3話-1
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1.菅谷知里
才能にも、環境にも恵まれているという自覚があった。だから、今の生活にこれといった不満もなかった。強いて挙げるとすれば、どれだけ優れていようとも、子どもであるうちは真っ当に評価されないし、自分よりも低脳な大人の言うことにも従わなければならない、というところだった。出る杭は打たれる、という教訓も、彼女はよく理解していた。
AM5:45。
朝起きたら、まず顔を洗う。仮に冬であっても必ず冷たい水で洗う。そしてパジャマを脱ぐよりも早く、100マス計算を解く。それが、菅谷知里のルーティンだった。
AM6:00。
すっきりとした頭で、リビングへと向かう。キッチンでは、既に母が朝食を作ってくれていた。60インチのテレビに映る天気予報を見ながら、先生方のご指導を受けないような、通学用の服に着替える。
AM6:15。
遅れて父が起きてくる。ここのところ仕事が忙しいらしく、疲れの取り切れていない顔をしている。
母が食卓に皿を並べたら、家族3人揃って手を合わせる。
「今日も遅くなりそうなの?」母が父に尋ねる。
「ああ、多分ね……」
「憂鬱そうだね。なんかやらかしたの?」
カップスープを覚ましながら、ちさとが問う。
「おいおい、父さんに向かってそんなこと言うもんじゃないぞ」
「あはは、ってことはやっぱりやらかしたんだ」
やれやれ、と父は天を仰ぐ。そして、少し間を空けてから話しだした。
「父さんが、T社で働いてるのは知ってるだろう?」
「うん」
T社といえば、誰もが知るような大手電機メーカーで、父は新卒から20年近くそこに勤めているらしい。
「今は縮小デバイスを扱ってる部署にいるんだけど、ちょっとそこで問題があってね……」
「なんなの?もったいぶって……」
父の話ぶりもさることながら、ちさとはむしろ先ほどから母が話に入ってきていないことの方が気になった。何か事前の示し合わせがあったみたいに。
「実は、最近縮小デバイスの非正規品が出回ってるらしいんだ」
「非正規品?」
「うん。それが聞くところによると、人体の縮小まで可能という代物らしくてね」
「マジ?やばいじゃん」
父によると、その非正規品とやらは、S社が販売する縮小デバイスに紛れて流通しているらしい。同社は関連製品の販売を詳細を伏せて中止するよう呼びかけていて、同一ロットのものを最優先に回収が進められているという。
「でも、非正規が混じってるのはあくまでS社の商品で、T社とは関係ないんでしょ?むしろ、ライバルが勝手に潰れてくれそうで良かったじゃん」
「それがそう単純なことでもないんだ。この事実が表に出れば、縮小デバイスそのものに対するイメージダウンは避けられないし、現時点でも既に各所から何件も問い合わせが来てる。それに、うちでも同じような不手際が起こらないとも限らないから、管理体制を1から見直さなくちゃいけない……」
「そっかー、大変だね……」
「僕が大変な分にはいいんだ。ごめんな、朝からこんな話して。本当は外部に漏らしちゃいけないんだけど、父さんは知里が事故に巻き込まれたりしないか心配なんだ。くれぐれも縮小機を見たら注意するようにしてほしい」
「わかった」
「それと、さっきも言った通り社外秘だから、このことは学校のみんなには言っちゃだめだよ。もちろん、先生にも」
「うん。わかってる、パパ。」
AM6:50。
早朝の灰色の通学路を歩きながら、ちさとは考える。
もし本当に父の話す非正規品が世に出回っていて、更にそれが、悪人の手に渡ってしまったら、社会は間違いなく大混乱に陥ってしまう。
厄介なのが、証拠が一切残らないというところ。現にちさとも、学校への持ち込みを禁止されている物を小さくして持っていくことがあるが、一度として担任に見つかったことはない。
もし、自分が小さくされてしまったら。
これは考えるのも恐ろしいことだった。今、自分の足元を這い回っている蟻が、ハイエナよりも獰猛なクリーチャーと化すということ。そして何よりも恐るべきは、それをいつでも踏み潰してしまえる、現在の自分自身。
では、もし。蟻ほどに小さくなってしまった人間を、自分が発見したとしたら?
「おはよーちさと」
「おはー」
ちさとの通う、広野市立千代沢小学校。
その校門の前で、向かいの方向から歩いてきた女子と、挨拶を交わす。
佐藤優奈。ちさとの友達の1人だった。
「金曜の朝練さー、ゆうちゃん先輩ちょっと機嫌悪げだったよね」
「あーあれねー、私あのあと他の先輩に聞いたんだけど、なんか失恋が原因みたいよ」
「そうなんだ。ゆうちゃん先輩かわいいのになー……」
「でもちょっとプライド高そうだよね」
「わかるー」
優奈は、家庭の事情もあってか、精神的に大人びていた。それでいて、周りの子どもたちの会話のノリやテンポにも合わせることができる子だった。ちさとは彼女のそういうところを気に入っていたし、私立の小学校に通っていたら出会うことのできなかった友達だとも思っていた。
もし、小さくなったのが、仲のいいクラスメイトだったとしたら。
もちろん、丁重に保護してあげなければならないと思う。
嫌いな子だったら……それでも、やっぱり助けてあげなきゃいけない。
だって、身近な人が突然行方不明になったら、多少なりともその騒ぎに自分も巻き込まれることになる。その中で、自分がボロを出さないとも限らない。だから、大きさの違いに物を言わせて、報復する……っていうのは、少なくとも無いかな。
————なら、どこの誰かも分からない人の場合は?
