アオイちゃんが目覚めたのは、それから幾時間か経った頃でした。三時のおやつを終えたばかりだったはずが、いつの間にか夕方になっており、寝起きのアオイちゃんの顔を、障子の隙間から漏れる茜色の光が穏やかに照らしています。
「おはよう、アオイちゃん」
寝返りを打つように上を向くと、視界の真ん中に、あたたかな目で見降ろしている、あかねちゃんの大きな顔がきました。そこでようやくアオイちゃんは、あかねちゃんの手のひらの上で寝落ちしてしまったことを思い出しました。
「…あああっ!ごめん、私うっかり寝すぎちゃって…!もしかしてずっと動けなかったんじゃ…!?」
「気にしないで、アオイちゃんの寝姿観察してるのも面白かったからね。ふふ、どうだった?私の手の上の寝心地は」
「それはもう最高…ってそうじゃなくて!本当にごめんねっ、すぐ降りるから!」
恥ずかしいやら、申し訳ないやらで、必要以上にアオイちゃんは慌てていました。
(あ…そうだった、私ひとりじゃ降りられない…)
そのせいで、手の端から地上の景色を見降ろして、初めてそんなことを思い出すという有り様でした。
「乗ってていいよ?この方が話しやすいし」
アオイちゃんが寝ている間は、手が動かせなくて疲れることもありましたが、こうして起きていてくれれば比較的自由に(アオイちゃんを驚かさない範囲で)手を動かせるので、困るようなことは何もありません。また、もう少しだけアオイちゃんを手に乗せていたい気分でもありました。
すると、家の外から、バック駐車をするときの聞きなれた音が聞こえてきました。
「まず…お母さん帰ってきちゃったかも」
お母さんが玄関をくぐる前に部屋に戻ろうと、あかねちゃんは立ち上がりました。
「続きは部屋に戻ってからにしよっか」
「ま…待って!私、もう帰らないと…」
「えっ、もう?まだ遊んでいたい気分だけど…」
あかねちゃんは物足りなそうな顔をしていますが、アオイちゃんからしてみると、今日以上に濃い時間を過ごしたことは数えるほどというくらいでした。これが単に遊びに対するキャパシティの差であるのか、それとも、アオイちゃんには重大に感じられた出来事の数々も、
あかねちゃんにとっては取るに足らない日常の一部にすぎなかったというのか……おそらく後者であるように思われました。
「わ、私も同じだけど…今日はやっておかなきゃいけないことが色々あって…この服も洗濯しなきゃダメだし」
「あ、そうだったね…」
そう言われてしまうと、あかねちゃんとしても仕方ないと思うより他はありません。けれど、週に一度や二度しか会いに来てくれないのだから、やっぱりもう少し一緒にいたいというのが本音です。
名残惜しそうにアオイちゃんを降ろそうとしますが、何を思ったか、その手を途中で引き戻しました。
「あかねちゃん…?」
そのまま降ろしてもらえる気でいたアオイちゃんは、突然のそんな行動に戸惑ってしまいます。これは、まだ帰したくないという意思表示なのでしょうか?でも、そんなわがままなあかねちゃんを見るのは初めてのことで、アオイちゃんは少なからず不安を覚えました。
何せ、万が一あかねちゃんがわがままを言ってきたら、アオイちゃんは逆らうことができないのですから。…そう、例えば今この場で「一生おうちに帰してあげないもん」なんて言われたら、どうしたってアオイちゃんは逃れることができないのです。今の二人の関係があるのは、これまでに一つもあかねちゃんがわがままを言わなかったおかげであると言っても言い過ぎではありません。
そんなアオイちゃんの不安を、あかねちゃんも途中で察しました。
「あ…そういうつもりじゃないの。えーっと、このまま私が、アオイちゃんをおうちまで送って行くってのはどうかなって」
それを聞いて、不安はすぐに解消されました。それくらいなら断る理由もないと思って、アオイちゃんは返事を出しかけました。しかし、出しかけたところで口が止まります。寸前で、また別の重大な懸念が、アオイちゃんの中に生じたのです。
「それって、私が住んでる場所を、あかねちゃんが知ることになるってこと……?」
「ダメかな…?いい機会だから、と思ったんだけど…」
実際、あかねちゃんはこのことを見落としていたわけではなく、付き添い(この表現が適切かどうかはさておいて)を提案した理由の一つでした。今日のことであかねちゃんは、アオイちゃんのことをもっと知りたいという気持ちを強くしました。その上でアオイちゃんがどんなところに住んでいるのか知っておくことは、大事なことだと考えたのです。
