1にちめ 後編
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部屋の電気が消えてから1時間ほど経って、そろそろ暗やみに目が慣れてきたかという頃でした。ベッドの上からは、すう…すう…と、微かですが大きな寝息が聞こえてきます。
ハルはとても、眠れるような精神状態ではありませんでした。どんなに強力な睡眠薬を飲んでも、今のハルなら眠らないかもしれません。無理もありません。目の前でまざまざと、あのむごたらしい虐殺を見せつけられた後なのですから。どれだけ試しても、脳裏に鮮明に焼きついた光景を消し去ることは叶いません。
視覚だけではありません。足の下でゴキブリの体が潰れ、粉々になり、体液と混ざり合っていく音が、耳の裏で何度もリピート再生されていますし、足と連動して動くタオルが振りまいていた、気が狂いそうなくらい甘やかな香りが、今も鼻に染み込んで残っています。甘い香りは人を幸せにしますが、甘すぎる香りはときに、人をおかしくしてしまうのです。
ギシ、ギシ…と、天井が軋む鈍い音がしました。女の子が寝返りでも打ったのでしょう。ベッドの下だって安全とは限らないじゃないか、とハルは考え始めてしまいました。女の子の体重を支えきれず、ベッドの底が破れる——もちろん、そんなことはあり得ませんが、あり得ないと切り捨てることができないほど、今のハルは精神的にまいっていました。
悩んだとき、悲しいことがあったとき、ハルは冒険に出かけることによって、気を紛らわせていました。ですが、冒険そのものを怖いと思ったことは初めてでした。何が起きるか全く分からない…全てが人間次第であるこの空間。…いえ、初めてではありませんでした。同じような不安を、ハルは、人生で初めての冒険をする前に感じていたのです。まだ、5歳くらいの頃でしょうか。ハルはもともと、今のようなやんちゃな少年ではなく、気弱なたちでした。そんなハルがどうして冒険に出かけることになったかというと、冒険家であるお父さんに、半ば無理やり、一緒に行こうと誘われたからです。外の世界に出て十数分の間は、ずっと足を震わせて、帰りたいなどと泣き言を言い続けていました。ですが、しばらく進んでいくうちに、ハルはこの世界の大きさに、少しずつ興奮を感じるようになっていく自分に気がつきました。自分よりも遥かに背丈の高い植物、大自然の陰から重々しく聞こえてくる、やっぱり自分よりもずっと大きいであろう生き物たちの声。それらは確かにハルに恐怖を与えましたが、その比にならないくらいの感動をハルに与えました。狭かった自分の世界が、ぱーっと一挙にひらけていくような感覚。そして、そんな大きな世界をものともせず突き進んでいくお父さんの背中を、この日からハルは尊敬の眼差しで見るようになりました。
ふさぎ込んでいたハルは、ゆっくりと立ち上がりました。
(こんなところで怖気づいていたら、次会ったときに父さんに笑われてしまうな)
あれからハルは成長して、立派な少年になりました。ですがまだまだ冒険家のたまごです。ハルの知っている世界など、この世界のほんの一部の、そのまた一部の、そのまた…にすぎません。
自分の知らない世界を見ることには、いつだって恐怖がつきまといます。ですがその恐怖を乗り越えた先に、新たな感動、興奮が待っていると、ハルはお父さんから教わってきました。
ハルは勇気を振り絞って、人間の世界に再び飛び込んでいきました。
小人の世界で使われている道具は、ほとんどの場合が人間が発明したそれを参考に作られています。
上から垂れていたコードをよじ登って、ハルは女の子の勉強机の上に立っていました。勉強机に置かれていたのは、一冊の開きっぱなしのノート、その上に置かれたえんぴつ、消しゴム、カチカチと音を刻む目覚まし時計……全て、小人の世界でハルが使っていたものですが、オリジナルを見たのは初めてでした。ハルは戦慄しました。こんなに大きく、存在感のある物質が、あのハルたちも手に持って使う、えんぴつや消しゴムなどとは、信じることができません。ノートなんて、ハルが寝そべったところで少しもページが埋まらないほど、広い面積を持っています。寝そべると、えんぴつの粉のすすくさい香りが鼻をくすぐります。えんぴつにしても目覚まし時計にしても、あらゆるものに、持ち主の使用の痕跡が残されていました。机の上という、小人にとっては一つの世界にも思える場所が、女の子のただ一人のものであるということを、実感せずにはいられませんでした。
すると、机の端の方で、何かが突然ぴかっと光を発しました。今の光で女の子が目覚めやしなかったかと、冷たい汗がハルの頬を伝いました。ですが、その様子もなく、ハルは光の発生源の方に向かっていきました。
光ったのは、女の子が起きていたとき、手でしきりに弄っていた、あの四角い板のような機械でした。その画面が、光っていたのです。こんなものは、ハルの暮らしていた場所では見たことがありませんでした。よく見て見ると、さっき登ってきたコードが、その機械の一番下から伸びているのが分かりました。
画面を覗き込んでみると、浮かんでいる四角い枠のようなものの中に、何か文字が並んでいるようでした。
≪チョベリバは流石に古い(笑)≫
ハルが首を傾げていると、画面がまたふっと暗くなって、しばらく待っても戻ることはありませんでした。
その後も、ハルは部屋中のいろんなところを見て回りました。そして今、ハルはとある棚の上を歩いていました。棚には、ドールやマスコットの類がいくらか並べられていました。ここには対して面白いものはなさそうだなと思って端まで来たとき、ハルは息を飲みました。棚の地面が途切れて、断崖絶壁になっている場所……その下には、あの大きな女の子の寝顔が広がっていたのです。それも、ずっと下にあるというわけではありません。女の子の顔の位置からハルのいる場所までは、一般的な建築物の、2階から1階までの高さくらいしかありません。この棚は、女の子のベッドのすぐ隣に置かれた、わりに小さなサイズの棚だったのです。
崖の先で、ハルはしばらく固まったように動けなくなっていました。今までのどんなときよりも、女の子の顔が近くにあります。ちょっとしたドームのような女の子の顔。その大きさに似合わず、まだ幼さの残る顔立ちをしていました。はっきりと聞こえてくる、女の子の小さく開かれた口から漏れる寝息の音。その音と連動して微かに動いている、飛び降りたらクッションの代わりになってくれそうな、もちもちした頬。
やはりハルには、このあどけない女の子があんな虐殺を働いたことが信じられません。幸せそうな寝顔は、いつか見たロコのそれと、なんの違いもありませんでした。
ハルはこのとき、確かに危機感が薄れていました。女の子が寝返りを打っても、ただそれを呑気に眺めていただけで、何もすることができませんでした。ハルの乗った棚が、震度7くらいの地震が起こったように、激しく揺れました。小さくて、支えも4本の細い足しかないこの棚は、寝返りをうった女の子の手がぶつかるだけで、これほど揺さぶられてしまうのです。ハルが危機感を取り戻した時には、もう、取り返しがつかなくなっていました。揺れで体勢を崩されたハルは、あっけなく崖の先から放り出されてしまいます。
