【番外編】あの子のおもちゃ-1

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1.

久しぶりに足を踏み入れたB組の教室は、深夜であることを差し引いても、まるで知らない場所のように感じられた。 

少し変わったらしい机の配置。増えた掲示板の飾り。その空気にさえ、日中の生活の残り香がまだ残っているようだった。 

ただ1人ぼくを置いて、この部屋の時間は進んでいるんだ。奥井は、そう感じずにはいられなかった。 

 

奥井宏哉おくいひろやは、高校一年生にして、いわゆる不登校という身分にあった。その理由は、新しい環境に馴染めなかったという、ごくありふれたものである。 

私立の中高一貫校で、学年の半数が中等部からの持ち上がりという構成。それ故に、奥井が入学した時点で、教室の中では既にある程度の関係性が出来上がっていた。 

加えて彼には、社交性にも、愛想にも、面白味にも欠けるところがあった。かといって何か秀でた才を持っているわけでもなかった。 

そんな者を積極的に輪の中に加えようとする、この歳の人間など、極めて稀有な存在といえるだろう。 

 

奥井は、学生服の——彼には忍び込む時でさえ学生服で来てしまうような不器用さがあった——ポケットの中から、小型の懐中電灯を取り出す。照らした先、黒板脇の掲示板の下の方に、教室の「今の」座席表が貼られている。 

その座席表に、彼の名前はなかった——が、そんな感傷に浸ることが、ここへきた目的ではない。 

明かりを消し、掲示板を後にした彼が向かったのは、月明かりが照らす窓際の一席。 

 

(森川……安純さん) 

 

机の隅をそっと撫でながら、奥井は、その持ち主のことを想った。 

 

森川安純もりかわあずみ。それは彼が、唯一この教室に残してきた未練だった。 

明るくて、優しくて、誰からも好かれる女の子。彼女の人となりを問われれば、きっとそんな答えになるだろう。 

そして彼女は——たった1人、吃りがちな奥井の声に、耳を傾けてくれた存在でもあった。 

 

手の届かない存在であることは分かっている。けれど。 

奥井はいつしか、ポケットの中に忍ばせたもう一つの物を、きゅっと握っていた。 

 

一昨日、薄暗い路地裏で偶然拾った、人体をも縮めてしまうという例の縮小機。 

拾った瞬間。ぼくの頭に、あの子の顔が浮かんでいた。 

 

——小人さんってさぁ、カワイイよね。私も飼ってみたいなあ。 

 

いつだったかあの子は、友達にそんなことを話していた。ぼくはその楽しげな声を、隣で、机に突っ伏しながら、妙にどきどきとした気持ちで聞いているしかなかったのだけれど。 

 

……そうだ。これがあれば、あの子の特別になれる。こんな、何の取り柄もないぼくだって————。 

 

 

2.

 

真夜中の教室に忍び込んで、自らを縮小して、あの子の机の下で一夜明かして。そして翌朝、見つけてもらう。それが奥井の目算だった。 

 

縮小は上手く行った。最近ネットに書き込みのあった、自己縮小用の隠しコマンドというのも問題なく適用されているらしい。今も奥井の体は学生服に包まれているし、右手には縮小機が握られたままだ。——今のサイズに合わせた大きさのそれが。 

あのコマンドが無ければ、余計な騒ぎを起こすことになっていただろう。 

 

ほんとに。ほんとに小さくなれるんだ。 

元はつま先で無意識に小突いていた机の足。それが、屋久杉のように厳然と聳え立つ光景を前にして、奥井はただ歓喜に打ち震えた。人間としての未練など、彼はとうに捨てていた。 

学校への侵入も、縮小も、全てが計画通りに運んでいる。残すは——1.6センチの小虫として、森川安純という人間に接触すること。 

 

奥井は想像する。迫り来る彼女のつま先を。 

屈託の無い笑顔を振り撒くあの子が、机の陰で、無意識に遊ばせるローファー。その表面の放つ光は、震えるほど冷たくて。起こす地響きは、まるで神様の裁きのようで。 

無事に保護してもらえるかなど、分からない。けれど今はただどうしようもなく、ぼくの世界に絶対的に君臨するあの子の姿を、この目で、仰ぎ見てみたかった。結果、彼女のその身を、自らの命で汚すことになったとしても————。 

 

————そんな風に想いを馳せていられるのが、どんなに幸福で健全な時間であったか、彼はこの時にはまだ、気づいていなかった。 

 

3.

翌朝。 

机の足の一つに身を預けて眠っていた奥井は、けたたましい地鳴りのような音で目を覚まし。 

そして、戦慄する。 

 

(……な……なんだよ、これ……) 

 

薄暗い机の下。縦横のパイプが作り出す矩形の中に、光に満ちた外の世界の光景が映し出されている。本当に映画でも見ているかのような、現実離れした光景が。 

だが、視覚情報に連動して生じる、遠近強弱、幾重にも重なり合った立体的な地響きと、物理的な重々しい振動が、決してスクリーンの中の映像などではないと教えている。 

例えるならそう。密林に生い茂った大木の数々が、個々に意思を持って、大地を往来しているかのよう————現実それらは全て、昨日まで同じ世界で生きていたはずの、人間たちの脚だった。 

奥井は、あまりに壮絶な光景に言葉を失っていた。 

彼の周囲は静かな影に守られていた。だが、机の外の光の中に一歩でも踏み出せば——その瞬間に彼の命は、シュレッダーにかけられた一枚の紙切れのごとく跡形も無くなってしまうだろう。 

ただ、そこを歩いているだけの、かつては同族だったはずの、何も知らない人間たちの足の下で。 

だが。 

実際のところ奥井の動揺は、巨大な人間の足が次々と目の前を通り過ぎていくという状況それ自体によるものではない。 

むしろそれらが、どんな人間の足であったか、ということの方が重大だった。 

 

本来この教室にいるはずの元クラスメイトであるならば、学校指定のローファーを履いているはずなのに。今ここにいる人間たちが履いた靴は、まるで———— 

 

 

(——しょ、小学生…………?) 

 

 

呆然と立ち尽くす奥井の目の前に、また1人、人間の足が踏み下ろされる。 

土汚れの染みついたゴム底の上で、安っぽい色合いのレザーがどぎつい艶を放っている。その天頂に、マジックテープのアーチがかかっているのが見えた。 

大人の乾いたセンスからは到底かけ離れた、安直な色彩感。包み隠さない汚れ。 

顔を見ずとも、その足の持ち主の歳の頃が見て取れた。 

 

ぼくのいた学校に初等部はないはずだった。ならば、間違えて近くの小学校に入ってしまったとでもいうのか? 

