1話

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0.プロローグ


もともと、大規模な物質縮小機は一般個人が手にできないほど高価なもので、さらに使用にも公的機関の許可と資格が必要なため、人類の縮小はもはやファンタジーではなくなったが、多くの人にとっては手が届かない世界であることに変わりはなかった。

しかし、世の中には人体の縮小に異常な程の執着を持つ人種も存在する。榊原雄一もその1人だった。先に断っておくが、彼はこの物語の主人公ではない。ただ、異常な人種の中でもとりわけ危険な思想の持ち主であり、そして同時に機械工学とソフトウェア開発、そして縮小メカニズムのそれぞれに比類なき知見と技能を持ち合わせた人物であった。

当時、一般に流通していたポータブルの縮小機は、非生物を1/2、高性能のもので1/4まで縮めることができるというのものだった。榊原は、これらを自身の能力によって人類を1/100(ant-sizedという単位である)まで縮めるというものに改造した。

とはいえ、これだけでは彼の能力がいかに優れていたか、という話に留まる。ポータブル縮小機の改造自体違法であるが、人体に影響を与えるものにまで作り変えたという例はそれまでになかった。ここから記すのは、彼の危険思想の部分である。

早い話が、自身の作り変えた縮小機で、社会に混乱を巻き起こすという思想であった。彼は中途採用で、ポータブル縮小機の製造の現場に潜り込み、製品を自身の改造品にすり替えた。その数、締めて3000点である。

後の調査により、改造品流通後1ヶ月時点でのこの事件による被害総数はおよそ2万人と推定された。しかし、報道の動きは慎重であった。というのも、改造品の存在を周知してしまえば、悪用する人間や模倣犯が出てくることは明白であったから。企業は期間内の購入データを洗い秘密裏に回収に動いていたが、実際に回収、処分できたのは3000点のうちたったの200点であった。

そして結局は、一般のSNSでの報告が相次いだことや、末端のメディアの報道から、瞬く間に事件の情報が広まってしまい、企業は倒産にまで追い込まれ、危惧の通り縮小機を用いた犯罪が頻発するようになり、彼の計画通りに社会中が混乱の渦に巻き込まれることとなった。後に榊原雄一は逮捕され、計画性と被害規模の大きさから極刑が言い渡された。


もっとも、この名はこれ以上登場しないため覚えなくてもいい。この物語の主人公は、彼の計画の(記録上ではなく事実上の)第一の犠牲者であるところの、1人のうだつの上がらないサラリーマンであった。






1.前夜


その夜、男は数ヶ月ぶりに射精に至った。

このところ仕事の疲れが溜まり手が回らなかったということに加え、こだわりばかり強い彼を満足させるような供給が無かった。

ところへ今宵、彼が最も崇拝する創作家(書、描合わせて4人ほどいる)のうちの1人が、およそ1年ぶりにWEB小説を更新したのであった。

単に優れた作品の条件を満たしていたという話ではない。彼にとって、これまでに触れてきたどんな物語よりも身近であった。男は、作品の主人公に自分を重ねたのと同じように、ヒロイン(官能小説でもヒロインというのだろうか)にも或る女を重ねていた。ヒロインの言葉はその女の言葉であり、ヒロインの身なりはその女の身なりであり、ヒロインの生活はその女の生活であり、ヒロインの発するにおいは、その女のにおいだった。

小説の内容は、身も蓋もない要約をすれば、ヒロインが物理的に矮小化した主人公を虐め倒す、といったものであった。



ジャムトーストに市販の野菜ジュースという簡易的な朝食を済ませ、今日も面白くもない8時間の日課をこなしに向かう。

男の住む部屋は、駅から徒歩15分程の場所に立地する賃貸マンションの4階の一室。外出の際はいつも廊下の突き当たりにあるエレベーターを利用していた。

この時もまた慣れた手つきで、「1」のボタンを押してから扉を閉じようとしていたが、隙間からこちらに向かってかけてくる者がいることに気づいて、すぐに操作を改めた。



「ありがとうございまーす……」


ゆっくりと閉じていく扉を背に、少しきまりが悪そうに彼女は言う。恥じらうくらいなら初めから走らなければいいのに、と思うが、そういつも器用に立ち回ることのできない年頃なのだろうと納得する。


「今日から学校?」

「はい」


彼女の背負っている物を見ればすぐに分かったため、間を持たせる浅い会話にすぎない。しかし、言葉を交わす必要もないほど、男と少女は縁遠いわけでもなかった。


「夏休みどっか行ったの?」

「那須行きました」

「へー、いいね。楽しかった?」

「はい」


少女は男に口数少なく返事していた。彼女は特段無愛想なわけではないし、どちらかといえば愛嬌よく振る舞う方ではあった。ただ、大人と子供の会話とは得てしてそうなるものである。男の方もそれをよく心得ていたし、少しまだ眠気が残っているようにも見受けられた。



「いってらっしゃい」


最寄駅は、少女の通う小学校と逆方向にあるため、男は玄関先で彼女を見送った。少女はそれに対して、控えめに会釈をして通学路を歩いていった。

男の目線は、その後もしばらく少女の背に向けられていた。

彼女が水色のパーカーに衣替えをしていたことも、夏休みの間肩の近くまで髪を伸ばしていたことも、この時初めて知った。

男は少女のことをもうずっと直視できないでいた。それは大抵の男性が、女性を直視できない理由と同じ理由だった。

隣の部屋に住む少女は名を佐藤{優奈|ゆうな}と言い、7月に誕生日を迎えた小学校5年生であった。






男は、こだわりばかり強い小児性愛者であるということ以外に、何の備考も必要としない取るに足らない人間であった。いくばくか若い時分には彼も創作を嗜んでいたが、最近ではそれすら億劫に感じるまでに腑抜けてしまった。



「おはようございまーす」

「こちらお手隙でご確認お願いします」

「すいません、今日中にやっときます」

「お疲れ様でーす」


毎日が同じことの繰り返し。向上心もなく、かといって逸脱するわけでもなく。


彼は他にもマゾヒスト、縮小フェチという三重苦を背負っていたが、無論それらを同僚に告白しているわけでもないため(パイオツが好き、などと冗談めかして言うのとはわけが違う)、やはり取り立てて面白いところもない普通以下の人間、というのが周りからの評価であった。



男には、退勤後の日課があった。それは、職場近くの家電量販店に赴き、ポータブル縮小機の売り場を眺めること。


ポータブル縮小機の普及に伴い、縮小機の誤作動、というのが、20XX年の縮小フェチ創作の最もポピュラーな導入となっていた。つまるところ、彼はそれと同様のことが現実にも起こることを夢見て、これまでに生活費を除いた私産の大半を縮小機の購入のために投じてきたのである。戦績は0勝138敗。パチンコでもうつ方がまだ健全と言えるだろう。


この日もまた、何千、何万の連敗よりも大きな1勝を求めて、割高で形のある宝くじを一口買って行った。

彼が初めて縮小機を初めて手に入れた時には途方もない夢への第一歩に胸を高鳴らせたものだが、今では数取器を一つ進める作業に等しくほとんど何の感情も抱かなくなっていた。



寄り道を経て、平日彼が自室に帰ってくるのは20時を回る頃だった。白色灯の下、売れ残りの惣菜の入ったレジ袋を鳴らして懐から鍵を探る。少し防音の緩い壁の向こうの隣の部屋からは、慎ましくも温かな{団欒|だんらん}の声が聞こえる。昼間には無かった肌寒さを少しだけ感じた。


鍵を開けて部屋に入ると、むさくるしい男の生活臭が彼を出迎えた。

革靴を脱いで大雑把に向きを正す。足元には仕事用のも含めて男性用の靴が三足。そしてどうせ誰も訪れないからと、賑やかしにネットオークションで買ったマジックテープの靴が一足離れた位置に置いてあった。



