あかねちゃんは席に着くなり大きなあくびをしました。先生が教室に入ってきたので、あくびの途中で慌てて口を塞ぎました。先生はそれに気づいた様子もなく、挨拶を終えて、ゴールデンウィークが近いからってうかれすぎないようにだの放課後にどこどこの委員会で集まりがあるから該当の者は忘れるなだのと話しているのを、あかねちゃんはぼんやりと聞いていました。
昨日は、遠足の前日の一年生みたいに気持ちが落ち着かなくて、よく眠れませんでした。原因はもちろん、昨日出会ったあの小人のアオイちゃんです。最後にアオイちゃんを手のひらに乗せた感触が忘れられなくて、あかねちゃんはベッドに仰向けに寝たまま右手を天井にかざして、意味もなく何度も握ったり開いたりしていました。
「珍しく眠そうだけど、なんかあった?」
隣の席に座る、友達のさくらちゃんが話しかけて来ました。いつのまにか朝の会は終わっていたようでした。
「あっさくらちゃん聞いて、昨日ね!こび…… ………」
言いかけて、ハッと口を手で押さえました。アオイちゃんのことは、他の人にはなるべく話さない方が良いのではないかと思ったのです。
「こび?」
さくらちゃんはもちろん興味津々という様子で聞いて来ます。あかねちゃんは背中が汗でびっしょりになるのを感じていました。「こび」のつく言葉を頭の中で手当たり次第に探します。
「コビッ……ストイコビッチのスーパープレイ集を見てたら寝るのが遅くなっちゃって!」
「おおっ、ついにあかねもサッカーに目覚めたか!」
適当に返事をして、どうにかその場はやり過ごしました。さくらちゃんは根っからのスポーツ少女で、特にサッカーは見るのもやるのも大好きなのです。ストイコビッチはいつかさくらちゃんから聞かされた名前ですが、こんなところで助けられるとは思いませんでした。顔も声も年齢も知らないストイコビッチ選手にあかねちゃんは感謝しました。
あかねちゃんとさくらちゃんは昔からの友達で、家が近いので、下校時刻になるとこうしていつも二人で一緒に帰っています。今日は調理実習でクッキーを焼いたので、二人のクッキーを交換し合って食べ歩いていました。あかねちゃんは最初「私はいいよ」と言って受け取るのを断ったのですが、さくらちゃんが「なはは、遠慮すんなって!」と何度も勧めて来たので、受け取るしかありませんでした。どす黒くこげた見た目の通り、さくらちゃんのクッキーはすさまじい味でした。
「ねー本当は、ストイコビッチじゃないんでしょ?」
「えっ?」
下校の集団から離れて、周りに人がいなくなると、さくらちゃんはそんなことを聞いてきました。
「今朝の話。よく考えたら、あかねが急にサッカーを好きになるなんておかしいもん」
あかねちゃんは弱ってしまいました。上手くごまかせたと思いましたが、付き合いの長いさくらちゃん相手となるとそう簡単にはいかなかったようです。加えて、さくらちゃんは昔から、妙なところで勘の働く子だったのでした。
「実は、そうなの。だけど…」
あかねちゃんは人差し指でスカートの裾をしきりにいじっていました。さくらちゃんになら明かしてもいいかもという気持ちと、やっぱり今は秘密にしておくべきだという気持ちの間で揺れていました。
「言いづらい話?」
「うん、ちょっと…」
「ふーん、ま、無理に話さなくてもいいや」
あかねちゃんは驚いてさくらちゃんの顔を見ました。さくらちゃんはこういうとき、何が何でも口を割ろうとしてくるようなたちの女の子でしたが、あかねちゃんの知らないうちに、人のプライバシーをわきまえるようになっていたのかもしれません。あかねちゃんの顔を見て、さくらちゃんはにっと笑いました。
「自分の力で暴く方がずっと楽しいからね!」
あかねちゃんはがっくりと肩を落としました。もっとも、頭の片隅ではそんなことだろうと思っていたのですが…。
「それよりさあ」