そんな馬鹿な。だって昨日見たのは確かに、あの学校の、あのクラスの座席表だった。 

 

不審に思い、十分な警戒を行いながら、奥井は机の外に身を乗り出す。 

そして目を向けた先————はるか前方の黒板に、その答えは書かれていた。 

 

 

『第2回 合判模試 小学六年生の部 第三試験会場』 

 

 

——つまり、こういうことである。 

ここは確かに、数ヶ月前まで奥井が過ごしていた教室だった。今日は土曜日のため、本来であれば授業が行われる日でもあった。それがこの日に限っては、中学受験生のための模試の会場となっていたため、全校休日となっていた。当然この連絡は事前に生徒たちに行っていたのだが、不登校である奥井にだけは知らされていなかったというわけである。 

 

 

(……なんだよ、それ……そんな……、) 

 

 

奥井はこの状況に分かりやすく狼狽えていた。お預けを食らった犬、などというのはいささか生易しすぎた表現だろう。今頃は、恋慕う同い年の女子の、あたたかな手のひらの上で、包み込むような慈愛を賜っているはずだったのだ。 

それがどうだろう。小学生たちが我が物顔で行き交うこの教室で、食糧や水分など一切ないこの環境で、あと2日、生き延びなければならなくなったのだ。 

子どもの足で容易に踏み潰されてしまう、この小さな体で、たった1人、孤独に。 

冷えていく、思考。 

 

 

どさっっ。 

 

 

その時。奥井の背後、遥か上空で、鈍い音が響いた。巨大な影が、彼を覆った。 

 

 

(……っ!) 

 

 

奥井は急速に現実に引き戻される。 

振り向いた先にあったのは、奥井が潜伏するこの席に着こうとする、人間の姿。 

白いミュールサンダル。細くて眩しい生脚。チェックのプリーツスカート。 

 

小学六年生の——女の子らしい。 

それも、今どきの子らしい、少し大人びたいでたちの。 

 

机の上に白いリュックサックを置いて(先程の音はこれだったらしい)、中から参考書の類を取り出しているのが見えた。 

 

そして————奥井は、目を疑う。 

 

 

(————もり、かわ……さん?) 

 

 

その少女の顔は、奥井が恋焦がれるあの森川安純の顔に、よく似ていたのだ。 

振り返れば、それに気づいてしまったことが————ぼくの、最初で最大の過ちだった。 

 

 

4.

——試験時間は50分です。終了時刻になりましたらチャイムがなりますので、解答をやめてペンを置いてください。なお、具合が悪くなったりした場合は………… 

 

 

試験監督が淡々と注意事項を読み上げたのち、チャイムの音とともに、テストは始まった。 

およそ30人の子どもたちがペンを走らせる音や、問題用紙をめくる音が、五月雨のように降り注ぐ。そんな中でも——件の少女が頭上で立てる物音は、一際大きく、近く聞こえて来た。 

 

コンコンコンコンコンコン————。 

 

 

子どもたち全員の意識が答案用紙に向いている今がチャンスだと思い、奥井は再び机の陰を飛び出す。そして、死角の外に立ち、顔を上げた。 

 

——やっぱり、よく似ている。 

 

問題用紙に視線を下ろすあの少女の凛々しい表情が、この位置からはよく見える。何かと不便な小さな体も、この時ばかりは都合が良かった。 

 

もちろん、森川安純本人であるはずはなかった。周囲の子供たちに違わず、小学生の身体つきをしていたし、肩の上で二つに結んだ髪型なども本人とは異なっている。 

けれど、その目を惹くような黒髪や、細かな顔立ちなどは、まさしく安純を見ているようだった。 

 

————だから、なんだっていうんだ。 

 

奥井はかぶりを振った。自分自身を牽制するかのように。 

確かに安純に似てはいる————けれど、相手はまだ小学六年生の、幼い子どもなのだ。 

 

 

 

5.

小さくなってから気づいたことがある。 

それはこの世界が、人の起こす小さな現象と、その音で溢れかえっているのだということ。 

 

誰かが椅子を引くと、まるで巨大な鋭爪で大地を抉ったかのような音が、耳をつんざき 、足元を揺るがす。 

どこかで聞こえる咳払いは、空中で弾ける花火のよう。 

鼻水を啜る音、虫刺されを掻く音、シャーペンの芯が折れる音でさえ、無意識下に置くことはできない。 

 

机の下に戻った奥井は、ずっとそんなことを考えていた。 

それは受動的に起こされた思考でもあったし、同時にある一つの事柄から目を逸らすために、その思考に自ら迎合していったというのもあった。 

ぼくはずっと耐えていたのだ。だがそれは少しでも小突けば崩れてしまう、あってないような均衡だった。 

 

そんな時、背後で何か重い物が、地面に叩きつけられるような音が聞こえた。 

消しゴムが落ちた音だと、振り返って、すぐに理解した。 

落ちた方向。距離。それはきっと、あの子の消しゴム。 

考えてしまって、ぼくは、首を振る。 

 

……ずん……ずん、ずん。ずんっっ! 

 

息着く間もなく、奥井の前に1人の人間が立ち塞がった。 

スラックスに、ビジネスシューズ。子どもばかりのこの空間にあって異質に見える、大人の、男性の足。 

机に隠れていれば、その脅威に晒されることはない。だが、冷たい秩序の光を放つそのエナメルの革靴は、ぼくという秩序から外れた存在そのものを否定するかのようで、恐怖よりも先に、ゾワゾワとした緊張が走る。 

一体その足がなぜ、この机の前に立ち止まったのか、奥井にはわからなかった。 

 

 

——すみません、消しゴム落としちゃって。 

 

 

声がした。 

慎むような、少女の声が、ぼくの世界を包んだ。 

鈴のように清楚で、心地よいその声に、ぼくは上空へと攫われていく消しゴムを目で追うのも忘れるくらいに、心を奪われていた。 

 

 

——ありがとうございますっ。 

 

 

それからすぐ、試験監督と思しき男性の足は去って行き、机の下の静寂は再び取り戻された。 

けれど奥井の心は、いつまでもあの声の残響に囚われたままだった。 

 

はじめてその少女の輪郭を見た。声という確たる輪郭を。 

その瞬間から、奥井の中で、抽象的な巨人から具体的な個人へと変貌していく。 

 

そのことを、意識しはじめたからだろうか——背後から、こつん、こつんと冷たい音が聞こえた。 

振り向いた先に、少女の、足があった。 

努めて、目に入れないようにしていたものだった。 

見て、しまったのだ。少女のたった一声に、勝手に惑わされて。 

 

音を立てているのは、その足が纏うミュールサンダルで。 

こつん、こつん、こつん。 

その音を聞いていると、ぼくはなぜだか。 

こつん、こつん、こつん。 

じりじりと。 

こつん、こつん、こつん。 

変な気持ちになる。 

こつん、こつん、こつん。 

起きがけに見た、あの実に子どもらしい、遊び心に満ちた意匠の運動靴とは違う。彼女の履くミュールは、どちらかといえば、あの試験監督が履いていた革靴のように——正当な大人を想起させる。 

