3話-2

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7.居残り


「ふっ……ん、ぐっ、」

音のない教室に、ポリエチレンの袋がくしゃりと擦れる音がする。

縁に乗り上がると、男の体はそのまま、力なく床に落ちた。


長時間の奮闘の末に、ゴミ箱からの脱出を果たした男は、しばらく、その場を動かずに息を整えていた。あの中では、まともな空気を吸うことさえできなかった。


息が落ち着くと、男は、遥か遠くの黒板の真上にある時計を、呆然と眺める。

西の窓から差す夕陽が、閑散とした教室をオレンジ色に染める。時計の針は、4時20分を示していた。

6時間目の授業も、帰りの会も、とうに終わっている時刻だった。



あれから、ゴミというゴミが捨てられた。

鉛筆の削りかす。チョークの粉。割れてしまったプラスチックのキャップ。髪の毛。塵まみれのきゅうり。————誰のかも分からない、鼻をかんだティッシュ。

ゴミに溺れて、ようやく顔を出せたと思ったら、また新しいゴミを被らされて。

趣味でも、仕事でも、人間関係でも、何かと報われない人生だった。

それでも、人間として、最低限度の生活を保証されていたというだけで、どれだけ幸せだったのか、思い知った。



教室には、誰も残っていない。

優奈も、もう下校してしまっているだろう。とうとう自分は、彼女に気づいてもらうことができなかった。

それでも。

男は立ち上がる。

まだ、やれることがあるはずだと、ふらついた足取りで、健気にも優奈の机のある方に向かって歩いていく。

今頃、優奈は自分がいなくなってしまったことに気づいているかもしれない。

それに、児童たちは皆帰った。予想外のアクシデントも、もう起こらない。

明日の朝、机の上で待っていれば、今度こそ必ず、優奈は気づいてくれる。

そう信じ、最後の力を振り絞って、男は再び、優奈の手提げ袋を登り出した。






8.遭遇


PM4:40。

ちさとは、早足に廊下を歩いていた。


5年生になってから、学校生活が少し忙しい。

毎朝のブラスバンドの練習に加えて、今日はこの時間まで、飼育委員会の活動もあった。

うさぎ小屋の清掃をして、校内掲示用の観察記録も作成して。うさぎは可愛いけれど、ペットを飼うにはそういうしちめんどくさい作業もついて回るのだということを、先生方は教えようとしているのかもしれない。実際、その辺を理解しないままにペットを迎え、やがて世話を放棄してしまう無責任な飼い主なんて、この世にはごまんといる。


教室に戻ると、もう既に誰も残っていなかった。

こんな所に長居は無用。私も、荷物をまとめてさっさと帰ろう。

後ろのロッカーからランドセルを取り出し、机の引き出しに入れていた教科書群を片付けていた、その時のことだった。


視界の隅で、小さな点が動いているのに気づいた。隣の席の優奈の荷物に、何か付いていた。

普段なら、ただの虫だと疑わず、興味を失っていたと思う。でも、今朝パパから聞いた話が、この時にもまだ頭の中に残っていたから、もう少し注意深く見てみようという気になった。


まさかとは思った。

遠くから見ると、本当に虫にしか見えなかった。何も知らなかったら、なおさらだ。でも、近寄って見てみるとよく分かる。


ヒトだ。

あの話、本当だったんだ————。


事前に話には聞いていても、実際に目の当たりにすると、驚きを隠せない。

ただただ、その小ささに驚いたというのもあるけど。

ヒトの手脚ってこんなに細いんだ、頭ってこんなに小さいんだ、とか。通常のスケールとは、まるで見え方が違う。なんだか本当に、別の生き物を見ているみたいだった。


(……?)


優奈の手提げをよじ登っていたコビト。でも、さっきから、固まったように動かない。

顔はこっちに向けてくれないけど、私に見つかったことを、気配で察知したのだろうか。

もしかして、怖くて動けなくなっちゃったのかな?

試しに、爪の先でちょんと掻いてみると、簡単に剥がれ、反対の方の手のひらにぽとんと落ちた。

拍子抜けしてまった。だって、蟻ですらこうもあっさりと捕まえることはできない。

しばらくすると立ち上がって、きょろきょろと見回していたけれど、私と目が合う(たぶん)と、化け物を見たみたいに腰を抜かしていた。

なんだろう。私はこの時とても————ぞくぞくした。


「こんにちは」


にっこりと優しく挨拶をしてあげた。

口をぱくぱくさせて、何かを言っているみたいだったけど、全く聞きとれない。少なくとも、こんにちは、と言ってないことだけは確かだ。

面白くなってきて、私はまだ何か言ってる途中だったそのコビトを、指で摘んだ。

私の指の先で、身動きが取れなくなっている、元はヒトだったはずのコビト。

よく見てみると、大人の男の人。先生ではなさそう。こんなに若い用務員も、この学校にはいない。誰なんだろう。なんでこんなところにいたのかな?裸で。まあ、どうでもいいけど。

ピントの合うギリギリの距離まで近づけて、観察してみる。

子どもは見た目で判断できない。でも大人、特に男の人は、大抵の場合外見に生き方がそのまま現れる……と私は思っている。身近なところで言えば……ガタイがよくて、清潔感もそれなりにある私のパパは、ちょっとだらしないところもあるけど、一応人生経験を積んだ頼れる大人という感じだ。

この人はどうだろう。

冴えない顔つき。貧相な身体。汚らしい体毛。今まで何かに本気で取り組んできたことが無さそうな大人、という印象。歳を食うにつれて若い才能をやっかむようになり、成功者の足を引っ張ることしか考えなくなる、無能で、害悪な大人。その典型例みたいな人。

