部屋に入ってすぐ、机の上に置いたままにしておいたアオイちゃんの寝床に目をやり、そこに誰にもいじられた様子がないのを確認して、あかねちゃんはまず一つ安堵しました。
そんなあかねちゃんを見て、さくらちゃんもその中にアオイちゃんがいることを察したのか、ここ?とでも聞きたげに箱の方を指差しています。あかねちゃんは黙って頷き、小箱のベッドにそっと顔を寄せました。
「アオイちゃん…開けるよ」
そう小さく声をかけると、すぐに中でアオイちゃんが起き上がったような気配がしました。
「おかえりなさい。開けていいよ」
アオイちゃんの声ももうすっかり聞き慣れているので、表情を見ずともその声が「嬉しそうな時の声」であることが分かりました。何もない箱の中でじっとしているのが退屈だったということももちろんあるのでしょうが、アオイちゃんがそれほど自分の帰りを心待ちにしていたのだと考えると、あかねちゃんも嬉しくなります。一方で、そんな反応をされると、さくらちゃんも一緒にいることを言い出しづらくなってしまったような気もして、少し躊躇しながら天蓋代わりの白い紙を取りました。
すると、あかねちゃんの見立て通り、中ではアオイちゃんが表情を華やがせて待っていました。
「ただいま。調子はどう?」
「もうすっかり元気!ほら、この通りだよ」
そう言って、その場でぴょこぴょこ跳ねだすアオイちゃんを見て、あかねちゃんはくすっと笑ってしまいました。このくらい元気なら、ひょっとするとさくらちゃんを前にしたって平気かもしれません。
「あ、あのね、アオイちゃん。実は今日——」
「へぇー、この子アオイちゃんっていうんだ。こんにちは!」
あかねちゃんはその時、誇張表現でもなんでもなく本当に人が「凍りついたように動かなくなる」ことがあるのを知りました。あかねちゃんの言葉を遮って、突如このベッドの中を覗き込んできたもう一つのとても大きな女の子の顔。アオイちゃんがその顔を、覚えていないはずがありません。
「えっと、昨日はあんな酷いことしちゃってごめんね…」
アオイちゃんはうんともすんとも言わず、ただひたすら体を震わせていました。口を開くことができないのか、さくらちゃんが何を言っているかすら頭に入ってきていないのか……あるいは、その両方なのかもしれません。
あかねちゃんはその時、とても強く、胸が締めつけられるような思いがしたはずです。アオイちゃんのそんな姿は、彼女が昨日、あかねちゃんの知らないところで、どれほど怖い思いをしていたかを、そして今もなお、その傷は決して癒えてなどいなかったのだということを、これでもかというくらいに物語っていましたから。
「ねえ、アオイちゃん、怖がってるみたい…」
「そっか…よしよし、怖くないよ」
怯えるアオイちゃんを撫でてあげようと、さくらちゃんはゆっくり箱の中に向けて手を伸ばしました。決して悪気があって、そんな動作をしたわけではありません。ただ、今のアオイちゃんにそれがどのように見えているのか、彼女は分かっていなかったのです。
空からじりじりとアオイちゃんに迫ってくる、大きな大きなさくらちゃんの右手。アオイちゃんの頭の中に、ずっと消し去ろうと努めていた昨日の記憶が蘇ってきます。
どうしたって、あの手から逃れることなどできないという絶望。
ポケットの中で味わわされた、地獄のような苦しみ。
どれだけ必死に叫んでも、ついに一度もあかねちゃんに届かなかった声。
(なんで、どうして、また……いや、やめて……)
心の内でどれだけ拒んだって、あの手は止まってくれません。
また、捕まって、酷いことをされてしまうのでしょうか。再びあの手に触れられたら、今度こそアオイちゃんの心は、体は、頭は、壊れてしまいそうで————
「っ、触っちゃだめっ…!」
とっさにあかねちゃんは、アオイちゃんのすぐ近くまで伸びていたさくらちゃんの手を払いのけました。
「な、なんだよぅ…」
「今触ったら、多分アオイちゃんもっと怖がるから…」
となりでさくらちゃんがちょっぴり不満げな顔をしていましたが、一方で悪いことをしてしまったという自覚もあるからか、大人しくあかねちゃんの注意に従ってくれました。
「アオイちゃん、大丈夫だよ。私がついてるから…」
つい先ほど見た時よりももっと怯えてしまっているアオイちゃんのそばに、そっと手を差し伸べます。すると、アオイちゃんはまるで逃げ込むようにして、その手の上に乗ってくれました。そのまま、刺激を与えないように、あかねちゃんは静かに手を胸の高さまで持って行きました。
「いいなぁ、あかねにはそんなに懐いてて…まあ、自業自得なんだけど」
さくらちゃんの声が聞こえただけで、アオイちゃんは肩をビクッと震わせて、すぐさまあかねちゃんの人差し指にすがり付いてきました。そんな姿を見ると、アオイちゃんがさくらちゃんに心を開くというのは宇宙よりも遠い話であるような気がします。もともと、今日さくらちゃんをここに連れてきたのだって、あかねちゃん以外にもう一人、アオイちゃんを守ってくれる存在が増えてくれるかもしれないという期待があったからです。でもこんな状態では、守るどころではないでしょう。
「あかね、なにニヤニヤしてんの?」
「えっ?」
だから、不意にさくらちゃんにそんなことを言われて、あかねちゃんはドキンとしました。
「私、今笑ってた…?」
「そりゃもう、にんまーって」
慌ててもう片方の手で口元を隠しました。
どう考えたって変です。笑うのなんて。だってここは、がっかりするのが当然のはずなのに。
もしくは、未だに怯えているアオイちゃんに同情を寄せるというのでもおかしくはないですが、いずれにせよ、あかねちゃんが頬を緩めてしまうような要素は、どこにもないはずなのです。
だから、ひょっとするとまた、さくらちゃんのたちの悪い冗談なのかもしれません。けれどそれにしては、どういうわけか、自分が少しも笑っていなかったと言い切れるだけの自信が、あかねちゃんには無いのです。
はっとして、あかねちゃんは手の方に目をやりました。視線の先で、アオイちゃんはまだ人差し指にぴったり抱きついていて、あかねちゃんに見られていることに気づいている様子もありません。
そこであかねちゃんは小さく安堵の息をつきました。もし、自分が怯えている姿を見てニヤニヤしていたなんてアオイちゃんに知られたら、これまで築いてきた信頼関係が崩壊してしまう可能性だってあるでしょう。いや、実際もうすでに、その信頼を裏切ってしまったのかもしれません。それに等しい行為をしてしまった自分、そしてそんな行為が、アオイちゃんに知られなくてホッとしている自分が、あかねちゃんはとても嫌になりました……。


