「ただいま〜!」
退屈していたであろうアオイちゃんに、一刻でも早く自分の帰りを知らせたくて、玄関に上がるなりあかねちゃんはよく通る声でそう言いました。
いえ、本当はあかねちゃんの方が会いたくてうずうずしていたのかもしれません。お母さんに怪しまれないようにしつつ、土産話を聞かせたいという一心で、早足に部屋に向かって行きます。
「アオイちゃん、ただいまっ…!」
部屋の中は静まり返って、なんの声も続いては来ませんでした。
入り口からでは、アオイちゃんの小さな返事が聞こえるはずもありませんから、それは当然のこととも言えます。けれど、あかねちゃんはその静けさに、何か不吉なものを感じないではいられなくて、焦心したように虫かごのある方に駆け寄って行きます。
蓋を取り外すと、隅っこでうずくまるような体勢のまま、ぴくりとも反応しないアオイちゃんの姿が見えました。
「アオイちゃん…?帰ってきたよ」
顔を近づけて、そっと声をかけると、ゆっくりとではありますが、アオイちゃんが顔を上げる動作を始めました。呼びかけても動かなかったらどうしよう、と考えていたところだったので、ひとまずはほっとします。でもそれは、上げられたアオイちゃんの顔を見るまでの、ほんの束の間のことでした。こっちが見えているのか見えていないのか分からないような虚ろな目をしている、その顔を見るまでの。
「ど…」
どうしたの、と聞こうとしたとき、アオイちゃんはたどたどしく口を動かし始めていました。あかねちゃんがそこにいるとようやく認識できたからなのか、虚ろだった目にほんの少し、生気が戻ってきているように見えました。
「お…お、しっこ……した、くて…」
「……!」
弱々しく、途切れ途切れな声でしたが、聴覚を集中させていたあかねちゃんには、その全てを聞き取ることができました。
私のせいだ。
私が、忘れていたから。
アオイちゃんは私がいなかったら、トイレに行くことができないのに。
また、私のせいで。
頭の中が、そんな言葉でぐちゃぐちゃになっていきます。でも、今は自分を責めている場合ではありません。一刻でも早くアオイちゃんを楽にしてあげるのが、何よりも優先してやらなければならないことなのです。
「立てる?」
アオイちゃんは小さく首を振っています。かわいそうに、痛みに耐えるように目をきゅっとつむって、小さな身をさらに縮こませ、全身をぶるっと震わせています。
「…わかった。じゃあ、今から私が持ち上げるから、ちょっと我慢してね」
よほどのことがない限り、あかねちゃんの方からアオイちゃんをつまみ上げるということはほとんどありません。アオイちゃんが苦しくならないようにあまり力を入れすぎず、かといって今はたとえ少しの高さであろうと落としてしまうことは禁物であるため、ある程度しっかりと持ってあげなければなりません。精密機械をピンセットで扱うよりも、よほど神経をすり減らす作業でした。
無事、アオイちゃんを手のひらに降ろした後は、あかねちゃんの部屋からほど近いところにあるトイレに急ぐだけです。いつもは、中に落ちてしまう危険を顧みて外に連れて行っているのですが、今回ばかりは一刻をも争っているのですから仕方ありません。
それを察してか、アオイちゃんはまた何かを言おうと口を動かしています。
「……っ……揺れると、出ちゃいそうだから……ゆっくり、歩いて…………」
それを聞いて、平時よりも控えめに一歩を踏み出すと、アオイちゃんの背中がびくっと跳ねたのが分かりました。今くらいではダメだというはっきりとしたサインでした。なので今度は、もっとゆっくり、静かに足を動かしました。抜き足差し足忍び足、という言葉が似合うような歩き方です。
「このくらいなら大丈夫…?」
アオイちゃんは、すまなそうに頷いていました。
でも、こんな歩き方をしていたら、いくらトイレが近くにあると言っても、たどり着くには結構な時間を要してしまいます。その間、アオイちゃんはまだ我慢していられるのでしょうか……もう、そう信じるしかありません。
しかし、この後に待っていた不運を、あかねちゃんたちはまだ知らなかったのです。
トイレまでもう少しというところまで来た時、居間の方から、お母さんが歩いてくるのに気づきました。あかねちゃんは立ち止まって、とっさにアオイちゃんを乗せた手のひらに、もう片方の手のひらをかぶせます。
アオイちゃんを見られなかったか、挙動不審だとは思われなかったか、気が気ではありません。でも、こっちには目もくれずさっさと横切って行ったので、どうやらその心配はなさそうです。むしろ、このあとが問題なのでした。
あかねちゃんの前を通り過ぎて行ったお母さんは、そんなに急いでどこに向かっていたのでしょう?もう、なんとなく予想がついた方もいるかもしれません。あかねちゃんが、その疑問を抱くとほとんど同時に頭に浮かべた答えもまた、きっとみなさんの予想と同じものであったことでしょう。
ばたん、と戸が締められる音が無慈悲に響きました。その音は、周りの状況なんてもうほとんど把握できないくらいの状態にあったアオイちゃんにも、はっきりと聞こえていました。
「…………お外、いこっか」
暗く沈んだあかねちゃんの声は、答え合わせに等しいものでした。
(待って、あかねちゃん)
もう、アオイちゃんを乗せた手のひらは次の目的地に向かって静かに揺れ始めていて、呼びかけたところで、止まってくれる気配もありませんでした。ひょっとすると、もうまともに声が出ていないのかもしれません。
(もう、いいの。場所なんて選ばないから)
本当の限界がすぐそこまで来ていることを、アオイちゃんは分かっていました。きっと、もう1分も持たないだろう、と。
(この場で下ろしてくれればいいから。後始末だってちゃんとするから)
あかねちゃんが、外に出たのでしょう。虫かごの中で生活していて、久しく味わっていなかったうすら寒い夜の外気が肌に触れるのを感じました。
いくらそう懇願しても届いてくれない。届けなきゃ、いけないのに。その事実は、アオイちゃんを穏やかな絶望へと誘うのでした。


