4話-2

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4.立冬

 

翌朝。布団への未練を感じながら、わたしは食卓に出された目玉焼きの黄身を崩していた。 

時刻は6時10分。蛍光灯の明かりと、ミルクココアの湯気。そして、台所の方で心菜の弁当を詰める、母の背中。 

 

「連絡帳はしまったの?」 

「うん」 

 

わたしに背を向けたまま、お母さんが声をかけてくる。いつものやりとりだった。 

テレビでは、朝の番組が流れている。しし座は5位で、ラッキーアイテムはリップクリーム、以前からの困りごとが解決するかも、らしい。 

占いが終わると、ニュースのコーナーに切り替わった。メジャーリーグに行ったなんとか投手が何勝目を挙げたとか、あまり興味のない話題から始まり、わたしの目線は目玉焼きへと戻っていた。けれど、不意に耳に入ってきた内容に、箸を持つ手が止まる。 

 

 

《——それでは、次のニュースに参りましょう。縮小機が人体に対して作動する事故が発生です。》 

《発覚は、SNSに寄せられたある一連の投稿から————。『やばい見て。小人拾っちゃったんだけど。なんか縮小機で小さくなっちゃったって言ってる』投稿されたのは、一昨日の13時24分。………》 

 

報道の中で、人体の縮小機能が確認された機器の特徴が説明されていた。 

それはまぎれもなく、あの人が所持していたそれと同じものだった。 

 

 

 

昨日の夜。 

わたしはあの人に関する全ての真相を知った。 

保身を続け、最後には失禁までしてしまったあの人に対して、わたしは最低とまで言い放ってしまった。 

年甲斐もなくお漏らしをする姿のみっともなさに?あるいは、汚らわしさに? 

それらも、全くないといえば嘘になる。けれど1番は、裏切られたことに対する失望の念からだった。別に恩を着せようなんて思っていなかったけれど、それでも、わたしは何のためにこんな人の世話をしてきたのだろうと、その瞬間に思ってしまったからだった。 

 

「これ使って、自分から小さくなったんですか?」 

 

「……うん」 

 

「嘘ついてたんですか?」 

 

「……ごめんなさい……」 

 

久しぶりにつないだ会話で、わたしは彼とこんな問答をした。 

まるで子どもを叱る大人の図だ。わたしが子どもで、彼が大人のはずなのに。 

それに、気のせいとは思えない程度には、彼の口調が幼くなっていて、薄気味悪かった。 

 

「あっ、あの、ぼく、優奈が……すき、で。それで……。」 

 

挙句、こんなことを言い出す始末。 

 

「……はぁ?」 

 

思わず声に出してしまっていた。だから何?というところまで出そうになったのを、ぐっと飲み込んだ。直後に、あの人が雷にでも撃たれたみたいに硬直していたのが、一層わたしを苛立たせた。 

いっそ本当に、ダニみたいに縮めてしまおうかと思った。 

 

 




「怖いねぇ。人も縮めちゃうんだって……」   


箸を止めたままテレビの方を注視していると、いつの間にか向かい側の席についていたお母さんが語りかけてきた。 


 「あ、うん……。」  


わたしはそれに、曖昧な返事しか返せない。 

ママ、わたしそれ持ってるよ。 

……なんて、もちろん言えるはずもなかった。 

 

いや。 

いっそのこと、全部言ってしまおうか。 

 

あのねママ。 

隣の人、行方不明になったって言ってたでしょ。 

その人も、実は小さくなってて、わたし、保護したの。 

でも、なんか。その人、「ロリコン」らしくて。 

ねえママ、わたし、どうすればいいのかな……。 

 

けれどやはり、それらの言葉は喉元まで出かかっては消えてを繰り返すばかり。きっと言えば、お母さんは警察に連絡して、わたしと彼を引き離してくれると思う。でも、だからこそわたしは言えなかった。それはひょっとしたら、過保護な親に対していじめの相談をできない子の心境に似ていたのかもしれない。 

結局、わたしはうつむいて、諦めたように箸を動かし始めていた。 

崩しっぱなしだった卵黄は、白身を伝って皿の上へと溢れ、固まってこびりついてしまっていた。 


 




ブラスバンドの朝練から戻ると、5年2組の教室内は今朝のあのニュースで話題騒然————なんてことはなかった。

窓際で他愛もないことで駄弁っていたり、机に集まって消しゴムをぶつけ合ったり、端の席で学級文庫の本を読んでいたり。要するに、いつもと変わらない光景。

ため息をついて、着席する。のんきだなあ、なんて思う反面、わたしはどこかで気が休まる思いもしていた。学校に来てまであの件について考えたくはなかったから。

それからすぐに、始業のチャイムが鳴り、皆一様に慌てたように自分の席に着いていく。 そこまではやはり、いつも通りの運びだった。

けれど。

おかしい。どういうわけか、チャイムから5分が経ち、にぎわいの余韻が去ってもまだ、担任の後藤先生が現れない。

正確に言えば、8時のチャイムから8時10分までは読書タイムとなっていて、朝の会はその後なのだけれど、いつもであれば8時きっかりに後藤先生が教室に入ってくるはずだった。 

一部の子たち、とりわけ読書なんかに興味のない男子たちは、先生が遅れているのをいいことに、チャイムによって途切らされたおしゃべりを再開しだしていた。そして、8時10分の本鈴が鳴っても、教室前の扉が開かれることはなかった。 

 

 

「先生、遅いねー……」 

 

最近、席替えで隣の席になった坂井風香ふうかちゃんが耳打ちしてくる。 

ミディアムヘアに、ドット模様の入った紺色のカチューシャがよく似合う子だった。 

 

「ね。どうしたんだろ……」 

 

後藤先生は、接しやすい人柄で生徒にも比較的好かれてはいるけれど、根が真面目な人という感じで、自他共に対して時間には厳しかった。そんな先生が、一体なぜ、今日に限って————。 

 

(………、) 

 

今朝のニュースの内容が、その時、頭をよぎった。 

 

(……うそ。まさか) 

 

思い浮かんだ、ひとつの可能性。 

教室のざわつきは次第に大きくなっていき、席を立つものさえ出始めている。きっと、わたしと同じ懸念を抱いている子なんて、その中には誰一人としていないのだと思う。 

わたしははじめ、彼らの呑気さに呆れ、羨ましいとすら感じていた。けれど、本当に呑気だったのはわたしの方なのかもしれない。 

その効力を目の当たりにしておきながら————先生。友達。家族。いつ身近な人間が被害に遭い、姿を消してもおかしくないということを、理解できていなかったのだから。 

 

目眩がする。大きくなっているはずの喧騒が、わたしの耳には、次第に遠ざかっていくように感じられる。 

人間が小さくなるということがどういうことかを、わたしは知っている。 

もし本当に先生が、誰かの手によって無差別に小さくされ、そのまま野に放り出されでもしていたら、十中八九、もう、助からない。 

探し出して保護しようにも、わたしには彼が今どの地にいるのかさえ分からない。 

せめて、この学校の中で縮んでしまったというのであれば、まだ探しようもあるのだけれど、それも考えづらい。だって、それだとつまり先生や職員さんの中に犯人がいるということになるのだ。わたしの知る限りでは、そんな危険で、かつ迂闊な人物はこの学校の中にはいないはずだった。 

だから、そう。たとえば、自らこの敷地内で縮んだのでもなければ————。 

 

 

(………、) 

 

そこまで考えて、息を飲む。 

 

後藤先生は、男の先生だ。歳は30代前半くらいで、独身で、細身で、そう、ちょうど、あの人のような背格好の————。 

 

だから。あるいは、と、わたしは考えてしまったのだ。 

 

 

 

「何やってんの?笑」 

 

声がかかり、はっと現実に引き戻される。 

振り向くと、隣の席で風香ちゃんが苦笑していた。 

 

「え。あーいや、ちょっと……ね。あはは」 

 