まず汗を流し、その後で贔屓のマリーンズの試合を流しながら、買ってきた惣菜と冷やしていたビールを頂くというのが、このごろの男の習慣であった。彼は特段熱心なファンでもなかったが、野球中継は他の紋切り型のバラエティ番組よりは晩酌の退屈や孤独から目を逸らすのに都合が良かった。


晩酌が済み、画面には敵軍の勝ちパターンのリリーフ投手が映し出されていた。実況のアナウンサーが連続無失点記録がどうだの言っていたがもはや試合への興味は失せていた。

食べ散らかした惣菜をテーブルに残したまま、彼はもう一方のレジ袋から、おもむろに139個目となるポータブル縮小機を取り出した。


縮小機の形状はメーカーによって様々であるが、男が最も多く集めているS社(男の主観では最も信頼できない、つまり都合のいいメーカーであった)のものは、形状もサイズ感も一般的なコンパクトデジカメに近い。操作面はどのメーカのものでもおおよそ変わりはない。対象の情報を縮小機で読み取り、リンクさせ、縮小機の画面側で対象の縮小率を設定し適用するといった具合である。

男は縮小機を起動し、日時などの簡単な初期設定を終えてると、これまでにない違和感を覚えた。

通常、ポータブル縮小機はあらゆる無生物を縮小可能、といった代物ではなかった。縮小可能なモノには、縮小機での読み取り専用のコードが必ず取り付けられており、コードのないモノはそもそも縮小機で読み取ることができないはずであった。だから、20XX年では、このコードが付属していること、つまり縮小可能であるということが、商品の付加価値のひとつとなっていたのである。

男はいつも、コードが存在するテレビで縮小機の挙動を確認していた。今回も例に漏れずそのつもりでいたのだ。

しかし、起動した縮小機が真っ先に読み取ったのは、惣菜の容器が乱雑に散らばった丸テーブル。このテーブルには、コードなどどこにも取り付けられていないはずであった。

この時の男の心境といえば、一桁ずつ宝くじの一等の照会をしていき、下3桁まできてもまだ一致している時のようなものだろう。もしかしたら、と期待するな、が自身の中で拮抗する。

はやる気持ちを抑えながら、彼は一度その場を離れ、冷蔵庫に常備してあったボトル入りの飲料水を、むせ返りかねないほどの勢いで喉に流し込む。眠気を覚ましたい時や、昂る気持ちを鎮めたい時、彼が行なっている儀式のようなものだった。

ボトルを口から外し、一息つくと、正面の冷蔵庫の表面に映る、自身の顔が目に入った。いかにも、世の中から見向きもされないような男性の面であった。しかし、そんなこともどうでも良くなる可能性を考えると、たちまち薄気味の悪いにやけ面に変わっていく。


彼はもとの所に戻り、満を持してテーブルの縮小を決行した。

次の瞬間、何かの音の塊が静寂を打ち壊した。なんの音かといえば、テーブルに散らかっていた食器や、飲み残しのあったビール缶が床上にぶちまけられた音であった。

目の前からは、それらを支えていたはずのテーブルだけが忽然と消えた……いや、そうではない。男の心当たりの通り、逆さに覆い被さった使い捨て食器の下に、人差し指の先にちょうど収まるような寸法となった、あの丸テーブルが発見されたのである!男が試みに指に力を込めると、それはのビスケットのかけらのようにあっけなく砕けてしまった……。


矢も盾もたまらず、自室から飛び出していた。夜風に吹かれても、熱は少しとして冷めることはない。男は勢いそのままに、マンションの斜向かいに位置する公園に来た。そして、四顧を繰り返し、誰の目のないことを確認すると、植え込みの陰に身を隠した。

テーブルの縮小で、おおよその最高倍率は把握できた。1/100。男の身長にこの縮小率を適用すれば、1.7センチ。一般的な成人男性の指先から第一関節までの長さが2センチほどであるから、それよりもさらに小さいことになる。

彼は想像する。つまりそれは、指先ですり潰すのにもっとも都合の良い小ささということでもあった。

この数字に、いったい何の不満があるだろう。だからあとはたった一つ、縮小が生物にも適用されるのかを確認できれば良かった。

もちろん、無差別に人柱を選んで実験するという考えもあった。ここから少し歩けばこの時間は不良学生の溜まり場となっているコンビニがある。しかし、それを実行に移せるほど男には悪の才能が無かった。だから彼は、街路灯に吸い寄せられ、飛ぶ力も使い果たしもう長くはないという甲虫を拾い、それを実験材料にした。

結論から言えば、実験は成功に終わった。胡麻粒となった虫は男の手のひらの感情線に引っかかり身動きが取れなくなっていた。

はじめ、縮小機は実験体を、テーブルのようにすんなりとは読み込まなかったのだ。いくらリーダーを近づけたとてそれは変わらず、冷や水を浴びせられた気分になりかけた。しかし、普段は諦めの早い彼だが、この時ばかりは粘り強さを発揮した。あらゆる角度、距離から探し、彼はついに縮小機の反応にたどり着いたのだった!


右手に縮小機を握りしめて、男は自室に戻っていく。小1時間寒気に晒されていたせいか、静まり返った廊下にくしゃみが鳴り響く。さながら祝砲のように景気のいいくしゃみであった。

部屋の鍵を開ける時、いつもなら5秒とかからないのに、鍵穴にうまく鍵を差し込めずに30秒もかかった。この手の震えが、呼吸の乱れが、風邪による悪寒のせいではないことは自明だった。


いったい、この日が来るのをどれほど待ち侘びたことだろう。

あとは、あとは自分自身への反応を確認するだけ、それで……。


男の仮説では、あの縮小機は、ある特定の身体の部位をコード代わりにして、対象の生体情報を読み取る仕組みになっていた。その部位とはつまり「目」。昆虫の目は哺乳類に比べて判別がつけにくく、あの時、縮小機がなかなか反応を見せなかったこととも辻褄が合うし、事実彼が試行錯誤の中で目に焦点を当ててスキャンを行ったところ、初めて成功したのである。


ポータブル縮小機には内カメラのような機能は付いておらず(メーカーが想定していない使い方であるため)、男は洗面台に取り付けられた鏡の前で縮小機を操作していた。

まず、鏡の向こうの自身に向けて、縮小機をかざしてみる。しかし、縮小機は鏡そのものを読み取るばかり。これは男も想定済みだ。


——では、そのまま縮小機を翻し、生身の自分にかざしたら?


(…………!!)


男は息を呑んだ。

ディスプレイに、これまでのスキャンでは映し出されなかった表示が次々と出現し始めたのだ。まるで、男のゴールを彩るエンドロールのように。


性別:男

推定年齢:32

身長:171cm

体重:73kg

BMI:24.96

………


自身で記憶している値と多少のズレはあるものの、それらは全て男の身体に関する情報だった。

もはやこの異常事態が、偶然によって引き起こされたものではないことは男の目にも明らかだった。

何者かが、意図的に生物縮小までをも可能にする文字通り規格外の性能を持つこの縮小機を、市販のものに混入させた。

誰が、一体何の目的で?

いや、そんなことはどうでもいい。

大事なのは、それが今、自分の手にあるということ。


……

縮小後の推定値

身長:1.71cm

体重:73mg



エンドロールの締めを飾ったその表記は、男の動悸を加速させた。

ミリグラムという単位を最後に見たのはいつだったろうか?1円玉一つで1gというのだから、想像を絶する軽さである。1円玉が、1トンの鉛になる世界。1トンの鉛が、罰当たりな子供の指先で弾き飛ばされる世界。

そして何よりもこの、1.71cmという悪魔的な数値!