AM7:00
昇降口で上履きに履き替えて、ちさとたちは今日も、ブラスバンドの朝練習に向かった。
2.潜入
「ダメですよ」
にべもなく優奈は言った。
優奈の学校に連れて行ってほしいという、男の懇願に対しての返事だった。
日曜の夜。机の上に立ち、マイクに向かって話す男と、椅子に座ってそれを聞く、パジャマ姿の優奈。その背後では、次女の心菜が既に眠りについていた。
男の本心はただ一つ。小学校での、教室での優奈を知りたかった。
休み時間に友達と最近の流行り物の話をする優奈を、担任の先生に当てられて国語の教科書を淡々と読み上げる優奈を、音楽の時間にリコーダーでエーデルワイスを吹く優奈を、どうしても見てみたかった。
けれど、当然そんな想いを優奈本人に伝えるわけにもいかなくて、建前として、1人で残されるとまた心菜に何をされるか分からない、と主張した。
録音を介しての会話ゆえに、2人のコミュニケーションにはいつも微妙な間が存在する。優奈が男の声を再生し、聞いている間は、決まって沈黙が訪れる。
その沈黙は時に、審査員の点数を待っている時のような、親に成績表を渡した時のような、事前の緊張感をもたらす。
「心菜には、私からもう一度強く言っておくので、その心配はいらないと思います。学校の方が、それこそ何があるか分からなくないですか?……とにかく、——さんの頼みでも、そればっかりは聞けないです。すみません」
「あ、ああ……いや、そうだね、ごめん。変なこと言い出して」
撃沈。そう言われては、もう男は引き下がるしかなかった。
粘り強く食い下がろうとしなかったのは、駄目でもともとのつもりで聞いたことだったというのもあるが、それだけではない。
優奈の声のトーンの変化に、不穏な気配を感じたからだった。彼女に飼われ始めてから1週間になるが、そんな声は一度も聞いたことがなかった。
じっさい、優奈は男の突拍子もない提案を、良くは思わなかった。口では学校の方が危険だからと言ったが、本音はそうではない。私生活の中でさえ、男のことで色々と気を揉まなければいけないのに、学校生活にまで入り込んできて欲しくなかった。
それに、先日の一件で負い目があるとはいえ、妹を厄介者扱いするような言い草も、聞いていて気分のいいものではなかった。
分かっていた。
優奈に見捨てられては、生きていけないということは。
今は平穏無事な……とは言わずとも、最低限度の生活を送らせてもらえている。優奈の優しさのおかげで。けれど、忘れてはならない。自分がすでに、人生という遥かな崖の下に落ちてしまっているということを。
優奈の顔色を伺って、優奈の善意に寄生して。そうすることでしか、生きていけないということを。
分かってはいたのだ。けれどもう、手遅れだった。
タイトルは思い出せない。でも、何かしらの映画の冒頭で流れていた映像。
舗装されていない田舎の道を走る、一台のトラック。
その荷台の中には1人の退屈そうな少年がいて、ガタン、ガタン、と、引っ越しの荷物と一緒になって揺られている。
そして、長旅の果てに、揺れは収まり、仄暗かった荷台に光が差し込んでいく。少年は、物語の始まりの予感に胸を高鳴らせ、光の向こうに広がる、新しい世界に飛び込んでいく——。
男もまた、似たような環境に置かれていた。
暗闇に、激しい揺れ。ここまではおおよそ同じ。
しかし、引きのカットで映るのは、無骨なトラックなどではない。
山吹色の帽子を目深に被った、登校中の女子児童————無論、その左胸の名札には「千代沢小学校 5ねん2くみ 佐藤優奈」と書かれていた。
男は今、優奈が手に持って歩く、キルト生地の手提げ袋の中にいる。それが何を入れる袋であるのかを、男は知らない。暗くて何も分からないというのもあった。また飛び込む前、確認している余裕もなかった。
先日、新しく男の居室となった、小さなクリップケース。あれが良くなかったのだ。
ケースには天井に3本線の穴が空いていた。それはちょうど、蟻のように小さな体ならば這い出ることができてしまう程度の線幅だった。
そのことが、もともと優奈の想定の内にあったのか、外にあったのかは分からない。だが少なくとも、その穴を悪用されるという可能性までは、考えていなかったはずだ。
与えた朝食を男が食べ始めたのを見届けると、優奈はいつものように、髪を整えるべく洗面台へと向かっていった。
鬼の居ぬ間に洗濯とばかりに、優奈が完全に部屋を出た瞬間を見計らって、動き出す。ひょっとしたら、ここから出られるかもしれない。はじめはその程度で、出た後に何をするかなんて、深く考えていなかった。実際に試してみると、拍子抜けするくらいに簡単に外に————優奈の机の上に出ることができて、そこではじめて「じゃあ何をする?」と具体的に考える余地が生まれた。
破滅を囁く悪魔が、つけ入る隙を生んでしまった。
とはいえ。崖際で、寸前まで男は躊躇っていたのだ。
崖面————勉強机の側面に取り付けられた2つのフックには、閉じたランドセルと、口を開けた手提げ袋が掛かっていた。男はその様子を、呆然と眺めているばかりだった。
けれど、優奈が洗面所から戻ってきて、今この状態を見られてはまずい、と、咄嗟にその袋に飛び込んでしまった————。
————そして、今に至る。
袋の底は変わらず暗くて、それが一体何の袋であったか、という問いには確かな答えが未だ出せない。
けれど、大きな手がかりが一つだけあった。それは言うまでもなく、優奈がその袋に入れた「モノ」のこと。
大きな手がかり……それは物理的にも大きく、中のスペースはほとんどそれが占拠しているらしかった。
ソリッドな手触り。撫でてみると、曲線を描いていることが分かる。爪を立てると沈む。何か、ラバーのようなもの。
そして、洗剤の香りと、その中にかすかに混ざる、埃っぽいにおい。洗濯の必要があるもの。優奈が、身につけて使うもの?
