4話-3(終)

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7.進級

  「行ってきまーす!」 

春の陽気に包まれた外廊下に、二重ふたえの明るい声が響く。 

その声を辿ったところには、2つのランドセルが並んで揺れている。一方は、角が少し擦れていたり、金属部分に黒いサビが点在していたりと、少し年季が入った様相の、パステルピンクのランドセル。もう一方は、表面が磨かれたようにピカピカな、新品の赤いランドセル。 

その二つの間を、大小の手のひらが繋いでいた。 

 

はじめての、姉妹一緒の登校。 

優奈にとっては、小学校最後の1年の。心菜にとっては、待ちに待った小学校生活の。幕開けとなる朝だった。 

 




 

ブラスバンドの朝練が始まってからというもの、朝早い時間の、閑散とした正門を通ることがほとんどだったから、8時前のその場所の賑わいぶりに、優奈は少し面を食らっていた。


千代沢小学校の入学式は、昨日行われた。始業式も同日に行われたが、時間が違ったために、二人で一緒になることはなかった。

今日は在校生にとっては、新年度最初の授業日。新一年生にとっては、入学直後のオリエンテーションの日である。

人混みの中にちらほら、不安そうに、あるいは興味津々と言った感じで、敷地内をきょろきょろと見回している姿が見える。そのほとんどが、母親と手を繋いで歩いている。

本来新一年生は、最初の一週間はあんな風に、親と一緒に登下校することになっていた。けれど二人の母幸恵は、仕事上朝の付き添いが難しく、代わりに姉である優奈がその役目を任されていた。彼女は彼女で、本来は朝練に出ているはずだったのだが、その一週間は特別に、顧問の先生から欠席が認められていた。ちなみに下校の際は、通常通り母が迎えに来ることになっていた。


様々な学年の児童でごった返す中、優奈は見知った顔を見つけた。 向こうも気づいた様子で、人混みをかき分けて、優奈の方に歩み寄ってくる。  


「ゆーなおはよ〜!……わーっ、ここちゃんも一緒だ〜」 

 

6歳児の目線に合わせて腰をかがめたその少女は、優奈の親友の内山陽菜だった。 

彼女とは今年も一緒のクラスである。残念ながらもう一人の親友、菅谷知里とはクラスが分かれてしまったが、ブラスバンドの練習に戻れば、顔を合わせる機会も増えるだろうと、優奈はそれほど気にしていなかった。 

 

「あっ、うっぴーだー!」 

「はーい、うっぴぃお姉ちゃんだよ〜」 

 

人見知りしがちな心菜も、このように、陽菜にはすっかり打ち解けている様子。 

何度も家に遊びに来ていたためではあっただが、同時に、彼女のあけすけな気質によるところも大きかった。 

 

「今日はねぇねと一緒に来たの〜?」 

「うん!」 

「そっか〜。どお?はじめての学校」 

「ひろいっ」 

「ねー、広いよねー!じゃあさじゃあさ、お昼の時間、お姉ちゃんたちと一緒に探検しない?」 

「するー!」 

「よかったね、ここ」 

 

周りを見れば、自分以外の一年生はみんな、お母さんと一緒。 

自分だけが、みんなと違っている。 

心菜にはそれが分かっていたが、寂しくはなかった。 

自分の手を握ってくれる、少し大きな2つの手を、彼女はおさな心に、誇らしく思った。 

 

 

 

————ところで。優奈は学校にいる間、あの「とと」と名づけたペットをどうしていたか。 

定位置の枕元に置きっぱなしにしておけば、いつかのように、布団を剥がしにきた母親に見つかる恐れがある。かといって、机の引き出しのような、安易に妹の手に触れられる場所に置いておくこともできない。 

この2つの問題を解決するのに、最も手っ取り早い方法は、学校に持っていくこと。ポケットの中に入れたり、筆箱の中にしまったり、やり方はいくらでも考えられるだろう。けれど、それにもリスクがある。うっかり誰かに見られてしまったり、どこかで落としてしまったり。じっさい彼女は一度、校内で落としてしまったそのペットが、偶然にも親友に拾われ、1ヶ月の間戻ってこなかったという経験をしているのだ。 

たが優奈は、そういったリスクを排除しつつ、男を学校に持ち出す方法を知っていた。 

誰に見られることもない、紛失する可能性も限りなく低い。そんな隠し場所を、彼女は知っていた。 

何か小さなものを隠すには、格好の場所だった。 

……ひとつの大きな倫理的・衛生的欠陥に目を瞑れば、の話ではあったが。 

 

 

——見て見てっ、おさかなさんいっぱいっ。 

 

——すごいでしょ〜、しかもこのおさかなさんたちね、なんと、100年も前からこの池に住んでるんだってー。 

 

——ええーっ。 

 

——ここ気をつけなよー、このお姉ちゃん嘘しか言わないんだから。 

 

 

(うあ、優奈) 

 

壁を2枚隔てた向こう側の世界に住まう、少女たちの、談笑の声。暗闇の中、男はひとり、その声を聞いていた。 

それも束の間の話で、男の世界に再び、激しい混沌が訪れる。 

突如として、揺れ出した世界。前も、後ろも、上も、下も。全てが混ざり合い、無に帰す。地を離れた体は、ピンポン玉のようにあちこちにぶつけられ、新しい痛みが、絶えず生まれては、また新しい痛みで書き換えられていく。 

そんな、自由意志が失われた世界で。男は自身が果たして実存を保っているのかどうかすらも、分からなくなっていった。混沌を組織する思念体のひとつであるかのような感覚に陥った。 

