3話-3

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15.友達

翌日の放課後、早帰りの日。私は2人の友達と、いつもと違う通学路を並び歩いていた。

1人はちさと……菅谷知里。賢くて、あとちょっと口が悪い。

もう1人はうっぴぃ……内山陽菜。ミーハー。肌もちもち。ちょっとアホ。

私が転校してきた4年の頃からの、仲良し3人組。けれど5年に上がって、ちさとの受験勉強や、私の心菜のおもりなどから都合が合わないことが多く(うっぴぃはヒマみたいだけど)、こうして放課後に3人で遊ぶのは、ずいぶん久しぶりのことだった。


「ちさとの家、また大きくなった?」

うっぴぃのボケを、ちさとが華麗にスルー。ちなみに2人は、小1の頃からの付き合いだという。人懐っこいうっぴぃが、転校してきたばかりで肩身の狭かった私を気にかけてくれて、そこからちさととも仲良くなった、という流れだった。

それにしたって、ちさとの家はやっぱり大きいと思う。漫画に出てくるキザなお金持ちのお屋敷……とまでは流石に行かないけど、おしゃれで、広いお庭があって、2階建てで、ガレージが付いてて……「一度は住んでみたい」と思うような家だ。


「おじゃましまーす……」

「あら〜陽菜ちゃんも優奈ちゃんもいらっしゃい!外寒かったでしょ?入って入って〜」


玄関では、ちさとのお母さんが出迎えてくれた。美人で、若々しくて、目元のあたりがちさとにそっくり。


「ごめんねぇ、あんまり片付いてないかもだけど」

「えーめっちゃキレイ〜」

「ねー」

「そりゃ張り切って片付けてたからでしょ」

「ね、可愛くないでしょ?コイツ」

「あはは」


他愛もない話を終えると、私たちは階段を登って、2階にあるちさとの部屋に連れて行ってもらった。

ちさとの部屋もまた、綺麗に片付いている。落ち着いた家具に、落ち着いたカーテンに、落ち着いた絨毯。それに微かな、ラベンダーの香りがする。

ごちゃごちゃ散らかってる私の部屋とは大違いだ。……主に、心菜のせいだけど。


「ゆーなうちくるの久しぶりだよね」

「多分、1年ぶりくらい?うっぴぃは?」

「言うてウチもそのくらいじゃない?」

「ひーは7月に来たでしょ」

「え?そーだっけ」

「7月11日。私の漫画引き取りに来たじゃん」

「あ、そーだった!あれね全部読んだよ!」

「ホント?どうだったっ?」

「めっちゃ良かった!特に……」


漫画?と思って本棚を見やると、確かにもともとあったはずの漫画が、ほとんど辞書や参考書、それに歴史の漫画なんかに置き換わっていた。ちさとが中学受験に向けて舵を切ったのも、5年生になってからのことで、勉強の邪魔になるからと、うっぴぃに一式譲ってしまったのだろう。


それからは、お菓子やジュースをつまみながら、好きなものの話をしたり、恋バナに花を咲かせたり、ショート動画を撮ったり、わけもなくじゃれあったり……たぶん、世の中の普通の女子たちと同じように、私たちは遊んだ。

……楽しいと時間が過ぎるのが早いって、ホントだなって思う。ここ1ヶ月ほど、色々あって気分が乗らないことが多かったから、今日は久しぶりにこの3人で遊べて、本当に良かった。

そんなこと正直に伝えたら、2人とも「いきなりどうした」みたいな反応するだろうけど。




「ごめん、私ちょっとトイレ」


ちさとはそう告げて、1人部屋を出ていった。「いってら〜」と私とうっぴぃ。

ビーズやプラバンでアクセを作っている最中だった私たちは、手を動かしながらおしゃべりする。


「いいよね〜、ちさとカレシいて……」

「ね、しかもめっちゃラブラブじゃん。見た?全然そんなことないって〜の時のカオ!」

「隠してきれてなかったよね、にへーって」

「そーそーそんな感じ!」

「完璧すぎるのもつまんないとか言ってたけど、絶対照れ隠しだよねー」

「だってさーちさとがアロマとか使い出したのも、彼ピが家に遊びに来るようになったからでしょ?」

「え、そうだったんだ」

「ぜっっったいそうだって!だってまんま始めた時期かぶってるもん」

「あ、なに、本人には聞いてないの?」

「聞かない聞かない!だって、あのちさとが素直に答えると思う?」

「……ないね」

「でしょー?」


ひとしきりちさとの話題で盛り上がると、今度はうっぴぃが、どんなアロマ使ってるのか気になると言ってちさとの部屋を物色し始めたので、私は1人でアクセ作りを進めることになった。うっぴぃが置いていったアクセは、まだ作りかけではあるものの、可愛らしく飾り付けられている。ああ見えて手先が器用なのだ、彼女は。それを参考に私も飾り付けを行なっていく。