ひょっとしたら、と頭に浮かんだものはあった。しかし仮にその通りだったとしても、今この状況では、どうすることもできなかった。
………さ、………………………………よね。
……………、わたし………………………けど、なんか…………………よ。
くぐもった声が、外から聞こえてくる。優奈と、その友達と思われる、もう1人の女子児童の声。会話の内容までは聞き取れない。
はじめて浮かび上がった、外の世界との接点。
本当に、向かっているのだ。優奈の通う小学校に。
ワクワクしないはずがない。現に男のソレは、すでにいきり立っている。
すぐ隣を歩いている、優奈の友達。当たり前のように、その子もまた優奈のように大きいはずで、その子にとっての自分も、やはり蟻と同類の虫けらでしかなくて。
どんな名前で。どんな顔で。どんな性格で。どんな趣味を持っていて。————どんな風に、僕をかわいがってくれるのだろう?
そんな想像が、頭の中を支配する。
けれど、一方で後悔もしていたのだ。
————とにかく、学校には連れて行けないです。
優奈の言いつけに背いたこと。絶対にして唯一の飼い主を、ペットである自分が裏切ってしまった。その意味を、今になって考え始めていた。
可愛くない、従順でもないペット。そんなものを、誰が必要とするというのだろう?
そしてもう一つ気がかりなこと……この袋の正体。
あの時頭をよぎった想像。もし、それが正しかったというのならば、優奈が学校に着いた時、自分は————。
その時起きたことを、一度に全て認識することはできなかった。
嘘のように開けた視界。
鮮明になっていく、その細部。
淡い黄色のシャツ、デニムのティアードスカート……そして脚へ、ゆっくりとスクロールしていく。
あ、落ちているんだ、と自覚してからは、一瞬だった。
不時着の痛みに、のたうち回っていたかった。
けれど、そんな余裕すらないということを、男は分かっていた。
はやく見つければ。取り返しがつかなくなる前に。
だって、自分の予想が正しければ、ここは————。
「優奈っ!どこだっ、どこにいるんだ!!優奈、ゆっ……」
盲目的に探し回っていると、何かにぶつかった。
不可思議なオブジェクトだった。————しかし、男は、それが何か知っている。
ソリッドな、赤いラバー。
流線形の先端。
薄汚れたビニール素材。
洗剤の香りの中に入り混じる、あの埃っぽいにおい。
そして、その持ち主は————。
(あ、あ。ああ……)
見上げた先に。
不沈の飛行戦艦を思わせるほどに大きな、優奈の左のおみ足があった。
それは、下駄箱の並ぶ昇降口の外から差し込む朝日に照らされながら、男の眼前に鎮座するオブジェクト————上履きに向かって、ゆっくりと舞い降りていく。
神々しくすらあるその光景に、男は息を呑む。宙を舞う微小なダストが朝日に輝き、天使の羽のように見える。
くるぶし丈の靴下の上からでも分かるほどにしなやかなつま先を、するり、と通して。
それから、上履きの口を左手の人差し指で広げて、すっぽりとはめ込むようにして、かかとを収める。
そんなことをしている場合ではないのに。何よりも優先すべき急務があるのに。
下駄箱の前で、上履きを履いているだけの優奈に、どうしようもなく見惚れてしまう。
右足に移ると、男はやっとの思いで首を振る。
「……優奈ちゃんっ!気づいて!ここだっ!!」
上履きのアウトソールに、拳を叩きつける。蓄積する痛みにも構わず、何度も、何度も。
けれど見上げると、優奈は気づくどころか、こちらを向いてすらいない。
やばいねー。
でしょ?
なんて言って、友達と笑い合っている。
そんな————。
絶望に、拳の力が抜ける。
そんな男に対しても、運命は慈悲を与えない。
「が、ほっ……、!」
公道を走る自動車の衝突より、重い一撃。
大人の男が全力で殴りつけても、小蝿が止まった程度の違和感も与えることができないのに。ほんの少し、子どもが無意識につま先を動かしただけで、胃酸が飛び散り、骨が悲鳴を上げる。
1000000分の1とは、あるいは1000000倍とは、そういう世界だった。
いこ。
うん。
弾き飛ばされ、潰れた空き缶のように地面に転がっていた男の耳に、2人の声が聞こえてきた。
その短いやりとりの意味を理解し、男の顔が青ざめる。
「え……あ、待って、行かないで、優奈っ、」
痛みのあまり、立ち上がることもできず、男は毛虫のように這って、まだその場に留まっていた優奈の足を目指した。
うそ、待って。だめだ、それだけは。それだけは!!
けれど、踵がおもむろに持ち上がり、やがてつま先が地面を離れ、上履きに包まれた優奈の足は、視界の外に消えていく。
ところで、ゆーなはどう?
なにが?
