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4話 旧友と共有(前編)

食べ終えた後、しばし居間で談笑していた二人は、のんびりとした足取りで部屋に戻っていきました。

「あ、私トイレに行くから、先に部屋に戻ってて」
「おっけ」

手を控えめに挙げる簡素なあいさつを交わしただけで、それぞれ行くべき場所に、変わらない足取りで向かいました。

「ただいまー」

誰もいない……この時点でのさくらちゃんからすれば、誰もいない部屋にそう言って入りました。さくらちゃんにはこういう癖がありました。ただ独り言が多いというより、言葉もなく行為をすることに対して漠然と「寂しい」と考えているのです。
「さてと、」とさくらちゃんは言いました。

「あかねめ、引き出しの中に何か隠していたな…?」

——一方そのころ、あかねちゃんはご機嫌に鼻歌なんて歌いながら、下着を下ろして便座に腰かけたところでした。

「~~♪」

あかねちゃんに過失があったとすれば、それはさくらちゃんの性格を知り尽くしていたにもかかわらず、あっさりと絵本についての追究を切り上げたことや、引き出しを隠すような仕草をしてしまったことに少しも触れてこなかったことに、疑いの目を向けようともしなかった…というところにあるでしょう。もっとも、自分に都合のいい解釈ばかりをとってしまいたくなるほど、気持ちに余裕がなかったのですから、そこを責めたって仕方はありません。それに、今更そんなことをしたって、状況がいい方に転ぶことなどけっしてありません。
こうなってしまった以上、さくらちゃんがこれから引き出しを開けて、中に隠れていたアオイちゃんを発見するという展開を修正することは、もう誰にもできないのです———。

床が急な勢いでスライドするような感覚…そして、暗闇に押しよせるように差し込んだ、瞼を焦がさんばかりの強い光によって、否が応でもアオイちゃんは目を覚まされることになります。

「ん……どうしたの?あかねちゃ——」

声が、そこで止まりました。のみならず、動きも、息も、思考も…アオイちゃんのすべてが、固まっていました。
そのせいで、目に映る景色を「あかねちゃんではない、全く知らない大きなの女の子の顔がある」とほとんど無加工で情報化することにさえ、少しの時間を要しました。

「…え、ぁ……」

しかもその顔が、その目が、はっきりと自分に向けられている…そこまで理解したとき、硬直していた体が、ようやく震えるということを思い出しました。
見つかった、なんで、どうして、いやだ、やめて、怖い、怖いよ、助けて……。心の中をそんな声が満たしていきます。が、ついにそれらの声は一つとして声にはなりませんでした。
こういうアオイちゃんの情況は、あの時のそれにほとんど全くと言っていいほど同じでした。あの時とは…あかねちゃんと初めて出会った時のことです。
目覚めたら覚えのない、まるで人肌のように温ぬくく、柔らかな場所に体を横たえていて…ふと頭上を見上げて、それが本当に肌——人間の手のひらの上だったと知った時の絶望と言ったら、忘れたくても忘れられるものではありません。
それでもあの時は、捕まることも傷つけられることもありませんでした。恐怖で凍りかけていた心を、あかねちゃんはその優しさで少しずつ溶かしていってくれました。
だから——希望を見出したというより、藁にも縋るといった方が適当に思えますが——まだ、ひどいことをされると決まったわけじゃない、とアオイちゃんは考えようとしました。
この女の子がもしあかねちゃんの友達だったら、あかねちゃんと同じように優しい心の持ち主で、このまま見なかったことにして引き出しをとじてくれるかもしれない……と。
———ですが、少なくとも私はここまでで、さくらちゃんをそういう子として語ってはこなかったつもりです。珍しいものを発見したら、好奇心の糧にすることを第一に考える……それが、さくらちゃんという女の子なのです。

「ふーん、秘密ってコレのことか……」

引き出しの中に降り注いだその第一声は、決してアオイちゃんを安心させるような声ではありませんでした。言葉の内容を正しく理解するだけの精神的な余裕はありませんでしたが、ただその声の「恐ろしさ」だけは敏感にとらえていました。
四角く、広く切り取られた頭上の景色に、大きな手が姿を現した時、アオイちゃんは自分の命運を悟りました。現れた手は間を置かずに、アオイちゃんを捕まえようという明確な意思を持って、静かに引き出しの中に伸びてきます。
アオイちゃんは走りました。自分だけではこの引き出しの中から逃れられないことには、どこかでアオイちゃんも気づいていました。でも、引き出しの奥に逃げ込めば、あの手の大きさでは入ってこられないかもしれない、それで時間を稼いでいれば、きっとあかねちゃんが助けに来てくれる——ただそういう思いだけで、暗くて深い、トンネルのようになっている引き出しの一番奥を、我武者羅に、無我夢中に、一目散に目指しました。
けれど、アオイちゃんは知りませんでした。この引き出しが、どこまで開くようになっているのかということを。あかねちゃんもさくらちゃんも、引き出しを全開にはしていなかったのです。
何が起きたか、アオイちゃんには分かりませんでした。トンネルの真っ暗闇の中を走っていたはずなのに、気づいたら強く尻餅をつき、明かりの下に晒されているのです。そういえばこうなる直前、何か床が、信じ難い速さで動いたような錯覚がした、と思い当たったちょうどその時、呆然とお尻をついたままでいたアオイちゃんの前に、ぬっと姿を現したモノがありました。腕を回しきれないくらいに太く、手の届かないくらいに高い、不気味でありながらどこか神秘的で、同時に力強く生命の息吹を放っているその肌色のモノが何であるのか、日頃から人間に接しているアオイちゃんにはすぐに分かりました。
青ざめている暇もなく、次の瞬間にはもう、アオイちゃんの体は引き出しの床を離れていました。