————つまるところ、1人消えたところで、社会にとって何の損失にもならないような存在。



ちさとは静かにほくそ笑むと、摘んでいた小人を、そのまま胸のポケットに落とした。

そして————ずっと欲しかったおもちゃを買ってもらった幼児のような気持ちで、帰路についた。






9.本心


机の前、空になったクリップケースを手にして、優奈は動揺していた。

まず、周辺の床を確かめる。それから、おそるおそる、自分の両の足の裏も。……それらしいシミはついていない。最悪の事態だけは、避けられたようだ。

次に、机に乗せていたテキストや文具などの類を全てどかして、引き出しも全部開けて、くまなく探した。

それでも、見つからない。


「ここちゃん、小人さん知らない……?」


床の上で、自由帳にお絵描きをしていた心菜に尋ねる。優奈が取り乱していることには既に気づいていたようで、聞く前から、心菜は心配した風に彼女の方を見ていた。


「え、ここ、知らないよ……」

「そう……だよね。」


表情や声色に出やすいタイプだから、心菜が嘘をついていないということは、すぐに分かった。


「こびとさん、いなくなっちゃったの?」

「うん……。お姉ちゃん、ちょっと家の中探してみる」

「ここもいっしょにさがしてもいい?」

「ありがと。それじゃ、私玄関の方探すから、リビングみてもらえる?」

「うん」




「こびとさーん、でておいでー!」

「こ、小人さーん……」


心菜に習って呼びかけてみるけれど、反応はない。

床の上。絨毯の下。屑籠。トイレの中。脱衣所。浴室。

虫眼鏡も使って、隅々まで探しているけれど、どこにも見つからない。


ふと、この間の一件で心菜が言っていたことを思い出して、優奈は自分の靴の中も確かめた。昨日履いた靴。それから念のため、今日履いて行った靴も。……もちろん、男は出てこない。代わりに、いつの間にか紛れ込んでいた、小石とも砂ともつかないような粒がぱらぱらと落ちるばかりだった。

何をやっているんだろう、とため息をついた。




「いた?」

「ううん……」

「……そう。」

「こびとさん、にげちゃったのかなあ……」

「かも、しれないね……。」


確かに、あのクリップケースには隙間が空いていたから、自力で逃げ出すことも可能ではあった。

でも、そんなことをする理由が、優奈には分からなかった。そこまで不満があるようには見えなかったから。不満じゃないとすれば、他に何か、脱走したくなるような理由が……。


(……まさか。)


優奈は部屋に戻って、中の教科書を全部出してから、ランドセルを逆さに振った。

それから、筆箱の中。連絡袋。上着のポケット。洗濯のために持ち帰った割烹着。

学校に持って行った・付けて行った物を、全部確かめた。

男が昨晩、学校に行きたがっていたことを思い出したのだ。


……それでもやはり、男は見つからなかった。

あてが外れているのであれば、それで良かった。大人の人が、まさかそんな身勝手なことをするはずがないと、信じたい気持ちもあった。

でも、もう一つ考えられるのは、学校への荷物に紛れ込んだ上で、どこかで落としてしまったという可能性。

昨日、あれだけ行きたがっていたのだ。どうして、あり得ないなどと否定することができただろう。

その場合、もう2度と見つけることはできない。ショッピングモールで迷子の妹を探すのとは、わけが違う。


(…………。)


はじめは、確かに頭を抱えた。

どうしよう、どうしよう……と。

でも、そのうちに、優奈は思い始めた。



どうして私が、こんなに悩まなければいけないんだろう。


勝手に出てきて、勝手についてきて、勝手にはぐれて。


今回ばかりは、ぜったいに私のせいじゃない。


それに————あの人がいないことで、一体何を困ることがあるというんだろう。



考えることに疲れて、それから、自分の嫌な一面を直視してしまったみたいで、妹の前であることも忘れて、優奈は塞ぎ込んでしまった。


事実、あまりに脆い、しかし人の命にはかわりないものを預かる任務は、素直な気質の11歳の少女には、いささか重荷すぎた。






10.屈服


子ども部屋の、机の上。

自分を持ち帰った少女は、頬杖をついて、こちらを見下ろしていた。

胸に付けたままの名札には、「菅谷知里」と書かれている。それが、新しい飼い主となる、この少女の名前。

両の耳の下で束ねた、目を引くような黒髪と、細い目。そして、子どもらしからぬ落ち着き払ったいずまいが特徴的な少女。後ろに見える、白と黒を基調とした家具や壁紙が、その印象をより強固なものにしている。

……そう、世にも奇妙な小人を捕まえたら、ふつうはもっとべたべたさわったり、興味深く眺めたりするものだろう。このくらいの子どもであれば、なおさらである。

だが彼女は、先程からずっと口元に薄い笑みを浮かべて、何もせず、口も開かず、ただただこちらを見下ろしているだけ。

それがどういう笑みなのか、分からない。あの時たった一言彼女が発した「こんにちは」も、どういう意味の「こんにちは」だったのか、男には全く分からない。


とにかく、自分から動かなければ話が進まない気がしたので、男は身振り手振りも合わせて、彼女に呼びかけた。

にこり。少女は、目を細めて微笑んだ。

何か伝わったのだろうか。彼女の表情の変化を目の当たりにして、男は少し安堵する。



次の瞬間、男の体は、少女の人差し指に押し潰されていた。



(え、あ…………え?)


