タイニー・キャッスル

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「おはよー…大輔」
メリハリのない眠そうな声で話すこの子は、俺の妹の沙綾。目をこすりながら、そのまま食卓について台所に立つ俺からその食事が運ばれて来るのを待っていた。


「飯前にちゃんと着替えてこい、あと顔も洗ってきなさい」
「良いじゃんそんなのあとでー…早くご飯出してー」
「やってこないとご飯出さないぞ」
「うー…けち大輔」


小さなわがまま女王も、流石に食事のことを持ち出されるとしぶしぶということに従った。


眠気で足取りのおぼつかない沙綾の背中を見送りながら、昔は素直で可愛かったのにな、と過去を恋しがる。あれでもまだ小学生になりたての頃は、おにいちゃんおにいちゃんと俺のことをしたって、いうことは何でも聞いてくれるような子だったのにな。とはいえ、少し手を焼かされる今も、それはそれで可愛いものである。


簡単な朝食を作り終えて、沙綾の分、次に俺の分と配膳し終えると、目的もなくつけていたテレビのニュースが耳に流れてきた。


「〇〇県××市で、小学生が監禁される事件が…」


そこで、遮るように沙綾が扉を開けて戻ってきた。そのまま何事も無いように食卓について、いただきますも言わずにパンをかじり始めた。


「何のニュース?」
「××市で小学生の女子が半年間監禁されてたんだってさ」
「うわぁ、結構近所じゃん、物騒だね」
「お前も気をつけろよ、最近こういう事件が増えてるからな」


被害者が同い年でもあるというのに沙綾があまりにも他人事な様子だったので、俺は声のトーンを落とし気味に言った。


「大輔こそ気をつけてね」
「俺はまあ自分で身を守れるし」
「違う違う、捕まらないようにってこと」
「お前な…俺は真面目に心配してるんだぞ」
「まあ大丈夫でしょ、最近学校でも防犯に力を入れ始めたみたいだし」


妹の危機感のなさには手がおえないが、あまり神経質になりすぎるのも良くないかもな、と思ってこの話は打ち切ることにした。


行ってきます、というだるそうな声とともに沙綾が出て言ったのち、新聞のスポーツ欄などをチェックしてから、しばらく家事に従事していた。


(ん…?)


掃除を終えて部屋を見渡していた最中に、食卓に置かれたとある物が目にとまる。これは沙綾のお弁当箱だ。


「あいつ、また忘れてったのか…」


こういうことは初めてではなかった。と言っても頻繁に忘れるわけでもなく、今回のように忘れた頃に忘れる…少しややこしいが、そういう場合がほとんどだった。
時計を確認する。大学に行くまではまだ多少は余裕がある。


(仕方ない)


こういう場合は、決まって俺が弁当を届けに行くことになる。慣れたことではあるが、正直あまり気が進まないのだ。沙綾に渡しに教室に入ると、子供達のキャーキャーという歓声と視線を浴びるのが苦手で、沙綾もそのことは恥ずかしいと思っているようだった。しかし弁当を届けないとそれはそれで沙綾からぐちぐちと文句を言われる羽目になるので、俺には選択肢など与えられていないも同然なのだった。


歩くこと約15分、俺は沙綾の小学校の校門についた。ここまでくればミッションはコンプリート目前だ。


(そういえば、今日は守衛さんはいないのかな)


届けに来ると、決まって守衛のおじさんが校門の側に構えていて、俺の姿を認めると「またですか」と苦笑いとともに労ってくれるので俺はそれによっていくらか救われた気分になる。


(まあたまにはそういうこともあるか)


そう思って校門をくぐった次の瞬間から、俺の意識は途絶えていた。



目を覚ましたのは、一面が灰色で、ゴツゴツとした地面に覆われた場所だった。
僅かに痛む頭を抑えながら、自分のいる場所を確かめる手がかりを探す。しかしどこまで進んでも、見えるのは灰色、灰色、灰色。10分ほど進んだところで、このまま歩いてもこの景色は変わらなさそうだと引き返すことにした。そのために来た道の方を向くと、明らかに周りの景色とは異質な桃色の壁が、さっきまで俺が倒れていたあたりで聳えていることに気づいた。その壁に向かって再び走り出す。走りながら壁を観察していると、その壁は横に広く、遠くの方で途切れているのがギリギリ確認できた。奥行きもある感じで、壁というよりは建物というべきだろうか。
その建物の前までたどり着くと、また一つ重要な点に気づく。


(これは…布?)