こつん、こつん、こつん。 

数十秒前に聞いた、あの鈴のような声を思い出す。 

清らかで、軽やかで——けれどその奥に、金属の冷たさを秘めている。 

きっとそれが、この少女の本質なのだろうと、奥井は疑わなかった。周囲の子どもたちよりも大人びていて——それ故に、侮蔑や嫌悪といった感情を腹の底に抱えている。 

安純とは違う。安純はどちらかといえば天真爛漫な性質で、そんな彼女の足に、きっとこんなミュールは似合わないだろう。 

それなのに——。 

 

こつん、こつん、こつん。 

 

(————何を、) 

 

ぼくの足が、前に、進み出していた。 

 

こつん。 

 

だめだ。いけない。引き返せ。 

そう思っているのに、まるで脳と切り離されたかのように、ぼくの足は進んでいく。 

 

こつん。 

 

少女のつまさきは、気まぐれに音を奏でる。 

淡々としたリズムかと思えば——今はぼくの、ふらふらとした歩みに合わせて、あの音を刻んでいる。 

まるで、ぼくを待ち受けているみたいに。 

 

こつん。 

 

自分を客観視するのが恐ろしかった。 

真剣に問題と向き合っている、中学受験生の女子児童。 

その足元に、ふらふらと吸い寄せられていく自分の姿。 

 

こつん——。 

 

音が、もう、こんなにも近い。 

踏み込んで分かる、その音の、重さと厚み。 

 

こつん————。 

 

つま先が少し浮いた、その下の隙間ですら、もう、ぼくの上背を優に越している。 

優美なミュールの、黒々と汚れた底が覗く。 

いたいけな少女像とは似つかないその禍々しさに、ぞくり、と背筋が粟立つ。 

片想いの相手に似た、名も知らぬ小学生の靴底で、眼中にも置かれず、冷徹に、ゴミのように踏み躙られる——そんな、数歩先にある未来を想像して。 

 

(……っ!) 

 

奥井の足が止まった。 

間近で目にしたその靴底に、デフォルメされていた「死」を垣間見たような気がして。脳内が急速に冷やされていくのが分かった。 

 

(……、何やってるんだ、ぼくは、) 

 

奥井はひとりごちた。 

数秒前までの、命知らずな自分を咎める意味で?確かに、それもあった。けれど。 

 

足が動かない。 

動いて、いない? 

 

この期に及んで——ぼくはまだ、逃げようとしていない。 

むしろ———— 

 

 

(——え?) 

 

 

突風に、ぶわりと、髪が乱れた。 

気づけば目の前から、見ていたはずの景色が忽然と消えていた。 

何が起きたか分からず、ぼくはおろおろと狼狽えるしかなかった。 

いや、違う。それは嘘だ。 

巨大なブランコが、大気を攪拌かくはんするような頭上の音に、ぼくは気づいていた。 

その周期に合わせて、ぱらぱらと降り注ぐ、塵のような何かにも。 

でも、どこかでまだ、楽観的に捉えていたのかもしれない。 

 

 

————ズゴンッッ。 

 

 

その時何が起きたかといえば、児童の小さな靴が一足、床の上に転がったと言う、たったそれだけのことだった。 

けれど今のぼくにとっては、10トンは軽々と越すであろう巨大重機が、鼻先をかすめて、突如として目の前に墜落したのに等しい出来事だった。 

 

(あ。え……?いま。ぼく、死んで、) 

 

空っぽのミュールの、クリーム色のソールの面が、ぼくの視界を覆っていた。腕を少し動かせば、ベルトの角が、こつりと触れた。 

あと一歩分、ずれていたら。 

身体中から、じわり、じわりと汗が滲み出ていく。 

逃げなきゃ。 

砕けた腰を引きずって、ぼくは無様に後ずさっていく。 

 

気が変になりそうだった。 

巨大なものが落ちたのだ。それも、高層ビルの100階くらいの高さから。 

ぼくが生きていた世界の物理法則に置き換えれば、それは災害級の破壊を伴う現象のはずなのに、落ちたものも、落ちた先の地面も、まるで何事もなかったような顔をしていて。 

ぼくだけが現実に取り残されていて。あるいは、ぼくだけが異常で。 

気が変になりそうだった。けれど、そんな余裕さえぼくには与えられていなかった。 

 

そして、事態はそれだけにとどまらなかった。 

 

正確ではないものの、何か強烈な違和感を、ぼくは感じ取っていた。 

目の前の巨大なミュールは、地面に打ち付けられたきり、動かない。目にはそう見えているのに、ぼくは何か、今もそのミュールが動き続けていて、しかも、少しずつぼくに迫ってきているような気配を感じていたのだ。 

上を見上げて、ぼくは初めて、その気配の正体を理解した。 

灯台下暗しという言葉を思い出した。小さなぼくには、動かない支点の部分しか見えていなかったのだ。 

ぼくにソールを向けて横たわっていたミュールは、接地面を支点として、上空で、手前に、後ろに、揺れていた。ぐら、ぐら。ぐらん。少しずつ、確実に、その揺れは大きなものになってきていて————。 

 

(あ、あぁ、あ……!) 

 

どすん。 

 

間一髪————あと少し気づくのが遅れれば、ぼくは、目の前で倒れたミュールの、下敷きになっていた。 

知らない子の、脱いだ履き物の下で、無様に死んでいたのだ。 

全身から、どっと汗が噴き出す。 

 

だが、これはまだ、彼を待ち受ける苦難のほんの序の口に過ぎなかった。 

 

ず、ずず——。 

 

(え?) 

 

居眠り運転のブルドーザーのように。 

逆さにひっくり返ったまま、ミュールが、おもむろに、奥井に迫り始めていた。 

 

 

 

 

 

 

6.

コンコンコンコン。 

かぽっ。かぽっ。 

 

少女は問題を解きながら、脱ぎ捨てた履き物を、無意識に足で弄んでいた。 

転がしたり、引きずったり、持ち上げたり、傾けたり。 

決して行儀が良いとは言えない仕草。でも。 

(……、) 

誰も見ていない。気にしない。 

試験中のこの時間だからこそできることだった。 

「……、——て!」 

大問3の旅人算の問題を解き終えて、大問4の確率の問題へ。 

文章をしっかり読み込んで情報を整理しなければならない問題。 

コン……。 

動いていた手が止まる。 

反対に、足の動きは無意識のうちに早まっていく。 

かぽっかぽっかぽっ。 

 

「——めて!たすけて!しぬ、しぬっ!」 

 

軽快で、リズミカルな靴の音はしかし、筆記の音に紛れる程度の、些細なものだった。 

誰も見ていない。気にしない。 

まして、そんな音にさえかき消されてしまうほどの小さな叫びなど、誰の耳にも届かない。 

 

 

「いっ……、あ、え、待って!ねえ、く、くるな!————」 

 

……コンコンコン。 

かぽっ。かぽっ。 

自身の足すさびによって、脅かされる命があることに、少女は気づかぬまま、問題を解き進める。 

 

 

 

 

7.

