彼女がこの席に着いてから、ずっと意識させられていたものがあった。
はじめて彼女がミュールを履いているのを見た時、なぜよりにもよってそんなものを履いてきてしまったのかと、ぼくは嘆いた。
空っぽのミュールに追い回される時も、なぜそれが空っぽなのかをずっと考えていた。
そのミュールがゼロ距離の近さに落ちてきた時も、ソールにべったりと付着した無数の紋様と、ほんのりと鼻先をかすめたにおいに、どきまぎさせられるばかりだった。
だから、振り向く前から、本当は分かっていたのだ。
ぼくが聞いたその音が————少女が、素足を床につけた音であったと。
……コンコンコンコンコンコン
水の底にいた時のように、意識から遠のいていた鉛筆の音が、不意に意識され始める。
試験も中盤に差し掛かったからか、それは一層強く、速く、重なりを増していく。
まるで何かへと、ぼくを急かすように。
コンコンコンコンコンコンコ
(うるさい)
コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコ
(黙れ、黙れっ)
コンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコンコン
耐えきれず、ぼくは耳を抑えた。けれどそれもおかまいなしに音の洪水はぼくの脳みそをかき回してくる。教室内30数人の児童たちがよってたかってぼくの精神を鉛筆一本で弄ぶ。うるさいうるさいうるさい黙れ黙れ黙れ黙れ、
その時、少女の足の指がほんのわずかに動くのが目に映った。
くに。くに。
その様子に意識を向けた途端、ぼくの耳から、ふっと耳障りな鉛筆の音が遠のいたのが分かった。
駐車場のネコがアクビでもするような、ゆったりとした仕草。音の波が寄せては返す教室の中で、彼女の足の周りだけ、ゆるやかな時が流れているように見えた。
破滅へと誘う歯車が、狂々と回り始める。
————蓄積されたストレスでおかしくなっていたのか、ぼくはそこに「救い」を見出してしまった。
(…………、)
くに。くに。
足の親指が、また、柔軟に動いている。
母なるものの手招きか、怪物の舌舐めずりか。
——否、ただの一人の女子の、無意識の仕草。
ぼくはそれに、まんまと誘き寄せられていく。
(……あれだけ、苦しんだんだよ?ねえ、いいじゃん、ご褒美に、ちょっとくらい……)
「ご褒美」という言葉を用いることに、何の疑いも抱いていない。
恐ろしいことだった。
せめてもう一度、あのミュールで追い立ててくれれば、それが引き返す理由になっていたかもしれない。
でも今やそれは脱ぎ捨てられ、物言わず傍に転がっているばかり。
あれほど優美で、色香を纏っていたはずのミュールは、こうしていると、まるで出しっぱなしのおもちゃのようだった。
そして、見せかけの大人の鎧を脱ぎ捨てた素足もまた————まぎれもなく、未成熟な児童のそれだった。
くにっ。
(……っ)
華奢で。
無垢で。
無自覚で。
(……子どもだ。ほんとうに、子どもなんだ。)
片思いの相手によく似た、小学六年生の女の子。
そんな子の裸足に、邪な気持ちを持って近づこうとしている。
ぼくのような高校生の男子が、無知さと非力さにつけ込み、児童相手にそういう行いを働こうとするのは、一般的には許されざる行為であるとされている。
でも、次第にそれが本当にいけないことなのか、近づけば近づくほどに、分からなくなってくる。
たかが子どもの足。離れていたときは、確かにそう見えていたはずなのに。
いつのまにかぼくは、彼女の足首を見上げ。
足の甲を見上げ。
足指の爪を見上げていて。
————ぐ、にっ。
猫の毛繕いのように愛らしかったはずのその仕草を、いつのまにかぼくは、巨龍の昇降を前にした時のような気持ちで見上げさせられていた。
(……これが、これが)
ほんとうに、子どもの足?
足指のひとつひとつに感じる、ずっしりとした重み。
鋼のように強靭な足の爪。
親指と人差し指が擦れるあの瞬間に、いったいどれほどの膂力がかかっているというのか。仮に人間の尺度で1キログラムの力がかかっているとしたら、100キロ?……いや、1000000キロ、1000トン?