その建物の材質を確認しようと手を触れた感触は、ごわごわとしていて、まさしく布のそれであったのだ。しかし、その布の奥に感じる手応えが硬質で、建物全体が布に覆われて——いや、包まれてるようだった。


(まさか)


そう思って改める、建物を眺めてみる。布に描かれた白の水玉模様、建物そのものの縦横の比。そして今一度、壁を包む布を掴む。
予感から確信に変わる。今掴んでいる布の感触は、少し目が荒いものの、さっきまで俺が触れていたものと近似していて、そう、つまり、これは————
瞬間、身体を経験したことのない重力と、激しく上昇する感覚に襲われる。手は布を握ったまま、俺の体は宙吊りになっている。違う、俺だけではなく、建物ごと宙に浮いている。


『なにこれ、誰かのお弁当箱…?』


その鼓膜が破れそうなほどに重く響き渡る声が、俺が目覚めてから最初に聞いた、人間の声だった。
ただしその声の持ち主は、俺を存在感で圧倒するような建物を、弁当箱と言って軽々と持ち上げてしまうような、まるで桁が違う大きさの人間の、だったのだが。


『なんでこんなところに』


その弁当箱(を包む風呂敷)に捕まるのに手が塞がれていて耳を抑えることができず、空気を震わせる爆音に鼓膜を狂わされる。


「気づいてくれ!ここにいるんだ!!」
『…?なんか聞こえた?』


反応があり、しめたと思って俺は声が枯れるほど叫び続ける。


『ま、セミの鳴き声か何かよね』


そしてすぐにその期待は打ち砕かれる。それだけでは終わらなかった。周りの世界がとてつもない勢いで動き出したのだ。それは人間がたった一歩を踏み出したに過ぎない。そのたった一歩に、弁当箱にミノムシのようにしがみつく俺は翻弄される。一瞬下に目を向けると、まずスカートが目に入り、そのはるか下から左右のスニーカーが交互に現れる。手を離せば地面に真っ逆さま。この高さでは、間違えなく助からないだろう。
しかし、揺れのせいだけでなく、先程から布に掴まりながら、たった1本で俺の全体重を支えてる俺の右手は悲鳴を上げ始めていた。落ちたら死ぬ、と必死に掴まろうとする俺の意思に反して、右手の力はどんどん弱まっていく。


(あ)


やがて、俺の体と弁当箱が分離される。スローモーションのように、周りの光景がスクロールしていく。


(俺、ここで死ぬんだ)


せめて、沙綾に弁当を渡すことだけは済ませたかったなあ…そんなことを考えながら、ゆっくりと俺の意識は、身体とともに堕ちていった。



「いてて…」


全身の打撲に顔を歪めながら、俺は身体を起こした。


(あれ…「いてて?」)


即座に自分の身と周囲を交互に見比べる。


(生きてるのか、俺…)


相変わらずどこかは分からないが、少なくともさっきまでと同じ世界、同じ自分であることに疑いはなかった。
しかしなんであれほどの高さから落ちても死ななかったのだろう、と考え出したところで、自分が横たわっている地面の感触に違和感があることに気づく。


(これ…玄関のマット…?)


自分にとっては何畳もある広々とした絨毯のようであったが、人間の視点に立って(これではまるで俺が人間ではないみたいだが)見てみると、それはまさしく、玄関に敷かれるマットの形をしていたのだ。先程の経験から、今度は正体を解明するのにあまり時間を要さなかった。おそらくこのマットがクッションになって、落下時の衝撃を和らげてくれたのだろう。


(ん…?でも玄関マットってことは…)


嫌な予感がしてすぐのことだった。


「うわあっ!?」


俺のいる場所から本の数センチ(つまり、人間にとっては本の数ミリ)ずれた位置に体育館ほど大きな物体が落とされたと思ったら、それは紛れもなく、運動靴を履いた人間の足だったのだ。
振り下ろされた時の衝撃も、爆音も、目の前に鎮座する靴の存在感も、そこから果てしなく伸びる巨体も、全てが圧倒的で、俺は情けなく腰を抜かすしかなかった。初めてエベレストを前にする登山家もこんな感覚を抱くのだろうか。これまで培って来た常識が何もかも通用しない、それどころか軽く吹き飛んでしまうような途方も無い大きさ。
運動靴に描かれたピンクと水色のエナメルのラインが無機質な光を放ち、今の精神状態では、まるでそれが得体の知れない死刑執行マシーンのように映った。その上に見える眩しいほどに健康的な生足が、よりその運動靴の異質さを際立たせていた。