(……っ、……はぁっ、……はあっ、) 

 

どのくらいの時間逃げ惑っていたのだろう。 

体力は尽き果て、地べたに這いつくばり、ただひたすらに呼吸を繰り返していた。 

なぜ自分は生きているのか分からなかった。本当に生きているのかどうかさえ怪しかった。 

何度も轢かれかけた。何度も潰されそうになった。 

策なんて何もなかった。ただ必死に逃げて逃げて。けれどその先には、安息なんてなくて、もう片方の絶望が待っているだけで。 

昔にやった「鳥かご」の遊びみたいだった。運動神経の悪いぼくは、いつもみじめな思いで、取れるはずのないボールを追いかけていた。みんなは遊びのつもりで。ぼくばかりが必死で。見知らぬ子どもの靴に追い回される気持ちは、あの時の惨めな気持ちに、とてもよく似ていた。 

こんな気持ちを味わうために、小さくなったのだろうか。 

鳥かごから逃れ、呼吸が整っていくのにつれて、じわりじわりと後悔や絶望、孤独といった感情がぼくの心を侵食し始める。 

 

——逃げよう。 

 

やがて、そう思い至った。こんな所にい続けたら、命どころか精神さえ保たない。少しでも遠いところへ。人のいない安全なところへ行きたかった。 

 

立ち上がり、光差す机の外へ、一歩を踏み出したその直後。 

ギギィッッ。 

何か金属音とも破裂音とも取れない異音が、ぼくの耳を刺した。 

前の席に座っていた児童が、椅子を後ろに引いた音だった。 

その子にしてみれば、ただの気まぐれによるものだったのだろう。椅子を引いた後、前に伸ばしていた足を後ろに組み直したのも、同じ、ほんの気まぐれにすぎない。 

 

けれど、その時ぼくは見てしまった。 

大量生産された安物の靴の、必然的に入り組んだゴム底の、つま先のあたりの位置に、まるで特異点のように現れた偶然的な灰色の塊——潰されたガム。 

どこの誰とも知らない人間の口から吐き捨てられてから、きっと何度も踏みつけられてきたのであろうそのガムらしきものは、黒ずみ、均され、固められ、もはや少女の靴底の一部として吸収されつつあった。 

そして、その中心に——まるで琥珀に閉じ込められた虫のような、小さくて黒い何かが貼り付いているのを! 

 

(こ……これっ、これって………) 

 

本当に小さな、注意して見なければ気付けないようなシルエットだった。 

けれど、ぼくには分かってしまった。 

小さな子供靴にこびりついたガムの、さらにその下で、何度もな何度も踏み躙られ、ただの黒々としたゴミにしか見えなくなってしまったそれが——わずかに、ヒトの形を残しているのが。 

 

 

 

(!!ウッ、…………!) 

 

びちゃびちゃびちゃびちゃっ。 

腹の底から大挙して押し寄せてきた吐瀉物が、出口をこじ開けて、土石流のように床に落ちた。 

一度出し切ったと思っても、第二波、第三波が込み上げてきて、同じようにびちゃびちゃと落ちた。これまでのストレスを溜め込んできたダムが、一気に決壊したかのようだった。 

 

(……、はあっ、はあっ、はあっ、……!) 

 

胃の中が全て空っぽになってしまったような違和感。 

口内の粘っこい酸味が不快で、すぐにでも洗い流してしまいたかった。 

 

この身の脆さは、分かっているつもりだった。引きこもっていた頃だって、被縮小者の死亡事故のネットニュースが目に入ってくることは何度かあった。 

けれど今思い知った。人間に踏み潰されて死ぬということの、本当の意味を、ぼくは何も分かっていなかった。 

憲法によって生きるためのあらゆる権利が保障され、知能や社会性、自立した意思を持ち合わせた人間が、それまでの人生の痕跡を一切残さず、比喩表現などではない「ゴミ」に変えられてしまうということ。 

そして————その尊き命を殺めた本人は、そのことを自覚もせずに、空調の聴いた部屋で、きっとママに言われて仕方なく、退屈な試験を受けている。 

 

靴の裏は、もう見えない。組んだ足は戻され、解けない問題に当たったのか、ゆさゆさと貧乏ゆすりをしているのが見える。 

断続的に、つま先にかかる体重。 

その下には、あの人間だったはずのゴミが敷かれているはずだ。 

けれど児童は、そんなことになど気づかぬまま、踏み躙る。踏み躙る。 

 

(や、やめっ、もうやめて……、) 

 

彼がどんな人だったのか、どんな経緯で小さくなったかさえ知らない。でも、もうこんなのは見たくなかった。 

もはや断末魔どころか、肉の潰れる音さえ聞こえない。 

それなのに、まだ足りないというのか、ほんのわずかに残った人の形さえ消し去ろうというのか、なおも執拗に行われる蹂躙。 

それもたかが、小学校の算数の問題で頭を悩ませるついでに。 

頭が。おかしくなる。 

 

(あ、あ……) 

 

ぐちゃ、ぐちゃ、と、聞こえないはずの音が幻聴として聞こえてくる。 

きっとこんな風に、今日もどこかで、誰かの尊い命が、自分の靴さえ変えない子どもの、その親に買ってもらった靴の下で、ゴミのように潰れるのだろう。 

明日も、明後日も。 

そしていずれは、自分も。 

 

(……狂ってる、狂ってる、狂ってる……) 

 

 

カチカチカチカチカチカチ……。 

ぼくはいつしか取り出していた、縮小機のスクリーンの一点を、壊れた機械のように連打していた。 

縮小対象を示すテキストと、その横にある「復元」のボタン。 

そのボタンは、本来の緑色を失い、半透明に薄れ、何度押したところで2度と反応することはない。その意味するところは、誰の目にも明らかだった。 

目眩がしてくる。 

それでもぼくはボタンを押し続ける。 

ゆっくりとぼくの心を侵食し始めた、「2度と戻れない」という絶望から目を背けるためだけに。 

 

————ぺたっ。 

 

その時、ぼくの背後で、やわらかな音が鳴った。 

 

 

8.

