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【番外編】あの子のおもちゃ

 しかし、数秒ののち、何事もなかったようにぼくの世界は取り戻された。 

 

(え……?) 

 

手のひらを確かめる。ぼくのからだに異常はない。ぼくを縛り付けていたガムもない。 

横に目をやる。少女の足。変わらないスケール感。距離感。 

全て、恐怖の見せた幻だったのだ。 

 

(……たす、かっ、た?) 

 

奥井は安堵の息をついた。 

次第に耳に蘇る鉛筆の音。あれほど胸をざわつかせたその音も、今は彼を安心させた。間違えなく現実の音だった。 

——コンコン、コンコン…… 

入り乱れる音の粒の中で、ひとつだけ近く、確かな形をもって男の耳に聞こえる音。これは、天井の向こうの、あの少女の鉛筆の音に違いなかった。 

何事もなかったように、問題を解き進める少女の、鉛筆の音。 

 

(……もしかして、気づかれてなかったのかな) 

 

あの一瞬、ぼくが触れたはずの、足の人差し指。 

ぴくり、と震えたような気がしたけれど、今思えばあれすら錯覚だったのかもしれない。 

ぼくはまた近づいて、こわごわと、同じ場所に指先で触れてみる。 

反応はない。 

今度は少し大胆に、手のひら全体で触れてみる。 

反応はない。 

 

(……あたたかい) 

 

人肌の温かさに、久々に触れた気がする。理不尽に翻弄され、疲弊しきった心に沁みる温もりだった。 

触り心地は、柔らかいとも硬いとも言えない、たとえば葡萄の果実や、イルカの皮膚のような……キュッという感じ。 

ただ、なんとなく、触っていたくなる、不思議な感触だった。 

——気づけばぼくは、両腕を広げて、全身でその足指の感触を求めていた。 

 

(あ、や、やばい……こんなことしたら今度こそ気づかれちゃう、でも……) 

 

全身で触れると、ただ指先で触れた時には無かった違和感を覚える。 

右手の指を一本ずつ離そうとすると、ぺりり、とまるでシールでも剥がすような音が鳴る。かすかな吸着性。ウェットな質感。ペタペタと床を鳴らしながら走り回る、子どもの裸足に特有の性質だった。 

ぺりり。ぺりり。何度も手を触れては、離し、その感触を確かめる。 

なんだよ、これ……。 

ぺりり。 

あぁ……。 

ぺりり。 

ぼくはとっくにおかしかった。 

それが当たり前の礼儀であるかのごとく、全身を纏う衣服を脱ぎ捨て、甘えん坊の子どものように飛びついた。 

少女の足の指は、そんなぼくを拒まない。 

胸板に、腹部に、下半身に、じんわりと温かな体温が、溶け出すように伝わってくる。餅のように吸いつく感触が、ぼくの皮膚を直接、優しく刺激する。寒々とした外気に晒された背部の寂しさが、まるでスイカに対するふた振りの塩のように、その優しい刺激をより一層引き立てる。 

いつしか、ぼくは床を蹴って、頭頂からつま先まで、少女の足の指にその身を委ねていた。 

 

目を閉じて、壁に耳を預けてみると、音が聞こえてくる。 

少女の血流の音。ぼくが泳げてしまいそうなほどの量の血が流れ行く音。ゆったりと力強い、巨人の、いや人間の子どもの、生命活動の音。 

そこに重なる、ぼくの小さな心臓が鳴らす音は、まるでアマゾン川の川岸に打ち上げられた小魚がぴちぴちと跳ねているかのような音だった。 

小さくて取るに足らない、しかし当人の尺度では、ばくばくと、大河の氾濫に等しい胸の鼓動だった。 

 

危険な橋を渡っている自覚はあった。もし今、少女が足を浮かせたら、ぼくも一緒に攫われてしまう。逃げ場のない空中。言い逃れできない状況。 

このまま見つかったらどうなるかくらい、想像がつく。足の指に、知らない男の人が裸でくっついている。そんな状況に、思春期の女子が何を思うかくらい、ぼくにだって分かる。 

けれど、離れられなかった。というよりも離れられない。 

軽く腕を動かそうとしただけでは、もう、剥がれない。剥がれなきゃ、まずいのに、そんなのどうでもいいくらいにどきどきする。足の裏にぱらぱらとついたゴミと、ぼくは同じだ。そう考えると、ますますどきどきする。こんなとき、引きこもっていた時なら、ぼくはおちんちんを触っていた。でも、できない、張りついちゃって、そんなこともできないんだ、ぼくは。 

起こったこの気持ちを、ぼくはどう処理していいか分からず、ほとんど本能的に————、ぺとぺとと瑞々しいその足指に、舌を伸ばし、舐めた。 

ちろり。 

薄桃色の、丸みを帯びた子どもの足指に、汚れた舌が這った。 

舌先に残る、ほんのりとした塩気。しっとりとした舌触り。 

それに、他人の皮膚の、妙な生ぬるさ。 

ぬぶり。ぬぶり。はぁ。 

それからはほとんど、彫刻刀で木材を削るのに等しい舐め方だった。箸を使うことを知らず、顔だけを動かす、獣のような舐め方だった。 

(……もう、見つかってもいいや……) 

いつしかぼくは思考を放棄していた。 

そんなはずがないのに。その先には破滅しかないのに。 

今この場の快楽を享受できれば、それでよかった。 

 

けれど結局、ぼくが自重によって自然に剥がれるまでの間も、気づかれることはなかった。 

そして。 

気付かれないと分かると————もっと、奥に進んでみたくなった。