何か、柔らかな地面に着地しました。ぺたぺたと柔らかくて、しわが刻まれていて、それに、しっとりと温かくて……ハッとして、ハルは別の方を見ました。見えたのは、さっきまでハルがいた棚の壁にもたれかかった、五本の折れ曲がった柱。ここは、手のひらの上に違いありませんでした。棚から落とされたハルは、女の子の手のひらで受け止められたのです。まだ、女の子の寝息は聞こえています。一刻も早く、この手のひらの上から、そして女の子の眠るベッドの上から脱出しなければなりません。ですが、不運は重なってしまいます。全くの無意識で、女の子はハルが迷い込んだ右の手を、ゆっくりと握ったのです。力の入っていない、優しい握り方でした。ですが、その行為は十分に、ハルをパニックに陥らせる引き金となりました。退路を塞いでくる指を撃退しようと、必死に殴る蹴るの攻撃を加えています。…女の子がまた寝ぼけて手を開くタイミングを待つという方法が思い浮かぶほど、このときのハルは冷静ではありませんでした。
「んー…なに…?」
その声に、ハルの動きが止まります。心臓がバクバクと激しく動き始めます。ハルの狙い通りに、指たちはもとの位置に戻って行きました。指によって遮られていた視界が開けて行き、目の前に、ついさっきまで上から眺めていた、女の子の顔が現れました。
寝ぼけ眼ですが、しっかりとハルの姿を捉えています。自分の身長の半分はある目玉に至近距離で見つめられ、ハルの体は縮みあがり、手のひらから逃げ出すのが遅れてしまいました。ようやく足を動かした時には、全ての指が内側に折れてきて、あっという間に手の中にハルを閉じ込めてしまいました。それは、決して逃がしてあげるつもりはない、という意思表示に違いありませんでした。
閉じられた手の中で、ハルは必死に抵抗しますが、折れ曲がって弛緩した指の肉に打撃を救出され、女の子はちょっとくすぐったいくらいにしか感じていませんでした。
ハルが抵抗する気力を失ったと分かると、女の子はまた一本ずつ指を開いていきました。ハルの心臓がバクバクと鳴っているのは言うまでもありませんが、このとき女の子の方も、少なからずドキドキしていました。ハルの来ている服は、既に女の子の手汗で少し湿っていました。暑い、息苦しい、汗くさい、ジメジメする…はっきり行って、手の中の環境はさいあくでした。手が開かれた途端に、女の子の部屋の爽やかな空気が流れ、眩い光が差し込みます。閉じ込められていた間に、女の子が明かりをつけたようです。
眩しさに閉じていた目を開けると、明かりに照らされてはっきりとその全貌がうかがえるようになった女の子の顔が、さっきよりもさらにハルの近くに迫っていました。
「小人さんだぁ…まさかとは思ったけど、本当にいたんだ…」
囁き声ですが、同時にとても大きな声でした。ハルが最初、台風が喋っているのかと思ったほどです。ハルがたまらず耳を塞いだのを見て、今度は女の子の方が「え、今ので…?」とでも言いたげな顔をしていました。
手が開かれているので、逃げ出したいのはやまやまですが、少しでも怪しい動きを見せれば、すぐにまた閉じ込められるのは目に見えています。それは嫌だったので、女の子の興奮の混じった熱い視線をダイレクトに受け止める他に、できることはなくなりました。本当に近くに、女の子の顔があります。下半身の方に、女の子の口から放たれる熱を帯びた吐息が当たるのを感じるほどです。ただ、これほど近くに女の子の顔があるのに、いくら手を伸ばしても届きそうにないのが不思議でした。星空を映した湖みたいに、女の子の瞳が輝いていました。
女の子が、手のひらにちょこんと乗せられた小人に釘付けになっている一方で、ハルの方も、途方も無い大きさの女の子の顔から目が離せないのは、全身が震え冷や汗が吹き出すほどの恐怖からなのでしょうか。それとも、別の何かの感情からなのでしょうか。いずれにせよ、ハルには別の方から迫ってくる、二本の指先など見えていませんでした。
「捕まえちゃった♪」
抵抗する隙も与えられず指に摘まれて、ゆーふぉーきゃっちゃーの景品のマスコットさながらに、空中に持ち上げられてしまいます。たまらず、ハルは女の子の指と指の間で、手足をジタバタさせています。
「かわいい、ばたばたしてる…」
ハルとしては必死にもがいているつもりだったのに、かわいいなどと言われてしまってはたまりません。歳下の女の子に舐められていると感じて、ハルはムキになっていました。
「くそっ、放せ、小娘!」
「わ、なんか喋った…コムスメ、って聞こえたけど、もしかして私のことを言ってるのかなあ?」
もう片方の人差し指が、にゅっと正面から伸びてきます。先っぽで可愛らしいピンク色の爪が光っているそれが、ハルには恐ろしく見えてもがくのをやめてしまいます。
「あは、小娘の指にも勝てないんだ」
小人がいかに弱い種族であるかを知って、中学生の女の子は調子に乗り始めます。つん、つん、と意味もなくハルの全身をつついてみたり、手のひらに乗せたあと、不規則に傾けて転がして遊んでみたり、人差し指にハルをしがみつかせて、高い位置でぶらぶらと動かしてからかってみたり(ほんとうにからかいのつもりでした)……。
再び手のひらの上に乗せられたとき、ベッドの奥でぱたぱたと小気味よく、交互に女の子の足が動いているのが見えました。ハルは女の子が何かを働くたびに死ぬ思いをしながら抗っているのに、女の子はそんな様子を眺めて楽しんでいたのです。
ひょっとすると、女の子にはハルを殺そうなどという気はないのかもしれません。そう考えれば、恐怖も幾分か薄まっても良いはずでした。しかし、取って代わるように湧いてきたのは、屈辱という名の感情です。何かを殺そうとする者がいるとき、その人は対象を、生きている物として扱っているから殺そうとするのです。自分が楽しむためだけに危険な思いをさせるというのは、おもちゃの扱いと一緒でした。子供には壊す気など全くないのに壊れてしまう、あのおもちゃと一緒でした。
屈辱を晴らすには、何らかの方法で、女の子に一矢報いなければなりませんでした。常に受け身でいるのでは、やはりおもちゃと一緒です。試みに、手のひらの大地の上にうつ伏せに寝転がり、その体勢のまま、地面に…女の子の皮ふに噛み付いてみました。干したてで温もっているシーツを敷いたベッドのような柔肌に、小さな歯が食い込みます。
「いた!」
一瞬、大地がぐらっと揺れます。体が小さいとはいえ、蜂に刺されたくらいの刺激は女の子に与えることができたようです。揺れに驚きはしましたが、それ以上に喜びや、希望が湧いてきました。なんだ、いくら大きいとはいえ、攻撃が通らないほどではないんじゃないか——。
ハルはもう一度同じ痛みを与えてやろうと、顔を肌に近づけます。あと少しで口が触れそうになった時、後ろ向きの力がかかり、信じられない勢いで身体が引かれるのを感じました。身体が静止したとき、腰のあたりで、ピンクの爪が2枚、薄く光っているのが見えました。また摘まれているようです。しかし、さっきよりも持ち方も、動かし方も乱暴でした。文句の一つでも言ってやろうと、威勢を取り戻しかけていたハルは、この指の飼い主の顔があるはずの方を振り向きました。女の子の顔を見たとき、開きかけていた口が金縛りにあったように動かなくなりました。
女の子は、ハルを睨みつけていました。指の間に捕らえられた、身の程知らずの反逆者を、視線だけで罰する心持ちで睨みつけていました。実際、視線だけで殺されそうな小人がいそうなくらいでした。
なぜそんな目で見られなければならないのか分かりませんでした。女の子はもっと酷いことをハルにしていたはずです。それに対してハルの与えた痛みというのは、ほんとにちょっとしたものに過ぎないのに、どうしてこんな、まるで全ての非がハルにあるような睨み方をされなければいけないのでしょうか?