彼女がこの席に着いてから、ずっと意識させられていたものがあった。 

はじめて彼女がミュールを履いているのを見た時、なぜよりにもよってそんなものを履いてきてしまったのかと、ぼくは嘆いた。 

空っぽのミュールに追い回される時も、なぜそれが空っぽなのかをずっと考えていた。 

そのミュールがゼロ距離の近さに落ちてきた時も、ソールにべったりと付着した無数の紋様と、ほんのりと鼻先をかすめたにおいに、どきまぎさせられるばかりだった。 

 

だから、振り向く前から、本当は分かっていたのだ。 

ぼくが聞いたその音が————少女が、素足を床につけた音であったと。 

 

 

……コンコンコンコンコンコン 

 

水の底にいた時のように、意識から遠のいていた鉛筆の音が、不意に意識され始める。 

試験も中盤に差し掛かったからか、それは一層強く、速く、重なりを増していく。 

まるで何かへと、ぼくを急かすように。 

コンコンコンコンコンコンコ 

(うるさい) 

コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコ 

(黙れ、黙れっ) 

コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン 

耐えきれず、ぼくは耳を抑えた。けれどそれもおかまいなしに音の洪水はぼくの脳みそをかき回してくる。教室内30数人の児童たちがよってたかってぼくの精神を鉛筆一本で弄ぶ。うるさいうるさいうるさい黙れ黙れ黙れ黙れ、 

 

その時、少女の足の指がほんのわずかに動くのが目に映った。 

くに。くに。 

その様子に意識を向けた途端、ぼくの耳から、ふっと耳障りな鉛筆の音が遠のいたのが分かった。 

駐車場のネコがアクビでもするような、ゆったりとした仕草。音の波が寄せては返す教室の中で、彼女の足の周りだけ、ゆるやかな時が流れているように見えた。 

 

破滅へと誘う歯車が、狂々くるくると回り始める。 

 

————蓄積されたストレスでおかしくなっていたのか、ぼくはそこに「救い」を見出してしまった。 

 

 

 

(…………、) 

 

くに。くに。 

足の親指が、また、柔軟に動いている。 

母なるものの手招きか、怪物の舌舐めずりか。 

——否、ただの一人の女子の、無意識の仕草。 

ぼくはそれに、まんまと誘き寄せられていく。 

 

(……あれだけ、苦しんだんだよ?ねえ、いいじゃん、ご褒美に、ちょっとくらい……) 

 

「ご褒美」という言葉を用いることに、何の疑いも抱いていない。 

恐ろしいことだった。 

せめてもう一度、あのミュールで追い立ててくれれば、それが引き返す理由になっていたかもしれない。 

でも今やそれは脱ぎ捨てられ、物言わず傍に転がっているばかり。 

あれほど優美で、色香を纏っていたはずのミュールは、こうしていると、まるで出しっぱなしのおもちゃのようだった。 

そして、見せかけの大人の鎧を脱ぎ捨てた素足もまた————まぎれもなく、未成熟な児童のそれだった。 

 

くにっ。 

 

(……っ) 

 

華奢で。 

無垢で。 

無自覚で。 

 

(……子どもだ。ほんとうに、子どもなんだ。) 

 

片思いの相手によく似た、小学六年生の女の子。 

そんな子の裸足に、邪な気持ちを持って近づこうとしている。 

ぼくのような高校生の男子が、無知さと非力さにつけ込み、児童相手にそういう行いを働こうとするのは、一般的には許されざる行為であるとされている。 

でも、次第にそれが本当にいけないことなのか、近づけば近づくほどに、分からなくなってくる。 

たかが子どもの足。離れていたときは、確かにそう見えていたはずなのに。 

いつのまにかぼくは、彼女の足首を見上げ。 

足の甲を見上げ。 

足指の爪を見上げていて。 

 

————ぐ、にっ。 

 

猫の毛繕いのように愛らしかったはずのその仕草を、いつのまにかぼくは、巨龍の昇降を前にした時のような気持ちで見上げさせられていた。 

 

(……これが、これが) 

ほんとうに、子どもの足? 

 

足指のひとつひとつに感じる、ずっしりとした重み。 

鋼のように強靭な足の爪。 

親指と人差し指が擦れるあの瞬間に、いったいどれほどの膂力がかかっているというのか。仮に人間の尺度で1キログラムの力がかかっているとしたら、100キロ?……いや、1000000キロ、1000トン? 

もちろん、1トンどころか100キロの圧力さえ、生まれてこのかた、受けたことはなかった。 

 

————ぐ、ぐ。 

 

今、ぼくが前にしているのは、法によって手厚く保護されなければならない、か弱い児童のはずで。 

ぼくはそんな児童を、力と狡猾さで汚そうとする、悪い大人のはずなのに。 

 

————ぎゅ、う、ぅ。 

 

構図が、常識が、歪んでいる。あの2つの肉の継ぎ目のように。 

 

(ああぁ……) 

 

勝てるはずがない。 

それなのに。 

そう思えば思うほどに。 

なぜぼくの胸は、こんなにも高鳴っていくのか。 

 

————とすっ。 

 

足の親指が起こした風が、湿度の高い、脂のような癖のあるにおいを乗せて、ふわりとぼくを煽った。 

あの子の、足のにおいだ。 

きつくはない。蒸した芋のような、やわらかで、マイルドなにおい。 

それが分かってしまうところまで、ぼくは、引き寄せられてしまったのだ。 

もっと嗅いでみたいと思って————気づいたらぼくは、その足の前で跪いて、犬のように、鼻を近づけていた。 

 

すん。 

 

直に嗅いだそのにおいは、たしかにかわらず、鼻溶けのよい、やわらかなものではあったけど、その奥に、酸味に近い、芯のようなものがあった。その芯が、嗅いだ後もしばらく、後味として残っていた。 

すん。すん。 

たった一度嗅いだだけで、ぼくは、そのにおいの虜になってしまっていた。 

すん。すん。すん。 

吸えば吸うほど、頭の中がくらくらする。 

くさい、というのも少し違う。たとえば人は、ゴムのにおいを嗅いで「臭い」というだろうか。「良いにおい」とも言うだろうか。 

そんな、どちらにも属さない、独特なにおい。 

それが、安純と同じ顔をしたあの女子児童の、右足の、人差し指のにおいだった。 

すん。すん。すん。すん。 

 

こうしてにおいを嗅いでいる間にも、隣では、あの親指の仕草が行われていた。 

変な話だけれど、それには何か、校庭の喧騒の裏で情事に勤しむような背徳感があった。 

あの親指が、もしぼくを見つけたら。そのスリルが、一層ぼくを昂らせる。 

 

(触ってみたら、どんな感じなのだろう) 

 

それは高揚と好奇心からの、ほんの軽はずみな思いつきだった。 

思えば、ぼくはまだ一度も、この小さな身で、人間のからだに触れていない。 

目の前の足の指が、柔らかいのか、硬いのか、それすら知らないのだ。 

 

(……触ってみたい。) 

 

想像するほどに、心臓がどくどくと鼓動する。 

リスクは分かっている。 

気づかれるかもしれない。 

勝手知ったる仲ならまだしも、相手は、知らない女の子だ。それも、まだ小学生の。ぼくは高校生で。無知という免罪符は、もうとっくに使えない年齢で。いや、それ以前に、相手は、ふつうの人間で、ぼくは、虫で。人間に気づかれたら。見つかったら。捕まったら。 

