【番外編】あの子のおもちゃ-2

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12.

試験監督のバイトなどというのも暇なものである。 

割りが良いという理由だけで応募してみたが、スマホをいじることなどもできないから、することといえば意味もなく教室をぶらついたり、受験生たちの細かい仕草や表情をぼーっと眺めているくらい。実に退屈な仕事だ。 

(ふあぁ……、) 

出かかったあくびを慌てて噛み潰す。 

誰かに聞かれはしなかったかと、教室を見回したが、児童たちは皆目の前の問題に集中していて、たかが試験監督のあくびなど意にも介していないようだった。 

大した子たちだ。と彼は思う。退屈を感じ始めてから10分くらい、教壇の正面の子の問題用紙を少し覗いていたが、中には現役大学生の彼でも解けるかどうかという問題も何問かあった。 

(俺が小学生の頃なんて、宿題忘れて先生に怒られてばっかりだったもんなぁ) 

なんてしみじみと思い出しながら、教室の中を眺めていると、1人の児童の手が上がった。 

 

「すみません。お腹痛くなっちゃって。お手洗いに」 

 

用件を聞きに向かうと、その女子は小さく答えた。 

顔を見て思い出したが、開始直後に消しゴムを落としていた子だった。 

 

「答案回収しちゃうけど、大丈夫?」 

「はい、大丈夫です。」 

 

解答用紙を回収すると、その子はツカツカと早足で教室を出ていった。 

教壇へ戻りしな、腕時計にちらりと目をやると、時刻はまだ試験終了の15分前を示している。 

(大丈夫って……) 

あまりよくないとは思いつつ、裏返しで貰った解答用紙をこっそりと返す。 

見ると、確かに解答欄は全て埋まっている。式まで書く必要のある問題も、彼の見る限りでは特に破綻などは無さそうであった。 

(へえ、大したもんだなあ) 

消しゴムを拾った時にも、大人びているというか、小学生ながら「デキる女」という印象を受けた。秀才とか、才色兼備とか、そういう言葉が似合いそうな子だった。 

(ああいう子が、模試の順位表の上位に載ってたりするんだろうな) 

と、彼は何気なく解答用紙の氏名欄に目をやった。 

菅谷知里、と整った字で書かれていた。 

 

 

13.

あの後。 

何の前触れもなく、窮屈な暗闇に囚われたぼくは、半狂乱をおこしながら、見えない壁を闇雲に殴り、訴えた。 

「出して!!出して!!出してっ!!!」 

その熱や、においに包まれながらではあったが、それがなくても、今自分が叩いている壁が、つい寸刻前に汚したあの足指であることは分かっていた。 

強く殴れば、気づかれてしまうこともわかっていた。 

だが、骨がみしみしと軋む音と、上下左右の激しい揺れを前に、なりふり構ってはいられなかった。 

さらに言えば。 

奥井は、そのうちに悟っていたのだ。 

既に、少女が気づいているということを。 

気づいた上で、この足指の間に閉じ込めているのだと。 

だから、奥井の殴打は次第に勢いを弱めていった。 

今、この瞬間よりも、この暗闇が開けた先に待っている展開の方が、よほど絶望的であることを、じわりじわりと理解していったからだった。 

 

(あ、ぁ…………) 

 

そうして、連れてこられたのが、この場所だった。 

 

(あぁ……あ………!) 

 

震える脚で後退っていく。足の裏に伝わる、未知の感触と、生温かい温度が恐ろしかった。 

どこまでも続いているかのように思える大地。しかし、正体を知らずとも、ぼくが自らの置かれた状況を理解するには十分すぎるほどの景色が、その、地平線の向こうにあった。 

————ヒトの、子どもの顔が、見下ろしていた。 

いうまでもなくそれは、ぼくが惹かれ、近づき、汚した、あの女子児童の顔。 

今やそれは、まるで世界に終焉をもたらす星のように、巨大で、手の届かない、絶望を体現する存在だった。 

 

(……っ、……っ!!) 