『新品なのにこんなに汚れちゃってサイアク〜』
『その靴ダサいし良いじゃん』


その死刑執行マシーンが、なんのスイッチを押したわけでもなく突如稼働し始めた。少女が汚れを落とすべく、靴底を玄関マットに擦り付け始めたのである。


マットが摩擦で重苦しく悲鳴を上げている。目の前では運動靴が怒り狂ったように激しく行き来している。滑り止めが弱いのか、その運動によってマット全体が横に揺れ動き、それにしたがって俺の体も右へ左へ転がされる。


『もーこのマット全然汚れ落ちないんだけどー!?』


動きはさらに激しさを増し、風が巻き起こる。俺を受け止めて命を救ってくれたマットが、小学生の女の子の靴底の汚れを押し付けられ、めちゃくちゃにかき乱されて、使えないと罵られている。人間の「道具」の扱いなんてそのようなものでしかないのだ。人間の役に立つことでしか価値を見出されることはない。


じゃあ、俺は?その使えないマットの上で無様に転がされ、玄関マットよりも人間の役に立たない、虫のように小さい俺を、この無邪気で無慈悲で無自覚なエゴイストはどう扱うのだろうか。


「うわあああああああっ!!」


俺は耐えられなくなって、抜けた腰も忘れて走り出していた。横揺れはまだ続いていて足取りが安定せず、途中で2、3度転び、そのたびに生きた心地がしなかった。それでもすぐに起き上がって、マットの外を目指して必死に走り続ける。マットの外に出てからも走り続ける。そうしていないと、頭がおかしくなってしまいそうだった。足を止めれば、この何もかもが常識外れのこの世界に飲み込まれてしまいそうだった。



どれくらい走ったか、辿り着いたどの場所かも分からない壁にもたれて座り、ふうっと息をつく。100%安全とは言い切れないが、少なくとも1番人が集まりそうな玄関付近からはだいぶ離れることができたので、すぐに誰かに見つかるということはないだろう。


この世界に紛れ込んでから、信じたくない残酷な現実を見せつけられてばかりで、気が休まることがなかった。
けれど、やはりこれが現実だ。小学校は人間の小学生が生活するために作られた場所で、人間ではなくなった大学生のための環境ではない。実に当然のような話だった。
このまま、元に戻らなかったら。さっきのような巨人が何百と生活しているこの場所で、俺は生きながらえることができるのだろうか。もしその巨人に捕まってしまった時、俺は無事に返してもらえるのだろうか。


(沙綾を探そう)


きっと、それしか生きる術は残されていない。この世界で俺の味方になってくれることを期待できるのは、もはや沙綾だけだった。沙綾に保護してもらって、元に戻るまで世話をしてもらって、それでも戻らなかったら、きっと大学やバイトになんて行けないだろうから。そのまま沙綾に飼ってもらえばいい。人間に戻ることができなくても、ペットとして愛する妹の側にいることができるなら、それはそれで悪くないのかもしれない。


(さて、そうと決まればこんなところで休んでる場合じゃないな…)


幸い、沙綾の教室までの行き方は把握している。無事にたどり着けるのかどうか定かではないが、小さくなっても方向という概念だけは不変なので、少なくとも行き方を間違えてたどり着けなくなるということはないだろう。
立ち上がって伸びをしようと上を向くと、目に入ったのは一面の青空ではなく、くりんとした目で静かに俺の姿を捉えている、昼間の月のような少女の顔だった。


*****


玄関口から三、四歩ほどのところに見慣れない生き物が動いているのに気づいて近づいてみると、その正体は私が思っても見ない物だった。逃げないように慎重に指を近づけてみる。その生き物は私の指にすら動けないほど怯えている様子で、それが分かると私は素早く摘んで壁際から攫っていく。


(やっぱり、人間だ)


