男は、何が起こったのか理解できていなかった。答えから言ってしまえば————寝返りを打った優奈の手が、虫かごを倒してしまったのである。
はあ、はあ、はあ……ふう。
男は呼吸を落ち着けた。どうやら怪我はないらしい。着地の衝撃はこのクッションのような地面がやわらげてくれたようだった。
まどろみに落ちる前より、暗さが増している。というよりほとんど真っ暗闇で何も見えず、目が慣れるまでは下手に動かない方が良さそうである。
男には、大方の想像はついていた。ここがベッドシーツの上であると。虫かごの外に出されたのだと。
時刻は分からないが、丑の刻も終わるという頃だろうか。
じっとしていると、虫かごの中では聞こえなかった微かな音が聞こえる。
窓の外のコオロギの声。
目覚まし時計の針の音。
夜風に木の葉が揺れる音。
新聞配達のバイクの音。
そして————優奈の寝息。
ひとたび意識してしまえば、もう男の耳には、彼女が息を吸って、吐く音しか聞こえない。
闇の中、少しずつ浮かび上がる少女の巨体の輪郭は、霧の向こうに見える霊峰を思わせた。荘厳で、神秘的で——命知らずの男を呼び寄せる。
優奈のお腹の位置に立つ男は、少し考えて——顔の方向に歩を進めることにした。
『羅生門』がそうであったように、夜という時間、夜という空気は、いつも人の悪の遂行を後押しする。
道中、ときおり後方から、優奈の足が衣擦れを起こす音が聞こえてくる。それが男の緊張感を一層刺激する。優奈の褥を侵していると自覚させる。
想像の中の優奈の寝顔はいつも、息を飲むほど無防備だった。だが、穢したいと思い、脱力したか細い腕に手をかけ、純潔な唇に照準を合わせたその時がピークで————その後のことは想像したことがない。
優奈が穢れるのは見たくない。けれど、優奈を穢してみたかった。
矛盾するそんな願いが、もうすぐに叶おうとしている。
今の自分が、どす黒い欲望を撒き散らしても、優奈の体にはかゆみ一つ残らない。
枕の麓に着いた。
唇は、見えない。この険しさでは、登頂も難しそうだった。
しかし、間近で聞く寝息は、唇の存在を存分に主張するものだった。
視線を下げると、パジャマの襟が少しはだけて、優奈の鎖骨を晒していた。
花のような、清楚な香りがした。
優奈の胸元の世界は、まさに、桃源郷だった。
芳香に誘われて、男は森の中に足を踏み入れた。
枕から垂れ落ちる、優奈の髪の毛。ドライヤーの当たっていない毛先は、まだ少し湿っていて——掛け値のない、女の子のにおいがした。
男は、優奈の髪の毛の束の中に、蛙のように頭から潜っていった。
髪の一本一本が、よってたかって男の裸体をくすぐる。
もがけばもがくほどに攻勢は増し、巻き起こる薫風が男を酔わせる、そこは半永久的な快楽地獄。日没前に嗅いだ靴下の臭いとは対極にある、もっとも優奈らしい香り。そんな匂いを、一次元ではなく三次元で感じるという、未知体験。匂いの海に浸かっている、否、もはや匂いに漬けられているという錯覚すら覚える。
そして——男はやがて、優奈の髪の毛の中で射精を迎えた。
一度ならず、何度も、何度も致すたびに、花のような香りが、生臭く塗り替えられていくのが分かる。さらりとした髪束に、濁った粘膜が広がっていく。
優奈が、目の前で、自分の欲望で穢れていく。確かにそのはずなのに——想像の中で優奈の姿を俯瞰してみると、その穢れは、雨粒の一滴にも満たない。女の子のもう一つの命たる大事な髪の毛を、小汚い大人に穢されてしまったことも知らずにすやすやと眠る優奈は、このまま朝を迎え、その髪に櫛を通すのだろう。
(優奈……)
精力尽きた男は、ぬいぐるみを抱く子どものように、まだかろうじて穢れていない、優奈の髪の毛の一本にしがみついた。
気づかれないのは重々知っていたし、それは自分にとって都合の良いことのはずなのに。
その一方通行さが、今更少し切なかった。