アオイちゃんはその質問に、はっきりとした答えを出すことができないでいました。
教えてもいいか、それともいけないのか、二つの選択肢の間で板挟みになっていました。
小人が人間に住処を漏らすなんて、自殺行為に等しいのです。
もちろん、あかねちゃんを信頼していないわけではありません。ですがそれだけで片付けられるほど単純な問題でもありませんでした。あかねちゃんの意図に反して、何かの拍子に他の人間に知られてしまったりでもしたら……アオイちゃんはもう、あかねちゃんと一緒にいられなくなってしまうかも知れないのです。
それでもアオイちゃんには、教えてあげたいという気持ちもありました。だって、あかねちゃんは友達なのですから。住んでいるところも教えてあげないなんて、なんだか裏切りのような気がして、たまらない気分になってしまいます。
いや、何もこんな後ろ向きな理由ばかりというわけではありません。一緒におうちに帰ったり、また、あかねちゃんの方から、遊びに誘ってきてくれたり……そういうことに対する憧れを、アオイちゃんは感じていたのです。だって、なんだか本当に……人間だ、小人だなんて関係のない、どこにでもいる普通の友達同士みたいではありませんか。
(私…私は…)
「アオイちゃんの考えてること、なんとなく分かるよ」
その言葉に、アオイちゃんは顔を上げました。
「これは私の考えなんだけど…私は、友達にも教えられない隠し事があったっていいと思う。あ、隠し事っていうと、なんだかちくちくした言い方になっちゃうかも…。もちろん、そういう考え方じゃない子もいるかもしれないけど、私は全然、そんなことで薄情だー、とか思わないから」
無理して言わなくてもいいんだよ、とあかねちゃんは微笑みました。
問題をいつまでも解決できないときに、背中を押してくれる———それもまた、友達の姿でありました。
実際、あかねちゃんのこの言葉のおかげで、アオイちゃんは思考の堂々巡りを脱却することができたのです。
「ごめん…やっぱり、今は教えられない」
「そっか」
あかねちゃんは小さく頷いて、それ以上は何も言いはしませんでした。
「ただいまぁー、荷物運ぶの手伝ってくれない?」
そのとき玄関から、気だるげなお母さんの声が聞こえてきました。
「おかえりー!今いくよ」
返事をした後、再び手の上に目をやると、アオイちゃんがなんだか上の空でいるように見えました。やっぱり、断ったことを気にしているのでしょうか。
けれど、先程の言葉に偽りはなく、あかねちゃんは本当に全然気にしていませんでした。
だって、アオイちゃんが悩んでいた……それはつまり、少しでも、あかねちゃんになら教えてもいいかもしれない、と考えてくれたということなのですから。
でもそんなささやかな喜びを本人に伝えるのはこそばゆくて、自分の胸に、それこそ隠し事のようにしまっておくことにしました。
「アオイちゃん。すぐ終わるから、荷物運んでる間だけポケットに入っていてくれる?」
そう聞くと、アオイちゃんはハッとして、すぐに快い返事をくれました。
手伝いを終えて、あかねちゃんは靴を履き、玄関の外へ出ました。
「お待たせ、もう出ても大丈夫だよ」
胸ポケットの底に向けて人差し指を入れると、中ですぐにアオイちゃんの細い腕が回される感触がしたので、そのまま指を引き上げ、いつもみたいに手の上に乗せてあげました。なんだか魚でも釣るような出し方ですが、これが一番安全だと考えられる方法なのです。
「このへんで降ろしても大丈夫?」
なるべく目立たないような場所を見繕って尋ねましたが、アオイちゃんはそれには答えず、何か言いたそうにしています。
「あ、あの…」
「うん?」
あかねちゃんが立ち止まると、アオイちゃんはゆっくりと言葉を発しました。
「いつか、その時が来たら、絶対に話すから……それまで待っていてくれる…?」
…そう、アオイちゃんが出した本当の結論は、教えるでも教えないでもない、「保留」でした。リスクなんて顧みず、本当に心の底からそうしたいと思える日が来た時に、あかねちゃんに教えてあげたい……アオイちゃんはそう考えたのです。
そして、そんな選択を取ることができたのは、あかねちゃんならきっと待っていてくれる、という確信を持ったからでした。
「…!うんっ、わかった!」
そんな嬉しさが弾けたようなあかねちゃんの声を聞き、笑顔を見て……何があっても、いくらかかっても、この約束は守ろうと、アオイちゃんは強く心に誓ったのでした。


