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2話 餌付けとお勉強

「ふー…お腹いっぱいです」
「あれっ、もういいの?」

手のひらにまだたくさん残っているビスケットの粉を見て、あかねちゃんは妙だと感じました。全く減っていないというわけではなさそうですが、あれほど良い食べっぷりを見せていたことを考えると、減っている量があまりにも少ないように思えます。具体的にいえば、あかねちゃんが指先でひとつまみしたくらいか、それ以下の量しか減っていないのです。
遠慮をしているのかとも思いましたが、アオイちゃんが口のまわりに景気良く生やしたクッキーのヒゲに、遠慮という文字は結びつきませんでした。あかねちゃんが指摘すると、恥じ入ったように口元を拭っていました。

(まあ、考えてもしょうがないよね…)

アオイちゃんを一度ベッドの上に退避させて手に残ったクッキーの粉を、がばっと口の中に流し込みました。粉薬を飲んでいるのとほとんど同じで、当然ながらクッキーを食べたという感じは全くしませんでした。

「そういえば、私が来たとき、寝転がって何をしていたんですか…?」

何かしていたっけ?と一瞬考えたあかねちゃんですが、傍らに置かれていた文庫本が目について、アオイちゃんが何のことを言っているのか理解しました。

「本を読んでたんだ。ほら、こういうの」

表紙がアオイちゃんによく見えるように、その本を両手で掲げました。

「本…」

そう言われても、まだピンときていない様子です。
あかねちゃんはすぐにうつ伏せに寝転んで、本を読む体勢を作りました。

「アオイちゃん、私のそばに寄ってこれる?」

遠まきに見ていたアオイちゃんは、その言葉におずおずと頷きました。
鞄に入れて簡単に持ち運びのできる文庫本とはいえ、アオイちゃんには映画館の大きなスクリーン、あるいはそれ以上に見えているかもしれません。そんなスクリーンに映し出された物語が一番よく見える、あかねちゃんの顔のそばの特等席に、小さなお客さんを座らせてあげました。

「わ…これ全部、人間さんの文字ですか…?」

挟んでいたしおりを無視して、最初のページを開いて見せてあげると、アオイちゃんは驚いた声で言いました。

「そっか、アオイちゃんには読めないんだ…」

アオイちゃんにも読ませてあげるつもりだったのですが、その可能性は見落としていました。考えてみれば、クッキーを見たことも食べたこともなかったアオイちゃんですから、文字を読むことができなかったとしても不思議ではありません。

「そうだ!アオイちゃん、私と一緒に文字のお勉強をしない?」
「えっ?私が、人間さんの文字を、ですか…?」
「うん、どうかな?」
「でも、私に覚えられるかどうか…」

前向きな返事は貰えませんでしたが、アオイちゃんはなんだかそわそわしていて、まるきり興味がないというわけではなさそうです。

「そんなに難しいものじゃないから大丈夫だよ。私もアオイちゃんが文字を会得できるまでいくらでも付き合うから、ね?」

アオイちゃんの背中を、優しくひと押しするような言葉をかけてあげます。あかねちゃんも決して教え方が上手い方ではありませんが、あいうえおくらいならきっと問題なく教えてあげられるはずです。

「そこまで言ってくださるなら…やってみたいです」

決まりだね、と満足そうに笑って、あかねちゃんはさっそく準備に取り掛かりました。

アオイちゃんを待たせて、あかねちゃんは部屋のそばの物置を探っていました。

(ええと、このへんに確か…あっ!)

探していた段ボールの箱を見つけて、ジェンガを引っこ抜くみたいに、物置に積もった荷物の山の中から取り出しました。箱の上面に稚拙な字で『だいじなもの』と書かれています。さっそくその封を開けてみました。

(わーっ、懐かしいなぁ…)

中には、絵本や、おもちゃや、お絵かきのクレヨンなど、あかねちゃんが子供の頃に好きだったものがいっぱいに詰め込んでありました。それらをかき分け掘り進めていくあかねちゃんの手が、あるところで止まります。その時、一番上に見えていたものを、そっと取り出しました。あかねちゃんが3歳のころに、あいうえおのお勉強に使っていた本でした。

(まさか、また使われることになるなんてこの本も思ってなかっただろうなあ)

あかねちゃんは、この本を使ってお母さんと一緒にお勉強をしていた頃を思い出していました。今度はあかねちゃんがお母さん……もとい先生になって、アオイちゃんにあいうえおを教えてあげるのです。