出し抜けに上履きを脱いで、その中身を目を細めて覗きだしたら、誰だって不思議に思うだろう。わたしの要領を得ない返事に、風香ちゃんは、ふうん?と首を傾げていた。 

……恥ずかしい。弁明したい気持ちでいっぱいだ。けれど多分、世の中には自分から小さくなって女子の靴に入りたがる大人がいる、なんて話を彼女にしても、やっぱり首を傾げられるだけだろう。 

言葉にするだけでも、馬鹿馬鹿しく思えてくる。……もちろん、わたしの上履きの片方には、後藤先生は入っていなかったし、もう片方は……確認する気が起きなかった。 

 

 

「おいっ、先生きた、先生!」 

 

直後に、見張りに出ていたお調子者の男子が、狼でも出たみたいに教室中に呼びかけていた。 

見事なもので、ガラガラガラ、と入り口の戸が開けられるまでのものの数秒の間に、立ち歩いていた子たちも皆それぞれの席に収まっていた。 

 

「やーごめんごめん、遅くなった!」 

 

教壇に急ぎ足を叩きつけながら、後藤先生が現れる。教卓に乱雑に手荷物を下ろすと、空いた手の甲で額の汗を拭っていた。 

 

「先生遅刻じゃーん!」 

 

どこかから、茶化すような声が飛ぶ。先生はそれに苦笑を浮かべて応じていた。 

 

「いやー急に電車が止まっちゃって……って、そんなこと話してる時間もないね。号令お願いできる?ええと、日直は……」 

 

「はーい、わたしです。……きりーつ。きをつけー。れい」 

 

おはよぉございまぁす。 

 

「はい、おはようございます!じゃあね、早速出席を……」 

 

————。 

停滞していた教室の中の時間が、わたしを置いてけぼりにして、急速に流れ出したような錯覚に、わたしは陥っていた。 

そんな状況でも、皆に合わせて朝の挨拶と着席だけは済ませられるのだから、条件反射というのは大したものだと思う。 

 

……とにかく、後藤先生は五体満足で教卓の後ろに立っていて、それを見るにわたしの心配は杞憂に終わったということらしい。 

 

 

「山井壮太くん」 

「はい元気です」 

 

「渡辺蓮くん」 

「ハイ元気です!」 

 

「足立果穂さん」 

「はい、ちょっと喉が痛いです」 

 

 

出席には、一人一人の性格がよく表れるなと、わたしは時折思うことがある。 

競うように声を張り上げる者もいれば、反対に素っ気ない者もいるし、手をぴんと伸ばすようにあげる者もいれば、肘の高さまでの者もいる。 

またそれは子どもたちだけでなく、出席を取る先生にも言えることだった。 

後藤先生は一人一人に微笑みかけるようにして出席を取る。人のいい笑顔とはああいうのを指して言うのだろうな、と思う。 

 

 

「佐藤優奈さん」 

 

そして、わたしの名が呼ばれる。 

先生と目が合う。にこりと微笑む。いつもなら何気なく発せていた返事が、その一瞬、詰まりかける。胸の内に、やましさが渦巻く。 

わたしは、一時でも考えてしまったのだ。この人が、先生が————児童の履く上履きに身を投じたがるような、「ロリコン」である可能性を。目があった瞬間に、そのことを自覚させられた。 

 

 

「——はい、元気です。」 

 

 

つとめて、平静を装い、返事をする。 

そんなわたしの演技に、おそらく不自然なところはなかったのだと思う。先生の笑顔は滞りなく、次の子へと移り去っていた。 

わたしはひとり、胸を撫で下ろす。 

 

けれど、先生方をはじめとする大人の人たちや、あるいはまた同級生の男子たちを、もう以前と同じようには見られないだろうという予感が、わたしの中にはあった。 

何も知らなかった頃には、もう、戻れないのだ。 

 





帰宅後、荷物を置きに子ども部屋に立ち入ると、こつん、と足先に何か硬い物が当たった。

視線を落とすと、積み木が転がっていた。そしてよく見ると、他にもおもちゃや文具といった類のものが、ほうぼうに散らかされている。

犯人は、火を見るより明らかである。

「ねぇね、おかえり!」 

ちょうど台風の目のような位置から、心菜がわたしに呼びかけてきた。  


「ちょっと、なにこれ……?」 

 

床のものを踏んづけないように注意を払いながら、わたしは彼女に歩み寄っていった。 

 

「あのね、いまね、かくれんぼしてるの」 

「かくれんぼ……?」 

「うん、こびとさんとね」 

 

あぁ……。 

という微妙な反応を返すことしかできず、わたしはそれ以上の追及をやめた。 

 

「どうでもいいけど、ちゃんと片しなよー……?」 

「はーい」 

 

それだけ言うと、わたしはランドセルをフックにかけて、机に向かい、今日の分の宿題に取り掛かり始めた。漢字ドリルと、算数のプリント。30分もあれば終わる量だろう。 

 

10分そこらで漢字の書き取りを終わらせて、軽く伸びをする。どうもまだ、学校での気疲れが残っている感じがする。 

算数のプリントに着手する前に、背後を一瞥すると、心菜がまだ「かくれんぼ」に興じている。 

机に向き直り、二つ折りの跡が残るプリントを手でならしながら、わたしは思う。 

これで、よかったのだろうか。 

 

昨晩、心菜にあの人を渡したのは、その場の思いつきにすぎなかった。後のことなど何も考えていない。ただ、お世話する責任を手放すのに1番手短な方法に思えたのだ。それに、心菜自身がたびたび「こびとさん」への未練を見せていたというのも丁度良かった。 

 

 

————ここちゃん。見てこれ。じゃーん。 

 

————わっ、こびとさん!ねーね、見つけたの? 

 

————まーねー。ここちゃんさ、前こびとさん欲しがってたでしょ? 

 

————うん、うんっ。 

 

————はい、あげる。手―出して。 

 

 

一も二もなく差し出された、心菜の小さな手のひらに向けて、わたしは「こびとさん」を乗せていた手をそっと傾けた。「こびとさん」は、石ころが坂道を転がっていくようにするすると落ちていき、心菜の手に着地————とはならず、落下の寸前でわたしの人差し指の先っぽにしがみついて、そこから離れようとしなかった。 

ちさとやうっぴぃが用いた「懐いてる」という表現が不意に思い出され、鳥肌が立つ。即座に親指の爪でこそぐと、それはあっけなく心菜の手のひらに落ちていった。 

最後に「こびとさん」は、蚊の羽音のような声でわたしに何かを訴えていたけれど、それも間も無く、大事そうに握りしめられた心菜の手の中に消えてしまい、2度と届くことはなかった。 

 

 




算数のプリントを済ませて、席を立った時にも、心菜はまだあの人を見つけられていないらしかった。

きょろきょろと動き回る視線がわたしの方に向くと、彼女は泣きそうな声で言った。

「ねぇね、こびとさん見つからない……」 

こうして泣きついてきたのが、鬼として相手を見つけられない悔しさからでないことは分かる。「こびとさん」が自分のせいで逃げ出してしまったのではないかと、不安で仕方ないのだろう。

わたしはそれに対して、どう応じてやるべきか計りかねていた。

正直に言えば、彼が本当に逃げたというのであればそれで良かったのだ。あの人が勝手に出て行って、勝手に雀の子にでも啄まれようと、もはやわたしの知ったことじゃない。 

でも実際には、まだこの部屋のどこかに潜んでいて————今もきっと、わたしのことを見ている。そんな状況を見過ごしておくこともできない。 

 

はぁ……。ひとつ、ため息をつく。 

多分、わたしが彼を見つけるのは簡単だ。方法は、いくつか思いつく。でも、どれもあまり実践する気にはなれないようなものばかりだった。 

 

「……分かった。じゃあお姉ちゃんも一緒に探すから。わたしはこっち見ておくから、ここちゃんはあっちお願い」 

「うん……」 

 

心菜は、素直にわたしの指示に従った。 

別に、役割分担をする必要なんてなかった。ただなんとなく、今からすることを妹に見られるのが恥ずかしかったから。 

 

……恥ずかしい? 