そんな混沌の中で、ただ一つ保たれていた秩序があった。 

におい。ほんのりと酸っぱくて、目の奥が締まるような臭い。 

どこに流れても変わらないこの臭いだけが、この世界と、混沌の中の男とを繋ぎ止めていた。 

 

「懐かしいよねーっ。わたしが一年生だった頃思い出しちゃう」 

 

優奈は喋りながら、一歩、また一歩、歩みを進める。その間も絶えず、混沌の嵐が男を撹乱し続ける。恐らくは、下駄箱の前で靴を履き替え、階段を登り、新しい教室に足を踏み入れて、自席に腰を下ろすその時まで。 

 

————自らの履く、靴下の中。それこそが、日中の男の隠し場所に、優奈が選んだ場所だった。 

 

優奈が男を靴下に入れて登校するのは、今日に始まったことではない。 

ペットとしての名を与えて、少し経った頃から、すでに行い始めていたことだった。 

はじめこそ、逡巡もあった。 

合理性と、性処理の一環という名目によって実行に踏み切ったものの、はしたなくて、非常識で、非人道的な行為だという意識を、善良な少女はやはり捨てきれなかった。授業中もずっと、足の指の間で小さな生き物がもぞもぞと動く感触がして、肉体的にも心理的にも落ち着かなかった。 

 

けれど今となっては、自身の靴下の中に意思のある小人を投じることに、彼女は何の葛藤も、後ろめたさも感じはしない。左胸に安全ピンで名札を留めるのと、何ら変わらない行為だった。 

 

「いい?ここちゃん。靴はここで履き替えて、ちゃんと下駄箱に入れるんだからね、わかった?」 

「はーい」 

 

右も左も分からぬ妹に、目線を合わせて、付きっきりで学校生活のいろはを教えてあげている間も。優奈はその靴下の中に、男を閉じ込めていて。 

 

 

「……で、みなさんは6年生になったわけですから、最高学年としての自覚を持って、メリハリのある行動を……」 

 

新しい担任の先生の話を、ぼんやりと聞き流している時も。優奈は無意識理に、靴下の中の男を、足の指で揉みしだいていて。 

 

 

「佐藤優奈です、趣味は絵を描いたり、本を読んだりすることです。よろしくお願いしますっ」 

 

クラスメイトたちの前に立って、はきはきと自己紹介をしている時でさえ。優奈の上履きの内側では、1人の人間が、その素足の臭いに、温度に、悶え狂っていて。 

けれど教室の中には、当然ながら誰一人として、それに気づく者などいなかった。 



 



4月。5月。6月。7月。

小学校生活最後の一年は、これまでに比して忙しく、優奈にはあっという間に過ぎていくように感じられた。

ブラスバンドでは、アルトホルンのパートリーダーに任命されたり。美化委員会で、委員長として色々な仕事を任されたり。たてわり活動で、少々手のかかる一年生の子の面倒を見たり。

その間もずっと、男は、靴下の虜囚だった。

平日約20日。登下校やブラスバンドの朝練を含め、1日9時間の修学時間。1か月につき少なくとも180時間を、男は、優奈の靴下の中で過ごしていることになる。

未来ある子どもたちが勉学に励み、同年代の大人たちが、それぞれの形で社会に貢献しているその180時間。男は一人の小学6年生の女子児童の履物の中で、その臭いに脳を侵されながら、足の指の溝に顔をうずめ、汗を舐めては、猿のように射精を繰り返していた。


むろん優奈も、足先の彼の不浄な行いには気づいていた。気づいていながら、それを故意に咎めることも、手伝うこともしなかった。

ただ、こんなことを続けていたら、いつか誰かに知られてしまうのではないか。そんな、漠然とした不安があった。

母親に、妹。クラスメイトに、先生。自分が、拾った小人を靴下に入れているなんて知ったら、みんな、どんな顔をするのだろう。 

時折、そんな風に考えることがあった。 


 


 


一度だけ、学校で見つけられそうになったことがある。6年に進級して、はじめての水泳の時間のこと。

更衣室で靴下を脱いだ際に、優奈は気付かずに、中にいた男を落としてしまったのだ。

その頃には既に、つい入れていることを忘れかけるくらいには、男の存在がつま先に馴染んでいた。学校で靴下を脱ぐ機会など滅多になかったから、気の緩みもあった。

優奈が自身の過失に気づいたのは、40分後、水泳の授業を終えて、ロッカーから巻きタオルを取り出そうとした時のことだった。


「やだ……虫いるっ……!」


近くにいた女子から、そんな張り詰めた声が上がるのを聞いて、咄嗟に、優奈は振り向く。

青ざめた表情で、一点を見下ろす少女。その視線の先に、1匹の小さな不快害虫。————優奈はすぐに、その虫が、自らのペットであることを悟った。


優奈はその女子とあまり話したことはなかったが、比較的、大人しい子という印象を持っていた。ある程度の常識も、おそらくは、持ち合わせている子だった。だから、足元の小さな点が、哀れな被縮小者であると分かっていれば、彼女は手を差し伸べていたかもしれなかった。 

けれど。普段かけている眼鏡を、プールから上がったばかりの彼女は、かけていなかったのである。 

 

人間様に目をつけられて、その虫は、分かりやすく固まっていた。もっとも、怯えていたのは彼女も同じであったから、ここで逃げ出せていれば、平和に事が済んでいたのかもしれない。 