でも、少しなら。ほんの、少しなら。きっと、大丈夫。大丈夫。大丈夫……。 

 

(……ほんの、少しだけ——) 

 

ぼくはそっと、オジギソウをつつくような手つきで、目の前の足の指に触れた。 

 

 

 

ぴくり。 

 

 

少女の足指が、雷鳴のように震えた。 

 

(っ、あ————) 

 

 

その瞬間、全ての音が止まった気がした。 

 

頭上で忙しなく鉛筆を走らせる音も、隣で足指が擦れる音も、遠くの空調の音も、すべてが、ピタリと止んだように感じられた。 

 

まるで、押してはいけないスイッチを押してしまったかのように。 

世界の真理が、大いなる意識が全て、よってたかって小虫1匹に向けられたかのように。 

 

(あっあ……、) 

 

奥井はそれが恐ろしくなった。 

体が、凍りついたように固まった。 

 

 

(き、きづっ、気づか、……) 

 

はやく次の行動を考えなければいけないのに。 

頭が真っ白になって、なにも考えられない。 

 

 

(捕ま。殺され。え?は、は……) 

 

最前見た、「ガムについたゴミ」の姿が鮮明にフラッシュバックされる。 

そして、今はぼく自身の体が、恐怖というガムに絡め取られ、身動きが取れなくなっている。 

恐怖が強くなればなるほど、ガムは粘り気を増し、目の前の少女の素足は、ぐんぐんと大きくなっていく。 

止まらない。 

ガムの沼に溺れ、アリからノミへ、ダニへ、そして———— 

 

(……!ごめんなさい、ごめんなさい、たすけて————) 

 

空が、人の足の形をした黒い影に飲まれていく。 

大気がうなりをあげる。 

世界の終末を思わせる光景の前に、もうガムに抗うことさえできない。 

黒い影はそんなぼくを置いて、みるみるうちに大きくなる。落ちてくるのを眺めているのに、まるでぼくの方が死という遥かなる谷底に向かって頭から落ちていくようだった。体が内外両方から強く締め付けられるような切迫感。逆立つ体毛。早まる呼吸。裏返る眼球。死が迫る。1000メートル、100メートル、10メートル———— 

 

(……!!あ、あ、あ————) 

 

 

瞬間、意識が途絶えた。 

 

 

9.

 しかし、数秒ののち、何事もなかったようにぼくの世界は取り戻された。 

 

(え……?) 

 

手のひらを確かめる。ぼくのからだに異常はない。ぼくを縛り付けていたガムもない。 

横に目をやる。少女の足。変わらないスケール感。距離感。 

全て、恐怖の見せた幻だったのだ。 

 

(……たす、かっ、た?) 

 

奥井は安堵の息をついた。 

次第に耳に蘇る鉛筆の音。あれほど胸をざわつかせたその音も、今は彼を安心させた。間違えなく現実の音だった。 

——コンコン、コンコン…… 

入り乱れる音の粒の中で、ひとつだけ近く、確かな形をもって男の耳に聞こえる音。これは、天井の向こうの、あの少女の鉛筆の音に違いなかった。 

何事もなかったように、問題を解き進める少女の、鉛筆の音。 

 

(……もしかして、気づかれてなかったのかな) 

 

あの一瞬、ぼくが触れたはずの、足の人差し指。 

ぴくり、と震えたような気がしたけれど、今思えばあれすら錯覚だったのかもしれない。 

ぼくはまた近づいて、こわごわと、同じ場所に指先で触れてみる。 

反応はない。 

今度は少し大胆に、手のひら全体で触れてみる。 

反応はない。 

 

(……あたたかい) 

 

人肌の温かさに、久々に触れた気がする。理不尽に翻弄され、疲弊しきった心に沁みる温もりだった。 

触り心地は、柔らかいとも硬いとも言えない、たとえば葡萄の果実や、イルカの皮膚のような……キュッという感じ。 

ただ、なんとなく、触っていたくなる、不思議な感触だった。 

——気づけばぼくは、両腕を広げて、全身でその足指の感触を求めていた。 

 

(あ、や、やばい……こんなことしたら今度こそ気づかれちゃう、でも……) 

 

全身で触れると、ただ指先で触れた時には無かった違和感を覚える。 

右手の指を一本ずつ離そうとすると、ぺりり、とまるでシールでも剥がすような音が鳴る。かすかな吸着性。ウェットな質感。ペタペタと床を鳴らしながら走り回る、子どもの裸足に特有の性質だった。 

ぺりり。ぺりり。何度も手を触れては、離し、その感触を確かめる。 

なんだよ、これ……。 

ぺりり。 

あぁ……。 

ぺりり。 

ぼくはとっくにおかしかった。 

それが当たり前の礼儀であるかのごとく、全身を纏う衣服を脱ぎ捨て、甘えん坊の子どものように飛びついた。 

少女の足の指は、そんなぼくを拒まない。 

胸板に、腹部に、下半身に、じんわりと温かな体温が、溶け出すように伝わってくる。餅のように吸いつく感触が、ぼくの皮膚を直接、優しく刺激する。寒々とした外気に晒された背部の寂しさが、まるでスイカに対するふた振りの塩のように、その優しい刺激をより一層引き立てる。 

いつしか、ぼくは床を蹴って、頭頂からつま先まで、少女の足の指にその身を委ねていた。 

 

目を閉じて、壁に耳を預けてみると、音が聞こえてくる。 

少女の血流の音。ぼくが泳げてしまいそうなほどの量の血が流れ行く音。ゆったりと力強い、巨人の、いや人間の子どもの、生命活動の音。 

そこに重なる、ぼくの小さな心臓が鳴らす音は、まるでアマゾン川の川岸に打ち上げられた小魚がぴちぴちと跳ねているかのような音だった。 

小さくて取るに足らない、しかし当人の尺度では、ばくばくと、大河の氾濫に等しい胸の鼓動だった。 

 

危険な橋を渡っている自覚はあった。もし今、少女が足を浮かせたら、ぼくも一緒に攫われてしまう。逃げ場のない空中。言い逃れできない状況。 

このまま見つかったらどうなるかくらい、想像がつく。足の指に、知らない男の人が裸でくっついている。そんな状況に、思春期の女子が何を思うかくらい、ぼくにだって分かる。 

けれど、離れられなかった。というよりも離れられない。 

軽く腕を動かそうとしただけでは、もう、剥がれない。剥がれなきゃ、まずいのに、そんなのどうでもいいくらいにどきどきする。足の裏にぱらぱらとついたゴミと、ぼくは同じだ。そう考えると、ますますどきどきする。こんなとき、引きこもっていた時なら、ぼくはおちんちんを触っていた。でも、できない、張りついちゃって、そんなこともできないんだ、ぼくは。 

起こったこの気持ちを、ぼくはどう処理していいか分からず、ほとんど本能的に————、ぺとぺとと瑞々しいその足指に、舌を伸ばし、舐めた。 

ちろり。 

薄桃色の、丸みを帯びた子どもの足指に、汚れた舌が這った。 

舌先に残る、ほんのりとした塩気。しっとりとした舌触り。 

それに、他人の皮膚の、妙な生ぬるさ。 

ぬぶり。ぬぶり。はぁ。 

それからはほとんど、彫刻刀で木材を削るのに等しい舐め方だった。箸を使うことを知らず、顔だけを動かす、獣のような舐め方だった。 

(……もう、見つかってもいいや……) 

いつしかぼくは思考を放棄していた。 

そんなはずがないのに。その先には破滅しかないのに。 

今この場の快楽を享受できれば、それでよかった。 

 

けれど結局、ぼくが自重によって自然に剥がれるまでの間も、気づかれることはなかった。 

そして。 

気付かれないと分かると————もっと、奥に進んでみたくなった。 

 

 

 

10.

