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1にちめ 前編

歩き続けて、二人はとある部屋に辿り着きました。勉強机や、本棚が、二人を威圧するように立っています。さらに見回すと、ベッド、そのそばにぬいぐるみ、床には何かの雑誌が落ちています。きっとここは、人間の女の子が生活している部屋なのでしょう。ピンクの絨毯もしいてあります。その上を歩いてみると、ところどころに何かが散らばっているのが見られました。手にとってみると、ハルはそれが、おかしのかけらであることに気がつきました。かじってみると、少ししけってはいますが、それほど時間が立っているわけでもないようでした。散らばり方からしても、きっとこの部屋の主である女の子が、絨毯に寝転びながらお菓子を食べていたのでしょう。なんとだらしない女なのか、とハルは思いました。これでよくゴキブリが出ないものだとも思いました。「ロコはこういう女の子にならないでくれよ?」という言葉に、ロコはあははと苦笑いで答えています。ですがこの人間のおかしの食べこぼしも、二人にとっては貴重な食料なので、何かけか拾って持ち歩くことにしました。

部屋を横断しきって、奥の壁まできたところで、二人はまたしても思いがけない発見をします。壁に、トンネルの入り口のような穴が開いていたのです。恐る恐る中を覗いて見ましたが、他の生き物が潜んでいる気配もありません。入ってみると、天井が少し低いものの、小人二人が入るには十分なスペースの空洞になっていました。これはしめたものだとハルは思いました。今日はここで寝泊まりすれば良いと考えたのです。もし人間が帰ってきたとしても、穴の中に隠れていれば見つかることはありません。ロコも同じことを考えていたのか、安堵のため息をついて持ち歩いていた荷物を床に下ろしていました。
懐中電灯で穴の中を照らして、二人は今日の戦利品であるキャベツとお菓子のかけらを分け合って食べました。質素な食事でしたが、ハルは、お母さんの料理の次くらいには美味しいと感じました。また、ロコが幸せそうにキャベツをかじっているのを見ると、心が満たされていきました。

「よし、俺はもうちょっとあの部屋を探索してくる!」

ハルがそんなことを言い出したのは、二人が食事を終えたすぐ後のことでした。また始まった、とロコはため息をつきました。ハルは変な言い方をすれば、冒険中毒者なのです。昔から、暇さえあれば外に冒険に出かけ、傷を作って帰ってきてはロコに治療をしてもらっていました。ロコはそんなハルのことを本当に心配しているのですが、言っても治らないということは十分に学んできました。今回は真剣な旅になるので、流石に抑えてくれるだろうとロコは期待していましたが、そんなことはなかったようです。これを含めて今日だけで三回は症状が発症しています。

「無茶しないようにね。なるべく早く帰ってきてね」
「任せとけ!」

これほど信用できない台詞もないなと思いながら、ハルの背中を見送ります。ですが、見知らぬ地でも変わらない兄を見ていると、なんだか少しだけ心が落ち着くような気もしていました。

穴から出たハルは、周りをじっくりと観察しながら歩いていました。先程見たときはさほど気にしませんでしたが、明かりも、音もなく、ただ物だけがそこにある空間というのは何か不気味な感じがします。ぬいぐるみも、机も、本棚も、ベッドも……まるで息を潜めて、何かを待っているようでした。それは人間の帰りではないかと、ハルは考えました。なるほど、人間の部屋というのは、人間が入って初めて活性化するものであるのかもしれません。

30分ほどの探索の結果、特に使えそうな道具も見つからないので引き返そうとしたその時でした。ずんずんと、地響きが近づいてくるのを感じたのです。振り返ると、大きな、本当に大きな人間の女の子が、部屋に現れたところでした。

