アオイちゃんが、前よりもかごの外に出たがらなくなりました。理由ははっきりとは分かりませんが、失禁をしてしまった日からのことなので、きっとそこに原因はあるのでしょう。
とはいえ、全く遊ばなくなったわけではありませんし、あの日のショックから立ち直れていない、ということではなさそうです。何かもっと深いところで、心境の変化でもあったのでしょうか。でも、アオイちゃんはそれを教えようとはしてくれません。
そんなとある日のお昼時です。
アオイちゃんの様子が気になって、ふとかごの中を覗き込んでみます。すると、ちょうど彼女がおしっこをしている最中だったうえ、すぐに目が合ってしまい、慌てて目を背けました。
「っ…ご、ごめん…!」
一瞬とはいえ、女の子同士であるとはいえ、こういう事故にあってはやはり、言葉が出なくなるくらいに恥ずかしく、気まずくなってしまうものでした。見る方も、見られる方も。
今にして思うと、あの不幸があった時に、こういった反応がお互いにほとんど起こらなかったというのは、異様なことであったのかもしれません。
「終わった…?」
「……ん」
答えると、あかねちゃんはおずおずと顔を戻した後、虫かごの蓋を外して、キャップのトイレを回収していきました。
目の前で、自分がしたばかりのおしっこの処理をされるというのは、なんともいえない気分です。ただ、アオイちゃんのおしっこが染み込んだティッシュを、汚れた雑巾を扱うようには持たないというところに、あかねちゃんのさりげない、あるいは無意識かもしれない優しさを感じて、それがいくらかの心の救いになっていました。
どうしてなんだろう。
空っぽになった穴に、まっさらなティッシュを詰めながら、あかねちゃんは思いました。
いつでも一緒にいられるようになって、前よりももっと、距離は近くなっているはずなのに。
どうしてこんなに、遠くなってしまったように感じるんだろう。
「ここ、置いとくよ」
「あ……ありがとう」
キャップを戻したとき、アオイちゃんは地べたに座って、顔は少し俯き気味に、何か考え事をしているようでした。最近になってそういうことが増えてきているのですが、何を考えているのか聞くと、彼女は決まって「大したことじゃないよ」というのです。
だから、あかねちゃんにはアオイちゃんの考えていることは分かりません。
でも、少なくとも今のそんなアオイちゃんが、虫かごに住む前のアオイちゃんよりも幸せそうであるようには、とても見えなくて。
「出してもいい…?」
「え?うん……」
あかねちゃんがかごの中に手を下ろすと、アオイちゃんはなぜか少し戸惑ったようにそこに乗ってきます。
「どうかした?」
「いや、あかねちゃんの方からそう聞いてくるの、珍しいなって…」
「…そうだっけ?」
「うん。というか、初めてかも」
手を止め足を止め、あかねちゃんは辿れる限りの記憶を辿ります。アオイちゃんをあの虫かごに住まわせてから、2週間と少し。その中でほとんど毎日、一緒に遊んだりお喋りしたりするために、アオイちゃんを外に出すということをしてきました。でも。
「言われてみれば……」
こうして思い返してみると、そうする前にはいつも、アオイちゃんがあかねちゃんを求める声があったのです。
あかねちゃんにとって、アオイちゃんがかごの中・にいることで、そこまで不都合に感じることはありませんでした。それでも存分に、アオイちゃんを感じることができたから。対して、アオイちゃんはそうではなかったのかもしれません。ずっと、あかねちゃんが外・にいる。アオイちゃんがあかねちゃんを求めるのは、そうした不安が無意識裡に生じた時ではなかったでしょうか。そして、呼べば簡単に出してもらえるからこそ、アオイちゃんはこの不安を自覚できずにいたのです。
けれど、それが今、あかねちゃんはこうして、初めて自分からアオイちゃんを求めるようなことをした。それが意味することは、きっと、そう難しいことではないのです。
じっと、自分のことを見つめてくるあかねちゃんから、アオイちゃんもまた、目を離すことができません。初めて虫かごの中から覗かれたとき、あんなにも不気味だと思ったあかねちゃんの瞳は、こうして彼女の手のひらの上から眺めていると、とてもきれいで、見惚れてしまいます。それに、故郷の星空を見ているような、懐かしさも覚えるのです。
その瞳が、ゆっくりとアオイちゃんに接近してきます。いいえ、正確には、アオイちゃんを乗せる手が、引き寄せられていっているのです。やがて、二人の距離は0になりました。
「あかねちゃん…?くるしいよ」
本当は、そこまで苦しくなんてありません。なんだか面映くて、そう言わずにはいられなかったのです。あかねちゃんにはそれが全てお見通しなのか、それとも、聞こえないくらいに夢中でいるのか、アオイちゃんをぴっとりと頬に寄せたまま、離そうとはしませんでした。
「でも、やーらかい…」
アオイちゃんもそっと、あかねちゃんの頬に、自分の頬を寄せました。それを遮るような壁は、もうどこにもありません。
まるで、長い隔絶を乗り越えて再会した恋人たちのように、二人はいつまでも、そうしていたいと思いました。


