(……っ、……はぁっ、……はあっ、)
どのくらいの時間逃げ惑っていたのだろう。
体力は尽き果て、地べたに這いつくばり、ただひたすらに呼吸を繰り返していた。
なぜ自分は生きているのか分からなかった。本当に生きているのかどうかさえ怪しかった。
何度も轢かれかけた。何度も潰されそうになった。
策なんて何もなかった。ただ必死に逃げて逃げて。けれどその先には、安息なんてなくて、もう片方の絶望が待っているだけで。
昔にやった「鳥かご」の遊びみたいだった。運動神経の悪いぼくは、いつもみじめな思いで、取れるはずのないボールを追いかけていた。みんなは遊びのつもりで。ぼくばかりが必死で。見知らぬ子どもの靴に追い回される気持ちは、あの時の惨めな気持ちに、とてもよく似ていた。
こんな気持ちを味わうために、小さくなったのだろうか。
鳥かごから逃れ、呼吸が整っていくのにつれて、じわりじわりと後悔や絶望、孤独といった感情がぼくの心を侵食し始める。
——逃げよう。
やがて、そう思い至った。こんな所にい続けたら、命どころか精神さえ保たない。少しでも遠いところへ。人のいない安全なところへ行きたかった。
立ち上がり、光差す机の外へ、一歩を踏み出したその直後。
ギギィッッ。
何か金属音とも破裂音とも取れない異音が、ぼくの耳を刺した。
前の席に座っていた児童が、椅子を後ろに引いた音だった。
その子にしてみれば、ただの気まぐれによるものだったのだろう。椅子を引いた後、前に伸ばしていた足を後ろに組み直したのも、同じ、ほんの気まぐれにすぎない。
けれど、その時ぼくは見てしまった。
大量生産された安物の靴の、必然的に入り組んだゴム底の、つま先のあたりの位置に、まるで特異点のように現れた偶然的な灰色の塊——潰されたガム。
どこの誰とも知らない人間の口から吐き捨てられてから、きっと何度も踏みつけられてきたのであろうそのガムらしきものは、黒ずみ、均され、固められ、もはや少女の靴底の一部として吸収されつつあった。
そして、その中心に——まるで琥珀に閉じ込められた虫のような、小さくて黒い何かが貼り付いているのを!
(こ……これっ、これって………)
本当に小さな、注意して見なければ気付けないようなシルエットだった。
けれど、ぼくには分かってしまった。
小さな子供靴にこびりついたガムの、さらにその下で、何度もな何度も踏み躙られ、ただの黒々としたゴミにしか見えなくなってしまったそれが——わずかに、ヒトの形を残しているのが。
(!!ウッ、…………!)
びちゃびちゃびちゃびちゃっ。
腹の底から大挙して押し寄せてきた吐瀉物が、出口をこじ開けて、土石流のように床に落ちた。
一度出し切ったと思っても、第二波、第三波が込み上げてきて、同じようにびちゃびちゃと落ちた。これまでのストレスを溜め込んできたダムが、一気に決壊したかのようだった。
(……、はあっ、はあっ、はあっ、……!)
胃の中が全て空っぽになってしまったような違和感。
口内の粘っこい酸味が不快で、すぐにでも洗い流してしまいたかった。
この身の脆さは、分かっているつもりだった。引きこもっていた頃だって、被縮小者の死亡事故のネットニュースが目に入ってくることは何度かあった。
けれど今思い知った。人間に踏み潰されて死ぬということの、本当の意味を、ぼくは何も分かっていなかった。
憲法によって生きるためのあらゆる権利が保障され、知能や社会性、自立した意思を持ち合わせた人間が、それまでの人生の痕跡を一切残さず、比喩表現などではない「ゴミ」に変えられてしまうということ。
そして————その尊き命を殺めた本人は、そのことを自覚もせずに、空調の聴いた部屋で、きっとママに言われて仕方なく、退屈な試験を受けている。
靴の裏は、もう見えない。組んだ足は戻され、解けない問題に当たったのか、ゆさゆさと貧乏ゆすりをしているのが見える。
断続的に、つま先にかかる体重。
その下には、あの人間だったはずのゴミが敷かれているはずだ。
けれど児童は、そんなことになど気づかぬまま、踏み躙る。踏み躙る。
(や、やめっ、もうやめて……、)
彼がどんな人だったのか、どんな経緯で小さくなったかさえ知らない。でも、もうこんなのは見たくなかった。
もはや断末魔どころか、肉の潰れる音さえ聞こえない。
それなのに、まだ足りないというのか、ほんのわずかに残った人の形さえ消し去ろうというのか、なおも執拗に行われる蹂躙。
それもたかが、小学校の算数の問題で頭を悩ませるついでに。
頭が。おかしくなる。
(あ、あ……)
ぐちゃ、ぐちゃ、と、聞こえないはずの音が幻聴として聞こえてくる。
きっとこんな風に、今日もどこかで、誰かの尊い命が、自分の靴さえ変えない子どもの、その親に買ってもらった靴の下で、ゴミのように潰れるのだろう。
明日も、明後日も。
そしていずれは、自分も。
(……狂ってる、狂ってる、狂ってる……)
カチカチカチカチカチカチ……。
ぼくはいつしか取り出していた、縮小機のスクリーンの一点を、壊れた機械のように連打していた。
縮小対象を示すテキストと、その横にある「復元」のボタン。
そのボタンは、本来の緑色を失い、半透明に薄れ、何度押したところで2度と反応することはない。その意味するところは、誰の目にも明らかだった。
目眩がしてくる。
それでもぼくはボタンを押し続ける。
ゆっくりとぼくの心を侵食し始めた、「2度と戻れない」という絶望から目を背けるためだけに。
————ぺたっ。
その時、ぼくの背後で、やわらかな音が鳴った。