女の子の手1つだけで薄暗かった部屋全体に明かりが灯ったのを見て、ハルはこの女の子が部屋の支配者であることを、一瞬にして悟りました。早く穴に戻らなくては…その一心で駆け出していました。穴からは、外の異変に気付いていたロコが顔を出して、お兄ちゃんはやく、というじぇすちゃあを送っています。しかしすぐにロコの顔が、絶望の色に染まります。何かと思った次の瞬間には、ロコを中に閉じ込めたまま、穴がどこからか飛んできた、大きな黒い物体に塞がれていました。重量のある物体の落下の衝撃で、五歩分ほど後ろに飛ばされてしまいます。後ろに下がったことで、どうにか物体の全貌を見れるようになりました。黒い革が不気味に光るそれは、女の子の学生鞄なのでした。とても、ハル一人で動かせる大きさではありません。鞄の上部の取っ手にぶら下がっている可愛らしいマスコットが、ハルには自分の小ささを嘲笑っているように見えました。ハルはこの鞄の持ち主のことを思い出して、ハッと後ろを振り向きます。しかし女の子は、まだハルの存在に気づいた様子はありません。きっと鞄は適当に投げ捨てて、そのまま放りっぱなしでいるつもりなのでしょう。もはや鞄のある方など気にもとめず、ベッドに腰を下ろして、四角い板のような形をした機械を手に持って見ています。その奥では、ハルたちがもと入ってきた入り口の扉が閉められていました。そうなると、ハルにはもうどうすることもできません。部屋から出る手段も、穴に戻る手段も失い、完全に袋のねずみと化してしまったのです。

とりあえず今は机の陰に隠れて、こっそりと女の子の様子を伺うことにします。ハルの見立てでは、女の子はロコと同じくらいの歳のようでした。

ハルは確かに、無意識の行動でも命を奪いかねないこの女の子を恐れていました。ですが、ハルがこの女の子から目が離せないのは、恐怖からだけではありませんでした。年頃の女の子が、一人で部屋にいるときにどんなことをするのか、ハルは興味津々でいたのです。ロコの部屋に入ろうとすると、すぐさま追い出されてしまうので、ハルは部屋で過ごしているときのロコを最近は見ることができていません。まだ幼かった頃は、部屋に行くとそれだけで喜んでくれたのに、とハルはかなしく思っていました。

ですが、この女の子は、自分以外の誰かが部屋にいるなどとは到底思っていません。ハルは人の目を気にしない、ありのままの女の子の姿を見ていることができるのです。あれほどだらしないと思っていた、絨毯に寝転びながらお菓子を食べこぼす姿を、今は見てみたいとさえ思いました。

ですが、女の子は例の機械を弄り続けているだけで、一向に他のことをする気配がありません。退屈になってきたハルは、とある考えを持ち始めました。

——今なら、あの女の子に近づいても気づかれないのではないか?

ハルは小人である以前に、一人の男の子でもあるのです。大きな女の子のからだは小人を恐怖させますが、それ以上に男の小人を魅了する力を持っているようです。恐怖を忘れさせてしまうというのは、恐怖を与えるというよりも恐ろしいことかもしれません。12、3歳の人間の女の子が持つそんな危険な魅力に引き寄せられるように、ハルの足は動き出していました。

ハルは、ベッドの下をくぐって、女の子の足下に近づくことにしました。よく考えてみれば、ベッドの下にいる方が、机の陰に隠れているよりも見つかりにくく安全です。(言い訳のようにも聞こえます)

やがて、女の子の座るほとんど真下にあたる場所にたどり着きました。ベッドの上から、大木のような足が降ろされているのがすぐ近くに見えています。女の子の履いている白いくつ下の網目がはっきりと見えるくらいに近づいてみます。こんなに間近で人間を眺めることなんてなかなかできないだろうと、ハルは少し感動していました。ですが、ベッドの下から見えるのは足だけで、ほとんどの部分は、女の子の前まで出ていかなければ見ることができません。流石に、女の子のからだを見るためだけに見つかって捕まるリスクを負うほど、ハルも無鉄砲ではありません。

ただぼーっと足だけを眺めているのにもだんだんと退屈を感じ始めて、かといって他にできることもないので、今日はここで寝てしまおうかと考え始めたときでした。突然、片方の足がベッドの天井の上に消えていきました。近くに来てから、初めて女の子に大きな動きがあったのです。ハルは長時間待ってようやくルアーに反応があった時のような期待を抱きました。

まず、ベッドの上から何かがぽす、と落とされました。丸められていて分かりづらいですが、これはさっきまで女の子が履いていたくつ下でした。縮こまっていても、ハルを簡単に中に隠せてしまうほどの大きさです。そして次に、再び足が戻ってきました。さっきまでと違うのは、女の子がくつ下を脱ぎ捨てて、裸足になっていたことです。同じようにして、もう片方の足も裸足に変わります。