今や、男は数字を見ただけで濡れることができた。そしてとどめは、次のような真に迫った赤文字で記された警告文だった……。



!注意!


一度人体縮小を行うと、元に戻すことはできません。なお、縮小後の事故につきましては一切の責任を負いかねます。

実行しますか?


【実行】 【キャンセル】






2.魅了


男は、今日も満員電車に押し込まれていた。

仕事などもはや無断欠勤でもなんでもすれば良かったのだが、癖でここまで来てしまった手前今更ふけるのも気が引けた。それに、これから縮小の段取りや、縮小後のことまで含めた計画も練っておかなければならないし、本当に人生を投げ捨ててしまってもいいのか、今一度立ち止まって考える必要があった。

縮んだからといって、優奈に拾ってもらえるとは限らない。その前にカラスに{啄|ついば}まれでもしたら死んでも死にきれない。野郎の不潔な手に捕らわれる趣味もない。味もへったくれもない人生ではあるが、別に悲観するほど不幸でもない。わざわざリスクを冒してまで実践しなくても、解像度の高い追体験をさせてくれる傑作だっていくつもあるではないか……。

いずれにせよ、結論を急ぐ必要はない。あの機器が手元にある限り、縮小はいつでも可能なのだから。

車窓に映る男の顔は、心なしかいつもより晴れやかだった。



(……っ、)


勤務中、午後2時を回った頃。

男の呼吸は乱れ、項垂れた顔は火照っており、通勤時の余裕は面影も残していなかった。


早く、早く縮みたい!何が計画だ、何が未練だ。

ああ、あの子は蟻のようになった自分を見て、どんな顔をするだろう?決して自分を嫌っていない、けれど特別懐いているわけでもないあの子は、指先だけで潰せてしまう自分を、どんな風に扱ってくれるのだろう?あの子は……ああ、早く知りたい、早く!


退屈な仕事と向き合ううちに、彼は媚薬を飲まされたかのように、縮小のことしか考えられなくなっていた。PCの同じ画面で、カーソルを動かしたりスクロールを行ったりをもう2時間近く繰り返していた。頭が働かないどころか、目の前のものすらもう見えているようで見えていなかった。


「君、今日はもう早退したら?」


間も無く男は、同部署の上司に心配の声をかけられ、時間休をとって帰宅することにした。(彼は周りの人間にはそれなりに恵まれていたが、彼自身の問題であまり馴染めずにいた)


平日のこの時間の外出は新鮮だった。電車は下校中の学生達の活気で満ちており、彼のようにくたびれたスーツを着た男性は見当たらなかった。

斜め45度先の、ドア付近を縄張りにしている女子高生のグループが、自分の噂をして笑っているような気がした。男は林のように連なり暗闇を作り出す彼女らのローファーの間に迷い込み、翻弄されるちっぽけな自分を妄想し、その発現はビジネスバッグの下に隠していた。


あらゆるものが、自分を誘惑してくるように思えた。気を抜くと、自分以外の全てのものが巨大化するような幻覚に陥ってしまいそうで。


極め付けは、自室前の廊下を歩いている時だった。

隣の、佐藤家の部屋の玄関前。そこには三足の靴が立てかけられ、天日干しにされていた。大中小の靴が三足。大きいのが、女手一つで2人の娘を育てている母親の靴。小さいのが、現在幼稚園年長の次女、{心菜|ここな}の靴。そしてその間に立つのが、長女優奈の使い込まれた靴だった。


男はどうしていいか分からず(むろん何もする必要などないのであるが)、立ち尽くすしかなかった。この場で縮小を決行するどころか、鼻を近づける勇気すら持てなかった。彼はこうして人生の中で幾度となく好機を逃してきたのだった。今回もまた、縮小の直前で尻込みして、適当な言い訳を重ねているうちにタイミングを逸してしまうのだろうか……。


ふとその時、廊下の隅を這う1匹のみすぼらしいわらじ虫が目に入った。

彼にしてみれば、わらじ虫とは数多いる虫の中でもとりわけ愚鈍で面白味のない存在であった。それが何かこの時はちょうどいい気がしたのである。

何も知らないその虫は、行く道を遮る男の指をいじらしくよじ登って行った……。



(……何をやってるんだ俺は。)


はじめは妙案だと思った。

しかし、部屋の鍵を開けながら、今し方の自分の行為に対しての虚しさばかりが募る。

結局のところ、自分は命が惜しいのである。だから、何の罪もない虫けらに自分の夢を託すことしかできなかった。

中途半端に死を夢想する人間に限って、決死の覚悟で何かを成し遂げるために動こうとはしない。つまるところ男もそういった連中と変わらないのである。

力なくため息をつき、自室に戻ろうとした。

その時だった。



「……てきまーす!」


壁越しにくぐもった声が聞こえてきた。

そう思って振り返った次の瞬間に、小気味よく玄関の扉が開かれ、優奈が中から飛び出してきたのだった。

靴下のまま出てきた彼女は、すぐそばで呆けている老け顔の29歳には目もくれずに、立てかけられた靴を手に取る。

マジックテープを剥がす音が聞こえた。優奈が靴を履いた。男が虫けらを1匹左のつま先に落とした、あの靴を。

何も知らない少女は、とんとんと、床で靴を整えていた。無慈悲に、左足に対しても。その華麗なる仕草に、男は息をするのも忘れて釘付けになっていた。



そして。

男は見逃さなかった。優奈がその顔に、不快の色を宿したその瞬間を。


そこからは流れるように事が運んだ。

優奈は違和感のもと、左足の靴を脱ぎ、逆さにしてゆすった。その口からは砂や埃の粒、そしてあの哀れなわらじ虫が吐き出された。


仰向けになって足をばたつかせているわらじ虫。可哀想に、自分の身に何が起こったのか理解できていないのだろう。しかし、理解したところで何が変わるというわけでもない。


優奈は、哀れな虫けらを踏み潰し、そのまま残骸には一瞥もくれずに、腰に下げたポーチを揺らしながら走り去って行った。



静まり返った廊下に、鍵の落ちる音が力なく響いた。落とした鍵を拾うのも忘れ、男はただあの一点のみを見つめているしかなかった。


(あ、ああ……)


その瞬間、男の中で何かが壊れた。






3.優奈


優奈たち佐藤家が、それまで空室だった隣の部屋に越してきたのは、2年前、すなわち男が27歳、優奈が9歳の頃だった。


「ほら、挨拶なさい!ああ、もう……すみませんね、この子少し人見知りするたちでして。よろしくお願いします。これ、召し上がってください」

「あぁ、はぁ、どうも。こちらこそよろしくお願いします」


母と男との立ち話の横で、彼女はずっと不貞腐れた様子で目を合わそうとしなかった。無愛想な子というのが第一印象だった。しかし、当時飼っていた水槽のヌマエビにはちらちらと興味を示していたのを微笑ましく思った記憶もある。


冒頭でも話したが、優奈は特別愛想の悪い少女ではなかった。今思うと、この時の態度にも無理のないところがあった。10やそこらの年頃の子どもにとって、両親の離婚が自身の生活にどれほど複雑な影響を与えるか、測りかねるがしかし想像はつく。


ここから記しているのは男なりの弁解のようなものである。彼が優奈に執着するのは、ただ男が小児性愛者であり、彼女が「小学生」で「お隣さん」だからではないということ。男にとって彼女は、何か一つでも欠けていれば成立しない、代替不可能な「優奈」と名のついた芸術品であった。


端的に言えば、優奈は歳の割に利口な少女だった。半年もした頃には立ち直り、すれ違う住人には笑顔での挨拶を忘れない。また、妹の面倒見もよく、何か悪さをすれば言って聞かせ、何が欲しいものがあっても我慢し、いつも妹の希望を優先してあげているのを、男は知っていた。男は一度「ママには内緒だよ」などと言って彼女の欲しがっていた本を贈った事があったが、出過ぎた真似であったと今では反省している。


