時刻は午後の6時半。ぽつりぽつりと、住宅街に散見される窓に明かりが灯り始める頃。
あかねちゃんは鉛筆も消しゴムも持たずに、部屋の机に向かっていました。
机の上にぽつんと置かれた、一パックのポケットティッシュ。その上には、つい先ほど目覚めたばかりでまだちょっと眠そうにしている、小人のアオイちゃんの姿。
「少しは、良くなった…?」
「うん、話すだけだったらもう全然問題ないよ」
じっさい、そう話すアオイちゃんの顔には眠気こそ見られど、苦痛の色はもうほとんど残っていませんでした。それが分かるとあかねちゃんの表情も、ようやく、ほわり、と柔らかくなりました。ひょっとすると、アオイちゃんは見かけによらずタフな小人さんなのかもしれません。
「よかった…。それで、体の方はどう?」
「大丈夫、動くのだってもうだいぶ……」
そう言ってアオイちゃんは立ち上がろうとしましたが、なんだか様子が変です。
「あ、あれ…?」
ふらふら、よたよた。アオイちゃんはティッシュの上で、見ていて不安になるような舞を披露した後、ついに腰から倒れてしまいました。
「あはは…なんかまだ力が入らないや」
アオイちゃんはしばらく決まりが悪そうに笑っていましたが、ふいにその顔が、全く別の方向に向けられました。
その視線は、窓の外に向けられているようでした。すっかり暗くなってしまった外の景色を見つめるその横顔に不安が宿っているのを、あかねちゃんは認めました。
考えてみると、いつもであれば、アオイちゃんがお家に帰っていてもおかしくない時間です。けれどあんな調子で、果たしてアオイちゃんが一人でお家に帰れるのか……いや、帰れない、でしょう。
「アオイちゃん。今日は、私の部屋に泊まっていくといいよ」
「え…?」
振り返ったアオイちゃんは、きょとんとした様子でした。
「い、いいの…?」
「いいも何も、こんな状態のアオイちゃんを一人で帰せないよ」
そう言っても、すぐに快い返事が返ってきたわけではありませんでした。
もちろん、人間のお家に泊めてもらった経験などアオイちゃんにはないでしょうから、あかねちゃんの前では言葉にすることはなくとも、きっと色々不安に感じていることはあるのでしょう。
そしてあかねちゃんの方も、思うところがないわけではありませんでした。逡巡するアオイちゃんを見ていると、やっぱり困らせてしまっただろうか、ありがた迷惑だっただろうか、という思いが募ってきます。でも反対に、今はそうするのが最善だ、という考えも確かに持っていました。
数秒の沈黙を経て、ようやくアオイちゃんは答えを出したようです。
「じゃあ…えっと、ふつつかものですが、よろしくお願いします」
「う、うん」(どこでそんな言葉覚えたんだろう…)
こうして、二人でのはじめてのお泊りが決まったのでした。
「お母さん。今日はご飯部屋で食べるね」
そう言ってきたあかねちゃんに、お母さんはただ「あ、そう」とだけ返事をして、ご飯をお盆に乗せて渡してくれました。
日の沈みかけていた5時ごろのこと。いってきますも言わずに家を飛び出したあかねちゃんが、5分と経たないうちに戻ってきたかと思うと、その顔からは涙がぼろぼろと落ちていました。さばさばとしていて大雑把な性質で、どちらかと言えば放任主義のお母さんですが、一人娘のそんな姿を見たとき、流石に何があったのかと狼狽えました。
「…さくらちゃんと喧嘩した」
問いかけるお母さんの顔も見ずに小さくそう言って、あかねちゃんは自分の部屋に帰って行きました。……
そんなことがあったから、お母さんの方も、このあかねちゃんの急な提案をはねのけることが出来なかったのです。
「まあ今日はどれだけへこんでもいいけど、明日以降もそんな調子じゃ困るんだからね?」
居間を出るとき、あかねちゃんは背中にそんな声を受けました。騙している身のあかねちゃんからすると、深刻な顔つきで心配されるよりもずっと気が楽で、ありがたいと思いました。
ただ、居間を離れても、申し訳ないことをしてしまったな、という気持ちはやっぱり尽きませんでした。お盆の真ん中で空元気に湯気を漂わせているのは、あかねちゃんの大好きな煮込みハンバーグでした。
「はい、どうぞ」
ハンバーグをお箸の先で小さくちぎって、ふーふーして冷ましてから、ティッシュの上でちょこんと座るアオイちゃんの前に差し出しました。アオイちゃんはそれを両手で受け取って、ちょうど大きめのハンバーガーを食べるような格好で、もそもそと小さな口で食はみ始めました。
「おいしい?」
「うん」
よっぽどお腹が空いていたのでしょうか。一口は小さくてもそのスピードには目を見張るものがあり、夢中でお肉の粒を食べ進めては、次々に「おかわり」を要求してきます。
「もう……ちゃんと噛んで食べなきゃだめだよ?」
こう言いつつ、あかねちゃんもついついその「おかわり」に応じてしまいます。そして、もともとあまり食欲のなかったあかねちゃんですが、アオイちゃんの食べっぷりがあまりにもいいものだから、いつからか一緒になって食べるようになっていました。