ハルの目の前で、女の子の裸足が様々に動きます。ぶらぶらと揺れたり、つま先でくつ下をもてあそんだり、つま先を立てて、我知らず足の裏をベッドの下の小人に見せつけたり。女の子の足の裏は、決して綺麗とは言いがたいものでした。ですが、それを見ていて、ハルはなんだか顔が熱くなっていくのを感じ、ついには目を逸らしてしまいました。なんだか、女の子の見てはいけない部分を見てしまっているような気がしたのです。うっかり、ロコが裸でいるときに洗面所に入ってしまったときに似た気分でした。じっさい、この女の子も、知らない男にまじまじと自分の足の裏を見られていると知ったら、いい気分はしないでしょう。小人の世界でも足ふぇちの概念はあり、ハルはそういう嗜好を持つ小人のことを理解できないでいましたが、彼らの気持ちが今、少し分かったような気がしました。

少しして、女の子は部屋の外に消えていきました。緊張がほどけて、ハルは床に寝転がります。さっきまで女の子が足を着けていた部分です。ほどよいぬくもりと、女の子の残り香で、ハルはついうとうとしかけてしまいます。しかし、ロコがまだ閉じ込められたままでいることを思い出して、がばっと跳ね起きました。女の子がいない今、ロコを救出するチャンスなのです。

再び、あの大きな学生鞄の前までやって来ました。まず、壁と鞄が接しているところを確認しに行きます。もしぴっちりと接していた場合、ロコが呼吸できなくなっているのではないかと心配していましたが、ハルが通れるほどではないにしろ、わずかな隙間は空いているので、ひとまずは安心です。試しに隙間を広げようとしてみましたが、案の定鞄はびくとも動きません。

これを普段から持ち歩いて、軽々と放り投げることもできる女の子が信じられませんでした。いえ、逆に言えば、女の子ならこの鞄を動かすことができるのです。ハルは、ある一つの考えを持っていました。女の子は見たところ中学生のようですから、当然毎日学生鞄を持って中学校に通っているはずです。つまり、朝までこの部屋で待っていれば、女の子が鞄を今ある場所から取って、家から出て行くはずです。そうすれば、ロコを救出することは可能です。

しかし問題は、朝まで待たなければいけないということです。朝までずっと、ロコはあそこに閉じ込められたままなのです。今ごろ、疲れてぐっすりと眠っているのでしたら、ハルがそれ以上に望むことは何もありません。ですが、もし怖くて、寂しくて、不安で、あの暗い穴の中で震えていたら……そんな状態のロコを、朝まで放っておくということはしたくありません。それに、朝まではまだ時間があり、その間に何も起こらないとも限らないのです。人間に捕まったり、気づかれずに踏み潰されてしまったり…ですから、早いところロコを救出し、さっさとこの家から脱出するに如くはないのです。また、家から脱出するにあたっても、問題があります。どこからどうやって出ればいいのか、ということです。もと入ってきた窓が、明日になって開いているとは限りません。もしそうだった場合、家中を探し回って新たに出口を見つける必要がありますが、当然人間に見つかるリスクが常に付きまといます。

もし、あの女の子が自分の頼みを聞いてくれたら…ハルは考えていました。もしその通りになれば、ロコの救出も、家からの脱出も、万事がうまく運ぶのです。ですが、もし、聞いてくれなかったら…それを考えると、やはり女の子に接触するという方法は、とれるはずもありません。

それから、2時間くらいが経った頃でしょうか。女の子が再び部屋に戻ってきました。部屋の入り口を潜ってきたあたりでは、ベッドの下からでも女の子の全貌をどうにか見ることができるのですが、パジャマ姿に、肩にかけたタオル、そしてほんのりと上気した顔を見て、お風呂上がりであることが分かりました。長い時間部屋を空けていたので、もしかすると晩ご飯も食べてきたのかもしれません。

女の子はさっきのように、ベッドに来て腰を下ろしました。お風呂上がりの女の子のからだが発する甘く、爽やかな香りが、ベッドの下にまで漂ってきます。その香りにハルは理性の乱れる危険を感じたので、懐中電灯を照らして、よりベッドの奥へ避難しようとしました。

「うおおっ!?」

その時ハルは、うっかりまずいものを照らしてしまいました。赤黒いボディ、平たいシルエット、後ろにピンと伸びた触覚…ベッドの奥に、ゴキブリが潜んでいたのです。

ハルは恐る恐る後ろに引いていきます。ですが、ゴキブリも同じようにハルとの距離を詰めていきます。そして、ハルが駆け出したのと同じタイミングで、ゴキブリもハルに羽を広げて飛びかかってきました。一目散に逃げていましたが、少しと経たないうちに、ハルはその足を止めることになります。ハルの目の前に、お風呂に入って汚れが落ちた足の裏がそびえているのを見て、もし今ベッドの下から飛び出しらどうなるか考えてたのです。振り返ると、ゴキブリはもうすぐのところまで迫っていました。

