2話
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おやすみなさい。
他人とその挨拶を交わしたのは、いつ以来のことだっただろうか。
男は、優奈が敷いたハンドタオルに横たわっていた。少しごわごわしていたが、冷たい床の上に{直|じか}で寝るよりはよかった。
試みに、男はそのハンドタオルに、優奈のにおいを求めていた。だが、それらしきものは何も得られない。それもそのはずで、優奈は男の布団に、自分があまり使っていないものを選んでいたからである。もちろん、警戒からではなく、曇りのない配慮から。
無臭のものを嗅ぐより、空虚な行為があるだろうか。ため息をついて、男はそこから顔を離す。
前方を見ると、優奈の枕があった。その上にはかろうじて、彼女のつむじが見える。
あの子どもの証のようなつむじをなぞってみたいと、何度思ったことだろう。
今ならできる。なぞるどころか、あのつむじを穢すことだって。
そう思って歩み寄ろうとするけれど、透き通るアクリルの壁に阻まれてしまう。
「自分の身を守るため」などとうそぶいてこの空間に閉じこもることを選んだのは自分なのだ。後悔もしていない。ほんの一瞬の出来事に思えたが、優奈の指先に捕らわれ、この虫かごの中に落とされた時のことは忘れられない。ぞくぞくした。本当に、自分が全力で押し返しても、たかが子どもの指先を、たった0.1ミリ動かすことすらできなかった。アクリル越しに射精を観察されたあの時、本当に自分が虫になってしまったかのように錯覚した。(それが錯覚ではないことを男は自覚していない)
だが、その選択が「優奈の身を守るため」にもなってしまうことは、考えていなかった。
上を見上げる。絶望が網目を描いていた。自力で脱出が可能であるなら、子どもたちは虫かごを使わない。
仕方あるまい。男は優奈のハンカチに包まって、しぶしぶと眠りについた。
————————…
——————…
————…
——…
…
爆発音のような音と共に、男の夢の世界がひっくり返った。
男は、何が起こったのか理解できていなかった。答えから言ってしまえば————寝返りを打った優奈の手が、虫かごを倒してしまったのである。
はあ、はあ、はあ……ふう。
男は呼吸を落ち着けた。どうやら怪我はないらしい。着地の衝撃はこのクッションのような地面がやわらげてくれたようだった。
まどろみに落ちる前より、暗さが増している。というよりほとんど真っ暗闇で何も見えず、目が慣れるまでは下手に動かない方が良さそうである。
男には、大方の想像はついていた。ここがベッドシーツの上であると。虫かごの外に出されたのだと。
時刻は分からないが、丑の刻も終わるという頃だろうか。
じっとしていると、虫かごの中では聞こえなかった微かな音が聞こえる。
窓の外のコオロギの声。
目覚まし時計の針の音。
夜風に木の葉が揺れる音。
新聞配達のバイクの音。
そして————優奈の寝息。
ひとたび意識してしまえば、もう男の耳には、彼女が息を吸って、吐く音しか聞こえない。
闇の中、少しずつ浮かび上がる少女の巨体の輪郭は、霧の向こうに見える霊峰を思わせた。荘厳で、神秘的で——命知らずの男を呼び寄せる。
優奈のお腹の位置に立つ男は、少し考えて——顔の方向に歩を進めることにした。
『羅生門』がそうであったように、夜という時間、夜という空気は、いつも人の悪の遂行を後押しする。
道中、ときおり後方から、優奈の足が衣擦れを起こす音が聞こえてくる。それが男の緊張感を一層刺激する。優奈の{褥|しとね}を侵していると自覚させる。
想像の中の優奈の寝顔はいつも、息を飲むほど無防備だった。だが、穢したいと思い、脱力したか細い腕に手をかけ、純潔な唇に照準を合わせたその時がピークで————その後のことは想像したことがない。
優奈が穢れるのは見たくない。けれど、優奈を穢してみたかった。
矛盾するそんな願いが、もうすぐに叶おうとしている。
今の自分が、どす黒い欲望を撒き散らしても、優奈の体にはかゆみ一つ残らない。
枕の麓に着いた。
唇は、見えない。この険しさでは、登頂も難しそうだった。
しかし、間近で聞く寝息は、唇の存在を存分に主張するものだった。
視線を下げると、パジャマの襟が少しはだけて、優奈の鎖骨を晒していた。
花のような、清楚な香りがした。
優奈の胸元の世界は、まさに、桃源郷だった。
芳香に誘われて、男は森の中に足を踏み入れた。
枕から垂れ落ちる、優奈の髪の毛。ドライヤーの当たっていない毛先は、まだ少し湿っていて——掛け値のない、女の子のにおいがした。
男は、優奈の髪の毛の束の中に、蛙のように頭から潜っていった。
髪の一本一本が、よってたかって男の裸体をくすぐる。
もがけばもがくほどに攻勢は増し、巻き起こる薫風が男を酔わせる、そこは半永久的な快楽地獄。日没前に嗅いだ靴下の臭いとは対極にある、もっとも優奈らしい香り。そんな匂いを、一次元ではなく三次元で感じるという、未知体験。匂いの海に浸かっている、否、もはや匂いに漬けられているという錯覚すら覚える。
そして——男はやがて、優奈の髪の毛の中で射精を迎えた。
一度ならず、何度も、何度も致すたびに、花のような香りが、生臭く塗り替えられていくのが分かる。さらりとした髪束に、濁った粘膜が広がっていく。
優奈が、目の前で、自分の欲望で穢れていく。確かにそのはずなのに——想像の中で優奈の姿を俯瞰してみると、その穢れは、雨粒の一滴にも満たない。女の子のもう一つの命たる大事な髪の毛を、小汚い大人に穢されてしまったことも知らずにすやすやと眠る優奈は、このまま朝を迎え、その髪に櫛を通すのだろう。
(優奈……)
精力尽きた男は、ぬいぐるみを抱く子どものように、まだかろうじて穢れていない、優奈の髪の毛の一本にしがみついた。
気づかれないのは重々知っていたし、それは自分にとって都合の良いことのはずなのに。
その一方通行さが、今更少し切なかった。
男は夢を見た。
子どもの頃、好きだった女の子の夢。
優奈に似ているかというと、そういうわけではない。優奈の方がいくらか顔立ちは整っている。
でも好きだった。なぜあんなに好きだったのか思い出せないけど、確かに好きだった。
中学から、自分が地元を離れてしまうから、卒業式の日に告白しようと決めていたのに。
勇気が無くて、ついに叶わなかった。
ああ、そうだ。
学校の敷地の隅っこから、ただ友達や両親と笑い合うあの子を見ているしかなかったあの時にした花の香りと、優奈の髪の毛の香りは、よく似ていたんだ。
朝。時刻は6時ちょうど。
優奈は目を覚まして、脇で倒れている虫かごを見るなり、肝を冷やした。
(うそ……、私もしかして、やっちゃった……?)