事実女の子の方は、自分が、いわゆる逆ギレをしているなどとは毫も感じていませんでした。弱い者いじめはいけないという感覚は人間の誰もが持っていますが、その感覚は、強い人間が弱い人間をいじめているときにしか働きません。(小人は人間ではありません)その感覚以前に、強い生き物が弱い生き物を虐げるのは当たり前であるという自然の摂理が人間の本能にも染み付いているのです。食料にするために毎日何匹もの動物が人間によって殺されますが、それを弱い者いじめだと批判しやめさせようとしている人間など1人もいません。もっと小さなところでは、動物園からお猿さんが脱走し、捕らえようとしてくる人間に傷を負わせながら逃げ回っているのを、ますめでぃあはまるでお騒がせなのはお猿さんの方であるような報道の仕方をします。もっと身近なところでもそうです。小さな子どもが虫かごに捕まえた虫を入れてお母さんのところに持っていくと、お母さんはすごいね、よかったねといって子どもの頭を優しく撫でます。そして、そんな子どもが、将来弱い者いじめなど絶対にしないような正義感にあふれる大人になったって、おかしいところなどどこにもないのです……。
さて、10秒あまりハルを睨み続けていた女の子ですが、表情を戻したと思うと、今度はにっと唇だけで笑っていました。ハルで遊んでいた時とは違う、さでぃすてぃっくで冷ややかな笑みでした。
ハルを摘んだまま、女の子の手が目の位置からゆっくりと降ろされていきます。ハルは嫌な予感がして、どうにか両側から圧迫してくる指を押し返そうとしましたが、指の腹がぷに、と可愛らしいへこみ方をしただけで、両の指は吸い付いているようにハルの身体を離れません。
女の子はその様子を、表情をそのままに眺めながら、ハルを自分の口の正面まで持っていきました。くぱ、とハルの目の前で、大きく口が開きます。寝起きで唾液の量が少なく、口腔が少しねばついているのが分かりました。水分が少ないおかげか、開かれた口の中の細部まで、ハルにはくっきりと見えていました。エサを待っているように底に伏せている大きな舌…小人の頭を噛み潰すためにあるみたいな形をした奥歯…のどちんこのさらに向こう、入れられたら二度と戻ってこれない、女の子のなかへと繋がっている入り口……見えている全てが、ハルに恐怖を与えていました。
そして、女の子は開けていた口を再び閉じます。力の限り、上の歯と下の歯がぶつかって、砕けんばかりの勢いで。高層ビルの屋上から、一トンの鉄のかたまりを落としたような爆音が、ハルの目の前で起こりました。あと1ミリ…あと1ミリでも前にいたら、間違えなく巻き込まれていました。
「噛むっていうのはこうやるんだよ?」
静かな口調で、女の子は言いました。ハルの頭の中に、あのとき見たゴキブリだった何かの像が蘇りました。
「わたしが小人さんを噛んだら、簡単にしんじゃうね」
人間に逆らう気力が、音を立てて崩れていきます。
ちょろ、ちょろ、とハルの腿を、黄色がかった液体が伝って、遥か下方の地面に落ちていきました。16にもなって、歳下の女の子の目の前でお漏らしをしてしまうという恥辱さえ、圧倒的な恐怖で残らず塗りつぶされていました。わりに勢いを持って放出されたハルのおしっこは、全部すくい集めても女の子の汗の一滴にも満たない量でした。
女の子も、ハルのお漏らしには気づいたようでした。そして、どういうわけか彼女自身にも分かりませんが、おしっこの流れているハルの細い腿にむかって女の子は、ハルを摘んでいる方とは反対の手の人差し指を伸ばしていました。指が腿に触れた瞬間、ぴくっと大げさなくらいハルが震えました。そのまま指をくっつけて、流れてくるおしっこを爪の間に溜めていきます。そして、こぼれないようにそーっと、おしっこの溜まった指を自分の方に持っていき、ちょっと戸惑ったあと、口にくわえました。ほのかなしょっぱさを感じると、ちゅぱ…と口から指を引き離します。
ほんのわずかに爪に溜まっていたおしっこは、指全体を覆う唾液の薄膜に変わっていました。この瞬間から、女の子にいけない気持ちが起こり始めました。
ぽとり、とハルを手の上に落とします。
「震えちゃってる。かわいい…」
またゆっくりと、女の子が顔が近づいてきます。顔を近づけるにつれて、ハルの震えが大きくなっていくのを見て、女の子の身もぞくぞくと震えます。
近づきすぎて、もうハルの視界は、りんご飴のように赤く、甘い艶を放つ、女の子の唇で埋め尽くされていました。にぱぁ、といやらしい音を立てて、その唇が開きます。口の中では既に唾液の分泌が再開していて、上下につうと唾液の糸が伸びています。その糸を断ち切って、さっき見たあの大きな舌が這い出してきました。
ぴちゅ、と舌先がハルの顔全体を撫でます。蒸したタオルのような熱さを感じます。舌の先だけでも、あっという間にハルの顔を唾液でべとべとに塗り尽くしてしまいます。舌が離れたと思って手で顔についた唾液を拭っていると、間髪入れずに、今度は舌のかいぶつが全身で襲いかかってきます。抵抗する間もなく手のひらの地面に押し倒され、ハルはもう、これからハイエナにたかられることになるエサも同然でした。
ハルの足の先から脳天まで、舌全体で舐め取られます。離れたと思ったら、舌はまた次の滑走を始めて…その繰り返しを、ほとんど1秒に一周というスパンで行なっていました。
音のない部屋に、淫らな唾液の音だけが静かに響いています。ぬちゃ……れちょ……女の子はもう夢中で舐めていました。その裏で、1ヶ月ほど前に立ち聞きした、ある言葉を思い出していました。
その日は、女の子は教室前の廊下に取り付けられているロッカーに忘れ物をして、帰り道を引き返して取りに戻ったのでした。その時、教室の中から、同級生の男子3人ほどの話し声が聞こえました。廊下からこっそり聞き耳を立ててみると、どうやら話題は、クラスのかわいい女子についてのようでした。その男子たちの挙げる女子は、概ね女の子から見ても可愛いと感じるような子たちでした。女の子はなんとなく嫌な気分がしました。あんたたちなんかじゃ釣り合ってないのよバーカ、とあかんべえをして帰ろうとしたとき、ふと、本当に思いもよらず、自分の名前が挙げられるのを聞きました。どきり、としました。
あいつ、給食食べ終わった後に、決まって口もとをぺろって舐めるんだけどさ、あれ、エロいんだよな。