えー、ほらさあ……
数秒前に足蹴にした虫になど見向きもせず、優奈は先へ進んでいく。
ダンボールの中の子犬も、こんな風に元の飼い主の背中を見送るのだろうか。
「優奈……!おいっ、待って!優奈、優奈っ!!」
悪あがきでしかないと分かっていても、冷たい昇降口のタイルの上、這いずったまま優奈を追いすがる。
そうでもしていないと、おかしくなってしまいそうで。
無論、毛虫の速度で、人間の歩行に追いつけるはずもなく、距離はみるみるうちに離れていく。
2年前、優奈が自分の前に現れてからというもの、彼女のことを考えない日はなかった。あんなに必死に追い求めて、やっと優奈の1番近くにたどり着けたと思ったのに。こんなことがあっていいのかというほどに、一瞬で離れていく。
(優奈……ゆう、な……)
もう、話し声も聞き取れない。正面の階段を登っていく、2人の後ろ姿が見える。
天井の奥に消えていく優奈を眺めながら、男は、百貨店の中で親とはぐれてしまったことを悟った子どものように泣いていた。
3.遭難
もちろん、迷子に付き添ってくれる親切な大人なんていないし、館内アナウンスなんてものも無かった。
そして何より、そこは、子どもにとっての百貨店なんかよりも、ずっと広い世界だった。
あれからしばらく、男はその場を動けずにいた。
蹴られた時の痛みは抜けてきている。そのはずなのに、体に力が入らない。
どこで間違えてしまったのだろう。自問することで、何か具体的な答えが浮かんでくるわけでもない。どこで、なぜ、どうして、何が、どうすれば……疑問詞だけが、曇った頭の中をぐるぐる、ぐるぐると巡っている。
はじめて、優奈に拾われたとき。今にして思えば、あの時は状況が揃いすぎていた。彼女が1人だったこと。不審に脱ぎ捨てられた衣服。隣の部屋の前。だから男は、優奈の目に止まった。
けれどここでは、優奈の意識に、干渉することすらできなかった。
つまり、優奈はもう自分を見つけてくれない?
自分はもう、優奈のところに戻れない?————一生?
(う、あ……)
吐き気が込み上げる。
優奈に会えない?それなら一体。
一体何のために、人生を捨ててまで、僕はこんな冗談みたいに小さな身になったというのか————。
(……?)
その時、初期微動のように、小さく小刻みに大地が震えはじめた。
はじめ、男自身が喪失感に震えているのかと誤認した。しかし、しだいに、そしてシームレスに大きくなっていくその揺れが、体の震えでも、ただの地震によるものでもないということに気づきはじめた。
(……!)
地震じゃないなら、なんの揺れかって?……そんなの、一つしかない————!
てかさあ、ウチ……。
……だよねー!
あっ、おはよー。
今まで閑散としていたのが嘘みたいに、浮ついたおしゃべりの声と、太鼓の重奏のような足音が、この場を満たしていく。
それらを生み出すのは、昇降口から雪崩れ込んだ、集団登校の子どもたち。
男はさしずめ、怪獣の襲撃からひとり逃げ遅れた、哀れな小市民だった。
男の学生時代の記憶と相違なければ、下駄箱は普通、学年ごとに分かれているはずだった。
ならば、今男の目に映る脚は、全て優奈と同じ、小学5年生の児童のものということになる。
全部で何本あるのか、数える気も失せる。少なくとも男女合わせて10人は、下駄箱の前に屯しているように思えた。
10人?
1人でも、100倍大きくて。大人の渾身の抵抗を、1000000倍の指の力で軽々と押さえつけてしまう子どもたちが、10人もいて。その中で、生き残れと?
よー!
いって、なんだよっ。
お前今日さー……。
ずんっっ。
目の前に、靴が踏み下ろされる。
男もよく知っているメーカーの子供用シューズ。
大人から見れば、半分おもちゃのような靴。
そんなものが起こす風圧で、男は10歩分の距離まで吹き飛ばされる。
そして————あと少しでも靴がずれていたら、なす術もなく圧死していた。
(あ、あ、た、助け、)
ぱこんっ。
男の背後で、破裂音のような音がした。
咄嗟に振り返ると、
ぱこんっ。
もう1発。男の1歩前に、空っぽの上履きが落とされた。
軽く見積もっても、リムジンバスの重量を超えている。
そんなものが、予告もなく、空から落ちてくる世界。
なにそれ、かわいーっ!
いいなーっ。
いいでしょ、これねー……。
上履きの持ち主たちは、きゃっきゃと笑っていた。
自分の上履きで、ひとりの人間が命を落としかけたということも知らずに、笑っていた。
その事実に、狂いそうになる。
(に、逃げ、逃げっ……!)
ずんっっ。
逃げた先で、また踏み潰されそうになって。
びりっ。びりっ。
どこかから、マジックテープを剥がす音が聞こえてくる。
(いやだ、しぬ、やめっ……!)
ぱこんっ。
さらにまた逃げた先に、空っぽの上履きが降ってきて。
ずんっっ。
ぱこんっ。
ずんっっ。
あはは。
ずんっっ。
ぱこんっ、ぱこんっ。
ずんっっ。
びりっ。
ねーっ。
ずんっっ。
どかっ。
ばきっ。
ぱこんっ、ぱこんっ。
うっそぉー?マジー?