恐る恐る倒れた虫かごの中を上から覗くと、小さな男がこちらを覗き返していて、安堵する。
「すみませんっ、寝てる間に倒しちゃったみたいで……お怪我ないですか?……あ、そっか、えーと……お怪我なかったらジャンプしてくれませんか?……はい、ありがとうございます。あっ、それとおはようございます」
優奈は、その後男に角の方に避難するように指示してから、倒れていた虫かごを起こした。
朝食は、優奈がパンのくずを与えてくれた。
食卓に出された自分の分のパンからちぎって、わざわざここまでもってきてくれたのだろう。
ほんのり味がついていて美味しかったが、これが優奈の手指の塩気なのかもしれないと、余計なことまで考えてしまう。
そんな、悩ましげなブレックファースト。
「やっぱり、あんまり良くないですよね。ここ……」
男はパンくずを食むのをやめて、上半身を振った(首を振るだけでは視認しにくいため、そうする必要がある)。優奈はそれを、遠慮と捉えた。
「でも……また私が倒したりしちゃったらヤバくないですか?」
もし、虫かごが倒れた勢いで、男がベッドの上から転落してしまったり、あるいは気づかぬうちに潰してしまったりしていたら————想像し、ゾッとする。いかに世の中の犯罪に無知な小学生といえども、殺人の重大さを理解していないはずはなかった。
「でも私もう学校行かなきゃなので、ちょっとまたあとで考えます!すみません」
ひとまず、日中ここに置いておく分には問題ないだろう。そう思って、優奈は学校に行く支度に取り掛かった。
髪を整えて、上着を選んで、持ち物を確認して、パステルピンクのランドセルを背負って、それから再度身だしなみを確認して。女の子の朝は忙しい。加えて5年の秋から、優奈の所属しているブラスバンド(ちなみにパートはアルトホルン)の朝練がスタートしたため、ゆっくり話をしていられる余裕なんて無いのである。
「ここちゃん、行ってくるねー」
まだ下のベッドで寝ている妹に囁きかけてから、優奈は登校していった。
家を発ったのが6時40分過ぎで、学校に着くのが7時ころ。
ブラバンの朝練は7時10分から始業ギリギリの7時55分まで、音楽室で行われる。初めの5分にタンギング練習をやって、それからパートごとの練習をし、最後の10分で全体練習という流れ。10月の運動会にマーチングで演奏する『Sing,Sing,Sing』という曲だが、夏休みの間も定期的に活動があったため、完成度は大分高まってきていた。
「ゆーなー、何か悩みでもあるの?」
「えっ?」
朝練が終わって、通学帽子を被った他の児童たちに混ざって5年2組の教室に向かっている時、並んで歩いていた{知里|ちさと}にそう尋ねられた。{菅谷知里|すがやちさと}。切り揃えた前髪におさげ、そして挑発的な細い目が印象的な彼女は、優奈の1番の友達で、パートも同じアルトホルンだった。
「なんか、練習中ずーっと心ここに在らずって感じだったし、今もそんな感じじゃない?」
「えー、そぉ?」
「違ったらいーんだけど」
優奈の頭を悩ませていたのは、やはり男のことだった。安全かつ快適かつ人目につかない場所が、他にあっただろうか。最優先すべきは人目につかないということだが、かと言って引き出しやベッドの下に住まわせるなどもってのほかである。
知里のアイデアも聞いてみたいところだが、事情を正直に話すわけにもいかず、逡巡する。
「実は私、虫を飼いはじめたんだけど……」
そう切り出した途端、優奈の予想通り、知里は苦い顔をした。
「え、てかさー、ゆーなも虫苦手じゃなかった?」
「そうなんだけど、色々あったってゆーかー……」
「虫ってどんなやつ?」
「こんくらいの?」
優奈は、親指と人差し指で「つ」の文字を作って、そのサイズを示した。
「なにそれちっちゃ、ほぼアリじゃん。じゃなくて?あ、テントウムシ?」
「まあ、みたいなやつ?でー、今虫かごに入れて飼ってるんだけど、お母さんに飼うの反対されちゃって、仕方ないからどこかに隠して飼おうってなってるんだけど、いい場所が思いつかなくてー……」
「ふーん」
興味がなさそうな返事が返ってきたところで、2人は教室につき、それに合わせたように始業(正確には10分間の読書タイムの始まりだが)のチャイムがなった。
「何かいい場所ない?」
「まー、考えとくー」
あまり期待できなそうである。ため息をついて、優奈は席につき、引き出しのカゴから読みかけの青い鳥文庫を取り出した。
ところで優奈は、昨晩心菜から虫かごを借りた時のことも合わせて、人に説明するときは男を虫扱いすれば問題なく済むということを、無意識のうちに学びはじめていた。
午前10時、優奈の部屋。
男は、いよいよ退屈していた。
昨晩、この虫かごの中に閉じ込められていた間は、渇きこそ覚えても、退屈することはなかった。
それは、アクリルの向こうのすぐそこに、優奈がいたから。優奈の睡眠であれば、何時間だって鑑賞できた。
しかし今そこに、優奈はいない。
せめて、優奈の私物でも見えれば少しは違っていただろうが、2段ベッドの奥から見えるものといえば、蛍光灯とそこから垂れるヒモくらいだ。時計すら見えないので、現在の時刻も、あとどのくらいこの退屈が続くかも分からない。
優奈が帰ってきたら、このことについても相談しなければならない。居候の身でずうずうしいと思われてしまうかもしれないが、仕方あるまい。何しろ、この間にできることといえば、チンコを触ることくらいしかないのだ……。
男は明け方、優奈が目を覚ます前に、彼女の髪の毛を一本虫かごの中に持ち帰っていた。髪の毛といっても、今の男の身では、引きずりながらでないと運べないものであったが。
もはや乾いて匂いも消えていたが、この髪の毛に触れるだけで、昨夜の甘美な体験を思い出すことができる。男は、猫じゃらしにじゃれる猫のように、その髪と戯れた。戯れて、正気に戻って、少ししてまた戯れて……この繰り返し。こんな成れの果てのような姿を見て、優奈は何を思うのだろう。
がちゃり。
(……!?)