早々に去ってくれれば、彼女にとってはそれが1番だったのだ。いつまでも消えてくれないなら————駆除するしか、なかった。 

踏み下ろされた足。反射的に飛び退き、紙一重で死を逃れる虫。 

何が起きたのかまだ理解できずにいたその虫に、容赦なく、次の足が踏み下ろされる。 

びちゃっ、びちゃっ。 

水に濡れた子どもの裸足が、タイルの床に打ち付けられる音が、はしゃぐような周りの児童たちの声に紛れて、ひっそりと響く。それは傍目からすれば、喜劇的に見えなくもなかっただろう。だが当事者にとってはそうではない。何度も、何度も、踏み潰されそうになりながら、男は命からがら、すのこの陰に逃げ込んだ。 

潰し損ねた腹いせに、その子はすのこを、2、3度踏み鳴らした。 

天井が激しく揺れ、足裏の雫が降り注ぐすのこ下で、男はうずくまって、ガタガタと震えていた。 

 

その一部始終を、優奈は見ていた。視線に気づくと、その子は、曖昧な笑いを浮かべ、気まずそうに着替えに戻っていった……。 



 

 


あの時は、本当に危なかった。

正直に言って、あの人が害虫として踏み潰されるだけであれば、別に構わなかった。

ただ、自分の靴下から小人が落ちたところを、誰かに見られていた可能性があったと思うと、ゾッとする。


——先生。優奈ちゃんが靴下に、小人の人入れて、いじめてました。


そんな風に告げ口されれば、きっと、宿題を忘れた時と同じようには済まない。保護者に連絡が行き、PTAの議題に取り上げられて、あるいは、警察沙汰にまで発展するかもしれない。

そこまで、分かっているのに。

どうしてわたしは、あの人の活動を今日も、つま先の下に感じているんだろう。 

 

いつからか……多分、3年生のときにお父さんが離婚して、苗字が変わってからだと思う。 

人と違うということが、怖かった。 

だからわたしは、以来、いろんな人に合わせるように生きてきた。 

ルールから外れないように生きてきた。 

きっとこれからも、そうしていくのだと思う。 

それなのに、どうして。 

「小人に優しくしましょう」ってポスターが、校内に貼られているのに。 

周りを見たって、こんなことをしている子なんて、誰もいないのに。 

 

いや、それとも————誰もが隠しているだけで、本当はみんな、こんな風に上履きの中で、小さな男の人を飼っていたりするのかもしれない。 

女子の中で1番、かけっこの速いあの子も。 

ブラスバンドで、パーカッションのパートリーダーになったあの子も。 

椅子の背もたれにポニーテールを垂らした、前の席の、この子も。 

 

縮小機の被害件数は、今わたしたちがこうして、授業を受けている間にも増え続けていて。1割は無事に親族に保護されて、2割は死亡が確認されて……残りの7割は、行方が分からないらしい。そのうちの少なくとも半分が、第三者によって私的に保護されるケースであると言われていた。 

 

ちなみに、縮小禍が始まって半年以上が過ぎて————ちさとも、うっぴぃも、それぞれ「自分の」小人を手に入れていた。 

もちろんそれは、わたしたち3人の間の秘密ではあったのだけど。 




 


朝、いつもの時間に起きて。顔を洗って、着替えて、朝食を取って、髪を整えて。

「いってきまーすっ」

溌剌とした挨拶と共に、玄関を後にする。

そのスニーカーの底に、1匹の小人を閉じ込めて。


「ただいまぁー」

夕方。家に帰ると、まず荷物を置いてから、洗面所に向かう。

洗濯かごに、その日使った体操服や、汗拭きタオルを出して、それから、靴下を脱いで、中のものを取り出して。

臭いのついた小人の体を、石鹸の泡のついた指で、揉むように洗う。  


夜。 

「ねぇね、おやすみ……」 

「ん、おやすみー。」 

妹を寝かせてから、歯磨きをして、明日の支度を揃えて、2段ベッドの梯子を登って。 

大抵の場合、紐を引いて、消灯して、眠りにつく。 

けれど、ストレスを募らせた日などは、枕元に置いた小さな箱を開けて、ささやかな小人遊びに興じることもあった。 

 

 

いつまで、こんなことが続けられるのだろう。 

日常を送りながら、優奈はそんなことを思う。 

いつまでも、こんな日々が続いていく。 

そう疑わずに、男は今日も、恋焦がれた12歳の少女の、足指の幽谷の底へと、落ちていく。 

 

しかして————終わりの時は、突如として訪れる。





 

8.収束

縮小治療装置の実用化が公表されたのは、8月の頭頃だった。

元々公的機関や民間組織などで合法的にかつ限定的な用途で使用されていた人体縮小装置が可逆的であったのに対して、件の縮小機の効用は不可逆なものと言われていた。だからこそ問題にされてきたのだが、研究開発チームのたゆまぬ努力によって、ついに克服されたのである。

とはいえ、民間の医療機関への導入には時間がかかると言われており、ワクチンのように私的に受療することはできず、自治体の特設窓口からの申請と、被縮小者の身柄の引き渡しを必要とした。 

とにかく————社会に未曾有の混迷を招いた縮小禍は、その日を境に、ひとまずは収束に向かっていくこととなる。 

 

夏休み、とある日の夕過ぎ。そのニュースを始めて耳にした優奈は、考える。 

自分が、どうするべきなのか。 

あのプールの時間の出来事で、肝を冷やす体験をしたはずだった。にも関わらず————あの日を皮切りに、少しずつ自分の行為がエスカレートしてきているのを、手段から徐々に目的へと変わりつつあるのを、彼女は自覚していた。 

 

 

 