わたしは一体、何を恥じらっているのだろう。こんなの毎晩、習慣として行ってきたことにすぎないのに。 

そしてわたしは、気が進まないながらも————左足の靴下を脱いで、床に落とした。 

ぱたっ。着地する音が、わりに大きく立った。今日履いていった靴下が、膝丈で少し重さがあるというのもあったけれど、わたしは意図して、音が鳴るようにそれを落とした。あの人の耳に、届くように。 

続けて、右足の靴下も脱いで、重ねるように落とす。両足の裏に、初冬のフローリングの冷たさが直に伝わり、ほんの一瞬、目を覆った。 

そして今、わたしの眼下には、自身の脱ぎ捨てた一足の靴下が置かれている。 

紺色の地に、アクセントのように入れられた一本の白い直線。それはくちゃくちゃになった繊維に合わせて、見る影もなく崩れている。口のゴムの付近に刺繍された小さなハートのアップリケも、中に飲み込まれてしまって、もう見えない。そして、紺色だった地の一部は薄白くくすんでいて————すっかり、汚れてしまっている。 

わたしはそこから、目を逸らすようにして歩き出す。 

ぺた。ぺた。ぺた。一歩、わたしの素足が床を踏むたびに、そんな音が立てられる。 

 

「こびとさーん。出ておいでー」 

 

どこに向けてでもなく、そう呼びかける。 

自分で発しておいて、その感情のこもっていない声が、少しおかしかった。 

そういえば前にも、こんな風にあの人を探したことがあったっけ。あの時はもっと、色々な感情に追い立てられていたような気がするけれど。 

三度ほど、呼びかけを繰り返すと、わたしはそっと、背後を振り返る。 

 

————いる。 

 

目を細めて見ると、視線の先に、小さなゴミのような点がひとつ。 

罠と知ってか知らずか、ゴミのようなそれはゆっくりと、しかし確実に、数十センチ先の、わたしの脱ぎ捨てた靴下に向かって進んでいた。 

 

「————ねえ。ここちゃん、あそこ、」 

 

わたしの声に、傍らで背中を丸めて床面を探していた心菜が反応する。 

顔を上げて、わたしの指が示す先をしばらく見つめていたが、やがてその表情がぱあっと明るくなる。 

 

「…………こびとさん!!」 

 

気づくやいなや、心菜は飛び上がるようにその方に向かって行った。 

……本当に、小さな怪獣って感じ。床に散らばったおもちゃ達を蹴飛ばしながら接近する妹の姿を見て、わたしはそう思う。 

怪獣の襲撃に気づいたらしい小さな影は、踵を返して逃げ始めていた。けれど、虫取り網を振るように叩きつけられた心菜の手の下に、あっけなく捕われていた。 

 

 

「こびとさん、つかまえたー!もう逃げちゃだめだからねー」 

 

 

無くしたおもちゃを見つけて、はしゃぐ心菜。 

その横で、わたしはひとり、使い終えた靴下を拾い上げる。 

 

……これで、よかったのかな。 

 

わたしはまた、胸に問う。 

去年の冬に買ってもらった、お気に入りの靴下だった。だから本当は、こんなことに使いたくはなかった。 

結局、あの人に触れられることもないままに終わったけれど、わたしは何か、洗濯したってもう二度と消えることのない汚れが、その靴下についてしまったような気がしていた。 

 

 

 



正直に言ってわたしは、心菜が数日のうちに「こびとさん」を死なせてしまう可能性の方が高いのではないかと考えていた。そして————彼女に「こびとさん」を与えたのは、それも承知の上でのことだった。

けれど意外なことに、潰してしまうどころか、手足を損なうようなこともなく、心菜は「こびとさん」の飼育を続けられている。

いつも以上に大事に扱っているのか。それとも、あの人の方が必死に生にしがみついているのか……わたしの見る限りでは、こっちなんじゃないかなと思う。

餌やりやトイレ掃除まで全部心菜に任せて、わたしはなるべく関与しないように心がけていた。それでも、彼女の「小人遊び」に、姉として時々付き合わされることはあった。 積み木を延々と登らせたり。ままごとをやらせたり。牛乳の中を泳がせたり。お外に出て、蟻と戦わせたり。

そういう時、あの人が救いを求めるように見てくることがあるのだけれど、わたしはいつも見て見ぬ振り。  


「がんばれー。こびとさん。」 

 

心菜に合わせて、冷めた笑顔を貼り付けて、ただ機械のように手を叩いているだけ。 

そんなわたしを見て、あの人は悲しげに立ち尽くすのだけれど、やがて諦めたように、目の前の壁に向き直る。 

 

(……自業自得じゃん) 

これが、誰かによって否応なく押し付けられた運命であったのなら、まだ同情の余地もあったかもしれない。けれど、「こびとさん」として生き方を選んだのは、他でもない、あの人自身で。それを今更になって助けて欲しいなんて……ほんと、馬鹿じゃないの、って感じ。 

 

遊びが終われば、心菜はあの人をケースに入れて、わたしの机の引き出しに片付ける。そうするように事前に決めていた。管理までを心菜に任せるのは、色々と心許なかったから。 

……管理といっても、わたしは何かするでもなく、ただ場所を提供しているだけに過ぎないのだけれど。 

だから、文具などを取ろうと引き出しを開けると、いつもわたしの目には、そのケースが目に入る。蓋全体に、わたしの字で「こびとさんのおうち」と書かれたラベルが、セロハンテープで貼りつけられていた。そのおかげで、わたしはいちいち、中にいるあの人の姿を目にしなくて済んでいる。 

毎日、家に帰れば心菜が「こびとさん」で遊んでいて。冬休みに入っても、同じような日々は続いて。 

気がつけば、もう1月。3学期に入っていた。 

 





5.雪解け

今朝は、昨晩に降った初雪が積もっていた。

毛糸の手袋や長靴に加えて、インフルエンザが流行っているのでマスクという格好で、わたしは家を出た。 

時刻は朝の6時半をすぎた頃。いつもは億劫な朝練だけど、今日に限っては、雪景色を独り占めできるのが少し嬉しい。 

はあっ。 

マスクを外して息を吐けば、白く色づいて、また消える。 

足を踏み出せば、長靴が雪の中にずぶりと沈んで、綺麗な靴跡を作り出す。 

歩いているだけで楽しい。雪の日は好きだった。 

 

今日は、新学期が始まって最初の授業日だった。 

曇り空で陽の差さない教室には、午前から蛍光灯の灯りがつき、黒板の脇では、 

昨日から導入された筒型のストーブが灯っている。 

ある者は雪に浮かれ、ある者はうとうとと眠気に誘われ、わたしは……そのどちらもだった。 

 

そんな日の午後。 

積雪でグラウンドが使える状態ではなかっため、5時間目に予定されていた体育は、保健の授業に変更になった。 

3階の廊下の1番端にある、視聴覚室。ネイビーのカーペットが敷かれたその室内に、上履きを脱いで足を踏み入れると、かすかに埃っぽく、それでいてどこか心の落ち着くようなにおいが鼻をくすぐった。 

授業が始まると、カーテンが閉められて暗くなった室内の壁に、プロジェクターによってビデオが映される。タイトルは『私たちの心とからだ〜男女の違いを理解しよう〜』。 

 

《……思春期になると、性ホルモンの分泌が活発になり、心とからだに様々な変化が現れます。例えば、男子は、声変わりや、髭が生えてくるなど、女子は、乳房が膨らみ、……》 

 

体育座りで、出席番号の順に並んだクラスの子たちは皆、静かにスクリーンの映像を見つめていた。時折列の後ろの方で、ちんちん、なんて囁いて、クスクス笑う声も聞こえた。 

タイトルの通り、男女間で性差があるということを教えるというのが、このビデオの目的らしい。 

例えば女子なら、月経の時期になると感情が不安定になるだとか、男子なら、女子に比べて性的な欲求が起こりやすく、そうして分泌された精液は体外に排出する必要があるだとか。 