 

——足元に立ったというだけで、愚かにも、ぼくは人の巨大さを理解したつもりになっていたのかもしれない。 

対面して、初めて思い知る。 

大きさどころか、もはや、棲む次元が違うのだということ。 

なぜ。ぼくは一瞬でも、こんな化け物を、支配できるなどと思ってしまったのだろう。 

 

「————っ、」 

 

何かを伝えなければならないと思った。 

なのに、重圧で、口がうまく動かない。 

そんなぼくを、少女は、無表情のまま見つめている。 

初めて地上から見上げた時、片想いの相手に瓜二つだと思ったそのかんばせ。 

けれど、こうして向き合うと、なぜそんな風に見えていたのか分からなくなる。安純とは、全くの別人だった。 

知らない女の子。それも、小学生。 

そんな相手に、ぼくは、勝手に発情して。 

一線を越えて。 

捕まって。 

どこに連れて行かれるのかも。 

何をされるかも。 

分からない。 

ただひとつ確かなのは————ぼくを大事に扱う理由なんて、この子には何ひとつない、ということだった。 

 

(う、ぅ…………) 

 

なおも少女は、物言わず、ぼくのことを見つめていた。 

強者の余裕を纏った、細く、釣り気味の瞼と、長い睫毛。その下に潜む、叡智を思わせる、透徹した瞳。 

高次の存在の視線を受けるだけで、ぼくはその重圧に押しつぶされそうになる。 

怖い。 

なぜ、彼女は、何も言ってこないのか。 

ぼくが何かを言うのを、待っているのだろうか。 

 

「……あ、あの、」 

 

震える声で、ぼくは、少女に呼びかけた。 

 

「ぼく、気づいたら、こんな、小さくなってて、それで」 

 

おおよそ年下の女の子に語りかけているとは思えない、情けない響きだった。自分でも、それが分かった。 

 

「助けて欲しくて、それで、きみの足に触って、気づいてもらおうって」 

 

大空に向かって小石をひたすらに投げ上げ続けているような、手応えのなさだった。 

本当に、ぼくの声は届いているのだろうか。 

 

「でも、気づいてもらえなくて、だから」 

 

確信の無いまま、それでも、言い訳を重ねていく。 

本当のことなど、言えるはずもなかった。 

 

「あんな、ところに…………それで————」 

 

言葉が、途切れる。 

 

「!?……あ、あ……」 

 

血の気が引いていく。 

 

ぎょろり。 

 

印象的な細い目が、一転、大きく見開かれた。 

ぼくの浅はかな嘘など、全て見透かしているかのように。 

 

「ごっ、ごめっ……」 

 

視線の重圧と。その先に見える絶対の「罰」に怯えて、ぼくは無意識のうちに跪いていた。 

 

「ごめんなさい、本当は、助けてほしいからなんかじゃ、なくて」 

 

平伏し、額を地に擦り付けて許しを乞う。 

小学生の、手のひらの上で。 

ぼくが特別臆病だったから?たぶん、それは違う。同じ状況であれば、きっと誰もが同じ行動を取っていたはずだ。 

神さまの御前で嘘を突き通すには、尋常ならざる精神力が必要である——ただ、それだけのことだった。 

 

「きみの、あしが、えっちで、」 

「においとか、すごくてっ、くらくらして」 

「がまん、できなくてっ。だから……」 

 

 

「……ゆるし、て…………。」 

 

懺悔を終え、おそるおそる、顔を上げ。 

果てに、ぼくは、言葉を失う。 

 

ゾッとした。 

 

ぼくは、彼女に罪を責められることを覚悟していたのだ。 

けれど、違った。 

見上げた先で————少女は、笑っていたのだ。 

 

命乞いをするぼくを、うっとりとしたような目で眺めながら。 

 

——はぁっ。 

 

嬌声の混じりの、熱っぽい吐息を唇から漏らして。 

 

彼女は、笑っていた。 

 

そして————ゆっくりと、ぼくに向かって、手を伸ばした。 

 

(……っ!?ひ、ぁ……!) 