「おまたせ!」

部屋の入り口のところにいても、ベッドの真ん中のアオイちゃんの姿はすぐに目につきました。あかねちゃんの声が発せられると、それまでうわの空でいたらしいアオイちゃんがハッと振り向きました。そういえばこの状態でアオイちゃんを部屋に置いておくのは少し危険だったかもしれません。もし絵本を探していた間にお母さんが入って来たりでもしたら、一発で見つかっていたでしょうから…。
ベッドの上のアオイちゃんが空けてくれたところに、あかねちゃんはうつ伏せに寝転んで、顔の手前にあいうえおの絵本を開いて置きました。そして絵本の上に、アオイちゃんを乗っけてあげます。
チャイムも号令もなく、あかね先生のあいうえお教室は始まりました。たった一人の大切な小さい教え子に、あかね先生は熱心に文字を教えています。ひらがな50音が載っている最初のページをまず開いて、指で指し示しながら、あかねちゃんは一文字一文字よんで行ってあげます。アオイちゃんもその声と、指についていきます。例えばあかねちゃんが「あ、い、う、え、お」と読んで、それに合わせて一列目を指でなぞったら、アオイちゃんはその後に続いて「あ、い、う、え、お…」と言いながら、一列目の上をとことこ歩いて、一文字一文字確認していくのです。そんな風にして、アオイちゃんは初めて「あ」から「ん」までのひらがなを知りました。
あいうえお教室は、何日にも渡って開かれました。もっともアオイちゃんはずっとあかねちゃんの部屋に寝泊まりしていたわけではなく、毎日部屋に来たわけでもなく、だいたい週に2、3日くらいの頻度であいうえおのお勉強にやってきていました。
その中であかねちゃんは、アオイちゃんのために色々なテストを行いました。まずは、最初のページで、あかねちゃんがランダムに指さした文字を、アオイちゃんが走って見に行き、その文字を答える、というのを何回か繰り返すというテストを行いました。アオイちゃんが懸命にページの上を走り回る姿を上から見守っていたあかねちゃんですが、途中で、どこに動かしてもアオイちゃんが自分の人差し指に駆け寄ってきてくれるのがクセになってしまい、本当は5、6回で終わらせるつもりだったのですが、うっかりアオイちゃんが疲れ果てて倒れるまでテストを続けてしまいました。アオイちゃんにとっては、体育館でのシャトルランとほとんど変わらなかったでしょう。しまった、と思ってあかねちゃんはすぐ部屋から出て行き、麦茶を入れたペットボトルのキャップを持って戻ってきました。ぜえぜえと呼吸を乱しているあかねちゃんの横に「ごめんね…」と呟いてキャップを置きました。そんなあかねちゃんを責めるでもなく、アオイちゃんは疲れて弱った笑顔で「合格でした?」とだけ聞いてきました。まだあかねちゃんのしたことに気がついていなくて、最初からこういうテストだったのだと思っているようでした。それが分かって、あかねちゃんはますます胸が痛くなりました。アオイちゃんは一文字も間違えませんでしたし、何よりも、こうして倒れてしまうくらい懸命にやっていたのですから、不合格にする理由なんてどこにもありませんでした。

また別の日に行われたテストは、絵本の2ページ以降を使った、単語と、その上に描かれた動物や食べ物などの絵を見て、何と読むのか当てるというものでした。最初は上の絵をあかねちゃんが手で覆い隠して、文字だけでは分からないようだったらヒントとしてその絵を見せてあげる、という具合に行いました。もっともアオイちゃんは、2、3文字の単語でしたら、難なく読めるくらいには力がついていたので、絵をヒントとして使うことはなく、ほとんど答え合わせとして見せてあげていました。
テストをしながら、あかねちゃんはページに何個も描かれた絵に懐かしさを感じていました。この可愛い絵が好きで、あかねちゃんはあいうえおを習得した後でも、何度もこの絵本を見返したものでした。

「猫もとかげも、こんなに可愛くないです…!」

もっとも、なぜか絵に向かってぷりぷり怒るアオイちゃんが、今では一番可愛いのですが。

そんな風にいくつかのテストを済ませると、今度はあかねちゃんがアオイちゃんに絵本を読み聞かせてあげるようになりました。ページの全体を見渡せるように、手のひらにアオイちゃんを乗せながら、あかねちゃんは絵本を音読して行きます。手のひらの上から、アオイちゃんは夢中で読み進められていく文字を追っていました。そんな様子を見ていると、あかねちゃんの方も絵本の音読が楽しくなって、2冊、3冊と、アオイちゃんのために読んで聞かせてあげたくなるのでした。