そうした性差をからかったり、差別したりしないようにすることが大事であると、このビデオは伝えていた。 

 

授業が終わり、わたしたちは教室への道をまばらになって歩いていた。45分の間、暗い部屋でビデオを見せられていたのだから、ちょっとした映画を観た後のような心地だった。同じような気分でいるのか、どこかゆったりとした足取りで歩んでいる子が多いように見える。そしていつもより、口数が少なかった。特に、女子たちは。 

 

 

「ねーえ、生理ってもう来た?」 

 

あまり空気を読まない性格のうっぴぃが、一緒に歩いていたわたしと、ちさとに聞いてきた。 

 

「まだ」 

 

振り向きもせず、ちさとが短く答える。 

 

「わたしも〜」 

 

続いてわたしも答える。 

 

「よかったぁ、みんなまだなんだ。だって聞いて?こないだ1組の莉愛に聞いたら、4年の時に来たって言うんだもん」 

「マジ?はや……」 

「人によるんじゃん?塾の友達でももう来てるって子いたし」 

 

わたしは思い返す、ちょうど今日のブラスバンドの活動から、4年生の子達が体験で参加していた。でもわたしたち5年生に比べたらまだ小さい印象だし、6年の先輩たちに比べたらなおさらだ。あの子たちの中にも、もう大人になっている子はいたのだろうか。……もちろん、そんなことは聞けないけど。うっぴぃが特別なだけで。 

 

その時、前の方で、男子たちの騒ぐ声が聞こえた。 

 

「こいつボッキしてまーす!」 

「バッカ、やめろマジで!」 

 

廊下を走り、通り過ぎる人たちに言いふらして回っているのが1人、それを止めようとしているのがもう1人。 

 

「バカだね〜、男子は……」 

うっぴぃは呆れたように言う。そう言いながらも笑っていたけれど、おそらくああいった男子を心の底から軽蔑しているであろうちさとは、初めから彼らが存在していないかのように、目もくれていなかった。 

 

「ねーふたりはさ、おちんちん見たことある?」 

「……はぁ?」 

 

うっぴぃの問いかけに、わたしとちさとの反応が重なった。 

 

「てかちさとは、トシくんのおちんちん見たことあるでしょ?」 

「死ね」 

 

「トシくん」というのは、ちさとの同い年のカレシのことだ。ちさとはわたしたちに話すとき、彼のことを「大塚くん」と呼ぶのだけれど、LINEで「トシくん」と呼んでるのをうっぴぃに見られて以来、ことあるごとにそのことをからかわれている。 

 

「……ていうか、それを言うならゆーなの方がいつでも見れると思うけど?」 

「え、わたし?」 

「ほらー、あのペットがいるじゃん」 

 

いたずらっぽく、ちさとが言う。 

 

「たしかに、見放題じゃん。いいなーっ」 

 

うっぴぃまで。 

2人の中ではもう、あの人はわたしのペットだということで通っているらしい。 

……ペットと言われてすぐに何のことか分かってしまうわたしも、似たようなものか。 

 

「見ないってそんなの……それに、もう妹にあげちゃったし」 

「ええっ、なんで!?もったいなっ」 

「なんでって、」 

 

色々な理由があって、色々な経緯があった。 

それを説明するのに、ちょうどいい言葉は何だろうと考えて。 

 

「……ロリコンだから?」 

 

わたしは、そう答えた。 

 

「えぇー、いいじゃ〜ん!すぐ懐いてくれそうで」 

 

ミミズでもオケラでもロリコンでも、自分に懐いてくれればそれでいいというのがうっぴぃの考えらしい。そして、いつもは彼女をたしなめる役目のちさとまで、それもそうか、真面目に頷いている。……わたしが、おかしいのかな。 

 

「でもさー、そうなると今度は、心菜ちゃんが危ないね」 

「まっさかぁ。6歳だよ?」 

 

ちさとの言葉を、わたしは笑って否定する。言った本人もまた、本気で危ぶんでいるようには見えなかった。 

 

「あーあ、ウチも早くおむかえしたいなぁー。小人ペット……」 

 

教室に近づくにつれて、休み時間の活気が少しずつ廊下に現れ始めている。 

うっぴぃのぼやきは、そんな活気の中に、人知れず流れていく。 

 

あの縮小機に関する報道がされてから、早2ヶ月。わたしたちの生活にも変化が見え始めていた。 

案の定といえばいいのか、縮小機を利用した犯罪も徐々に起こり始めていて、社会は少なからず混乱に陥っている。あの人が白状した、眼を通じて人体の情報を得るという仕組みもすでに解明されていた。その影響もあってか、サングラスや目深な帽子などがファッションとして流行ったりもしている……らしい。 

幸い、わたしの身近なところでは、まだその被害にあったという話は聞かない。けれど身を案じてのことか、以前より外に出て遊ぶ子どもは少なくなっていた。 

一方で、あまり事態を重く受け止めていない子もいる。というか、わたしくらいの年齢だとそういう子の方が多いくらいかもしれない。 

小人のペットを手に入れたがっている、うっぴぃもその1人だ。……たぶんそういう子たちにとって、ニュースの中の出来事はあくまでニュースの中の出来事で、自分たちだけは安全圏にいるという意識が、どこかにあるのだと思う。 

小さくなった人を見つけても、勝手に持ち帰ってはいけません。警察の人に届けるようにしましょう。 

そういう指導がわたしたちの学校でも行われたし、各所でも同様の注意がなされている。けれどそれにどれだけの効果があるのかは分からない。また裏を返せば————世の中に、被害者の小人を私物化してしまう人間が、それだけ存在するということでもあった。 



 



帰りの時間には、朝積もっていた雪はすでにほとんど溶けていた。道の端を見れば、かき分けられた雪がまだかろうじて残っていたけれど、それも泥や枯れ葉で茶色く濁っていて、あまり触ったりする気にはなれなかった。

薄暗くて、タバコの匂いが染み付いた、マンションの入り口をくぐる。ポストの中身を確認してから、エレベーターのボタンを押す。

4階の廊下に出ると、西から差す穏やかな夕日が、わたしを出迎える。どこかから、ざっ、ざっ、とわら箒を走らせる音や、奥様方が立ち話をしている声が聞こえてくる。廊下の外に目をやれば、道路を挟んだ向かいのマンションの住人が、ベランダに干した洗濯物を取り込んでいるのが見える。

いつもと変わらない、夕暮れ時。

けれど、どこかから……おそらく下の階から聞こえてくる、立ち話の内容に、廊下を進んでいたわたしの足が止まる。



————そういえば、おととい刑事さんが訪ねてきたんだけど…… 

 

————あぁ、それ、私のとこにも来た。あれでしょう?406号室の人の…… 

 

————そうそう。例の縮小機と同じ型のがその部屋から大量に見つかったとか言って、その人のことで何か知ってることはないかって…… 

 

————なんか、不気味よねえ。 

 

————ねえー。私、その人のことあまり知らなかったんだけど、奥さんどう? 

