4話-1

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1.はざ間

 

そこにはぼくが夢にまで見た景色が広がっているはずのに、現実にぼくの目は、一切の色や形を捉えることができなかった。 

視覚だけではない。聴覚も、本来この場において何よりも優先されるはずの嗅覚でさえも、物理的に遮断されていた。ただ、触覚や温度の感覚(なんと言うのだろう)だけは働いているらしかった。 

横たわるぼくの背中に伝わる、硬質なフローリングの感触と、極寒の冷気。それを中和するかのように、正面から、じんわりと熱を帯びた、やわらかな人の肌が包み込む。 

でも、その実ぼくを罰しているのが、後者の方であるというのだから、何を信じれば良いのか分からなくなりそうだった。 

 

ぼくは今、優奈に踏まれていて、つまり彼女の足の裏の温もりと、感触を、半強制的に刷り込まれているということだった。 

 

不運な事故などではなかった。それは、直前に見た彼女の表情から疑いようもなかった。 

本来は、22センチの上靴にすっぽりと収まってしまう程度の足。当然ながら今のぼくでは、そんな彼女の足の下から、逃れることも、ほんの少し浮かせることさえも叶わない。けれど加減をされているのか、ぼくの体が小虫のように潰れると言うこともなかった。山のように積み上がった敷布団の下敷きにされた状態とでも例えればいいのだろうか。もちろん一切の身体の自由は効かないし、呼吸だって苦しい。優奈はぼくを一息に踏み潰すのではなく、足裏の下でじわりじわりと衰弱させていくつもりなのかもしれない、などと憶測してしまうほど。 

 

もう何分が過ぎたのだろう。あるいはまだ、数秒も経っていないのか。 

己の無力を受け入れ、ぼくは、抗うことをやめた。 

そして、考える。 

愛する彼女に、不快な虫を見るような目を向けられたこと。 

このまま殺められてしまうのだろうか。 

あるいはこれからも、心の内では疎まれながら、彼女の庇護のもとで生かされていくのだろうか。 

 

彼女の眼差しの変化に、身に覚えがないといえば、嘘になる。 

あの時、身勝手に学校生活にまで踏み入ろうとしたことへの後ろめたさは、僕自身も感じていた。けれどそんなぼくでさえ優奈は赦し、満身創痍の心身を慈愛で包み込んでくれると思い込んでいたのだ。数ヶ月ぶりに生きて戻ってきた家出少年を前にした母親みたいに。 

優奈に拾われてからの数日間で、ぼくは何か、彼女にとっての特別な存在になれたような気でいたのかもしれない。あろうことか、少なからずぼくに対して好意を抱いてくれているのではないかとさえ感じていた。優奈がぼくに優しくしてくれたから。それが愛情のないもっと曖昧な優しさであったことにも気づかずに。 

優奈はぼくの母親ではないし、ましてや恋人でもない。どうして、こんなにも当たり前のことを、忘れてしまっていたのだろう。 

 

ああ。 

悲しかった。優奈にとっての何者にもなれなかったということが。何者でもないからこそ、赦す必要もなかったのだ。 

恋人でなくても、ペットでも、奴隷でもいいから、優奈とぼくとを必要と寛容の紐でつなぎとめてくれるだけの関係性が欲しかった。 

けれど、こんな世にも奇妙な小さな身体になっても、ついぞぼくは優奈にとって、嫌っても嫌われてもどうだっていい、何人かいる顔見知りの大人のうちの一人、以上の存在になることができなかったのだ。 

ぼくはこんなに、ずっと、一途に、君のことを思い続けていたのに。 

本当に悲しかった。 

悲しい。 

嘘なんかじゃない、それなのに。 

 

ああ。 

ああ。 

あああ……。 

 

さらに時間が経って。 

重さにも、息苦しさにも次第に慣れ始めて。 

ぼくははじめて、唇の一点に触れる、君の足の裏のぬくもりを意識した。本当は全身で埋もれているはずなのに、水中に沈む時に、唇の滴りを意識することなんてないのに。 

君の足の裏とぼくの唇が接触しているという異常性を意識し始めた途端に、ぼくの頭に、ある一つの考えばかりが渦巻くようになった。 

許されざる考えだった。 

だからぼくは努めて別のことを考えようとしていた。自分の嘘偽りのないはずの悲しい気持ちに向き合うとしていた。けれど、もがけばもがくほど、ぼくは蟻地獄に落ちたみたいに、その許されざる考えの中心部に引き摺り込まれていくようだった。 

そして、海の底の貝が、殻の隙間から水管を伸ばすように、おもむろに舌を伸ばして、その先端で————穢れなき彼女の足裏に、触れた。気持ちを鎮めるためだと、誰にともなく言い聞かせて。 

はじめ、ぼくは震えながら、なめくじの這うような速度で、小筆で文字を書くときのように、舌先の一点でこわごわとなぞるばかりだった。そんな舐め方では、もちろん、味だって感じられなかった。 

次に、舌で触れる面積を少しだけ増やすと、その分、少しだけ彼女の足の裏の風味を感じた。けれど味というにはまだ遠くて、ぼくはかえって、満ち足りなさを感じた。これでは、舐めたうちにも入らないだろうと思った。 

だから、3度目には、ぼくは舌全体を使って、舐めるようにして舐めた。今度ははっきりと、酸味とも塩味ともつかない、足の裏の味を感じた。優奈の同級生たちの面前で舐めさせられた、あの指先のある種上品な味とは一線を画していた。 

味ばかりではない。優奈の足の裏の、柔らかながら少しざらついた舌触りが、あたたかな温度が、ほのかな湿度が、ぼくの舌を介して、一度に全て流れ込んでくる。そのあまりの情報量にむせ返りながらも、ぼくは気づけば、2度、3度、4度と彼女の足の裏を舐め回していた。舌の動きは加速していき、それにつれて、確かにそこにあったはずの悲しい気持ちが希薄になっていく。優奈は足裏に快楽物質でも塗っていたのかもしれない。ぼくのような愚かな大人を、淫蕩の底に沈めるために……。 

