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1話

7.臭い

「あ、すみません!ちょっと電話が……」

優奈はそう言って、男への詰問を中断し、桃色の回転チェアを45度回して、友人からというその電話に応じた。

男は呆然と立ち尽くすしかなかった。

「あ、もしもしうっぴぃ?……えー今?私?今は……宿題してたとこ?……うん大丈夫、へーきへーき」

これが、学校の友達とおしゃべりをしている時の優奈だ。彼女が相手によって顔を使い分けていることを、男もよく承知していた。だが、彼の知るそれはあくまで、優奈という個人の中で完結している変化のはずであった。

小さき者にとって、巨大な存在の発する声というものは、周囲の空気を一変させうる影響力を持つものである。男は今、身をもってそれを実感させられた。法廷のように張り詰めていた空気が嘘みたいに、無邪気ではしたない空気に変化したのが分かった。

「あ、そーそ!でね!さっきの話なんだけどー……うん、違うよー!そんなんじゃないって!」

この温度差が、熱暴走していた男を我に帰す。

優奈は既に、蚊帳の外の男になど目もくれず、電話に夢中になっていた。このまま男とのやり取りを忘れてしまってもおかしくないほどに。

もし、電話が鳴るのがあと少しでも遅かったら。今頃優奈は、神妙な面持ちで、電話の向こうの友達に相談していたのだろうか。

これで、良かったのだ。一時の衝動のためだけに、信用も命も失うなんて馬鹿げている。

男は息をついて、机の上に腰を落ち着けた。再び回転チェアを正面向きに返し、なおも電話を続ける優奈を、ぼんやりと見るともなく見ていた。

「うん……うん……中山が?……えーなにそれ知らなーい!」

優奈は、何気なく机の上で足を組んでリラックスした。無論、人前ではそのような行儀の悪い姿勢をとることはない。この部屋が誰の目もないプライベートな空間だと認識した上でのことだった。

(————え?)

平穏はいつも、突然に終焉を迎える。

巨大怪獣にも思えたそれは、薄水色の靴下に包まれた足。

優奈の足の裏だった。

女という生き物は、その清らかで華やかな容貌の裏に、幾つもの不浄な闇を抱えている。それは、スカートの内側であったり、あるいは腹の中であったり。どんなに心優しい女であっても、どんなに真面目な女であっても、女として存在する限り、必ず闇を抱えているのである。

光が強まれば、闇も強まる。強すぎる闇は、時に近づく者を狂わせる。

優奈はまさに、男の人生における唯一の光といえる存在だった。

そんな彼女の中で醸成されたどす黒い闇は、男に対して、抗いがたいまでの引力を発揮する。

(あ……ああ………)

足の裏で覆い隠されて、優奈の姿が見えない。そして、優奈からもきっと、自分の姿は見えていない。

何をしても、優奈には分からない。

(は、は……。すこ、少しくらい、近づいても。いい、よな……)

男の体が、ふらふらと吸い寄せられていく。

優奈の靴下の繊維は、人並みには汚れていて。かかとのあたりは特に燻っていて、少しダボついて、しわを作っていて————顔をうずめるには、具合が良かった。

人と人が、会話をするくらいの距離まで近づく。すると、空気が変わったのが分かった。まるでそこから先は危険だと、教えているみたいに。

唾を飲み込む。一歩、二歩、そして、たるんだ繊維に手をかけようとした、その時————。

「やだぁー!キモーーっ!!」

反射的に、男はその場から飛び退き、声のした方を見た。だが、相変わらずその先に、優奈の姿はない。

「それでどうなったの?……うん……うん……えーホントぉ〜?……」

楽しそうに電話を続ける、彼女の声が聞こえてくるばかりだった。

(……は、……っ、はあ……、っ!!)

心臓が、痛いほどに激しく鼓動する。

見られたかと思った。終わりだと思った。自分への罵倒だと思った。

足がまだ震えていて、立ち上がることも叶わず、男は這いつくばるようにして再び靴下に向かっていく。

怖い。辛い。苦しい。

何かに縋ることで、苦しみを和らげたかった。

そして男は、優奈の足の臭いを嗅いだ。

「私三年のとき一緒だったよー?……そーそー……えーそんな感じじゃなかったけどなぁー?……」

(————、)

瞬時に悟った。これは、嗅いでいけない臭いなのだと。

極めて危険な臭いなのだと。

理由がなければ、いつまでも嗅ぐのをやめられないような臭いなのだと。

気がつけば男は、全身でその臭いを求めていた。戻れなくなることが分かっていても、踏みとどまることはできなかった。

極上で濃密な優奈の臭いが、理性というダムを打ち破って、男の肺内で氾濫する。色々なものを壊して回る。

だが、男は考えた。

それで優奈の足が、こそばゆさに少しでも反応すれば。優奈の話し声に、少しでもほつれが生じれば。それがブレーキになるはずだと。それなのに。

(な……なんで……)

優奈は、何も感じていない。

それは我々が、蟻の歩行を、衣服越しに感じることができないのと同じことであった。

(……!うそだ、うそだ、うそだ……!)

顔をうずめるどころか、こすりつけるようにして、優奈の足の臭いを嗅ぐ。

ずぶり、ずぶり。底なしの沼に引き摺り込まれていく彼の必死のSOSも届かず、無邪気な少女の笑い声が残酷に響く。

(こんなのが……まかり通っていいはずがないっ!)

それは本来、手の届かない夢でなければならなかった。なぜならば、全ての欲望がたやすく実現できてしまう世界では————人は、人らしく生きることができないのだから。

男は、生前に見てきた優奈のことを思い出す。

優奈は、挨拶を欠かさない子だった。彼女がくれる挨拶と、さり気ないその笑顔に、灰色の世界を惰性と義務感で生きるだけだった男は、いつも救われていた。

けれど————その笑顔の下で、小さくて子供らしい、あの靴の中で、いつだって優奈は、この無秩序の世界を作っていた。自分を虫けらの道に誘うこの世界が、あの優奈が用意したものであるというまぎれもない事実。それがより一層男を狂わせる。

優奈の電話は、それから30分ほど続いた。

むろん、その間彼女の意識が他に逸れるようなこともなく。小人を1匹壊すには、十分すぎる時間だった。