 

人差し指と、親指で、まるで、珍しい虫でも捕まえて観察するかのような、あるいは、豆粒でも摘んで口に入れるかのような手つきだった。 

小さくて弱いものを、自分の一時の欲望の足しとして消費しようという人間の手つき。 

それが、同じ人間であったはずの、自分に向けられている。 

悪い夢だと思いたかった。 

やめて。ぼくは人間なんだ。気づいて。ねえ。待って。 

うわ言にすらならないぼくの気持ちが、少女に届くはずもなかった。 

いや、本当は気づいていた。そんなこと、彼女は分かっていると。初めから、多分、最初に足の指に触れた時から、気付いていたのだと。気付いた上で、泳がされていただけなのだと。 

————ぼくは、おそらく1番捕まってはいけない人間に、捕まってしまったのだと。 

 

(……ぁ。あぁ……た、たすけて……) 

 

こうして、震えている間にも、少女の指はじりじりと迫ってきている。 

なめくじの這うような速度。でもそれがかえって恐ろしかった。ぼくを手に取るのは、あの子にとって、ひとつの作業でしかないということを突き付けられているようで。 

物なのだ。命あるものでさえない。少女にとって、ぼくは自らの娯楽のための物————いわば、おもちゃでしかないということ。 

あの指に捕まったら、ぼくは、おもちゃにされる。 

年下の、子どもに、おもちゃにされて。 

遊ばれて、笑われて、壊されて。 

 

(たっ、たすけてっ……いやだ、助けてっ……!!) 

 

 

金縛りにあったように固まっていた体を起こして、ぼくは逃げ出す。 

どこへ?そんなの分からない。けれどあの指に捕まったら全てが終わる。それだけは分かる。 

 

(だれかっ、だれかっ……!!) 

 

手のひらのしわに、何度も足を取られそうになりながらも、ぼくは走り続けた。 

 

(助けてっ、ママ!!パパ!!) 

 

ぼくの頭の中に、1番に浮かんだ人たち。 

勉強もできない。運動もできない。友達もいない。そんなぼくに、それでも、無条件の愛を注いでくれた両親。 

その恩も忘れて、独りよがりな選択をしてしまったぼくに、どうして今更縋りつく権利があっただろう。 

 

(……ごめんなさい、ごめんなさい、だから……) 

 

後ろを振り返るのが怖かった。この逃避行に、何の意味があるのか、考えるのが怖かった。 

ただ、生きて帰れたら、あの2人に謝りたかった。もう一度ちゃんと生きてみたかった。今更そんなことを思ったって、もう遅いのだけれど。 

 

(……ああっ……!) 

 

走り続けていると、足元に広がる大地の終わりが見えてくる。 

あそこから飛び降りれば、逃げ切れる。 

飛び降りて、それから、どうする? 

生きて着地できる保証はない。 

仮に生きることができても、それから? 

足の指に挟まれた瞬間、ぼくはあの子と誰かが会話するのを聞いていた。だから知っている——きっと、ここは女子トイレの中だ。 

次の休み時間には、きっと他の女子児童たちが大挙して押し寄せる。いうまでもなく、もれなく全員が、神様のように巨大で。 

その中で生き残る?あるいは、誰かに助けを求めて、でもその子が優しい子ではなかったとしたら————? 

 

(……っ、いける!あとちょっとで————) 

 

考えている暇はない。どうなるとしても、今は逃げる以外の選択肢はないのだから。 

手のひらの境界線を越え、円柱状で、不安定な指の足場の上を、決死の思いで進んでいく。少しでもバランスを崩せば、指の間の深い溝に足を取られ、2度と這い上がることのできなそうな、そんな地形だった。 

奥井は運動神経に優れた方ではなかったが、それでも、逃げようとする意志ひとつで、粘り強く走り続けた。 

そして、いよいよ脱出できるかと思った、その時————。 

 

ぐわん。 

 

視界が、大きく揺れた。 

平地にいたはずなのに、空中に投げ出されていた。 

何が起きたか理解できないまま、ぼくは、数秒前に走っていた地点に落とされていた。 

 

(……え?え……?) 

 

ぼくはまた、独特なあの円柱状の地形に足を踏み入れる。 

戻されたとはいえ、まだ目に見える距離に、ぼくの目指すべきゴールはあった。 

奥井はもう一度同じ道を辿っていく。 

 

おかしい。 

 

彼は次第に違和感を抱きはじめた。 

平地だったはずなのに、いつの間に傾斜のきつい坂道を進まされていることに。 

気づけば彼は、這うような姿勢を強いられていて——やがて、傾斜に耐えきれず、ころころと無様に転がり落ちていた。 

そして、振り出しに戻る————。 

 

(…………!…………!!) 