 

やがて、優奈の足の裏がぶるりと震えたのが、ぼくの全身に伝わってくる。彼女がぼくを感じている証左だった。さらに次の瞬間に、全身に加わる重力が強みを増したことで決定的になる。 

骨が軋む。酸欠で意識が希薄になっていく。ゼンマイの切れかけた人形のように、ぼくはそれでも、舌だけを動かし続けていた。 

 

ああ優奈。きっと君は足の裏にかゆみを感じて、それが不愉快で、少し力が入ってしまったのだろう。でも、君は分かっているのだろうか。今君が足の下に敷いているのは、道端を慌ただしく這うだけの蟻なんかじゃない。少し前まで君の隣に住んでいて、毎朝スーツ姿で君と挨拶を交わしていた、紛れもない顔見知りの大人だということを。 

まして、想像できるだろうか。そんな大人が、君もよく知っているはずの顔が、君の足の下で、君の少し汗ばんだ足の裏を、ありがたがって舐めているということを。ああ、優奈、君は……きみは…………… 

 

やがて、ぼくの意識は途切れる。 

 


2.ネグレクト

再び目が覚めた時も、男はやはり暗闇の中にいた。 

だが、今は押し潰されるような圧迫感も、密封されたような息苦しさもない。舌を出してみたって、冷え切った虚空の味を知るのみだった。 

ここが地獄なのだろうか。それにしては、木材やすすのような、鼻にざらつく、それでいてどこか懐かしいような香りがする。 

それに、体の節々に痛みが残っている。優奈の足跡が、残っている。 

もし生前の痛みが引き継がれる決まりなら、地獄には8月のアブラゼミの声ように斬首刑にあった罪人の断末魔が響き渡ることだろう。 

どうやら自分はまだ生きているらしい。男はそう結論づけて、暗闇の中を探り探りで歩き始める。するとすぐに、見えない壁によって足止めを食らうことになった。 

壁を撫でてみると、それが何かプラスチックのような平坦な質であることが分かった。さらに、壁伝いに歩いたことで、男は自分が今四方を、それもさほど広くはない面積でその壁に囲まれているということを理解する。 

男は、ある一つの仮説に到達する。ここはもともと自分が住まいとしていた、あのクリップケースの中なのではないか。気絶している間に優奈が戻したのだと考えれば辻褄が合う。 

しかし、分からないのが外のことである。このケースは一体、どこに置かれているのか。それを知ろうにも、周囲は暗くてなんの視覚情報も得られないし、ケースから出歩いて探索することも叶わない。 

唯一の手掛かりといえば————ケースの外、はるか前方に浮かぶ、横一線の隙間。おそらくそこから、表の世界に通じているのだろう。だが男の立つ位置からでは、細い隙間の向こうの景色など窺い知れないし、そこから差し込む光も、もはや光とも呼べないほどに弱く微量なものだった。 

 

何もないか、と。諦めて腰を下ろそうとした時、異変は起きた。 

 

「……!?」 

 

訳もわからぬまま、男はその場に崩れ落ちていた。例えば列車の中、急発車と急停車が1秒足らずの間で行われたら、誰だってそうなるだろう。そういうことが、もっと大きな振れ幅で、今実際に起こったのである。 

そして、異変はそれだけはなかった。 

 

(眩しい——?) 

 

バケツをひっくり返したような光に、目を覆った。 

そして、再び目を見開いた瞬間、男は全てを知ることになる。 

自分がどこに置かれていたのか。なぜ自分が転んだのか。なぜ光は突如として差し込んだのか。 

 

巨大な手が、ぬっと姿を現した。 

そして、目の前でスティックのりを掻っ攫うと、男をその奥に残したまま、世界は————引き出しは再び闇に閉ざされた。 

 


 

優奈の足の裏の味を知った、あの一件以来、男は彼女の机の引き出しの中で飼われていた。

いや、飼われている言えるかどうかすら怪しい。なぜなら、引き出しの最奥に無造作にしまい込んだまま、優奈はクリップケースを一度も出さなかったからであった。

そんな処遇でも、男が飢え死にすることはなかった。はじめは暗くて分からなかったが、ケースの端には、ハサミで容器ごと小さく切り離したゼリーが置かれていた。単純に量だけで見れば、今の男にとっては数週間分にもなる食糧兼水分だった。ぶどう味で、それなりに美味しかったが、これが昆虫用のゼリーである可能性については考えないようにしていた。

優奈はそのようにエサこそ与えてくれたものの、娯楽までは与えてくれなかった。

赤青鉛筆、スティックのり、カスタネット、自由帳、ポケットティッシュ。引き出しの中は優奈の私物で溢れかえっていたが、クリップケースから出ていきそれらに触れることも叶わない。

いつか男が脱出に使ったケースの天井の穴も、呼吸のための隙間を残して、大部分がガムテープで塞がれていた(このガムテープ張りが何か今の優奈が男に向ける目線を全て物語っているような気がした)。

なので娯楽といえば、時折り引き出しの向こうから聞こえるくぐもった喋り声に耳を傾けることと、引き出しが開かれ、まばゆい光とともに引き出しの中に侵入してくる優奈の美しい手を、ただひたすら亡者のように拝むことくらいだった。

 


そんな生活が、何日も続いた。 

もう、今が昼なのか、夜なのかも分からない。 

外からは、優奈とその幼い妹が、楽しそうに笑い合う声が聞こえてくる。 

ぼくを取り残して、彼女たちの、佐藤家の日常は過ぎていく。

 

——かわいそうに。捨てられちゃったんだよ、お兄さん 。

 

いつか、あの優奈の友達の女子児童がそう言ったように。 

自分が捨てられたことを悟るには、十分すぎるほどだった。 

 