もちろん、1トンどころか100キロの圧力さえ、生まれてこのかた、受けたことはなかった。
————ぐ、ぐ。
今、ぼくが前にしているのは、法によって手厚く保護されなければならない、か弱い児童のはずで。
ぼくはそんな児童を、力と狡猾さで汚そうとする、悪い大人のはずなのに。
————ぎゅ、う、ぅ。
構図が、常識が、歪んでいる。あの2つの肉の継ぎ目のように。
(ああぁ……)
勝てるはずがない。
それなのに。
そう思えば思うほどに。
なぜぼくの胸は、こんなにも高鳴っていくのか。
————とすっ。
足の親指が起こした風が、湿度の高い、脂のような癖のあるにおいを乗せて、ふわりとぼくを煽った。
あの子の、足のにおいだ。
きつくはない。蒸した芋のような、やわらかで、マイルドなにおい。
それが分かってしまうところまで、ぼくは、引き寄せられてしまったのだ。
もっと嗅いでみたいと思って————気づいたらぼくは、その足の前で跪いて、犬のように、鼻を近づけていた。
すん。
直に嗅いだそのにおいは、たしかにかわらず、鼻溶けのよい、やわらかなものではあったけど、その奥に、酸味に近い、芯のようなものがあった。その芯が、嗅いだ後もしばらく、後味として残っていた。
すん。すん。
たった一度嗅いだだけで、ぼくは、そのにおいの虜になってしまっていた。
すん。すん。すん。
吸えば吸うほど、頭の中がくらくらする。
くさい、というのも少し違う。たとえば人は、ゴムのにおいを嗅いで「臭い」というだろうか。「良いにおい」とも言うだろうか。
そんな、どちらにも属さない、独特なにおい。
それが、安純と同じ顔をしたあの女子児童の、右足の、人差し指のにおいだった。
すん。すん。すん。すん。
こうしてにおいを嗅いでいる間にも、隣では、あの親指の仕草が行われていた。
変な話だけれど、それには何か、校庭の喧騒の裏で情事に勤しむような背徳感があった。
あの親指が、もしぼくを見つけたら。そのスリルが、一層ぼくを昂らせる。
(触ってみたら、どんな感じなのだろう)
それは高揚と好奇心からの、ほんの軽はずみな思いつきだった。
思えば、ぼくはまだ一度も、この小さな身で、人間のからだに触れていない。
目の前の足の指が、柔らかいのか、硬いのか、それすら知らないのだ。
(……触ってみたい。)
想像するほどに、心臓がどくどくと鼓動する。
リスクは分かっている。
気づかれるかもしれない。
勝手知ったる仲ならまだしも、相手は、知らない女の子だ。それも、まだ小学生の。ぼくは高校生で。無知という免罪符は、もうとっくに使えない年齢で。いや、それ以前に、相手は、ふつうの人間で、ぼくは、虫で。人間に気づかれたら。見つかったら。捕まったら。
でも、少しなら。ほんの、少しなら。きっと、大丈夫。大丈夫。大丈夫……。
(……ほんの、少しだけ——)
ぼくはそっと、オジギソウをつつくような手つきで、目の前の足の指に触れた。
ぴくり。
少女の足指が、雷鳴のように震えた。
(っ、あ————)
その瞬間、全ての音が止まった気がした。
頭上で忙しなく鉛筆を走らせる音も、隣で足指が擦れる音も、遠くの空調の音も、すべてが、ピタリと止んだように感じられた。
まるで、押してはいけないスイッチを押してしまったかのように。
世界の真理が、大いなる意識が全て、よってたかって小虫1匹に向けられたかのように。
(あっあ……、)
奥井はそれが恐ろしくなった。
体が、凍りついたように固まった。
(き、きづっ、気づか、……)
はやく次の行動を考えなければいけないのに。
頭が真っ白になって、なにも考えられない。
(捕ま。殺され。え?は、は……)
最前見た、「ガムについたゴミ」の姿が鮮明にフラッシュバックされる。
そして、今はぼく自身の体が、恐怖というガムに絡め取られ、身動きが取れなくなっている。
恐怖が強くなればなるほど、ガムは粘り気を増し、目の前の少女の素足は、ぐんぐんと大きくなっていく。
止まらない。
ガムの沼に溺れ、アリからノミへ、ダニへ、そして————
(……!ごめんなさい、ごめんなさい、たすけて————)
空が、人の足の形をした黒い影に飲まれていく。
大気がうなりをあげる。
世界の終末を思わせる光景の前に、もうガムに抗うことさえできない。
黒い影はそんなぼくを置いて、みるみるうちに大きくなる。落ちてくるのを眺めているのに、まるでぼくの方が死という遥かなる谷底に向かって頭から落ちていくようだった。体が内外両方から強く締め付けられるような切迫感。逆立つ体毛。早まる呼吸。裏返る眼球。死が迫る。1000メートル、100メートル、10メートル————
(……!!あ、あ、あ————)
瞬間、意識が途絶えた。