そう言った子は、それまで同じ班で給食を食べていた、確か部活はバドミントン部の男の子でした。今まで、やかましいデブ、くらいにしか思っていなかったのですが、その言葉を聞いて以来、人前で、とりわけその男の子(以降、やかデブとします)の前でその仕草をしづらくなりました。うっかりしてしまった時には、また、やかデブが見ていたんじゃないか、私のことを、えっちい目で…と気になってどぎまぎしてしまい、顔まで熱くなってきて、ごちそうさまも忘れてうつむいてしまいます。そんな調子で、今日までの日が過ぎていきました。
女の子は、このちっぽけで無力な男の子を使って、自分の魅力を試して見たかったのです。ですが不思議でした。女の子は、小人の男の子をえっちな気分にさせるために身体を舐めていたのに、全身が自分の唾でべちょりと濡れているハルの姿を見て、今度は自分の方がえっちな気分になるのです。もっとハルを濡らしたい、と思いました。自分の唾で、身も心も溺れさせてやりたい、と。
舐り続けること五分、女の子はようやくハルを解放してあげました。ペースを崩さずに五分間…つまり回数にすれば約300回ハルを舐めたのです。一生取れないくらいの女の子の唾液のにおいが、ハルの肌に染み込んでいたっておかしくはありません。それほどに舐め倒されたハルは、身も心もぐったりとしていました。ですが…それは必ずしも、ハルにとって舌責めが暴力的であったからというわけではありません。
舐められている最中、ハルは確かに、女の子の唾液に身も心も侵食されていくのを感じていました。ですがそれは快楽でもありました。それこそ、意識が飛んでぐったりとしてしまうほどの悪魔的快楽でした。唾液が身に染み込んでいくにつれて、だんだんと自分の全てが、女の子の唾液に溶かされていくような錯覚に陥っていきます。コーヒーに溶けるマシュマロみたいに、あまーく、ゆるやかに、やさしく溶かされていく……。ハルは、自分が女の子の舌に気持ちよくさせられていることに始めて気づいたとき、悔しさを感じました。あの日以来自分が憎悪とも呼べる感情を抱き、敵に掲げていた人間…それも、その中で最もか弱い身分であるはずの、まだ幼い女の子に、ただ舐められるだけで快楽の海に溺れさせられてしまったことが、ハルには耐えがたい屈辱でした。ですかそんなちっぽけな感情も、そう時間が経たないうちに、ぺろり、と舐め取られてしまいます。脳みそまでもが溶かされていくようで、もうハルは、女の子の舌のことしか考えられないほどに骨抜きにされていました。
もう一度書いておきましょう。ハルは身も心もぐったりとしていました。ですが顔には、間の抜けた恍惚の表情を浮かべていました。
「ほら起きて、小人さん」
ゆさゆさと、指一本で体を揺さぶられました。ハルは起きてはいますし、意識も取り戻しかけているのですが、どうも体に力が全く入りません。
「気持ちよすぎて気絶しちゃったのかな…あはは、情けないの」
女の子はお漏らしを目撃したあたりから、もう完全にハルのことを舐めていました。
「ダメだよ、小人さんはこれからもっと気持ち良くなれる場所に放り込まれるんだから…服も、脱がしちゃえっ」
ハルが身にまとっていた緑色のローブのような服は、女の子の爪で器用に掴まれて、そのまま剥ぎ取られてしまいます。抵抗は、する力も、気力も残っていません。
「あ……パンツははかないんだね……」
予期しないタイミングで現れたハルのぺにすに、女の子は少し顔を赤くします。長旅で、汚くなっても替えを用意することが難しいので履いてきていないだけなのですが、女の子には、小人にそういう文化があるのだと思われたかもしれません。ちなみに、ロコも今はぱんつを履いていません。
「…まあ、いーや。ふふ、今さら隠したって遅いよ。しっかりおちんちんおっきくさせてるの、この目で見ちゃったから」
その言葉を聞いた時にハルがビクッと反応したのが、証拠としては十分でした。女の子は、隠している手を無理矢理剥がしてやるのも面白いと思いましたが、これからすることを考えれば、剥がしても剥がさなくてもおんなじことだと思ってやめました。
慣れた手つきでハルを摘み上げると、指先で、ハルの上半身がしおれた植物のように垂れています。
「くたびれたぼろ雑巾みたい」
可愛げも容赦もない喩えですが、使われてこうなってしまった、という点でこちらの方が適切かもしれません。
「お疲れみたいだね、いいところに連れて行ってあげるね」
ハルは当然ながら全く嬉しい気持ちが起こりませんでしたし、これから自分がどこに連れて行かれるのか分かったとき、ハルの顔は青ざめていき、無駄だと分かっていながらばたばたと暴れ始めました。皮肉なようですが、確かに疲れは一瞬で吹き飛ぶこととなりました。
ハルが運命を悟ったのは、正面であの大きな唇が上下に開かれたからでした。女の子の口の中を見せられるのはこれで3回目ですが、その中で一番恐ろしく見えていました。なにせ、ハルはこれからこの口に食べられてしまうのですから。これまでに女の子に食べられ、今では栄養としてなかに取り込まれている何万もの食べものは、みなハルと同じようにこの口を見ていたのでしょう。そして、悟るのです。そうか、自分はこの子に食べられるためだけに生まれてきたのか、と。ただ、小食べものと小人は、女の子の口に対していやらしさを感じるかどうかという点で、決定的に違っていました。
「こら、あんまり暴れないの、じゃないとごっくんしちゃうよ?」
そう言われては流石のハルも一瞬で大人しくなります。満足して、女の子はハルを摘んだ指を口の中に入れて、舌の上にやさしく降ろしてあげました。舌にへたり込んだまま、ハルはきょろきょろと周囲を見回しました。あまりにも現実離れした景色でした。
馬蹄形に、庭石のような大きさの歯が敷き詰められていて、あとは見える全てが肉。皮を剥いたトマトのようにじゅくじゅくとした、女の子の肉の壁です。
観察していると、いきなり視界が真っ黒になります。女の子が口を閉じてしまったのです。その行動で生じる被害は、視界を奪われることだけではありません。外気が遮断され、口の中にあるのはほんの僅かな女の子の空気だけとなってしまいました。女の子の口の中は特別きたないわけではないのですが、それでもハルの小さな鼻には過ぎた臭気を放っていて、しかも臭気の逃げ道となるはずの口が閉じられているため、口が開かない限りはずっとこの臭いに耐えていなければなりません。