 

奥井はそれでも、立ち止まることをしなかった。 

指先に向かって走り、指を傾けられて、転がり落ちて、手のひらに戻されて。 

また走り出して、指を傾けられて、転がり落ちて、手のひらに戻されて。 

何度も、その繰り返し。 

それでも彼は立ち止まらない。いや、立ち止まれないというのが正しかったかもしれない。 

本当は彼だって気付いていたのだ。 

自分は、遊ばれているだけなのだと。文字通り、彼女の小さな手のひらの上で、ころころと転がされて。 

 

——はあ、っ。 

 

彼が指の上を転がり落ちていくたび、背後で漏れる、微熱を帯びた吐息の音にも、聞こえないふりをしていなければ、彼は精神を保っていられなかった。 

それほどまでに、危うい状態だったのである。 

 

何度目の挑戦だっただろうか。例に漏れず失敗に終わり、奥井はまた、指の上をころころと転がっていた。 

だが、その時に限っては、軌道が僅かにずれていたのである。 

 

ぽすっ。 

 

道を外れた彼が行き着いたのは、手のひらの上のスタート地点ではなかった。 

中指と、薬指。2本の指の付け根にできる「三角地帯」の中だった。 

なんてことのない、小さなくぼみだった。落ち着いて体勢を立て直せば、抜け出すのも、そう難しくはないはずだった。 

だが、つつけば簡単に崩れるような危うい均衡の上にあった彼の精神は、不測の事態により、パニックを起こしてしまっていた。 

 

「……!あ、あぁ……あああああああああぁッ!!」 

 

盲滅法に体を動かせば動かすほど、深くはまって、抜け出せなくなっていく。焦れば焦るほどに、全身が汗で滲んでいき、手足をかけることすらままならない。 

 

「ああああああッ!!なんで、なんで!!」 

 

彼はまだ、背後から自分を捕えようと迫る、あの二本の巨指の幻影を恐れていた。立ち止まってはならないという強迫観念がパニックを引き起こしていた。 

実際は、そんなものはとうに去って行ったというのに、それにも気づかずに。 

 

「くるな、くるな、くるなッ!!あああああああ!!」 

 

だがせめてもの救いだったのは、この蟻地獄が、子どもの指の付け根にできる小さなくぼみでしかないということを、そして、そんな場所で必死にもがく姿が、少女の目にどれほど滑稽で、哀れで、そして愛おしく映っていたかに、彼がまだ気付いていないということだった。 

それを理解した時こそ、彼は本当に壊れてしまうだろうから。 

 

「たすけて!!たすけて!!たす、け…………」 

 

 

巨大な影が、彼を覆った。 

 

 

「……て……。」 

 

 

地獄の空のように暗澹とした景色が、彼の視界を染めた。 

 

 

「……あぁ、あ……!、」 

 

 

空が、2つに避けていく。 

それが決して超常現象などではないということを、彼は知っていた。 

 

 

「……く、くち、くちっ、……!!」 

 

 

少女の、口だった。 

ぬらりと光る唇。 

充満する、リップクリームの香り。 

三日月の形を描くその裂け目が、音を立てて広がっていく。 

ぬ、ちゃ……。 

 

「ひ………、っ………!?」 

 

裂け目から歯が覗く。 

人と人との、対等なコミュニケーションでは意識されることのない歯が、今は無視できないほどにぼくの視界と意識を占有している。 

まだ汚れの染み付いていない、真新しい大人の歯。その中央で、異質な光沢を放つ矯正器具。それは何か、優位者の加虐性を象徴しているかのように感じられた。なぜなら——その装置が覗く時、人間は大抵、笑っているのである。抑えきれない悦びによって。 

この児童も、例外ではなかった。 

弱者を追い詰め、虐げ、弄ぶ悦びに、彼女は笑っていたのだ。 

相手は、ただの子どもで、それは側から見れば年相応の無邪気な笑みに見えたかもしれない。 

けれど虫よりも小さなぼくの目には————矯正器具のついた上歯と下歯の、三日月型の隙間から、ぬらぬらと濡れた舌が、まるで餌を前にした檻の中の獣のように身を乗り出している————捕食者の笑みにしか見えなかった。 

そして。 

 

 

 

はああぁぁ。 

 

 

 

少女は、息を吐いた。 

 

 

 

(……あ、え……?) 

