「あ、ミドリちゃん。今終わったとこ?」
住処の近くまで来ると、アオイちゃんよりも先に中に入ろうとしていたミドリちゃんの姿が見えたので、小走りで寄って行きました。スケッチブックと筆を小脇に抱えたミドリちゃんは、なんだかいかにも芸術家という感じで様になっており、ちょっと憧れてしまいます。
「ええ。そっちはまた散歩?」
「う、うん。そんなとこ」
「ふうん」
訝しまれて、怯んでしまいそうなところでした。不審に思われるのも無理はありません。ミドリちゃんからすれば、昨日あれほど忠告したにもかかわらず、また呑気に散歩している、という見方になるのですから。でも、結局このことについてはそれ以上深く詮索してきませんでした。
「どんな絵を描いてたの?」
そう聞かれるやいなや、ミドリちゃんはスケッチブックの1番新しいページを開いて、ん…とアオイちゃんの目の前に突き出しました。
「わあ……これが、今日描いていたものなんだよね?」
「そ」
「へぇー………すっごーい………」
その絵の中の景色は、アオイちゃんが知らないものでした。だから、ミドリちゃんは一人で、まだアオイちゃんが行ったこともないような場所まで行っていた、ということなのでしょう。
紙面の大半は、人間たちの暮らす、とても大きな家々によって占められていました。それは別に、ミドリちゃんの人間嫌いを反映して、恣意的にまがまがしく描かれているというわけではなく、ごく自然に、きっと彼女の目が捉えたままの色やアングルで描かれています。だからでしょうか、しばらくこの絵を見ていたアオイちゃんは、まるで自分がこの景色の中に入り込んでしまったかのような錯覚に陥っていました。
でも、そんな中でもっとも見る者の目を引くのが、道の片隅に小さく咲いた、一輪のたんぽぽでした。変な強調もなく、周りの住宅よりもずっと小さく描かれているのに、肩身が狭そうにするでもなく、どうしてこんなに力強い存在感を放っているのか、アオイちゃんは不思議でなりませんでした。もっと、ミドリちゃんの描いた絵を見てみたくて仕方がありません。
「ねえ、他の絵も見ていい?」
「ええどうぞ」
過去のページには、水彩で描かれた本当にたくさんの景色が詰まっていました。広大な湖や、雪の降る土地、時には、誰からも見捨てられてしまったような場所まで、本当に、色々……きっとこれが、ミドリちゃんの旅のこれまでの軌跡なのでしょう。
「私……ミドリちゃんの絵、すごく好き。うまく言えないけど、優しげで、懐の広さが伝わってきて……なんかちょっと、意外な感じ。でも、すごく好きなの」
「悪かったわね、似合わなくて…」
「ごめん。言い方が悪かったかも。意外だったけど、似合わないなんて全然思ってないよ。私のこと心配してくれたり、ミドリちゃん、結構優しいところあるもんね」
「…あ、ありがと」
話すときはちょっと無愛想だし、人間に対するあたりは強いけれど、ミドリちゃんはつめたい人なんかでは決してないのです。褒められると照れくさそうにしてしまうあたりは、アオイちゃんのような女の子と少しも変わりません。
「なんか、見てたら、私のために一枚描いてくれるって話がもっと楽しみになってきちゃった…」
「描いて欲しいものがあるなら、明日にでも描いてあげるわよ?」
「ほんと?」
「何を描いて欲しいの?なんでもいいわよ、風景でも、物でも、人物でも」
「それじゃあ…」
そこまで言いかけて、アオイちゃんは口を噤みました。ミドリちゃんの絵で1番見てみたいものとして、その場で、ぱっと頭に浮かんだものをそのまま言うつもりだったのです。
アオイちゃんの頭には、ただ一つ真っ先に、あかねちゃんの姿が浮かんでいました。ミドリちゃんのタッチであかねちゃんを描いたら、どんな素敵な絵になったでしょう。…それに、あかねちゃんに会えなくて寂しいときも、その絵をそばに置いておけば、きっといくらかそんな気持ちが薄まってくれるはずです。でも……。
「…それじゃあ、私をモデルに一枚描いてくれるかな?」
やっぱり今は、そんなことをミドリちゃんに頼むことはできません。あかねちゃん以外で描いて欲しいものがとっさに思いつかなかったのでこう言ったのですが、自分の絵なんか描いてもらったって仕方ないのに、という気持ちもないわけではありません。
「任せて。これは、下手なもの描いたらどやされちゃうわね」
「ふ、ふつーに描いてくれればいいよ。ふつーに、描きたいように」