ハルは狼狽えていました。そしてその拍子で、暗闇の中でつまずいてしまいます。倒れた地面はクッションのように柔らかく、痛みは感じませんでしたが、表面がぬめっと濡れていて、熱も帯びています。そうでした、暗くてやはり見えていませんが、ハルが倒れているのはさっきまで責められていたあの舌なのでした。起き上がるとき、体に付着した唾液が糸を引くように伸びるのが分かりました。あれほど体に塗りたくられても、この人間の唾液の感触というものには慣れません。
不意に、暗闇に光が差し込んできます。口がまた開いていくのです。ハルは出してもらえるのかと思いましたが、光の先に見えたのは、指がまた何かを摘んで、ハルのいる口の中に近づけてくる光景でした。指が離され、ハルの背丈とほとんど同じくらいの球状の物質がそばに落ちてきます。そしてすぐに口が閉じられ、中は再び暗闇に染まります。
ハルは最初見たときこの物質の正体がわからないでいましたが、そばに落とされたとき、ぶわっと発せられた甘いにおいを嗅いで、合点がいきました。ハルの予想した通り、女の子の口に新たに入れられたのは、ぶどう味の飴玉でした。なぜそんなものが入れられたかといえば、女の子が、自分の口の中のにおいがひどいかもしれないということを心配したからです。あらゆる女の子にとって、自分の体が発するにおいを気にしなければならないというのは常識です。
じっさい、口の中のにおいはハルにも気にならなくなりました。ですが、決して状況が良くなったわけではありません。飴玉から発せられる、病的なほどに甘ったるいにおい……それはあのとき間近で嗅がされた、女の子の使用済みバスタオルと同じ危険なにおいの類いでした。嗅いでいるだけで頭がくらくらしてきます。
また、ハルは考えないわけにはいきませんでした。自分が飴玉を口に入れたら、何を始めるかということを。そして不幸なことに、ハルの予想はまた間違っていませんでした。女の子はすぐに舌で飴玉を転がし始めました…口の中に閉じ込められている小人を巻き込んで。
動き始めた大きな舌に、まさしく飴玉のように、上下左右にかき回されてしまいます。その中で狙われていたのは、常にハルの下半身の中心部にあるぺにすでした。舌が擦れるたびに、痺れるような強烈な快感がハルを襲います。
加えて、二つの飴玉を含んだ女の子の口は、いつもに増して唾液が分泌され、口の中はほとんど洪水のような状態でした。飴玉が溶かされて、蜜のように甘くなった女の子の唾液。飴玉の方も女の子の唾液が絡められ、ぷうんと甘酸っぱいにおいに変化していました。唾液の温かさ、そして際限なく湧き出てくることを考えると、ここは女の子が作り出す温泉なのかもしれません。女の子のお口の洞窟の中に形成された、女の子の甘ったるい蜜で満たされた秘湯。ハルはその温泉に浸かり、確実にのぼせていきました。
転がされているうちに、ハルの体と飴玉が接触しました。そのとき、ハルは慌てました。お腹のあたりに、飴玉がぺったりとくっついてしまったのです。剥がそうとしましたが、唾液に塗られた飴玉の表面は、強力な糊のような粘着力をもっていました。
女の子はもちろんそのことに気づいていました。気づいて、人知れず悪い顔をしていました。これで、一箇所だけを重点的に舐められるようになったのです。
ハルもそうなることは分かっていたので、飴玉を剥がそうと躍起になっていましたが、その甲斐もむなしく舌に捕まってしまいました。
舌は飴玉を巻き込んで、ハルの下腹部を集中的に舐めまていました。やがて飴玉が完全に溶けきって無くなっても、舌は気にも止めていないようにハルの股間を刺激し続けています。
「…っ!あっ…!」
ハルの喘ぎ声が、女の子の喉の奥底に沈んでいきます。舌に擦られるたびに、ハルのぺにすは熱くたぎっていきます。そしてハルの小さなぺにすが膨らんでいくのを舌で直に感じるたびに、女の子の方もお股が熱く湿っていくのを認めました。
口の中を動かしながら、ほとんど本能的に、女の子は手をうずく股間に伸ばしていました。パジャマのズボンの口に手を忍び込ませ、ぱんつのクロッチ部分を優しく擦ってみます。すると、今までに味わったことのない快感が芽生えたのです。舌で転がせて、そのまま飲み込むことだってできちゃうくらいの小人の小ささ、無力さ…小人のからだの外側も内側も、心の中でさえも、自分で満たしていっているという征服感…女の子が考えること全てが、手の上下運動の原動力となっていました。
ハルが6度目の射精をさせられたちょうどそのとき、女の子は、はじめての自慰行為を終えることになりました。
口の中からぺっと、味のなくなったガムのようにハルが吐き出されます。べとべとになったからだを、女の子はそばに置かれていたタオルケットで拭いてくれました。
タオルケットにくるまれるのは、女の子のにおいにくるまれるのとほとんど同じ心地でした。体液でも吐息でもなければ、使っていた石けんのにおいでもない、混じり気のない体臭としての女の子のにおい。ただ嗅いだだけでは分からなくても、こうしてタオルケットにくるまれていれば、そこに染み込んでいる女の子の体臭がいやでも鼻に入り込んできます。ですがいやなにおいでは決してありませんでした。そしてこの女の子のにおいをいやではないと感じてしまっていることが、ハルにはやはり悔しいのでした。
「今日はこの辺にしといてあげる」
ハルのからだを優しくふきふきしながら、女の子が言ってきます。
「なあ…もう俺を逃がしてはくれないのか?」
「もちろん♪」
ハルががっくしと肩を落とすのを見て、女の子はすぐに付け加えます。
「ご飯は毎日食べさせてあげるし、お願いだって私にできることだったら聞いてあげるし…お風呂だって入れてあげるし♡案外私に飼われるのだって悪くないと思うよ?」
お風呂、の部分を一瞬想像しかけるハルでしたが、それよりもまず聞いておかなければならない部分があることに気がつきました。
「お願い聞いてくれるって、本当か?」
「逃がしてくれ、とかは無しだよ?」
もし、女の子が自分の頼みを聞いてくれたら……逃げるよりも先に、やっておくべきことがハルにはありました。
「あの鞄をどけてほしい」
「どうして?」
「穴が塞がって、妹が閉じ込められてしまってるんだ」
「え…それは大変」
女の子は存外、心配そうな表情を見せていました。すぐにハルを手に乗せて、鞄のあるところまで寄って行きました。
