で、ハルはついうとうとしかけてしまいます。しかし、ロコがまだ閉じ込められたままでいることを思い出して、がばっと跳ね起きました。女の子がいない今、ロコを救出するチャンスなのです。
再び、あの大きな学生鞄の前までやって来ました。まず、壁と鞄が接しているところを確認しに行きます。もしぴっちりと接していた場合、ロコが呼吸できなくなっているのではないかと心配していましたが、ハルが通れるほどではないにしろ、わずかな隙間は空いているので、ひとまずは安心です。試しに隙間を広げようとしてみましたが、案の定鞄はびくとも動きません。
これを普段から持ち歩いて、軽々と放り投げることもできる女の子が信じられませんでした。いえ、逆に言えば、女の子ならこの鞄を動かすことができるのです。ハルは、ある一つの考えを持っていました。女の子は見たところ中学生のようですから、当然毎日学生鞄を持って中学校に通っているはずです。つまり、朝までこの部屋で待っていれば、女の子が鞄を今ある場所から取って、家から出て行くはずです。そうすれば、ロコを救出することは可能です。
しかし問題は、朝まで待たなければいけないということです。朝までずっと、ロコはあそこに閉じ込められたままなのです。今ごろ、疲れてぐっすりと眠っているのでしたら、ハルがそれ以上に望むことは何もありません。ですが、もし怖くて、寂しくて、不安で、あの暗い穴の中で震えていたら……そんな状態のロコを、朝まで放っておくということはしたくありません。それに、朝まではまだ時間があり、その間に何も起こらないとも限らないのです。人間に捕まったり、気づかれずに踏み潰されてしまったり…ですから、早いところロコを救出し、さっさとこの家から脱出するに如くはないのです。また、家から脱出するにあたっても、問題があります。どこからどうやって出ればいいのか、ということです。もと入ってきた窓が、明日になって開いているとは限りません。もしそうだった場合、家中を探し回って新たに出口を見つける必要がありますが、当然人間に見つかるリスクが常に付きまといます。
もし、あの女の子が自分の頼みを聞いてくれたら…ハルは考えていました。もしその通りになれば、ロコの救出も、家からの脱出も、万事がうまく運ぶのです。ですが、もし、聞いてくれなかったら…それを考えると、やはり女の子に接触するという方法は、とれるはずもありません。
それから、2時間くらいが経った頃でしょうか。女の子が再び部屋に戻ってきました。部屋の入り口を潜ってきたあたりでは、ベッドの下からでも女の子の全貌をどうにか見ることができるのですが、パジャマ姿に、肩にかけたタオル、そしてほんのりと上気した顔を見て、お風呂上がりであることが分かりました。長い時間部屋を空けていたので、もしかすると晩ご飯も食べてきたのかもしれません。
女の子はさっきのように、ベッドに来て腰を下ろしました。お風呂上がりの女の子のからだが発する甘く、爽やかな香りが、ベッドの下にまで漂ってきます。その香りにハルは理性の乱れる危険を感じたので、懐中電灯を照らして、よりベッドの奥へ避難しようとしました。
「うおおっ!?」
その時ハルは、うっかりまずいものを照らしてしまいました。赤黒いボディ、平たいシルエット、後ろにピンと伸びた触覚…ベッドの奥に、ゴキブリが潜んでいたのです。
ハルは恐る恐る後ろに引いていきます。ですが、ゴキブリも同じようにハルとの距離を詰めていきます。そして、ハルが駆け出したのと同じタイミングで、ゴキブリもハルに羽を広げて飛びかかってきました。一目散に逃げていましたが、少しと経たないうちに、ハルはその足を止めることになります。ハルの目の前に、お風呂に入って汚れが落ちた足の裏がそびえているのを見て、もし今ベッドの下から飛び出しらどうなるか考えてたのです。振り返ると、ゴキブリはもうすぐのところまで迫っていました。