ずんっっ。
ぱこんっ。
びりっ。
………
……
逃げ惑い、踏まれかけて、吹き飛ばされて、蹴飛ばされて。
体力も、精神力も、とうに限界を迎えていた。それでも、立ち止まることは即ち死であるから、走り続けるしかなかった。
早く安全なところに行きたかった。けれど、どこを見ても脚、脚、脚で、方向感覚を失っていた。
小学生の脚という樹海の中で、遭難していた。
こういう状況を夢に見たことがないといえば嘘になる。
キャラクターでもなければ、モブでもない。1人1人が自立していて、それぞれの人間関係や家庭環境があって、小人などいるはずもない現実世界の中で、意思を持って生きている。そういう小学生たちが、よってたかって無意識に、自分を踏み潰そうとする。
それに。この無意識の蹂躙が、悪意なく誰かを傷つけてしまう、彼女たちのような年頃の子どもたちを象徴しているようで。
傍観者であったならば、これほどゾクゾクする状況もなかった。
けれど当事者である男は既に、欲情を起こす余地もないほどに、狂乱していた。その心は、やがて一つのことしか繰り返さなくなっていた。
(……元に戻りたい、元に戻りたい、元に戻りたい、元に……)
野の蟻として、一生こんな風に、人間の足から逃げ続けなければならない人生。
どれだけ受け入れたくなくてもそれは、男自身が自ら選択したことだった。
4.無知
それからのことを話そう。
あの後、始業時間が近づくにつれて、下駄箱前の児童の数は少なくなっていき、男はついに絶体絶命の窮地を脱することができた。奇跡と言って良かった。
そして。男は振り落とされそうになりながら、ある女子児童の上履きのしっぽに必死に掴まって、優奈のいる教室を目指した。そうでもしなければ、上の階に行くことなど叶わないからである。
平地を歩いているときは、前後に揺られ。階段を登っている時は、上下に揺られ。嵐の海をイカダで渡っていくのにも等しい過酷な体験であった。
ただ、その間ずっと男が案じていたのは、航海上の安全などではなく、この姿を誰かに見られはしないか、ということだった。
小学生の上履きにしがみついていた、見知らぬ大人。第一印象として、これほど醜悪なものがあるだろうか?そういう第一印象をもって、この虫のように小さな生き物を見つけ、手に取ったとき、多感な時期の子どもたちがどういう行動を取るのか、想像するだけで恐ろしかった。
どうにか教室に着くと、男は上履きを離れ、机の下を駆け回り、優奈の足を探した。つまり、「佐藤」と油性ペンで書かれた上履きを、虱潰しに探したのである。授業中は児童たちの移動がなく、捜索が捗った。そして10人目あたりで、お目当ての「5-4 佐藤」と書かれた上履きを見つけることができた。しかしすぐにぬか喜びであったことに気づく。それは優奈のものでないどころか、女子のものですらなかったのである。腹いせに男はそのつま先に蹴りを入れた。すると、本当にただの偶然ではあったのだが、すぐに1000000倍のお返しがきて、男は激痛に悶えながら自身の軽率な行動を反省することとなった。
またその時に男は、優奈の所属が5年2組であったことを思い出した。知らなかったわけではもちろんなかったが、普段、男が見てきたのは学校の外の優奈であったから、クラスを意識するということはほとんどなかった。
無駄な時間を費やしてしまった。碁盤目状に並んだ机の下を縦断するように、男はそそくさと出口を目指し歩いていった。
雪わたり。みやざわけんじ、ぶん。こばやしとしや、え。ゆきがすこしこおって、だいりせきよりもかたくなり……
その時間は、2時間目、国語の授業中だった。担任の先生に当てられた子が、音読をしている声が、どこかから聞こえる。1段落読み終えると、今度は別の子が文を読み上げる。三者三様の音読を耳に流しながら、男は出口に向かって進んでいく。
途中で、上履きを脱いで、素足を晒している子を見かけた。
お日様が、真っ白に燃えてゆりのにおいをまき散らし、また雪をぎらぎら照らしました。
その時ばかりは、本来の目的も忘れて、足を止める。
上履きの踵は潰されていて、名前を見ることはできない。しかし、その子が女の子であることは、机の脇にかけられた、トートバッグやビニールの縄跳びの色を見れば明らかだった。
夏場はずっと、サンダルを履いて過ごしていたのだろうか。足の甲まで茶褐色にやけている。それだけに、紫外線を唯一免れた足裏の白さが際立つ。撥水された茶褐色に対して、しっとりとふやかしたような白。匂い立つような白。
そして、教室の床に直に触れることも厭わないらしいその足の裏には、塵や砂粒や糸屑のようなものが、ぱらぱらと付着いている。
————男は、ふらふらと近づいていく。
ちょっと見ていくだけだ、と、誰にともなく言い聞かせて。
どんな高性能のマクロレンズでも迫ることのできない世界がそこにはあった。ピクセル単位ではなく、細胞単位で組成された生の足が。手触りや、細部の色味、立てる音、におい、味。五感全てで感覚可能な、現実の小学生の、本物の足の裏が、そこにはあった。
そしてついに、男は手を触れて——舐めることさえできそうな距離にまで、近づいてしまった。
(ああ、あぁ……)
男は跪く。
自分でも、何をしているのか分からない。本当は他に考えなくちゃいけないことがあるような気がするのに、取り返しのつかないことになってしまうような予感はあるのに、何より、心に決めた優奈という相手がいるのに。目の前の足裏のことを考えただけで、何もかもがどうでも良くなってしまう。
まるで、習性まで虫になってしまったみたいに、メスの————何も知らない5年生の女の子のフェロモンに、勝手に行動を書き換えられていく。
そして、跪いたまま、抗いきれずに、男は舌をその足に伸ばした————。
じゃあ次、狭山さん。
「あ、はい。……二人は、森の近くまで来ました。大きなかしわの木は、枝もうずまるくらい立派なつららを下げて、」
————男の舌が、「狭山さん」と呼ばれたその女子児童の足に届くことはなかった。