優奈の部屋に、何者かが入ってきた。
といっても、不法侵入でもなければ、考えられる人物は1人しかいない。
優奈の母。名は、{幸恵|ゆきえ}だったか。
最前、下で寝ていた次女の心菜を送りに行ったと思ったが、それを済ませて帰ってきたということか。
男は髪の毛を手放し、虫かごの隅で身を縮こめていた。
下で何か、ごそごそと作業をしている音がする。上まで登ってくる可能性は低いと分かっていても、やはり優奈以外の人間が近場にいると冷や汗が垂れる。
特に幸恵は、最も見つかりたくない相手だった。たとえ優奈自身が許しても、優奈の保護者が、娘の部屋に大人の男が住み着いているという状況を、黙って見過ごしてくれるとは思えないからである。
(早く出てけ、早く出てけ、早くっ……)
その念が届いたのか、下から聞こえていた音が止まった。ようやく作業を終えたらしい。ほっと胸を撫で下ろした。
間も無く、ぎしり、とベッドのフレームが軋む音がした。
幸恵には、夜勤の日の日中に、娘たちのベッドシーツを洗濯するという習慣があった。心菜のシーツを剥がして、それから優奈の分もと、梯子を登っていく。
(……?)
登った先で、幸恵は見慣れないものを発見した。中サイズの虫かごである。
虫が苦手な優奈が、何かを飼いはじめたのだろうか?気になって幸恵は、虫かごを手に取って、中を覗いてみた。
何もいない。近眼のせいかと思い、鼻の頭がつくくらいに顔を寄せて見てみても、やはり何も見えない。
————無論、男が脱走したわけではない。彼は今も、優奈が敷いたハンカチの下で息を殺していた。殺人鬼が過ぎ去るのをロッカーに隠れて待っているかのような心境で。
幸恵は探すのを諦めた。不可解ではあるが、このことは明日の朝にでも優奈に聞けばいい。ひとまず今は、作業に戻るとしよう。洗濯に掃除に晩御飯の用意、それから心菜のお迎え。些末なことに使っている時間など彼女にはないのである。
邪魔になる虫かごは優奈の勉強机の上に移してから、幸恵はシーツを剥がしはじめた……。
時は進んで、午後2時頃。
優奈たち5年2組の児童たちは、校舎の前の池の周りを囲むようにして集い、担任の教師の説明を受けていた。生意気盛りな子供たちも、今日に限っては残暑と、運動会の練習による疲れからなのか、わりに大人しく話を聞いており、担任の彼はここぞとばかりに饒舌をふるっていた。
優奈は、ビーカーで池の水を掬い上げる。雫がぽたぽたと落ちるビーカーの中は、藻の色で濁った水に満ちていた。
「どお?」
背後から、知里に声をかけられる。
「分かんなーい……」
ビーカーを顔の前に押し付けると、ぎゃーきたなーいっ、と彼女はわざとらしく嫌がって見せた。
「……あ、なんか動いてるじゃん。これミジンコじゃね?」
「どれ?……あ、これ?確かにそうかも。でも、ミジンコって意外と黒いんだ。私透明のイメージだった」
「えーっなになに?なんかいた?」
少し遅れて、他の2人の班員たちも集まってきた。
普段はあまりやる気のない彼女たち(うち1人は、メダカの解剖をやった日に、仮病を使って欠席したくらいである)も、今回の実験には乗り気らしい。微生物の観察というのは、子どもたちにとっては非日常の世界を覗くことに等しいのかもしれない。
採取の後は、クーラーの効いた理科室で、顕微鏡を使った観察を行う。
ビーカーに入った池の水を、スポイトで吸い取って、スライドガラスの上に垂らす。その上にピンセットでカバーガラスを被せて、溢れた水をティッシュで拭き取る。
手順を覚えていた優奈が支持を出して、知里が作業を行う。他の2人には機材調達を担当してもらった。
「でもさー、実験のために挟んで潰しちゃうって、ちょっとかわいそうだよねー」
知里の作業を傍で見ていた子が、何気なくそう言った。
「潰れないよ。ちっちゃいんだから」
レンズを覗き込み、倍率を調節しながら、知里が説明する。
「そうなの?」
「ちっちゃいから、ガラス同士の隙間のうすーい膜でも十分な厚さなんだよきっと。だいいち、潰れちゃったら観察できないじゃん?……あ、見えた!すごーい、動いてる〜」
「えーっ、見せて見せて!」
微生物の身を案じていた本人も、その誤解を正した知里も、直前のやりとりを忘れたかのように観察に夢中になっていた。しかし優奈だけは、知里の言ったことに引っかかりを覚え、繰り返し反芻していた。流石に難関私立中を目指しているだけあって物知りだな、と感心したのもあるが、それだけではない。
「ほら、ゆーなも見よーよ」
「あ、うん」
考え事をしている間に、すでに他の3人は観察をし終えていたらしい。知里に促されて、優奈は両のレンズを覗き込む。
(わ、ほんとにあんなとこで、ちゃんと動いてるんだ……)
レンズを外れて、もう一度プレパラートを横から覗き見る。カバーガラスはやはり、ぴっちりと接着している。でも、微生物たちは、その隙間を生き生きと泳いでいる……。
(ちっちゃいから、ちょっとの隙間で十分……ちょっとの広さ、ちょっとの高さ。それなら……)
「ん?なんか言った?」
「あ、ううん。なんにも」
アイデアというものは、得てして机やキャンバスの外で生まれる。帰ったらすぐに、このことを男に話してみよう、と優奈は思った。
その男はというと。
(あ、ああ、あ……)
母幸恵が優奈の机に移した後、虫かごが元の場所に戻されることはなかった。戻す必要が無いと考えたからだ。
机は、子供部屋の入り口からの直線上にあるため、部屋に入って1番最初に目につくくらい目立つ位置に放置されていたことになる。そんな場所に普段ない物が置かれていたら、誰だって調べてみたくなる。
現在時刻は14時30分。ちょうど優奈が男を隠し場所に関するアイデアを閃いた頃。
そして、未就学児が、幼稚園から帰ってくる頃。
「こびとさんだぁー……」
匿っていたハンカチは、すでに引き剥がされて。
まん丸な心菜のお目目が、震える男の姿を捕らえていた。
優奈は、小さな男に対して、時折微笑むくらいはあっても、あまり笑顔を見せない。戸惑いからか、奥ゆかしさなのか、それとも興味が薄いのか、分からないがとにかく彼女の唇は、いつも綺麗な弓の形を描いている。
園児には、戸惑いや憂慮といった感情の機微はない。痛いから泣く。楽しいことを見つけたから笑う。単純な構造。単純で、剥き出しだ。
捕食者の剥き出しの笑顔が、被食者の目にどのように映るか考えてもらいたい。
心菜は、虫かごをひっくり返して、手のひらで男を受け止めた。痛みはない。丸っこくてぷにっとした、幼児の手のひら。
だが、まるでおもちゃ箱からおもちゃを出すような、ぞんざいな扱いに震え上がる。
そして視線を上げれば、おもちゃを前にして、ほとばしる喜の感情を映し出す心菜の顔がそこにあった。
押し潰すかのように近い距離感。
逆光によってもたらされた黒い影。
口元ににじんだよだれ。
全身の毛が逆立つのを感じた。
さて、珍しい虫を捕まえたとき、幼い子どもが次にする行動とは何であろうか?
