「うわああっ!やばい、追いつかれる…っ!」
捕まったらエサにされてしまうような大きさのけものから草をかき分け逃げ続けて、はや10分ほど経とうとしていました。なおもけものは執拗に二人を追い続けていましたが、逃げる二人の体力は既に切れかけていて、じわじわと距離が縮んでいっています。
「お兄ちゃん、あそこ!」
走りながら、二人のうちの女の子の方が、遠くに見えるものを指さします。それは、ちょうど二人が通れそうでけものには通れないくらいの幅の鉄格子がついた穴のようでした。
あそこに入ることができれば、けものが諦めて帰って行くまで中でやり過ごすことができそうです。距離はおおよそ走って30秒かかるほど。たどりつくことができれば二人の勝ち、できなければ負け…けものにぺろりと食べられてしんでしまうという、とても分かりやすい展開です。お兄ちゃん、と呼ばれた男の方は妹の手を引っ張り、最後の力を振り絞って、その穴まで向かっていきました。
「うおおおおおっ!!!」
みるみるうちに穴が近づいて、大きく見えるようになっていきます。火事場の馬鹿力とはよく言ったもので、兄の方はこの時、普段なら30秒かかる距離を20秒で走り抜けてしまったのです。
鉄格子をすり抜けて振り返った時、けものは勢い余って鉄格子に激突していました。二人の方に来ることはないと分かっていても、その激突の衝撃や、しばらく二人を睨みつけながら唸っている姿は、恐怖を植え付けるのには十分な材料でした。やがてけものはお尻を向けて去っていきました。二人は揃って地面にへたり込みます。鉄格子の向こうににゃあにゃあと何度もなく声を聞いて、こんなことでは先が思いやられる、と二人は思いました。駆け込んだ場所は、虫か、小人でもなければ通り抜けることができないような、人間の家に取り付けられた換気口の中なのでした。
「いつの間に暗くなってきたね」
格子の向こう側に見える空を眺めて、女の子がつぶやきました。彼女の名はロコ。年は人間で言うと13歳にあたります。
「そうだな、今日はここに泊まることにするか…」
答えた彼の方は名をハルと言います。年は人間で言うと16歳、そして、ロコの兄でもあるのでした。
この小人の兄妹は、訳あってこのニホンコクを旅している最中なのです。最中、といっても、昨日自分たちの暮らしていた場所を出発したばかりの、駆け出しの旅人たちでしたが。
そういうわけで、これからやってくるのは、見知らぬ場所で迎えるはじめての夜。不安と緊張、そして未知の領域に足を踏み入れることへの少しの気持ちの高揚が混じって、二人の口数は普段よりも少なくなっていました。
ぐぅー。
それまで延々と聞こえていたこおろぎの合唱に、奇妙な音が重なったのをハルは感じました。見ると、ロコが顔を赤くして隠すようにお腹を抑えています。
「腹が減ってるなら言ってくれればいいのに」
「…だって恥ずかしいもん」
「何言ってんだ、これからますます過酷な旅になる可能性が高いのに、そんなことで食欲を我慢してたらやっていけないぞ」
「そっか、ちゃんと食べないと体が持たなくなっちゃうよね…」
恥じらいながらも自分のいうことを素直に聞き入れてくれるロコのことを、世界一の妹だとハルは思っています。
「よし、今から俺が外で食べれそうなもの探してくる!」
「えっ…」
ロコが戸惑いを覚えた時には、既にハルは鉄格子を抜けようとしていました。
「大丈夫?暗くなってきたし、いつさっきみたいな生き物に襲われるか分からないよ…?」
「そしたらさっきみたいに逃げ切ればいいだけさ」
「逃げ切れなかったらどうするのっ」
「相変わらず、ロコは心配性だなぁ…大丈夫、危険だと思ったらすぐに引き返してくるよ。食べ物を取ってこれないまま戻ってくるかもしれないけど、その時はゴメンな」
「食べ物なんかより、お兄ちゃんの命の方が大事だよ!」
ロコの声が、換気口の中にじんじんと響き渡りました。この時ばかりは、こおろぎも合唱をやめていたように思えます。
「そうだよな…悪かった」
ハルは苦笑いを浮かべることしかできませんでした。できることなら、妹の健気な心遣いに答えてあげたいというのが、ハルの率直な気持ちでした。