10秒と少し経ってから、解放された。けれど、理解が追いつかず、男はその場で、ただ狼狽えていることしかできなかった。

————その、まだ状況が理解できていないという素振りすら、ちさとにとっては至高のスパイスだった。


とん……とん……とん。

人差し指が、一定のリズムで、机を鳴らしはじめる。


とん……とん……とん。

恐々と見上げると、少女はやはり頬杖をついたまま、薄い笑みを崩さない。


とん……とん……とん。

寸分の狂いもなく、ゆっくりと刻まれていくリズム。

時計の針の音にも似たそれが、何を意味しているのか、想像できなかったわけじゃない。

でも、そんなはずはないと、残された希望に縋っていた。


……とん。



拍子が止み。

男は再び、人差し指の圧に溺れる。

10秒と少し経って、また、解放される。



けほっ。おほっ。

えずきが収まって、息が落ち着くまで10秒。


とん……とん……とん……。

無慈悲に始まる、次のループへのカウントダウン。


なに、なんで、こんな。

男はまた、何もできずに狼狽えるだけ。


とん……とん……とん……。

その間も、カウントは進んでいく。


ああ、まだ分かってないんだこの人。

鈍い大人。ちさとの中で、この素性も知らぬ男に対する評価が、固まった瞬間でもあった。


……とん。



時間切れ。

ちさとは、指先で小虫をいたぶる。

ちょうど指の腹のあたりが、鳴き声で微かに振動して、気持ちいい。

ついやりすぎてしまいそうになるが、適当なタイミングで解放する。




男が息を整える。


とん……とん……とん。


「やめて、もう、やめて、死んじゃう、お願い……」

男は、カウントダウンを刻む手の、親指に働きかける。

こそばゆかったが、カウントが0になるまでは、自由に泳がせておくつもりだった。

その方が、無様に足掻く様を、じっくりと堪能できるから。


……とん。



時間切れ。

助けを求めた親指に潰される。

再び、解放。



とん……とん……とん……。

次のカウントダウンが始まる。


「いやだ、いやだ、いやだ……!!」

理不尽に耐えかねて、男は逃げ始める。

けれど、ちさとの目から見たそれは、芋虫のような速度で、もはやカウントダウンを止めるまでもなかった。


……とん。



時間切れ。

必死の逃走も虚しく、男は人差し指で潰される。

「……あ、が………っ!!」

今度は、少し力を込めて。時間も長めに。

2度と、逃げようなどと思えなくするために。


解放される。


とん……とん……とん……。

そしてまた、カウントダウンが始まって。


……とん。

潰されて。


とん……とん……とん……。

カウントダウンが始まって。


……とん。

潰されて。


何度も何度も、同じことが繰り返されて。

そして。


とん……とん……とん……。


もう、何も分からなくなった男は。


「ごめんなさい、許してください、ごめんなさい、お願いです……」


土下座して、許しを請うことしかできなくなっていた。

屈辱でもなかった。

一回り歳の離れた子どもに土下座させられるというこの状況すら俯瞰できないほどに、恐怖によって脳を支配されていたのだから。


とん……とん……とん……。


とん……とん……とん……。


とん……。



「はい、よくできました」



にこり、と微笑むちさと。

地に伏せていた頭に、温かいものが触れる。

それは、つい今まで恐怖の対象だったはずの、彼女の人差し指だった。

初めからちさとの目的は、こんな風に男を、自分から屈服させることだった。

それが済めば、痛めつける理由などなかったのである。


(あ、あ……)


確かにあの時、頭を撫でてもらいたいと願った。

でもこんな、わけのわからない、DV彼氏の抱擁みたいに、心の関節がガタガタに外れてしまうような愛撫を、望んでいたわけではなかった。





11.餌付け


服従の儀が終わると、男は、拳に収まるほどの小さなアロマ瓶の中に幽閉された。蓋をつける必要もないと思われているらしい。

冷え込み始めた10月。ガラスの表面が、触れた肌を震わせる。温かい空気も届かず、繊維の一切れも与えられず、裸で過ごすには過酷な環境。

そんな男に与えられた唯一の娯楽は、ガラスの外の、新しい飼い主さまを眺めていることだった。

暖房の効いた部屋で、温かそうな乳白色のニットのパーカーに身を包んだ彼女。小さく揺れる女の子らしい袖口。

こんな環境に置かれていると、あの袖の中に潜ったら一体、どれくらい温かいのだろう、などと考えてしまう。

そのちさとは、男には目もくれず、黙々と勉強をしている最中だった。学校の宿題を早々に片付けて、今は何か別のテキストを進めているようだった。2時間ほどずっとそうしていた。

母と思しき女性の声が夕食の時間を告げ、テキストをしまう時に、その表紙がちらりと見えた。下の方に、SAPIXという文字が書かれていた気がした。


ちさとが部屋を出ていき、それからまた机の前に戻ってきたのは、およそ1時間経った20時半頃だった。

下ろした髪の毛。パステルピンクのふわふわパジャマ。

あんな屈辱を受けた後なのに、お風呂上がり実に女の子らしいその姿に、どきどきしてしまう。

席につくと、彼女は化粧水や乳液を取り出して、スキンケアをはじめた。慣れた手つきから、彼女がそれを日課としていることが分かる。優奈も化粧品の類は持っていたが、最近の小学生は進んでいるなと、つくづく感じさせられる。

男は化粧というものが嫌いであったし、子どもであればなおさら、素のままの自分を大事にして欲しいという思いがあった。けれど、化粧をする小学生という概念に、魅力を感じているのも事実だった。



そんなちさとに阿呆のように見惚れていると、不意にその手が伸びてきて、逆さにした瓶の中から物のように出された。

いつの間にか、スキンケアは済んでいたらしい。何をされるのかと戦々恐々としていた男の前に、ちさとの人差し指が置かれる。

その指の腹に、何か付いていた。どろどろとした液状のもの。

彼女がこれで何をしようとしているのか、はじめは分からなかった。だが、傍に置かれていた容器のラベルを見て理解する。


「ベビーフード」——市販の、離乳食。


男は狼狽える。

まさか、これを食べろと言っているのか。

それも、容器に盛られたり、匙に取られたりではなく、指の先に付いているものを、犬のように舐めろ、と————。

できるはずがない。

土下座をさせられるのとは訳が違う。あくまでも、土下座は人のなすことなのだから。

けれど、そう訴えるべく、ちさとの顔を見上げると。

にこり。と、彼女はあの、悪魔の微笑みを浮かべる。

(ひ、)