小さい人間など初めて見るのでもちろん驚きはあったが、新種を発見した生物学者のような興奮があったわけではなかった。
指と指の間で何かキーキー言ってるが内容は聞き取れないのでそのまま騒がせておくことにした。もぞもぞともがいているのがくすぐったく少し指に気持ちが良かった。


(本当に小さくなるんだなー…)


人間が小さくなるという現象には心当たりがあるというか、今日の朝聞かされていたばかりで、今手に持っているコレを見るまでは、私もまだ半信半疑という段階だった。
この学校が導入を計画している警備システムは色々あって、その一つが、簡単に言うとセンサーが不審な人間を感知して、学校に足を踏み入れた瞬間に体を縮めてしまうというものだった。今日から1週間試験導入がされるということだったが、コレを見ると効果は確かなのだろう。


(さて、どうしようかなコレ…)


捕まえたはいいものの、手のひらの中の不審者の処分については決めかねていた。先生からは、もし小さくなった不審者を校内で見つけたら、殺したり、トイレに流したり、家に持ち帰るなり好きにしていいとは言われているが、コレを使ってしたいということは特になかった。殺しちゃうのはちょっと気が引けるし、かといって、小さいとはいえ小学校に忍び込むような変態を生かしたまま家に置いておくのも嫌だった。
私は改めて手の上で震えている小人をじっと観察してみる。


(高校生か…大学生くらいかな?まだ長い人生をこんなことで台無しにしちゃうなんて、ほんと馬鹿だよねー)


いたずら心が働いて、私は唇を近づけ、ふーっと息を吹きかける。すると小人は紙相撲のコマみたいにステンと転がってしまった。


(これだけ体の大きさが違っても、この小人はまだ小学生の私を可愛いと思うのかな?小学生の吐息を全身に浴びれて嬉しい?それとも耐え難い屈辱?くすくすくす…)


そこで私は、あるアイデアを閃いて、小人をきゅっと拳の中に閉じ込めて、そのまま目的の場所に向かった。


(どの子のやつが良いかな〜…)


目的地についた私は、並べられた小人の拷問部屋を念入りに選んでいた。


私が選んだ処置は、私の手を汚すことなく、血なまぐさい方法でもなく、何より小人の屈辱感を1番引き出せそうなものだった。屈辱を味わいながら、誰にも助けられることなく死んでいく。清々しいくらいに変質者に相応しい末路ではないか。それでも、この方法には小人が生き延びる可能性もわずかに残されていて、それは私なりの情け、ということにしておく。


私の目は、ある女の子の名前が書かれた場所で止まる。


(うん、やっぱりこの子しかいないでしょ)


その子の所有する物は、私の求めている条件をよく満たしているし、何より私の友達でもあるので、翌日にこのことについて色々と聞いてみることができるのも都合が良かった。


まあ、これはある意味友達同士のいたずらみたいなものでもあるのだ。それにあの子は面白い反応をしてくれるから、やりがいもあるというもの。例えば私がブラコン呼ばわりすると、逆に肯定に取れてしまうくらい必死に否定しようとしたり、ね。


握った手を開いて見ると、中から息も絶え絶えになった小人が現れた。そういえば夏場に体温の高い人間の手に閉じ込められて圧迫されていたら、こうなってしまうのは無理もなかったかもしれない。


でも、この小人がこれから閉じ込められるのは、私の手の中なんか比べ物にならないくらい過酷な場所だ。蒸し暑くて、圧迫されて、そこにちょっとした"スパイス"が加わる。


(せいぜいあっさり死んじゃわないように頑張ってね)


私はそのまま手のひらをくるんと返し————友達の使い込まれたシューズの中に、小人を落としたのだった。


*****


手のひらの箱舟が転覆し、落ちた先はまたもや見覚えのない光景だった。薄暗くジメジメしており、それになんだか——


(く、臭い……)


臭いの原因を突き止めようと試みるが、どこを探してもそのようなものは見つからない。そこで気づく。何が臭い、というわけではなく、この空間の空気全てが汚染されて強烈な臭いを伴っているのだと。


次に出口を探してみるが、これもまた見渡した限りでは出られそうな所はない。唯一外の世界と繋がっている場所は、天井にぽっかりと空いている、俺が落とされた時にくぐった円形の穴。


(登るしかない、か…)


壁の繊維が所々たるんでいてそこに手をかけながら登れないでもないが、壁が油のような何かで湿っていて滑りやすく、すぐに落とされてしまう。17回目の失敗を喫したところで、俺は壁をよじ登って出る方法を断念した。運動をしたせいで呼吸が荒くなり、そのせいで多量にこの場所の空気を吸い込むことになる。


(もしかして、ずっとここに閉じ込められたままなのか?)


