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3話 怖さと優しさ

部屋を出てから10分。あかねちゃんは今、居間に隣接した和室の中央に、つくねんと座っています。伸ばした膝の上には、平らなお皿が置いてあります。そのお皿の上には、半月型に切られたメロン。そして、メロンの橙色の果肉のてっぺんには……うつ伏せのような体勢でメロンを齧っている、アオイちゃんの姿。

「おいしい?」

あかねちゃんの言葉に、アオイちゃんはこくこくとめいっぱい頷いています。

「ほ、ほ、本当にこれ、好きなだけ食べてもいいの?」
「本当だよー」

実際のところ、アオイちゃんの一口の小ささでは、いくら食べてもメロンが無くなりそうにないどころか、まだあかねちゃんが食べるには十分な量が残っていそうなので、その言葉に嘘偽りはありません。またアオイちゃんの方でも、メロンの上の方のいちばん甘い部分をずっと食べていられるので、いいことずくめなのです。
それにしてもアオイちゃんが本当に美味しそうに食べるので、あかねちゃんもスプーンを手にとって一緒に食べたくなってきます。けれど今はそういうわけにもいきません。アオイちゃんが食べている間、お母さんがやってこないか常に周りを警戒するという大事な役目があるのです。

ところへ、居間の方から声がかかりました。

「買い物行ってくるから、留守番頼んだわよ」

これはしめたものだと思いました。あかねちゃんは油断せず注意を張っていましたが、別にそこから和室に顔を出すこともなく、お母さんは靴を履いて、さっさと家から出ていきました。
ようやく一安心できたあかねちゃんは、ゆっくりアオイちゃんがメロンを食べる様子を眺めていることにしました。
アオイちゃんがメロンを食べ始めてからそろそろ五分になりますが、見ただけでは最初の状態からどこがどう減っているのか分かりません。しかし、寝転んだまま、ご機嫌そうに足をぱたつかせているのを見ると、別段食べるのに苦労しているというわけでもない様子です。
気になってこっそり横からアオイちゃんの口もとを覗いてみると、なるほど確かに、あかねちゃんの大きな顔がぐっと近づけられているのにも気づかないくらいには、夢中になってメロンを食べています。幸せそうに表情をとろけさせているのを見ていると、あかねちゃんの方も自然と頰が緩んでしまいます。
小さな小さな口で、微量の果肉をちぎってはもぐもぐ、ちぎってはもぐもぐ……そんな姿を見て、あかねちゃんはなぜか、小型のクワガタが昆虫ゼリーを食べているところを想像しました。ゼリーの器に顔を寄せて、あの小さなおひげで一生懸命に食べてるところがもーカワイイんだよねーっ、と熱く語っていたさくらちゃんの気持ちが、今少し分かったような気がしました。

「私も少し貰っていいかな?」

驚かしてしまわないように顔を元の高さに戻してから、あかねちゃんは言いました。

「もちろん!」

その返事を聞いて、今まで皿の上に置かれていたスプーンを手に取りました。そして、アオイちゃんを巻き込まないように気を遣いながら、メロンの皮から果肉を切り離していきます。果肉はあまり力を入れなくても簡単に切り離せるくらいに柔らかく、アオイちゃんが苦心することなく食べられているのも納得です。もしあかねちゃんがこのメロンの品質改良に初めて成功した人物だったなら、「小人メロン」と名付けていたかもしれません。
メロンをすくい取ると、あかねちゃんはすぐにスプーンを口に運びました。

「んん〜〜〜っ!!」

ほっぺたが落ちるとはこのことでした。芳醇であるが決して過剰だとは感じさせない上品な甘み、とろけるような舌触り、湧き水に付けて冷やしたかのような新鮮な冷たさ……どれをとってもパーフェクトです。

「あ、アオイちゃん!これやばいよ、美味しすぎるっ!なんでうちにこんなメロンが!?」

すぐにでも感想を共有したかったがために、つい興奮冷めやらぬ口調で話しかけてしまいました。
しかしそんなあかねちゃんの反応も意に介さず、アオイちゃんはある部分を食い入るように見つめていました。

