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3話 怖さと優しさ

手のひらの上から、あかねちゃんが最後に残ったメロンの果肉をすくい取る様子を、ぼんやりと眺めていました。つい先ほどまでアオイちゃんをその上に乗せていたいたメロンの最後は、上から見ているとあっけないものでした。あれは本当に、あかねちゃんの3時のおやつにすぎなかったのだと理解させられます。

「ごちそうさま、美味しかったね!今度友達にも食べさせてあげようかな?」

いくら美味しいといっても、アオイちゃんはもうメロンの上はこりごりでした。
それに比べて、あかねちゃんの手のひらの上にいるとなんだか安心します。柔らかくて、あったかくて、それに少し、あかねちゃんの匂いがして…。
アオイちゃんの口から欠伸が漏れました。それだけでなく、先ほどからうとうととまどろみかけています。
このまま眠りに落ちてしまうのでしょうか。でも、小人が人間の手のひらの上で眠るなんて、本来あってはいけないことです。意識が落ちて無防備な間に、人間に何をされるかなんて分かったものではありませんから。もちろん、あかねちゃんとてそれは同じで、だというのに、体はあかねちゃんの手のひらに身を委ねることを求めていて、ついにアオイちゃんは、ぱたりと横向きに寝転んでしまい……

「わ、大変!服がべちゃべちゃ!」

そんなアオイちゃんを現に戻したのは、あかねちゃんの慌てたような声でした。
なんのことか最初アオイちゃんには分かりませんでしたが、直後に出たくしゃみによって、自分の服がメロンの果汁でべっちゃり濡れていることに気がつきました。

「うぅ、ほとんだ…それどころじゃなくて、全然気づかなかった」

気づいた途端急に体が冷えていくように感じたので、アオイちゃんは横になったまま手のひらに全身を密着させ、あかねちゃんの体温で暖をとり始めました。

「ねえ、その…大丈夫?アオイちゃん、その服しか持ってないんじゃないかなって…」

あかねちゃんが、なぜか少し聞きづらそうに聞いてきます。

「そんなことないよ?これ以外にも何着か持ってるから、帰ってから着替えれば大丈夫」
「そうなんだ。アオイちゃんって会うときはいつも同じ服だから、てっきりその一着しか持ってないのかと…」

ほっとしているあかねちゃんを見て、アオイちゃんはようやく合点がいきました。

「あ、えーっと……そっか、あかねちゃん、そこのところ誤解してたんだ……」
「誤解?」

ひょいと起き上がって、自分の来ている藤色のワンピース(今は濡れて普段よりどんよりと暗い色になっていますが)を掴んで示しながら、アオイちゃんは言いました。

「さっき他にも何着かあるっていったけど、正確に言うとね、この服と全く同じのを、何着か持ってるってことなの」
「ええっと…つまり、ずーっと同じ一着を着ているように見えて、毎日ちゃんと同じデザインの違う服に着替えてたってこと?」
「そういうこと。っていうか私、何日もずっと服を替えないようなコだと思われてたんだ……」

実際は少し演技が入っているのですが、ショックを受けている様子のアオイちゃんを見て、あかねちゃんはデリカシーを欠いた発言をしてしまったと思いました。

「あ、あはははは。そうだよね、いくらなんでもそれはあり得ないよね…。でもさなんで、同じ服しか持ってないの?」
「それはね。ちょっと話すと長くなりそうだけど、私たちの種族の間で、そういうしきたりみたいなのがあって…」

アオイちゃんが話してくれたのは、こういうことでした。
アオイちゃんたち小人は、生まれる前に自分の「色」が決められるらしく、10歳になるとそれぞれの母親からその「色」の糸で縫った服を決まった数だけ与えられて、以降はずっとその服を着ていくことになるのだそうです。アオイちゃんの「色」は、今着ているこのワンピースの藤色だったのでしょう。
あかねちゃんはアオイちゃんの話すことを、終始興味津々といった様子で聞いていました。

「へーっ、じゃこの服は、アオイちゃんのお母さんが作ってくれたものなんだ?」
「そうなの。可愛いよね、この服!私、すごく気に入ってるんだ」
「うん!それに、すっごくアオイちゃんに似合ってると思う」
「えへへ…」

てれてれと、アオイちゃんは顔を伏せてしまいました。こういう仕草は見慣れたものですが、いつもに増して嬉しそうに見えるのは、自分のことだけでなく、お母さんの作ってくれた思い入れのある服が褒められたからでしょうか。

「そういえば、アオイちゃんのお母さんってどんな人なの?」

そう聞くと、アオイちゃんはやっぱり少し嬉しそうに答えてくれました。

「優しくて、色んなことを教えてくれて、逆に私の話もなんだって聞いてくれて、ご飯が美味しくて、お裁縫も得意で、それから…」

変な話ですが、あかねちゃんはこの時のアオイちゃんの「話す」に対しての最も適切な対応は、「聞く」よりも「見る」であるような気がしました。とはいえもちろん、話は最後までちゃんと聞いていました。

「大好きなんだね、お母さんのこと」
「うん…あ、そういえばちょっと、あかねちゃんに似てるかも」
「私に?なんだかちょっと会ってみたくなってきたかも。…………ダメかな?」