じっくり観察する?かわいそうだから逃がしてあげる?脚をもぎって遊ぶ?
声を上げる間も無く、男は心菜の拳の中に飲み込まれた。
そこは完全なる真っ暗闇ではなく、拳の隙間から漏れるわずかな光によって、暗闇に密集する指の赤みだけが浮かび上がる。外界の雑音は遮断され、血液のせせらぎだけが聞こえる。
肉の檻に閉じ込められているようで、気味が悪い。肌の熱が中を蒸し、劣悪な環境を形勢する。
だが本来は、かわいらしい幼児の手なのだ。
さて、先ほどの問いの答えであるが————大抵の子どもは、捕まえた虫を早く誰かに見せたい、自慢したいと思うものである。
「ママーっ!」
漁船よりも激しい揺れ。心菜が走り出した。
狭くて身動きが取れないということはない。拳の隙間ですら余りあるほどに、男は小さいのだから。
だが、かえってそれが災いし、振動に揺られ体制を保てず、手のひらに干渉することができない。もっとも、力の限り殴ったところで、指の皮膚1枚に残らず吸収されてしまうだけなのであるが。
母の幸恵は、仕事に出るべく、玄関でパンプスの踵を整えていた。おりしもそこに娘が、とてとてと興奮した様子でかけてきたのである。
「ママー、こびとさんつかまえたー!」
「小人?」
幸恵は、さりげなく腕時計を確認する。むろん、サンタクロースの存在を疑わない子供の言葉として受け取ったが、そういう夢をむやみに壊すべきではないとも心得ていた。
「本当にいたのー?」
「うん!」
そう言って心菜は、待ちきれないとばかりに握っていた手を開いた。
その手には何も乗っていなかった。
「……あれー?いない……」
「あら……」
そんなことだろうとは思っていたが、態度には出さない。
「うそじゃないよ……!ほんとにさっきまでいたんだもん……!」
心菜の表情の雲行きが怪しくなる。子育てをしていると、天気予報のスキルが身についてくる。
「えー、見たかったなー。……でもごめんね、ママもうお仕事行かなくちゃいけないから、明日の朝帰ったら教えてね?」
「…………やぁーだぁーーー!!!いだのーーー!!!」
とうとう心菜は、えんえんと泣き出してしまった。幸恵は腰をかがめて、いつものように彼女の頭を撫でる。
「はいはいもー泣かない泣かない。ね、本当に小人さんいたんだよね」
「……」
べそをかきながら、心菜が頷く。
「じゃあおるすばんしてる間、もっかい探してみよ?ねぇねと一緒に探したらきっと見つかるよ」
「……んっ、ここなもっかい探してみる」
「そうそう!ほら、飴ちゃんあげるから、もう泣かないの」
ビニールに包まれた飴玉を、力が抜けた心菜の手で包むようにして渡す。遅れて、その手の中で、くしゃしゃという音がした。飴玉を握った手で、心菜は涙を拭った。
「ありがと……ママ、おしごとがんばってね」
「はいはい、いってきまーす。おるすばんよろしくねえー」
扉が閉まる音がして、玄関は水を打ったように静けさを取り戻した。
なぜ心菜の手から、男が消えていたのか?
何のことはない。拳を軽く握ってみると、側面にわずかな横穴ができるのが分かるだろう。彼女が母を見つけて、揺れがおさまったその隙に、手のトンネルを必死に這って、その出口から飛び降りたというだけ。男が這い出るその瞬間、幸恵が腕時計を見ていたのも幸いした。
とにかく男は今、心菜の手を逃れ、地上に降り立っていた。
だが、以前予断を許さない状況ではある。振り返れば、心菜の足がうろついているのが見える。口のところにフリルの付いたひよこ色のソックスが、フローリングの地面を踏み鳴らす音が聞こえる。心菜が泣きべそをかいていた間に、取れるだけの距離は取ったが、このままでは見つかるのは時間の問題。
どこかに隠れてやり過ごさなければ。
逃走の末、男は、玄関の崖際に辿り着いていた。
その場で足を止め、崖に背を向けて、辺りを見回す。
どこか、ないだろうか。
そう思って探してみても、隠れそうな場所は見つからない。
視野角180余度の内に観測できるのは、途方もない高さまでそびえ立つ靴箱と、男の着地の助けとなった絨毯と、幼い怪獣の徘徊だけ。
どこか、隠れる場所は。
ところで、崖の下は土間である。
そこは、佐藤家の人間が、靴を履き替える場所。
靴の駐車場。靴のタコ部屋。
どこか。
辺りは一通り調べた。それを免罪符にするかのように、背後を確かめる。
————崖下で、几帳面に左右並んだ優奈のスニーカーが、口を開けて待っていた。
「こびとさん、どこー?」
背後を振り返る!……心菜は、お尻をこちらに向けていた。
だが、最前より近付いてきている。早く隠れなければ捕まってしまう。
今一度、崖下の靴と向き合う。
優奈が昨日履いていた靴だ。白地に、パステルなピンクとブルーのラインが映える、彼女によく似合った運動靴。今日は違うものを履いて小学校にいったのだろうか。
輪っかの部分はよれよれで、糸のほつれも見える。その内側に見える中敷は、デザインに合わせてペールブルーで仕立てられている…………いたのだろう。今では、粘土のような緑がかった色に変色している。インクの薄いスタンプを何度も重ね押したみたいに、踵のあたりが黒ずんでいた。
優奈が不潔なわけではない……はずである。ただ、物持ちのいい彼女の靴は、包み隠さず言えば————臭そうに見えた。
……隠れるため。
ごくり、と生唾を飲んだ。
そうだ、隠れるためだ。
もし優奈に問い詰められても、心菜から逃れるためだった、と弁明すればいい。
——そうだったんですね。心菜がすみません……。
それで話は終わり。すまなそうに眉尻を下げた表情が目に浮かぶようだった。
優奈は無知だ。曖昧な性意識はあるが、具体的なことは何一つ知らない。
彼女にとって、靴は履くもので、それ以外の何物でもなくて。
頭を下げている相手が、自分の靴に好き好んで飛び込だ挙句、園児に罪をなすりつけるハエ以下の存在であることなど、きっと、想像だにしない。
男はおもむろに立ち上がる。
足が震えるのは、高所からの眺めに怖気付いたからではない。夢のまた、その先の夢。その実現を前にした震え。
22.5センチ。それが彼女の靴のサイズだ。
本来それは、成人男性の手に乗り切ってしまうくらい、小ぶりなはずで。
余分な肉がついておらず、男の腕よりも細くくびれた、少女の足首。それを通す口もまた、野ねずみが開けた穴に等しく、小さい。
あの時、確かにそう感じた。地を這うわらじ虫を捕まえ、靴の中に投じたあの時に。
なのに。
今となっては、オキアミを吸い込むクジラの口のよう。
小さな虫1匹を取り込むには、その穴はあまりに大きく、深い。
いや、穴の大きさもさることながら————男が最も鳥肌したのは、踵周りをカバーするあの縁を、渡り廊下を渡るように歩けてしまいそうだということに気づいた時だった。
言い訳が必要などと考えることすら、思い上がりなのかもしれない。
優奈は気づかないのではないか?