たとえばこの日、優奈は妹を連れて図書館に出かけていた。夏休みの間、2人で留守番をする日は、そうすることでエアコン代を浮かせていた。 

近場に歩いていく時、彼女はよく、ビーチサンダルを履いた。そしてこの日に限っては、傷もないのに、足の裏にバンドエイドを貼り付けていた。 

夏休みの図書館には、普段より多くの人が出入りする。 

8人掛けの横に長いテーブルが、2×2で4つ並んだ読書スペース。かろうじて確保できたそのうちの2席に、優奈は心菜と並んで座る。 

周りを見れば、色んな人たちが座っている。受験勉強に励む男子高校生。同じくらいの歳の女の子。パソコンを開いている大人の人。 

そして隣には、まだ小学生になったばかりの、妹が座っている。 

湧き上がる衝動を、ハードカバーを開きながら、優奈は静かに処理していく。机の下、ビーチサンダルから息を殺すように足を抜いて、バンドエイドを貼った母指球の辺りを、ゆっくり、カーペットの床に、擦り付ける。すると、バンドエイド越しのカーペットの毛足と、足裏の肉の間で、こりこりと、小さな異物が、存在を主張しはじめる……。 

再び周りを窺う。誰もが真剣で誰もが、自分のことなど、気にしてもいない。 

しかし、足元で行われる倒錯した遊びと、彼らとを隔てているのは、厚さ30ミリの天板たった一枚にすぎない。 

そのことを思うほどに、優奈は、熱に浮かされていく。 

ついには、足の裏を跳ね橋のように起こして、椅子の外に向けてしまう。 

席の周りには、当たり前のように人が往来している。天板から、薄いバンドエイド一枚へ。遮るものは、あまりに、心許なく。危険な橋をわたろうとしていることを自覚しながら、文字通りその足を踏みとどめておくことができなかった。 

しかし優奈は気づいていなかった。足の裏に貼りつけたバンドエイドが、緊張と興奮の入り混じった汗で、少し緩んでいたことに。 

足と床が、直角を描こうとしていたその時。 

ぽとり。 

バンドエイドの中の異物が、支えを失い、床に、外に落ちた。 

 

「っ!……」 

 

声が出ると同時に、優奈は慌てて、異物を足で押さえる。肘に力が入り、ごん、と机を小さく揺らす。 

その瞬間、周囲の視線が揃って、彼女の方を向く。 

男の人が舌打ちする音が聞こえる。 

冷や汗が、肌を伝う。 

恐る恐る、背後を振り返る。そこにあるのは、いつもと変わらぬ図書館の景色。行き交う人々は、誰も、彼女の方を向いたりなどしない。 

————そう、誰も、自分を見ていない。まるで、見てはいけないものを、見てしまった直後のように。不安定な精神状態は、そんな自縄自縛的な解釈へと、彼女を導く。 

 

見られた。見られた?見られた、…… 

 

机に置かれた本に目を落としながら、優奈は15分もの間茫然自失として、そのページをめくることもできずにいた。隣で妹が心配そうに見ていたのにも、足に敷いたままの虫の訴えにも、彼女は、気づかなかった……。 




 

 

小さくなった人を、元に戻してあげることができる。

そんな話を聞けば、去年のわたしなら、迷わず飛びついていたのかもしれない。

暗くなってきた、17時過ぎのリビング。どこかもの寂しく光るテレビの画面。

治療を受けた被縮小者の男性と、その妻だという女性が抱き合う映像が流れていた。

例の縮小機によって、このように大切な人間との抱擁もままならなくなってしまった者が、一体、どれほどいるのだろうか。

きっとほとんどの人間が、その感動の再会の場面に、涙を誘われたことだろう。そしてきっと、同じだけ数の人間が————被害者を虐げて悦に浸るわたしのような人間を、非難する。


誰に弁明する訳でもないけれど、わたしは本来、そんなことができる人間ではなかった。少なくとも自分ではそう思っていた。

ただわたしが拾ったのは、自ら進んでおもちゃになりたがる、少し変わった小人だった。

そのおもちゃが、わたしを変えてしまった。いかなる遊び方をも、私に求めたから。いかなる遊び方をも、私に許したから。 

そして。こんなに都合のいいおもちゃは、失ってしまえばたぶん、もう2度と手に入れることはできない。 

でも。 

いよいよ、手放さなければならない時が来たのかもしれない。 

取り返しのつかないことになってしまう前に…………。 



 



男は、優奈の胸ポケットの底で揺られていた。

意外なことに(?)、胸ポケットの中に入れられたのは、彼がこの身になって以来、初めてのことだった。

荒れ狂う靴下の中と違い、そこは静かだった。布地に身を預けると、さざなみのような遠くの足音と、子どもの心臓が奏でる小刻みな心音が聞こえる。そのまま、ゆりかごの中の赤ん坊のように、安らかな心地でまどろみに落ちていく。優奈、今日は、何をしてくれるのかな。そんな期待を、胸に大事に抱えながら……。






(え?)


情けなくよだれを垂らしながら、目を覚ました時には、もう、全ての事が済んでいて。

受付台の上に見える、女の子の字で記入された書類。

その向こうに立つ優奈の姿を、男は、誰とも知らぬ人間の手のひらの上で見送っていた。


————それでは、お預かりいたしますね。



頭上で響くその声の主の正体を確かめている時間は、残されていなかった。 

自立した大人が退屈な面を下げて集う場で、どこか肩身が狭そうに立つその少女に向かって、男は、届くはずもない手を、必死に伸ばした。 

少女は、そんな男には一瞥もくれることなく、言った。 

 

————はい、お願いします。 

 

よそ向きの笑顔を浮かべて、小さくお辞儀をした。 

その顔が上れるのを二度と目にすることもないまま、男は役所の裏側へと、職員の手の中で丁重に運ばれていった。 

 