担任の教師に指名されると、彼女は上履きを履き直し、起立して、続きの箇所から音読を始めた。
息が乱れ、汗が滝のように噴き出る。男はようやく、自分が命拾いをしたということに気づく。
「四郎が笑って言いました。きつねこんこん、きつねの子、およめがいらなきゃもちやろか。」
鎮まらない胸の鼓動。
それをよそに、音読は続く。
前の番の子までは、防災情報を伝える町内放送みたいに、風景と同化し、ずっと遠くに聞こえていた声が、この時だけばかに近くて、クリアで。
それが本当に、今自分の真上にいる彼女の声であるということを、文字通り声高に主張している。
「四郎はしんこ、かん子はかんこ、きびのだんごをおれやろか。」
足を舐めるのには失敗したはずなのに。
足を舐めようとした女の子の、音読の声を聞いているだけで。
なぜ自分はまだ、こんなにも興奮しているのだろう……。
そんなハプニングもあって、結局、5年4組の教室を離脱したのが、2時間目の終わり、つまり中休みが始まる時間だった。
児童たちの行き交いが活発になるこの時間、見つからぬよう、そして交通事故に巻き込まれぬよう、男は壁伝いに慎重に移動する。
が、ここでもやはり問題が生じた。
3組の教室が、4組の入り口を出て右隣にあったことや、同じ方向から2組の児童が歩いてくるのを見かけたことからも、2組の教室の方角にはある程度の見当がついていた。しかしその見当に従って進んでいくと、やがて見上げるような段差にぶつかってしまった。どうやらこの段差の向こうは、吹きさらしの渡り廊下になっているようで、5年2組の教室は、その先にある別の棟にあるらしいと分かった。
つまり、朝の時と同様に、誰かの上履きにコバンザメのようにひっついて、運んで行ってもらう必要があった。だが朝の時と違って、都合のいい児童を見つけるのに難儀した。なぜといえば、そもそも廊下で立ち止まっている子を見つけるのが難しいから、というのもあったし、またうっかり人選を間違えてしまうと、全く見当違いな場所に連れて行かれる危険性もあるから、慎重にならざるを得なかった。
ようやくそれらしい子にヒットしたのは、中休み終了5分前のチャイムが流れた頃だった。目論見通り、男を踵に付けたまま、彼女は渡り廊下を越えて歩いていった。つま先の方に5-2と書かれているのも確認済み。このまま揺られていれば、いよいよ優奈のいる教室に辿り着くことができるはずだった。
だが、事態はやはり男の思った通りには運ばない。
その少女は、教室に行く前に、女子トイレに立ち寄った。
男は、進行方向が変わったということ以外は、すぐに理解することができなかった。
ぱたん。
かちゃっ。
その音が、ここが女子トイレの、さらに奥の個室であるということを認識するトリガーとなった。
溝に汚れやカビのたまった、前時代的な薄桃色のタイル。四方が高い壁に覆われていて、薄暗くなった密室。繁華街の路地裏にも似た、無秩序で、不衛生で、危険な香り漂う場所に、男は迷い込む。
ぽす、という音に振り返る。黒地に白のアクセントが施されたハーフパンツが、上履きの上に被さっていた。その内側から、桃色のドット模様のついた白い布が、ちらりとはみ出しているのが見えた。
————そこが、和式トイレではなかったことが、せめてもの救いだったのかもしれない。
やがて鳴り出した、蛇口をほんのわずか緩めたような、か細い水音。
温かくて、しょっぱくて、色がついているはずの水音。
知らない子どもの、尿の音。
男はどうして、それを聞き流すことができただろうか。どうして平静を保っていられただろうか。
————その尿の温度を、臭いを、味を。その中で溺れる自分を。どうして想像せずにいられただろうか。
意識のほとんどを、少女の尿に持って行かれていた男は、その後、用を足し終えた彼女に置いて行かれてしまい。トイレの入り口にも、1人で乗り上がることのできない段差が付いていたため、男は3時間目の間、ずっとその場に取り残されることとなった。ようやく出られたのは、午前中最後の休み時間に、5年1組の女子児童が来てからのことだった(やはり、その子のおしっこの音も聞かされることになった)。
4時間目の途中。男は自らの足で、ついに5年2組の教室にたどり着いた……はずだった。
教室の入り口は、高々と聳える扉によって守られていた。スライド式扉のため、下の隙間から潜り込むという手段も見込めなかった。だがそれ以前に、扉の向こう側に人の気配を感じない。移動教室の時間だったのだろうか。
扉から外れて、男は力なく座り込む。
見上げると、対面の壁に、5年2組の児童の習字の作品が、出席番号の順に並べられていた。
十人十色の「成長」の字。習字でしか使わないようなファイルにも、どこか懐かしさを感じた。
もちろんそこには、優奈の書いた作品もあった。男子どころか、他の女子たちと比較しても、とりわけ几帳面な印象を与えるその字は、彼女の内面をよく表しているように思えた。優奈の顔が浮かんでくるようだった。
いつになったら、優奈に会えるんだろう。
彼女の顔を思い出すと、いつの間に冷たい雫が頬を伝っていた。成人してから泣いた記憶なんて無かったのに。心細くて涙が止まらない。
朝、優奈と逸れてから、5時間になる。29年生きた中で、1番密度の濃い5時間だったかもしれない。
たくさんの痛い思いをして。たくさんの苦しみを味わって。
それ以上に、たくさんの超常的な性体験をした。
いい加減に認めざるを得ない。自分も所詮、小学生であれば誰にでも発情してしまう、凡百の小児性愛者にすぎなかったのだと。
でも、だけど。
もうひとつ。ようやく分かった。
疲れ切った今の自分によしよししてくれるのは。
大変でしたね……。って言って、その指で、頭を撫でてくれる人は。そんな風にされたいのは。
世界でただ1人、優奈しかいないのだということを。
5.再会
児童たちが教室に帰ってきたのは、4時間目のチャイムが鳴ってから、3分ほど経った頃だった。