悪寒が走る。

食べなきゃ、食べなきゃ。3時間前を思い出した脳が、サイレンを鳴らしている。

逆らえない。恐怖に駆り立てられ、体が勝手に動いている。

昨日まで顔も知らなかった、歳の離れた女の子に、調教されていく。


ぴちゃ、ぴちゃ。

屈辱を押し込めるようにして、ちさとの指に付いたエサを舐める。

カタツムリのフンのような、食欲をそそらない色をしている。ほうれん草とか、レバーとか、ピーマンとか、とにかく栄養価の高い食材を色々混ぜ合わせているのだろう。

嫌にぬるい。そして、不味い。

そりゃそうだ。だってこんなもの、大人の食うものじゃない。

赤ちゃんが食べるものだ。

それを、こんな風に舐めさせられて。

その始終を観察されて。面白がられて。

昨日まで、優奈と一つ屋根の下で幸せな生活を送っていたはずなのに。

一体、どこで何を間違えて、こんなことになってしまったのだろう。




ちさとの指についた離乳食は、小さじ1/3の量にも満たなかったが、それでも今の男にしてみれば、どんぶり3杯は優に超える量だった。

うち、どんぶり1杯分のところで、男の食は止まってしまった。ただでさえ食の細い男が、これ以上食べ進めるのは無理そうだった。



「お残しですか?」



その声に、身がすくみ上がる。

冷や汗が落ちる。

無駄なコミュニケーションを必要としないちさとが、口を開いた。その意味の大きさを、考えずにはいられない。

それが、疑問文ではなく命令文であるということも、当然ながら男は理解していた。


食べるしかなかった。

涙を流しながら、くそ不味い乳幼児用の餌を、食べなければならなかった。

戻しそうになっても、死ぬ気で飲み込まなければならなかった。

この高貴なる少女の、桜の花びらのように美しい指先を、自分の吐瀉物で汚してしまうようなことがあったらと、考えただけでも恐ろしかった。

そして、米粒一つ残すことも、ちさとは許さなかった。だから、最後の方は、薄くついた離乳食と一緒に、指の表面も舐めるような形だった。

ちさとの指は、ほんのりと塩気がして、離乳食よりもずっと美味しかった。与えられた餌を食べ尽くした後も、口直しにと、しばらく夢中になってその指だけをちろちろと舐めていた。

おいしい。おいしい。


そして——ちさともまた、その粗相を、何も言わずに許していた。

(んっ………、♡)

首筋に走るぞくぞくとした震えは、確かに指先のその感触のこそばゆさによるものでもあったが、そればかりではない。


ああ、どんな気持ちなんだろう。自分より一回りも二回りも歳の離れた子どもに、びくびく怯えながら、指を舐めさせられるのって……。


大人をペットとして飼育して、しつけて。それは周りの子どもたちより少し進んでいるちさとにとっても、未知の遊び。そして、これまでに経験したどんなものよりも、刺激的な遊びだった。


だって、何も悪いことなんかしてないのに。もとは普通に生きていたヒトなのに。私に捕まっちゃったばっかりに、理不尽にこんな目に遭わされて。

なんて、かわいそうなんだろう。

この人がかわいそうであればあるほど、惨めであればあるほど、ぞくぞくする。

でもまだ足りない。

もっと。ああ、もっと。かわいそうで、惨めで、情けなくてたまらない姿を、私に見せてほしい————。






12.プチプチ


ペット生活の中で、男はその飼い主の菅谷知里という少女のことを、少しずつ知っていった。


特筆すべきは、その秀才ぶりであった。

彼女は週に3度、学習塾に通っている。そしていつも、胸のポケットの中に入れて、男を連れて行く。

ポケットの中から聞いていると、その授業内容や、周りの児童たちのレベルの高さに驚かされる。実際、あの時ちらりと見た、テキストに印字されていた塾名には覚えがあった。男の記憶が正しければ、中学受験の最大手とも言われる進学塾だったはずである。

そして————繰り返し通わされるうちに、ちさとがその中においてもトップレベルに、いや、「レベル」などとぼかす必要もない程に優秀な児童であるということが、少しずつ明らかになっていく。4科目合計の偏差値が76.1、全受験者数5624人中26位。それが直近に受けたという合判模試の成績だった。

そんな成績を残しながらも、ちさとは決して慢心をしない。かといって無理もしない。大抵の中学受験の子どもたちのように、親に強制されて勉強をするのでもない。

計画は全て自分で立てる。朝は目覚まし代わりの100マス計算に始まり、予習・復習は欠かさず、夜は小学生新聞や科学誌などによる、時事情報のインプットに終わる。

瓶の内から、ちさとのそういう勤勉で自律的な生活を見せつけられると、生前の自身の、目的も計画も生産性もない自堕落な生活を思い出して死にたくなることがあった。

そういった心情すらも見透かしている彼女が、ふとしたときに向ける冷ややかにして正当な嘲笑は、どんな刃物よりも鋭く、男の身を抉るものであった。


そして、ちさとがただ勉学に秀でているというだけであったならば、まだいくらか良かった。だが、それに加えて彼女は、周りの子たちとの交友関係も良好だった。容姿も整っていて、保護者の方にも深く愛され、家庭は経済的にも恵まれていた。

極め付きは————11歳にして既に、ボーイフレンドがいたということだった。何の事前通達もなくちさとがその彼を部屋に連れてきた時には、思考が冷温停止しかけた。「大塚くん」とちさとに呼ばれていたその彼は、同じく11歳の少年で、普段は都内に住んでおり、1ヶ月に一度程度の頻度でちさとの部屋を訪ね、同じ学力と志を持つ者同士で勉強会を行っているらしい。知性とユーモアを兼ね備えた爽やかな少年で、男から見ても、ちさとにふさわしい相手だった。