「あ、これかな。こんなに揃えちゃってー、えーと、ローズマリーでしょ、レモングラスでしょ、それから……」


アロマボトルを並べた仕切りケースを見つけて、ひとつひとつ手にとっているうっぴぃを横目に、ビーズやスパンコールを一つ一つ糸に落としていく。心菜にあげたら、喜んでくれるかな、なんて想像すると、アクセ作りはより楽しいものになる。


「え?うそ、これって……」


がちゃり。その時、ちさとがトイレから帰ってきた。

何かを言いかけていたうっぴぃが、早足にちさとに駆け寄る。

私は作業の途中だったから、あまり深くは注意せずに、2人の会話を聞いていた。


「ねーちさとっ!これどーしたの!?」

「え。あ、やば……それ、見つけちゃった?」

「ね、これってやっぱり————本物の小人なのっ!?」




かしゃんっ。

プラバンがするりと私の手を離れ、テーブルに落ちる。ビーズが糸から外れて、あちこちに散らばっていく。

うっぴぃ、今、なんて言った————?



ビーズを拾うのも忘れて、2人の方に目を向ける。

うっぴぃの視線も、ちさとの視線も、一つの場所————うっぴぃの手の中の、小さなアロマ瓶に向いている。



「うん、まあ、見ての通り————小人。本物の」



ちさとが答える。

また聞こえた。聞こえるはずのない単語が。

コビト。小人。



「すごーいっ!ね、ねっ、出してみていい?」


「ちょっ、いいけど、潰したりしないでよ!」


「わーい、小人さん出ておいで〜」



耳障りな心臓の音。どこか遠くに聞こえる、2人の会話。

けれど、聞き間違えなんかじゃない。だって、その会話が余りにも、小人という存在をはじめて目にした女の子たちのそれだったから。



「えめっちゃカワイイ〜!ウチ持って帰っていい?」


「ダメっ!私の物なんだから」



まるで物のような扱いを受けているのを聞くと、ひょっとしたら、2人が見ているのは、私が思っているのとは全く別の小人なのではないかという気さえしてくる。

それならば、どれだけ良かっただろう。



「ねーほらっ、ゆーなも来なよ!ヤバいよ、小人だって!」



呼びかけられ、いよいよ逃げ道が失われる。


「……マジ?見せて見せて!」


努めてみんなと同じように、小人を初めて見る女の子の振りをして、私は駆け寄っていく。

ヘアゴムを手首に巻いた、うっぴぃの右手。その手のひらの上には、確かに蟻と見紛うような小ささの小人がいた。

小人は、はじめ私に背を向けていて。肌の色は悪く、毛も濃く、何より生気が失われていて、本当に別人かもしれないと思ったほどだった。

けれど、私の気配を察知すると、その小人は天敵を、あるいは唯一の拠り所を見つけたように、素早くこちらに振り向いて————目が合った。


全くの別人。本当に、それならばどれだけ良かったのだろう。

けれどその時私が目にしたのは、余りにも見覚えのある、あの人の顔だった。






16.訣別


ずっと、悪夢を見ていた気がする。永遠とも思えるような悪夢を。

見えているようで、見えていない。感じているようで、感じていない。自分が生きているのかどうかさえ分からない。確かなものといえばただ一つ、ちさとという少女の存在。ちさとがその世界の全てで、その世界の全てがちさとで。いつしかそれが当たり前になっていた。悦びも、悲しみも、痛みも、意思も、思考も、言語も、愛も、全てちさとによって与えられるもので。ずっと昔から、そしてこれから先も、そんな世界の中に在り続けるものだと、疑わなくなっていた。


男は思い出した。

今ここに存在する自分のこと。この目に見えている現実世界のこと。そして————本当に、自分の全てだったものを。

一目見ただけで、何もかも思い出した。


懐かしい、優奈の顔。

その顔を拝んでいるだけで、心に立ち込めた瘴気が晴れていく。


「……う、あ……ゆ……な……ゆ、な……」


優奈の名を呼ぼうとする。しかし、悲しいことに、長いペット生活の中で、男は人語の発し方を忘れてしまっていた。


(優奈、優奈、優奈。ああ、やっと会えたね、優奈……)


心の中で、何度も、愛しいその子の名前を呼ぶ。

そう、やっと会えた。

地上から見上げることしかできなかったあの日とは違って。今自分は確かに優奈の目を見ていて。優奈も確かに自分の目を見ていて。男はついに、本当の意味で、優奈との再会を果たしたのだった。