「あー…これは確かに小人さんには動かせないよね…」
女の子にとって、普段から持ち歩いている鞄には違いありませんでしたが、手の上で、まるでビルの屋上から地上を見下ろすような体勢で鞄を見ている小人が、その鞄を持ち上げている姿はどうしても想像できません。
「でも、妹がいる場所を私に教えて良かったの?その子のこと見つけたら、私、おんなじように捕まえちゃうよ?」
ハルは、はっとしました。確かに頼みは聞いてくれるようですが、ハルたちの味方になったわけでもないのです。どんなにきれいごとを述べたところで、女の子がハルたちを捕まえようとする限り、ハルたちの敵であることに変わりはありません。
「…それでも、あいつをこのまま1人にしておくことは、俺にはできない」
確かに、女の子が勝手に鞄を動かすのを待つという手もありました。それなら、捕まるのはハルだけで、ロコは逃がしてあげることができます。
ですがそうなれば、そのまま旅を続けるにしろ中止するにしろ、これからはロコは一人で自分の身を守って行かなければならないのです。まだ13歳と幼い女の子であるロコに、そんな力は備わっていません。
そして、自分が一人になったとロコが知ったとき、ロコはどんな心境でその事実を受け止めるのでしょうか。換気口の中で、一人で出て行こうとしたハルを引き止めたときのロコの様子を思い出していました。
「ふうん…シスコンなんだね」
「なんでそーなるんだ!」
もし、捕まったことでロコに恨まれたら、ハルはその恨みを甘んじて受け入れるつもりでいました。そして、捕まったとしても、二人でまた脱出の方法を探せばいい、と思っていました。
ハルの返事を受けて、女の子は壁際に居座っている自分の鞄に手をかけました。鞄をどかすと、ハルの言葉通りに、小さな穴が現れました。しばらく二人でじいっと穴の入り口を見ていましたが、何かが出てくる様子はありませんでした。
「出てこないね」
「下ろしてくれるか?」
「逃げない?」
「逃げたら、どうなるか分からんからな…」
降ろしてもらうと、穴のもっと近くまで寄って行きました。
「ロコ、無事か?」
祈るような思いで声をかけました。すると、声の少し後で、壁の裏からこちらを覗うように、ひょっこりと小さな顔が出てきました。
「ロコっ!」
ハルがもう一度名前を呼んで駆け出したのと同じタイミングで、ロコもそれまで警戒の色の強かった表情を崩して、ハルのいるところまで駆け寄ってきました。
「おに……っ!」
2、3歩踏んだところで、ロコの目にぶわっと涙が溢れました。二人のしるえっとが重なったとき、その涙はもう抑えが効かなくなっていました。
「おいおい、そんなに泣くことないだろ?」
「だって、だって…!もう二度とお兄ちゃんに会えないんじゃないか、って…!」
ハルは肩でロコの顔を受け止めていました。そしてロコの体を、もう二度と放すもんかと、固く、固く抱きしめます。
しばらく抱き合っていた2人を、女の子は素直な感動をもって眺めていました。同時に、無意識とはいえ、ロコを一人であんなところに閉じ込めてしまったことに罪悪感を感じていました。だから、ロコがひょこっと顔をあげて、自分の顔を見たまま固まっていたとき、女の子は少しでも安心させてあげたくて、にこっと笑い返しました。
その笑顔が、ロコの目にはどんな風に映っていたでしょう。突然がくがくと震えだしたロコに、ハルは何事かと尋ねました。
「お、お……お兄ちゃん…うしろ……」
もうすっかり青ざめて、ロコはハルの背中の向こうを指さしていました。ハルはようやくロコが何を怖がっているのか察しました。
「ごめん、ロコ…お前が閉じ込められてる間に、あのガキに見つかってしまったんだ」
聞いても整理がつかないのか、ロコはなにも返事をしません。
すると、女の子が手のひらを、二人のすぐ前に降ろしてきました。「乗って」ということでしょうか。
ハルはすぐに乗るわけにはいきませんでした。一緒に連れて行くのが良いのか、それとも、女の子の機嫌を損ねることになっても、怖がる妹をかばってあげるべきなのか…決断を迫られていました。せめて、何か声をかけて少しでも落ち着かせてあげようと振り向こうとしたとき、ハルの右手を、ひと回り小さな手が、ぎゅ、とにぎってきました。
「お兄ちゃん、私は大丈夫だから…行こう?」
握ってくる手は依然として、少し震えていました。でも、同時にその手には確かな力を感じました。恐怖に打ち勝てるような力ではまだないけれど、恐怖に立ち向かっていこうとする、強い意志の力。ハルは、その力を……ロコを、信じてみようと思いました。
ハルに続いて、ロコが恐る恐ると行った感じで女の子の手に足を乗せます。二人が完全に乗りきると、ぐぐっと手のひらが持ち上がって行きます。慣れないロコは、反対にすっかり慣れて落ち着き払っているハルの体にしがみついています。
「私たち、やっぱり捕まえられちゃうのかな…」
ハルの体に寄り添ったまま、遠くまで広がっている手のひらの大地を眺めながらロコが呟きました。
「俺を、恨んでくれて構わない…」
ロコは黙って首を横に振りました。
「…良いの。私は、お兄ちゃんが無事でいてくれたら、もう、それでいい」
「ロコ…」
兄に心配をかけまいと、ロコはハルの体からぱっと離れて、手の色々なところを観察して回りました。
「それにしても、ほんとにおっきい…これが人間の手のひらなんて、やっぱり信じられないよ」
手のひらの乗り心地にも慣れてきたようで、その驚く声には、ちょうど好奇心の強い女の子が何か新しい発見をしたときのように、ほんの少し楽しげな色が混ざっていました。そんなロコの姿をハルが見守っている頭上で、女の子もじっと、自分の手と、女の子の指の一本を交互に見比べているロコのことを眺めていました。
(かわいい…)
試しに、ロコのすぐ前に立っている指をくい、と動かしてみると、ぱたっと後ろに崩れて、また先ほどのように小さく震え出してしまいました。それを見た女の子はぞくぞくと体が高揚に震えるのを感じないでもなかったですが、それよりもかわいそうとか、気の毒とか、悪いことをしてしまったという気分の方が勝っていました。女の子がロコに感じたかわいさは、ハルに感じていたいじめたくなるかわいさともまた違っていたようでした。守ってあげたくなるかわいさ……女の子は改めて、自分のもとにおいて、この小さな命を守ってあげなければならない、と感じました。