また彼女は、その利口さゆえに、必ず大人に対しては壁を作っていた。時々、男は斜向かいの公園や、一階の会議室で友人と遊んでいるのを見かけるが、砕けた口調であったり、じゃれ合いに近いスキンシップも辞さず、時にはあの年頃の少女に特有の、きゃあきゃあという黄色い鳴き声もあげている。そういった顔を男やその他の大人の前では一切見せない。普通の大人であればそれを寂しがるところであろうが、男はそこから解脱していた。その演じ分けさえ愛しく感じていた。


他にも、物を大事するとこであったり、努力家であったり、優奈の内面で愛すべきところは山ほどあった。

しかし、繰り返してきた通り男は重度の小児性愛者であるため、このように真っ当に愛してばかりではない。

彼は決して優奈に手を触れるようなことはなかったし、姑息な手を使って彼女の秘匿領域を暴こうとしたこともなかった。それは男の信条でもあったし、それでなくとも、優奈は彼にとって侵してはならない聖域であった。


だが、そんな彼にも後ろめたいことがあった。時は少し進んで、優奈が小学5年生に進級してまだ間もない頃。

気まぐれに、検索エンジンに「佐藤優奈」の名前を打ち込んでみた。誰だって一度は、好きだった女の子の名前を検索したことくらいあるだろう。それ自体特別おかしなことではない。

だがまずかったのは、それで偶然にも彼女のyoutubeチャンネルに行き着いてしまったこと。その当時アップされていた20件ほどの動画の中では顔出しはしていなかったもの、話ぶりや身なりなどから、間違いなく優奈のチャンネルであると確信することができた。

男は次の日の朝、一緒になった際にそれとなく彼女に訪ねてみた。



「最近の子って、やっぱりみんなyoutubeとかやってるの?」

「はい。私も実はやってて」

「へー。登録者数どんくらい?」

「今38とか……?」

「おー、すごいじゃん!」

やっぱり、と男は思ったが当然口には出さない。

「でも半分くらいクラスの子ですけど……」

「なるほど。でもそっちの方が安心じゃない?」

「安心?」

「ネットって怖い人いっぱいいるから、どこの誰かも分からない登録者よりは#絶対そっち方がいいよ」

「そうかも……」

「顔出しとかも絶対しちゃダメだよ。って、学校とかでも散々言われてるか」

「顔とか住所とかは絶対出さないようにしてます」

「さすが。」


それでも、彼女は実名で動画を投稿している。しかし、それ以上は説教くさくなってしまうような気がしてやはり口には出せなかった。



それからというもの、1週間に2、3本ほど投稿される優奈の動画を見るのが男の趣味の一つになった。動画の内容は文具やグッズなどの自身の所持品の紹介であったり、落書き帳に推しの絵を描くというものであったりと、刺激には欠けるがしかし朝の会話だけでは知ることのできない彼女の趣味趣向の部分を覗けるような気がして、彼は一つも欠かすことなく試聴した。何より、いつでも優奈の声が聞けるのが嬉しかった。少しハスキーで落ち着きのある声もまた、彼女を完全無欠な芸術品たらしめる要素の一つだった。



しかし、ある日から風向きが変わる。きっかけは、優奈の動画に付いた一件のコメントであった。


『足をカメラの方に向けて、靴下を足だけで脱げるかチャレンジしてみてください!』


優奈は、何も疑わずにこれを採用してしまった。きっと彼女が大事に履き続けている、薄汚れた水色のくるぶしソックス。幼気な少女にとっては単なる即席の遊戯にすぎない。しかし、ある男たちにとってはそれは刺激的な天然のストリップであった。

男は憤った。少女の無知を利用する狡猾さと卑劣さに。どこの誰かも知らぬ男たちに優奈を3.8万回も「使われて」しまったことに。そして、そんな愚か者たちと自分が何も違わなかったということが、何よりも耐えがたい気づきだった。



優奈はそれからも、同年代を騙る狡猾な男たちに踊らされて、色々なことをした(流石に「パンツを見せて」などと言った指示には従わなかったが)。決して、彼女の頭が悪いわけではなかった。しかし、このくらいの年頃の子どもたちは皆例外なく大人の世界に対しては無知であり、また「なんで」を考えたり考えなかったりする、そんな年頃でもあった。

そんな大人たちの卑劣な工作の恩恵に預かり、男は優奈の足裏の小さなほくろの位置を覚えた。優奈の唇の形を知った。優奈の指先の美しさを意識した。優奈に囁かれる快楽を味わった。

優奈に出会った日から、男は努めて、彼女に対して劣情を抱かないようにしていた。しかし、youtubeというパンドラの箱を開けてしまったことによって、その掟はいともたやすく破綻してしまったのである。朝、等身大の優奈の純粋な笑顔の挨拶に深い罪悪感を覚えながら、夜は彼女の動画で射精、この繰り返し。思い返せば、男がポータブル縮小機に執着し始めたのもこのくらいの時期のことだった……。


理由は判然としないが、優奈はそれから3ヶ月も経った頃に、アカウントを削除して、動画投稿をやめてしまった。しかしその時にはもう既に、もともとの優奈の愛し方を思い出せなくなっていた。

動画の供給が止まってからの男は、優奈という飼い主にお預けを食らった犬だった。そして、その状態が長引けば長引くほど、欲望は勢力を増していく。


膨れ上がった男の情欲は、もはや優奈という脆く小さな器では受け止めきれず、壊れてしまうのは明白だった。だが、男自身が小さくなれば。



縮小フェチは2種類に大分することができた。一つは、幼い頃の原体験によってフェティシズムの木の幹が屈折し、ついに方向修正できないまま伸び広がり続けてしまったケース。もう一つは、あるものへの性的憧憬が究極の形として発現したケース。

男は後者であった。男の優奈への情はもはや自身の縮小でしか報われない。縮小フェチに目覚めるより仕方がなかったのである。



男は夢見た。全ての情欲を解放しても、少女の指ひとつで撃退されてしまうような弱い自分を。

男は夢見た。

真実として自分の全てであると錯覚してしまうほどの巨人と化した、優奈に見下ろされるスペクタクルを。



そして、男の夢は、ついにここに実現する。






4.駆除


向かいの公園で友達と遊んできた帰り、優奈は自宅の前に不審なものが放置されているのを遠目から確認する。それが衣服であることに気づいたのはもう少し近づいてからだった。

ワイシャツ、ネクタイ、それにスラックス。ちょうど部屋と部屋との境界線に落ちていることから、彼女はそれが隣に住む男のものなのではないかという推測を立てた。

でも、どうしてこんなところに?まさか、この場で着替えて片付けもせずにどこかに行ってしまったわけじゃないだろうし……。

加えて優奈は別の違和感を覚えていた。違和感の正体は、その捨てられ方だった。スラックスだけならまだしも、上のワイシャツまで、「ドーナッツ」のような状態になっている。普通に服を脱ぎ捨てた場合、こうはならないはずである。何か、着用者本体だけが忽然と煙のように消えてしまったような……。


ともかく、このまま放置しておくのもよくないと考え、優奈はしゃがみ込んでシャツの襟口に手をかけた。その時、奇妙なモノが目に映った。


瞬時、優奈は飛び退くように立ち上がった。彼女にはそれがシロアリのような虫に見えたのである。——シロアリや{蛆|うじ}のような、日陰に生きる乳白色の害虫は、彼女が何よりも「キモい」と感じる生き物だった。だから、まとわりつく羽虫を手で振り払うような自然な運びで、公園の土に汚れたスニーカーを真上にかざしていた。それが、他人の所有物であるワイシャツの上でなければ、あるいは、彼女がもう少し非常識であったならば————虫はそのまま踏み潰されていただろう。