「…?どうかした?」
「な…なんでもないよ。うん、すっごい美味しいよねっ」

慌てたような様子に引っかかりを覚えないこともありませんでしたが、あかねちゃんはそれほど深く考えはしませんでした。
アオイちゃんが信じられないとでもいう風に見つめていたのは、あかねちゃんの持つスプーンによって一瞬で果肉を掬い取られ、すっかり切り通しのようになってしまった部分でした。
だって、つい数秒前まで、確かにそこは今アオイちゃんが身を置いている地帯の一部として存在していたのです。それが、あの大きくて冷たく光るスプーンがズブリと差し込まれたかと思うと、まるで今まで存在していたのが嘘であったかのように、綺麗さっぱり消えて無くなってしまったのです。アオイちゃんが言葉を失うのも無理はありません。

「あれっ、もう食べないの?それじゃあ、残りは私が貰っちゃうね」
「え——」

呆然としていたアオイちゃんが、その言葉を聞いて少し遅れて振り返ると、今度はさっきの反対側に当たる、あの少し反り上がっていた端の部分が、やっぱりさっきと同じようにぽっかりと無くなっているのです。
アオイちゃんが見上げると、そこには頰を抑えて、いかにも美味しそうに口を動かしているあかねちゃんの姿がありました。それは悪意なんて微塵も感じない、本当にただ美味しいものを食べて喜ぶ女の子の、微笑ましい姿であったはずです。
なのにどうしてか、アオイちゃんはその時確かに、背筋に悪寒が走るのを自覚しました。見てはいけないものを見てしまったような気さえしました。

(っ……!?)

アオイちゃんは、そんな気持ちを整理する時間も与えてもらえませんでした。
咀嚼を終えたあかねちゃんの顔が、ちょうど今アオイちゃんが立っている辺りに向けられているのです。そのすぐ近くでは、つい先ほどあかねちゃんの口の中から引き出されたばかりのスプーンの先が、キラリと光っていました。——そして次の瞬間、スプーンは地上に向けて降ろされ始めました。
身体が、金縛りにあったように動きません。それでいて、心臓ばかりがどきどきと激しく脈を打っています。
スプーンはあっという間にアオイちゃんの目の前を通過し、深く深く、橙色の地盤の中に潜って行きました。そこから、つま先から先の地面が流れるように切り離されていく様子を、アオイちゃんはただ息を詰めて見つめていることしかできませんでした。
何がいちばんアオイちゃんを戦慄させたかって、音が全くしないことです。これほど大掛かりな事業には、「がらがら」とか「ごごご」といった重々しい音が付いて回るのが当然です。ですがそんな音どころか、もっと些細な音ですらこの場には無いのです。けれど確かに目の前では、地面が持ち上がるという天変地異に等しい変動が現在進行形で起こっていて、自分の聴覚の方が狂ってしまったのではないかと疑ったくらいでした。 これほどまでに不自然な静けさを、アオイちゃんはこれまでに経験したことがありません。
切り離された地面がスプーンに乗せられてぐんぐんと昇っていくのを、アオイちゃんはやはりただ目で追っていました。そして、スプーンも、アオイちゃんの視線も、おてんとさまみたいに高くて大きな、あかねちゃんの顔の前でぴたりと止まりました。

これから始まることを想像して、アオイちゃんの動悸は最高潮に達しました。

(やめて、あかねちゃん……)

どれだけアオイちゃんが切に願おうとも、はるか高くで恍惚の表情を浮かべているあかねちゃんを、振り向かせることすらできませんでした。
そこからは、あっという間でした。
あかねちゃんの口が開いたかと思うと、その中に勢いよくスプーンが突入していき、橙色のシルエットが完全に見えなくなった瞬間、ぱくっ、と元のように閉じられてしまったのです。
ぴっちりと閉じられた唇から引っこ抜かれるように、スプーンが帰還を果たしました。そこに乗っていたはずの、あの大きな橙色の塊は、跡形もなく消え去っていました。代わりに残ったのは、あかねちゃんのかん高い感嘆の声と、その口の奥から微かに漏れる、しゃくしゃくという咀嚼の音だけでした。
アオイちゃんはこうして、今度ははっきりと見てしまったのです。 自分をがっしりと支えている地面の一部だったはずのものが、虫も殺さないようなあかねちゃんという人間の女の子によっていとも簡単に掬い取られ、あっけなく食べられてしまう…その、一部始終を。

