午前10時、優奈の部屋。
男は、いよいよ退屈していた。
昨晩、この虫かごの中に閉じ込められていた間は、渇きこそ覚えても、退屈することはなかった。
それは、アクリルの向こうのすぐそこに、優奈がいたから。優奈の睡眠であれば、何時間だって鑑賞できた。
しかし今そこに、優奈はいない。
せめて、優奈の私物でも見えれば少しは違っていただろうが、2段ベッドの奥から見えるものといえば、蛍光灯とそこから垂れるヒモくらいだ。時計すら見えないので、現在の時刻も、あとどのくらいこの退屈が続くかも分からない。
優奈が帰ってきたら、このことについても相談しなければならない。居候の身でずうずうしいと思われてしまうかもしれないが、仕方あるまい。何しろ、この間にできることといえば、チンコを触ることくらいしかないのだ……。
男は明け方、優奈が目を覚ます前に、彼女の髪の毛を一本虫かごの中に持ち帰っていた。髪の毛といっても、今の男の身では、引きずりながらでないと運べないものであったが。
もはや乾いて匂いも消えていたが、この髪の毛に触れるだけで、昨夜の甘美な体験を思い出すことができる。男は、猫じゃらしにじゃれる猫のように、その髪と戯れた。戯れて、正気に戻って、少ししてまた戯れて……この繰り返し。こんな成れの果てのような姿を見て、優奈は何を思うのだろう。
がちゃり。
(……!?)
優奈の部屋に、何者かが入ってきた。
といっても、不法侵入でもなければ、考えられる人物は1人しかいない。
優奈の母。名は、幸恵だったか。
最前、下で寝ていた次女の心菜を送りに行ったと思ったが、それを済ませて帰ってきたということか。
男は髪の毛を手放し、虫かごの隅で身を縮こめていた。
下で何か、ごそごそと作業をしている音がする。上まで登ってくる可能性は低いと分かっていても、やはり優奈以外の人間が近場にいると冷や汗が垂れる。
特に幸恵は、最も見つかりたくない相手だった。たとえ優奈自身が許しても、優奈の保護者が、娘の部屋に大人の男が住み着いているという状況を、黙って見過ごしてくれるとは思えないからである。
(早く出てけ、早く出てけ、早くっ……)
その念が届いたのか、下から聞こえていた音が止まった。ようやく作業を終えたらしい。ほっと胸を撫で下ろした。
間も無く、ぎしり、とベッドのフレームが軋む音がした。
幸恵には、夜勤の日の日中に、娘たちのベッドシーツを洗濯するという習慣があった。心菜のシーツを剥がして、それから優奈の分もと、梯子を登っていく。
(……?)
登った先で、幸恵は見慣れないものを発見した。中サイズの虫かごである。
虫が苦手な優奈が、何かを飼いはじめたのだろうか?気になって幸恵は、虫かごを手に取って、中を覗いてみた。
何もいない。近眼のせいかと思い、鼻の頭がつくくらいに顔を寄せて見てみても、やはり何も見えない。
————無論、男が脱走したわけではない。彼は今も、優奈が敷いたハンカチの下で息を殺していた。殺人鬼が過ぎ去るのをロッカーに隠れて待っているかのような心境で。
幸恵は探すのを諦めた。不可解ではあるが、このことは明日の朝にでも優奈に聞けばいい。ひとまず今は、作業に戻るとしよう。洗濯に掃除に晩御飯の用意、それから心菜のお迎え。些末なことに使っている時間など彼女にはないのである。
邪魔になる虫かごは優奈の勉強机の上に移してから、幸恵はシーツを剥がしはじめた……。