確かに食べ物も飲み物もなく、この劣悪な環境で数日間放置されれば餓死は免れないだろう。だがなぜそんなに回りくどいことをする必要があった?他にもっと簡単なやり方があったはずだ。あの女悪魔が、俺を殺したかったのであれば。


俺を捕まえたあの冷酷な少女は、言葉こそ何も発さず不気味なくらいだったが、確実に俺が人間であることに気づいていた。なぜなら、無表情であっても口角を釣り上げた時でも、彼女が俺を見るその目は一貫して「人ならざる人」を見る目であったからだ。


人間だと認めて置きながら俺を微塵も助けようともしなかった。そこには明確な悪意がある。彼女がこの場所を選んだ理由は一体なんだ?一体どうやって、俺を貶めようとしている?


そこで再び、ここが一体どこなのかという疑問に帰ってくる。やはりそれを明らかにしない限り話は進まない。この空間の奥の方に行けば、何か決定的な手がかりが掴めるかもしれない。実際はそこまで奥行きが深くなっているわけでもなく最奥部の大まかな概観はここからでも掴めるのだが、細部まで確認するとなると探索が必要だった。一歩を踏み出す前に、溜まった唾をごくり飲む。そこは、訳の分からぬ禍々しさが漂う場所だった。本能があそこには行かない方が良いと知らせているのだ。ポケットから携帯を取り出す。電波が通じていないことは確認済みだが、照明の機能はどうやら問題なく使えるようだ。そのまま奥へと歩みを進めて行く。こうして道を照らしながら暗がりを進んでいると、洞窟探検をしているようだ。上、横、下、と光を巡らせていると、地面に、ところどころ色が違う部分が見られた。


(これは…何かの文字?)


だいぶ剥げているが、確かに文字の形をしていた。しかも文字は、まだ奥の方に続いているようだった。


(a…d…)


かけた文字をどうにか解読しながら進んでいく。5文字目を解読し終えて次は6文字目、というところで行き止まりに出た。どうやらここが最奥部のようだ。


(——っ!?)


俺は咄嗟に手で鼻を抑える。そのときの弾みで携帯が手から離れてしまう。


(しまっ…!)


携帯を落としたばかりなら良かったが、手から離れる時にうっかり変なボタンを押してしまったのか、照明が切れてしまったのだ。辺りは途端に暗闇に包まれる。


暗闇の中携帯を手で探ろうとして、鼻を抑えていた手を動かす。その瞬間を狙っていたみたいに、周囲の空気が一斉に俺の鼻に入り込んできたのだ。


「あああっ!!?」


入り口で吸っていたものに比べて濃度が何十倍にも登ろうかという臭気が俺を襲う。こんなものをまともに吸っては立っていられなくなってしまう。それほどの攻撃性をこの場所の空気は持ち合わせていた。


(どこだ…!どこにっ…!)


鼻を抑えながら血眼になって探して見るものの、携帯はどこにも見つからなかった。そして、手一本で鼻を塞ぐだけでは、この空気の侵食を防ぐのには心許なかった。鼻の僅かな隙間から侵入してくる空気ですら、俺の嗅覚を刺激し狂わせるのには十分だったのだ。


いつまでもここにとどまっている訳にはいかない。俺は携帯を探しながら、頭では辿ってきた5文字を繋ぎ合わせることを試みていた。


(a…d…i…d…a…adida?)


6文字目の足りないその単語に結びつきそうな物を探す。


(まさか)


ある可能性が浮かびあがる。その可能性は、確かにこの殺人的に過酷な環境とも矛盾していなかった。しかしそれでも、俺の意思は納得することを拒んでいた。そんな場所に閉じ込められているという事実を受け入れたくないというのが一つ、そしてもう一つは、もしそれを納得してしまえば、今度はいずれこの空間に訪れる「脅威」のことを考えなければならないからだ。


その時、この空間の外、その更に向こうの方から喧騒が聞こえてきた。その声が確実に、地響きを伴って俺のいる場所に近づいてくる。足の震えを抑えながら、入り口の方に戻っていく。人間に近づくのも、そのことで現実を思い知らせるのも怖かった。けれど確かめなければ、この状況から脱するための手段を講じることはできない。