「でもロコ……俺はこの旅に、命をかけるつもりで出てきたんだよ」
その背中は、ハルがはじめて旅に出ると言い出した時に見たものと一緒で、ロコは返事を失いました。まっすぐな意思と確かな覚悟を持った、一人の男の背中です。
「だからどんなに危険を冒すことになっても、必要な食料があれば取りに行くし、手がかりが見つかりそうな場所があれば迷わずそこにいく」
反論がないのを確かめると、ハルは背を向けたまま歩き出しました。
「…っ」
ロコは、ハルが出て行ったまま帰ってこないことを何よりも恐れていました。
あの日、病気をしてしまった私のための薬草取りからハルが帰ってきた時、一緒に行っていたはずの両親がハルの隣にはいなくて、誰よりも強い心を持っていたハルの目から、涙がとめどなく溢れていて———突然地獄に落とされたような、そんな感覚だったのです。
もう絶対に、あんなことが起きて欲しくない。そう思った時には既に、足が動き出していました。
「だったら、私も行くっ!」
「ロコ…」
振り返ったハルは、困ったような表情を浮かべていました。しかしそこには、手がかかる生徒ほど可愛いと感じてしまう先生のような感情がありました。
「言い出したら聞かないもんな、お前は…」
「それはお互い様だよ」
いつの間にか、二人の会話がいつもの調子に戻っていました。
「うわー…」
二人はあるところで立ち尽くしてしまいました。上の方でトマトが実っている木の前です。ここは人間の家の庭ですから、このトマトの木も人間が植えたものなのでしょう。ハルはさっそくその木を登って実を落としにいこうと思いました。しかし木の根元で、恐ろしい光景を目にしてしまったのです。
それは、きりぎりすがこおろぎを捕まえて、むしゃむしゃと食べているところでした。
ロコがうっかり悲鳴をあげそうになったので、ハルがとっさにロコの口を手で塞ぎます。気づかれては、今度は自分たちがあのこおろぎと同じ道をたどることになるかもしれないのです。ですが幸い、きりぎりすは食べるのに夢中で、二人には目もくれませんでした。
「お兄ちゃん…」
ハルの背中に隠れながら、ロコはちらりちらりと様子を伺っています。
「分かってる、あれじゃとても木には近づけないよな。引き返そう」
こくり、とロコが静かに頷きました。俺一人なら行ってたかもしれないけど、という台詞が後に続きそうになるのをハルはぐっと飲み込みます。
換気口に戻ろうと歩く二人の足取りは、行きと比べて少し重たいようでした。再びぐぅーという腹の音が鳴りました。これはハルの音です。と思いましたら、今度はハルの隣で別の腹の音が鳴りました。この時ばかりは二人に笑いが起きました。ですがその笑いも長くは持たず夜のやみに消えていってしまいます。
ハルは、自分の妹一人笑顔にしてあげられない自分の無力さを感じていました。ハルが敵に回そうとしている相手は、きりぎりすなど比較にならないくらい大きくて、恐ろしい生き物なのです。もしそんな大きな相手に襲われたとき、果たして自分はロコを守ることができるのだろうか…彼が頭で考えるのは、そんなことばかりです。そうしていると、ロコが立ち止まって何やらきょろきょろと辺りを見回しています。
「ねえ、なんだかいい匂いがしない…?」
言われてみれば確かに、どこからか美味しそうな匂いが漂ってきています。美味しそうで、嗅いだことのない匂いなのに、どこか懐かしい感じがします。少ししてハルの頭の中に、台所に立つお母さんの背中が浮かんできました。
「…中で人間がご飯を作ってるのかも」
「いいなあ…おいしいごはんに、ぽかぽかおふろ…」
ロコが匂いにうっとりしている間に、ハルは家の壁をくまなく調べていました。匂いが外まで伝わってくるということは、必ずどこかに空気の通り道があると考えたのです。そしてその予感は当たって、頭上で小窓が開いてるのを見つけました。
「なあロコ、人間の家なら色々食べ物や道具を調達できると思わないか?」
「えっ、お兄ちゃん、それってまさか…」
ハルは黙って頷いています。そして、窓の高さまで伸びている植物のツルに手をかけました。
「お前もあそこまで登れるよな?」
