2.魅了
男は、今日も満員電車に押し込まれていた。
仕事などもはや無断欠勤でもなんでもすれば良かったのだが、癖でここまで来てしまった手前今更ふけるのも気が引けた。それに、これから縮小の段取りや、縮小後のことまで含めた計画も練っておかなければならないし、本当に人生を投げ捨ててしまってもいいのか、今一度立ち止まって考える必要があった。
縮んだからといって、優奈に拾ってもらえるとは限らない。その前にカラスに啄まれでもしたら死んでも死にきれない。野郎の不潔な手に捕らわれる趣味もない。味もへったくれもない人生ではあるが、別に悲観するほど不幸でもない。わざわざリスクを冒してまで実践しなくても、解像度の高い追体験をさせてくれる傑作だっていくつもあるではないか……。
いずれにせよ、結論を急ぐ必要はない。あの機器が手元にある限り、縮小はいつでも可能なのだから。
車窓に映る男の顔は、心なしかいつもより晴れやかだった。
(……っ、)
勤務中、午後2時を回った頃。
男の呼吸は乱れ、項垂れた顔は火照っており、通勤時の余裕は面影も残していなかった。
早く、早く縮みたい!何が計画だ、何が未練だ。
ああ、あの子は蟻のようになった自分を見て、どんな顔をするだろう?決して自分を嫌っていない、けれど特別懐いているわけでもないあの子は、指先だけで潰せてしまう自分を、どんな風に扱ってくれるのだろう?あの子は……ああ、早く知りたい、早く!
退屈な仕事と向き合ううちに、彼は媚薬を飲まされたかのように、縮小のことしか考えられなくなっていた。PCの同じ画面で、カーソルを動かしたりスクロールを行ったりをもう2時間近く繰り返していた。頭が働かないどころか、目の前のものすらもう見えているようで見えていなかった。
「君、今日はもう早退したら?」
間も無く男は、同部署の上司に心配の声をかけられ、時間休をとって帰宅することにした。(彼は周りの人間にはそれなりに恵まれていたが、彼自身の問題であまり馴染めずにいた)
平日のこの時間の外出は新鮮だった。電車は下校中の学生達の活気で満ちており、彼のようにくたびれたスーツを着た男性は見当たらなかった。
斜め45度先の、ドア付近を縄張りにしている女子高生のグループが、自分の噂をして笑っているような気がした。男は林のように連なり暗闇を作り出す彼女らのローファーの間に迷い込み、翻弄されるちっぽけな自分を妄想し、その発現はビジネスバッグの下に隠していた。
あらゆるものが、自分を誘惑してくるように思えた。気を抜くと、自分以外の全てのものが巨大化するような幻覚に陥ってしまいそうで。
極め付けは、自室前の廊下を歩いている時だった。
隣の、佐藤家の部屋の玄関前。そこには三足の靴が立てかけられ、天日干しにされていた。大中小の靴が三足。大きいのが、女手一つで2人の娘を育てている母親の靴。小さいのが、現在幼稚園年長の次女、心菜の靴。そしてその間に立つのが、長女優奈の使い込まれた靴だった。
男はどうしていいか分からず(むろん何もする必要などないのであるが)、立ち尽くすしかなかった。この場で縮小を決行するどころか、鼻を近づける勇気すら持てなかった。彼はこうして人生の中で幾度となく好機を逃してきたのだった。今回もまた、縮小の直前で尻込みして、適当な言い訳を重ねているうちにタイミングを逸してしまうのだろうか……。
ふとその時、廊下の隅を這う1匹のみすぼらしいわらじ虫が目に入った。
彼にしてみれば、わらじ虫とは数多いる虫の中でもとりわけ愚鈍で面白味のない存在であった。それが何かこの時はちょうどいい気がしたのである。
何も知らないその虫は、行く道を遮る男の指をいじらしくよじ登って行った……。
(……何をやってるんだ俺は。)
はじめは妙案だと思った。
しかし、部屋の鍵を開けながら、今し方の自分の行為に対しての虚しさばかりが募る。
結局のところ、自分は命が惜しいのである。だから、何の罪もない虫けらに自分の夢を託すことしかできなかった。
中途半端に死を夢想する人間に限って、決死の覚悟で何かを成し遂げるために動こうとはしない。つまるところ男もそういった連中と変わらないのである。
力なくため息をつき、自室に戻ろうとした。
その時だった。
「……てきまーす!」
壁越しにくぐもった声が聞こえてきた。
そう思って振り返った次の瞬間に、小気味よく玄関の扉が開かれ、優奈が中から飛び出してきたのだった。
靴下のまま出てきた彼女は、すぐそばで呆けている老け顔の29歳には目もくれずに、立てかけられた靴を手に取る。
マジックテープを剥がす音が聞こえた。優奈が靴を履いた。男が虫けらを1匹左のつま先に落とした、あの靴を。
何も知らない少女は、とんとんと、床で靴を整えていた。無慈悲に、左足に対しても。その華麗なる仕草に、男は息をするのも忘れて釘付けになっていた。
そして。
男は見逃さなかった。優奈がその顔に、不快の色を宿したその瞬間を。
そこからは流れるように事が運んだ。
優奈は違和感のもと、左足の靴を脱ぎ、逆さにしてゆすった。その口からは砂や埃の粒、そしてあの哀れなわらじ虫が吐き出された。
仰向けになって足をばたつかせているわらじ虫。可哀想に、自分の身に何が起こったのか理解できていないのだろう。しかし、理解したところで何が変わるというわけでもない。
優奈は、哀れな虫けらを踏み潰し、そのまま残骸には一瞥もくれずに、腰に下げたポーチを揺らしながら走り去って行った。
静まり返った廊下に、鍵の落ちる音が力なく響いた。落とした鍵を拾うのも忘れ、男はただあの一点のみを見つめているしかなかった。
(あ、ああ……)
その瞬間、男の中で何かが壊れた。