視線の先の、乾いた唇が、おもむろに動き出す。

優奈の口から、全ての苦しみの終わりが告げられようとしている。

振り返れば、本当にたくさんの苦しみがあった。あるいはこれからも、その後遺症に苦しめられることになるのかもしれない。全てを忘れるには、男の受けた傷は、余りに深く大きかった。

でも、優奈がこうして、助けに来てくれた。今はそれだけで、胸がいっぱいだった。

そんな思いを噛み締めながら、男は、優奈の第一声を待った。




「すごいね。小人ってほんとにいるんだ。私、はじめて見た。」




(…………え?)


聞き間違えるはずもない。

まぎれもなく、優奈の声だった。

それに、一言一句聞き漏らすまいと、唇の動きまで追っていた。

すごいね。小人ってほんとにいるんだ。私、はじめて見た。と、確かに彼女は、そう言ったのだ。

冷めた笑みを、口元に浮かべながら。


(何を言ってるの?優奈……?)

その言葉が意味するところは明白だった。優奈は、まるで自分のことなどはじめから知らなかったかのように振舞っている。でも、なぜそんなことを?あとで皆の目を盗んで助けてくれるつもりなのか、あるいは……これは優奈なりの冗談、サプライズなのかもしれない。無視されて落ち込んでいるところでネタを明かす……ああ、そうだ、そうに違いない。優奈があんな風に笑ったのだって、全て冗談だから。そうだよね?ははは、人が悪いなぁ、優奈はははは、……。

もっとも、優奈が、自分に対してそんな冗談を言う子ではないということは、彼自身が1番よく分かっていたはずだった。



「ちさと、これ、どこで捕まえたの?」


「2組の教室。1ヶ月くらい前にね」



優奈の口元から、笑みがすっと消えた。

同時に、男のおめでたい仮説も、頭から消え失せた。



「へえ……。なんでそんなとこにいたんだろうね」



ごめんなさい。

声にならない声で、いつしか男は、繰り返していた。

久しぶりの再会で舞い上がっていた。どうして忘れていたのだろう。

私欲に溺れ、優奈を裏切ってしまったことを。


(ごめんなさい、もうあんなことしないから、だから。ねえ、許して、お願い、優奈……)


思えば、あの時の言いつけを守っておけば、奴隷の身分に堕ちることも、優奈に愛想を尽かされることもなかったのだ。それに気づいて、今更頭を下げたところで、彼女は取り合ってくれる素振りも見せない。

因果応報とは、まさにこのことだった。



「ねー見て見てー、私の指よりちっちゃい!」



ぼくの前に、巨大な指がかざされる。腰を抜かすぼくを見て、名も知らぬ優奈の友達が、無邪気に面白がる。

茶髪のミディアムヘアで、前髪はぱっつんの、ゆるふわ系の女の子。

そんな彼女は、ぼくをおもちゃとしか見ていない。



「お手、って言って指出したら、この子舐めてくれるよ」



今度は、別のところから、ちさとの声が聞こえる。

優奈ばかり見ていて気づかなかったけれど、今自分の立つこの場所は、体育倉庫みたいに薄暗い。にんげんが密集して出来上がるその影は、真夏日の木陰のような安らぎを与えてはくれない。子どもの体熱や、興奮混じりの吐息によって、人いきれが立ち込める。

見回せば、上も、横も、前も、後ろも、そして下も、巨大なにんげんの子どもたちで閉じられている。誰もがきっと、その景色に戦慄する。

そして、子どもたちはみな、ぼくを無視して、勝手にぼくの命運を決めていく。



「ほんと?小人さん、お手!……あれ?お手っ」


「ひーの手はやだって」


「なにそれー、ひどーいっ!」



少女たちのさざめく笑いが、雪崩のように降り注ぎ、ぼくの感情を容赦なく押し潰す。

人の目には見えない、少女たちの唾の飛沫が、ぼくにかかる。

小さくなってから、ぼくが本当に怖いと感じるようになったのは、踏み潰されることでも、蹴飛ばされることでもない。にんげんたちの非情な笑い声だ。あれを聞いていると、ノイローゼを起こしたみたいに頭が痛くなる。