文字通り一歩手前で踏みとどまった優奈は、渋々とティッシュで潰してトイレに流すことに切り替えた。本来気性の穏やかな彼女を殺虫に走らせるのは嫌悪感と服の持ち主への気づかいだった。スカートからポケットティッシュを取り出すと、しゃがみ込んで虫に照準を合わせる。

見れば見るほど気持ち悪い。乳白色というよりも汚らしい肌色で、理科の授業で習った「むね」や「はら」の部分には微細な黒い毛がすす汚れのように生え散らかしている。頭部は黒光りしていて、カブトムシの幼虫のようになっているらしい。

観察していると、自分の命運を悟ったのか虫は逃げ始めた。慌てる必要もない速度ではあったが、変な所に逃げ込まれても面倒なので早めに潰そうと思った。しかし、またしても優奈に違和感が生じる。いや、違和感どころではない。明らかに不自然だった。虫が立ち上がって、そのまま駆けるように逃げている


(うそ。これって、)


にわかには信じられなかった。しかし情けなく逃げ惑うその姿は、確かにヒトがそうする様にそっくりだった————。






5.巨大


男は一心不乱に駆けていた。足場が不安定で滅茶苦茶な体勢になりながら、立ち止まってはいけないというただその一心だけで逃げ続けた。

(いっいやだ、いやだ、死にたくない……死にたくない、!!)


はじめ男は、優奈とのあまりのスケールの差に絶望した。この時点で既に、性的興奮など付け入る隙もないほどの恐怖の感情が男の心を席巻していたのである。


第二に、意思疎通が成立しないことへの焦燥。すぐ近くで叫んでいるはずなのに、優奈の耳に声が届かない。

いや、単に認識されないというだけではない。叫びながら次第に、優奈自身ではなく、彼女の片足のつま先に語りかけているという錯覚が男を支配し始めたのである。ドン・キホーテのように、表情を持たないパステルカラーのスニーカーに、成立するはずのない対話を試み続けている滑稽な存在、それが自分であると、既にそれは「人と人」のコミュニケーションではないのだと、徐々に徐々に理解させられていく。


そして決定打は、優奈に認識された瞬間に訪れた。

初めて彼女と目が合ったとき、男はしめたと思った。しゃがみ込む動作に圧倒されはしたが、ようやく心に安息が訪れた気がした。どんな形であれこれでようやくコミュニケーションが始められると疑わなかった。彼女が、耳を{劈|つんざ}くような悲鳴を上げるまでは。

何が起きたか分からず、呆けたように優奈の動向を見上げているしかなかった。

優奈には、下等生物を左足で踏み潰す癖があるのだろうか。あの時のわらじ虫の残骸がこびりついた靴底が迫り来るのを見て、男はようやく自分の置かれている状況を理解する。


腰が抜けて立ち上がることすらままならない。しかし、仮に満足に動くことのできる情況であっても、22.5センチの影の中に捕らわれた蟻は、八方を敵兵に囲まれた王将に等しく無力だった。


結局、その靴底が男を押しつぶすことはなかった。しかし、死を悟り、しばらく伏せていた目を再び開いた先に待っていたのは台風一過の安息ではない。

優奈は、今度はあのティッシュで男を殺そうとしている。キャラクターの線画が薄水色でプリントされた、あのティッシュで。

男はその時になってようやく、逃げるということを思い出した。温室育ちの彼は、これまで死の危機に直面したこともなければ、人の殺意というものに触れたこともなかった。


年端も行かぬ、それも自分が恋焦がれていた少女からの剥き出しの殺意。


あまりにも幼児趣味な殺し道具。


静寂の中で淡々と行われる一方的な殺戮。


全てが歪で、男の理解を超越していた。故に狂ってしまったのである。

彼は走り続けるしかなかった。遥か彼方まで続いている廊下の景色の中を、後先も考えずひたすらに走り続けるしかなかった。目先の脅威から一刻も早く逃れたかった。


優奈は手でその行先を塞いだ。


(あ、あ……)


それは例えるならば、牧歌的な日常風景が、何の脈絡もなく次のページの見開きで阿鼻叫喚の地獄絵図に変わっていたようなものであった。寒々としたコンクリート色の風景が、気づいた時には人肌の色で塗りつぶされていた。こんな一瞬に景色が変化することなど、現実にあってはならない。

男には輪郭すら捉えることかができなかったが、壁に浮かび上がる生々しいしわによって、それが優奈の手のひらによって引き起こされたものだと理解した。

それは男の、少女の体に生じるしわへの異常なこだわりによりたどり着くことのできた理解だったが、この時ばかりは、ただただそのしわが恐ろしかった。


退路を失った男は、半強制的に後方に——優奈の待つ後方に、振り返らざるを得なかった。

ところで、優奈のいる方に振り返る、というのは妙な話である。男はそれまでも、優奈を前にしていたはずではないか。そう、優奈の手のひらだって、優奈なのだから。

その判断基準に則るならば、振り返った先にも、優奈はいなかった。

男には、優奈の居所にある程度の予測がついていった。だから少しずつ視線を持ち上げていく。

かさぶたのできた膝を越え、ギンガムチェックのスカートを越え、白地に爽やかなアクセントを与えるミントグリーンの襟ぐりを越え、焼けた肌に鎖骨の浮いたデコルテを越え、そして————天上から見下ろす、優奈がいた。






優奈の唇が静かに動いた。


コ、ビ、ト。


それはコミュニケーションではなかった。だが、彼女が確かにそう呟くように見えた。


枝垂れ落ちる黒髪が、男の視線をその内側に幽閉する。頬の輪郭が逆光に照らされて、神々しく見えた。


何か言わなければ。何か、アクションを起こさなければ。

分かっているのに、全て見えない力に封じられている。


いつも彼は、優奈の前では、大人としてコミュニケーションを先導する存在であった。それが大人と子供の、当たり前の在り方だった。

しかし、今となっては疑い用も無いほどに、情けないという感情の付け入る隙もないほどに、主導権は一方的に、あの20歳も下回る少女の手が握っている。


男はただ震えながら、優奈の託宣を待つことしかできなかった。

みずから逃げ道を塞いでおきながら、生まれて初めて小人というものを目にした優奈は、その扱いに戸惑った。

縮小機で人を縮めることができないのは彼女も知っていた。それに、お話の中に出てくる小人は、どれだけ小さくてもせいぜい親指くらいのものであると認識していた。

けれど、これは。

ネズミよりも、カエルよりも、シャクトリムシよりも……ひょっとしたら、アリよりも、小さいかもしれない。ここまで小さいと、ヒトの形をしていることが、かえって不気味にさえ思えた。

しかし、優奈を戸惑わせているのは、現実からも虚構からもかけ離れたその小ささばかりではない。


「あの、————さん、ですか?」


優奈は、隣の部屋に住む男性の名を口にした。

仔細に顔が見ることはできないが、不自然に捨て置かれた彼の衣服や、背格好から、手元の小人が彼である可能性に行き着いた。

返事は聞こえない。けれど必死に、何かをアピールしているように見える。

間違いない、と思った。


「……、」


周りには、誰もいない。他に大人の人がいれば、判断を委ねることができたけれど。

かといって、このまま見捨てておくこともできない。これが赤の他人だってそう思うし、普段からお世話になっている人ともあればなおさらだった。

だとすれば。


優奈は壁にしていた右手を、男の前で仰向けに改める。

お話でよく見る合図。けれど伝わっていないのか、ためらっているのか、待っていても乗ってこない。


「あ、すみません。乗ってください」


クイクイと指先でジェスチャーしながらそう言った。するとようやく小人は優奈の指先に手をかけた。

くすぐったい。本当に蟻が這ってきたみたい。

ほんの少し手が震えた気がしたが、小人を振り落としてしまうことはなかった。

ところで彼のこの手をかけるという動作自体、優奈にとっては想定外のことだった。何しろ彼女は、階段を上るくらいに当たり前に手のひらに乗ってくると思っていたから。

たが実際は、たかが指の上に乗り上がるのに、20秒以上もかかっていた。優奈は男の奮闘中の様子を見て、チリトリの微妙な厚みに引っかかって入りきらないゴミを連想した。今の男にとって、指先の厚みが、体育館の舞台よりも高い段差となっていることを、彼女は知らなかった。