 

————何回かお会いしたことあるけど、もともと何考えてるかよく分からなくて不気味な人って感じだったわよぉ。だから私…… 

 

 

(………。) 

 

奥様たちの話す、警察の聞き込み調査は、わたしの所にも来ていた。 

けれど、それついてはどうでもよかった。その時は、たまたま家にいたお母さんが対応してくれたし、わたしや心菜に話が及ぶこともなかった。……わたしはともかく、心菜が口を滑らせる可能性は大いにあったから、その時は気が気じゃなかったけど。 

気にかかったのはむしろ、奥様たちが口にした、あの人の印象の方だった。 

確かにわたしにだって、あの人の考えることは全くもって理解できないし、彼を拾ってから数ヶ月間、気味が悪いと感じたことも、一度や二度ではない。 

でも、それはあの人が小さくなった後の話で……まだ人間の大きさであった頃には、少なくともわたしは、そんな印象を受けたことがなかった。 

いつも笑顔で挨拶を返してくれて。エレベーターで一緒になった時は、わたしの話を楽しそうに聞いてくれて。……引っ越してきて、苗字が変わって、辛かった時期は、何かと気にかけてくれて。 

わたしが、鈍感だっただけで、もとから不審なところはあったのだろうか。あるいは、全て、わたしを騙すための演技だったのだろうか。 

それとも————わたしの前でだけは、優しい大人でいられた、ということなのだろうか。 

心から、笑えていたのだろうか。 

……今となっては、もう、何だっていいことなのだけど。 

 




「ただいまぁー」 


帰宅。 

薄暗い玄関で、長靴を脱ぎ、マフラーを外し、結局使うことのなかった傘を傘立てに戻す。

幅の狭い廊下が伸びる先、居間の方から、テレビの音が聞こえて来る。心菜がアニメを見ているのだろう。顔を出して、「ただいま」と一声かけてから、わたしは子供部屋に歩いていった。

いつもなら、友達と遊ぶ予定のない日は、帰ってすぐに机に向かうようにしているのだけど。

新学期最初の授業日だったこともあって、今日は宿題が何も出ていなかった。 

何をしようかと考え、わたしは読みかけの「りぼん」の今月号があったのを思い出し、本棚に寝かせておいたそれを取り出した。 

しおり(これは何ヶ月前かの号に付録として付いてきたものだ)を挟んでいたページを開くと、今月から新連載となる作品の扉ページだった。どうやら過去にも連載を持っていた漫画家さんの復帰作らしいけれど、去年からこの雑誌を買い始めたばかりだから、知らなかった。 

床上に敷いたクッションに腰を下ろして、わたしはその作品を読み始める。 

 

…… 

主人公の女の子は、高校1年生。夢見がちな性格で、背が低いのをほんの少しコンプレックスに感じているらしい。 

そんな彼女が、恋に落ちる。「狂犬」と悪名高い、3年の先輩に。他校の不良生徒に絡まれているところを、助けてもらったことがきっかけだった。 

“女は行動力”がモットーの彼女。狂犬先輩の学年とクラスを知ると、早速放課後に呼び出して、告白する。 

「つまんねえことで呼び出してんじゃねぇよクソチビ」 

あえなく撃沈。唾を吐き捨てて踵を返す狂犬先輩。恋心は一転、(何なのよアイツ!)とご立腹の主人公。もう顔も見たくないとさえ思っていた。 

けれど、そんな狂犬先輩がある日、突如縮小機を使われて、小さくなってしまう。その狂犬ぶり故に、彼は色んな者から恨みを買っていた。その中の1人による犯行だった。 

そしてなんやかんやあって、主人公が小さくなった狂犬先輩を見つけて、てんやわんやあって、そのままお世話することになって————。 

 

……どこかで見たような話だ。細部は、似ても似つかないけれど。 

わたしは、次の作品を扉を見ることもないまま、雑誌を閉じて、床に置いた。 

 

 

「……なんなの。」 

 

 

ため息混じりに、思わずつぶやいていた。 

あの人のことなんか、別に思い出したくもないのに。今日は、そんなことばかり。 

天井をしばらくぼんやりと仰いだ後、わたしは、視線を横に移す。 

机の下の、キャスター付きの引き出しの、上から2番目。 

その中に、今もあの人はひとり、閉じ込められている。 

 

(…………) 

 

雑誌の続きを読む気にもなれず。 

思い出した手前、わたしはその様子を見てみることにした。 

思えば、姿を見るのは随分久しぶりのことかもしれない。 

最近はもう、心菜も一人で小人遊びをするようになっていたから。 

……ちゃんと、お世話はしてあげてるのだろうか。 

引き出しを開けて、その奥にある「こびとさんのおうち」というラベルの貼られたケースを取り出して、蓋を外す。 

けれど。 

 

(あれ。いない……) 

 

そこにあるはずの小人の姿が、見当たらない。 

トイレがわりのティッシュや、腐りかけのゼリーの切れ端を取り除いても、その姿は出てこない。 

心菜が持ち出しているのだろうか?でもあの時は、居間でアニメを見ていて、あの人と遊んでいるような様子もないように見えた。 

 

……ぱた。 

ケースの蓋を閉じて、引き出しにしまう。 

何をそんなに気にすることがあるのだろう。居間に向かいながら、自分でも思う。 

薄暗い廊下を抜けて、ドアを開けると————心菜の見ていたアニメの音声が、わたしを出迎える。 

 

「ねえここちゃん。こびとさん知ってる?」 

 

わたしの声に、心菜が振り向く。 

 

「しははい……」 

「え?」 

 

何を言っているのか、うまく聞き取れなかった。 

けれど、わたしが聞き返しても、心菜はふるふると首を横に振るだけで、何も答えようとしない。……というよりも、口を開こうとしない、と言う感じだった。 

何か食べているのだろうか? 

気になって心菜の前のローテーブルに目をやったものの、そこにはお菓子の箱も、飴の包み紙もなかった。 

 

「ここちゃん、何食べてるの?」 

 

わたしは笑顔で、心菜に尋ねる。 

その笑顔は、心菜に向けたという言うよりも、わたし自身の心を落ち着けるためのものだったかもしれない。 

ふるふる。 

そんなわたしに対して、心菜はやっぱり、何も言わずに首を振るだけ。 

 

「……お口開けてごらん?」 

 

だんだんと、笑顔が保てなくなっていく感覚があった。 

心菜の目は、わたしの顔と、その後ろのテレビとを、おろおろと行ったり来たりしていた。 

……きっと、今がいい場面で、本当は見逃したくなかったのかもしれない。まだ幼い彼女は、その素直な気持ちを捨てることも、優先することもできないのだろう。 

けれど、わたしが一歩前に詰め寄ると、その目は逃げ場を失ったように動きを止めた。 

 

「いいから」 

 

思わず、語気が強くなっていた。 

ぴく、と目の前の小さな肩が跳ねる。 

目の下に涙を溜めながら、観念したように、心菜は口を開ける。 

 

んあ。 

 

小さな乳歯に囲まれた、真新しいピンク色の舌。 

その上に————まるで罠にかかったゴキブリのように、貼り付いて身動きも取れずにいる、あの人の姿があった。 

 

ああ、やっぱり————。 

向かい合ったまま、わたしと心菜の間に言葉はなく、アニメのキャラクターの気合いの入ったセリフだけが、その場に虚しく流れていた。 

 

「……ここ。駄目でしょこびとさん食べちゃ。吐いて」 

 

やっとの思いで絞り出した言葉。 

わたしの差し出した手の上に、心菜の口から、あの人が吐き出された。 

妹とはいえ、他人の唾が手に触れる感覚というのは、落ち着かない。 

————まして、それが全身にとあれば、一体どんな感覚なのか。わたしには、想像もつかない。 

 

「……なんでこんなことしたの?」 

 

わたしの問いに、心菜は慌てたように答える。 

 

「だって、こびとさん口に入れてあげるとね、よろこぶんだよ、ほんとだよ……!」 

 

心菜の言い訳を聞いていると、手のひらに、何かこそばゆい感触を覚えた。 

目をやれば、あの人がボウフラのように身悶えている。何度か、見覚えのある動き。 

そして、眉根を寄せて注視してみると。あの人の小さな腕が、体のある一点に伸びて、上下運動を繰り返しているのが分かる。 

さらに観察を続けていると、やがてその一点から————小さな、本当に小さな飛沫が、2、3度上がったのが見えた。 

 

(……これって、) 

 

わたしはそれを、今まで、苦悶のサインだと思っていた。 

けれど、違う。学校の授業で、言葉で教えられただけだけど。どうしてか、わたしには分かった。 

わたしの手の上で、わたしの妹の唾にまみれながら————この人は、「射精」をしているんだ、って。 

 

 

「……ねえ。こんなこと、いつもやってたの?」 

 

 

さっきの心菜の口ぶりには、今日以外にも何度か、あの人を口に入れたことがあるような含みがあった。 

今日だって、たまたまわたしが吐かせたから良かった。でも、もしわたしが気づいていなければ、きっと今頃、あの人は、まだ幼い心菜の口の中で————。 

 