今だってそうだ。みんなぼくを————そう、優奈でさえも2人に混ざって、控えめながら、小さなぼくを嗤っている。



「はい、お手」



今度は、ちさとがそう言って、ぼくの前に指を出す。

ぼくはちさとに、「お手」なんて言われたことはなかった。きっと彼女が今、気まぐれで決めたルールなのだろう。

できるはずがない。いつものエサやりの時間とは訳が違う。優奈が見ている前で、彼女の友達の指を、ペットの爬虫類みたいに舐めるなんて。

けれど、ぼくはちさとに逆らえない。ぼくはちさとの奴隷で、ちさとはぼくのご主人様なのだから。

たとえ、たった今気まぐれで作られた理不尽なルールだとしても、ぼくは従わなければならなかった。



「わーほんとに舐めてるー、かわいいーっ!やっぱりそういう風にしつけてるわけ?」


「まーね」



ちさとの指を舐めながら、ぼくはひたすらに念じていた。

優奈、助けて。優奈、助けて。優奈……。

でも、いくら呼びかけても、優奈は何も答えてくれない。

そればかりか、年相応にはしゃぐ2人をよそに、彼女はさっきから一言も発していない。

その訳を考えるのが怖かった。優奈の方を見ることができなかった。


ちさとのように屈折しても、もう1人の子のように、目に入る事象全てに遊びを見出すほど無邪気でもない彼女は、そんなぼくの姿を見て、一体何を思っただろう。


そして、これだけの醜態を晒してもなお、天はぼくをお許しにならなかった。




「ゆーなもやってみなよ!」



名も知らぬ茶髪の子の、きっと何気なく放ったであろうそのひとことが、ぼくの心をざわつかせる。



「え、私はいいよ……」



背後から聞こえる優奈の声。

ちさとの命も忘れ、ぼくは舌の動きを止める。

こうなることを、なぜ予想していなかったのだろう。

優奈に、指を舐めさせられる————?



「……んー。いや、ゆーな、ちょっとやってみて」


「えーっ、ちさとまで……?」



女子たちが軽率に外堀を埋めていくのを、黙って眺めていることしかできない。

ぼくにとっても、そしておそらくは優奈にとっても、大きな分岐点が訪れようとしている。

ぼくという踏み絵を前にして、優奈は、どちらの道を選ぶのか。

全ては、彼女の選択に委ねられる。



優奈は、2人の友達を見て、自分の右の手を見て——そして、ぼくを見た。

遠慮にも、戸惑いにも、憐憫にも取れるような表情で、僕を見て。それから。

開いていた右手の形を、おもむろに変えていく。


(……うそ、だよね?優奈……?)


優奈だって、分かっているはずだ。

本心はどうだったか分からない。それでも、表面上はいつだって、小さくなった僕のことを、大人として、人間として尊重してくれた彼女であるからこそ、分かっているはずだった。

————そんなことをすれば、ぼくたちはもう、2度と元の関係には戻れないということを。


人差し指が、ゆっくりと舞い降り、ぼくの前に着陸する。


(…………!な……なに、この指……?どうしてぼくの前に置いたの?ちがうよね?何か、別の理由があるんでしょ?ねえっ……!?)


問いかけても、指は何も答えてくれない。

鼓動が早まり、息が上がっていく。込み上げる不安に。そして、間近で見る、優奈の人差し指の美しさに。

ぼくは彼女の指に、ずっと前から恋していた。

その扇情的な指頭の輪郭の、艶光りするグロテスクな指紋の、温かな血潮を透かす指の腹の虜だった。

つまり、ぼくは優奈にそれを命じられたら、きっと従わずにはいられない。


すがるように見上げる。

優奈がぼくに、何かを告げようとしていた。


(や、やめ、て……)


やめて?

本当にそう思っているなら、ぼくは逃げ出せばよかったのだ。ちさとみたいに、ぼくを恐怖で支配する趣味は、優奈には無いはずなのだから。

結局ぼくは何も変わっていない。事故を装って、優奈の荷物に紛れたあの日から。

違うのに。ぼくはこんなの、望んでいないのに————そう言いながら、震えるぼくの両手は、優奈の指のあたたかな熱を、吸い付くようなその手触りを、言われる前から感じている。



優奈は、歳の割に礼儀正しい子だった。

それでいて大人のように、小慣れているわけでもなかった。



「あ、——さん。おはようございます」


「す、すみません。つい話に夢中になっちゃって……」


「そんな、いいんですか?こんなの、もらっちゃって……」


「いえいえ、ゼンゼンそんな……ありがとうございます」


「ほんとにごめんなさいっ、心菜がまた失礼なことをっ」


「それは、だって、いくら小さくたって、年上の方ですから……」


「ごめんなさい、こんなのしか用意できなくて……」


「……それじゃあ、おやすみなさい」




ぼくは優奈の、そんなところを愛して、いた。




そして、今。

優奈は唇を開いた。




「——お手。」




(あ、あ……)