ひとしきり活動を終えた少女の親指は、隣で、眠ったように動かなくなっていた。 

近づいても、触れても、反応はない。けれど、いつまた動き出したっておかしくはない。 

奥井はちらりと横を見る。 

視線の先に、裏道が通じている。狭くて、仄暗く、3歩先より奥はもう見えない。危険な香り漂う————少女の、足指の溝。 

奥井は、引きこもっていた時に触った、ダンジョンゲームのステージを思い出していた。奥の宝箱に釣られ、足を踏み入れると、両側の壁が迫ってきて、冒険者を容赦なく押し潰す——そんな見え透いたギミック。誰がこんなのに引っ掛かるのだと、その時は呆れ半分にプレイしていたのを覚えている。 

そんな彼が今——同じ罠に、自ら足を踏み入れようとしている。冒険心ではない、もっと別の、邪な衝動に駆られて。 

 

一歩目。 

 

音を立てないようにつま先を置く。 

かかとをつけるよりも先に、顎から一滴の汗が落ちた。 

何かが起きるような気配はない。 

 

二歩目。 

 

視野角180度全てが少女の足に包まれる。 

ぼくはここで初めて「入った」のだと思った。 

 

三歩目。 

 

ボトルネックのように道幅が狭まってきている。 

既に、麻紐のように細い体をもってしても、肩を縮めて歩かなければならないほど。 

誤って壁に肩を擦ってしまうのが、何より恐ろしかった。 

 

四歩目。 

 

引き返す最後のチャンスだった。 

ここから先、もしあの女子児童が、気まぐれに足指を擦りでもしたら——。 

心臓がばくばくと脈打つのが聞こえる。 

 

五歩目。 

 

暗闇の奥に、数粒の煌めきが見えた。 

その煌めきの正体が、ぼくには分かっていた。 

うまく呼吸ができなくなっていた。 

 

六歩目。 

 

空気が変わったのが分かった。 

意思を持ったようにまとわりついてくる空気に、ぼくは抗うすべを持たなかった。 

 

七歩目。 

 

目が慣れてくる。 

およそ、可愛らしい子どもが作り出しているとは思えない光景がそこにはあった。 

表のすべすべとした肌とは違う、ごわごわと目の荒い肌が閉塞的に続いていて、松明に薄く照らされた地下牢の様な妖しい雰囲気があった。 

 

八歩目。 

 

ぼくは歩きながら、机の下から一度見上げただけの、あの子の顔を思い出していた。 

ぼくに優しくしてくれた同級生によく似た、綺麗な顔と、目の前に映るこの世の最下層のような景色を交互に見比べて、ぼくは一人でときめきを感じていた。 

 

九歩目。 

 

道が少しひらける。 

いよいよだ。 

あとはもう、進んでいくだけ。 

 

十歩目。 

十一歩目。 

十二歩目。 

 

——道はそこで、行き止まりになっていた。 

遠目にきらきらと光って見えたのは、その岩壁の隙間から滲み出る湧き水だった。 

それを見た途端、意識の外にあった口の渇きが急速に思い出された。ぼくがあの時舐めたのは果実の皮に等しい。ぼくが本当に望んでいた搾りたての果汁はここにこそあった。 

 

じゅぶ。 

 

ぼくは犬のように跪いて、半ば啜るようにその果汁を————小学生女子の、足の指の股に滲んだ汗を舐めた。 

 

(…………。) 

 

ぼくはその一口目を、確かめるように味わった。 

美味しいか、といえば分からなかった。 

ぼくの頭に第一に浮かんだ感想は————「すごい」だった。 

 

(……っ、……っ、……っ。) 

 

例えるならそれは、強烈な酒とか、麻薬を飲んでいる感覚に近かった。喉よりも脳に流れ込み、内側からぼくを溶かしていくような——そんな味。 

口の中に微かに残っていた嘔吐のねばっこく嫌な後味さえ、一瞬にして洗い流し、ぼくの味蕾を支配する。 

 

(……すごい。すごい、すごいっ!!) 

 

生まれて初めて味わう、見知らぬ女の子の、足の指の味。 

澱のように立ち込める、あの子の足のにおいに、ぼくは酔いしれる。 

今、この状況。もし、あの子に見つかったら。 

それだけじゃない。もし、この子を大切に育ててきた、ご両親に知られたら。同じ教室で試験を受けている、他の子たちに知られたら。 

くらくらする。どきどきする。ばくばくする。じんじんする。 

本来流れてはいけない量の血液が、本来あってはならない速さで、ぼくの中を駆け巡っている。 

まるで自分が爆弾になってしまったようだった。爆発寸前の爆弾も、きっとこんな風に、自分が生まれてきた意味を知るのだろう。 

 

布団の中で閉じこもっていたら、絶対にこんな感覚は味わえない。 

やっぱり、ぼくの決断は間違いじゃなかったと、ぼくは初めて心の底から思えた。 

 

この時のぼくは、五感全てを舌と鼻に集中させて、無我夢中であの子の足の指を感じていた。 

けれどある時に、ぼくの集中を乱す違和感が、下半身に芽生え始めているのを知覚する。 

目をやると、熱く煮えたぎる蝋が、ぼくという蝋燭の先端からボタボタと溶け出していた。 

 

ぼくはその出どころに手を伸ばして、いつものように鎮めようとした。 

けれど、触れる寸前で手が止まる。 

脳裏に、恐ろしいアイデアがよぎった。 

 

(……もしかして、) 

 

運動をやめたこの瞬間も、ぼくの情欲は、噴射口からぼたぼたと溢れている。さっきかおあずけを食らっていただけに、無理もなかった。 

鎮まるどころか、まるで意思を持ったように隆起し————バキバキに充血した眼で、一点を固く凝視していた。 

 

(だっ、だめ、だめだ。だめっ……) 

 

口が震えて、ぼくは自分の頭の中の恐ろしい考えを、満足に否定することすらできなかった。 

ぼくは深呼吸して落ち着こうとした。 

すうぅ。 

(っ!、けほっけほっ……!) 