今は、何日目だろう。

いい加減暗闇にも目が慣れて、身周りの状況くらいならばある程度は把握できるようになっていた。

エサとして与えられたゼリーは、最初の頃の半分くらいまで減っていた。だが本音は、もう見るのも嫌なくらいだった。何日も置かれているせいでぬるく、べたついてきていたし、そうでなくとも同じ味を毎食毎食食べさせられれば飽きもするだろう。

それに、最近は引き出しにも動きがない。

途方もない虚無の中にあった。

1時間が5時間の長さに感じるというのも過言ではない。

男はアクリルの壁に背を預けて、いつものようにぼんやりと、暗闇の虚空を眺めるともなく眺めていた。そうしているより仕方がなかった。

 

するとその時。

 

「……!」 

 

引き出しが開き、光が差し込む。 

優奈の右手がぬっと現れる。男は立ち上がって、前面のアクリル壁に鼻先を擦り付けるように注視する。 

光の中を、優奈の手がゆらりと舞う。その姿を見るだけで、心が洗われていくような気分になる。 

自覚はなかったが、男にとって優奈はもはや、恋慕ではなく、信仰の対象に変わりかけていた。それは単に想いの強度が増したという話ではない。 

おそらくは太古の文明人が太陽を崇拝したのと同じ理由で、男は優奈の「手」を崇めていた。加えて————パーソナリティの表象たる「顔」を拝むことのできない構造になっていたことも、本来は現実をひたむきに生きる平凡な小学5年生の児童を、より超越的な存在へと昇華させていた。 

 

男はその超越的存在の手に、恍惚として見入っていた。いつもは引き出しの手前の私物を持ち去っていくだけだが、今回はもう少し近くで見ることができそうだった。 

迫る優奈の手。何かを掴もうとする前の脱力した「柔」の手つき。頭を垂れた指の一本一本のひたいには、真珠のように美しい爪が青白く光っている。それは対極の「硬」の性質を持つものだった。女性の、とりわけ少女の手は、必ずこの両義性を孕んでいる。そこに男は強く魅力される。 

加えて、手の動きというのは、人間の意思の最小単位とも言えるもので、この身に堕ちてからというもの、か弱い少女の最も小さな意思に、幾度も翻弄されてきた。 

くすぐる程度の力で殴打され、米粒を摘む程度の力で抗いようもなく締め付けられて。 

人間の指を介してこそ、男は最も、自らの小ささを感じることができた。 

そう、今だって。ここへ来てからというもの、遠巻きに、他人事のように眺めることしかできなかった優奈の手が、次第に大きくなって、周りの景色を飲み込んでいき、 

いつしか、薄赤い手のひらに視界が埋め尽くされて————。 

 

(え、あ、近————) 

 

 

 

 

 


結論から言えば。男は、あっという間もなく、自らを収容するそのアクリルケースごと引き出しの中から取り出され、靴の中の小石のようにぞんざいに振り落とされて————優奈の机の上に転がっていた。懐かしい眺めのはずだった。あの日までは毎日ここで、優奈との時間を過ごしていたのだから。

それが今。机の上には、さながら謁見の間のような厳かな空気が漂い————玉座に鎮座する上位の存在が、ぼくを冷徹に見下ろしている。  


(優奈————) 

 

再開を無邪気に喜んでいられるような空気ではなかった。 

何が、ここまで変わってしまったのだろう。ぼくの方か、優奈の方か……あるいは、両方なのかもしれない。 

もう、あの日までのような関係には戻れないのだろうか? 

……そんなことはない。ぼくはかぶりを振る。優奈はまだぼくと対話する気があるから、今一度こうして、机の上で向かい合っているんじゃないか。 

……そうだ、きっとそうだ!案外、ぼくの方からあっけらかんとして話しかければ、優奈も気勢を削がれて、今まで通りに接してくれるようになるかもしれない————。 

 

 

「ああ、優奈ちゃん、久しぶりだね!良かった、もう出してくれないのかと思ってたよ!本当にごめん!君の言うことを聞かずにぼくといったら……ああ、でも本当にこうして戻って来れてよかった!聞いてよ、ぼくは君の友達に酷い目に合わされたんだ。ああほんと、思い出しただけでも震える。だから本当君が来てくれてよかったよ。皆の前で君の指を舐めさせられた時は流石に狼狽えたけどね。ははは、は、は……………」 

 

 

 

男が何かをさえずるのを、蛆虫でも見るような目でひとしきり眺めた後、優奈は静かに口を開いた。 

 

 

「————さんって、「ロリコン」なんですか?」 

 


3.嫌疑

その日の、お昼休み。木枯らし舞う人気のない校舎裏で、わたしはちさとと顔を突き合わせていた。 

そして、悩んだ末————あの人のことを打ち明けた。 

 

「えーっ、あのお兄さんとゆーなって、知り合いだったの!?」 

「う、うん……」 

 

色々と面倒なことになりそうなので、ちさとには黙っているつもりだった。でも、あの人がわたしの所に戻ってきてからというもの、ちさとはどこか元気が無さそうに見えたし、あからさまにではないものの、わたしのことを疑う素振りも見せていた。わたしが忘れ物を取りに戻った時から姿を消したというのだから、当然といえば当然かもしれない。 

そんなことで関係性に亀裂を生じさせるくらいなら、と思って、わたしはあの人との元々の関係から、ちさとの手に渡る経緯まで、順を追って正直に話すことにしたのだった。 

 

「……なんて、実はそうなんじゃないかとも思ってたけど。だって、あんなゆーなに懐いてたもんね」 

「懐いてるって。やめてよ……」 

「だってさー?結構ちゃんとしつけたつもりだったのに、わたしそっちのけでゆーなのことばっかり見てるんだもん」 

「しつける?」 

「そ。デコピンしたり、指でぎゅーってしたり」 

 