壁際で身を縮めていた男の前を、巨人の大群が通り過ぎる。一歩を踏み出せば、生死の境を彷徨う暇すら与えられず、あの世に送られてしまうように思えた。踏切の内側に立ち入るのに等しい自殺行為だった。
そして————ほんの一瞬だが、優奈が履いていたのと同じ靴下が見えたような気がした。
その時ばかりは、踏切を超えていきたい衝動と戦っていた。
給食の時間。男はついに、優奈がいるはずの5年2組の教室の中へ入ることに成功した。
配膳やら何やらで児童たちの移動もあり、今は動き出すのにはリスクがあった。
慌てることはない。あとは時間をかけてでも、優奈を見つければいいだけだ。そう自分に言い聞かせ、はやる気持ちを押さえつける。
ちょうど、男が通った後ろ側の入り口からほど近いところに、児童30余人分の牛乳を詰めこんだ、青色のプラスチックコンテナが置かれていた。今はその陰に隠れながら、配膳を終えて通り過ぎていく児童の中に、優奈の姿を探した。
1人、また1人と通り過ぎていく。地道な張り込みの間、放送委員の児童が、今日の給食の献立を読み上げていた。
さつまいもごはんと、さんまの塩焼きと、きゅうりの酢の物と、豚汁。給食のにおいが、男の空腹を煽る。ぐぅー……。
もし万が一、給食の時間中に見つけてくれたら。優奈は僕の空腹に気づいて、給食を分け与えてくれるのかな。
お盆の上、並んだ皿の内側に隠して、さんまの身を小さくちぎって、器用にお箸の先で食べさせてくれるのかな。……彼女の唾で湿ったお箸で。そういうのもいいな。ああ、早く優奈に会いたいよ。優奈……。
そんな妄想を垂れ流していると、給食の列が途切れた。
え——?もう、みんな配膳を終えた?
馬鹿な、まだ優奈を見つけられていないのに。
見逃した?いや、そんなはずは。
妄想に耽っている間も、目だけはずっと、通り過ぎる児童たちの足から切らさなかった。優奈の足ならば、一目見れば分かる。
ということはつまり、優奈はこの教室にいない?優奈が5年2組に属しているというのは、記憶違いだった————?
コンテナに背を預けて、へなへなと座り込む。
——もう、おしまいだ。自分は優奈を見つけられないまま、野垂れ死ぬ運命にあるのだと悟る。
今更、他のクラスに探しにいくような気力も残っていない。けれど、この教室に優奈がいるという可能性も、既に断たれてしまった。クラス全員が並ぶはずの配膳の列に、優奈はいなかった。それが答えだ。そう、クラス全員が————。
(いや、違う)
まだ残っていた。配膳の列に並んでいない、並ぶことのできない子たち。
まさか。
男は走る。コンテナの裏側へ。
まさか。まさか、まさかっ……!
(あ、ああ…………、)
なんでこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
コンテナの裏側。つまり、給食当番が配膳を行う場所。
そこに、探し求めていた優奈は立っていた。
授業参観に来た保護者ですら、1人の子どもの顔を、こんなにも探し求めたことがあっただろうか。
真っ白な割烹着を着た優奈。
他の子と同じ服を着ていても、一際輝いて見える。
天使が、そこにいた。
一目見ただけで、今までの苦労が全て報われたように感じられた。
まるで、男がその姿を目にするまで、ずっと待ってくれていたみたいに(そんなことは決してないのだが)、優奈はそれからすぐに割烹着を脱いで、自席へと戻っていった。
もう少しだけこの余韻に浸っていたかったが、見失わないよう、男はすぐにその後を追う。それでも歩幅の違いから、ようやく追いついたのは、総勢約30名の子どもたちによるいただきますの挨拶を聞いてから、10分経っただろうかという頃。
席の近い子同士が机を寄せ合って食べるというスタイルは、今も昔も変わらないらしい。教室には4人ずつ、計8つの島が出来上がる。
そのうちの、もっとも黒板側の入り口に近い島に、優奈はいた。
机の下は、今までに何度も通ってきた。けれど4つ集めただけに、その下に落ちる影も、1つのときよりずっと濃く、深い。
教室という活気に満ち溢れた地に伏在する、アンダーグラウンド。
その中にひしめく、何も知らない地上の子どもたちの足。
優奈の足も、漏れなくその一部だった。
手始めに、男は優奈の履く上履きを、力一杯に殴打する。
けれど、朝の時の同じで、どれだけ続けても暖簾に腕押しだった。
それも、十分に分かりきっていたこと。男にはもう一つの策があった。
(……優奈、もうすぐキミに会える。)
つま先のラバーに、男はそっとキスをする。
苦い。蓄積された、優奈の汚れの味。
その味を噛み締めて、上履きに背を向ける。
もう一つの策とは、机の脇にかけられた手提げ袋をよじ登っていくこと。机の上に登頂することができれば、いくら小さいといえど、優奈ならばきっと気づいてくれるはずだった。
麓に着いて、男はその頂を見上げる。ざっと見積もって5、60mはある。生前に勤めていたオフィスビルにも比肩する高さ。ボルダリングの経験すらない男にとって、それは無謀な挑戦にも思えた。
だが、男は何度も失敗しながら、地上からの距離を少しずつ伸ばしていく。手提げ袋は、あの朝の上履き入れと同じようにキルトの生地で仕立てられていて、ことのほか掴みやすくなっていたし、縮んだ分、生前よりも体が軽くなっているというのもあった。
だが1番の要因は、ここへきての男の目を見張るような執念だっただろう。
優奈に会いたい。ただその一心だけで、疲労や痛み、己の運動能力の限界を凌駕していた。
ごちそうさまでした、の大合唱が、不意に男の鼓膜を揺るがす。危うく手を離しかけたが、すぐに体勢を立て直し、安堵の息をつく。
崖登りも、中腹まで来た。顔を上げると、手提げ袋の口から、棒状のものが伸びているのが見える。あれは、優奈のリコーダーのケースだろうか。何にせよ、あのてっぺんまで登れば、机の上に降り立つことができそうだった。
このまま行けば、昼休みの終わりまでには優奈に会える。
長く険しい旅の終わりが見え、褌を締め直した、その時だった。
がたんっ。
————え?