あかねちゃんが聞くと、アオイちゃんは困ったように笑いました。もともと断られたら仕方がないと思って聞いたことなので、その反応自体は想定の範囲内でした。けれど…

「お母さんには、もう会えないの」

その言葉に込められた意味をあかねちゃんが理解するのには、少しの時間が必要でした。

「えっ……ごっ、ごめん、私…!」
「いいんだよ。今聞かれなくても、いつかは教えることになってただろうからね」

事実アオイちゃんには、少しも気にしている様子はありませんでした。もうそんな時期はとっくの昔に過ぎ去った、ということでしょうか。だってそうでなければ、さっき語っていたくらいに大好きなお母さんのことを思い出して、感傷的にならないはずがありません。

「他に家族はいるの…?」

聞きたいことは他にもたくさんありましたけれど、流石にそれはぐっと飲み込んで、一つだけに絞りました。アオイちゃんはその質問少し強めに首を振りました。こういう所を見ると、ただの空元気であるようにも思えてきて、あかねちゃんはきゅっと胸を締め付けられるような思いがします。

「もともと、お母さんと二人で暮らしてたから。お母さんがいなくなってからは、ずっと私一人だよ」

加えてこのアオイちゃんの返答。「もう会えない」の意味を察した瞬間に、あかねちゃんの内にもやっと現れた悪い予感が当たってしまいました。
こんなに小さくて……何よりあかねちゃんと同様にまだ幼い女の子なのに、誰の支えもなく、たった一人で生きていかなければならない——それがどんなに辛くて、苦しくて、怖くて、寂しいことであるか、当たり前のように色々な人に大事にされているあかねちゃんには、想像もつきませんでした。

「…心配してくれてるんだよね、あかねちゃん」

アオイちゃんは穏やかに笑って、あかねちゃんの方を向いていました。よっぽど顔に出ていたのかと、あかねちゃんは場違いな恥ずかしさを少し感じました。

「大丈夫、今はそんなに寂しくないよ。…だって、あかねちゃんがいるんだもん」

えへへ、とアオイちゃんはいつもの照れ屋さんな仕草を見せていました。見慣れたものであるはずなのに、いつもよりずっと心が動かされるのをあかねちゃんは自覚しました。
そこにあるのは「可愛い」を遥かに超えた、何か別の感情でした。もし体の大きさが同じだったならば、きっとアオイちゃんのことをほとんど衝動的に抱きしめて、ぎゅーっと強く強く抱きしめて、しばらくは離さなかったことでしょう。
でもそんなことはできません(いうまでもなく、意志がないというのではなく、不可能という意味です)から、その感情は行き場を失い、いつしか一つの疑問に変わりました。

(どうして、抱きしめてあげることもできないんだろう…)

何か世の中の理不尽に対する抗議のような疑問でした。わがままを言えるようなたちではないあかねちゃんは、この種類の疑問を抱いたことがありませんでした。
そんなとき、手のひらの真ん中で、アオイちゃんが小さな大あくびをしているのが目に入りました。

「眠いの?」
「うん…ちょっと…」

これまでの話もあり、ひょっとしたら疲れがたまっているのかな、などとまたあかねちゃんは心配しました。

「ねぇ……この上で寝ちゃっても、いいかな……?」
「え?どういう…」

あかねちゃんが聞き返す前に、アオイちゃんはその場でパタリと横向きに倒れてしまいました。すうすうとしっかり寝息を立てていて、あかねちゃんは、本当に自分の手のひらの上で眠ってしまったのだと理解しました。

「ど、どうしよう…」

あかねちゃんは戸惑いましたが、幸いにも手だけはじっと静止させていられるくらいの器用さはもっていました(これがたとえばさくらちゃんなら、気持ちの同様に連動して手をぷるぷると震えさせてしまっていたでしょう)。
アオイちゃんを起こすべきか、起こさないべきか、それが問題です。忘れかけていましたが、アオイちゃんの服は依然としてべちょべちょで、そんな状態のまま寝ていたら風邪をひいてしまうかもしれませんし、だいいちこのままでは手を動かすことができません。
しかし、それならばと安直に起こすわけにもいかないのです。だってそのくらい…きっと誰もが起こすのをためらってしまうくらいには、心地よさそうに寝ているのですから。
思えば、こうしてアオイちゃんが寝ている姿を見るのは、初めて出会ったあの日以来でした。もっとも、あのときアオイちゃんはポケットティッシュのパックの中に隠れていましたから、こうしてまじまじゆっくりと眺めるのは初めてです。
以前に見たときには、やっぱりあかねちゃんは、ただシンプルに「可愛い」という感想しか持ちませんでした。でも今、手のひらの上で無防備に寝姿を晒しているアオイちゃんを眺めながら、こんなことを考えるのです。
(私が見ていないところでも、こんな風にちゃんとぐっすり寝られているのかな…それならいいんだけど、でも、さっきの話を聞いたら…)
アオイちゃんのような女の子が、家族と触れ合うこともなく一人で、何が起こるか分からない真っ暗な夜の中、果たして本当に毎日安心して眠られているのでしょうか?…あかねちゃんがもし同じ立場だったら、きっと心細い夜を過ごすことになると思います。
もし、このような心配が杞憂だったならば、それ以上に望むことは何もありません。けれど、あかねちゃんの思った通りならば——せめてこんな時だけは、アオイちゃんを静かに寝かせてあげたい、と思いました。
(お母さんが帰ってくるまでなら、こうしていてもいいよね)
藤色のワンピースはまだ湿ったままですが、風邪を引きそうになっている人の寝顔には見えません。それに、着ている本人が途中まで濡れていることに気がつかなかった程度なのだし、その問題は大丈夫なのだと思うことにしました。そして、手を動かせないことは——それで、この愛しい寝顔を守ってやれるのなら、あかねちゃんにとって、大した問題ではありませんでした。