瓶の中に拘束され、仲睦まじい様子を見せつけられる。目を背けても、耳を塞いでも、恋人同士の会話の声が聞こえて来る。別に、ちさとに恋愛感情を向けていたわけではない。それでも、今の男にとっては唯一絶対の飼い主である彼女が、1人の少年の女であるという現実を突きつけられ、情緒がぐちゃぐちゃに踏み躙られる。

まさしく、拷問に等しい時間だった。


才能。容姿。家庭。友人。恋人。

総括すれば、ちさとは男が手に入れられなかったものを、全て持っている少女だった。

あらゆる点において男よりも優れた、高次の存在だった。

そして————ちさとは、自分の生活圏を開示することで、作為的に、なしくずし的に、自分が低脳で、惨めで、無価値な存在であるという意識を、男に対して刷り込んでいく。

子どもが、緩衝材のプチプチを指で潰して遊ぶように。ひとつずつ、ひとつずつ、にんげんのそんげんを潰していく。



「ち、違う!優秀ったって所詮は小学生の中の話で……え、何、これが小学生の解く問題?うそだ、そんなはずは、だって、ぼくが、1問も……」

ぷちっ。


「で、でも、ぼくの方が大人で!きみはまだ子どもで、世間知らずで、挫折を知らないで、未来があって…………あれ、おとなとこどもって、どっちがえらいんだっけ……」

ぷちっ。


「な……なんだよ、なんだよっ!勘違いするな!きみが優秀なのは、生まれつき才能があって、環境に恵まれて、実家が太いおかげで、同じ条件ならぼくだって……おい、なんだ、やめろ、やめろ!やめて、お願いだから、そんな目でぼくを見ないで————」

ぷちっ。


ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。

「ああ、ああ、や、やめて、ああああぁ………」

ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。

「ちがう、ちがう、ちがうっ!!ぼくは、ぼくは、ぼくは……」

ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。

「ぼくって、ぼくって一体……ああああ無理無理無理無理無理!!!!死にたい死にたい死にたい死にたい死にたい嫌だ嫌だ嫌だ死にたい死にたい死にたい死にたいああああああああ………」

ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。ぷちっ。………



それはちさとにのみ許された、高尚で、愉快な遊び。

肉眼でも分かるくらいに、日に日に狂っていく小さな大人。その様子を眺めているだけで、たまらなくぞくぞくする。こんなに面白いことがあるだろうか。だって、普段の生活を見せてあげてるだけなのに、なんか勝手に狂っていくのだ。どんだけ中身のない人生送ってたらこうなっちゃうんだろ。かわいそうに……ああ、ダメ、かわいい、かわいい、かわいいっ……。日常生活の上では疎ましいとしか感じない低脳な大人が、蟻みたいな体で発狂している姿が、かわいくて仕方がない————。

一度この味を知ってしまったら、もう、既存の娯楽になど戻れそうになかった。





ちさとに拾われて、もう何週間経っただろう。

男の精神は崩壊しきって、もはや形も残っていなかった。


何一つ勝てない。

そんなはずがないと思いたかった。けれど、どれだけ血眼になって探しても、30年生きてきた自分が、たった10年しか生きていない女の子に勝っている点が、どこにも見つからない。どこにも。

頭脳も、精神も、地位も、幸福も、人望も————そして、今では力でさえも。ちさとに、何一つ及ばない。


暗く、深い、海の底へ沈んでいくような感覚。


その中で、男は考える。

自分の30年の人生には、一体なんの意味があったのだろう。

何のために生まれ、何のために生きてきて、何のために、今ここに存在しているのだろう。


何の目標もなく、何の努力もせず、何も為せず、守るべきものもなく、誰にも慕われず、容姿は汚く、精神は幼いままで、子どもに欲情して。


こんな自分が、生きている価値なんて、あるのだろうか。



——ありますよ。



絶望の深淵で。

ちさとの声が聞こえた気がした。

耳を溶かす、甘い甘い囁き声が。



——ほら、あるじゃないですか……お兄さんにしかできないこと。



神さまの声に聞こえた。

声のする方に向かって泳いでいく。

その先に、光が見える。

眩さに目を覆いながら、男は暗闇の出口に向かっていく————。



真っ白な光に包まれ、やがて、視界が晴れていく。

気がつけばそこは、もうすっかり見慣れてしまった、ちさとの机の上で。

いつものように、正面にはちさとが座っていて————組んだ足を机に乗せ、男の方に伸ばしていた。

視界の隅に、ちさとの脱ぎ捨てたニーソックスがあった。

にこり。とちさとが笑うのが見えた。



ああ、そうだ。



ふらふらと歩き出す。

初めて見る、ちさとの生の足の裏。

毎日のスキンケアを欠かさない綺麗好きな彼女の足の裏には、あの日教室で見た「狭山さん」のそれのように、チリやゴミなど付着していなかった。

けれど————朝の6時の登校から、夜の8時の塾の終わり。およそ14時間の拘束を耐え抜いた足の裏は、解放の悦びに火照っている。



今、やっと分かった。



踵を下にして立っていたちさとの足が、跳ね橋が下りるように、ゆっくりと傾いていく。

それまで手の届かない高みにあった足の小指が、今、男の目の前に降り立つ。

腰から上のちさとを、あのアロマ瓶の中からいつも眺めていた。何もしなければ、白の服がよく似合う、清楚で可憐で儚げな、小学5年生の少女だった。

そんな彼女の足指に、顔を寄せる。

熱気を伴った濃密な汗の臭いが、男の鼻腔と、脳を灼く。

スズランのような清楚な見た目をしているのに。

その香りは、クロバエたちを誘惑する、ラフレシアのように臭かった。



自分は、この子の奴隷になるために、生まれてきたんだ————。



男もまた、クロバエのようにその臭いに惑わされ————ちさとの足を舐める。

しょっぱくて、手の指よりも、つんとした酸味があった。

その芳醇な味わいの虜にされ、男は折り畳まれた小指の、ほんのわずかな隙間をこじ開けるようにして、潜っていく。そして、むせ返りながら、足の指の間の、指紋の溝にじんわりと滲んだ汗を舐める。場所によっては、吸って、ごくごくと飲むことさえできた。それほどまでに、足の小指の間には、汗が豊富に溜まっていた。その上、飲んでも飲んでも、新しい汗が湧き流れた。