突然、世界がまるごと揺さぶられて。
気づいたら、崖から手が離れていた。
既視感のある落下。そういえば、朝の昇降口でも、このくらいの高さから落ちたような気がする。
だが、暗闇からいきなり視界が開けたあの時とは違って、落ちる前と落ちる時で、見えている景色が地続きになっている。だから、さっきまで不動の景色だったはずの机が、優奈やその他の児童たちによって、次々と物として移動させられていくのが、落ちていく中ではっきりと認識できた。
自分の迂闊さを後悔しても、もう遅かった。
掃除の時間の始まりを告げる放送委員の児童の声が、無慈悲にも響き渡った。
6.ゴミ
障害物が全て取り払われて、真っさらになった大地。
揺れる荷物に振り落とされてしばらく、痛みと徒労感で動けない状態が続いた。
だが、優奈の姿が見えないことに気づくと、やがて不安がそれらを凌駕する。
広い広い砂漠の中で、たった一つの道標を失ってしまった。そういう不安が、男をやみくもに突き動かす。
「優奈?どこ?ねえ、優奈、優奈!ゆ————」
とすん。
目の前に、巨大な上履きが降って、男の行手をいやおうなしに遮る。
朝のトラウマが蘇り、男の顔が青ざめる。
ふりだしにもどる。そんなフレーズが、絶望的な響きを伴って、頭に浮かび上がる。
小さな虫けらには、震えながら、その上履きが通り過ぎるのを待つことしかできない。しかしどういうわけか、待っていてもその上履きが動かない。
後ろに、また誰かの上履きが落ちる音が響く。
目に見える範囲がすべて影につつまれ、更に暗くなる。
とても、嫌な予感がした。
前方の上履きは、未だその場を動かずにいる。まるで、男の逃げ道を、塞いでいるかのように。
————見上げると、冷たい目をした2人のにんげんの女の子が、明らかに自分を見つめていた。
はじめて、優奈以外のにんげんに見つかった。
1人は、お下げ髪の、肌の白い女の子で。
もう1人は、ボブカットに、縁の細い丸メガネをかけた女の子。
桁違いに巨大であることを除けば、平均的な容姿に、平均的な装いの、どこにでもいるような小学5年生の女子2人。
そして、男は動物的な直感的により悟る。言葉にできずとも、分かったのだ。
その2人が、小さな虫に慈悲をかけてくれるような子達ではないということを。
逃げなければならない相手であるということを。
逃げなきゃ、なのに。
散々、干渉すらできないことを嘆いたのに。
いざ見つかると、恐怖で、金縛りにあったように動けない。声も出せない。
だれか。たすけて。
ねー見て。なんか虫いるんだけどー。
うわキモっ。さっさと捨てちゃお。
うん。
耳を疑った。
それが、彼女たちよりも20年も長い人生を歩んできた自分に対する言葉だと、信じたくなかった。
だが、聞き間違いでも何でもなかったことは、前方から迫りくる絶対的脅威を見れば、嫌でも分かることだった。
「待っ、やめ、………!————」
やっと、生存本能が働き出した。けれど、走り出してから3歩も経たずして、お下げの子の持つ箒に飲み込まれる。
おわり。ゴミの意思の介在する余地など1ミクロンもなく、悲鳴をあげる暇さえ与えられず、メガネの子の構えるちりとり方に、他のゴミと一緒くたに、淡々と掃かれていくだけ。
摩擦で全身を擦りむいても、脳震盪をおこしても。にんげんが、床のゴミに対するいたわりなんて持つ道理がなかった。
朦朧とする意識の中で、地上から引き離されていく感覚だけがあった。
ちりとりに入れられたゴミの向かう場所なんて、一つに決まっていた。
傾き出した地面。その上を、死んだように転がっていく。
あはは。
ばいばーい。
踏まれそうになって、蹴り飛ばされて、振り回されて、落とされて。
度重なる苦難と絶望を耐え抜いた先に待っていたのは。
5年2組の教室の隅のゴミ箱に、ゴミとして捨てられるという結末だった。