さくらちゃんはそう言ってから、持ち歩いていた袋からあの黒焦げのクッキーを一枚取り出して口に放り込みました。平気な顔をして食べているのを見ると、あれはひょっとすると失敗でもなんでもなく、狙って焦がしたのではないかという疑念があかねちゃんの中に生じてきました。
「クッキー、あいつにあげなくて良かったの?」
「あ、あいつって?」
「とぼけなさんな、あかねちゃんの想い人のあ・い・つ、ですよ」
そう、これもさくらちゃんが口を割らせたことの一つで、あかねちゃんは、四年生の時に一緒のクラスになって、今は隣のクラスの黒田くんに片想いをしているのです。
「む、無理だよ…絶対私以外に何人か渡しに行ってるし、私のクッキーもそんなに美味しくできなかったし、そもそも大して仲良くもない私なんかに貰ったって嬉しくないだろうし…」
だんだんと尻すぼみになっていく声を黙って最後まで聞き終えると、さくらちゃんはまっすぐに私の方を見て、こう言いました。
「あかね、今、私のクッキー“も”って言ったでしょ!」
「ひーん!」
頭を拳でぐりぐりされて、落ち込んでいるのにあんまりな仕打ちだとあかねちゃんは思いました。
「あかねみたいに可愛くて優しい子は、黒田なんかにはもったいないくらいだと私は思うんだけどなー…」
ぐりぐりの刑からあかねちゃんを解放した後、さくらちゃんは不可解そうに呟いていました。昔からあかねちゃんはさくらちゃんに可愛いと評されてきましたが、それで自信を持てたことは一度もありませんでした。黒田くんはあかねちゃんを含め、多くの女の子からかっこいいと言われていますから、多くの男の子から可愛いと言われるような女の子でなければ彼には釣り合わないと考えてしまうのでした。
「ただいまぁ」
間延びしたあかねちゃんの声が玄関を流れました。靴を脱いで、居間の扉を開けると、それまで洗濯物をたたんでいたらしいお母さんが振り向きました。
「あら、おかえり」
帰っていたことに気がついていなかった様子なので、2度目のただいまを言いました。保護者宛のお手紙をテーブルの上に無造作に置くと、あかねちゃんはさっさと居間を出て、自分の部屋に閉じこもってしまいました。
今日はなんだか疲れてしまいました。部屋に入るやいなやランドセルを投げ捨てて、ベッドのシーツの海に身を投げました。かといって眠気が押し寄せてくるような気配もなかったので、少しして近くに置かれていた、読みかけの小説を手にとって読み始めました。先日買った、はやみねかおる先生の新作です。けれど読んでいても、いつもみたいに物語の世界に入り込むことができずにいました。
20ページ近く読んで、今日はもうやめておこうかなと思い始めた頃でした。
「あ、あの…聞こえますか…」
どこからともなく、そよ風の音にさえかき消されてしまいそうなくらい小さな声が聞こえてきました。それはひょっとすると、無意識にあかねちゃんが今一番聞きたがっていた声だったかもしれません。あかねちゃんはすぐさま本を閉じ、腰を起こしてきょろきょろと周りを見回しました。
「ここです、後ろです」
言葉の通りに後ろを振り向くと、ベッドのヘッドボードの上、ちょうどあかねちゃんの顔と同じくらいの高さの場所で、昨日と同じ藤色のワンピースを身に纏ったアオイちゃんが、ぴょこぴょこ跳ねて存在をアピールしていました。
「アオイちゃん…来てくれたんだ!」
興奮の乗ったあかねちゃんの声に驚いたのか、跳ねていたアオイちゃんは着地の時にバランスを崩して後ろによろめいていました。
(落ちちゃう!)
そう思った次の瞬間には、アオイちゃんの体はヘッドボードの上から空中に振り落とされていました。あかねちゃんは慌ててヘッドボードの後ろに手を回しました。構えた手のひらに、ぽとりと何かが落とされるのを感じると、あかねちゃんはもう片方の手で胸をなでおろしました。ヘッドボードの裏側からゆっくり手を引き上げると、アオイちゃんがあかねちゃんの手にへたっと腰をついて、ホッと息を吐いているのが見えました。
(安心してる……。私の手のひらの上は、安全な場所だと思ってくれてるのかな?)