「最近、あかねの部屋に子供の読むような絵本が色々置いてあるけど、どうしたの?」

アオイちゃんに文字を教え始めてからそろそろ1ヶ月が経とうとしていたある日、お母さんに突然こんな質問をされた時は、流石にどきっとしました。

「え、えっと…ほら、絵本の絵って可愛いのが多いでしょ?それで最近集めるのにはまってるんだ!」
「ふうん。そういえばあんた、可愛いもの好きだったもんねえ」

それだけで解放してもらえたので、お母さんの見えないところで、あかねちゃんはふうっと息を吐きました。

「さむい、ふゆが、きたかたから、きつね、の、おやこ、の、すんでいる、もりへ…」

その頃になると、アオイちゃんはすらすらと文字が読めるようになっていて、あかねちゃんが読み聞かせてあげなくても、一人で絵本を読むことができるようにまでなっていました。
縦に流れる文字をとことこ追いかけながら読む姿は微笑ましいですし、アオイちゃんが確かに文字を読めていること、そして、あかねちゃんが昔好きだったお話が、アオイちゃんの儚くも綺麗な声で再生されているという事実が、あかねちゃんの心に温かな感動を生み出していました。

(でも、そろそろおしまいにした方がいいよね…)

一方であかねちゃんは、教えることがなくなったことで寂しさを感じていました。そろそろ、アオイちゃんを卒業させてあげるべきだということは分かっています。けれどあかねちゃんは、まだアオイちゃんの先生でいたいと思っていました。
この一か月で、アオイちゃんが少しずつ心を開いてきていたのを、あかねちゃん自身感じていました。あかねちゃんのちょっとした動きにいちいち怯えるようなことはもうありませんし、何よりも、アオイちゃんはいろんな顔を見せてくれるようになりました。新しい文字を覚えて嬉しそうな顔、天敵らしい動物が描かれているのを見て怯えている顔、お話を読んであげた時に見せる、満足そうな顔、悲しそうな顔、ちょっと眠たそうな顔……。また、テストに一個も間違えずに合格して、あかねちゃんの指とハイタッチを決めたことなど、出会ったばかりの頃では考えられません。
でも、先生と生徒という関係から、人間と小人という元の関係に戻ったら、この一か月で変わってきていたものも、全て元どおりに戻ってしまうのではないか……いや、元どおりどころか、卒業したらアオイちゃんをあかねちゃんのもとに縛り付けるものは何もなくなるのですから、勝手にどこかへ行ってしまい、もう二度と帰ってこないのではないか……そういう不安を消し去ることができないでいました。
あかねちゃんは一つため息をつきました。すると、読む声を止めて、アオイちゃんが心配そうな視線を送ってきたので、「なんでもないよ。続けて」と笑顔を繕って答えました。
そう、そんなことを考えてたってしょうがないよね、とあかねちゃんは自分に言い聞かせます。
あかねちゃんは今この場できっぱりと、アオイちゃんを卒業させてあげることに決めました。やはり、先生のわがままで生徒の卒業を引き延ばすなんてあってはならないことですし、あかねちゃんが本当になりたいのはアオイちゃんの先生ではなく、友達なのですから。

「そつぎょうしけん…?」

絵本を読み終わって余韻に浸っていたアオイちゃんに説明すると、クッキーの時と同じような反応が返ってきました。

「ええと…つまり、もう私に教わる必要がないくらいあいうえおをマスターしたよ、っていうことを証明するテストみたいなものだよ」
「テスト…難しいんですか?」
「どうかな、アオイちゃんだとちょっと苦労するかも…でもやるべきことはシンプルで分かりやすいから、それができるのかどうかってところだね」

試験の内容は既に考えていて、あかねちゃんの勉強机の上にはもうその準備も済ませてありました。つまり、アオイちゃんが望めば、今すぐにでも卒業試験を始められる、ということです。

「…今から、受けてみる?」

首を振られるのを全く期待していなかったといえば嘘になりますが、それまでの熱心な姿を見てきましたから、アオイちゃんがこの質問に黙って頷くのも、あかねちゃんには分かっていたことでした。
手に乗せて机まで運んでいると、アオイちゃんの緊張が伝わってくるようです。しかしそれはあかねちゃんと出会いたての頃にいつも見せていた緊張ではなく、武者震いにも似た、どこか前向きな緊張でした。
机にセットされたA4サイズの一枚の白紙と、使い倒してのっぽというよりはずんぐりに近くなった鉛筆が、あかねちゃんの手に乗せられてきたアオイちゃんを出迎えました。
隣にアオイちゃんを降ろし見比べてみると、短くなった鉛筆より、アオイちゃんの背丈の方がかろうじて高そうでした。おおかた、これからすることの予想がついたのでしょうか、難しい算数の問題を前にした小学生のような表情で、足下に横たわる鉛筆を見ています。

「アオイちゃん、その鉛筆を持つことってできる…?」

あかねちゃんの問いかけに、アオイちゃんは細い腕で鉛筆を抱くように持って答えました。とはいえやはり自分の身長とほとんど変わらない鉛筆は重たいようで、持ち上げることなどはできず、押したり、倒れないように支えたりするので精一杯という様子です。