親指と人差し指の間でばたばたしているアオイちゃんを、さくらちゃんは物珍しげに観察していました。

「うわ、ほんとに生きてるんだ。あかねのやつ、どこでこんなの捕まえたんだろ…」

さくらちゃんの目には、ばたばたもがくアオイちゃんの姿が、ひっくり返って自力で起き上がることのできなくなった甲虫が、6本の足でひたすら空気を掻き続ける姿のように、どこか滑稽に映っていました。けれどこの時、アオイちゃんは恐怖や絶望で頭がおかしくなりそうで、狂ったように暴れていたのです。(ひっくり返ったコガネムシも、実際はこんな心境でいるのかもしれません)

「いやああぁっ!!」

アオイちゃんを取り巻く状況の全てが、アオイちゃんを恐怖のどん底に突き落とします。
さくらちゃんに捕まったとき、まずその無造作なつまみ方に取り乱しました。脇腹を圧迫されて、たまらず体をよじって逃れようとしますが、そうすると指の方も、逃しはしまいと力を強めてきます。こんな扱い方を、あかねちゃんにされたことはただの一度もありませんでした。
抵抗の最中さなか、ふと顔を下に向けたときも、アオイちゃんは肝を冷やしました。高さおよそ120センチから見下ろす景色——それは、アオイちゃんにとって初めて見る景色でありました。絶景だとか、壮観だとか……安全が保障された場所から見たならそんな感想もあったんでしょうが、この状況では、アオイちゃんの頭の中には、全く別の一つの可能性しか浮かんできませんでした。それは、落ちたら一巻の終わりであるということ。そして、さくらちゃんが気まぐれで、あるいはうっかり指を離してしまったら、それだけで簡単に最悪の可能性は実現してしまう——そこまで理解が行ったとき、アオイちゃんの暴れ方は一層激しくなりました。もっともそこに、これまでのような「抵抗」という目的はありませんでした。抵抗は二重の意味で意味を失っていたのです。ですから、この時のアオイちゃんの状態を指して言うなら、半狂乱だとか、パニックといった方が相応しかったでしょう。
そして、アオイちゃんを最も戦慄させたのは、これほどまでに度を失ったアオイちゃんを前にして、全く何事もないような気色でいる、正面に聳えるさくらちゃんの顔でした。声が届いていないはずはないのです。だって、我知らずあかねちゃんの名前を叫んだとき、ほんの一瞬だけ驚くような表情に変わったのを、アオイちゃんはこの目で見たのですから。
やがて、アオイちゃんは悟りました。
この人は、あかねちゃんとは違うんだ、と。
あかねちゃんに出会ってからというもの、アオイちゃんは少しずつ、人間に対する認識を改めていきました。自分が…いや、小人たちの間で言われていたほど、人間は恐ろしい生き物ではないのかもしれない…と。

「もらっちゃえ」

けれど、そんな幻想は、残酷な現実によって、粉々に打ち砕かれてしまいました。皆が皆、あかねちゃんのように小人に優しく接してくれる人間ではないのだということを、アオイちゃんは思い知らされました。
いつの間にか、アオイちゃんは足場もわからないほど真っ暗で、窮屈な場所に落とされていました。さくらちゃんのホットパンツのポケットの中に入れられてしまったのですが、ここがどこであるかなんて、もはやアオイちゃんにとってはどうでもいいことでした。然るときが来るまで、ここから出してもらえないということは明らかだったからです。

「出してっ!!お願い!!出して下さい!!」

見えない壁を、アオイちゃんは力任せにたたき始めました。そんなことをしたって壁はびくともしないし、出してもらえることがないのだって頭ではわかっています。けれど、しないではいられませんでした。

「うるさいなー…」

暴れるアオイちゃんを、さくらちゃんはポケットの上から、潰してしまわない程度に片手で押さえつけました。

「———、———!!」

何が起きたのか、外の景色を見ることのできないアオイちゃんには分かりませんでした。外からかかってきた圧倒的な力によって、たった一瞬で、いやおうなしに、アオイちゃんの全身の動きも、声も、封じられてしまったのです。
痛い、辛い、怖い、重い、暑い、狭い、汗臭い、息苦しい……さくらちゃんが片手を添えただけで、ポケットの中はたちまち過酷な環境に変わり、アオイちゃんの体力も精神力も、容赦なく蝕んでいきました。
そんな時でした。壁の向こうで、がちゃ、と誰かが扉を開く音を、アオイちゃんは確かに聞いたのです。

「おまたせ~」

その声を、アオイちゃんが聞き間違えるはずがありませんでした。

(あかねちゃんだ……!)