ちさとは顔の前で、人差し指と親指で「ぎゅーっ」とする仕草をして見せた。 

その間で「しつけ」に苦しむ小さな存在が、わたしには見えた。 

 

「うわー、かわいそ……」 

「他にも、足で踏んづけたりね」 

「踏んづける、」 

 

何気ない一言だったのだろう。 

けれど、わたしはつい、どきりとしてしまう。 

目線を下にやると、今度はちさとが、せかせかと近くを這っていた蟻に向かって足を踏み下ろしていた。小さな蟻は、彼女の履く色味の薄いひも靴にすっぽりと覆い隠され、また何の音も発さなかったため、もはや潰れたのかそうでないのか、最初からそこにいたのかどうかすらも分からなくなってしまいそうだった。 

————わたしが、あの人を足で踏んでしまった時も、そんな感覚に陥った。 

 

「ねーゆーな。その人って、元々はどういう人だったの?」 

 

直前に踏み潰した蟻のことなんてもう忘れたかのような顔で、ちさとが聞いてきた。 

 

「え……別に、フツーの人。真面目で、優しい大人の人って感じ?」 

「そんだけ?」 

「んーだって……あんまりよく知らないんだもん。でも、結構わたしのことは気にかけてくれてる感じだったかも」 

「どういう風に?」 

「朝一緒になった時とか、よく話しかけてくれるんだよね。学校で何流行ってるの?とか、授業はどんなことやってるの?とか。あと、プレゼント買ってくれたり……」 

 

わたしがそう言うと、ちさとは驚いたような顔になる。 

 

「うっそ、ただの隣のおじさんが?」 

「うん」 

「えー……それってちょっと変じゃない?」 

「そうかな……?」 

「ちなみに、カノジョとかいるの?」 

「分かんない」 

 

質問されるたび、あの人について何も知らないということに気づいていく。何の仕事をしているのかも、どんな趣味を持っているのかも、どんな人が好きなのかも。会話をした回数は、決して少なくないはずなのに。 

 

「ゆーな……もしかしてそいつ、ロリコンなんじゃないの?」 

 

ちさとが、難しい顔で言った。 

 

「ロリコンって?」 

「子どもが好きな大人のこと」 

「あー子ども好き……」 

「いや、子ども好きっていうかあ……つまりそいつって、優奈のことが好きなんじゃないの?恋愛的な意味で」 

「え。」 

 

突拍子もないことを言われて、わたしは返答を失ってしまう。 

 

「……いやいや、流石にそれはないでしょ、」 

「だって、やっぱりよく考えたら変じゃん。あんな小さくなったら、なんとしてでも戻りたいって思うのがフツーじゃない?でもゆーなが言うには、騒ぎを大きくしたくないとか言って、あんまり戻りたがってない感じなんでしょ?」 

「……うん」 

「それだって、あのお兄さんがロリコンだとしたら辻褄が合うじゃん。ゆーなが好きだから、ゆーなに飼われていたいんだよ」 

 

確かに、あの人が戻りたがっていないことには、わたしだって違和感を覚えていた。 

だけど————わたしに、飼われたい? 

スーツを着て、ネクタイをして、毎日社会人として働いているような大人の人が、わたしに? 

 

「……そんなわけない、と、思うけど……。」 

 

想像もつかなかった。 

飼いたい、と言われた方が、まだ納得できる気さえする。小さくてかわいい猫を見たら、飼ってみたいと思うのが、普通の人間の感覚なのだから。 

心菜だってそう。外で虫を捕まえてきて、1週間で死なせて、懲りずにまた次の虫を捕まえて。呆れはするけれど、子どものすることだからと、わたしはそれを咎めずにいる。でも………もし、自分がそんな風に扱われたらと思うと、ゾッとする。たとえ相手が、かわいい妹であったとしても、耐えられる気がしなかった。 

 

 

「……もっと言えば、その状況も仕組まれたものだったりしてね」 

「どういうこと……?」 

「たとえば、自分でわざと小さくなって、ゆーなに見つけてもらうとか」 

「……!」 

 

自分から、小さく。 

そうだ。わたしはつい先日、あの人が自ら進んで小さくなったという可能性にたどり着いた。でも、その理由までは分からずじまいだった。 

まさか、本当に————。 

 

「何か心当たりがある感じ?」 

「分かんない、けど…………」 

 

戻りたがっていなかったのも。 

自分から、虫かごの中に入りたがったのも。 

心菜が口に含めた飴を、一心不乱に舐めていたのも。 

あるいは————わたしの靴の中に、入ろうとしたのだって。 

わだかまりとして残っていた疑問が、全部、それで片付いてしまう。 

 

「だとしたらやばいね、そいつ。さっさと警察に引き渡しちゃえば?それかいっそのこと、トイレにでも流しちゃうか」 

「何もそこまで……」 

「だって、キモくない?考えてもみなよ。そんな下心丸出しのオトコに、私生活の隅から隅まで観察されてるわけでしょ?やってることストーカーと変わんないじゃん……」 

「…………」 

 

否定できない。それが嫌だったからこそ、わたしはあの人を、目の届かない場所にしまい込んでしまったのだから。 

 

「放っておいたら、そのうち寝ている間に、服の中に潜り込んで来たりしてさぁ。実はもう、胸とか触られてたりして……」 

「………!やだ、やめてよ……」 

 

ゾワゾワと、背筋が粟立つ。 

想像してしまったから。あの顔で、あの身体で、わたしの体を虫のように這い回る姿を。 

ちょうどこんな気分を、わたしは彼が戻ってきたあの夜にも味わった。 

あるはずのないその姿を足元に見つけて、まず、恐怖の感情が込み上げてきた。捨てても捨てても戻ってくる、呪いの人形を前にした時のように。 

でも、本当に虫ならばまだ良かった。本当に呪いの人形ならまだ良かった。 

それが生身の人間であるということを、わたしは知りすぎていた。 

だからこそ、恐怖と、もう半分の感情は————「気持ち悪い」だった。 

 