俺が入り口に帰ってきた時、すでにその向こう側は、大勢の巨人で入り乱れていた。


天井の穴からは、側を通る人間の頭部をかろうじて覗くことができた。その頭には黄色い通学帽を被っていて、そこから今が下校時間であるという情報を引き出すことができた。そして下校の時間に児童がたむろする場所といえば、それは下駄箱なのであり、俺が閉じ込められている場所が、その下駄箱に置かれた誰かの靴の中であるというのも、自明のことであるのだった。


そうと分かるや否や、俺は外界の人間たちに必死の叫びで訴える。



「出してくれ!誰か!気づいてくれ!!」



人間に見つかることへの恐怖心はとっくに消えていた。早くここから出してもらわないと、そんなものよりもよほど恐ろしい運命が待ち受けているのだ。



「ここにいるんだ!!誰か!!」



どれだけ叫んでも、通り過ぎる顔は誰もこちらを振り向かない。届くことがないなんて、頭では理解できていた。俺の口よりも何千、何万倍と大きく、その気になれば簡単に俺のことなんてキャンディーのように飲み込んでしまえるような口から発せられる爆声、それが何人もの間で飛び交う中で、小学生の靴の中からも脱出できないほど小さな俺が叫んでも伝わるはずがないのだと。それは砲弾が飛び交う戦場に竹刀一本で立ち向かうような、そんな無謀にも等しい行為であった。


それでも、叫ぶのをやめなかった。運命に対する抵抗をやめて受け入れてしまえば、その時が本当に俺が人間でなくなってしまう瞬間である気がしたから。脅威は一瞬で俺の体を制圧し、精神を蝕み、人間の尊厳を文字通り踏みにじる。その瞬間は、もうすぐそこまで来ているはずだった。


しばらくすると、児童がほとんど帰路について、下駄箱には誰もいない状態となっていた。一転して不気味な静けさが漂い始めていた。


そんな状態がもう20分ほど続いており、流石に何もできることがなく、中敷の床に横たわっていた。


そしてある時だった。遠くから少しずつこちらに向かってきている足音を聞いたのだ。しかしそれと同時に、これまでとは違う感覚が俺の中に起きていた。


(この足音は、どこかで)


どの辺がと言われると具体的な説明はできないが、それは確かに聞き覚えのある足音で、どこか懐かしい足音でもあった。


(そうだ…間違いない、沙綾の足音だ)


ふらふらと立ち上がって、その足音を聞いていた。近づいてくる。沙綾が、この下駄箱に近づいてる。


やがて、天井の穴の右端から、沙綾の横顔がゆっくりと現れた。



「沙綾!!俺だ!!」



俺はここで一生分の声を使い切ってもいいという覚悟で、沙綾に呼びかけ続けた。



「ここだ!!靴の中だ!!沙綾っ!!!」



沙綾の横顔がちょうど靴の穴にすっぽりはまったところで止まる。そして、その顔は徐々に靴の方を向くように動いていく。



「さ——」



俺はその光景に言葉を失った。沙綾の顔で俺の視界が埋め尽くされる。小さくなってから初めて目にした沙綾の顔は、今まで見てきたどんな観光名所よりも美しく、俺の目を吸い寄せて離さなかった。比喩なんかではなく、今の自分にとって、愛すべき妹の姿は女神に映っていたのだった。


この時に少しでも自分の存在をアピールできていれば、自分の身を滅ぼす結果には繋がらなかったのだろうか。


沙綾の手が、こちらに向かって伸びてくる。


(そうだ!沙綾!信じてたぞ!)


女神の救いの手が舞い降りるのを、身を正して待っていた。



(え?)