アオイちゃんはふと我に返って、自分の周りの光景を見直してみます。
人を何人も載せて大海を突き進むバイキング船のようななりをしていたはずが、その両端の大部分をごっそりと切り離され、まるでみすぼらしいいかだのように頼りなくなっていました。メロンを船に喩えるなら、あかねちゃんの摂食行為はさしずめ、これまでに数々の船や人を飲み込んできて、畏怖の対象とされてきた大嵐といったところでしょうか。だとすれば今のアオイちゃんは、いかだ一枚で、いつまた嵐が来るのかも分からない海の真ん中を漂っているようなものでした。
そこまで考えたとき、アオイちゃんはほとんど反射的に上を向きました。

じー。

見上げてすぐ、アオイちゃんの視線は、あかねちゃん黒く透き通る瞳にぶつかりました。
その瞳の中心に自分の姿が映し出されているのを見たとき、アオイちゃんは血の気が引くような思いがしました。
今、あかねちゃんは確かに、アオイちゃんを見つめているのです。さっきまでのように、下に広がっている(た)メロンではなく、自分を見つめているのだということが、アオイちゃんにもはっきりと分かってしまいました。
あかねちゃんは、口を半開きにした、無表情に近い表情でじっと見続けています。
きっと普段であればそんなことはなかったのでしょうが、今のアオイちゃんにはその表情、その視線から、恐ろしい可能性のことを考えてしまうのでした。
この時、ついさっき見た、メロンのかたまりがあかねちゃんの口の中に消えていった光景が、アオイちゃんの頭によぎりました。

(まさか、あの優しいあかねちゃんに限って、そんなことはしないだろうけど、けど…!)

アオイちゃんは本当に、あかねちゃんのことを信頼しているつもりです。それでも、一度頭に浮かんだ最悪の可能性を、どうしても払拭することができずにいました。
現実、あかねちゃんにはできてしまうのですから。
アオイちゃんを捕まえて、ぺろりと一口で食べてしまうことが。
一方で、もちろんあかねちゃんは、アオイちゃんを食べようなんて気持ちは微塵も持っていませんでした。

(なんだか、アオイちゃんさっきから顔色が良くない?どうかしたのかな…)

これが、アオイちゃんを見つめている間の、あかねちゃんの心の中でした。

「あ…もしかして、まだ食べていたかった?だったら別に、私のことは気にせずに食べてていいからね」

あかねちゃんはいつもの、アオイちゃんを安心させるための表情で言いました。けれども今度ばかりは、そんな表情だけで心を落ち着けるのには無理がありました。
気にせずに、なんてどうしてできましょうか。そう、あかねちゃんはまるで分かっていないのです。メロンの上にちょこんと乗っているアオイちゃんの目に、今までの自分の行為がどのように映っていたかなんて。
もっとも、それは無理のないことかもしれません。だってあかねちゃんは、ただ世間一般の人間たちがするのと同じように、メロンを食べようとしていただけなのですから。みなさんも、普段から道端を歩いている時に、近くにいる蟻さんからどう見えているかということを意識しているかどうか、考えてみれば分かるでしょう。