びりびり。優奈の声が、ぼくの身体を震撼させる。

膝に力が入らなくなる。

ぼくの中の大事な何かが、音を立てて壊れていく。

控えめな笑顔でぼくを見上げる、記憶の額縁の中の優奈の写真が、炎に灼かれ消えていく。


うわべだけの礼儀ではなかった。見上げる優奈の、透徹した瞳に映るぼくは、いつだって大人だった。

そんな優奈が、「お手」と言った。

ペットに向けるようなまなざしを、ぼくに向けて。



気づけばぼくは、優奈の指を舐めていた。

優奈もそれを、黙って受け入れていた。

静まり返った空気に、欲にまみれた汚い中年男の息遣いと、唾液の濡れる音だけが聞こえていた。

あまりにも優奈の指の塩気がおいしくって、顔をうずめるようにして舐めていた。

一本一本がぼくの舌よりも大きな指紋の、溝の奥まで舐め尽くしていた。


そんなぼくを見ても、優奈はもはや、何も言ってはくれなかった。



「いいなぁ、なんかゆーなに懐いてない?そのコ」


「ね、さっきもずっとゆーなの方見てたし」


「え〜、困るんだけど……」



優奈の指を舐めながら、いつしか、ぼくは泣いていた。

それは、刹那の悦びの涙であり、永遠の哀しみの涙でもあった。






17.ばいばい

そのあとも、3人の女子たちは、ぼくを使って遊んだ。


右手から左手に、そしてまた左手にと、延々と渡らせたり。

コップに入れたリンゴジュースの中を泳がせたり。

蛍光灯の紐にしがみつくぼくに、息を吹きかけたり。

クッキーの上にぼくを乗せて、すれすれのところでかじって、食べるふりをして。

茶髪の子が、いたずらでちさとの背中にぼくを入れて、くすぐったがったちさとがまた、仕返しに茶髪の子の背中にぼくを入れて。それを見て、優奈が笑って。


(助けて、優奈、助けて……)


そんなディストピアから、優奈が救い出してくれる可能性を、ぼくはまだ健気に信じていた。




「今日ほんと、久々にみんなで遊べてよかったよ」


「ね。また来てよ、私もいい息抜きになったし」


「ねー、また3人で遊ぼ!それに今日は、すごいの見せてもらっちゃったし」


「あー、そうそう!小人のことだけど、他の子には絶対言わないでね?特にひー!」


「だいじょーぶだいじょーぶ、私めっちゃ口硬いから!」




帰り支度をする、優奈たちの姿が見える。


(————出して!出して!!)


ちさとが手に持つ瓶の中に戻されたぼくは、分厚いガラスの壁を殴りつけて、必死に呼びかけていた。

優奈が、ぼくを置いて帰ろうとしている。

分かっていた。

元の関係に戻れないことを承知で、優奈はぼくに指を舐めさせた。つまりその時点で、彼女にはもう、ぼくを連れ帰るつもりなんてなかったんだって。


(優奈!優奈!!ねえっ!!)


でもぼくは別に、ペットでもよかった。

他の子に飼われるくらいなら、優奈に飼われたかった。

他の子におもちゃになるくらいなら、優奈のおもちゃになりたかった。


(助けて!!出し……、)


言葉の途中で、ぼくは声を失ってしまう。

ガラス1枚隔てた向こう側から、優奈が、ぼくを見ていたから。


(……ゆ、優奈……)


ぼくは震えていた。何か言わなきゃいけないのに、もう時間がないのに、そのことを意識すればするほど、言葉が出なくなる。

優奈の顔を見た瞬間、彼女が何を言おうとしているのか、分かってしまったから。



「……ばいばい、小人さん」



ぼくに別れを告げると、優奈はきびすを返した。


(……っ!!待って、いかないで!優奈!)


優奈の背中が、後ろ髪が、遠ざかっていくのが見える。

小学校ではぐれてしまった、あの日と同じ光景。

————違うのは、面と向かってさよならを言われたこと。


(優奈っ!戻ってきて!ねえっ!優奈ぁ!!)