暗闇の中に、一筋の光明が射したような心持ちがしました。さらに、あかねちゃんの登場に合わせて、ポケットを押さえる手の力が緩まり、アオイちゃんは口と、わずかながら手足を動かせるようになりました。天の神様はまだ、アオイちゃんを見放してはいなかったようです。

「ちぇっ、もうちょっとトイレでゆっくりしててもよかったんだけどな。これじゃガサ入れもできやしない…」
「何言ってるの、そんなの許しません」

アオイちゃんはこの時、壁を隔てたすぐ向こうであかねちゃんの声がしていることに気が付きました。気づいてもらうには今しかないと思い、のどを潰す勢いで叫びます。

「あかねちゃん!ここだよ!助けて!!」

その後しばらく、アオイちゃんは反応を待っていました。

「どうする?この後もゆっくりしていくでしょ?」

「もちろん。あ、そうそうあかね、修学旅行の班決めた?」
「ううん、まだだけど…」
「だったら一緒に行こーぜ!」
「いいけど、今から班決めなんて気が早くない?修学旅行なんて4ヶ月以上も先なのに」
「かーっ、甘いねーあかねは!こういうのは早め早めに動いておくのが大事なの。あかねはともかく、私なんて引く手数多だから、ボヤボヤしてたら一緒に行けなくなっちゃうでしょ」
「む……でも、確かに一理あるかも」

ここまで外の声を聞いていて、アオイちゃんの中にある一つの懸念が生じ、狼狽えました。

(聞こえて、ない…?)

しかしアオイちゃんの本能は、その懸念を理解に変えることを拒みました。だって、あかねちゃんの声はこんなにはっきりとアオイちゃんに聞こえているのに、アオイちゃんの叫び声があかねちゃんにはちょっとも聞こえていないなんて、そんなことがありましょうか。

「あかねちゃん!!気づいて!!お願い!!あかねちゃん!!あかねちゃん!!」

アオイちゃんは焦燥感に駆られて、見えない壁を激しくたたきながら、再びすぐ向こうにいるはずのあかねちゃんに呼びかけました。

「でさ、私に秘策があるのよ」
「なに?秘策って」
「去年クラブの先輩から聞いたんだけど、班は男女2:2以上じゃなきゃダメらしい」
「へー」
「へー、じゃないでしょ。ここまで言って私の狙いが分からないの?」
「や、ごめんだけどさっぱり…」
「だーかーらぁ、私たちの班に、あかねの愛しのダーリンを入れてやろうってわけ」

——けれど残念なことに、アオイちゃんの必死の呼び声は、ポケットを押さえるさくらちゃんの手という分厚い壁を、ついに一度も通り抜けることができませんでした。
しかも、アオイちゃんに対するむごい仕打ちは、それだけでは終わらなかったのです。

「あかむぐっ…、———!————!!」

先ほどから懲りずにポケットの中で暴れだした小人を鬱陶しく感じていたさくらちゃんは、あかねちゃんの注意が手から確実に逸れるであろうこのタイミングに、さりげなくポケットを押さえる力を強めました。

ええっ。ま、まさか黒田くんを?
 ご名答。ま、あかねが嫌って言うんならいいんだけど。
 い、嫌じゃないけど。でも、む、ムリっ、ドキドキしすぎて死んじゃう!黒田くんと一日中一緒の班で行動して、しかも同じ部屋で一夜を過ごすなんて…!
 あのね、付き合い始めたらいつかは通る道なんだから、本気で結ばれたいって考えてるなら、そんなところで尻込みしてるようじゃだめだっつの。それに、何かあったら私がボコボコにするし、心配いらないって。

声をあげようと努めるどころではありませんでした。叫びつくしたところに強烈な圧迫を受けたアオイちゃんは、深刻な酸素不足に陥り、意識が少しずつ薄れていくのを感じていました。それでもアオイちゃんは諦めず…もとい、諦めることができず、心の中で何度も何度も、あかねちゃんに呼びかけます。

(助けて!助けて!あかねちゃん!)

あかねがしっかりやれるように、私も全力でサポートするからさ。ねっ、どうよ?

なんだか、外の声が最前よりも随分遠くに聞こえるような気がしました。それは、最前よりも強い力で体を押さえつけられているからなのでしょうか。あるいはそれだけ、アオイちゃんの意識が遠くなっていっているということなのでしょうか……。誰にも気づかれないまま、孤独に海の底に沈んでいくような感覚でした。

(あかねちゃん……!あかね…ちゃん……)

そ、そんなに言うなら。えへへへ……

(そんな……)

最後に聞こえたのは、なんだかだらしなく緩んだ表情が目に浮かんでくるような、けれどそれだけに、今のアオイちゃんにはずうっと遠くに感じられてしまうような、あかねちゃんの声でした。