そうだといいな、とあかねちゃんは思いました。昨日は、手のひらに乗せられたら、あかねちゃんに捕まる危険性ばかり考えてしまったでしょうから。実際、今この場であかねちゃんがきゅっと手を握るだけで、簡単に閉じ込められてしまうくらいにアオイちゃんは小さくてか弱い存在なのです。
それでも、あかねちゃんの顔が近くに寄せられていると分かると、アオイちゃんの顔は緊張でこわばりました。あかねちゃんもそれに気がついたので、何か声をかけてあげなければならないと感じました。小さな者を安心させてあげるのは、大きな者の役目です。
「でも、今日も会いに来てくれるだなんて思わなかったよ」
「えっ…えっ…?だ、だって昨日、また会いに来てって言われたから……」
アオイちゃんは戸惑い果てている様子でした。それを聞いて、あかねちゃんはちょっとだけがっかりしました。アオイちゃんはあかねちゃんに会いたいからではなく、あかねちゃんにそう言われたから来ていただけだったのです。
「こんなにすぐじゃなくたって、アオイちゃんが来たい時に来てくれればいいんだよ…?もちろん、無理に来てとも言わないし」
「ご、ごめんなさい…」
アオイちゃんはそこで俯いてしまいました。そんなことよりももっと言うべきことがあったと、あかねちゃんは反省しました。
「でも、来てくれてありがとう。とっても嬉しい」
幼い子供に話しかけるみたいに、アオイちゃんと目線が同じ高さになるように顔を持ってきて、あかねちゃんは言いました。俯いていたアオイちゃんが、その言葉に少しだけ照れるような仕草をしてみせたのが、こうして正面からまじまじと見つめてみると分かったのでした。
「せっかくだし、しばらくここでゆっくりしていきなよ。ええと、なにしよっか…」
視線をアオイちゃんから天井に移して、顎に手を当てて考えました。
「そうだ!今日学校の調理実習でクッキーを作ったんだけど、アオイちゃんも食べない?」
「ちょーりじっしゅー……?くっきー……?」
口で説明するよりも実際に食べてもらった方が早いと思って、ふかふかのシーツの上にアオイちゃんを降ろして、地べたに置かれたランドセルの中からクッキー入りの袋を取り出しました。
(あ……)
見ると、袋の中の円い形をしていたはずのクッキーは、割れていくつかのかけらになっていました。おそらく、ランドセルを床に投げ捨てた時に、着地の衝撃で割れてしまったのでしょう。
(でも、これなら逆にちょうど良かったかも)
そのままではアオイちゃんが食べきることの出来なそうな大きさでしたが、クッキーのかけらは一つ一つがおはじきくらいの大きさになっていて、これならアオイちゃんでも問題なく食べきることができそうです。
かけらの中でもとりわけ小さなものを袋の中から取り出して、シーツの上に所在なげに立っていたアオイちゃんの前に置いてあげました。
「それがクッキーだよ。私が作ったんだ」
足下のクッキーのかけらを戸惑い混じりに見つめた後、アオイちゃんはそれを抱きかかえるようにして持ち上げました。
(あ、あれ?)
その持ち方に、あかねちゃんは引っかかりを覚えました。クッキーのかけらを胸の高さくらいまで持ち上げた後も、まるでずっしりと重い荷物でも持ち運んでいるみたいに足をふらつかせるばかりで、いつまでたっても口に運ぼうとしません。
「もしかして…それでもまだ大きい?」
「はい…」
仕方がないので、あかねちゃんはアオイちゃんからクッキーのかけらを返してもらいました。確かに改めて見てみると、クッキーのかけらはアオイちゃんの体よりも横に広いですから、食べるには少し大きすぎたかもしれません。あかねちゃんはさらにそのかけらを、ごま粒くらいの小ささになるように、爪の先を使って砕いていきました。砕いたものを人差し指の先に乗せて、落とさないようにゆっくりと運び、再びアオイちゃんの前にころんと転がしました。こうしてシーツの上にひとつだけ乗っていると、ゴミとなんの区別もつかないくらいに、小さなクッキーの粒でした。
そのクッキーの粒を手で掴んで、アオイちゃんは口に運びました。ところが、一口かじったきりで、すぐに口の外に戻してしまいました。
アオイちゃんは顔色を伺うようにしてあかねちゃんの方を一瞥すると、すぐまた視線を戻して、思いつめたような表情で正面の粒を見つめていました。あかねちゃんはこの時、どんな表情を向けてやれば良かったのか分かりませんでした。
「す、すみません……まだ少し大きいのと、硬くて食べられなくて…」
