小さくなってから気づいたことがある。
それはこの世界が、人の起こす小さな現象と、その音で溢れかえっているのだということ。
誰かが椅子を引くと、まるで巨大な鋭爪で大地を抉ったかのような音が、耳を劈き 、足元を揺るがす。
どこかで聞こえる咳払いは、空中で弾ける花火のよう。
鼻水を啜る音、虫刺されを掻く音、シャーペンの芯が折れる音でさえ、無意識下に置くことはできない。
机の下に戻った奥井は、ずっとそんなことを考えていた。
それは受動的に起こされた思考でもあったし、同時にある一つの事柄から目を逸らすために、その思考に自ら迎合していったというのもあった。
ぼくはずっと耐えていたのだ。だがそれは少しでも小突けば崩れてしまう、あってないような均衡だった。
そんな時、背後で何か重い物が、地面に叩きつけられるような音が聞こえた。
消しゴムが落ちた音だと、振り返って、すぐに理解した。
落ちた方向。距離。それはきっと、あの子の消しゴム。
考えてしまって、ぼくは、首を振る。
……ずん……ずん、ずん。ずんっっ!
息着く間もなく、奥井の前に1人の人間が立ち塞がった。
スラックスに、ビジネスシューズ。子どもばかりのこの空間にあって異質に見える、大人の、男性の足。
机に隠れていれば、その脅威に晒されることはない。だが、冷たい秩序の光を放つそのエナメルの革靴は、ぼくという秩序から外れた存在そのものを否定するかのようで、恐怖よりも先に、ゾワゾワとした緊張が走る。
一体その足がなぜ、この机の前に立ち止まったのか、奥井にはわからなかった。
——すみません、消しゴム落としちゃって。
声がした。
慎むような、少女の声が、ぼくの世界を包んだ。
鈴のように清楚で、心地よいその声に、ぼくは上空へと攫われていく消しゴムを目で追うのも忘れるくらいに、心を奪われていた。
——ありがとうございますっ。
それからすぐ、試験監督と思しき男性の足は去って行き、机の下の静寂は再び取り戻された。
けれど奥井の心は、いつまでもあの声の残響に囚われたままだった。
はじめてその少女の輪郭を見た。声という確たる輪郭を。
その瞬間から、奥井の中で、抽象的な巨人から具体的な個人へと変貌していく。
そのことを、意識しはじめたからだろうか——背後から、こつん、こつんと冷たい音が聞こえた。
振り向いた先に、少女の、足があった。
努めて、目に入れないようにしていたものだった。
見て、しまったのだ。少女のたった一声に、勝手に惑わされて。
音を立てているのは、その足が纏うミュールサンダルで。
こつん、こつん、こつん。
その音を聞いていると、ぼくはなぜだか。
こつん、こつん、こつん。
じりじりと。
こつん、こつん、こつん。
変な気持ちになる。
こつん、こつん、こつん。
起きがけに見た、あの実に子どもらしい、遊び心に満ちた意匠の運動靴とは違う。彼女の履くミュールは、どちらかといえば、あの試験監督が履いていた革靴のように——正当な大人を想起させる。
こつん、こつん、こつん。
数十秒前に聞いた、あの鈴のような声を思い出す。
清らかで、軽やかで——けれどその奥に、金属の冷たさを秘めている。
きっとそれが、この少女の本質なのだろうと、奥井は疑わなかった。周囲の子どもたちよりも大人びていて——それ故に、侮蔑や嫌悪といった感情を腹の底に抱えている。
安純とは違う。安純はどちらかといえば天真爛漫な性質で、そんな彼女の足に、きっとこんなミュールは似合わないだろう。
それなのに——。
こつん、こつん、こつん。
(————何を、)
ぼくの足が、前に、進み出していた。
こつん。
だめだ。いけない。引き返せ。
そう思っているのに、まるで脳と切り離されたかのように、ぼくの足は進んでいく。
こつん。
少女のつまさきは、気まぐれに音を奏でる。
淡々としたリズムかと思えば——今はぼくの、ふらふらとした歩みに合わせて、あの音を刻んでいる。
まるで、ぼくを待ち受けているみたいに。
こつん。
自分を客観視するのが恐ろしかった。
真剣に問題と向き合っている、中学受験生の女子児童。
その足元に、ふらふらと吸い寄せられていく自分の姿。
こつん——。
音が、もう、こんなにも近い。
踏み込んで分かる、その音の、重さと厚み。
こつん————。
つま先が少し浮いた、その下の隙間ですら、もう、ぼくの上背を優に越している。
優美なミュールの、黒々と汚れた底が覗く。
いたいけな少女像とは似つかないその禍々しさに、ぞくり、と背筋が粟立つ。
片想いの相手に似た、名も知らぬ小学生の靴底で、眼中にも置かれず、冷徹に、ゴミのように踏み躙られる——そんな、数歩先にある未来を想像して。
(……っ!)