およそ1年続いた、佐藤優奈という少女のペットとしての生涯は————突然に、幕を下ろした。 



 



9.卒業、引越し……


それから、月日は流れ。  


「ここちゃん、お姉ちゃんちょっと遊びに行ってくるけど、留守番頼んでいい?」 

 

「はーい。いってらっしゃい」 

 

 

今日は土曜日。朝から友達と遊ぶ約束をしていたわたしは、自転車に乗って待ち合わせ場所に向かっていた。 

少し前まではこんな風に、休みの日でも学校の友達と外に遊びにいくことなんてできなかった。その理由は、心菜の面倒を見ていなければならなかったから。 

でもあの子も、あと2ヶ月も経てばもう2年生。まだまだ手はかかるけれど、1人でお留守番くらいはできるようになって、ちょっとずつ、わたしの肩の荷も降りてきている。 

もうちょっと家族の時間も持てるようになればいいなと思っているけれど、それだって、あともう少しで叶いそうだってところまで来ているのだ。 

 

 

「おはよー」 

 

「おはよー」 

 

「ごめん、待った?」 

 

「んーん、わたしたちも今きたとこ〜」 

 

待ち合わせ場所には、既に2人の女子が先に到着していた。 

ふぅ(坂井風香ちゃん)と、莉乃(中村莉乃ちゃん)。6年で仲良くなったクラスメイトだ。 

そこにわたしと、おそらく遅刻であろううっぴぃを加えたグループで、今日はお出かけ。 

……ちなみに補足しておくと、クラスが違うだけで、別にちさとと疎遠になったわけではない。彼女は彼女で、今月の頭に行われた女子御三家と言われる超進学校の入試に合格して、塾のチラシに名前が載ったりしていた。友達として誇らしい。……なんて、ちょっとおこがましいかもしれないけど。 

 

仲の良い友達同士で、お買い物したり、アニメの映画を見たり、プリクラ撮ったり。 

たぶんわたしたちくらい歳の女子にとっては、特別な要素なんて何もない、いたって普通な遊び方なのだと思う。 

けれどそんな普通な遊びを、なんの気兼ねなく楽しめるということは、わたしにとっては何物にも変え難い特別なことだった。 

ようやく手に入れた矢先に、もうじき一区切りを迎えようとしているそんな日常を、わたしは、噛み締めるように過ごしていく。 

 

 

昼下がり、ショッピングモールを後にしたわたしたちは、休憩がてらに近所の公園に立ち寄っていた。 

入口の邪魔にならないところに自転車を置いて、荷物かごから、ポーチや買い物袋を取り出す。目の前の遊びに時間を忘れてしまうような過ごし方はもちろん楽しいものだけど、ベンチにでも座って、購入したグッズや雑貨の類を見せ合うゆったりした時間も、それはそれでいいものだ。 

……そう思っていたところに。 

 

「……うわ」 

 

1番乗り、とばかりに公園に駆け入った莉乃から、そんな声が漏れた。 

遅れて入ったわたしたちは、彼女のその、忌々しげな視線を追う。 

公園の隅、木陰に置かれた一台のベンチ。 

その上に、くしゃくしゃの新聞紙を布団がわりに、見すぼらしい身なりの大人が1人、横たわっているのが見えた。 

 

「あー……」 

 

後ろのわたしたちは、絵に描いたような苦笑を浮かべて顔を見合わせた。 

 

「……サイアク。あのベンチもう座れないかも……」 

「……ねー上山公園の方にしない?」 

「……そうだねー」 

 

その場で顔を寄せ合って、ヒソヒソと囁き声の会議を開く、わたしたち4人。 

 

「やば、見てんじゃん。マジキモい、早く行こ……」 

 

後ろを窺っていたふぅが、タイムキーパーよろしくそう言って、解散を促した。わたしたちもそれに異存はなかったから、促されるままに公園を後にした。 

去り際。最後尾にいたわたしは、不意に気になって、背後を振り返る。 

 

ふぅの言った通り、件の浮浪者はベンチから起き上がって、何も言わずにこちらを見つめていて。 

 

どうしてか。 

他の誰でもない、わたしの方を見ている。そんな気がして。 

 

 

「ゆーな、どうかした?」 

 

うっぴぃの声に、はっと、我に帰る。 

 

「……んーん、なんでも。いこいこっ」 

 

 

 

スタンドを蹴って、地面を蹴って、わたしたちは次なる目的地へ走り出す。 

青空の下の、のどかな住宅地に、4台の自転車が競うようにチェーンの巻く音を響かせる。 

車の通りの少ないこの道に、走行を妨げるものは、何もなかった。予定外の出来事でさえも。 

 

「あんな迷惑なヤツ、ちっちゃくなっちゃえばいいのにねーー」 

 

隣を走っていたふぅが、風に乗せるように言った。 

そんな彼女は、あの浮浪者が本当に蟻のように小さくなって自分の前に現れたら、迷いなくその靴で踏みにじってしまうのだろう。 

 

ふぅのその発言は、わたしたちの誰にも拾われることはなく、風の向こうに流されていった。もう、皆の興味は次の遊び場へと向かっていて。言った本人でさえ、そのことで話を広げる気はなさそうだった。 

出会ったことすら、この中の誰もがきっと、今日の夕飯時にはもう忘れてしまっているのだろう。 

ただ、わたしひとりを除いて。 

 


 