優奈の姿はもう見えない。外の階段を降りる足音が聞こえる。

去り行く愛しの少女を、追いかけることすら叶わず、破れるはずのない壁を、ただ狂ったように殴りつけることしかできない。

このときほど、自分の無力さに泣いたことはなかった。






子どもたちが去り、祭りの後のように静まり返った部屋。



「……さて、と」



ことり。1人まだ残っていた少女によって、ぼくを閉じ込める瓶は、机の上の、いつもの場所に置かれる。

そして。



「——あとでたっぷりお仕置きしてあげる」



にこり。いつものあの黒い微笑みを残して、ぼくの飼い主は、2人を追うように部屋を出ていった。


(……!ああ、あ……、)


四肢の震えが止まらない。

胸に穴が開いたような喪失感は、やがて少しずつ絶望へと変わっていく。

寂しいとか悲しいとかいうセンチメンタルな領域から、絶望的な現実世界に引き戻される。

優奈だけが最後の望みだったのに。その望みももう、完全に閉ざされてしまった。

つまり、あの悪魔の支配からぼくを救い出してくれる人間は、もうこの世界に、誰一人として存在しない。


正真正銘、ぼくは何十年と続くこれから先の一生を、ちさとの奴隷として生きていかなければならないということだった。




18.帰り道


「「おじゃましました〜」」

「じゃ、また明日、学校でね」


玄関の前で、ちさとに見送られながら、私とうっぴぃはそれぞれの帰路についた。

時刻は夕方の5時40分。あたりはもうすっかり夜に染まっていて、街灯や、家々の窓にあかりが灯っている。それに首元が肌寒い。もう、そんな季節だ。


ちさとの家から私の家までは、歩いて20分ほどの距離がある。つまり家に着くのは、6時過ぎになる。帰りが遅くなるとき、いつもなら留守番している心菜が心配で足早になるところだけど、今日はお母さんの仕事が休みだから、ゆっくり歩いて帰ろうと思っていた。

それに、もう一つの心配事も解けた。……あの人のこと。


色々と思うところはあった。でも、生きている姿を確認できて、素直に安心した。

あれでもし、拾ってたのがうっぴぃだったら、心配になるところだけど。ちさとなら私よりしっかりしているし、任せてしまって大丈夫だろう。勝手な印象ではあるけど、嫌そうにもしてなかったし。

というわけで、もうあの人のことで、私が気にすることは何もない。ようやく肩の荷が下りた気分だった。

……心菜には、ちょっと悪いことをしちゃったけれど。小人のあの人をとても気に入っていたから。せめて、今日あの子のために作ったアクセサリー、気に入ってくれるといいな。


(……あ、あれ?そういえば、私作ったやつって、どこ入れたんだっけ……)


ポケットや、ショルダーバッグをまさぐっても、探し物が見つからない。完成したあと、ラッピングしたところまでは覚えている。他の2人が、あの人と遊んでいる時のことだ。でも、それからの記憶が曖昧になっている。


(もしかして、置いてきちゃったのかも……)


少し考えて、私はちさとの家の方に引き返すことにした。






19.忘れ物


「ねえ、どういうこと?」

「ああああああああああああああああぁっ!!!!」


ぱちん。

ちさとの左の手のひらの上。

デコピンで弾かれ、断末魔を撒き散らしながら、男は激痛にのたうち回っていた。




「今日ずっと、なんでゆーなの方ばっかり見てたの?」

「ああああああああああああああああぁっ!!!!」


ぱちん。

ちさとはなおも、淡々と「お仕置き」を加える。



「全然こっち見てくれなかったよね?私、悲しかったな……」

「ああ……ああ……ああああああぁっ!!!!」


ぱちん。

丸めた左手の指の方に弾き飛ばして、ぶつかったところで、手のひらを手前に傾けて、転がして、また弾いて。

無限お仕置き機の完成。



「しつけが足りなかったのかなあ。ねえ、あなたのご主人様は誰だっけ?」

「ち……ちさっ、ちさぁあああああああぁっ!!!!」


ぱちん。

指で弾くたびに、蚊の鳴くような声をあげて吹っ飛んでいくのが爽快だった。



「ゆーな、お兄さんのこと全然相手にしてくれてなかったね」

「……ああああぁっ!!!」


ぱちん。

思えば、彼は優奈に視線を送るばかりか、隙さえあれば近づこうとしていた。全て、優奈にすげなくあしらわれていたけど。

おそらく、優奈が無害であることを、肌で感じ取ったのかもしれない。あるいは……



「もしかして、お兄さん、ゆーなのお知り合いだったとか?」

「……おごほっ、!!」


ぱちん。

あくまで、そうだったら面白い、くらいの話のつもりだったけど。

よくよく考えてみると、この人を見つけたあの日、優奈の荷物をよじ登っていたことにも、それで説明がつくのだ。

まあ、仮に事実だったとしても、別に大した知り合いではないんだろう。

本当に大事な人なら、私たちと一緒になって、おもちゃにしたりしないはずだもの。



「ゆーなは優しいから口に出さなかっただけで、ほんとはお兄さんのことなんて、ゴミ虫としか思ってないよ」

「……ち、ちが、ちがは、っ……!!………………、」


ぱちん。

親切な私は彼に、現実を教えてあげる。

2度と希望なんて持てないように。



「かわいそうに。捨てられちゃったんだよ、お兄さん」

「…………………う……………あ………………」


ぱちん。

もはや、悲鳴も上がらなくなったらしい。

——でも、私だけは見捨てないよ。

最後にそんな甘い言葉を添えて、優しく撫でてあげようと思った。




「……ちさとー、入るよ?」


(————っ!?)