鼻の奥で、吸い込んだ空気が弾けた。 

頭の中に、あのにおいが広がっていく。くるしいはずなのに、どうしようもなく心地がいい。喫煙者もこんな気分でニコチンを吸うのだろうか。 

ぐらついた足元に、はずみで飛び散った、数滴の不発弾が映る。神聖な学舎に、本来生じるはずのない汚れ。ぼくは取り憑かれたようにその汚れを見つめ————そして今一度、少女の足指の肉壁に目を戻した。 

たち塞がる堅牢な障壁。今のぼくがどうこうできるなんて、思い上がりも甚だしい話に思える。けれどそれは同時に————無防備な、ひとりの少女の素肌にすぎない。 

 

(————、) 

 

あの子のにおいが、ぼくの思考に介入する。わずかに残った理性さえ奪われたぼくは、操られるように、足指の秘部に手をかける。 

そして。 

 

(……っ) 

 

————ぼくは、越えたはいけない一線を越える。 

奉仕でも、遊戯でも、なんでもない。一切の言い訳の余地も無い、衝動任せの、一方的な猥褻行為。 

少女の目を盗んで、ぼくはその未成熟な足の指とセックスをする。 

 

(……はっ、はっ、はっ、はっ、) 

 

はじめて数秒で、ぼくはその身を焦がすような快楽に溺れていた。 

先っちょが、ぬるぬると汗に濡れて、きめの細かい皮膚に擦れるその感触はさることながら、生きた体温とちんちんで触れ合うのが、こんなに素晴らしいことだったなんて、ぼくは知らなかった。 

でも、それだけじゃない。 

ぼくみたいな生きている価値のない人間の、汚物同然のチンポを、きっと毎日真面目に受験勉強に励んでいる、前途洋々なお嬢様の、汚れを知らないおみ足に、押し当て、擦り付ける。 

こんな痛快なことが、ほかにあるだろうか。 

学校に通っていた頃の彼といえば、同性にはナヨナヨして不愉快だと爪弾きにされ、異性には汚物のように扱われ、男性としての自尊心を傷つけられてばかりだった。恋慕の情を寄せるあの森川安純という同級生に、マザーテレサが弱者に向けるような慈愛を受けた時でさえ、彼は自分が惨めに思えてくることがあった。 

だがこの時、奥井は生まれて初めて、自分がオスであることを実感し、ひび割れた自尊心が満たされていく感覚を味わっていた。 

肉食獣のように猛々しく、非力な雌鹿を屈服させ、自分色に汚していく。 

これは少女に対する支配であり、同時に自分を軽んじてきた全ての人間に対する復讐でもあった。 

ぼくのことを内心で見下していた女子たちに対して。最後までぼくを救ってあげるべきかわいそうな存在としてしか見ていなかった安純に対して。ぼくのような弱者には到底掴むことのできない幸せをいくつも味わってきたのであろう、この娘の両親に対して。そして、自分がいかに恵まれているかなど自覚もせずに、ぬくぬくと育ってきたのであろうこの娘に対して。 

(はっ……ははっ、ハハハハッ!) 

面白くて仕方がなかった。 

熱く滾る肉棒に感情を乗せて、強く押しつけるほどに、気持ちよかった。 

もうあの頃の弱い自分はいない。 

俯瞰すれば、その姿が尺取り虫の裸踊りにしか見えなかったとしても、彼は本気でそう信じていた。 

そうして、間も無く———— 

 

びゅくっ、びゅくくっ、びゅくるるっ! 

 

11.

 寸刻前までの熱狂が、嘘のように静まり返る。 

 

阿呆のようにへたり込むぼく。 

ぽたぽたと残滓を落とす蛇口。 

そして————目の前でだらりと垂れ落ちる、どろどろ濁った、ぼくの内なる汚れ。 

 

(……は、はは。やっちゃった……) 

 

手の震えが遅れてやってくる。 

孤独な自慰の後では決して得ることのできない充足感がそこにはあった。 

己の心血を注いだ絵画の完成を見た画家はこんな気持ちになるのだろうか。 

あるいは、完全犯罪を成し遂げた後の犯罪者か。 

 

こうして、ぼくが事後の余韻に浸っている間にも、ぼくの内なる汚れは、どろりどろりと、下に向かって、壁面を侵食していた。 

未だ洞窟の中の景色のように見えてならないそれは、確かにぼくが今朝一目見た、いたいけな少女の、貴い素肌のはずだった。 

 

(やってやった……) 

 

別に、彼女に対して悪感情を持っていたわけではなかった。けれど、ぼくの心は言いようもない清々しさで満たされていた。どんな方向性であろうとそれは、大胆なことをやってのけた成功体験からくる充足感に違いなかった。 

確かにこの身体のせいで、何度も恐ろしい目にあった。その度に自分の選択を後悔したのも確かだった。 

けれど、悪いことばかりではないと、今ならはっきりと言える。 

不法侵入だって。女子児童への猥褻行為だって。 

煩わしい他人の目にも、法にさえも縛られずに、本能の赴くままに、自分のやりたいことをなんだってやれて。その先で目に入るもの、触れるもの全てが未知で、超常的で。 

まるで全てをリセットして、幼児期に——実の親さえ怖くて、積み木遊びすら面白かった、あの幼児期に戻ったような、そんな感覚だった。 

 

(なんて素晴らしい気分だろう) 

 

没頭できるほど好きなことも、将来の展望もなく、自分の世界に閉じこもって死んだように生きる毎日の中で、知らず知らずのうちに錆び付かせていた感情。それが、今になって動き出している。 

頭の中に、次々と、やりたいことのアイデアが浮かんでくる。 

 

いてもたってもいられず、ぼくは来た道を振り返る。 

狭くて薄暗い足指の小径の向こう側から、白い光が差し込んでいた。 

眩さに少しだけ目を覆う。 

でも、あの光の向こうに、ぼくの知らない世界が広がっている。そう思うと、ぼくの脚は自然、動いていた。 

 

ああ、外に出たら、どんなことをしよう。そうだ、他の女の子の足も見てみたい。サンダルを履いている子はいるかな。いや、運動靴でもいい。靴下のにおいも嗅いでみたい。穴が空いてたら中に入れちゃったりして。大丈夫。何をしても気づかれなかった。きっとぼくが小さすぎるからだ。すごい、小さいっていいな、小さいって最高。ああ、はやく、もっと、もっと————。 

 

16年の人生で失いかけていた未来への希望を、もう一度胸に抱えて、ぼくは駆け出して行く————。 

 

 

ぎゅっ。 

 

 

希望へと続く扉は、一瞬にして閉ざされ、2度とぼくの前で開くことはなかった。