咄嗟の判断で、ハルは懐中電灯を消して、飛んでくるゴキブリをやり過ごそうと伏せました。いちかばちかでしたが、目論見は成功し、ゴキブリはハルを見失って、そのまま上を通り過ぎて行きました。ハルはホッと胸を撫で下ろしました。
この後に起こるかなど、ハルには想像できるはずもありませんでした。
「いやーーーーーーっ!!」
突如発せられた悲鳴に、ハルの耳がキーンとなります。何事かと思いましたが、ベッドから立ち上がっている女の子と、その近くを俊敏に動き回っているゴキブリを見て、合点がいきました。
「やだぁ、こっちこないで…!」
ハルはなんだか愉快な気分でした。あれほど圧倒的な存在だと思っていた人間の女の子が、自分の足の親指にも満たない大きさのゴキブリ1匹に翻弄されているのです。いいぞもっとやれ、と応援までしていましたが、そんな気分は、すぐに踏みにじられることになるのでした。それは、むごたらしい光景でした。
ひとしきり女の子を翻弄して、ゴキブリがベッドの下に帰ろうとした時でした。空からバスタオルが降ってきて、ハルのいる場所のすぐ近くまで来ていたゴキブリに覆いかぶさったのです。これが、さっきまで女の子が身につけていたタオルだと気づいた時には、もう、裁きは始まっていました。
タオルの上に、女の子の裸足が落とされました。それも、隕石が落ちるみたいな勢いで。
タオルの中で、小さな命が弾ける音がします。間違いなく、女の子がタオルに足を乗せた時点で、ゴキブリはしにました。それなのに、つま先を中心にして、執拗に、何度も、女の子は足を動かしてゴキブリをすり潰しています。間近でそんなむごたらしい光景を見せつけられたハルは、いつ発狂してもおかしくはありませんでした。
「サイアクぅ…このタオル気に入ってたのにー…」
女の子が床からタオルを取り上げるとき、一瞬だけハルの目に、ぐちゃぐちゃになったゴキブリのからだが貼り付いていたのが映りました。それは、たった今まで目の前で起きていたことの縮図に違いありませんでした。
「なに、大きな声出して」
絶望のあまり足音に気がつきませんでしたが、入り口からもう一人の人間が現れます。ハルはその顔に見覚えがありました。最初にこの家に忍び込んだときに見た、カレーを作っていたあの人間です。
「ママぁ、このバスタオル捨てといて…ゴキブリ潰しちゃって…」
「あんたが部屋汚くしてるから悪いんでしょ!まったく…」
ママと呼ばれたその人間は、女の子からタオルを奪うように回収し、そのままドアの外に戻っていきました。
明らかに不機嫌そうな顔で、ドアのそばから女の子が戻ってきました。女の子の足が近づくたび、体の震えが増していくのを感じます。ゴキブリをひと踏みでころしてしまう力も、ころすだけでは飽き足らず、原型が崩れるまで黙々と踏みにじる残酷さも、命を奪ったことへの罪の意識など全く感じていないどころか、タオルをその死骸で汚したことに苛立ちを感じている自己中心的な精神も……女の子の全てを、ハルは恐ろしく感じていました。そして、追い討ちをかけるように、ベッドの向こうから女の子の声が聞こえました。
「なにこれ…ちっちゃな…懐中電灯?」
ハルは動揺して手を確認しますが、確かにさっきまで持っていたはずの懐中電灯がありません。ゴキブリを伏せて交わしたとき、一連の動作のはずみで懐中電灯を手放してしまったことに、ハルは気づいていなかったのです。懐中電灯から足がついてしまわないか、気が気ではありませんでした。
「あ、壊しちゃった」
シャー芯折れちゃった、くらいのなんの焦りも驚きも感じられないトーンでした。潰されたゴキブリを見てしまった後で、指先で粉々になっている懐中電灯を想像するのは難しくありません。女の子の目からは、きっとゴミにしか見えていないだろうということも、ハルには分かっていました。
「小人さんでも住んでるのかなあ?なんてね」
何気なく放った独り言が、ベッドの下の小人を決定的に打ちのめしたことなど、もう潰したゴキブリのことなど頭から抜けて友達とのメールに夢中になっている女の子には、知る由もありませんでした。