翌朝。
机の足の一つに身を預けて眠っていた奥井は、けたたましい地鳴りのような音で目を覚まし。
そして、戦慄する。
(……な……なんだよ、これ……)
薄暗い机の下。縦横のパイプが作り出す矩形の中に、光に満ちた外の世界の光景が映し出されている。本当に映画でも見ているかのような、現実離れした光景が。
だが、視覚情報に連動して生じる、遠近強弱、幾重にも重なり合った立体的な地響きと、物理的な重々しい振動が、決してスクリーンの中の映像などではないと教えている。
例えるならそう。密林に生い茂った大木の数々が、個々に意思を持って、大地を往来しているかのよう————現実それらは全て、昨日まで同じ世界で生きていたはずの、人間たちの脚だった。
奥井は、あまりに壮絶な光景に言葉を失っていた。
彼の周囲は静かな影に守られていた。だが、机の外の光の中に一歩でも踏み出せば——その瞬間に彼の命は、シュレッダーにかけられた一枚の紙切れのごとく跡形も無くなってしまうだろう。
ただ、そこを歩いているだけの、かつては同族だったはずの、何も知らない人間たちの足の下で。
だが。
実際のところ奥井の動揺は、巨大な人間の足が次々と目の前を通り過ぎていくという状況それ自体によるものではない。
むしろそれらが、どんな人間の足であったか、ということの方が重大だった。
本来この教室にいるはずの元クラスメイトであるならば、学校指定のローファーを履いているはずなのに。今ここにいる人間たちが履いた靴は、まるで————
(——しょ、小学生…………?)
呆然と立ち尽くす奥井の目の前に、また1人、人間の足が踏み下ろされる。
土汚れの染みついたゴム底の上で、安っぽい色合いのレザーがどぎつい艶を放っている。その天頂に、マジックテープのアーチがかかっているのが見えた。
大人の乾いたセンスからは到底かけ離れた、安直な色彩感。包み隠さない汚れ。
顔を見ずとも、その足の持ち主の歳の頃が見て取れた。
ぼくのいた学校に初等部はないはずだった。ならば、間違えて近くの小学校に入ってしまったとでもいうのか?
そんな馬鹿な。だって昨日見たのは確かに、あの学校の、あのクラスの座席表だった。
不審に思い、十分な警戒を行いながら、奥井は机の外に身を乗り出す。
そして目を向けた先————はるか前方の黒板に、その答えは書かれていた。
『第2回 合判模試 小学六年生の部 第三試験会場』
——つまり、こういうことである。
ここは確かに、数ヶ月前まで奥井が過ごしていた教室だった。今日は土曜日のため、本来であれば授業が行われる日でもあった。それがこの日に限っては、中学受験生のための模試の会場となっていたため、全校休日となっていた。当然この連絡は事前に生徒たちに行っていたのだが、不登校である奥井にだけは知らされていなかったというわけである。
(……なんだよ、それ……そんな……、)
奥井はこの状況に分かりやすく狼狽えていた。お預けを食らった犬、などというのはいささか生易しすぎた表現だろう。今頃は、恋慕う同い年の女子の、あたたかな手のひらの上で、包み込むような慈愛を賜っているはずだったのだ。
それがどうだろう。小学生たちが我が物顔で行き交うこの教室で、食糧や水分など一切ないこの環境で、あと2日、生き延びなければならなくなったのだ。
子どもの足で容易に踏み潰されてしまう、この小さな体で、たった1人、孤独に。
冷えていく、思考。
どさっっ。
その時。奥井の背後、遥か上空で、鈍い音が響いた。巨大な影が、彼を覆った。
(……っ!)
奥井は急速に現実に引き戻される。
振り向いた先にあったのは、奥井が潜伏するこの席に着こうとする、人間の姿。
白いミュールサンダル。細くて眩しい生脚。チェックのプリーツスカート。
小学六年生の——女の子らしい。
それも、今どきの子らしい、少し大人びたいでたちの。
机の上に白いリュックサックを置いて(先程の音はこれだったらしい)、中から参考書の類を取り出しているのが見えた。
そして————奥井は、目を疑う。
(————もり、かわ……さん?)
その少女の顔は、奥井が恋焦がれるあの森川安純の顔に、よく似ていたのだ。
振り返れば、それに気づいてしまったことが————ぼくの、最初で最大の過ちだった。