男は、優奈の手のひらの上で揺られていた。

それは男にとって、もはや一つの地形であった。だが、確かに優奈の手のひら。そのことを、肌に触れる温もりが教えてくれる。

少女の手のひらの温もりは、着実に男に恐怖の感情を忘れさせていく。それはつまり、恐怖に追いやられていた別の感情が勢力を取り戻しつつあるということでもあった。



蟻のような身である以前に、男は全裸だった。毛むくじゃらの汚らしい男の裸体を、優奈はその純潔な素手で持ち歩いている。その自覚が彼女には無いのだろうか?小さすぎて?それともこの後、男の見えないところで、手を入念に消毒したりすることがあるのだろうか?

それは分からない。ただひとつ確かなことがあった。男はあの時、見てしまったのである。これからの優奈との生活の中で、折に触れて男の脳裏によぎるであろう、少女が男へ提示したひとつの回答。



優奈は男の名を確かめた後、手を差し伸べた。

迫り来る手に多少圧倒されはしたが、それ自体、慈愛に満ちた行為だった。

たが、乗り上がろうとしたその時、男は見てしまった。

彼女が、男の緊張をほぐそうと向けた笑顔のその下、男に差し出したのとは反対の方の手を使い、スカートの内側を隠していたのを!




本来優奈は、魔性という2文字からはかけ離れた、どこにでもいる純朴でほんの少し恵まれない11歳の少女だった。だが結果だけを見れば、彼女は確かに、自分のために1人の男の人生を破滅にまで至らせた魔性の少女であった。

そして、破滅同然の状態に追いやられてもなお、男は少女が無意識のうちに発揮する魔性から逃れることはできない。今後優奈が優しさを見せるたび、あの光景がサブリミナルのように脳裏によぎり、男の理性を少しずつ蝕んでいくこととなる……。






6.魔性


優奈は玄関で靴を整えながら、今後のことを考えていた。

小さな姿で発見してから、優奈は男の言葉を聞けていない。しかしながら、彼が何かを言おうとしていることは理解していた。耳をすませばネズミの鳴き声のような音を発しているのも分かる。しかしその内容までは聞き取れずじまいだ。

そこで彼女は、ある方法を思いついた。


「しゃべれますか?」


優奈は机上に、マイク付きイヤホンに接続したスマートフォンを用意し、録音アプリを起動した。男が話し終えたのを見て、再生のボタンを押す。

そのままでは静寂を返すばかり。しかし、音量を最大まで引き上げると。


<えー、もしもし、聞こえる?>

「あっ、聞こえました」

かろうじて男の言葉を聞き取ることができ、優奈は安堵する。録音を挟まなければいけないというのが少し面倒ではあるが、最低限の会話をする分には問題はないだろう。(テンポが悪いため、録音と再生の描写は以降全て割愛させていただく)


「えっと……色々聞きたいけど、まずなんでそんなにちっちゃくなっちゃったんですか?」

「それは……僕にも分からないんだよ。気づいたらあんなことになってて、優奈ちゃんが見つけてくれていなかったら、どうなっていたか」

「そうだったんですね……大変」


優奈は男の返答を少しも疑わなかった。ましてや、自分自身がその理由であるということなど知るはずもなかった。



「あと、今ママが仕事で、帰ってくるの9時くらいなんですけど、このこと話しちゃって大丈夫ですか?」

「いや、放っておけば戻れる可能性もあるし、一旦黙っておいてくれないかな?」

「え?でも、お医者さんに診てもらうとか……」

「あまり騒ぎを大きくしてほしくないんだ。頼むよ」


男は必死に食い下がった。必死さを悟られないことに必死であった。


「分かりました、じゃあママには内緒にしておきます」

「ありがとう」


中には、納得のいかないこともある。しかし彼女のような素直な子供にとって、大人の指示は大概は信頼するべきものである。親の言うことは絶対。先生の言うことは絶対。インフルエンサーの言うことは絶対。

そして、この蟻男も、意識上ではまだ信頼に足る大人であったから、当然のように優奈は従った。


他にも様々なことを話し合った。妹は分別の付かない歳なので特に見つからないように注意するだとか、日中は学校なので面倒が見れないだとか。

また、廊下に放置されたままになっていた抜け殻は、ポケットに鍵が入っていることを伝えて、部屋の中に戻してもらった。


「悪いね。こんな雑用みたいなことさせちゃって……」

「いえいえ。でもよその家の鍵を開けて入るなんて初めてで、キンチョーしちゃった……」

「ははは、そうだよね」


激動の連続で気の休まる間がなかった男も、ようやく夢を叶えた幸せを噛み締めることができた。全身に浴びせられるような、優奈の落ち着きのある声に酔いしれる。目に映る景色の隅々に優奈の気配があり[ろず1] 、この上ない充足感を覚える。そして何より、優奈がいる。


そう、優奈がいる。優奈に拾われて、これからの人生にはずっと優奈がいて。優奈にお世話されて、甘やかされて、しつけられて。


それだけでいい、と男は今この時思った。確かに生前(以降はこの表現で統一しよう)、優奈のおみ足に屈服し、くちびるの誘惑に溺れることを幾度となく夢見た。だが、巨大隕石のように迫る優奈の靴底を仰ぎ見て、自分の考えがいかに楽観的であったかを思い知らされた。

喉元にナイフを突きつけられたなどと言う生易しいものではない。優奈が靴を踏み下ろすだけで、彼が軽く見積もって100人分殺されていた。思い出すだけでも動悸のする絶対的恐怖を男は味わった。




「そういえば、——さんって子供いたんですか?」

「いや?いないけど……」


なぜ、そんなことを聞くのだろう。

男は気づいていなかった。自分の犯した過ちを。


「あれ?ですよね……。でも、さっき服返しにいったとき、玄関に女の子用の靴があって」

(あ————)


どうせ戻ることもないのだからと、男は片付けを怠っていたのだ。観賞用として置いておいた、パステルカラーの子供靴を。それを、男の罪の証拠品を、優奈は見てしまったのである。


優奈は男をじっと見つめていた。他意はない。彼女は何も知らないのだから。返答を待つ者の当然の姿勢だった。


「あ、えと……」


だが、優奈に対して後ろ暗いところのある男は、その瞳に詰問されているような錯覚に陥る。

早く何か言わなければ。弁明しなければ。そう思えば思うほどに、土壺に嵌っていく。焦燥感で言葉がまとまらなくなる。

いい目をしている、優しい目をしている、などと言うのは幻想だ。確かに瞼の形には差異があるが、人間(アジア人)の瞳のその奥は、みな一様に暗く、漆のように冷たい光を宿している。