 

「……どうしよう。ほんとに「ロリコン」だったら……」 

「気になるんなら、聞いてみればいいじゃん」 

「え……」 

 

ちさとが、他人事だからと、面白がるようにわたしに言う。 

 

 

「お兄さんは、ロリコンなんですか?……って」 

 

 

 


 ロリコン。

出るはずのない言葉が、優奈の口から飛び出すのを、男は確かに聞いた。

その方面に無知で無自覚だったはずの彼女が口にすると、どこか非現実的な響きを伴った。


——うわ、ほんとに食べてるし……。

男の傍らに落ちたゼリーを一瞥して、優奈が吐き捨てるように呟いた。男には、その意味を理解できるだけのゆとりもなかった。  

男は、こういった詰問をされたときに、臆面も無く嘘をつけるほど肝の据わった人間ではなかった。第一にすることと言えば、もっともらしい言い訳や、論点のそらし先を探すことだった。 

しかし、どんな言い訳を述べようにも、優奈の耳に届くことはないのだろう。 

なぜといえば————ぼくとのコミュニケーションに用いていたはずのイヤホンが、今この時、彼女の耳には装着されていなかったのである。 

意図してか、そうでないのか。男は彼女の質問に対して「はい」か「いいえ」で答えることしか許されていなかった。 

 

以前、2人の間で取り決めていたサインがあった。「はい」ならジャンプ。「いいえ」ならしゃがむ。その頃は、言葉が無くとも彼女と通じ合えることが嬉しかった。今はこんなにも、言葉が欲しいというのに。 

男は、震える膝を折り曲げていく。あまりの重圧に、顔を上げることもできない。 

たが、今この間も優奈は見ている。少しでも不審な挙動を目にすれば、彼女が胸の内に抱える疑惑の種が発芽し、たちまちのうちに蔓を伸ばしていくことだろう。 

もはや、この人生最大とも言える嘘を、突き通す他は無かった。 

 

しゃがみきって、数秒の間、重い沈黙が流れる。今、優奈が何を考えているのか、知るのが怖くて、顔を上げることさえままならない。 

 

「……わかりました。立っていいですよ」 

 

優奈の声が聞こえた。 

戸惑いながら、男はそれに従う。 

もちろん、こんなことで疑惑が晴れたとは思えるはずもない。 

しかし彼女の立場なら、尋問の方法などいくらでもあったはずだ。あとひと押しでもされていたら、ボロを出さずに乗り切れる自信はなかった。だというのに、妙にあっさりと引き下がられて、拍子抜けした気分だった。 

そして間も無く、男はその理由を知ることになる。 

 

 

「じゃあ、えっと————これに、見覚えはないですか?」 

 

 

ことん。 

優奈の手によって置かれたそれは、何かの機械のようだった。 

箱型の形状で、一切の装飾を排した漆黒の表面が冷たい光沢を放っている。その中心には、魔獣の単眼のように無感情に見つめる、レンズのようなものが備わっていて————。 

 

どくん。 

 

(な、んで。それを、君が……) 

 

 

川面に浮かぶ落ち葉のような激動の生活の中で、いつしか頭から抜け落ちていた、その存在。 

だが、思い出せないはずがなかった。 

すべての始まりにして、すべての証拠であるそれが。 

あの日、男を1/100の世界に導いた、S社の縮小機が————今こうして再び、男のもとに戻ってきた。 

 




そうだ、ぼくは確かにあの時、縮小の成功に舞い上がるばかりで、証拠の隠滅のことなど微塵も考えていなかった。いやそれ以前に、小さくなってから優奈に拾われるまでの間に、縮小機を目にした記憶がない。

おそらく、縮小の最中にぼくの手を離れ、足元に落ちていたはずだ。縮小が進むにつれてぼくの意識は希薄になっていったが、そういえば何か、カシャンという衝撃音が聞こえたのをうっすらと覚えている。それからすぐ、ぼくの抜け殻と化したスーツやスラックスによって、持ち主もろとも覆い隠されてしまったのだろう。

つまるところ、縮小機を蟻の視点から見上げるのは、これが初めてだった。 ぼくの片手に収まっていたはずのそれが、今では一軒家以上の大きさとなってぼくの前に立ちはだかる。もはや自分の小ささに対する驚きもないが、それでも、かつての所有物を前にすると、格別応えるものがあった。そしてそれはどういうわけか————今、優奈の手に渡っている。


「あぁこれ、——さんのスーツを片付けた時に見つけたんです。」 

 

ぼくの心を読んだみたいに、優奈が言った。 

思い返せば、縮小初日、ぼくは確かにその事後処理を優奈に任せていた。そこであの縮小機を拾っていたとしても、何ら不自然な話ではない。 

ただ、それなら。 

なぜそのことを優奈は、今までぼくに報告しなかった? 

そして————なぜ、今になってぼくにそれを見せてきた? 