 

思考が状況に追いついていかなかった。 

理解よりも先に感覚が来た。 

熱さ——というよりも、極限の温かさという方が正しいかもしれない。全身がバターのようにとろけていくような感覚。 

そして、湿度。ぼくの落ちた穴には、いつの間にか、結露した水が腰の高さまで貯まっていた。そしてその水は、はっきりと、何かがおかしかった。 

何よりも————この、くらくらするような、濃密なにおい。 

 

それが、あの子の口のにおいだと気づいたのは、ほのかに混じった、いちごジャムの香りに気づいたからだった。 

 

その時点では、彼女の口のにおいに脳を侵されながらも、ぼんやりとまだ危機感が残っていた。ふらつきながらも、指のくぼみを這い上がって、新しい空気を求めた。 

けれど、拳一個分にも満たない、あの子の口元と、手のひらの間のこの密空間は、あの子の吐いた息で満たされていて。どこで息を吸っても、あの子が食べた朝食と、唾が、ぐちゃぐちゃに混じりあったにおいがした。 

 

(あ……ぁ……) 

 

危機感が少しずつ薄れていくのが分かった。 

やがて、足がとまり、ぼくはその場にへたり込んだ。 

もう、限界だった。 

思考を失ったぼくを動かしていたのは、獣のような本能だった。 

目を閉じて、ぼくは仰向けになった。 

再び目を開けると、目の前に、少女の歯があった。 

 

声を上げるよりも早く、巨大な舌がぼくに触れた。 

舐めるというにも満たない、スポイトで水滴を垂らすような、繊細な触れ方だった。 

もちろんぼくがそれを繊細と感じられたかどうかはまた別の話だった。 

鼻の下から首元までを、彼女の舌が這った。 

時間をかけて、ゆっくりと、その感触を覚えさせるように。 

ぼくはその間、暴れることも、逃げることも、物言うこともできなかった。ただ心臓だけが絶えず、激しく、ぼくに何かを訴えていた。 

やがて、舌が離れていく。ぼくの唇と、去り行く少女の舌の先とを、唾の糸が結んでいたが、やがてそれはつぅー……と力なく地面に垂れていった。最後に、少女は満足そうに、その舌で上唇をぺろりと舐めていた。 

 

時間が止まったように静かだった。地獄のような空が晴れて、冷たい乾いた空気が素肌に触れた。 

それでも、あの子の舌の熱が、触感が、においが、焼き付けたように残っていた。 

 

 

(う、うっ……、) 

 

ぼくは、思い出したように、股間をまさぐりはじめた。 

ふと、空を見上げると、少女と目があった。 

確かに彼女もまたぼくを見ていた、はずだった。 

けれど向こうは、ぼくと目があったことに気づいてすらいないように見えた。 

小さな虫を、一方的に、観察するような眼差しだった。 

その眼差しに、ぞくりとした。 

 

「あっ、あっ」 

 

年下の、小学生が見ているのに。 

その小学生の、手のひらの上であることも忘れて。 

ぼくは発情した虫のように手淫に耽っていた。 

顔についた唾を指で拭って、その指でちんちんに触ると、あの子に舐められているみたいで気持ちよかった。 

そして次の瞬間、ぼくの隠部は、もっと大きな少女の指によって、全身ごとぐちゃぐちゃに揉まれていた。 

 

「——————」 

 

それは本当に、ぐちゃぐちゃにされる、としか言い表せない有様だった。 

退屈しのぎに、消しゴムのカスでも練って遊ぶかのような手つき。 

そんな少女の指先の下で、全ての自由を奪われ、右も左も、上も下もなく、あの子がぼくに付けた一滴の唾と、滲み出る手汗と、手垢と、そして、ぼく自身の撒き散らした臭い汁とぐちゃぐちゃにされながら、ぼくは悟った。 

