実は、優奈の声が聞こえていないわけではなかった。だがあえて言うなら、酒が入った時のように、少し気が大きくなっていたのだ。
酔いが覚めて、状況を理解し始めると、血の気がすっと引いていく。
飴玉はもう見当たらない。優奈がティッシュにくるんで処分するのを、この目で見た。
まさか、そんなはずはない。
戦々恐々として男が見上げた先には、こちらを見下ろしながら、ポケットティッシュをもう1枚取り出している、優奈の姿があった。
確かに見知った大人が、自分のいない所で、可愛い妹の唾をありがたがって舐めていたと言うのは、優奈にとって気分の良いことではないだろう。しかし利口な彼女のことだから、今回の件に関しては、あくまで妹に振り回された被害者であることは、こちらが言わずとも理解しているはずだ。
ならばなぜ、何も言わない?
じりじりと後退りする男。しかし、優奈の目は監視から逃れることはできない。冷たいものが背にあたり、肩がびくりと跳ねる。優奈の机の上に置かれた、スチール缶のペン立てが、そこには聳え立っていた。自分好みのシールで、可愛らしくデコレーションされている。しかしどれだけ飾り立てても、素材の冷たさは揺るがない。
男は、あの時の状況を思い出していた。1.7センチの体で、初めて優奈に出会い、「駆除」されそうになったあの時のことを。
いや、あの時とは違う。男はひとりかぶりを振る。
あの時には、優奈の表情に明確に、殺意の色が表れていた。今はそれがない。
優奈は怒っていない。これは「断罪」ではない。
だが、少なくとも優奈は、笑ってはいない。
永遠とも思えるこの時間、優奈は1度も目を切らさず、表情を少しもほどかない。
そして————ティッシュを携えたその手が、動き出す。
「ちが、違うんだ、優奈っ、軽はずみというか、軽はずみ?不可抗力で!したくなかったんだあんなことは!本当は!僕は君以外で、優奈?優奈ちゃん?え、嘘だろ、おい、ちょっと待っ————」
無様な命乞いは一音も届くことなく。
目の前が、真っ白になった。