小人の目は、そういった人間の細部を誤魔化しなく映し出す。映し出してしまう。


「じ、じつは 「

何か喋ってます?すみません、なんにも聞こえなくて。


優奈の目もまた、冷たかった。睨まれてなどいないのに、睨まれているように感じる。

さらに————。


優奈には、手持ち無沙汰にすると親指と人差し指をしきりに擦り合わせる癖があった。男がその仕草に気づいたのは、小人の耳が、指先が奏でる微かな音を拾ったから。


しりしり、しりしり。

乾いた音。淡々としたリズム。


意図してそうしたわけではない。単なる癖なのだから。

だが、彼女の指先は、まるでその仕草を見せつけるかのように、男の方を向いていた。

愚かな小人にとって、それは自身を処刑する予行練習のようにしか見えなかった。


どくり、どくり、どくり————。


優奈の指は、しなやかで美しかった。先細りした指先の先端には、艶やかに光る爪。けれど、華奢で未熟でか弱い、少女の指だった。


男は、画面越しにその指を見たことがある。指紋がくっきりと浮かび上がるほどの近距離で、彼女の人差し指と親指が、お菓子の粒を弄ぶ。


その時に男は、暗闇の寝室で、乱れる心臓を抑えながら、ディスプレイに釘付けになりながら、あの粒になりたいと思った。あの指で、全身をしごかれ(たいと焦がれた。


優奈の指と指の間に囚われた自分。そこは、少女の指先のぬくもりが作り出す灼熱地獄。半狂乱になりながらもがいても抜け出せない。大人の男の全力は、少女の指先の力にすべて飲み込まれ、ほんの少しのこそばゆさを与えるだけ。

そして彼女は、0.01%の力加減で、おもむろに指の中の虜を弄ぶ。すり潰されるでもなく、押し潰されるでもなく、優奈のその指でこねられて死ぬ。それが自分の最期。

血すら出ない。消しゴムのカスでもこねるように、優奈の指にこねられて死ぬ……。



あの時の想像が、今この時になって蘇ってきた。

自分が追い詰められているのか、好機に立たされているのかすら、もう男には判断がつかない。どう弁明するか、という議題も、脳の彼方に流れ去った。



この小さな体で、優奈のそばにいることができる。それだけで幸せだと、言い聞かせたばかりなのに。

どこまで優奈は、自分を弄べば気が済むのだろうか——。

しかし、あくまで異常なのは彼の方である。指をこすり合わせるという極ありふれた癖からの行動に、性的興奮を引き出される異常者がいるなどと、幼い彼女がどうして想像できようか。


故に、優奈は容赦しない。



形勢は既に決していた。あとは詰めるだけという状況だった。

詰み————すなわち、男の罪を自白すること。

しり、しり、しり。

優奈が淡々と指を擦るたび、盤面は1手1手、終局に向かっていく。

敗北の後にはきっと、罰ゲームが待っている。

罰ゲーム。おしおき。しつけ。教育。

11歳の少女から、30手前の大人の男に対しての……と条件づけると、それらはたちまち倒錯的な字面へと変わる。


そして、あと1手で決着というとき。男が口を開こうとしたその時————。


場違いな電子音が鳴り響いた。






7.臭い


「あ、すみません!ちょっと電話が……」


優奈はそう言って、男への詰問を中断し、桃色の回転チェアを45度回して、友人からというその電話に応じた。


男は呆然と立ち尽くすしかなかった。



「あ、もしもしうっぴぃ?……えー今?私?今は……宿題してたとこ?……うん大丈夫、へーきへーき」



これが、学校の友達とおしゃべりをしている時の優奈だ。彼女が相手によって顔を使い分けていることを、男もよく承知していた。だが、彼の知るそれはあくまで、優奈という個人の中で完結している変化のはずであった。

小さき者にとって、巨大な存在の発する声というものは、周囲の空気を一変させうる影響力を持つものである。男は今、身をもってそれを実感させられた。法廷のように張り詰めていた空気が嘘みたいに、無邪気ではしたない空気に変化したのが分かった。



「あ、そーそ!でね!さっきの話なんだけどー……うん、違うよー!そんなんじゃないって!」



この温度差が、熱暴走していた男を我に帰す。

優奈は既に、蚊帳の外の男になど目もくれず、電話に夢中になっていた。このまま男とのやり取りを忘れてしまってもおかしくないほどに。


もし、電話が鳴るのがあと少しでも遅かったら。今頃優奈は、神妙な面持ちで、電話の向こうの友達に相談していたのだろうか。


これで、良かったのだ。一時の衝動のためだけに、信用も命も失うなんて馬鹿げている。

男は息をついて、机の上に腰を落ち着けた。再び回転チェアを正面向きに返し、なおも電話を続ける優奈を、ぼんやりと見るともなく見ていた。



「うん……うん……中山が?……えーなにそれ知らなーい!」



優奈は、何気なく机の上で足を組んでリラックスした。無論、人前ではそのような行儀の悪い姿勢をとることはない。この部屋が誰の目もないプライベートな空間だと認識した上でのことだった。




(————え?)

平穏はいつも、突然に終焉を迎える。

巨大怪獣にも思えたそれは、薄水色の靴下に包まれた足。

優奈の足の裏だった。



女という生き物は、その清らかで華やかな容貌の裏に、幾つもの不浄な闇を抱えている。それは、スカートの内側であったり、あるいは腹の中であったり。どんなに心優しい女であっても、どんなに真面目な女であっても、女として存在する限り、必ず闇を抱えているのである。

光が強まれば、闇も強まる。強すぎる闇は、時に近づく者を狂わせる。



優奈はまさに、男の人生における唯一の光といえる存在だった。

そんな彼女の中で醸成されたどす黒い闇は、男に対して、抗いがたいまでの引力を発揮する。



(あ……ああ………)

足の裏で覆い隠されて、優奈の姿が見えない。そして、優奈からもきっと、自分の姿は見えていない。

何をしても、優奈には分からない。

(は、は……。すこ、少しくらい、近づいても。いい、よな……)


男の体が、ふらふらと吸い寄せられていく。

優奈の靴下の繊維は、人並みには汚れていて。かかとのあたりは特に燻っていて、少しダボついて、しわを作っていて————顔をうずめるには、具合が良かった。


人と人が、会話をするくらいの距離まで近づく。すると、空気が変わったのが分かった。まるでそこから先は危険だと、教えているみたいに。


唾を飲み込む。一歩、二歩、そして、たるんだ繊維に手をかけようとした、その時————。



「やだぁー!キモーーっ!!」



反射的に、男はその場から飛び退き、声のした方を見た。だが、相変わらずその先に、優奈の姿はない。


「それでどうなったの?……うん……うん……えーホントぉ〜?……」


楽しそうに電話を続ける、彼女の声が聞こえてくるばかりだった。



(……は、……っ、はあ……、っ!!)


心臓が、痛いほどに激しく鼓動する。

見られたかと思った。終わりだと思った。自分への罵倒だと思った。

足がまだ震えていて、立ち上がることも叶わず、男は這いつくばるようにして再び靴下に向かっていく。

怖い。辛い。苦しい。

何かに縋ることで、苦しみを和らげたかった。


そして男は、優奈の足の臭いを嗅いだ。


「私三年のとき一緒だったよー?……そーそー……えーそんな感じじゃなかったけどなぁー?……」


(————、)

瞬時に悟った。これは、嗅いでいけない臭いなのだと。

極めて危険な臭いなのだと。

理由がなければ、いつまでも嗅ぐのをやめられないような臭いなのだと。

気がつけば男は、全身でその臭いを求めていた。戻れなくなることが分かっていても、踏みとどまることはできなかった。

極上で濃密な優奈の臭いが、理性というダムを打ち破って、男の肺内で氾濫する。色々なものを壊して回る。

だが、男は考えた。

それで優奈の足が、こそばゆさに少しでも反応すれば。優奈の話し声に、少しでもほつれが生じれば。それがブレーキになるはずだと。それなのに。


(な……なんで……)


優奈は、何も感じていない。

それは我々が、蟻の歩行を、衣服越しに感じることができないのと同じことであった。


(……!うそだ、うそだ、うそだ……!)