 

ぼくは一生、この子のおもちゃとして生きていくのだと。 

 

どこかで、まだなんとかなると思っていた自分がいたんだ。誠心誠意、謝罪の気持ちを伝え続けていれば、きっといつかは許してくれるだろうって。 

けれど、違った。 

許すも許さないも、最初からなかったんだ。 

ぼくが誰であろうと。あの子に、どんな人道に背く行為をしていようと。どのくらい大人であろうと。どんな人生を歩んでいようと。何を感じようと。何を叫ぼうと。 

きっと、どうでもよくて。 

使いがいのある、面白いおもちゃになってくれれば、それでよかったんだ。 

 

もし、まだもう少し幼くて、分別のつかない子どもに捕まっていたら、ぼくは楽に死ぬことができていたのかもしれない。 

少女の力加減は絶妙だった。身体を損なうことなく心を潰す、しつけ方を心得た手つきに思えた。まるでそう————過去にも、ぼくと同じような人間を、しつけたことがあるかのように。 

そんな少女の指先から、ある瞬間に、ふっと力が抜ける。依然ぼくは下に敷かれたままだったが、ほんの少しだけ身動きの余地が生まれた。 

ぼくは少女がチャンスを与えてくれたのだと思った。けれど違った。 

あるはずのない望みを目の前にぶら下げられて、必死にそれを掴み取ろうとするぼくのもがきを、指先に感じるためにすぎなかった。 

ぼくがそれに気づくのは、体力が尽きかけて、はじめてその指先の震えを肌で感じた時だった。 

この時ほど死にたくなったことはなかった。望みを捨てた僕の体を、少女は再び指ひとつでぐちゃぐちゃにする。けれど、殺してはくれない。 

きっとこうして生かされ続けるのだ。あの子を楽しませるだけのおもちゃとして。 

世界史の教科書に載っているのを、他人事のように眺めるしかなかった奴隷の扱いよりも、もっと過酷で、死んだ方がマシだと思えるような扱いを、受け続けていくのだろう。 

これから先、毎日、何年も、あるいは何十年も、あの子が飽きて捨てるか、ぼくが壊れるまでの、永遠とも思える間、ずっと、ずっと。 

 

——舐めて。 

 

声が聞こえた。一瞬天上の声に錯覚したそれは、確かにあの机の下で聞いた、鈴の鳴るような少女の声のはずだった。 

体がいつの間にか軽くなり、視界を遮るものも無くなっていた。 

仰向けに転がったぼくの横、すぐ顔の近くに、あの子の人差し指が、爪を下にして置かれていた。 

 

——舐めて、いいよ。 

 

思いつきのように、少女は言い直す。 

確かにそれは命令ではなかった。 

だが、それに逆らう意味がないことを、ぼくは既に理解していた。 

ぼくをもう一度嬲ってでも、四肢を潰してでも、彼女はそれを許さないだろう。その上で、再び口にするだけだ————舐めていいよ、と。 

 

 

強制ではなく、自らの意思で舐めさせること。舐めさせてあげること。 

少女がそれを望んでいる以上、それを楽しみとしている以上、黙って従うしかなかった。 

ぼくは、彼女のおもちゃなのだから。 

 

 

ぼくはふらふらと起き上がり、少女の人差し指の前に跪いて、顔を寄せ、舐めた。 

足の指を舐めた時のような、汗の味はあまりしなかった。かわりに、木材やすすの混じった苦味に近い独特の味がした。 

ぼくはやがて、それが鉛筆の味であることに気づいた。あの子が試験を解く間ずっと握りしめていた、鉛筆の味だった。 

それは何よりもぼくに現実をつきつけるものだった。 

少女の指先は確かに美しかった。指先にまで勝利者の遺伝子が継がれていることを、舐めながら、思い知らざるにはいられなかった。 

けれど彼女はまだ、そんな美しい手で、鉛筆を握らなければいけないのだ。 

どれだけおしゃれな衣服や履き物を召していても、どれだけ周りより知能に優れていても、物を書くには鉛筆で手を汚さなければいけないし、学校には野暮ったいランドセルを背負っていかなければいけないのだ。 