今度はロコがおずおずと頷きます。小人たちにとって、この程度の高さを登ることは朝飯前です。SAS●KEのふぁいなるすてーじは、彼らにとってはジャングルジムみたいなものです。
「ほ、ほんとに行くの?」
「おうよ、それに、これからのことを考えて、お前も一度人間っていうのを見ておいた方がいいんじゃないか」
それはその通りだとロコは思いました。ハルと違ってロコは、人間のことは話で聞いたことしかなかったのです。
「捕まったらどうしよう…」
ツルを登りながら、ロコがつぶやきます。
「そのときは、そのときさ」
いかにも適当な返事でしたが、声の調子などから、ハルが適当を言っているのではないということはロコにも分かりました。もしかしたら、ハルはロコよりもよほど、人間を恐れていたかもしれません。人間に目の前で両親を攫われたハルだからこそ、その恐ろしさはよく知っているはずでした。
窓を通り抜けて見た光景に対しての衝撃を、ロコは一生忘れることがないでしょう。
すぐ近く、窓辺から飛び込めば届きそうなほど近くで、人間が活動していたのです。
ロコはあっと声をあげそうになりましたが、すんでのところで回避します。調理台より下は隠れていて見えませんでしたが、見えている部分だけでも、ロコの全身の何十倍もの大きさがあるのです。カレーの入った鍋が、ロコには地獄の釜に見えていました。
「おい、ぼーっとしてると見つかっちまうぞ」
なるたけ小さな声でハルが話しかけます。そうでした。今は人間の意識がカレーに向いているので見つかっていませんが、もし気まぐれにあの大きな顔を上げられたりでもしたら、簡単に視界に収まってしまうのです。二人は移動を始めます。猫に追われていた時よりもよほど生きた心地がしませんでした。気づかれないように調理台に降りて、さらに安全に床に降りられそうな場所に向かいます。
調理台を歩いている途中、キャベツやにんじんなどの野菜の切れ端が落ちていました。切れ端とはいえ、ハルたちにとってはひと抱えほどの大きさです。人間たちはこんなに大胆に野菜を切り捨てるのか、と思いながらハルはキャベツの切れ端を拾いました。
調理台の端まで来たところで、二人はカバンから落下傘を取り出します。高いところから降りるときの必需品です。落下傘を装着して、調理台から地面を見下ろします。地上まではだいたい40メートル。ということは落下時間は5秒~10秒になると、ハルは瞬時に計算します。落下傘を使えば、確かに安全に降りることができます。ですがその分、落下している時間が長くなるのです。空中にいる時ほど、人間…もとい小人が無防備になる時間はありません。おまけに、隅っこでこそこそ歩いているときよりも見つかる可能性も高くなります。空中をゆっくりと落ちていくという点で、落下傘は危険をともなうのです。例えば、ふわふわと落下している間に人間に見つかって、着地点に手のひらを構えられるだけで、もう小人は何も抵抗できないのです。ぽとり、と着地と同時に人間の広い手のひらに収まって、そのままきゅっ、と包まれてお持ち帰りされてしまいます。二人は再三、料理をしている人間の動向を確認していました。反対側から別の人間がくる気配も、今のところはありません。思い切って、二人は調理台の地面を蹴りました。
やんちゃで冒険好きのハルは、落下傘にも慣れていましたが、この時は初めて落下傘で高いところから降りた時にもまさるドキドキを感じていました。むろん、ロコはそれ以上にドキドキです。だいいち、落ちていくときに見える景色が今までとはまるで違うのです。まず、使い方のまるで分からない四角い機械…その下には、ぴしりと並べられた、使われなくなった空飛ぶ円盤みたいなお皿…そして、中身の見えない大小の棚…もし捕まったら、あの中に閉じ込められてしまうのかもしれません。
なるたけ隅によるようにして、二人は床を進んでいきます。ですが、どれだけ隅っこに縮こまっていようと見つかるときは見つかってしまうものだとハルは分かっているので、慎重にというよりはそそくさと移動しています。ここは人間の家なので、人間は外にいる時よりも侵入してきた虫たちに敏感なのです。道路の真ん中を歩いている大アリの集団よりも、家の端っこを1匹で歩いている小アリの方が、人間の目にとまりやすいのです。