顔をうずめるどころか、こすりつけるようにして、優奈の足の臭いを嗅ぐ。

ずぶり、ずぶり。底なしの沼に引き摺り込まれていく彼の必死のSOSも届かず、無邪気な少女の笑い声が残酷に響く。


(こんなのが……まかり通っていいはずがないっ!)

それは本来、手の届かない夢でなければならなかった。なぜならば、全ての欲望がたやすく実現できてしまう世界では————人は、人らしく生きることができないのだから。


男は、生前に見てきた優奈のことを思い出す。

優奈は、挨拶を欠かさない子だった。彼女がくれる挨拶と、さり気ないその笑顔に、灰色の世界を惰性と義務感で生きるだけだった男は、いつも救われていた。

けれど————その笑顔の下で、小さくて子供らしい、あの靴の中で、いつだって優奈は、この無秩序の世界を作っていた。自分を虫けらの道に誘うこの世界が、あの優奈が用意したものであるというまぎれもない事実。それがより一層男を狂わせる。



優奈の電話は、それから30分ほど続いた。

むろん、その間彼女の意識が他に逸れるようなこともなく。小人を1匹壊すには、十分すぎる時間だった。






「うん……うん……はーい。じゃねー、また明日―。……」


電話が切れたのを確認し、組んでいた足を解く。


(あ、やば……、)


その時になってようやく、机の上に待たせていた男のことを思い出した。

優奈は第一に、男を足の下敷きにしまっていないかを心配したが、どけた足の向こうに五体満足の男の姿が見え、胸を撫で下ろす。

しかし、行儀の悪いところを見せてしまったことに、彼女はばつの悪さを感じていた。


「す、すみません。つい話に夢中になっちゃって……」


優奈は、歳のわりに慇懃な子どもである。だから自分のしたことは、詫びるべき非礼であったと疑わなかった。ぱちゃぱちゃと飛沫を上げるようだった彼女の声も、静謐な湖面に戻る。


「——さん?大丈夫ですか?」


反応がないのを妙に思い、優奈は男を注視した。すると優奈の目には、男の体が何やら、ボウフラのようにピクピクと{痙攣|けいれん}しているように見えた。


事実。アカシックレコードの1行に記録される揺るぎない客観的な事実は、「優奈が男の自慰を見た」である。


だが、事実は一つであっても、真実は人によって異なるものである。


「どこか痛いんですか?」

その人は苦しんでいた。だから、わたしは心配になって呼びかけた。



優奈が、僕の自慰行為を観察していた。

それでも、僕はやめられなかった。見られたら終わりなのに。こんなもの、彼女に見せてはいけないのに。

優奈が眉をひそめた。

キモ。クズ。ロリコン。

そんな罵倒を覚悟した。なのに。

「大丈夫ですか?」

優奈、キミは。

「どこか、痛いんですか?」

どうしようもなく大人で、どうしようもなく幼くて。

子どもの純粋さにつけ込むような、卑劣な人間にはなりたくなかった。

けれど僕は、キミの臭いを知って。キミに無様な姿を観察される背徳感を味わって。キミが純粋でいる限り、きっと同じことを繰り返す。もっと卑劣な行為に走る。あいつらと同じように。



8.生活


畑を{耕|たがや}す。

{犯罪|はんざい}を重ねる。

ケーキを{均等|きんとう}に分ける。

{規則|きそく}を守る。

ペットを{飼|か}う。


宿題として出されていた漢字ドリルの問題を解く。答え合わせをして、間違えていた漢字は、ノートに10回書かなければならない。

(犯罪犯罪犯罪犯罪犯罪、犯罪犯罪犯罪犯罪、犯罪……っと。)

消しゴムのカスは手で払い、摩耗した鉛筆は電動削り機に突っ込む。ウィンウィンウィンウィンガリガリガリガリ。その作業にはちょっとした快感がある。1年の頃から愛用している電動鉛筆削り。1本目、2本目、3本目……。ちっちゃくなった鉛筆は、少し削りにくい。


(これもそろそろかな……)


そうなったら、補助のキャップに入れて使う。それでも誤魔化し切れないくらいにちっちゃくなってしまったら、残念ながらもうゴミ箱に捨てるしかない。

先の尖った鉛筆を6本筆箱にセット。時間割は揃えた。帰ってきたママに連絡帳のハンコももらった。お風呂も入った。

いつもなら、好きなことをして後は寝るだけ。でも、今日はもう一つやることがある。

噂をすれば……ではないけれど、ちょうどいいタイミングで、妹の心菜が部屋に入ってきた。目覚まし時計の針は9時10分を示している。小さい子はもう寝る時間。わたしは今日は見たいドラマがあるから、11時まで起きているけど。


「ここちゃん、空の虫かごって持ってるー?」

「うん。」

「ちょっとかしてくれない?」

「いいよ〜」


お願いすると、心菜はぺたぺたと玄関の方に走って行った。わたしはその後を歩いてついていく。夏が終わって、足の裏が少し冷たい。明日からはスリッパを履いてもいいかもしれない。


心菜は虫かごを、玄関の靴箱から取り出していた。

「はいこれ」

「おー!ありがと〜ここちゃん」


少し、靴箱特有の埃っぽいような炭っぽいようなにおいがする。大丈夫かな。


「ねぇね、虫捕まえるの?」

「うーん、まーそんなとこ?」

「えーどんな虫―?」

「だーめ、教えなーい」

「教えてくれなきゃ貸さないもーん」

「えー貸してよー!」

「やだー」


困った。本当のことを教えるわけにもいかないし……。


「しょーがないなーもー……うーんと……あのね、おねーちゃん学校の授業で、蟻を観察しなきゃいけなくなったの。」

「あり?」

「そ、アリンコ。」

「なーんだ、つまんない……」

「貸してくれる?お願い!ないとおねーちゃん怒られちゃうの!」

「ねぇねおこられちゃう……?」

「うん」

「じゃー貸すっ」

「ありがと!マジたすかる!」


咄嗟に考えた言い訳にしてはよくできていたと思う。素直な心菜を騙すような格好になってしまったのは、気が咎めるけれど。



「ねぇね、おやすみー……」

「うん、おやすみ」


2段ベッドの下の心菜がお布団に入ったのを確認すると、わたしは爪の先で、コツコツコツン、と机を3度叩いた。すると、化粧品をしまっているアクリルケースの陰から、あの人が姿を表した。



「虫かご、ありました……」


ささやき声でも聞こえるように、片方の手でメガホンを作った。遅れてイヤホンから、彼の言葉が届く。


「うん、ありがとう」

「本当に、いいんですか……」

「う、うん」


それでも、やはり気は進まなかった。でも、自分からそうして欲しいと言ってきたのだから、別に気にする必要はないのだと、自分に言い聞かせて、わたしは彼を摘み上げた。


変な気分。人間を……それも大人の人を、お菓子の粒を口に運ぶ時みたいに、指で摘んでいる。少しでも力加減を間違えたら潰してしまいそうで、神経を使わされる。でもこれなら確かに、この人の頼みは何らおかしいことではないのかもしれない。安全のため、自分の身を守るためだと、彼は繰り返し主張していた。そしてわたしはそれに従って————そのまま彼を、虫かごの中に入れてあげた


「それじゃあ、出して欲しい時は、この隅っこのところで待っててください」


わたしはそう言うと、蓋を閉め、心菜に見つけられないように2段ベッドの上に置いた。ちらりと中を覗くと、またさっきのように、ボウフラの動きで悶えていた。やっぱり心配になる動き。でも後で本人に尋ねたら、別に痛かったり苦しかったりしたわけじゃないから、気にしないで欲しいと言っていたので、わたしは放っておいて、ドラマを見に居間に向かっていった。