敬うべき大人を、自らのつまさきで冒涜していることに気づくことすらなく、学校を行き帰りして、友達とかけっこをして、二重跳びを練習して、おつかいに行って……
——さん、大丈夫かな……。
やがて優奈は、姿を消した男の身を案ずるだろう。今まさに自身の足の指で、息も絶え絶えな男の身を、もみくちゃにいたぶっているとも知らずに——。
気づけば男は、床を蹴って飛び降りていた。
恐れるものは、何も無い。
マゼランでさえ、アームストロングでさえもなし得なかった偉業。
男はこの瞬間、小学生の女子の靴の中敷に降り立った、最初の人類となった。
「みぃーつけた」
感動を噛み締める間も無く、その地を離れることとなった。
今日はよく落ちる日らしい。靴の口から真っ逆様に落とされた先は、一度は逃れたはずの幼児の手のひらだった。男は、その手のひらの潔白さを初めて意識した。
心を優奈の靴の中に囚われたまま、呆けたようにただその場に転がっているしかなかった男を、巨大な指が攫う。摘まれても最初の数秒のうちはまだ、あの場所に、ほんの一瞬だが確かに目にした、この世ならざる絶景に思いを馳せていた。
そんな彼を現実に引き戻したのは、骨の軋むような痛みだった。
「もう逃げちゃだめ」
幼児には、他者の痛みが分からない。ましてや虫の苦しみなど知る由もない。しかしそれは、彼女たちが残忍だからではない。
それが普通だ。幼稚園では道徳を教えない。
心菜は逃げ出した小人に対し、確かに怒っていた。だがその怒りは、膨れたハリセンボンのような可愛らしいもので、報復などといった意図は毛頭なかった。
ただただ、手にとったものを離したくなかっただけなのである。ちょうど子供が、母親の前で、買ってもらえそうにないおもちゃをぎゅっと抱えるように。
「……、…………、!!」
そんな気持ちが、小さな生き物にとって内臓を吐きそうなほどの強烈な苦痛となることなど、彼女には分からない。
「♪」
指の狭間で大人しくなった小人を見て満足すると、口の中で溶ける飴の味を楽しみながら、心菜は部屋に戻っていった。
部屋に戻ると、心菜は真っ先に机に駆け寄り、虫かごに再び男を落とし入れた。
それからも、虫かごの中をかじりつくように見ていた。蟻やダンゴムシですら目新しい年頃。まして世にも珍しい小人とあっては、目が離せないのも無理もないだろう。
だが、そんな彼女の期待に反して、男はなんのアクションも見せない。
(こびとさん、ちっとも動かない……)
心菜はつまらなくなると、虫かごを縦に横に揺さぶってみた。眠っている虫は大抵これで起きると知っている。
だが、揺れと一緒にあちこちに跳ねたり転がったりするだけで、依然小人は能動的な動きを見せない。どころかより縮こまってしまったように見える。
(元気ないの?)
心菜の表情が、不満から不安に変化する。これまで虫を飼っては死なせてお墓を立て、また次の虫を捕まえてを繰り返してきた彼女だが、流石に小人ともなると簡単には死なせたくないという思いが働いた。
(どうすればこびとさん元気出るかな…………あ、そうだ!)
何を思いついたのか、心菜は虫かごの蓋を取り外した。
(あ、ああ……嫌だ、もう、めちゃくちゃだ、何もかも……)
握られて、締め上げられて、シェイクされて。無遠慮に見つめられて。
心身ともに、とうにグロッキー状態であった。
心菜が怖い。あの怪獣の前では、命がいくらあっても足りない。
(助けて、優奈)
29歳の大人が、6歳児を恐れ、11歳の女子に助けを求めるという状況に、もはや男自身も何の疑問も恥も抱かない。
優奈の靴が恋しい。あの時、あの中に迷わずに飛び込んでいれば、こんな目に遭うことも無く、今頃つま先の奥深くでトリップを迎えていたことだろう。やがて訪れるカタストロフィに、胸を躍らせながら。
それがどうだ。寸前のところでごちそうを奪われたどころか、いつものよりも数段下等な、とても食えたものではない餌を代わりに出される始末。こんなガキに何をされたって、心にぽっかり空いたこの穴を埋めることなどできるはずが————
ぼてん。
目の前に、「何か」が落とされた。
「あげる」
出どころを見ていないため、男にははじめ、それが何なのか分からなかった。
異界の宝石のように、赤く透き通った球体。それも、運動会で使われる大玉のようなスケール。
だが、彼女の言葉と、視覚的な情報と、潜在的な願望とが、徐々に徐々に答えに導いていく。
(は、え……?これって、あ、はは……)
何かの間違えだと思いたかった。誰に通じるでも無いのにしきりに首を振る。過呼吸と笑いが渾然一体となっていく。あの時と同じように。
(嘘だ、嘘だ、嘘だ!)