唐突に、背後から声が聞こえた。

噂をすれば、とでも言うみたいに、それはあの友達の声だった。

がちゃり、とドアが開かれる。

ちさとは咄嗟に、手のひらをにぎる。


「ゆ、ゆーな……どうしたの?」

「ごめん、忘れ物しちゃって……」


ばつの悪そうな顔で、優奈が立っていた。


————また、油断していた。

パパに見られそうになった時ほどは取り乱さずに済んだものの、友達にだって、こんな趣味がバレてしまったらおしまいだ。


「……あ、あった」


優奈は、私のすぐ横を通り過ぎて、「忘れ物」を取りにいった。

それが済むと、そそくさと部屋を出ていった。


「……失礼しました。じゃ、今度こそまた明日」

「ん、ばいばいゆーな」



優奈がそっと扉をしめて、足音も消えたのを確認すると、ちさとはほっと胸を撫で下ろす。


(ホント、今度から鍵でもかけるようにしようかな……)


そんなことを考えながら、にぎっていた左手を開いた。

汗の滲んだその左手の中には、何も入っていなかった。




20.歓喜


男は、いつか小学校の廊下で、上履きに運ばれた時よりもずっと激しい揺さぶりに苦しみながら、それでも、風にはためくスカートを握る手を決して離さなかった。


(はっ、はあっ、はあっ………はは、は、ははは……!!)


笑いと呼吸の区別もつかなくなるほどに、高揚していた。

本当に、文字通り、一瞬の好機を、ぼくは掴み取ったのだ。

いつか、心菜に捕まったときみたいに、ゆるめた拳のほんのわずかな隙間から、優奈のスカートに飛び移って、ついに、ついに、ついにッ!悲願の脱走を果たしたのだ!!


(………やった……やった、やった………!!!)


優奈はちさと邸を後にし、帰り道を歩いていた。

当然、ぼくがスカートに付着していることなんて、彼女は知る由もない。

冷たく乾いた外の風が、ぼくの裸体を切り刻む。脇を通り過ぎる、自動車やバイクの排ガスにむせ返りそうになる。三半規管は撹乱され、吐瀉物が宙を舞う。何より、優奈の歩行に振り回されて、腕に千切れそうなほどの負担がかかる。

夜の帳は落ちきり、ぼくにはもはや、優奈がどこを歩いているか、あとどれほど耐え忍べばいいのかさえ分からない。

それでも堰を切ったように溢れ出るアドレナリンが、ぼくを支え続けた。


(落ちるもんか、ここまで来て、絶対に落ちるもんかッ……!!)


絶望の底を見てきたこの身に、もはや怖いものは何もない。腕が千切れようと、ぼくにはこの手を離す気なんてなかった。




それから、どれくらいの時間が経っただろうか。

朦朧とする意識の中、ぼくは、電球色のまばゆい光に包まれていた。


ただいまー。


おかえり。楽しかった?


うん。


ねぇね、おかえりー!


ただいまー。あのねぇ、今日は、ここちゃんにおみやげが……


おみやげー!


光の中は、懐かしい声で溢れていた。

散々な目に遭わされた心菜の声や、関わりの薄い優奈の母親の声すら、遠い場所で、ずっと監禁されていたぼくには、どうしようもなく懐かしかった。



ぱちり。

優奈が明かりを灯すと、ぼくの眼前に、懐かしい景色が広がっていた。

姉妹2人で使っている、木製の2段ベッド。

優奈との思い出の詰まった、電気スタンド付きの勉強机。

その脇にかかった、パステルピンクのランドセル。



(やっと、帰ってきたんだ。)


腕の力が抜けて、気づけばぼくの体は、床の上に落ちていた。


(やっと。やっと…………。)


感極まって、目頭がじんわりと熱くなる。

ラベンダーの香りも、ローズマリーの香りもしないし。

床の上は、クレヨンや自由帳の切れ端で散らばっている。

でも、ぼくはそんな部屋に、ずっと帰りたかったのだ。

優奈がいる、この部屋に。



(……もう、いいよね。優奈……)