 

 

「見覚え、ないですか?」 

 

 

優奈は、この縮小機と、ぼくの現状の関連を疑っている。 

いや、おそらくほとんど、確信に近いところまで来ているのだろう。 

 

ぼくはいよいよ追い詰められる。 

崖際でナイフを突きつけられたように。 

 

裁く人。裁かれる人。 

純粋な子ども。穢れた大人。 

ヒトと、蟻。 

 

今のぼくと優奈の間には、1.7と145という算数上の差以上のものが開いていて、彼女自身もまたいよいよそれを自覚し始めているように見えた。 

それだけに、ぼくを追い詰めるのに余念がなかった。 

 

 

「——さん?」 

 

 

優奈からの重圧に押し潰されそうになる。 

洗いざらい吐いてしまって、楽になりたいという気持ちもどこかにあった。 

けれど客観視すると、ぼくの犯した行為はあまりに人の道を外れすぎていた。 

中年男性が、隣に住む家庭の、小学5年生の娘に飼育されたいがために、自ら人生も、社会的責任も放棄して小さくなったということ。 

それを知った当の娘は、何を思うだろうか。 

ぼくが彼女の立場なら————2度と視界に入れることすらしたくないだろうと思う。 

その恐怖は、優奈の喪失の恐怖ばかりは。巨人の重圧すらも凌駕するものだった。 

 

 

「……そうですか。」 

 

 

優奈が、ため息まじりに呟く。 

ぼくの選んだ答えは、言うまでもなく「いいえ」だった。 

 

優奈の手が、ぼくのいる方に伸びてくる。 

思わず目を覆う。その手に拘束され、さらなる尋問を加えられるものだと疑わなかったから。 

けれど、予想していた力が、ぼくの体にかかることはなかった。 

ただ————おそるおそる目を開けると、傍に置かれていたはずのあの縮小機が、かわりに姿を消していた。 

 

ピピピっ。 

 

その時。頭上から響いたのは、場違いな、けれど聞き覚えのある電子音だった。 

 

「……あ、これがスイッチなんだ。へえー」 

 

胸がざわつく。 

見上げた先、彼女の手の中の縮小機に、緑のランプが灯っている。 

起動状態を示すサインが、灯っている。 

 

「あ。すみませんわたし、1回使ってみたくって。うちでは、高くて買ってもらえないから……」 

 

ぼくの目線に気づいてか、優奈はそう言った。どこかきまりの悪そうな笑いを、その顔に浮かべながら。 

でも分からない。なんで君が、そんなことを言い出すのか。 

君は分かっているはずだ。それがただの縮小機ではないということを。一度試してみたいとか、そんな軽々しい気持ちで触っていいものではないということを、分別のある君ならば、理解しているはずなのに。 

 

「わあ、こんな感じなんだー。縮小できるものが検知されて、えーっと、机に、ペン立てに……あれ?」 

 

ぼくの抱える違和感を他所に、優奈はその危険物を、まるで遊ぶように操作していき、そして。 

 

 

「——さんも、対象になってる……?」 

 

 

 

 

優奈の手が止まる。

ぼくの時間も止まる。


(え……?) 


馬鹿な。今、なんて。

前触れもなく、優奈の口から告げられた、耳を疑うような事実。

ぼくは当然のように、今のこの蟻に等しいサイズが、縮小の限界だと思い込んでいた。 

けれど優奈は言う。そんな今のぼくでさえも、縮小機のレンズは捕らえていると。 

考えたこともなかった。 

今ぼくが見ている、1/100の世界。そこからさらに1/100————つまり、1/10000の世界に堕ちる可能性なんて。 

 

どくん、どくん、どくん————。 

鼓動のギアが上がっていく。 

初の縮小時の、高揚を伴った動機ではない。 

純然たる、動揺によるものだった。 

 

もし、本当に1/10000などという馬鹿げたサイズに成り果ててしまったら。 

想像する。優奈の人差し指の指紋という、出口のない迷宮の中を彷徨い歩くぼくを。 

確かにそこでは、今以上に優奈と名を授かった肉体を強く感覚することができるかもしれない。優奈の指先の温度のほんの1℃の上昇を、皮膚の下に透ける肉の変色を、足元から滲み出す汗を、さながら温泉街の硫黄のように立ち込めるそのにおいを、リアルタイムで感じることができるのかもしれない。 

けれど、所詮それだけだ。 

優奈に干渉することだって、優奈の感情の発露を観測することだって、 

優奈と日常を共有することだって、2度とできはしない。 

それは、優奈を優奈であると感じられなくなるのと同義で————ぼくにとっては、死に等しかった。 

 

そして、気づく。 

そんな、親指ひとつでぼくの世界に終末をもたらすスイッチを————今、優奈が握っているということに。 

 

ぼくは、優奈のことを誰よりも理解しているつもりだった。 

だから、信じている。彼女がそんな馬鹿な、非道な真似をするはずがないと。 

そう思って、顔を上げると————優奈が、口元に静かな笑みを浮かべるのが、見えた。 

 

 

 

「へえー。これ、選んだらどうなるんだろ。」 

 

 

 


はじめ、その声を聞いた瞬間。

優奈がついに、平気で人の命を弄ぶような、倫理に悖る行いに目覚めてしまったものと誤解し、戦慄を抱いた。

けれど、ぼくは今頃になって気づかされる。

はじめから、優奈が一度として、その縮小機が人体にも有効であると認識している、という表明をしていないということに。つまり、今彼女が行おうとしている行為には、一定の正当性が与えられる。

何も知らない少女が、なんの変哲もない縮小機を使用しようとしている————ただ、それだけの話なのだから。表向きには。  


その正当な行為を止められるのは、ひとり、その縮小機の正体を知る者のみ。 

このぼくのはずだった。 

だが、思い出せないはずがない。その場しのぎの嘘によって、愚かにも自ら、その資格を手放してしまったということを。 

ここで彼女を止めると言うことは————自らの嘘を、罪を、洗いざらい吐き出すという行為に等しかった。 

 

このまま、無知を装った彼女に、極小に縮められるか。 

あるいは、嘘を認め、自らの罪を全て白状するか。 

ただ、どちらを選んでも————その先に待つのは、実質の死。 

 

(あ……う……い、いや……) 

 

ぼくは、すがる想いで優奈を仰ぐ。 

その人差し指が、レンズの裏側の液晶に向かって伸びる映像が、スローモーションで再生されている。 

ためらいもせず、彼女は、本気でぼくを————。 

 

 

(…………!いっ、いやだ………いやだっ!!!) 

 

 

ぼくは、選択を放棄して、とにかく走った。 

逃げて、どうなるというのだろう。どこか物陰に隠れて、時間が経って、そうすれば優奈が許してくれると思っていたのだろうか? 