今こうして、ぼくを恐怖で縛りつける、目の前の圧倒的な存在が、本当は自分のことすらままならない、抑圧された、1人の小学生にすぎないのだということを、舌の上のざらついた苦味以上に、その鉛筆の汚れは伝えていた。 

情けなかった。そんな、ただの小学生の言いなりになって、指を舐めて、媚びへつらうことしかできないことが。情けなくて、情けなくて————その感情を、欲している自分がいて。 

小学生の指を、四つの手足で虫のようにしがみついて、本人にばれないように、舐めるふりをしながら、ぼくは、リミッターがはずれたように何度でも盛り上がる股間を、押し付けて、その度に、情けないオスの声をあげていた。 

でも、すぐに見つかって。ぼくを乗せた人差し指は、そのまま空に浮かんで、あの子の顔の真ん前に運ばれた。 

二つの瞳が、じっと、人差し指の上の、ぼくの情けない姿を捕らえていた。 

(あっあっ) 

目の細い子だと思っていたけれど、もはやそんなことも分からないくらいのスケールの差があって、その巨大な2つの視線からはぼくはどうあっても逃れることはできない。 

(見ないで、見ないであっ) 

両の瞳は瞬きもせずにぼくに向けられていた。その時彼女がどんな表情で指先にしがみついて発情する年上の男の姿を眺めていたのかは分からないが、うわ。とか、キモっ。とか、そんな風に嘲る声をぼくの耳は拾っていた。そのたびにぼくの体はびくんびくんとエビのように跳ねた。もっと言って欲しかった。

結局、ぼくは知らないただの小学生に観察されながら、その人差し指に乗る米粒のような体で、憂慮すべきはずのこれから先の絶望的な人生のことも忘れて、3度は射精した。 

その後の記憶は、あまり残っていなかった。 

 

 

 

 

14.

AM12:50。 

校門の前は、試験を終えて帰路に着く受験生たちでごった返していた。 

緊張から解放された彼らは、皆一様に、どこか浮ついたような足取りで道を歩いていた。 

——あの問題解けた?うん……だよねーっ。 

——ねーねー何お昼食べてく?私来るときに気になるお店あって……。 

耳を傾けるまでもなく入ってくる誰かの話し声。初めて歩く町の、昼下がりの景色。今日の会場では友達とは会えなかったけれど、1人で歩いていても帰り道は退屈しない。行きの道でそこまでのゆとりを持つのは私でも少し難しいけど。 

地下鉄の駅に向かう者。JRの駅に向かう者。寄り道をする者。保護者の迎えを待つ者。 

進んでいくうちに、人の波は少しずつ枝分かれしていき、比例して喧騒は落ち着いていく。 

私はリュックの小ポケットから、スマホを取り出して、切っていた電源をつける。 

「あ、ママ?……うん。今終わったとこ。……まあまあかな。うん。」 

きっともうずっとシャッターの開かれていないであろう小さな書店の、庇の下に立ち入る。車の通りのないさびれた商店街は、電話をかけるには都合が良かった。 

「……うん。……うん。もー、分かってるよ、うるさいなー……うん、はい、じゃあそこで待ってるからね。はーい」 

電話を切る。待ち合わせ場所の、駅前のミスタードーナツの近くに移動する。 

ママを待っているまでの間、手持ち無沙汰だった私は、無作為に、胸ポケットの底の縫い目に沿って、人差し指を押し付ける。 

とん。はずれ。とん。はずれ。きゅっ。あたり。 

少し泳がせる。 

とん。はずれ。とん。はずれ。とん。はずれ。きゅっ。あたり。 

少し泳がせる。 

とん。きゅっ。あたり。同じところ。 

……はぁ。ぎゅうぅ。 

少し泳がせる。 

とん。はずれ。…… 

道行く人々は、そんなちょっとした暇潰しに興じる私には目もくれない。 

そうしているうちに、改札口からママが手を振ってやってくる。 

私は胸ポケットから手を離し、その手を振りかえして、無邪気な子どものように駆け寄っていった。 

 

 

おわり