「違うの、そうじゃなくて——」

そうじゃなくて、あかねちゃんがメロンを食べるところを見ているのが、ちょっと怖かっただけ……そう言おうとして、声が止まりました。どうしてか分かりませんが、あかねちゃんには伝えてはいけないような気がしたのです。それは決して、怖いなんて言われたらあかねちゃんが傷つくだろうから、などといった殊勝な心遣いからではありませんでした。
思えば、あの時もそうでした。あかねちゃんがゴマ粒くらいの大きさにクッキーを砕いてくれたのに、それでも食べることができなかった、あのとき。なかなか言い出すことができないでいた中、最初に出てきた言葉は「すみません」で、それに対してあかねちゃんは「そ、そっか…」と困ったように笑っていて——。
もう分かった人もいるかもしれません。この、アオイちゃんが謝って、あかねちゃんがフォローをするという構図……この中心には何か「罪」があるはずなのです。その罪とは——小さすぎる、という罪です。アオイちゃんがあかねちゃんに伝えることができなかったのは言い換えれば、「あかねちゃんがメロンを食べる光景が怖いと感じてしまった」という罪を告白するのをためらった、ということなのです。
そして、こうした小ささに対する罪の意識を確たるものにしてしまったのは、ひょっとするとあかねちゃんだったかもしれません。
あのとき、あかねちゃんが「どうして謝るの?」「アオイちゃんは何も悪くないよ」とでも言って、アオイちゃんに微笑んでいたなら、あるいは——。
しかし、それであかねちゃんを責めることはできません。罪を否定してあげるのと、罪を赦し、フォローしてあげるとでは、優しさの種類が違うというだけで、どちらの方がより優しい選択であったなどと言えるようなものではないですから。
ここまででくどくどと説明してきましたが、アオイちゃん本人はまだ、この潜在的な罪の意識を自覚することができていません。いつか、自覚する日がくるのか……そして、そしてそうなったとき——自分が存在する限り、滅ぼすことが不可能である罪と向き合わなければならなくなったとき、アオイちゃんはどうなってしまうのか……それは、のちに分かることでしょう。

「そうじゃなくて?」

あかねちゃんは小首を傾げて、アオイちゃんの答えを待っています。
言えない理由も分からなければ、代替の理由を思いつくということもなく、アオイちゃんは返答に窮してしまいました。

「と…とにかく、私はもう十分貰ったから、本当にもういいんだよ」

アオイちゃんはとにかくこの状況を脱したくて、すぐにでもメロンの上から降りようと、慌てた所作で動き出しました。
ですが、すぐに立ち往生することになります。

「っ……!」

アオイちゃんはこのメロンの上に自分の力で乗ったのではなく、あかねちゃんに乗せてもらったのです。だから、あかねちゃんは分かっていませんでした。このメロンの高さが、一体どれくらいの高さであるのかということを。いや、確かにこのメロンが立派なメロンであることは間違いありませんが、別段高さが突き抜けているというわけでもありません。それでも、アオイちゃんにとっては、一般的な建物の二階にいるのと同じように感じられていました。その高さから…まして、下にはピカピカと光っていかにも硬質そうなお皿の表面が広がっていますから、飛び降りるのには覚悟がいります。

(降りなきゃ……降りなきゃ……!)

何も飛び降りる必要はありません。壁にしがみつきながら慎重に降りていくという方法だってあるのです。でもそれで、うっかり手を滑らせるなどしてしまったら……そんなことを考えると、足がすくんで一歩が踏み出せなくなります。

(やっぱり、だめ——!)

アオイちゃんはうつむきながら、とうとうきゅっと目を瞑ってしまいました。これ以上、お皿の表面を見下ろし続けるのに耐えられなくなって……人間の食べ物から降りることすらできない自分が、惨めでたまらなくなって——目を閉じずにはいられなかったのです。
目を閉じているところに、スッと何かの気配が寄せられるのを感じました。
恐る恐る目を開けてみると、最初に見えた景色に目を見張りました。
本来目を開けたところに広がっているはずだった寒々としたお皿の白、それを覆い隠すように、温かみのある肌の色がアオイちゃんの視界を占領していたのです。

「滑るから一人で降りるのは危ないよ?はい、乗って」

差しのべられた手のひらに、優しさで全てを包み込むかのような微笑みに、アオイちゃんはただ戸惑いました。どうしてあかねちゃんはこれほど自分に優してくれるのか、どうしてこんなにも優しいあかねちゃんを、自分は怖がらなくてはいけないのか、どうして自分は、この子の笑顔だけは曇らせたくないと思ってしまうのか……あらゆることが、アオイちゃんには分かりませんでした。
分からないけれど、気づけばアオイちゃんは、あかねちゃんの指先に足を乗せていました。