いや、それよりも前に。 

 

 

 

「————どうして逃げるんですか?」 

 

 

 

手近な、鉛筆削りの裏側にでも隠れようと思って、ぼくは走りながら、瞬きもせず、ひたすらその一点ばかりを見据えていた。 

右足をついた時点では、確かにその景色が見えていたのだ。 

けれど、左足を踏み出した時には————既にぼくの視界は、彼女の手のひらの、匂い立つような朱色に、埋め尽くされていた。 

 

(あ、あ……) 

 

どうして、逃げられると思ったんだろう。 

目の前に聳える手のひらの壁が、これでもかというほどに、ぼくの無力を突きつけてくる。 

本来それは、まだ吊り革も掴めないであろう、幼い少女の手のひらのはずなのに。 

 

どうして逃げるんですか? 

そう言った彼女の口調は存外、穏やかだった。微笑さえ浮かべていたのかもしれない。 

だからこそこの手のひらに、ぼくを絶対に逃すまいとするむき出しの意思を見たような気がして、空恐ろしかった。 

 

ひとしきり、ぼくに己の無力をつきつけると、退路を塞いだまま、優奈の手のひらは第二の行動に移り始めた。動作自体は緩慢だったが、淀みはなく————その人差し指と親指で、ぼくの一切の自由を奪った。 

 

そのまま、全身が持ち上がる。つま先に力を入れて、地上にしがみつこうとしたが、恐ろしいほどに無意味だった。必死に足をばたつかせても、2度とそれが地表を掻くことはなかった。 

ぼくを攫った彼女の右手はそれから、ゆっくりと宙を昇っていく。絶叫の瞬間へと誘うアトラクションのように。 

向かう先に、あのおぞましい機械の、無表情で、無機質な円形のレンズが構えているのが見える。 

今、優奈がボタンを押せば、ぼくは、ぼくは。 

 

「ああ、ああああああッ!!!はなっ、離して!!優奈!!!なんで!!!」 

 

盲滅法に暴れる。 

実験台に拘束され、顎を引いて前を見れば、マッドサイエンティストがメスの切先を光らせてゆっくりと歩いてくる。そんなスプラッタ映画のワンシーンのような切迫感を、ぼくは今味わわされている。 

 

 

「そんなに怖がらなくても大丈夫ですよー。だってこんなフツーの縮小機が、人間に効くわけないじゃないですか」 

 

 

無論、優奈のその言葉は、額面通りに、ぼくを安心させるためのものではない。牽制以外の、何物でもない。 

無知と正義を大義名分にした、彼女の残酷さが。 

物腰の柔らかさに反した、拘束の頑強さが。 

ぼくにはたまらなく恐ろしい。 

 

 

「でも、もしほんとに効いちゃったら、ダニくらいになっちゃいますよねー、きっと。」 

 

 

ダニ。 

そんな語が、彼女の口から発せられるのを聞いた時、凍りつく思いがした。 

考えないようにしていた末路。それを、ずけずけと突きつけてくる。以前の彼女であれば、少なくともぼくの前では、そんな物言いはしないはずだった。 

もう気を使う必要もないと感じているのではないか————これから、ダニになる人間に対して。 

 

 

「わ、何これ。現在の身長、1.7センチ、体重73ミリグラム……あはは、こんなの出てくるんだ」 

 

 

はずむような彼女の声が、その内容が、ぼくの精神をぐちゃぐちゃにかき乱す。 

絶望の瞬間は、もうすぐそこまで来ている。彼女が他人事のようにあっけらかんと読み上げるのは、あの日あの時ぼくの目にも流れた、人生のエンドロール。 

もう、どうしようもないのか。ああ、何か逃れる術は、何か、なにか————。 

 

 

「……あれ。なんだろ、急に……」 

 

 

半ば望みを捨てたように、静かに目を閉じたその直後。 

ぼくは、優奈の声色が変わるのを聞いた。 

はじめ、彼女の目の前で何が起こったのかも、その原因も、理解していなかった。 

だが存外すぐに、ぼくは思い出したのである。 

逃れることも、命乞いをすることも叶わないぼくが、唯一行える抵抗があったことを。 

あの縮小機が、何を介して、人体の情報を取得していたのかを。————それは、”目”。 

 

 

「………。」 

 

 

沈黙が訪れる。頬を冷や汗が伝っていく感触がある。 

おおかた、人体データの表示が中断されたというところだろう。 

このまま、機械の故障だと、彼女が諦めてくれればいい。息を殺して、そう祈り続けていた

けれど。 

 

 

「すみません。目を開けてもらってもいいですか?」 

 

 

所詮は、その場しのぎにすぎなかった。 

 

 

(……!…………) 

 

 

優奈の命令に、ぼくの血は凍りつく。 

目を閉じて、ものの数秒だというのに、もうそのからくりに気づいてしまったというのか。こんな状況でなければ、彼女の利口さに感心するところだっただろう。だが今は、その利口さがぼくを脅かそうとしている。 

 

どくん、どくん、どくん————。 

 

優奈が今、どんな顔をして待っているのか知ることができない。命令を受けた今も、ぼくは目を閉じ続けているのだから。沈黙が長引けば長引くほどに、彼女に逆らったという事実がより確かな、ごまかしの効かないものとなっていく。 

それでも、従うわけにはいかなかった。たとえそれが最大の証明になったとしても、目を閉じているしかなかった。こうしていれば、いつか相手の気が変わるのではないかという、ありもしない希望にすがって。それは、借金取りに追われる債務者が、扉の向こうの怒号に震えながら、薄暗い台所で籠城を決め込む様子によく似ていた。 

 

そして、10秒ほど経った頃だろうか。 

 

————はぁ。 

優奈が、ため息をつくのが聞こえた。 

ため息? 