「うん……」 

 

心菜が頷く。きっと彼女は、何も知らない。そしてまた、何も知るべきではないのだとも思う。 

 

————でも、そうなると今度は、心菜ちゃんが危ないね。 

 

学校での、ちさとの言葉を思い出して、頭を抱える。 

心菜に飼育を任せたのは、あの人がどんな危ない目に遭わされようと、もはやどうでも良くなったからだった。 

心菜の身の危険なんて、考えもしてなかった。 

そして、それを知ってしまった以上————もう、見過ごしておくこともできない。 

 

 

「……ここ、ごめん。やっぱりこびとさん、わたしが飼うことにするから」 

 

 



 

水道水の、全身が張り詰めるほどの冷たさを感じながら、わたしはシンクにたまった食器や調理用具をひとつひとつ洗っていく。

かしゃ、くしゅくしゅ、じゃーっ。かしゃ、くしゅくしゅ、じゃーっ……。

静かな夜の台所に、そんな音が繰り返される。

皿洗いほど嫌な作業ってあるのだろうか。つまらないし。疲れるし。冷たいし。汚いし。物寂しいし。綺麗に洗っても、またすぐに汚れることが決まっている、虚しい作業。

でも、わたしがやらなくちゃいけない。わたしはこの家の「お姉ちゃん」なんだから。


……ちゃぽ。  


スポンジが泡立たなくなり、水を止める。手を伸ばして、流し台の奥にある洗剤のボトルを取り、反対の手にもっていたスポンジに口を向ける。 

 

ふしゅ、ふしゅっ…… 

 

……出が悪い。かろうじて今日の分は足りそうだけど、後でお母さんへの伝言用のボードに書いておかないと。 

絞ったために、少し凹んだボトルを、もとあった場所に置く。そして、シンクの中に視線を戻す。 

排水口が詰まって、溜まった水。浮いた油汚れ。お皿は、まだあと半分くらい残っている。 

はぁ。わたしはひとり、ため息をつく。 

 

……お姉ちゃんって、ほんと、嫌な役回りだな。 

 

 

 

————こびとさん、わたしが飼うことにするから。 

 

わたしの独断による決定に、心菜はもちろん意義を唱えた。 

もう食べないよ、言うこと聞くよ、と、涙ながらにわたしに訴えていた。ちゃんとお世話してるのに、なんで、とも。 

実際、「遊び」の内容はともかくとして、心菜は「こびとさん」に関するわたしの言いつけをある程度忠実に守っていた。だから少し心苦しくもあったけれど、わたしはその言い分の一切を聞き入れることなく、最後まで押し切った。心菜は、ほとんど、癇癪を起こしたように泣きじゃくっていた。 

 

あの子のためにはこれで良かったのだと、何度も自分に言い聞かせていた。 

……でも、もう、嫌われてしまったかもしれない。 

 

不運にも、というべきなのか、今日は月に一度の、わたしが夜ご飯を作る日だった。……と言っても、お母さんが書いてくれたメモになぞって作っていくだけなのだけれど。献立は、麻婆豆腐と中華スープ。あとは白ご飯。 

作るのは面倒だけど、できたものを食卓に並べて、家族と一緒に食べるのが楽しい。それが、わたしにとってのお料理。 

でも今日は、その逆で。一人のキッチンより、心菜と二人きりの、無言の食卓の方が憂鬱だった。 

 

「……ねえここ、今度ママに、ペットショップ連れてってもらおうよ。そしたらさ、メダカさんとか、ハムちゃんとか、買ってもらえるかもしれないし。ここちゃんが欲しいんだったら、わたしからもお願いしてみるから」 

 

わたしが話しかけても、心菜は「いらない」とぶっきらぼうに答えるばかり。会話は、それきりだった。 

 

……心菜だって。 

わたしの心の中を、黒い渦が巻く。 

心菜だって、いつもわがままばっかりのくせに。でもそれは全部、無邪気さで片付けられて。 

わたしが一回でもわがままを言えば、こんな風にそっぽを向かれて。お母さんにも怒られる。 

……お姉ちゃんなんて、嫌なことばっかり。 

 

沈黙に包まれた食卓に、カトラリーの冷たい金属音だけが鳴り続ける。 

「ごちそうさま」 

わたしよりも先に、心菜はそう言って席を立った。皿を見れば、わたしへの当てつけみたいに、麻婆豆腐がまだ半分残っている。 

ちゃんと残さず食べな、と、離れていく小さな背中を呼び止めようとするけれど、いつもなら簡単に言えるそんな言葉が、喉の奥に詰まって、出ない。 

ひとり食卓に残されたわたしは、すっかり冷めてしまった料理を、口に運んでいく。 

心菜の味覚に合わせて、辛さ抑えて作った麻婆豆腐。 

でも、抑えすぎたのか、あまり味が分からなくなっていた。 



 

 


皿洗いを終えて、入浴と歯磨きも済ませて、部屋に戻る。明かりをつけると、既に布団を被っていた心菜が、その中で小さく、寝返りを打つ音がした。


心菜を起こさないように、時間割を揃える。全て済ませてから、机の上に置いていたスマホに触れると、9時42分と表示されていた。少し早いけど、ちょっとyoutubeでも見たら、わたしも寝てしまおう。


2段ベッドの梯子を登る。そのまま、枕に頭を預けようとした時、脇に置かれていたクリップケースが目に入る。……そういえば、心菜が取れないように、没収した後、ここに置いていたのだった。


(……もう、これもいらないよね)  


べりべりっ。 

ケースの蓋に貼っていた「こびとさんのおうち」のラベルを剥がして、くしゃくしゃに丸める。 

遮る物の無くなった蓋の上から中を覗けば、あの人が床面に転がっていた。剥がす時の振動に耐えられず、倒れてしまったのかもしれない。 

 

蓋を開けて、ケースを逆さにすると、その小さな体が、ぽとりと、シーツの上に落ちる。しばらくじっと動かなかったけれど、やがて彼は、シーツの皺に足を取られながらも、のろのろと進み出した。そして————無意識に置いていた、わたしの手の親指に、抱きつくように触れた。 

少しばかり、こそばゆいような感触。子猫のように無邪気に、わたしの指に頬擦りをしている。 

わたしははじめ、黙ってその様を眺めていたけれど、少しずつその間抜けな仕草に、苛立ちが芽生えてくる。 

……全部、この人のせいじゃん。心菜に嫌われたのも。わたしの気分が晴れないのも。 

全部、全部、ぜんぶ。この人さえ、いなければ。 

 

ぴっ。 

わたしは人差し指で、親指の先に付いたあの人をはじいた。 

3センチ先に飛んだあの人は、痛みで、尺取り虫のようにのたくっている。 

構わず、わたしはもう一度、あの人をはじいた。今度は、デコピンで。5センチくらい飛んで、ますます痛そうにしている。 

途端に、今までの全てがどうでもよくなっていた。わたしはなんで気を遣っていたんだろう。こんな雑魚に。こんなクズに。こんなロリコンに。こんな虫に。 

もう一度デコピンして。飛んで、痛がって。またデコピンして、飛んで、痛がって。何度も何度も繰り返して。えいっ、えいっ。しねっ、しねっ。と、無心に呟きながら。 

胸のすく思いがする。本当はずっと、心のどこかに、こういうことをしてみたいという思いがあったのかもしれない。あるいは、小さなあの人を拾ったあの日から。 

やがてそうするのにも飽きてきた頃には、あの人はボロ雑巾のように動かなくなっていた。 

 

(……死んだかな) 

 

興味も失ったわたしは、パジャマのポケットからスマホを取り出して、仰向けになって、youtubeのアプリを起動した。 

インフルエンサーの人が、最近発売されたコスメを紹介している動画を、ぼーっと眺める。……わたしの家では、買ってもらえないだろうけど。だからこそ、こういう動画を見るのは好きだった。それに、この人は昔、母子家庭の長女として育ったらしくて、勝手にシンパシーを寄せていた。今は色々思う通りに行かなくても、大人になればこの人みたいに、好きなことができるようになるのかな。そんな風に、勇気をもらうこともあった。 