誰にでも等しく夜は訪れる。

温かい家庭を持つ者にも。窓辺で物思いに耽るロマンチストにも。電灯に群がる羽虫にも。すべてを失った者にも。

気候。金。空腹。性愛。いつの時代も絶対の平等こそが、不平等を生んできたのである。


寒空の下。傷んだ木材の軋む音が、虚しく響く。

身体の震えを誤魔化すために寝返りを繰り返す。そんな徒労を、夜風が嗤う。

一体、何をしているのだろう。

屋外での生活は、昨日今日に始まったことではない。満足なものでなくとも、雨風を凌げる寝ぐらくらいは、とうの昔に見つけていた。鼻水も凍るような寒さを堪えてまで、こんな場所に居座る必要なんて、何もないはずなのに。


ざっ、ざっ。 

 

遠くで、乾いた土を踏みしめる音が聞こえた。 

誰の足音か。こんな時間に、公園に遊びに来る子どももいないだろう。 

犬の散歩か、酔っぱらいか、老人の徘徊か。いずれにせよ、彼には関係のないことだった。 

 

ざっ、ざっ。 

 

足音が近づく。 

自分の存在に、気づいていないのだろうか。街灯がぽつりと灯っているとはいえ、この時間では無理もないだろう。そうでないとすれば、物好きな人間もいるものだ。彼は思った。 

立ち寄った公園に浮浪者が居着いていたら、見て見ぬふりをして引き返すのが普通の行動だ。 

昼下がりの、あの子どもたちのように。 

 

ざっ、ざっ。 

 

止まらない足音。もう、すぐそこまで寄っている。 

音を立てないようにして、彼は新聞紙の下に身を隠す。 

向こうが気づいていないのなら、せめて驚かせないように潜んでいようと言う、彼なりの気遣いだった。 

あるいは、怖かったのかもしれない。 

誰もが目を向けることすら避けたがるような身分にまで落ちることで、ある種自己を守ってもいた彼には、迷いなく踏み込んでくるその足音が、怖かったのかもしれない。 

 

ざっ。 

 

足音が、止まる。 

誰かの気配が、すぐそこにあるのを感じる。 

どうしてか、騒ぎ出す胸。彼は自分の中にまだ血が流れていることを知った。 

たまたまだ。たまたま近くで足が止まっただけ。 

そう自分に言い聞かせて、彼はその何者かが通り去るのを待った。 

早まって顔を出したって、化け物に出会したみたいな反応を買うのがオチだ。 

そうなんだろう? 

けれど。足が動き出す音は、いつまでも聞こえてこない。 

違う。 

開けるな。 

何を期待している。 

だって、だって、そんなはずは。 

 

はやる胸を抑えながら、新聞紙の隙間を少し開けて、外を覗く。 

 

靴が、見えた。 

見覚えのある、マジックテープの靴が。 

 

「——さん、ですよね?」 

 

声が、聞こえた。 

もう誰も覚えていないはずの自分の名を呼ぶ、聞き覚えのある声が。 

 

(……嘘だ、) 

 

新聞紙の蓑を震える手で剥がし、体を起こす。 

そこには、もう二度と会うことはないと思っていた、優奈の姿があった。 

 

「やっぱり。あーよかったぁ……人違いだったらどうしようって思ってました」 

 

半年ぶり————いや。等身大の彼女とこうして向き合うのは、1年半ぶりにもなるのだろうか。 

思春期の子どもは、一年でおよそ10センチ身長を伸ばすと言う。 

ご多分に漏れず、上下をスウェットに包んだ、いかにも部屋着のまま出てきたと言う格好の上からでも分かるくらいには————優奈の身体も、小学5年生から、6年生のそれへと成長していた。 

 

「……あの、よかったらこれ、食べてください」 

 

そう言って、差し出された優奈の手の上には、ラップに包まれたおにぎりが乗せられていた。 

言われるがままに、男はそれを受け取る。ラップを剥がすと、ほのかな湯気と白米の香りが、ほわり、と冷気の中を舞った。その時にはじめて、寒気に押しやられていた、自らの空腹を自覚した。 

男はむしゃむしゃとそのおにぎりにかぶりついた。 

んまい。 

優しい塩気が、冷え切った身体と心に沁みていくようだった。 

優奈が、自分のために握ってくれたおにぎり。枯れたと思っていた涙が、いつしか目に滲んでいた。 

 

その涙に気づいたから、というわけではない。夜の闇の中で、彼女の目には映っていなかったのだから。 

 

「……すみません。わたしのせいで——さんがこんな風になってたなんて、知らなくて……」 

 

優奈が、俯きがちにそんな言葉を口にする。 

確かに、男がこのような身分に成り果てたのも、優奈に捨てられてからの人間の生がままならなかったからであった。 

心身共に健康状態に難があり。 

会話どころか、発語も満足にできない。 

そのくせ、突然明後日の方を向いて、誰かも分からない女の名前を、うわごとのように繰り返し始める。 

そんな狂人を、非正規ですら雇いたがる所などどこにもなく。 

縮小の前からろくに連絡もせず、失踪後の住居の後始末で迷惑をかけた実家には勘当を言い渡され。 

住所が無いために生活保護の申請も叶わない。 

 

優奈は彼のそんな現状に、多少の責任を感じていた。 

想像ができなかったわけではない。縮小解除の申請を行った時点で、彼はとっくに人間性を喪失していたのだから。それでも、身体を戻せばいずれ失われた人間性も取り戻すだろうという、甘い展望を立ててしまっていた。 

もちろん、そのことで彼女が負うべき責任など本来ないはずである。あるとしてもそれは、おにぎり一つでおつりが来る程度のものにすぎない。 

 

 

いいんだ、それより君が元気そうでよかった。 

 

まとまりのない発語ではあったが、男がそんなことを伝えようとしているのが、優奈にも分かった。痛々しさに、遊ばせていた拳をきゅっと閉じた。 

 

最近はどう?何かあった? 