しかしその手が選んだのは、最初から俺などではなかったのだ。手が掴んだのは靴の縁の部分で、その次の瞬間には、俺を取り囲む靴ごと持ち上げられる感覚に襲われる。何がなんだか分からずに混乱している俺が次に味わうことになるのは、沙綾の手という命綱を失い、急速に自由落下していく感覚だった。


俺を乗せた靴は、下駄箱から推定100メートルほどの地点で不時着する。


吐き気と痛みに耐えてなんとか立ち上がった俺が天井の穴に見たのは、はるか高くそびえる、沙綾の立ち姿だった。


(まさか)


すでに沙綾の足は穴の上にセットされていて、俺に狙いを済ましたかのようにつま先を向け、そのままゴウゴウと迫り始めた。


俺は急いで靴のベロの裏側を確認する。そこには名前を記入する白い枠のようなものが貼られていて、もう薄れてしまってはいるるものの、俺にはすぐにそこに書かれている文字が何であるのか分かった。なぜならそこに書かれた「さあや」という3文字のひらがなは、まさしくここにいる自分が書いたものなのだから。


(なんで、気づかなかったんだろう)


そう思った時にはすでに沙綾の怪物のような足の侵略は始まっていて、脱出手段を完全に立たれた俺は、奥へ奥へと逃げ込むしかなくなっていた。


そう、このシューズは、沙綾が小学三年生だった頃に、俺が誕生日に買ってあげたものだった。


瞬く間に靴の内部は少女の足によって占領され、俺はそのつま先の僅かな隙間で身動きが取れなくなっていた。外からの光は完全に遮断され、その闇の濃さといえば、もはや自分の体ですらどこにも見つけることができないほどだった。しかし手を伸ばせば、というよりも手を少しでも前に動かせば、その手にはごわごわとした感触と、しっとりとした熱を感じることができた。光が失われる前に見た光景を考えると、これが沙綾の靴下ということなのだろう。決してその靴下によってぎゅうぎゅうに押し込められているというわけではない。だがそれは、沙綾の履いているこの靴がぶかぶかであることを意味していない。つま先のほんの僅かな隙間にすっぽり収まってしまうほどに俺が小さい。それだけの話だった。


靴下に色々な方法で接触してみれば、東京湾からクリオネが発見されるくらいの確率で沙綾に気づいてもらえるのかもしれない。

しかし鼻を抑えながらになるので、どうしても片手でだけでこの靴下と渡り合わなければならない。不可能だ、そんなのは。

かといって、もう片方の手で応戦するために鼻を無防備にしてしまうのは自殺行為に等しい。この場所でまともに鼻呼吸をすればどういうことになるか、それは最初にこのつま先を訪れた時に味合わされた。

そしてその時とは違って、真夏日に一日中上履きを履いて、蒸れに蒸れた彼女の足が放つ臭いも加わっているのだ。

鼻を塞いでいる状態でさえ、さっきのものとは比べ物にならない臭いであるというのが分かる。

もしこんな空気を継続して嗅がされれば、気を失うか、最悪即死もあり得る。

あるいは——脳の機能を狂わされ、重度の薬物中毒者よろしく廃人と化して、人間らしい行動ができなくなってしまうような、そんな死ぬよりも悲惨かもしれない末路も考えられた。


がくん。


世界が動いた。俺の世界が——沙綾の足が、動き出したのだ。


当然、中にいる小人のことなど気にかけることもなく、沙綾はいつものペースで歩く。


少女の歩みによって、世界の秩序は乱される。なまじつま先の圧迫を受けていないせいで、俺の体は激しく揺られ、飛ばされ、上も下も分からない状態だった。そうされていくうちに、ついに俺は鼻を塞いでいた手を離してしまう。


鼻が折れ曲がる、そんな生易しいものではなかった。

つんとするような臭い、とは良くいうが、これはその究極の形だった。

鼻を引きちぎられるような痛みが、半永久的に俺を苛み続ける。

涙が自然に目から溢れ出す。

咳き込む。

その間にも俺の身体は絶えず揺さぶられている。

口から、鼻から、肺いっぱいに沙綾の空気を吸い込まされる。

それは恐ろしい速さで俺の体を、脳を侵食していく、彼女の毒だった。

また。歩き続けることで沙綾の足はますます蒸れていく。

それによって毒も濃さを増し、気温は灼熱にまで達する。呼応するように、今まで表面に染み込んでいた臭いまでもが融け出してくる。

それは、沙綾がこの靴を大事に履いていた3年と少しの間の全てが凝縮された、極上の臭いだった。



どのくらい経っただろうか。目を覚ますと、もう激動は収まっていて、俺は床にうつ伏せになって倒れていた。視界がぼやけている。しかしこの場所にい続けたお陰で暗さに目が慣れていて、今まで掴めなかった沙綾のつま先の輪郭が、おぼろげに掴めるようになっていた。