16分の動画も、あと残り2分というとき、左手の指に、こそばゆい感触を覚えた。 

動画を止めて目をやると……やっぱり、あの人だった。満身創痍になりながらも、さっきみたいに、わたしの親指に甘えるように頬擦りしている。 

ため息をついて、スマホを閉じる。 

まだ生きてんたんだ、と思った。でも不思議と、さっきまでのような嫌悪感が消え落ちていた。ヒトの大人としてさえ見なければ、わたしの指にも勝てないか弱い生き物が、ただじゃれているというだけのことだった。 

だからか————はじめて、ほんの少しだけ、この生き物に興味が湧いた。 

わたしはそれを右手の指で摘んで、顔に近づけて、観察してみる。 

分かっていたけれど、本当に小さい。かろうじて拘束の外にある足の先が小刻みに動いていたけれど、それより上は、微動だにしていない。わたしの指の間に、挟まれているというより、埋もれているといった方が正しそうなくらいだった。 

しばらく見つめていると、ふと、目が合う。その瞬間、かろうじて動いていた小さな足が、ふっと止まるのが見えた。 

そして。 

 

(……あ、) 

 

埋もれていて、目には見えないけれど。どこかコリコリとした感触と、位置で分かった。 

あの人が、わたしの人差し指に、おちんちんを擦り付けだしたことを。 

わたしの指先で。わたしに見つめられて。切なそうにして。あの人は「射精」を行なっている。 

 

……はっきり言って、気持ち悪いと感じないわけではなかった。でも、彼のこの「射精」行動に、少しは寛容になってあげてもいいのかもしれないと、わたしはどこかで思うようになっていた。今日の5時間目の保健の授業で、それが男の子にとって必要な行いであると習ったというのもある。それに、こんな小さな生き物が何をしたところで、結局は、取るに足らないこと。 

蚊やダニみたいに血を吸うことも、ゴキブリやハエみたいに雑菌を媒介することもない。やることといえば、こうしてわたしの指におちんちんを擦り付けて、ほんの少し湿らせるだけ。 

その程度の生き物に対して、いちいち青筋を立てる必要もないということに、わたしは今更にして気づくのだった。 

それだけのことを許すことができなかったから、6歳の妹に矛先が向く、なんてことが起きてしまった。だから、もうそんなことにならないように————わたしが、この人の「射精」の面倒を、見てあげるしかないのだ。これからは、この人の、飼い主として。 

 

……それにしても。 

ずいぶんと「射精」に時間をかけているみたい。こうしてただ見ているだけ、というのも退屈に感じてくる。それに案外、片手を固定したままの状態は疲れるものだった。 

手っ取り早く「射精」させる方法が、思い浮かばないわけじゃない。その実例を、ついさっき、わたしはこの目で見たばかりなのだ。そして————奇しくも、そうするのに頃合いの高さに、あの人を擁するわたしの指が、浮いている。 

 

ためらいがあった。 

常識とか、道徳とか、衛生とか、性のこととか。何も知らなければ、きっと心菜みたいに気安く実行できたのだろうけど……わたしは違う。それをしてしまえば、今わたしの指先で悶えている小人が「悪い大人」であるように、わたしまで「悪い子」になってしまうような気がして。 

なのに。わたしがこの手を降ろさないのは。かすかな、胸の高鳴りを感じるのは。 

たぶん、心のどこかで、そうしたいって思っていたから。ほんの小さなものだったとしても————「悪い子」になってみたい、って気持ちがあったから。 

 





優奈、久しぶりに会った。うれしかった。うれしくて。うれしくて。

でも、なんだか、優奈、かなしそう。だからぼくは、優奈のおっきな指を、だきしめた。すこしささくれている、優奈の、親指。そんな顔しないで。げんきだして。

ギャ!優奈が、ぼくをつきとばした。いたい。そのあとも、何回も、何回も、ぼくを、つきとばした。

いたい、いたいよ。やめて、しんじゃう、優奈、いたいよ……。

でも。ぼくのこと、いじめる優奈、ちょっと、たのしそう。

いたいの、いやだけど。優奈がたのしいと、ぼくも、うれしい。いたい、うれしい、いたい、うれしい……。


きぜつしてたみたい。 

からだ、いたい。あざだらけ。あるくと、もっといたい。 

でも、うれしい。優奈が、いたくしてくれた。 

優奈、すき。優奈、どこ?あっ、優奈、いた! 

いたいの、がまんしながら、あるいた。優奈の、おっきな指、見つけた。 

すりすり。 

(優奈、すき。優奈、すき……) 

すりすり。 

(ココナ、いや。優奈、すき。優奈……) 

すりすり。 

(優奈、やっと、あえた。いかないで、優奈、いっしょいたい、ずっと……) 

 

むぐ。 

優奈、ぼく、つかまえた。 

うごけない。なにも、みえない。優奈の指が、おっきくて。 

でも、なんだか、つめたい。ぬれてる?それに、くんくん。いいにおい。みかんと、あわのにおい。 

つめたい優奈の手も、すき。 

あぅ。 

優奈、ぼくのこと、見てる。きれいで、おっきな、優奈のおめめ。 

うう。 

そんなに見ないで。 

見られたら、ぼく。ぼく。 

うー。おちんちんが……。 

優奈っ、すき、すきっ。優奈っ、優奈っ。 

すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、すき、優奈、…………。 

 

(……?) 

 

なんだろう。 

かぜが、ふいてる。すごく、あったかい。 

あったかくて、じめじめして。それに、くらくらするような、におい。 

ふりかえってみる。 

 

(わ、あ……) 

 

そこには、優奈のくちびるが、あった。 

くちびるが、少しだけひらいていて。そこから、あったかいかぜが、ふきつけて、ぼくのかみのけ、ばさばさと、ゆらす。 

ぼくのからだが、シャワーをあびたみたいに、ぬれる。ぬめぬめと。 

ふうぅ。 

はあぁ。 

優奈が、いきをすって、はいて。ぼくのからだ、優奈のいきで、いっぱいになっていく。 

 

(あ、う……) 

 

ココナに、何度も食べられた。 

いやじゃなかった。でも、それがいやだった。 

ぼくは、ずっと、優奈に、たべられたかった。 

優奈、あいしてる。だから。 

くらくてせまいおうちで、いっぱい、いっぱい、ないて。ぼくのからだにのこった、ココナのつばを、優奈のつばだとおもって、おちんちん、さわった。きもちいいけれど、それだけで。さびしくて、かなしかった。 

 

(……すご、い……。) 

 

うそみたいだった。ゆめ、みてるのかな。 

優奈のくちびるが、ちかくなる。ぐんぐん、ぐんぐん。 

もう、優奈のくちびるしか、見えない。 

どきどきする。こんな。だって。 

 

(これが、優奈の、くちびる) 

 

ココナのくちびるよりも、おっきくて。 

ココナのくちびるよりも、いろあざやかで。 

ココナのくちびるよりも、かわいていて。 

そんな、優奈のくちびるが。 

てをのばしたら、さわれそうなくらい、ちかくにあって。 

 

(あ、優奈……) 

 

ねちゃ……。 

優奈の、くちびるのむこうから、音がする。 

あかいくちびるに、くろいすきまが、あいていく。 

 

(ぼくを、たべてくれるんだ) 

 

 