「じゃあ、今から試験の説明をするよ。といっても、さっきも言った通りやることはいたってシンプルで、その一枚の紙にアオイちゃんが鉛筆で好きな言葉を書いて、ちゃんと書けてると私が判断したら合格を出してあげる、ってだけなんだけどね」
「書くのは、何文字の言葉でも良いんですか?」
「じゃあ、3文字以上にしようか。……どう、書けそう?」
「なんとか…」

煮え切らない返事に、あかねちゃんの心配は増すばかりです。けれどアオイちゃんには難しいということは百も承知で、鉛筆で文字を書くことを卒業試験に選んだのです。

「えっと…それでは、試験を始めます」

あかねちゃんの声で、卒業試験は始まりました。アオイちゃんはよいしょ、よいしょと鉛筆を動かして、紙の上に文字を引いていきます。アオイちゃんの力ではどうしても鉛筆を引きずって動かすことしかできないので、かたつむりが通ったあとに粘液が残るように、書きたい文字とは関係ないところにも薄い線が引かれてしまうのですが、必要な線だけを力を込めて濃く書くということで、余計な線を目立たなくしていました。

「きゃ…っ!」

そろそろ一文字目を書き終わるかというとき、アオイちゃん鉛筆の重さでバランスを崩し、派手に転んでしまいました。そのはずみで鉛筆はアオイちゃんの体を離れ、紙の外までむなしく転がっていきました。
ちょうど一文字目を隠すように、膝を押さえて倒れています。苦痛に顔を歪めているのを見ると、転んだときに強く膝を打ってしまったのでしょうか。

「大丈——」

手を貸しそうになるのをぐっとこらえます。本当は助けてあげたい気持ちでいっぱいなのです。けれど今はアオイちゃんの先生ではなく、アオイちゃんが卒業に値するかどうか冷徹に見極める試験官なのですから、心を鬼にしなくてはなりません。
また、アオイちゃんの方も弱音を吐いたり、あかねちゃんに助けを乞うたりは決してしませんでした。ゆっくりと立ち上がって、服に少しついてしまったらしいすすを払って、鉛筆の飛んでいった方へ駆けていきました。

(頑張れっ、アオイちゃん…!)

床に敷かれていた運動用のマットをロール状にしていくときみたいに、鉛筆を両手でころころ転がして戻そうとしているアオイちゃんを、心のどこかにあった卒業して欲しくないという気持ちも忘れて、あかねちゃんは応援していました。
鉛筆を元の位置に戻して、文字を書くのを再開してからは、順調に進んでいました。何かコツのようなものを掴んだのでしょうか、あるいは、あかねちゃんの声なき応援が届いて、アオイちゃんに力を湧かせたのでしょうか……本当にテンポよく、一画一画書き進めていきます。画数がある程度まで進むと、書き途中でもアオイちゃんが何を書こうとしているのか把握することができます。そんな調子で、2文字目、そして3文字目があかねちゃんにも分かってきて…

(えっ…?)

3文字目が判明した時点で、あかねちゃんは目を大きく見開きました。
だってまさか、アオイちゃんがその言葉を書こうとしているなんて、思ってもみなかったのですから。
それは、誰よりもあかねちゃんがよく知っているであろう言葉でもありました。
4文字目、5文字目と、答え合わせみたいにアオイちゃんが書き出して行くのを、あかねちゃんはまばたきもせずに見つめていました。
そして、6文字目を書き終えた時、アオイちゃんは鉛筆を静かに紙面の上に置いて、ほっと息をつきました。

(これ、夢じゃないよね…?)

それくらいにあかねちゃんは、目の前の光景が信じられませんでした。ひょっとすると、1ヶ月前に、自分の部屋で藤色の小人を発見したところから始まった夢が、今も続いているんじゃないか、とさえ思いました。
でもほっぺをつねった時の痛みが、現実であることを教えてくれました。
動かせなかった口がようやくほぐれて、あかねちゃんは試験の結果発表も差し置いて、一番にこう聞きました。

「アオイちゃん、それ、なんて書いたのか教えてくれる…?」

もちろん、なんて書いてあるかなんてとっくに分かっています。それでもあかねちゃんは、聞かずにはいられなかったのです。

「……~~~~~~」

声に出して読むのはまだ照れくさかったのでしょうか、アオイちゃんは小さなほっぺを目一杯赤らめて、俯きながら答えました。聞こえるか聞こえないかというくらいの小さな声で、たとえ聞こえたとしても、普通の人には何を言っているのかまでは分からなかったでしょう。でもあかねちゃんには…あかねちゃんだから、アオイちゃんの言ったその言葉を、はっきりと聞き取ることができたのでした。
それが、アオイちゃんが初めて、あかねちゃんの名前を呼んだ瞬間でした。