最後の砦だったはずの自制心は、たった1人の子どもの遊びのために、砂場のお城のように崩落していく。

サウナのような暑さに、全身が蒸されて、汗が吹き出る。抜け落ちた水分と塩分を、ちさとの汗を飲んで補給する。また汗が流れて、また飲んで。

そこはまさに、永久機関だった。

よしんば脱出を果たしたとしても、忘れることができずに、また足を運んでしまう。男の存在さえその一部とした、永久機関だった。






13.影響

小人のお兄さんには感謝している。

たとえば今。塾での、国語の授業の時間中のこと。

中年の講師と、塾内で2番目に成績の良い飯島という男子児童が、「真一文字」の読みが「まいちもんじ」か「しんいちもじ」かで口論していた。


以前までの私なら、苛立ちを募らせていた所だ。

小学生レベルの漢字もまともに読めない上に、その間違えを認めることさえできないカス以下の国語講師に対して。それから、チンケな自己顕示欲を満たしたいがために、周りの生徒たちから白い目で見られていることにも気づかず、些細なことで授業の進行を妨害する、幼稚で迷惑千万な永遠の2番手くんに対しても。


けれど不思議だ。虫同士が喧嘩してると思えば腹も立たなくなる。カエルの縄張り争いの動画とか、見てて面白いけど、そんな感じ。

そして、そう思えるようになったのはもちろん、実際に虫同然になった元人間を手に入れてからのことだった。


彼らが生産性の無い口論に勤しんでいる間、私は想像する。蟻のサイズまで縮んだ彼らを、どんな風にかわいがってあげるか。

先生の方は……そうだなぁ、まずはまずはちゃんと、私が教えてあげないとね。小学一年生の「一」の漢字から。それから、目上の人間に対する言葉遣いを教えてあげよう。先生がいつも仰っている通りに……ね。

飯島くんは、いじめてあげたら、いい声で鳴いてくれそう。何かにつけて、私に張り合おうとしてくる飯島くん。純粋な私への対抗心なのか、それとも、それしか私の関心を引く方法を知らないのか。もし後者なら……遊び甲斐のあるおもちゃになってくれること間違いなしだ。


はぁ、ヤバい。誰であっても知り合いは助けてあげるとか言ってたのに、このままじゃ私、ほんとに我慢できなくなっちゃうかも。

だいたい、今日だって結局連れて来ちゃったのだ。私のかわいいかわいい奴隷ちゃんを————最近下ろしたばかりの、お気に入りのショートブーツの中に入れて。


「ちさとちゃん、そのブーツかわいいねーっ」

「あ、これ?SHEINで買ったんだ〜」


さて、問題です。授業前に、後ろの席のなぎさちゃんとこんな会話をしていた時の、ちさとちゃんの心情として正しいものを全て選びなさい。①ブーツを褒められて嬉しかった②何も知らないなぎさちゃんに、本当のことを教えてみたいという衝動と戦っていた③興味のない話題だったので適当に終わらせたかった④中で会話を聞かされているであろう小人の気持ちを想像し、ゾクゾクした……なーんて。ちなみに、正解は②と④でした。


授業中の今も、彼はブーツの中で、私の足の指をぺろぺろと舐め続けている。途中で手を止めたら……お仕置きにぱくっと、足指でその体を食べちゃう。そして、もぐもぐと、じっくり味わってあげるの。……もっとも、彼がちゃんとやってても、たまにつまみ食いしちゃうけど。

一応、名目状は、足を綺麗にしてもらうお仕事。でも、はっきり言って意味のない仕事だ。だってこの人が舐めても舐めても、私の足は汗をかき続けるんだもの。刑務所に入れられた人が穴を掘って埋めてをやらされるようなものだ。

けれど、虐待なんて言われるのは心外。だって、この人はもう、私の奴隷として奉仕している時にしか、自分の存在価値を見出せないというところにまで堕ちてしまったのだから。私に使ってもらえないと、たちまち不安や憂鬱や焦燥感といった負の感情に襲われてしまうのだ。瓶の壁に頭を打ち付けているのをみたことがある。かわいそうに……。だからこうして靴に入れて携帯して、恒常的にご奉仕できるようにしてあげてるの。優しいでしょ?