咄嗟の判断で、ハルは懐中電灯を消して、飛んでくるゴキブリをやり過ごそうと伏せました。いちかばちかでしたが、目論見は成功し、ゴキブリはハルを見失って、そのまま上を通り過ぎて行きました。ハルはホッと胸を撫で下ろしました。

この後に起こるかなど、ハルには想像できるはずもありませんでした。

「いやーーーーーーっ!!」

突如発せられた悲鳴に、ハルの耳がキーンとなります。何事かと思いましたが、ベッドから立ち上がっている女の子と、その近くを俊敏に動き回っているゴキブリを見て、合点がいきました。

「やだぁ、こっちこないで…!」

ハルはなんだか愉快な気分でした。あれほど圧倒的な存在だと思っていた人間の女の子が、自分の足の親指にも満たない大きさのゴキブリ1匹に翻弄されているのです。いいぞもっとやれ、と応援までしていましたが、そんな気分は、すぐに踏みにじられることになるのでした。それは、むごたらしい光景でした。

ひとしきり女の子を翻弄して、ゴキブリがベッドの下に帰ろうとした時でした。空からバスタオルが降ってきて、ハルのいる場所のすぐ近くまで来ていたゴキブリに覆いかぶさったのです。これが、さっきまで女の子が身につけていたタオルだと気づいた時には、もう、裁きは始まっていました。

タオルの上に、女の子の裸足が落とされました。それも、隕石が落ちるみたいな勢いで。

タオルの中で、小さな命が弾ける音がします。間違いなく、女の子がタオルに足を乗せた時点で、ゴキブリはしにました。それなのに、つま先を中心にして、執拗に、何度も、女の子は足を動かしてゴキブリをすり潰しています。間近でそんなむごたらしい光景を見せつけられたハルは、いつ発狂してもおかしくはありませんでした。

「サイアクぅ…このタオル気に入ってたのにー…」

女の子が床からタオルを取り上げるとき、一瞬だけハルの目に、ぐちゃぐちゃになったゴキブリのからだが貼り付いていたのが映りました。それは、たった今まで目の前で起きていたことの縮図に違いありませんでした。

「なに、大きな声出して」

絶望のあまり足音に気がつきませんでしたが、入り口からもう一人の人間が現れます。ハルはその顔に見覚えがありました。最初にこの家に忍び込んだときに見た、カレーを作っていたあの人間です。

「ママぁ、このバスタオル捨てといて…ゴキブリ潰しちゃって…」

「あんたが部屋汚くしてるから悪いんでしょ!まったく…」

ママと呼ばれたその人間は、女の子からタオルを奪うように回収し、そのままドアの外に戻っていきました。

明らかに不機嫌そうな顔で、ドアのそばから女の子が戻ってきました。女の子の足が近づくたび、体の震えが増していくのを感じます。ゴキブリをひと踏みでころしてしまう力も、ころすだけでは飽き足らず、原型が崩れるまで黙々と踏みにじる残酷さも、命を奪ったことへの罪の意識など全く感じていないどころか、タオルをその死骸で汚したことに苛立ちを感じている自己中心的な精神も……女の子の全てを、ハルは恐ろしく感じていました。そして、追い討ちをかけるように、ベッドの向こうから女の子の声が聞こえました。

「なにこれ…ちっちゃな…懐中電灯?」

ハルは動揺して手を確認しますが、確かにさっきまで持っていたはずの懐中電灯がありません。ゴキブリを伏せて交わしたとき、一連の動作のはずみで懐中電灯を手放してしまったことに、ハルは気づいていなかったのです。懐中電灯から足がついてしまわないか、気が気ではありませんでした。

「あ、壊しちゃった」

シャー芯折れちゃった、くらいのなんの焦りも驚きも感じられないトーンでした。潰されたゴキブリを見てしまった後で、指先で粉々になっている懐中電灯を想像するのは難しくありません。女の子の目からは、きっとゴミにしか見えていないだろうということも、ハルには分かっていました。

「小人さんでも住んでるのかなあ?なんてね」

何気なく放った独り言が、ベッドの下の小人を決定的に打ちのめしたことなど、もう潰したゴキブリのことなど頭から抜けて友達とのメールに夢中になっている女の子には、知る由もありませんでした。

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