そして、あわよくば自分にだけは心を開いて、色んなお話、遊びができるようになっていけたら……。体の大きさは違うけれど、ロコが自分と同じ年頃の子であることは、女の子には分かっていました。
二人はやがて机の先に下されました。顔から下は机の下に隠されていて、ハルたちには目の前の女の子の大きな顔が、まるで水平線から登ってくる太陽のように見えていました。
「はじめまして、ロコちゃん♪」
「あ…いえ…」
地球が自転するみたいに、女の子の顔がぐぐっとハルの方に向けられます。
「えっと、小人さん…じゃなくて」
「…ハルだ」
「ハルくん、よろしくね!」
女の子のふれんどりぃな笑顔に、もちろんハルは応えません。
「あの…わ、私たち、これからどうされちゃうんですか…?」
「二人とも、これからは私と一緒に暮らすの」
おっかなびっくりで聞いてくるロコに、女の子はつとめてやさしく、諭すように答えてあげます。
「それって、私たちがしぬまでずっと、ってことですか…?」
「…嫌?」
おかしい点を指摘されたようで、女の子はついムッとして返してしまいました。たった今、自分の言葉が、小人のことなんてすぐにでもしなせてしまえそうな女の子の気分を害してしまったのだと思って、がたがたとロコの全身が震え出しました。涙が勝手に目から流れてきました。ロコの方も、そして女の子の方も、やってしまった、と思いました。
「ぁ……」
ようやく絞り出した声はそれだけで、あとはもうずっと恐怖に飲み込まれていました。言葉はなくても、ロコのそんな様子がそのまま女の子の質問に対する答えになっていました。
「分からないなぁ…外は危険がいっぱいで、私の家で守られていた方が絶対に安全なのに」
女の子は調子が狂ったというふうに、指先でぽりぽりと頬のあたりをかいていました。
「確かにそうかもしれない…でも俺たちは、旅の途中だから、ずっとここに居座っているわけにもいかない」
とても喋れる状態ではないロコに代わって、ハルが答えます。
「旅…?どうして旅なんかしてるの?それってそんなに大事な旅なの?」
そういえば、どうして急に自分の家にハルたちが忍び込んできたのかも、女の子はまだ聞いていなかったのでした。
「俺たちの両親は、人間にさらわれた」
「え…」
「今、どこで何をされているのか、無事でいるのかさえもわからない…だからこうやって、旅をしながら手がかりを探しているんだ」
説明はそれだけでした。でも、ハルの声の調子から、どれほどの覚悟を背負っているのかは、十分に伝わってきました。
ハルたちが人間に両親をさらわれたということには、女の子も同情を抱きました。そして、自分がハルたちにしようとしていたことは、その人間と同じだということだって、頭では分かっていました。
……それでも、女の子は、このかわいい小人たちを……一生に一度しかないであろうこの出遭いを、逃したくありませんでした。
「…そんな事情、わたしにはカンケーないしっ」
小人たちを机に置き去りにして、女の子はベッドに飛び込み、布団で全身を覆い隠してしまいました。部屋の電気も消えて真っ暗になり、どうすることもできなくなったハルは、側でまだ震えていたロコの頭をぽんと撫で、とりあえず、今は俺たちも眠ろうと言ったのでした。
ハルたちも机の上ですっかり寝静まっていた頃、女の子は夢を見ていました。とても、おそろしい夢です。自分と、お父さんと、お母さん…家族3人で、どこだか分からないのどかな道を、楽しく喋りながら歩いていました。そこに突然、どこからともなく、もう一人の「女の子」が現れたのです。顔も、髪型も、きている服も、女の子と全く同じ…ただ、女の子と決定的に違っていたのは、身体の大きさが、通常の50倍あまりもあるところでした。突然の展開に混乱していたのはその場で女の子ただ一人だけで、その巨大な「女の子」は、現れた時には既に狙いを定めていましたし、両親は、自分たちの運命を悟って、二人で女の子のことを庇うような体勢になっていました。巨大な「女の子」はぬうっと両手を伸ばしてきて、あっと言う間に両親をさらっていきました。恐怖に腰が抜けてしまっていた女の子でしたが、あの巨大な「女の子」の背中が自分の視界に収まりきるくらい離れたとき、初めて、両親がさらわれたということを理解しました。女の子は全力でその背中を追いかけました。けれど、走っても、走っても、走っても、走っても、走っても、走っても……どういうわけか、背中が全く近づきません。それだけではありません。追いついて、一体どうするというのか……あんな馬鹿でかい怪物から、一体どうやって二人を取り返せばいいというのか……考えているうちに息が切れてしまい、どこかの地面で崩れ落ちました。もう、あの巨大な「女の子」の背中は見えません。ただ、その場の風景が広がっているだけでした。
時間が、止まってしまったような感覚でした。止まっていないことを証明するものは、ただ一つ、女の子の頬をむなしく伝う涙でした。 圧倒的な存在に対する恐怖…どうすることもできなかった悔しさ、無力感…そして、大好きな両親にもう会えないという絶望的な悲しさ、寂しさ…それら全ての感情が混じり合った涙は、止まることを知りませんでした。
目を覚ましたとき、女の子は自分の部屋のベッドの上に戻っていました。何よりもまず、あれが夢であったと分かって、深い安堵を覚えました。目を拭うと、まだ目に涙が溜まっていたのが分かりました。
起き上がって、何気なく机の上を見てみると、既にロコが起きていて、まだ横たわっているハルの体を揺すっているようでした。
「おはよ…何してるの?」
声をかけた後で、涙の跡に何か思われやしないかと焦りましたが、ロコにそれを気に留めた様子はありませんでした。
「あ…おはようございます、ちょっと、お兄ちゃんを起こそうとしてたんですけど、なかなか起きなくて」
「ふうん…ハルくんってちょっとだらしないんだね」
どこかで聞いたような台詞にくす、とロコが笑いました。
「昔から治らなくて、いつも私が起こしに生かされて…ほんと、困っちゃいます」
そうは言っていますが、ハルを起こそうとしているときの顔はどこか楽しそうで、全然困ってなんていなさそうでした。
自分が二人の身を守ることができても、この笑顔はきっと、ハルとロコにしか守ることができないのだと、女の子は気づかされました。