(こ、れ……は)


おぼろげながらも、そのつま先のある部分が、周りとは明らかに色が違っていることを認めた。


薄汚れた靴下の繊維に対してあまりにも綺麗なそれは、露出した、沙綾の足の指の皮膚だったのだ。


(は、は……駄目じゃないか……穴の空いた靴下を、履いてく、なんて…)


うつ伏せのまま、這いずってその穴の前まで移動していく。恐らく人間からすれば、注意して見なければ気づかないような穴なのだろう。


穴はちょうど、自分の顔と同じくらいの大きさだった。手で触れるには十分な大きさ。靴下越しではなく肌に直に攻撃すれば、沙綾が気づいてくれる可能性は十分にあった。しかしもう殴る力はおろか、拳を握る力すら残っていなかった。立ち上がって蹴ることもできず、俺が出来ることといえば、ただ、力なくこの足の指に触れることだけだった。


手のひらに沙綾の肌を感じる。


灼熱なんかじゃない。沙綾の肌は、ぽかぽかと温かかった。


まだ俺のことをおにいちゃんと呼んでいた昔に、手を繋いだ時に感じた温もりと、何も変わっていなかった。


(さあや…)


最後の力を振り絞って顔を伸ばす。そして俺は、沙綾の美しい足の指にキスをする。そしてそのまま、舌を這わせる。


毒が回りきり、涙腺が文字通り崩壊して止まらなくなった涙のせいか、彼女の足は、少ししょっぱかった。



(おいしい)



縋るようにして、俺は沙綾の足を舐め続けていた。舌に肌を感じている以外に、俺の感覚はもう何も残っていなかった。



(おいしいよ…沙綾)



嵐が過ぎ去って静かになったこの空間に、ピチャピチャという水温だけが聞こえ続けていた。


気づいたら俺の体は投げ出され、靴の中とは違う別の場所に落とされていた。


ぶつかった地面の硬さと、灼熱がウソのように涼しくなった周りの空気に、急速に意識が覚醒していく。


この地面は見覚えがある。そうだ、これは最初に見たのと同じ、黒くてゴツゴツとしたアスファルトの地面だ。それはここが外の世界であることを表していた。


目を前に向けると、脱いだシューズを履き直す沙綾の足が見えた。


(出れた…沙綾がやっと気づいてくれたんだ!)


続けて顔を上げると、上空には、確かに俺に目を向けている沙綾の顔があったのだ。


「さ————」



最期に俺が見たものは、まるで俺を殺すためだけに刻まれたようなおぞましい溝を讃えて、俺の視界を埋め尽くしながら迫ってくる、沙綾のシューズの底だった。





靴に紛れ混んでた気持ち悪い虫を形がなくなるまで踏み潰しても、気分は晴れない。


ほんと、今日は最悪だ。昼休みまでに弁当が届かなかったと思えば、放課後になって先生づてで校門前に落ちてたっていう弁当箱が渡されるし。5時間目の授業ではそのせいでお腹がなって笑われるし。全部あの馬鹿兄のせいだ。


本当に?少なくとも私がお弁当を忘れなければ、校門前に弁当箱を放置されることも、私が恥ずかしい思いをすることもなかったはずだ。それに、


(お兄ちゃん、もしかしたら傷ついてるのかもなあ…)


自分が愛情を込めて作ったお弁当を持って行ってもらえないのは、私が思っているよりもずっと傷つくことなのかもしれない。
高学年になってから冷たい態度ばっかりとってたけど、それでも文句一つ言わないで、忙しいお母さんの代わりに私の面倒を見続けてくれているお兄ちゃん。本当は感謝を伝えてあげなければいけないのに。


「今日はちょーっとだけ、優しくしてあげようかな」


帰ってきたら、久しぶりに大輔じゃなく、お兄ちゃんと呼んであげようと思った。


(お兄ちゃんきっと驚くだろうなー)


本当に久しぶりだから、ちゃんと呼べるかは分からない。でもきっと大丈夫だと思った。
ちょっと私の態度が変わってしまっただけで、お兄ちゃんはずっと昔から変わらない、大好きなお兄ちゃんだから。




その大好きな兄だった物が自らの靴底にこびりついていることなど知らずに、妹はそのまま帰宅路を歩いていくのだった。