今日はさくらちゃんが帰ろうとするのが早かったため、夕空がまだ浅く、近所の公園で子供たちがはしゃぐ声なども漏れ聞こえてきます。
玄関を出てから数歩、二人の間に言葉はありませんでした。この二人に関して、こういう状態は珍しいといえます。なぜかといえば、あかねちゃんが黙っていても、大抵さくらちゃんが勝手に一人で喋りだすからです。
だから、こういう状況が生じるのは、きまってさくらちゃんが、あかねちゃんの言葉を待っているときなのです。
「今更だけど、昨日はあんな強く叩いちゃってごめんね」
「めちゃくちゃ痛かったけど、ヒャクパー私が悪いし、あかねが謝ることじゃない」
「で、でもやっぱり、暴力は良くないと思うし…」
「はー…」
さくらちゃんはそこで大げさにため息をついたかと思うと、あかねちゃんに近い方の手を、頬に向かって伸ばしてきました。
ぎゅむー。
「ひゃ、ひゃひふんほ」
「はい、じゃあこれでおあいこ」
あかねちゃんのほっぺをつまみながら、さくらちゃんはけらけら笑っています。そんなさくらちゃんを横目で見たあかねちゃんは、やっぱり許さなきゃ良かったかもしれない、とほんの少しの後悔を覚えました。
けれど、さくらちゃんの指は思いの外すぐにほっぺから離れて行きました。
「てか、こーいうときにすぐ本題に入ろうとしないの、あかねの悪いクセだぞ?」
「う…わ、分かったよ」
そう、さくらちゃんの指摘の通り、あかねちゃんが今本当にしたい、そしてするべきであるやりとりはこんなものではないのです。
さくらちゃんに話を聞いてもらおうと思ったのは、彼女ならきっと、自覚の行き届かない部分でもズバリ的確に言い表してくれるだろうという信頼があったから。けれど、自分の知らない、醜い部分を他人に掘り出されて、自分の目の前に突きつけられてしまう……それはあかねちゃんにとって、多大な覚悟を必要とすることでした。だから、いざ話そうとなると、逡巡が生じてしまったのです。
「ねえ、私ってなんであのとき、アオイちゃんを見て笑っちゃったのかな」
少しだけ間を置いて、あかねちゃんは口を開きました。
「なんか、自分では分かってないみたいな言い方だよね」
「うん…笑ってるなんて自覚なかったし、ちょっとショックだった」
それを聞くと、さくらちゃんは珍しく真剣に考えているような姿を見せてくれました。「百木」の表札には目もくれず、そのまま通り過ぎてしまったので、あかねちゃんもそれに習って歩き続けます。長くなりそうだからと、わざと通り過ぎてくれたのでしょうか。それともただ単に、自分の家の前まで来たことに気づかなかったというだけなのでしょうか。
「まあ、私にはあんなに怯えるアオイちゃんが、あかねには心を許してるってのが愉快だったとかじゃないの。よく考えるとムカつくけど」
「そうかな…そうなのかも」
そう言われて、自分の胸に聞いてみても、何も返事は返ってきません。でもなんだか、あかねちゃんにはそれが無言の肯定であるように思えてなりませんでした。
「うー、最低だ、私」
汚くて、ねじ曲がっていると感じました。アオイちゃんの恐怖を、アオイちゃんの信頼を利用して、気持ちよくなっている自分。想像すると悲しくすらなってきます。
アオイちゃんと友達になりたいと思ったのは、ただ、アオイちゃんと友達になりたかったからではなかったのでしょうか。弱い者に愛され、拠り所として見られる自分に酔ってみたかったからなのでしょうか。他の人間に対して覚える優越感の出汁(だし)を、アオイちゃんで取るためだったのでしょうか…。
「そんな悪いことかね」
一方で、さくらちゃんは横で首を傾げていました。
「そんなこと言ったら、私だってあかねに対してそういう気持ちになることあるよ。ほら、あかねって私以外友達いないでしょ?でも私はそれが誇らしかったりすることもあるわけよ。あかねの良さに気付いてるのは私だけ、あかねが心を開いてくれるのは私だけ…ってね」
なっはっはっは、という笑い声を聞いて、あかねちゃんはがっくりと肩を落とします。何のフォローにもなっていないし、さくらちゃんちょっとだけ真面目モードの充電が5分も持たずに切れてしまったことが分かったからです。
「…はー、もういい、さくらちゃんに真面目に聞こうと思った私がバカだった……てか、別に他にも友達いるしっ!」
そう言うとくるりと踵を返して、通り過ぎたさくらちゃんの家の方に引き返し始めました。
もちろん、昨日のように本気で怒っているわけではありません。それが分かっているから、さくらちゃんも昨日のように立ち尽くすことなどなく、すぐに早歩きで進むあかねちゃんを追っかけたのでした。
「まあなんだ、あんまり考えすぎることないって。お互いが友達だと思っていれば、その二人は友達なんだよ。条件があるとしたらそれだけ。私はそーいうことがいいたかったの」
追いついて、横に並んださくらちゃんがそう言うと、あかねちゃんは歩を緩め、やがて不安げな顔を横に向けました。
「…そうなのかな?」
「そーだよ!私たちみたいにねっ」
「わっ」
すると、さくらちゃんがいきなり飛びついて、肩に手を回してきたので、あかねちゃんは思わず声をあげてしまいました。しかもそのまま密着して離れてくれません。
「もー…」
眉をハの字にして困った様子でいましたが、その顔は穏やかに笑っていました。
こんな風にスキンシップを受けたり、宿題を手伝わされたり、半ば強引に遊びに付き合わされたり……さくらちゃんに困らされてしまうのは日常茶飯事です。でも、今も昔も、それが二人の「友達」の形なのです。
そして、さくらちゃんがあかねちゃんを本気で怒らせるのは、きっとあれが最初で最後となることでしょう。いや、さくらちゃんのことですから、ひょっとするとこれからも何度かそういうことがあるのかもしれません。けれど、もしそうだとしても、2人が友達でいたいと思い続けている限り、きっといつまでも友達でいられることでしょう。
形がないけれど、形がたくさんあるもの。そして、模範解答もなければ優劣もなくて、「みんなちがって、みんないい」。それが、友情というものなのかもしれません。さくらちゃんにひっつかれながら、あかねちゃんはそれが少しだけ分かったような気がしました。