「こうすれば、たぶん簡単に起きるよ」
寝ていたハルの体を摘んでひょいと持ち上げると、ワンテンポ遅れて驚きの声をあげ、手足をばたばたさせ始めました。
「ガキ!なんのつもりだ!」
すっかり眠気の取れたハルの声を無視して、女の子はまたロコの方を向きました。
「ほら、もう起きてるでしょ?」
「あはは…それは私には無理です」
女の子の目に残っていた涙が、ちょっとずつ乾き始めていました。
「ところで、学校には行かなくて良いのか?」
宙吊りから解放されたハルが言いました。
「今日は日曜日だから、学校はお休み」
なるほどそうかとハルは納得しました。実はハルもロコも以前は小人の学校に通っていたのですが、両親がさらわれてからは学費を払えなくなって学校を辞めていたので、それからほとんど曜日の感覚がなくなってしまっていたのでした。
しかしその後で、ある疑念を抱きました。
「それって…もしお前に鞄をどかして貰っていなかったら、ロコは明日までずっとあの穴に閉じ込められていたかもしれないってことか?」
「あ…そっか…」
つまるところロコは、女の子が雑に鞄を放り投げたせいで、あの穴の中で飢えてしんでいたかもしれないのです。
「気にしてないですよ。わざとじゃないんですし、ちゃんと出してくれたんですから…」
女の子のすまなそうな視線に気づいたのか、ロコはそう言ってにこっと微笑みました。女の子はそんなロコのことを、不思議がるように眺めてから、やがてこう言いました。
「天使みたいな子…」
「全く同感だ」
隣で誇らしげに頷いているハルと、遥か頭上から羨望のこもった眼差しを注いでくる女の子のどちらも、ロコを恥ずかしくさせました。
「そ、それより!あの穴って一体なんの穴だったんですか?」
あぁ、と言って、女の子は目の色を元に戻して答えました。
「あれはね、私がちっちゃかった頃に、宝物を隠してた穴だったの。でも大きくなったら、手が入らなくなって取れなくなっちゃって…」
「あ、確かに奥の方に色々落ちてたかも…そのときは気にしませんでしたけど」
穴の中で、閉じ込められた怖さと、取り残された寂しさに耐えていたロコでしたが、一度だけ、何か出来ることはないかと穴の中を探って見たことがありました。そのとき、小さな懐中電灯では部分部分しか写せませんでしたが、光を当てるときらきらと輝くようなものが、ところどころに落ちているようなのに気づきました。あれは全て、女の子がもう少し幼かった頃に隠した宝物だったのです。
「そうだ!小人さんたちなら取り出せるじゃない!」
ぽん、と手を叩いて、ハルたちを期待のこもった眼差しで見てきました。物を運び出すくらいなら、ハルたちにも断るような理由はありませんでした。
「これで全部か?」
最後の荷物を、これまで運んできた物が集められているところにどさっと落としました。
「わあ…ありがとう。あは、懐かしいなあ…キラキラしたものが好きで、こういうもの集めてたんだっけ」
目の前に並んだ思い出の宝物に、女の子は目を輝かせていました。
ハルたちにも抱えることができるような、豆粒ほどの小さなカラービーズや、熱帯魚の鱗のように鮮やかなスパンコールの数々…外で拾ってきたタイルのかけら…幼稚園からこっそり持ち出してきた、おままごと用の小さなおなべ……小さかった女の子の好奇心の輝きを、そのまま宿したような物の数々でした。
「きれいだね…お兄ちゃん」
「ああ…」
しばらく宝物を一つ一つ手に取って眺めていた女の子を、二人とも静かに見つめていました。
二人の目の前にいたのは、もう鞄で小人を閉じ込めた人間でも、茶色い生命体を容赦なく踏み殺した人間でもありませんでした。女の子を待つ間、ハルとロコはそれぞれ、子供時代の楽しかった思い出に浸っていました……。
「…二人とも、何か旅に使えそうなものがあったら、持ってっていいよ」
突然の言葉に、二人は反応するのに少し遅れてしまいました。ですが、聞き逃したわけではありません。
「えっ、それって…」
「そのかわり!」
ハルの確認を遮るように、女の子がまた言いました。
「旅が終わったら、また遊びに来てよ。今度は、お父さん、お母さんも連れてさ」
ロコを救出してくれた時から感じ始めていたことですが、この子はほんの少しいたずらなところがあるだけで、根っこの部分は心優しい女の子なのかもしれません。
「ああ、約束する」
ハルは、旅を成功させなければならない理由がもう一つできてしまったな、と心で苦笑しました。約束を破ったら、またハルのことを好き勝手に弄びそうなたちの女の子ですから、守らないわけにはいきません。
「あと、ロコちゃん!…次会ったときは、タメ口で話そう?」
ともだちに、なりたいから…。照れくさそうに、女の子は付け加えました。
「えっ…う、うん!喜んで…!」
だから、ここで女の子がいたずらな笑顔になったのは、照れ隠しのつもりだったのかもしれません。
「私は「次会ったとき」って言ったんだけどな~」
「えっ、あっ…」
真に受けて慌てているロコが愛らしくて、女の子はからからと笑いました。続けて、ハルも笑いました。そしてとうとう、ロコまでもが笑いだしていました。
「じゃあ、この辺でいいかな」
女の子はなるべく人気のない場所を選んで、ハルとロコを手のひらから降ろしました。
外の空気を吸うのは久しぶりのような気がして、ハルは小さいからだで伸びをしています。その腰には、女の子がくれたおもちゃの剣が下がっていました。
しゃがんだまま、女の子は二人に別れの挨拶をして、茂みに向かって進んでいく小さな背中を見送っていました。
「あ、ハルくん、最後にちょっといい?」
今一度、ハルが女の子の方に振り向きます。それとほとんど同時に、たった二本の指だけで、ハルを空中にかっさらい、そして———
ちゅ。
ハルの顔全体を、ほんの一瞬だけ、柔らかな女の子の唇が包み込みました。
「旅が上手くいくおまじない♪頑張ってね!」
それだけ言い残して、女の子は、自分の帰るべき場所へ帰っていきました…。
「お、お兄ちゃん、私が閉じ込められてる間、何してたの……?」
「ま、まあなんだ…ロコが気にするほどのことじゃない」
「うそ!どうせえっちなことしてたんでしょ!もう、お兄ちゃんのバカ!変態っ!」
そういえば、ロコは怒らせると怖かったな……と、まだ女の子にされたキスの余韻が残る中で、ぼんやりと思っていました。