奥井の足が止まった。
間近で目にしたその靴底に、デフォルメされていた「死」を垣間見たような気がして。脳内が急速に冷やされていくのが分かった。
(……、何やってるんだ、ぼくは、)
奥井はひとりごちた。
数秒前までの、命知らずな自分を咎める意味で?確かに、それもあった。けれど。
足が動かない。
動いて、いない?
この期に及んで——ぼくはまだ、逃げようとしていない。
むしろ————
(——え?)
突風に、ぶわりと、髪が乱れた。
気づけば目の前から、見ていたはずの景色が忽然と消えていた。
何が起きたか分からず、ぼくはおろおろと狼狽えるしかなかった。
いや、違う。それは嘘だ。
巨大なブランコが、大気を攪拌するような頭上の音に、ぼくは気づいていた。
その周期に合わせて、ぱらぱらと降り注ぐ、塵のような何かにも。
でも、どこかでまだ、楽観的に捉えていたのかもしれない。
————ズゴンッッ。
その時何が起きたかといえば、児童の小さな靴が一足、床の上に転がったと言う、たったそれだけのことだった。
けれど今のぼくにとっては、10トンは軽々と越すであろう巨大重機が、鼻先をかすめて、突如として目の前に墜落したのに等しい出来事だった。
(あ。え……?いま。ぼく、死んで、)
空っぽのミュールの、クリーム色のソールの面が、ぼくの視界を覆っていた。腕を少し動かせば、ベルトの角が、こつりと触れた。
あと一歩分、ずれていたら。
身体中から、じわり、じわりと汗が滲み出ていく。
逃げなきゃ。
砕けた腰を引きずって、ぼくは無様に後ずさっていく。
気が変になりそうだった。
巨大なものが落ちたのだ。それも、高層ビルの100階くらいの高さから。
ぼくが生きていた世界の物理法則に置き換えれば、それは災害級の破壊を伴う現象のはずなのに、落ちたものも、落ちた先の地面も、まるで何事もなかったような顔をしていて。
ぼくだけが現実に取り残されていて。あるいは、ぼくだけが異常で。
気が変になりそうだった。けれど、そんな余裕さえぼくには与えられていなかった。
そして、事態はそれだけにとどまらなかった。
正確ではないものの、何か強烈な違和感を、ぼくは感じ取っていた。
目の前の巨大なミュールは、地面に打ち付けられたきり、動かない。目にはそう見えているのに、ぼくは何か、今もそのミュールが動き続けていて、しかも、少しずつぼくに迫ってきているような気配を感じていたのだ。
上を見上げて、ぼくは初めて、その気配の正体を理解した。
灯台下暗しという言葉を思い出した。小さなぼくには、動かない支点の部分しか見えていなかったのだ。
ぼくにソールを向けて横たわっていたミュールは、接地面を支点として、上空で、手前に、後ろに、揺れていた。ぐら、ぐら。ぐらん。少しずつ、確実に、その揺れは大きなものになってきていて————。
(あ、あぁ、あ……!)
どすん。
間一髪————あと少し気づくのが遅れれば、ぼくは、目の前で倒れたミュールの、下敷きになっていた。
知らない子の、脱いだ履き物の下で、無様に死んでいたのだ。
全身から、どっと汗が噴き出す。
だが、これはまだ、彼を待ち受ける苦難のほんの序の口に過ぎなかった。
ず、ずず——。
(え?)
居眠り運転のブルドーザーのように。
逆さにひっくり返ったまま、ミュールが、おもむろに、奥井に迫り始めていた。