ぼくにはそれが、何か彼女が心の中で打ったピリオドのように聞こえて————寸前、悪寒が走った。 

 

 

「……聞こえてます?」 

 

 

苛立ちを乗せた声。 

感情の矛先は————無論、ぼくだった。 

 

ぎゅ。 

 

「…………!?いっ、あ……、……!!」 

締め付けを増した、彼女の人差し指と、親指。そのはざ間で、ぼくは悲鳴すら満足に絞り出せずにいた。 

だが真実それは、喉を裂くほどの叫声に値する痛苦だった。 

 

(っ————ああああああああッッ!!!!!) 

 

根比べにもならなかった。開幕1秒も経たずして、あまりの強圧に、目を見開いていた。 

ぱき、ぱき。体の内側から、そんな音が鳴っているのが分かる。かろうじて保たれてきた、ぼくと優奈との間の均衡が、崩れていく音だった。 

 

客観的に見れば、優奈はどこにでもいる、普通の小学生の女子だった。ぼくを監禁したあのちさととかいう少女のように、弱者への差別に娯楽を見出したりなどしない。けれど、人並みの偏見と、反発性の感情を持ち合わせていたし、何より、利他に徹せられるほどの大人の余裕は、まだ備わっていなかった。 

そんな少女が。かつては威光を放ちながら、今となっては惨めな虫けらにしか思えなくなってしまった、大人の男を。指先の力だけで屈服させられると、学習してしまったら? 

 

 

「………ッか、は、………!!」 

 

 

ぼくを殺そうとするでもなく、しかし、そこにはもはや寸分の躊躇いもない。 

小さな大人のしつけ方。

そんな知識は当然、小学校の授業では教えてくれないだろう。

しかしそういった知識こそ————彼女のような優等生にとっては、時に劇薬となる。 

 

 

「あ、戻った。」 

 

 

優奈がそう告げると、圧迫から解放される。 

およそ寸前まで虐待行為を働いていた人間のものとは思えないほどに、その口調はけろりとしていた。 

 

 

「ええっと……縮小後の推定値、0.0センチ……」 

 

息も絶え絶えで、くたりと垂れたこうべを上げることすらままならない。目線の先で、白磁のような優奈の鎖骨が、無表情を貫いている。その下では、着崩された薄水色のパーカーの紐がゆらゆらと揺れ、左胸に付けた名札がくすんだ艶を浮かべている。 

しかし、それらもやがて、無機質なひとつ眼の機械の背後に隠される。 

その眼の中央に映し出されていたのは、絶望に満ちたぼくの表情。 

 

 

「……じゃあ、押しますね」 

 

 

ぼくが、自らに縮小機を使用した日の記憶は、はっきりと残っている。 

ボタンを押す、たったそれだけの動作に30分も費やしたのは、後にも先にもあの時だけだった。 

ぼくは自分が思うほどに厭世的ではなかったらしい。直前になって、全てを失うのが、どうしようもなく恐ろしくなった。過呼吸が治らない。壁に手をついていないと、立っていることすらできない。呼吸、発汗、体温上昇、嘔吐。あらゆる生理現象は感情と密に繋がっているが、恐怖には特にそれが顕著だった。 

 

今この時も、あの日の再現のように、ぼくの体は極限の恐怖を表していた。優奈の指がスローモーションで1ミリ目標に近づくごとに、ぼくの心臓は10回脈打った。 

ただ、ぼくの意思など介在する余地もないということだけが、あの時と違っていた。 

受け入れられないまま、未練を残したまま、ボタン一つで、ぼくは世界から消されていく。 

 

(……っ。やめて。やめて。やめて……) 

 

そして————僕の命乞いもむなしく、レンズの裏側で、スイッチが押されたのが分かった。 

視界の右上で、それまで緑色にともっていたランプが、赤色に点滅し始めたのが目に入ったから。 

 

(ああ。あ、あぁ……) 

 

ピッ。ピッ。ピッ————。 

 

この電子音は、忘れるはずがない。 

おそらく人体縮小の際にのみ鳴るのであろう、不穏なピッチとテンポの電子音を。 

全身から、力が、熱が失われていくのを感じる。 

スイッチは、押されてしまったのだ。 

もう。止めることは叶わない。 

 

 

ピッ、ピッ、ピッ、ピ、ピ、ピ、ピ、 

 

 

焦燥感を煽るように、電子音のテンポが尻上がりに加速していく。 

ランプの点滅も加速していく。 

ぼくにはそれが、迫り来る死神の足音に等しく聞こえる。 

 

(あ。あ。あ………!) 

 

ピ、ピ、ピピピピピピピピピピ————————。 

 

機械のボルテージが最高潮に達しようとしている。 

まるで、まだ見ぬ次元の縮小への悦びを隠しきれないといった様子で。 

音は次第に、遠くなっていく。視界が薄ぼけていく。 

 

 

————ピーーー………。 

 

 

消えゆく意識が最後に捉えたのは、電子音の収束だった。 

それが意味するところは、もはや言葉にするまでもない。 

 

かくして、ぼくは、10000分の1の存在となった。 


 

 


意識が明けた。

目の前にあるのは、最前まで見ていたのと変わらない景色だった。


10000分の1でも、意外に見える景色は変わらないのだろうか、などと的外れな感想を抱いていると、抑揚のない音声がぼくに真実を告げた。


《縮小が、キャンセルされました。》 

 

 

その時、ぼくは遅れて、自分の股下が温かく湿っているのに気づいた。 

じょろっ、じょろっ、じょろっ…………。 

ひと筋の液体が、ぼくの内腿を伝い、汚れなき少女の指先の曲線に沿って流れ出していた。 

再び、顔を上げると。レンズは今も、ぼくのそんな情けない姿へと向けられていた。 

 

 

「……最ッ低。」

 

 

その向こうで、吐き捨てるように呟く、優奈の声が聞こえた。