ま、私がそうさせたんだけど笑。んっくすぐったっ……てか、マジで誰なのこの人、なんで私の足舐めさせられてるの……♡あ、喧嘩そろそろ終わりそう……あーもー、みーんな私の奴隷にしちゃいたい……。



「ただいまぁ……」

その日、帰宅したのは、21時ちょっと前という頃だった。……いつもならもっと早く帰れたはずなのに、例の2人のせいで授業が長引いてしまったのだ。嫌気も差すが、3学期から大規模校に移してもらえることになっている。あと少し辛抱すればあんな講師生徒ともどもレベルの低い校舎ともオサラバだ。新しい校舎には電車で20分ほどかけて通うことになるが、まあ仕方ない。

はーぁ、疲れた……さてとっ♡

片足ずつ、ブーツを脱いでいく。

中で蒸れた足が、玄関の冷たい空気に晒されて、スースーする。生まれてこの方一度も素足履きなんてしたことがなかった私は、この感覚にまだ慣れない。

見ると、足首から下が白くなっている。黒光りするレザーのブーツに重ねると、その白さがより際立つ。汗で少しふやけてしまったらしい。……水虫の薬とか、買わないといけないかも。ちょい鬱。

そして……手のひらの上でブーツを逆さにすると、虫が1匹ぽとりと落ちた。

行く前は薄汚い肌色だったのに、今では私の足と同じ色になっちゃってる。


「ほら、起きて」


ぐったりと伸びたふりをしている小虫の体を、人差し指の爪で軽く弾く。その後しばらく待っても起き上がらないから、また爪で弾く。その次も、その次も。白くふやけた体が、少しずつ赤く腫れていくのが見える。死んでないのは分かってる。だって、綺麗な空気を吸おうとして、口をいっぱいに開けているのだから。こうしていればいつかは起きるだろう。

別に、彼が起こしてまでしたいことがあるわけでもない。でも、ご主人様の許可もなく勝手に休憩を取ろうとする奴隷には、ちゃーんとお仕置きしないとね。ああ、面白い……。苦痛に喘ぐ彼の様子が、私のストレスを癒してくれる。ほんと、この人には感謝だ。ぱちん、ぱちーん……。


「おーちさと。おかえり」

「っ!?」


心臓が飛び出る思いだった。咄嗟に、手のひらを握り締める。

声のした背後に振り向くと、トランクスとタンクトップというラフな姿で、首にタオルをかけたパパが立っていた。湯気を立てているのを見ると、風呂から上がったところのようだ。


「びっくりしたっ……ただいま、パパ」

「なんだい、そんなに驚いて。今日はずいぶん遅かったんだね」

「ま、ちょっと長引いちゃって……てかパパ、今日は珍しく早く帰れたんだ……?」

「帰れたっていうか、ここんとこずっと残業続きだったからね。上司の人に帰されちゃったんだ。今ってそういうの、色々うるさいんだよ」

「ふっ、ふーん……」

「お風呂沸いてるから、早めに入っちゃいなさい」

「はーい」


まだ、心臓がバクバク言ってる。

迂闊だった。私としたことが。

パパが帰っていたのを知らなかったとはいえ、これまで人目のつくところで小人遊びしたことなんかなかったのに。

いかに自分の中で歯止めが効かなくなっているか、よく分かった。

反省しないと——。


「ねっ、ねえパパ……」

「ん?」

「み、見た……?」

「え、何が?」

「あーいや!……ならいいの、ありがと」



パパが居間に消えていったところで、胸を撫で下ろす。

緊張のあまり、握っていた右の手の平が、ぐっしょりと湿っている。開くと、中の小人はいよいよ気を失っているようだった。



お風呂から上がって、スキンケアも済ませて。小人にいつものエサをやって。今日の分の新聞も読んで。

あとはもう寝るだけ。……なんだけど、今日は特別に、小人に「デザート」をあげてみようと思っていた。

初めての試みで、正直いって、かなりドキドキしていた。


……しかし、さっきはほんとに危ないところだった。

もし、愛娘が、米粒サイズの大人を虐めて遊んでいると知ったら、パパはどう思うだろう。……それも、人間さえ縮めてしまう縮小機の話を、知った上で。

もちろん、悲しむだろうし、叱られもするだろう。でもパパ、私に甘いから、なんだかんだ問題にはしないでくれるような気もしていた。どこの馬の骨とも知らない男の人の命なんてどうでもよくて、大事な娘の無実の方を優先しちゃう……全然ありえる話だ。


パパに、ママに、友達に、恋人に。私には、庇ってくれる人がたくさんいる。

でも、今のこの人のことは、パパも、ママも、いたのかも分からない友達も、恋人も……ましてやこの国の法律さえも、守ってくれない。

そうなった時に、いったい誰が、この人を守ってくれるというのだろう。

広い世界の中で、ただひとり虫のように小さくなってしまった、この人のことを————。



冷蔵庫から持ってきていた、練乳のチューブの蓋を回す。それこそが、これから小人にあげようと思っているデザートだ。


10月のはじめに拾って、もう1ヶ月になるのかな。エサはずっと離乳食を指につけて与え続けていた。単純に、指を舐める様が面白いのもあるけど、栄養が取れるし、固形のものはこの小ささでは食べられないだろうし、小人のエサとして理にかなっているのだ、離乳食って。簡単に死なれてしまっては困るから、その辺はちゃんと気を遣ってあげないといけない。

一応、味は毎日変えている。でも、中にはそれなりのもあるけど、基本的には不味い。だから、練乳みたいに甘くて美味しいものを舐めるのは、この人にとっては、ずいぶん久しぶりのはずだった。


そう、いつのまにか、もう11月なのだ。すっかり肌寒くなってしまったことを今、実感した。けれど、これからすることを考えると、冷たい空気に晒された私の体は、じんわりと火照っていく。