ぶわあっ。 

優奈のいきを、まぢかで、顔にあびる。 

けほっけほっ。 

それは、ココナのいきよりも、ねつっぽくて。においも、すごくて。ぼくは、むせかえる。 

くろいすきまから、優奈の、上の歯があらわれる。 

それは、ココナの、あかちゃんの歯とはちがって、きれいで、するどくて、おそろしい、おとなの歯で。ぼくは、ぞくぞくする。 

くちびるのすきまが、ゆっくりと広がっていく。 

それは、ココナの、かいじゅうみたいな、くちのあけかたではなくて。はずかしがるような、にんげんの、おんなのこの、くちのあけかたで。ぼくは、どきどきする。 

つぅー……。 

はなれていく、うえのくちびると、したのくちびる。そのあいだを、優奈のつばが、ほそい糸となって、のびる。 

それは、ココナのつばよりも、もっと、べとべと、ねとねととしていそうで。ぼくは、もっと、どきどきする。 

優奈の口の中が、見えはじめる。 

ぴんく色にかがやく、優奈のべろが、ゆっくりと、顔をだす。 

ぼくという、おやつを、たべるために。 

 

(うれしい、) 

 

優奈のべろが、近づいて。 

そのうち、優奈のべろの、ひだひだしか、見えなくなって。むし風呂みたいに、あつい空気が、ぼくを包み込んで。 

べちゃっ。 

プールにとびこんだみたいに、ぼくの視界で、優奈のつばが、はじける。 

くちのなかが、優奈のつばで、いっぱいになる。それだけじゃなくて。目も、耳も、鼻も、 

優奈のつばで、いっぱいになる。 

あたまから、足まで、優奈のつばで、べとべとに、濡れて。 

手や足をうごかすたびに、優奈つばが、ねちゃねちゃと音を立てて。 

いきをするたびに、優奈のつばのにおいで、あたまがくらくらして。 

けほっ。けほっ。けほっ。せきこんで、はきだしたものすら、ぜんぶ、優奈の、つばで。 

 

ねばついて、たいへんだったけど、ようやく、ぼくは、顔をあげる。 

そこは、優奈のくちのなかだった。 

せかいでいちばん、うつしくしいばしょ。 

ずっと、ゆめにみていた、ばしょだった。 

 

(……ありがとう、優奈……。) 

 

けしきが、しずかに、くらくなっていく。 

優奈が、くちを、とじていく。べろのうえに、ぼくをのせたまま。 

けしきが、まっくらになる。もう、なにも、見えない。そとの音も、なにも、きこえない。 

どくん。どくん。 

ぴちゃん。ぴちゃん。 

優奈の、くちのなかの音。 

きいていると、なんだか、しずかなきもちになっていく。 

優奈にたべられた、たべものも、みんな、こんなきもちになったのかな。 

 

ごおおぉ……。 

ぼくのからだが、ういていく。ううん、優奈のべろが、うごいているんだ。 

ずちゅ。優奈のくちのてっぺんに、おしつけられる。おおきなべろは、そのまま、ぼくのからだを、れろ、れろ、となめる。 

しゅわん。しゅわん。 

優奈のくちのなかが、つばで、みたされていく。おおきなべろが、あばれて、そのつばに、なみをおこす。そのべろに、つばのなみに、ぼくは、まきこまれる。 

くちゅり、くちゅり。 

優奈のつばのうみに、ぼくのたましいが、とろけていく…………。 

 





人間を。

それも、見知った大人の人を食べるなんて、当然、わたしにとっては、未知の体験だったわけで。

けれどやってみれば、たいしたことはなくて、なんだか拍子抜けだった。

お米の粒をねぶるのと、それに、いったい何の違いがあったのか、わたしには分からない。

何か刺激みたいなものがあったとすれば、むしろ、その後の方だった。


ぺ。 つまらなくなって、口の中のものを吐き出した。 

……また洗面所に行って、洗ってあげなきゃダメだよね。面倒に思いながら、手の上に吐き出した、あの人を見た時のこと。 

 

(……え……?) 

 

————なに、これ。わたしは、言葉を失った。 

あの人は、わたしの唾液まみれだった。口の中で舐めていたのだから、当たり前の話ではあるのだけれど。文字だけでは言い表せないくらいに、それはわたしにとって、衝撃的な光景だったのだ。 

つぷつぷと、にぶい泡を立てる唾液。わたしの口から流れた、きたないもの。 

その中に、糸くずのようにくたびれた、かつては人だったはずのものが含まれている。クリームシチューに溶けたにんじんか、あるいは、吐瀉物の中の、消化し損なった食べ物の残骸みたいに。 

うまく、言えないけど。 

廊下は走っちゃいけないとか、宿題をやらなくちゃいけないとか、プリントは親に渡さなきゃいけないとか。 

ルールで整備された世界と、その中で生きる自分の裏側にあるものを、そこに見てしまったような気がして。 

わたしは、手を洗いにいくのもわすれて、ベッドの上で、その姿を眺めていた。股の下でじんじんと疼く感情をどう扱えばいいのか、この時のわたしには、まだ、分からなかった。 

 




 

6.愛玩動物

初めて、意思のある人間を口の中に入れたその夜が、佐藤優奈という少女の人生における特異点になったかといえば、そんなことはなく。長期的に見れば、彼女の人格形成の過程で生える、ほんの小さな枝の一つが伸びる方向を、少し変えた程度のものにすぎない。

けれども、その日から彼女が、正式にこの男の飼い主となったということだけは、確かな事実だった。 

 

まず、餌やりやトイレの処理についてだが、これについては、以前のやり方と大きくは変わらない。ケースにゼリーを入れて、ちぎったティッシュをトイレ代わりにしてというスタイルは、ベースとして受け継がれた。 

ただ、母親が不在の夜には、人間の食事を与えることもあった。食事を終えた後に、自分の皿に残ったわずかな食べ残しを、台所でこっそりと与えるというやり方で。雑に皿の中に投じるだけで勝手に食べてくれるうえ、米粒の一つでも事足りるから、優奈にとってそれが何か負担になるようなことはなかった。別に心菜には見られても問題はなく、本来隠れて行う必要もないのだが、かといって進んで見せるようなものでもなかった。 

……ところで、その心菜は、一週間も経たないうちに小人への執着など忘れて、別の遊びに興味を示すようになっていた。姉優奈に対しても、元のように無邪気な笑顔を見せるようになった。現金さに呆れつつも、優奈にとってはそれが、何よりもの救いだった。 

 

飼育用のクリップケースについては、心菜がまだ梯子を登れないでいるうちは、2段ベッドの上の、自身の枕元に置いておくことに決めていた。ケースが小さい分、以前同じ位置に虫かごを置いていた時のように、寝返りによって意図せず倒してしまうようなこともなかった。 

また寛容さと、飼い主としての責任から、優奈は就寝前の時間に、必要とあれば、ペットの小人の射精の世話をするようになっていた。 

そのことに都合が良いというのも、あった。 

 

「おいで、とと。」 

 

優奈がそう言うと、「とと」と呼ばれた小人は、お風呂上がりで少しふやけた彼女の手に歩み寄り、その上に乗りあがっる。 

「とと」————それが、ペットとして男に与えられた、新しい名前だった。 

隣に住んでいたから、とと。某国民的映画作品からとってきた名前だったが、そのまま当てるのは、なんとなく憚られた。 

 

「じゃあさー、名前つけてあげたら?」 

 

妹に預けていた小人を、結局自分が買うことになったと伝えた際に、親友の「うっぴぃ」こと内山陽菜が発した、そんなひとことがきっかけだった。 

はじめは優奈も乗り気ではなかった。もともと、名前が必要なほどの愛情など、寄せるつもりもなかったのだから。 

けれど。「とと」と呼ぶことで、優奈は、手のひらの中心で発情する小さなペットが、もとは顔を毎朝挨拶を交わしていた人間であったことを、思い出さずに済んでいた。そして男の方でもまた、彼女に「とと」と呼ばれるたびに、少しずつ自身の人間性が剥奪されていくのを感じていた。 

 

このあたりの時期、優奈は一度だけ、以前の方法で男とのコミュニケーションを試みたことがあった。けれど、鳴き声のようにユウナ、ユウナと繰り返すばかりで、既に会話は成り立たなくなっていた。 

そんな男に最後に残った人間性とは。性欲の具体性と、そして非合理性だけだった。 

 

やがて、冬が去り。小鳥たちがさえずり、蕾が芽吹きはじめて。 

優奈は、6年生に進級した。