だが、いくら可能性を否定しようとしたところでそれは、彼女の口から吐き落とされた、いちご味の飴玉だった。
(食べるかな〜?……あっ、動いた!)
籠の中の小人がのろのろと餌に向かって進んでいくのに、心菜はすぐに気づいた。
その様子が彼女にはよほど面白いらしく、目を輝かせ、かじりつくように眺めていた。捕まえた虫に餌を与えるという行為は、自覚的で無いにしろ、幼児にとって数少ない、「与える悦び」や「支配欲」を満足させる機会でもあった。
(♪)
そして、自身の行為が持つもう一つの文脈についてもやはり、幼い彼女が気づく由もなかった。
(……っ、!)
これは、本当に現実なのだろうか。
この身になってから、今ほどそう疑ったことはない。
そばに来ると分かる、頭が{蕩|とろ}けてしまいそうなほどの、病的に甘ったるい匂い。ショッキングピンクの匂い。
しかしそれは、飴の匂いであって飴の匂いではなかった。飴など砂糖の塊であり、本来、それ単体で匂いを発するものではない。
つまりこれは、溶け出した飴に味付けされた、別のものの匂いということ。
目を血走らせながら、その手をゆっくりと、飴玉に近づけていく。
そして、両脇の指を出し抜いて、中指が触れる。
男はそこで静止した。中指の先っぽから流れ込んでくる情報量のあまりの膨大さに、正確には、その後ろに待機している情報のひしめく音に、恐ろしくなったからだ。釘の細さの壁穴から、シロアリの活動を垣間見てしまったような気分だった。
しかし、それだけ恐れていながら、男は中指のみならず、薬指も触れた。人差し指も触れた。小指。親指。
(あ、あぁ、あ……)
そして、手のひらで触れ、男は飴玉を触った。
出来たての料理のように、それは温かかった。
目隠しをしていれば、中華丼の餡を素手で触るのと、何の違いもないだろう。
だが、男は目の当たりにする。
(う……)
ねちゃ……。
手を離そうとすると、そんな音が静かに鳴った。そして。
(……!う、うわ、うわ……!!)
引っ込めた手から、飴玉の間に、無数のねばついた糸が引いているのを、はっきりと見てしまったのである。
全部、ここなちゃんという6歳の女の子の、唾だった。
初恋の女の子は、少食だった。
昼休みに入ってもまだひとり給食を食べ続けていた彼女が気になって、少年は声をかけた。
——ぼくがかわりにたべてあげるよ。
友達はみんな、校庭でサッカーボールを追いかけていた。
好きな女の子に、良いところを見せたやりたいという思いはあった。けれど、それ以上のものではなかったはずだ。
女の子の席についた。椅子に敷かれた防災頭巾が、自分のものと同じ素材で作られているはずなのに、全く別物のような感触がして、少し戸惑ったのを覚えている。そして、皿の上に置かれたプラスチックの箸を手に取ると——その先っぽが湿って微かに光っているのが、目に入った。
どきり。
思わず手が、止まってしまった。
——ねえ、早く食べて。先生きちゃうよ……。
彼女に急かされて仕方なく、あるいはそれを免罪符に、その箸で給食のおかずを口に運んだけれど、味はちっとも分からない。はっきり言って、箸の先についた女の子の唾の感じだって、少年には分からなかったのだ。
けれど少年にとって大事なのは、女の子の唾が具体的にどうだったかではなくて、女の子の唾がついた箸で給食を食べてしまったという事実そのものだった。
少年が同い年の女の子に感じた微熱のともなったどきどきを、男は今も感じている。
もっと激しく。そして、29歳の大人が、6歳の子どもにたいして。1.7センチの虫が、120センチの人間に対して。
ここなちゃんの唾に濡れて光る手のひらを顔に近づけ、匂いを嗅いだ。そして、心臓の高鳴りを感じながら、口に運んだ。その口の中に広がる違和感は、卵白を飲んだ時のことを想像してみればいい。だが、卵白よりもねっとりとして、生ぬるく、いちごの甘さの奥に確かな臭みがあって——とどのつまり、はっきりと、他人の唾の感じがした。
もっともっと、ここなちゃんの唾が欲しくなった。だから、目の前の飴玉にしがみついて、思う存分に舐めた。樹液をすする虫のように——もし、今ここで樹液を横取りしようとするもう1匹の虫が現れていたとしたら、喧嘩が始まっていただろう。お互いに目を血走らせて、髪の毛を引っ掴んで、殴り、蹴り、噛みつき——おおよそ理性を持つものとは思えない、オス同士の喧嘩が。
男は、舐めるだけでは飽き足らず、全身を擦り付けるようにして、その唾を塗りたくった。唾にまみれればまみれるほど、紐が複雑に絡まって解けなくなるように、思うように身動きが取れなくなっていく。身体が蕩けていくような気がするのは、錯覚によるものだろうか。それとも、唾液の消化作用によって、本当の意味で溶かされていっているのだろうか。判然としない。分かるのはただ、心地いいという感覚だけ。ぐったりと仰向けに横たわり、ひと雫にも満たない子どもの唾に、ゆっくりと取り込まれていくようなその感覚に身を任せ、廃人のようにただ手だけを働かせ、射精を繰り返す。その間、ぼやけたレンズの向こうで、真円のシルエットが、少しずつ広がり、影を深くしていることに、気がつくことができなかった……。
(———!?)
男にとって、それは突然のことだった。全身に、潰れるほどの重力がかかる。異変を察知した時には、すでに視界は塞がれていた。あれほど身体に覚えさせたから、のしかかるそれが唾をまとった飴玉であることはすぐに分かった。だが、どれだけ働きかけても、アクリルの床に粘着して微動だにしなかったあの飴玉が、なぜ、今になって。
心菜は、ケースの中の小人が、自分の与えた飴に少し口をつけたきり、興味を示さなくなってしまった(ように彼女の目には映った)のを、面白いと感じなかった。だから、横になった小人に、指で飴をおしつけた。食欲のない虫に対して、いつもそうしてきたように。人差し指で押さえながら、飴と底板の隙間の小人を、目を凝らして眺める。やがて小人は小さな舌で飴を舐め始めた。その舌の動きを、心菜は愛おしく思った。
——おいしい?
