今日はよく落ちる日らしい。靴の口から真っ逆様に落とされた先は、一度は逃れたはずの幼児の手のひらだった。男は、その手のひらの潔白さを初めて意識した。
心を優奈の靴の中に囚われたまま、呆けたようにただその場に転がっているしかなかった男を、巨大な指が攫う。摘まれても最初の数秒のうちはまだ、あの場所に、ほんの一瞬だが確かに目にした、この世ならざる絶景に思いを馳せていた。
そんな彼を現実に引き戻したのは、骨の軋むような痛みだった。
「もう逃げちゃだめ」
幼児には、他者の痛みが分からない。ましてや虫の苦しみなど知る由もない。しかしそれは、彼女たちが残忍だからではない。
それが普通だ。幼稚園では道徳を教えない。
心菜は逃げ出した小人に対し、確かに怒っていた。だがその怒りは、膨れたハリセンボンのような可愛らしいもので、報復などといった意図は毛頭なかった。
ただただ、手にとったものを離したくなかっただけなのである。ちょうど子供が、母親の前で、買ってもらえそうにないおもちゃをぎゅっと抱えるように。
「……、…………、!!」
そんな気持ちが、小さな生き物にとって内臓を吐きそうなほどの強烈な苦痛となることなど、彼女には分からない。
「♪」
指の狭間で大人しくなった小人を見て満足すると、口の中で溶ける飴の味を楽しみながら、心菜は部屋に戻っていった。
部屋に戻ると、心菜は真っ先に机に駆け寄り、虫かごに再び男を落とし入れた。
それからも、虫かごの中をかじりつくように見ていた。蟻やダンゴムシですら目新しい年頃。まして世にも珍しい小人とあっては、目が離せないのも無理もないだろう。
だが、そんな彼女の期待に反して、男はなんのアクションも見せない。
(こびとさん、ちっとも動かない……)
心菜はつまらなくなると、虫かごを縦に横に揺さぶってみた。眠っている虫は大抵これで起きると知っている。
だが、揺れと一緒にあちこちに跳ねたり転がったりするだけで、依然小人は能動的な動きを見せない。どころかより縮こまってしまったように見える。
(元気ないの?)
心菜の表情が、不満から不安に変化する。これまで虫を飼っては死なせてお墓を立て、また次の虫を捕まえてを繰り返してきた彼女だが、流石に小人ともなると簡単には死なせたくないという思いが働いた。
(どうすればこびとさん元気出るかな…………あ、そうだ!)
何を思いついたのか、心菜は虫かごの蓋を取り外した。


