なぜ心菜の手から、男が消えていたのか?
何のことはない。拳を軽く握ってみると、側面にわずかな横穴ができるのが分かるだろう。彼女が母を見つけて、揺れがおさまったその隙に、手のトンネルを必死に這って、その出口から飛び降りたというだけ。男が這い出るその瞬間、幸恵が腕時計を見ていたのも幸いした。
とにかく男は今、心菜の手を逃れ、地上に降り立っていた。
だが、以前予断を許さない状況ではある。振り返れば、心菜の足がうろついているのが見える。口のところにフリルの付いたひよこ色のソックスが、フローリングの地面を踏み鳴らす音が聞こえる。心菜が泣きべそをかいていた間に、取れるだけの距離は取ったが、このままでは見つかるのは時間の問題。
どこかに隠れてやり過ごさなければ。
逃走の末、男は、玄関の崖際に辿り着いていた。
その場で足を止め、崖に背を向けて、辺りを見回す。
どこか、ないだろうか。
そう思って探してみても、隠れそうな場所は見つからない。
視野角180余度の内に観測できるのは、途方もない高さまでそびえ立つ靴箱と、男の着地の助けとなった絨毯と、幼い怪獣の徘徊だけ。
どこか、隠れる場所は。
ところで、崖の下は土間である。
そこは、佐藤家の人間が、靴を履き替える場所。
靴の駐車場。靴のタコ部屋。
どこか。
辺りは一通り調べた。それを免罪符にするかのように、背後を確かめる。
————崖下で、几帳面に左右並んだ優奈のスニーカーが、口を開けて待っていた。
「こびとさん、どこー?」
背後を振り返る!……心菜は、お尻をこちらに向けていた。
だが、最前より近付いてきている。早く隠れなければ捕まってしまう。
今一度、崖下の靴と向き合う。
優奈が昨日履いていた靴だ。白地に、パステルなピンクとブルーのラインが映える、彼女によく似合った運動靴。今日は違うものを履いて小学校にいったのだろうか。
輪っかの部分はよれよれで、糸のほつれも見える。その内側に見える中敷は、デザインに合わせてペールブルーで仕立てられている…………いたのだろう。今では、粘土のような緑がかった色に変色している。インクの薄いスタンプを何度も重ね押したみたいに、踵のあたりが黒ずんでいた。
優奈が不潔なわけではない……はずである。ただ、物持ちのいい彼女の靴は、包み隠さず言えば————臭そうに見えた。
……隠れるため。
ごくり、と生唾を飲んだ。
そうだ、隠れるためだ。
もし優奈に問い詰められても、心菜から逃れるためだった、と弁明すればいい。
——そうだったんですね。心菜がすみません……。
それで話は終わり。すまなそうに眉尻を下げた表情が目に浮かぶようだった。
優奈は無知だ。曖昧な性意識はあるが、具体的なことは何一つ知らない。
彼女にとって、靴は履くもので、それ以外の何物でもなくて。
頭を下げている相手が、自分の靴に好き好んで飛び込だ挙句、園児に罪をなすりつけるハエ以下の存在であることなど、きっと、想像だにしない。
男はおもむろに立ち上がる。
足が震えるのは、高所からの眺めに怖気付いたからではない。夢のまた、その先の夢。その実現を前にした震え。
22.5センチ。それが彼女の靴のサイズだ。
本来それは、成人男性の手に乗り切ってしまうくらい、小ぶりなはずで。
余分な肉がついておらず、男の腕よりも細くくびれた、少女の足首。それを通す口もまた、野ねずみが開けた穴に等しく、小さい。
あの時、確かにそう感じた。地を這うわらじ虫を捕まえ、靴の中に投じたあの時に。
なのに。
今となっては、オキアミを吸い込むクジラの口のよう。
小さな虫1匹を取り込むには、その穴はあまりに大きく、深い。
いや、穴の大きさもさることながら————男が最も鳥肌したのは、踵周りをカバーするあの縁を、渡り廊下を渡るように歩けてしまいそうだということに気づいた時だった。
言い訳が必要などと考えることすら、思い上がりなのかもしれない。
優奈は気づかないのではないか?
敬うべき大人を、自らのつまさきで冒涜していることに気づくことすらなく、学校を行き帰りして、友達とかけっこをして、二重跳びを練習して、おつかいに行って……
——さん、大丈夫かな……。
やがて優奈は、姿を消した男の身を案ずるだろう。今まさに自身の足の指で、息も絶え絶えな男の身を、もみくちゃにいたぶっているとも知らずに——。
気づけば男は、床を蹴って飛び降りていた。
恐れるものは、何も無い。
マゼランでさえ、アームストロングでさえもなし得なかった偉業。
男はこの瞬間、小学生の女子の靴の中敷に降り立った、最初の人類となった。