声が聞こえた。ここなちゃんの声に違いなかった。
だが、くぐもっているせいか、幼子の声のはずなのに、妙に神々しい響きを帯びていた。
暗闇の中で聞いていると、それが何か、唯一の道標であるようにさえ思えた。
(おいしい、おいしい……)
無心で舐めていたに等しかったが、心菜様がくれた4文字を、うわごとのように繰り返していると、極上の蜜のような気がして、いよいよ舌がとまらなくなる。
自分の意志が介在する余地のない、極限の受動の世界。行為のみならず思考さえも、心菜様に上書きされる。唾でべとべとしたいちご飴を、子どもの指で押し付けられて、無理矢理に食べさせられて、美味しいと言わされて。
この上なく惨めなはずなのに、そんな世界をずっと望んでいたのかもしれない。
ポケットをまさぐりながら廊下を歩いていると、鍵を見つけると同時に、側溝にセミの死骸が落ちているのが目に入った。
日中は残暑に見舞われていても、夕方になると、夏は終わろうとしているのだなと実感する。できれば日中も、早いところ涼しくなって欲しいけど。
鍵を開ける。家に帰って、靴を脱ぐ。ついでに、脱ぎ散らかした心菜の靴も揃えておく。
(かかとも踏んじゃって……)
ため息をつく。ちょうど、そのかかとも直そうと思った時、向こうから心菜が興奮気味に走ってきた。
「ねぇねーっ、きいてきいて!」
「あ、ここっ。ちょっとこれ——」
「こびとさんっ!こびとさんっ!」
心菜の口から出てくるはずのない言葉に、一瞬、耳を疑った。
「え、こびと……?」
「うん!虫かごにね、こびとさんが入ってたの!!あれ、ねぇねが捕まえたの!?」
それって。
冷たい汗が、鼻筋を伝う。
心菜が?うそ、なんで、だって。いや、それより。
「え、その……小人さんって、今どうしてる……?」
「エサ食べてるよ!ねぇねも見る?」
エサ?え、大丈夫だよね?ちゃんと、生きてるよね……?
誇らしげに歩く心菜。その後ろをついて行きながら、優奈は不安を募らせる。心菜は物を大事にしない。靴もそうであれば、捕まえてきた虫だって。もしあの人に何かあったら、どうなる?ご親族に連絡?救急車?警察————?
「ねぇね?」
心菜が、不思議そうに優奈の顔を覗き込む。
「あっごめん……。その中に小人さんがいるの?」
「うん、見てほら!」
心菜が指差した所には、スーパーボール大の飴が転がっていた。これが、心菜の言っていた「エサ」なのだろうか。
そして。
(……いた。)
優奈は顔を近づけると、餌にたかる、1匹の虫を発見した。その姿を見て、優奈は色々なことを感じたが、生きて動いていることにひとまずは安堵した。
「あのねーここちゃん……実はこの小人さん、私が見つけたんだけど」
「えー!どこどこっ、どこでみつけたの!」
「あーえーっと、でね、聞いて欲しいんだけどー……この小人さんはね、もともとは私やここちゃんと同じ大きさの、人間だったの」
「えっ?えっ?」
「お隣に住んでるおじさん、分かる?」
「うん……」
「小人さんは、その人なの」
「ちっちゃくなっちゃったの?」
「そう」
「なんで?なんでちっちゃくなったの?」
「そこは私も分からないんだけど……ちなみにここちゃん、小人さんのこと触ったり、こっから出したりした?」
「うん」
「じゃ、今度からは勝手に触ったりしちゃだめ。間違って潰しちゃったりしたら大変なんだから。分かった?」
「えーっ……」
「えーじゃない。潰しちゃったりしたら、おまわりさんに捕まっちゃうの。そんなのイヤでしょ。」
「うん……」
「じゃあおねえちゃん、ちょっと小人さんとお話ししたいから、いったん静かにしててもらえる?」
心菜を後ろに下がらせ、まだ餌を舐め続けていた、中の小人とのコンタクトを試みる。
「……さん、……さん、大丈夫ですか?」
ノックをするように、爪の先でコツコツとアクリルの板をつっつきながら呼びかけてみるが、何も反応を示さない。食事に夢中で、聞こえていないのだろうか?
「……ごめんなさーい、ちょっと失礼しますね。」
やむを得ず、優奈はまずその餌を取りのぞくことにした。小人の世界に舞い降りた、美しき優奈の指が、飴玉に触れる。
ぬめり。
(っ……?)
瞬間、優奈はその指を引っ込める。
それは、彼女の予測にない感触だった。飴玉は、まるでなめくじの体のように、ほんのりと湿っていた。
「は……!?ここ、まさかこの飴って、一回舐めたやつなの?」
姉の顔色を察してか、心菜はバツが悪そうに答える。
「うん……」
「……バカっ!」
信じらんない。サイアク。何考えてんの。優奈は頭を抱える。
虫かごの中を見ると、男はまだ、餌を食べているところだった。妹が口に入れた飴を、男が今も、夢中になって舐めている。
たちまちそれは、身の毛のよだつような地獄絵図へと様変わりする。
実は、優奈の声が聞こえていないわけではなかった。だがあえて言うなら、酒が入った時のように、少し気が大きくなっていたのだ。
酔いが覚めて、状況を理解し始めると、血の気がすっと引いていく。
飴玉はもう見当たらない。優奈がティッシュにくるんで処分するのを、この目で見た。
まさか、そんなはずはない。
戦々恐々として男が見上げた先には、こちらを見下ろしながら、ポケットティッシュをもう1枚取り出している、優奈の姿があった。
確かに見知った大人が、自分のいない所で、可愛い妹の唾をありがたがって舐めていたと言うのは、優奈にとって気分の良いことではないだろう。しかし利口な彼女のことだから、今回の件に関しては、あくまで妹に振り回された被害者であることは、こちらが言わずとも理解しているはずだ。
ならばなぜ、何も言わない?