もしかして、あかねちゃんを元気づけるために、アオイちゃんは食べることに精を出していたのでしょうか。
「お、おかわりっ」
「はいはい」
七回目の「おかわり」を差し出しながら、たぶん違うんだろうな、と苦笑いしました。
食後、二人は向かい合っておしゃべりをしていました。あんな事件の後であるせいか、こうして二人だけでゆっくり落ち着いておしゃべりをするのは、久しぶりのことであるような気がしました。
その時間は二人にとって、確かに楽しいひとときでした。
けれどその間、あかねちゃんがどこか心ここにあらずという感じであったことを、見抜くことのできないアオイちゃんではありませんでした。
しゃべり始めてから、小一時間ほど経ったという頃。
「アオイちゃん…?おーい、アオイちゃん」
「………………はっ」
うとうととまどろみかけていたアオイちゃんは、少し遅れてあかねちゃんの呼びかけに反応しました。えへへ、ごめん……とはにかんでいましたが、そのすぐ後で、アオイちゃんは口からあくびを漏らしていました。あれだけ食べた後で、前の疲れもあるでしょうから、眠くなるのも無理はありません。
「今日は少し、早く寝た方がいいかもね」
「でも、もうちょっとあかねちゃんと話していたいのに…」
「私も。元気になって、明日からたくさんおしゃべりすればいいよ」
「それもそっか」
ポケットティッシュをポンと机の上に置いてはいベッド完成!…というのも少し味気ないような気がしたので、一つアオイちゃん専用の簡易的なベッドをこしらえることにしました。
何が入っていたのかは思い出せませんが、デザインが可愛いからと保存していた、手で掴めるくらいのサイズの正方形の小箱。その中に、十字に折り畳んだハンカチを敷いて、タオルケット代わりにティッシュを一枚入れれば、アオイちゃんが寝るベッドの出来上がりです。
「こんなのしか用意できなくて悪いんだけど」
「全然!むしろこんなに大きくて立派なベッド、私にはもったいないくらいだよ」
「そ、そう…?」
確かに、アオイちゃんの大きさを基準に考えてみると、箱の中はベッドというより、一つの部屋くらいの広さはあるかもしれません。けれど別段大きすぎて困っているような気色も見えないので、さしあたり問題はなさそうです。
「ふかふかで気持ちいい~…お布団で寝るのなんていつぶりだろ…」
ハンカチの布団の上でコロコロと寝転がる姿の、どこか間の抜けた愛くるしさは、日向ぼっこの子猫さんを思わせます。いつまでも眺めていられそうなくらいなのですが、そういうわけにもいかないので、あかねちゃんは最後も仕上げに取り掛かりました。
ベッドの大きさに合わせて、自由帳のページを少し切り取り、それを箱の口に蓋をするようにかぶせ、箱と紙の接辺一か所をセロハンテープでつなぎ合わせます。こうすることで、アオイちゃんの姿が外からは見られなくなり、さらに何かあった時に、アオイちゃんが自力で蓋を開けて出られるようにしたのです。それだけでなく、白い紙を蓋に用いることで、外の光が程よく遮断され、中にいるアオイちゃんがより快適に眠ることができるようになる、とあかねちゃんは考えたのでした。
「出られそう?」
その質問にアオイちゃんは、箱と蓋の隙間からひょっこりと顔だけを出して答えました。
「うん、大丈夫そうだね」
あかねちゃんが頭の先を撫でると、アオイちゃんはすぐにむずがゆそうに顔を引っ込めてしまいました。
「それじゃあ、私は今からお風呂に入ってくるからね」
ベッドに向けてそう声をかけると、再びアオイちゃんが、今度はちょっぴり口をとがらせて、最前よりも控えめに顔を出してきました。
「あ、また出てきた。もっかいなでなでしてあげようか?」
「もー、からかわないで…」
最近はこんな風に、あかねちゃんがアオイちゃんをいじるということが増えてきました。元来あかねちゃんは人をからかうことのできないたちであり、むしろ毎日のようにさくらちゃんのおもちゃにされてきた身なのですが、そんな彼女にさえからからかってみたいという気を起こさせてしまう何かが、アオイちゃんにはあるのです。
「もうすぐに寝るの?」
ん、とアオイちゃんは短く頷きました。
「じゃ、おやすみを言いに来てくれたんだ?」
「あ、うん、そうなんだけど…」
何か言いたそうで、でも躊躇っている。そこで俯いたアオイちゃんが、あかねちゃんにはそんな風に見えました。
「あの…私、あかねちゃんのせいだなんて、本当に全然思ってないからね」
ここですぐさまあかねちゃんが「急にどうしたの?」とでも聞き返してきたのなら、アオイちゃんはきっと、自分の思い違いだったと安心できたでしょう。
「…うん、ありがとう。おやすみなさい」
少し、間を置いたあと、あかねちゃんはにこっと微笑んでそう言いました。でも、その笑顔に翳りが残っていたのが、アオイちゃんにはやっぱりどうしても気になってしまうのでした。