 

男は、やはりまとまりのない発語で、優奈の話を聞きたがった。自分自身の空っぽの器を、彼女の物語で満たしたかった。 

 

「えーっと、そうですね……」 

 

ゆっくりと、優奈は語り始める。 

自己開示に不慣れな少女の辿々しい語り口ではあったが、男はその話に、穏やかな心地で耳を傾けていた。 

 

修学旅行で、日光に行ったこと。 

「戦場ヶ原を歩いたり、滝を見たり……あっあと、班の子が途中で熱出したりしちゃって大変でした」 

 

学校で、卒業式の練習が始まったこと。 

「卒業式で歌う合唱曲が、『With You Smile』っていうんですけど、それがめっちゃいい曲で。」 

 

母の再婚が決まったこと。 

「実は前々から話は進んでたみたいなんですけど、わたしの卒業のタイミングに、お母さんたちが合わせてくれたんです。妹も、低学年のうちの方がタイミング的にはいいかなって」 

 

再婚相手が、母と同い年の、事故で妻を失ったシングルファザーであるということ。 

「すごく、いい人でした。お子さんは、わたしの二つ下の男の子で、人見知りしちゃうみたいなんですけど、ちょっとずつ仲良くなっていければいいなって」 

 

そして———— 

「それもあって、卒業したら、引っ越すんです」 

 

えっ……? 

 

「まあ県内なので、そんなに大袈裟でもないんですけど、」 

 

もう会えないの? 

 

そう言うと、優奈は困ったようにただ笑った。 

はい、と答えれば男を傷つけてしまうのが分かっていた。 

けれど、連絡の手段もあり、何より会う理由がある友人たちとは違って、もう彼と会うことはないだろうというのが彼女の本心だった。 

 

「だから、挨拶しておきたくて……」 

 

そんな。 

 

 

優奈のいない世界。 

生きてみると、そこは、全てが陳腐で、無味乾燥な世界だった。 

見たいと思った時に、優奈の顔がない。 

聞きたいと思った時に、優奈の声がない、 

触れたいと思った時に、優奈の肌がない。 

嗅ぎたいと思った時に、優奈の臭いがない。 

ただ延々と、優奈の喪失を感じているだけの生活。 

半年でさえ、もう、限界だった。 

それが、24時間365日、30年、40年、50年。 

 

 

……嫌だ。 

 

「……すみません。」 

 

 

嫌だよ。優奈。 

 

「……そんなこと、言われたって、」 

 

 

ねえ、住所おしえて。 

 

「……。い、嫌ですっ」 

 

 

あー、そうだ、いいこと考えた。 

 

「……あ、あのっわたし。もう、このへんで……」 

 

 

行かせなきゃ、いいんだ。 

 

「……!や、やだ……こないで……っ!!」 

 

 

 

ざさっ、ざさっ。 

震える足で、後ずさる子鹿の足音。にじり寄る狼の足音と、荒い鼻息。 

そして。 

 

 

「っ——、————、!」 

 

 

哀れな子鹿は、飢えた獣の爪によって、なす術なく捕らえられた。 

 





————ああ、なんだ。


力を入れれば、壊れてしまいそうななほどに華奢な肩。

乾いた土の上に乱れた髪。


「………、………っ!!」


片手だけで掴めてしまう顎。

恐怖に見開かれた瞳。  


そこには、指先ひとつで男に神罰を下す唯一絶対の巨女神の面影はなく。 

繊細で、無防備な、等身大の女子児童がひとり。大人相手に何もできずにただ、押し倒されていた。 

 

————こんなに簡単に、思い通りにできてしまうのなら。 

 

抵抗の意思を失くしたのを悟ると、男はゆっくりと、口を抑えていた手を離す。 

虚ろな瞳は、どこともつかない一点に向けられていて。 

半開きの唇からは、薄膜のような唾液が漏れ出している。 

がさつき、黒ずんで、骨張った親指が、汚れなき白の顎筋をなぞりながら、やがてその下唇に触れた。 

かさついた薄皮の下に潜在する、確かな唇の柔らかさと、言葉を失うほどの小ささが、指先を通して伝わる。 

ごくり、と生唾を飲む。 

 

————はじめから、こうすればよかったんだ————。 

 

顎先に手を添え、目を閉じて。 

顔を寄せると、研ぎ澄まされた嗅覚が、立ち上るほのかな石鹸の香りを捉える。 

身体を清めてきたらしい。いじらしく、自分に会うために? 

そんな少女を穢す悦びに、どくどくと血が湧くのを感じながら。 

 

男は唇を、優奈の唇に、ゆっくりと重ね合わせる。 

 

 

夜風が凪いで。草々が静まり。 

まるで時間が止まったように感じられた。 

 

 

刹那。 

稲妻が走るような激痛が、男を襲った。 



 



「はあっ、はあっ……!」



何が起きたのかも理解できぬまま、局部の燃え上がるような痛みに、男はうめき声をあげてのたうち回っていた。


延々と、左右に揺れ続ける夜空。

その夜空から、男の胸部をめがけて、隕石が落ちた。


22.5センチの、薄汚れた、小さな隕石。

……それはあるとき、男の家でもあったものだ。 

 

隕石の下敷きとなり、のたうち回ることもできなくなった男は、痛みに歯を食いしばりながら、顔を上げる。 

 

 

優奈が、見下ろしていた。 

 

月明かりに照らされて。 

 

肩まで下ろした髪を、夜風に泳がせて。 

 

汚れた口元を、手の甲で拭って。 

 

呼吸を荒げて。 

 

苦虫を噛み潰したような顔つきで。 

 

左足で、大人を足蹴にしながら。 

 