じりじりと後退りする男。しかし、優奈の目は監視から逃れることはできない。冷たいものが背にあたり、肩がびくりと跳ねる。優奈の机の上に置かれた、スチール缶のペン立てが、そこには聳え立っていた。自分好みのシールで、可愛らしくデコレーションされている。しかしどれだけ飾り立てても、素材の冷たさは揺るがない。
男は、あの時の状況を思い出していた。1.7センチの体で、初めて優奈に出会い、「駆除」されそうになったあの時のことを。
いや、あの時とは違う。男はひとりかぶりを振る。
あの時には、優奈の表情に明確に、殺意の色が表れていた。今はそれがない。
優奈は怒っていない。これは「断罪」ではない。
だが、少なくとも優奈は、笑ってはいない。
永遠とも思えるこの時間、優奈は1度も目を切らさず、表情を少しもほどかない。
そして————ティッシュを携えたその手が、動き出す。
「ちが、違うんだ、優奈っ、軽はずみというか、軽はずみ?不可抗力で!したくなかったんだあんなことは!本当は!僕は君以外で、優奈?優奈ちゃん?え、嘘だろ、おい、ちょっと待っ————」
無様な命乞いは一音も届くことなく。
目の前が、真っ白になった。
「ねぇねー、こびとさんママに見せてあげてもいい?」
男の体についた唾を拭き取っていると、心菜が悪びれもせずにそんなことを聞いてきた。
「だめ。見せ物じゃないんだから」
「えー、でもここな、さっきママに見せるっていっちゃった……」
「まさか、こびとさんのことママに話したの?」
意識が、心菜との会話の方に割かれる。そうなると自然、唾を拭く作業は、おざなりなものになる。
「うん。ほんとは見せたかったんだけど、こびとさん途中で逃げ出しちゃったんだもん」
「あのね?もう言っちゃったなら仕方ないけど、これからはこびとさんのことは、ここちゃんとねぇねの2人だけのひみつにして欲しいの。じゃないとこびとさんが、誰か悪い人に取られちゃうかもしれないよ?」
機械的に、淡々と。
優奈は指2つで、ティッシュ越しに、男の体の体を揉みしだく。
「やだ……」
「じゃ、ひみつにできる?ママにもしーっ、だよ」
「ひみつにする」
「うん、えらいえらい。でもこびとさん逃げちゃったって、よく見つけられたね?」
「あのね、こびとさんおもしろいんだよ!ねぇねのおくつに隠れようとしてたの!」
「え、靴……?」
一瞬、半ば無意識に動かしていた指が静止する。
ちなみに、一連の会話は、ティッシュの中の男にも筒抜けである。
指先からくすぐったい感触がする。男が抜け出そうとしているらしかった。
思わず少し力を加えて、脱出を阻止する。そして、とまっていた指を再び動かし始める。
靴と聞いて、記憶の片隅に何か引っ掛かるものがあるような気がしたが、忘れてしまった。
「笑い事じゃないよ!もし見つけられずに、私がその靴履いちゃったらどうすんの!はーもう……とにかく、いーい?今度から勝手に小人さん触ったりしちゃだめだからね」
「じゃあ、ねぇねと一緒ならいいの?」
「それは小人さんに聞いてみないと。ねえここ。ここは小人さんにとって、怪獣みたいにおっきいんだよ。自分よりも何倍もおっきい怪獣に迫られたら、ここだって怖いでしょ?」
「こわーいっ、がおーっ」
分かってるんだか分かってないんだか、とため息をつく。
(あ……そろそろいいかな)
優奈は手を止めて、机の上でティッシュを広げる。
中から出てきた男の体は、水分を拭き取られたばかりか、すっかり搾りかすとなってしまっているようだった。
「あっ、そういえば、——さんの隠し場所についてなんですけど、いいものを思いついたんです」
そう言って連れてこられたのが、この場所だった。
優奈の指に、気絶するまで精子を搾り取られた後、まず彼女から今回の件についての謝罪を受けた。姉に言われてという感じだったが、心菜も「ごめんなさい、こびとさん……」と謝ってくれた。
それから、随分と久しぶりに感じる、優奈とのイヤホンマイクによる会話もした。話題は主に今回の件と、それも含めての、今後について。ただ振り返ると、ほとんどの時間「すみません」と「気にしなくていいよ」のラリーを行っていた気がする。
「気にしなくていいよ」男としては当然、それは本心からの言葉だったし、伝えることもできたと思う。だが、肝心な優奈の本心————幼い妹の唾のついた飴を舐める姿を見て、自分が普段履いている靴に飛び込んだという話を聞いて、本当のところどう感じたのか、分からずじまいだった。
事情は十分に理解してくれているはずである。だがしかし、いかなる正当な理屈を持ってしても、生理的な嫌悪感というものを払拭することなど、簡単にはできない。多様性やポリコレの限界が指摘されているように。
だからこそ、むやみに踏み込んでいくのも怖かった。優奈の方から触れてくれればそれでよかった。心菜のように、靴の中に隠れたことを面白がってくれればよかったのだ。しかし彼女の方でも最後までそこに触れることはなかった。それではまるで、優奈にとっても、触れない方がいい話題であるみたいではないか————。
そんなわだかまりを残して終わった会話。そして今、自分はこんな所に放り込まれている。
優奈が「いいもの」といって取り出したそこは————それは、クリップ(📎)の入っていた、小さな透明のケースだった。
「どうですか?狭くないですか?」
外の優奈に向かって、腕で「◯」を作ってみせる。
確かに、実際に入ってみればそこは、ビジネスホテルの1人部屋と遜色ないくらいの広さはあった。天井は少し低いが、ジャンプでもしなければ頭をぶつけることはない。蓋のところに3本線の穴が空いているから、窒息の心配もない。
虫かごの中は広すぎて落ち着かないくらいだったから、この程度のスペースで十分だった。
だが、問題はそこではない。
「すみません、ちょっと、見えづらくって……」
(あ、あ……!)
床を見れば、彼女の指。
天井を見ても、彼女の指。
そして正面を見れば、彼女の唇が。鼻が。目が。
トリミングされて、ズームインされて。
務めて平常心を装い、「◯」のポーズを優奈に見せる。正確には、彼女の瞳に。
(……!、……!)
睫毛の一本一本が分かる。虹彩の筋が分かる。眼球の潤い、瞼の付近の血管、漆黒の瞳孔に映る滑稽な自分の姿までもが、はっきりと分かる。
化け物だ。男はそう思った。
こんな気持ちを伝えたら、きっと思春期の女の子であれば、誰だって傷付くだろう。
だがもはや、可憐だったはずの彼女が、同じ生き物であると信じることができない。
どんな精巧な作りのホラーゲームであっても、この恐怖と絶望を再現することは叶うまい。
おそろしくこわい。彼女の存在も。そして、こんな体験が続いたら、自ら作り上げ、長い間唯一の拠り所としてきた、可憐で理性的な少女という虚像が、崩壊してしまいそうで。けれど。
「……あ、大丈夫なんですね。よかった。」
けれど同時に、その虚像は、崩壊するその瞬間のために作られたものなのかもしれないと。崩壊し、混沌の化け物、両義性の化け物という新たな虚像の礎となるために最初から作られていたものかもしれないと、男は感じ始めていた。
有り体に言えば、可憐な少女であろうと、化け物であろうと、優奈は何よりも魅力的である、ということだった。