「そ、そっか。じゃあもっと小さくしないとだね」
アオイちゃんが言いづらそうにしていたのがよく分かって、あかねちゃんは同情を寄せないわけにはいきませんでした。受け取ったクッキーの粒は、息を吹きかけたらどこかに飛んでいってしまいそうなくらいで、どんなにアオイちゃんの小ささを理解しているとはいっても、これでもまだ大きいなどと信じることができないでいました。
一度あかねちゃんは粒をもと入っていた袋に戻しました。そして、中に入っている全てのクッキーのかけらを、袋の上から手で圧迫して、文字通り粉々に砕きました。アオイちゃんの口は、さくらちゃんの家の水槽で飼っているグッピーの口の大きさとほとんど変わらないのです。だからきっとグッピーと同じように、アオイちゃんにも固形物を食べるのは難しいのでしょう。だからこうして粉末状にしてあげれば、今度こそきっと食べられるはずです。果たして、それがクッキーと言えるのかどうかは分かりませんが…。
粉末状にしたはいいものの、あかねちゃんはどうやってアオイちゃんに食べさせてあげればいいのか分かりませんでした。この粉を、これまでと同じようにシーツの上に出してしまうと、アオイちゃんが食べきれなかった場合に片付けるのが大変ですし、勝手に部屋にお皿を持っていくとお母さんに叱られますし、皿の代わりになりそうなものは部屋の中を探しても見つかりません。
仕方なしに、あかねちゃんは片手でお皿をつくって、その中にクッキーの粉を注ぎ入れました。注ぎ終わると、手のお皿の上にアオイちゃんを招待してあげました。
「これなら食べられる、よね…?」
あかねちゃんは不安を募らせていました。これ以上問題が出てきてもあかねちゃんにはどうすることもできないでしょうし、第一、こんなただの粉でしかないものを食べて、アオイちゃんが喜んでくれるのでしょうか…。
アオイちゃんはまず膝をついて、自分を乗せている大きなあかねちゃんの手と同様、皿のような形に曲げた手で目の前に溜まったクッキーの粉をすくい取り、そのまま口に運びました。あかねちゃんは落ち着かない気持ちで、一連の動作を見ていました。
「おいしい……」
「ほっ、本当!?」
「はい……とっても」
アオイちゃんはその後も2、3回はクッキーの粉を手ですくって食べていましたが、よほど美味しかったのでしょうか、途中で膝立ちから四つん這いのような体勢になって、手のひらの地面に撒かれたクッキーの粉に、直接口をつけるようにして食べ始めました。
その食べ方にあかねちゃんは最初(小人さんとはいえれでぃーがそんな食べ方をするのははしたないんじゃ…?)と若干戸惑いましたが、クッキーの粉に顔を近づけて夢中で食べているアオイちゃんの姿は、キャットフードを食べる子猫みたいで、見ているうちにとてもかわいらしい姿だと思うようになりました。また時々、せわしなく動くアオイちゃんの口が手のひらの皮膚に当たって、心地よいくすぐったさをあかねちゃんに感じさせます。
どうしてでしょう、アオイちゃんがいつもよりずっと、愛しい存在に思えるのは。手のひらにちょこんと乗せられて、自分の与えた食べ物をとても美味しそうに食べて、時折無防備な笑顔を見せるアオイちゃんが、あかねちゃんは愛しくてたまりませんでした。
だからでしょうか、それまで静かに見守っていただけだったのですが、あかねちゃんはアオイちゃんの体を撫でてあげようと、無意識のうちにそっと人差し指を伸ばしていました。
「きゃっ…」
小さな悲鳴と、人差し指に伝わったぴくっという肩の震えが、ハッとあかねちゃんを我に帰らせました。
「ご、ごめん」
「い、いえ…」
考えてみれば、食事中にいきなり体を触られたらびっくりしてしまうのは無理もないことですし、それが自分の体よりもずっと大きくて、太くて、丈夫な指だったのなら、なおさらです。軽はずみな行為だったと、あかねちゃんは反省しました。
あかねちゃんが指を引っ込めてくれたと分かると、アオイちゃんは気を取り直してクッキーの粉を食べ始めていました。その様子を見ておや、と思いました。あかねちゃんはてっきり、今ので食べる気を無くすかと思ったのですが、アオイちゃんは何もなかったかのように食べ続けています。あかねちゃんはこういうところに、アオイちゃんの自分に対する恐れが薄れつつあるのを感じました。でも、まだ心を許しているというには程遠くて、もう一度触ろうとしたら、もう二度と姿を見せてくれなくなるような気もしていました。