 

 

「………ッ、このっ、最ッッ低…………!!」 

 

 

 

そう吐き捨てた彼女は、世界のどんなものよりも美しかった。 

 

 

 

男が物も言わず見惚れていると、優奈は、スウェットのパンツの右ポケットをまさぐり始めた。 

スマホを取り出して、このまま、110番に通報するつもりなのだろう。 

……強制わいせつ罪。それも児童相手となれば、どれほどの刑になるのだろう。 

 

所詮は、子どもの体重。優奈の左足を押し除けて逃げ出すことも、彼にはできたはずだった。けれどそんな意志も、もう、残っていなかった。 

何者もなれぬままずるずると生き延びるくらいならば、優奈の純潔を犯した性犯罪者として裁かれる方がいくらかマシだというのが、彼のたどり着いた結論だった。 

 

全てを終わらせる覚悟は、もう、できていたのだ。 

それなのに。 

 

優奈がポケットから取り出したのは、スマートフォンなどではなかった。 

 

男に向かって突きつけられた、彼女の右手の位置。 

暗闇の中、チカチカと点滅する、一点の紅い閃光。 

ピッ、ピッ、ピッ。 

 

————まぎれもなくそれは、彼女に預けたままだった、あの縮小機だった。 

 

 

(ああ、優奈————) 

 

 

自ら小さくなって、優奈に拾われて。飼われて。 

等身大の優奈の唇を奪って。 

夢を全て叶えたつもりでいたけれど、魚の小骨のように、ある時からずっと心に引っかかっていたことがあった。その正体はずっと分からなかったけれど、今、ようやく分かった気がする。 

本当は、彼女の手で縮めて欲しかったのだ。 

 

 

(————素敵だ。) 

 

 

大人で、聡明で、優しくて、素直で、明るくて、常識があって、普通で、子どもで。 

そんな彼女が、自らの選択で1人の人間を虫に変えてしまう瞬間を、ずっと、見てみたかった。 

今、それが叶おうとしている。 

優奈という作品が、完成の時を迎ようとしている。 

————完成?いや、違う。 

優奈はどこまでも未完成で、誰よりも揺らいでいて。だからこそ自分は、こんなにも惹かれている。 

ああ優奈。 

12歳にして、人間を虫に変える力を得てしまった君は、一体これからの人生で、その力とどう向き合っていくのだろう。 

少女の中で、一つの新たな可能性が花開く瞬間に立ち会えたこと。その喜びに、男は満たされていた。 

 

 

 

————ピーーー………。 

 

 

のしかかる体重が、いや増していく。 

すり減った靴底が、全身を、覆い尽くしていく。 

 

————静かな気持ちで、男は、目を閉じた。 

 

 

ところで。 

おにぎりを渡すために来たはずの優奈が、どうしてあんなものを、懐に忍ばせていたのか。 

あんなものを持ち出してまで、なぜ今さら、自分に会いにきたのか。 

最後まで、彼には分からなかった。 

 



10.わすれもの

かんっ。かんっ。

夜の住宅地に、拍子木を打つ音が軽快に響く。

失われつつある文化、「火の用心」の夜回り活動。ここ千代沢町では、定年後の老人を中心としたボランティアの人員によって、今でも毎晩そんな活動が行われている。 

……とはいえ、参加する誰もがその活動に効果があるとは考えておらず、結局は暇を持て余したら老人が交流の機会を求めて集まっているだけにすぎない。 

しかし、無駄口を叩き合いながら時折思い出したように拍子木を叩くだけの彼らも、一応は仕事に立ち帰ることもある。 

例えば————静かなはずの住宅地に、何者かの叫び声が聞こえた時。 

 

なんだろう、と老人たちは顔を見合わせる。そして、声のした場所へと早足に向かっていく。 

こういったことは初めてではない。だが大抵は酔っ払い同士の喧嘩で、その仲裁に入らされる羽目になる。若い、それもまだ子どもと思われる女の叫びを聞くことなど、滅多になかった。 

半ば野次馬気分で駆けつけた老人たちの目に映ったのは、公園の中心にぽつねんと佇む、1人の少女の後ろ姿だった。 

 

「きみぃ、どうしたの、なんかあったのかい」 

 

先頭を歩いていた老人の、入口からの呼びかけに、少女は振り向いた。 

中学生か、小学校高学年か、そのくらいの年頃に見えた。 

 

「なんでもないんです、ごめんなさいっ」 

 

年相応に明るい声が、入り口まで届く。 

肩にかかった髪の毛と、その語尾が、溌剌と跳ねていた。 

 

「そうかい。もう遅いから、気をつけて帰りなさい」 

 

「はい、ありがとうございますっ」 

 

少女は恭しくこうべを垂れた。 

それを認めると、老人たちは再び、夜回り活動に戻っていた。 

 

 

 

暇を持て余した老人たちにとっては、こうしたハプニングは格好の話の種である。 

 

「何も無さそうでよかったよ」 

 

「ねえー。それに感じのいい子だったじゃない。礼儀正しくて。うちの娘なんてあのくらいの歳には生意気盛りだったんだから」 

 

「それにしても、こんな時間にあんな所で何をしてたんだろうねえ。ずいぶん楽しそうな様子だったが」 

 

話題は少女を起点として、孫の学校行事、それから彼ら自身の子ども時代の思い出話へと、足早に移り変わっていく。 

かんっ。かんっ。 

千代沢町の夜は、思い出したような拍子木の音を響かせて、今日も更けていく。 

 

最前見送った少女の靴の中に、1匹の小人が閉じ込められていたことなど、誰も、知る由もなかった。 

 



 

(終)