ハート形のクッションに腰を落ち着けて、スマホを弄りだした優奈。

今日のことで、友達にメッセージを送ったりしているのかもしれない。

ぼくはそんな彼女に、とことこと近づいていく。

膝を立てて、足をぺたぺた動かして。

……スカートの中が丸見えだ。クッションよりも柔らかそうなふとももが、そのはざまで少しよれている、薄紫色の綿のショーツが、嫌でも目に入ってしまう。

さらにその脇には、燻んだ水色のニーソックスが、お行儀悪く脱ぎ捨てられている。

誰かに見られているなんて、つゆほども思っていないという感じだ。

きっと、ぼくが帰ってきたことを知ったら、優奈、びっくりするだろうな。

顔を見たら、まず、これまでの身勝手を謝ろう。

それから、愛してるって伝えたい。やっぱり、優奈はびっくりするだろうけど。


たどり着いた。優奈の脚の山麓に。

膝の頂上を超えた向こう側にある、優奈の顔はここからだと見えない。

とにかく、触って気づいてもらうしかない。幸い、さっきまでの足の動きは止まっていた。


(優奈、ぼくだよ)


ちょん、と、優奈の足の親指を、人差し指でつついてみる。

自分と、優奈の足の間に、見えないテープを張って、その外側からつつくように。

けれど、何も反応はない。繰り返してみても、同じだ。


(…………)


できれば、それで気づいて欲しかった。

おっかなびっくりに、ぼくは一歩前に、見えないテープの向こう側に立ち入った。


(……あぅ、……)


つんとした酸っぱい空気が、ぼくの鼻頭を撫でる。

かぶりを振って、何も考えないようにしながら、ぼくは足指をぺちぺちと両手で叩く。

それでも、優奈は気づかない。


(…………)


ぼくは、優奈の足の親指にだきついた。


(けほっけほっ……)


濃密な酢の香りにむせながら、蒸されるような熱を感じながら、ぼくは全身で、優奈に働きかけた。

ぼくだって、こんなことは、したくなかった。案の定、ぼくはその続きが欲しくなっている。

優奈の素足。小さくなってからはじめて目にした、優奈の素足。

ちさとに何度も舐めさせられて、女の子の足には免疫がついたと、勝手に思っていた。

においだって、ちさとのブーツの中の方がひどかったのに。

でも、やっぱり優奈は、ぼくにとって特別だった。


(ただいま、優奈……)




やがてぼくは、数メートル後方に突き飛ばされていた。




痛む後頭部を押さえながら、ぼくは体を起こす。

正面を見やると、山を作っていた2本の優奈の脚が、垂直に伸びている。

優奈が立った。

ぼくははやる気持ちで、その脚の伸びる先を目で辿った。

優奈が、ぼくを見下ろしていた。

明らかに、ぼくの存在に気づいていた。


(優奈っ!)


ぼくはうれしくて、ぴょんぴょん跳ねてアピールした。


ああ。これで、やっと全部終わったんだ。

ぼくの心の中は、多幸感や祝祭感に満ち満ちていた。

思えば、ちさとに捕まっていた間は、ずっと過去のことばかり考えていた。

どこで間違えてしまったんだろう、とか。ぼくの人生ってなんだったんだろう、とか。優奈のいた頃に戻りたい、とか。

でも、今ぼくの頭の中には、これからの希望しかない。

これから、優奈と何をしよう。

これから、優奈と何を話そう。

優奈に想いを打ち明けて、もし、付き合えることになったら。

優奈に膝枕してもらって。

優奈にお風呂に入れてもらって。

優奈と、キスをして。

優奈、と…………。



優奈は、足元の男を見て。そして。

眉をひそめて、嫌悪感を顕にした。



(え?)


男がその表情を確認できたのは、ものの数秒の間だった。

なぜなら、ものの数秒後には、男の頭上には、別のものが構えられていたのだから。

天井からの逆光によって、その美しいシルエットがはっきりと浮かび上がっていた。それは次第に男の視界を覆い尽くしていき、シェルピンクの濃淡や、しわのディティール、付着したクレヨンの粉までもが、男の目にはっきり映るまでになっていく。


似たような光景を、ぼくは覚えていた。

小さくなって、はじめて優奈と出会ったあの日。

あの日も、優奈はぼくを見て、同じように眉をひそめて、同じような行動に出たんだ。

でも、あれはぼくを虫と勘違いしていたからで。

今なら、そんなはずはないのに。

それがぼくであると、分かっているはずなのに。


ぼくは、一歩も動くことができないまま。

やがて。顔に、からだに、股に、脚に。

その重みと、熱と、やわらかさを感じながら。


————優奈の左の素足に、踏み潰されていた。