そして、胸の高鳴りを抑えながら、私は「それ」に一滴の練乳を垂らす————。




この人にも、誰かしら大事に思う人はいたはずだ。両親とか、兄弟とか、昔からの友人とか、学生時代の恩師とか……あるいは、一途に恋い慕い続けている相手とか。


でも、いずれそんな記憶も全部、私の存在によって上書きされるだろう。

なぜなら————この人のストーリーには、この先もう、永遠に、私のことしか描かれないのだから。

誰もあなたを守ってくれない。誰もあなたに気づいてくれない。誰もあなたを覚えていてくれない。

かわいそうなお兄さん。でも、大丈夫。何も不安に思わなくてもいいんだよ。

そんな世界でも。私だけは。これからもずうっと、一生、かわいがってあげるからね……。



「はぅ、んっ……!♡」



小高く膨れた乳のさきっぽに、甘く痺れるような快感が走る。

才色兼備な11歳の少女の、はじめての情事。それは、自分より一回り二回りも歳の離れた大人の男性に、乳首に滴るミルクを舐めさせる、極めて倒錯した遊戯。


手のかかる子ほど可愛いという真理を、今この瞬間、ようやく理解できたような気がしていた。穴が空いていなければ、人の愛はこぼれて、留まることができないのだ。


男を拾ってからの1ヶ月。ちさとは彼を内側から壊すことばかりを考え、実行してきた。 はじめからその後のことを考えていたわけではない。ただ、壊れていく過程を観察するのが面白かったから。それだけのことだった。


しかし、これからは時間をかけて、空っぽになったその小さな器を、自らの愛だけで満たしていこうと思った。


どれだけ歪んでいても、どれだけひとりよがりでも、それは確かに、愛と呼べるものだった。






14.真実


放課後の帰宅時。私の住む405号室の扉のすぐそばで、2人の警官と、それから大家さんが、立ち話をしているのが見えた。

何かあったのだろうか、と私は少し身構えて歩み寄っていった。


「こんにちはー……。」


私の声に、背の高い警官の人が、振り返る。

「こんにちは。あ、キミ。ひょっとしてここの部屋に住んでる子かい?」

「はい、そうですけど……」

「ちょっと聞かせて欲しいんだけど、最近、隣の部屋の人を見かけたことはあった?」


隣の部屋の人。どう答えるべきか、少し答えに詰まった。


「……いえ、最近は見てないかもです」

「最後に見たのって、いつくらいか思い出せる?」

「えっと、…………2ヶ月くらい、前だったと思います」


嘘をついた。

必要もないのに、警察の前で嘘をついてしまって、胸の鼓動が早まる。

確かに、あの人が私の前から姿を消した。

でもそれは正確には1ヶ月前のことで、もう1ヶ月間の彼のことを、私は、知っているはずだった。


警察の人たちは、どこまで知っているのだろうか。2人の目に、不審に写ってはいなかっただろうか。


「……いなくなっちゃったんですか?」


私は努めて、何も知らないふりをする。


「ああ、ちょっとねぇ。郵便受けにチラシが溜まってたんで、怪しいと思って警察の方に来てもらったら、どうもここしばらく帰ってきた形跡がないみたいなんだよ」


今度は、警察の2人に代わって、大家さんが教えてくれる。

郵便受け。そういえば、まだあの人がいた時は、ポストをチェックするように頼まれていた。

姿を消してからは、もうその必要もないだろうと思って、気にかけていなかった。そのせいで————

————そのせいで、なんだというのだろう。


「ちなみに、今日お母様って、何時頃に帰られるか分かる?」

「すみません。お母さんお夜勤で、今日は……」

「ああ、いいんだよ気にしないで!呼び止めちゃって悪かったね、ご協力ありがとう」


背の高い警官の人が、にこやかに挨拶してくれた。どうやら、変に怪しまれずに済んだらしい。

とはいえ、この場にいると、私の心が持ちそうにない。3人に会釈して、そそくさと家の中に逃げ込んでしまおう、と。

そのつもりだったのに。とあるものが目に入って、私は思わず尋ねてしまった。


「あの、それって全部縮小機ですか……?」


もう1人の、恰幅のいい警官が手に下げていたポリ袋。その中に放り込まれていたのは、私の勘違いでなければ、大量のポータブル縮小機だった。


「ああ、そうなんだよ。ちょっと部屋の中調べさせてもらったら、こんなに大量の縮小機が見つかったんだよね。お嬢ちゃん、何か知ってる?」

「——さんの、部屋から…………?」


警官が袋を持ち変えると、それだけで中の縮小機が、ガシャガシャとぶつかり合って音を立てる。一般的に、一家に一台あればいいとされているその機械が、軽く見積もっても100個は入っている。

誰がどう見たって、異常な量だった。


「……いえ、私は何も……。」

「そうだよねぇ」

「あの、すみません、それって全部持っていかれちゃうんですか?」

「あーこれはね……詳しくは言えないんだけど、ちょっとこのメーカーさんの縮小機に問題があったみたいで、回収するように言われてるんだよ」

「……」


警官の人は、事実を伏せてやんわりと伝えたつもりなのだろう。でも。

私が言葉に詰まったせいで、夕焼けに染まる廊下を、沈黙の風が通り過ぎた。

その間隙を縫うようにして、5時を告げるチャイムが、ノスタルジックな音楽を奏で出す。

間がいいのか悪いのか分からない。とにかく私は、チャイムが終わるまで、喋り出すことができなくなった。私がそうするから、気の利いた大人たちも、それに合わせてチャイムが鳴り終わるのを待った。

1分と少しの沈黙。

記憶を掘り起こすには、十分な時間だった。



「……それで……」

「……?何か言った?」

「……いえ」



あの人の部屋から発見された、異常なまでの数の縮小機。

その縮小機に生じたという、全面的な回収が必要なほどの、重大な問題。

時折見せていた、まるで、元の大きさに戻る気がないとでも言うような素振り。

そして。あの人を保護した日に見つけていながら、ずっと隠していた————抜け殻のスーツの袖の中から転がり落ちた、1台の縮小機。



全部、繋がっていく。

いや、信じたくなかっただけで、本当はいつから気づいていたのかもしれない。その証拠に、どこか冷静に、この事実を受け止めている自分がいる。



あの人は、自ら望んで小さくなったんだ。

どうしてか分からないけれど、あんな蟻みたいな体に、自ら望んで————。



「お嬢ちゃん?」


でも、それが分かったところで、もう私には関係のない話だった。