6.魔性
優奈は玄関で靴を整えながら、今後のことを考えていた。
小さな姿で発見してから、優奈は男の言葉を聞けていない。しかしながら、彼が何かを言おうとしていることは理解していた。耳をすませばネズミの鳴き声のような音を発しているのも分かる。しかしその内容までは聞き取れずじまいだ。
そこで彼女は、ある方法を思いついた。
「しゃべれますか?」
優奈は机上に、マイク付きイヤホンに接続したスマートフォンを用意し、録音アプリを起動した。男が話し終えたのを見て、再生のボタンを押す。
そのままでは静寂を返すばかり。しかし、音量を最大まで引き上げると。
<えー、もしもし、聞こえる?>
「あっ、聞こえました」
かろうじて男の言葉を聞き取ることができ、優奈は安堵する。録音を挟まなければいけないというのが少し面倒ではあるが、最低限の会話をする分には問題はないだろう。(テンポが悪いため、録音と再生の描写は以降全て割愛させていただく)
「えっと……色々聞きたいけど、まずなんでそんなにちっちゃくなっちゃったんですか?」
「それは……僕にも分からないんだよ。気づいたらあんなことになってて、優奈ちゃんが見つけてくれていなかったら、どうなっていたか」
「そうだったんですね……大変」
優奈は男の返答を少しも疑わなかった。ましてや、自分自身がその理由であるということなど知るはずもなかった。
「あと、今ママが仕事で、帰ってくるの9時くらいなんですけど、このこと話しちゃって大丈夫ですか?」
「いや、放っておけば戻れる可能性もあるし、一旦黙っておいてくれないかな?」
「え?でも、お医者さんに診てもらうとか……」
「あまり騒ぎを大きくしてほしくないんだ。頼むよ」
男は必死に食い下がった。必死さを悟られないことに必死であった。
「分かりました、じゃあママには内緒にしておきます」
「ありがとう」
中には、納得のいかないこともある。しかし彼女のような素直な子供にとって、大人の指示は大概は信頼するべきものである。親の言うことは絶対。先生の言うことは絶対。インフルエンサーの言うことは絶対。
そして、この蟻男も、意識上ではまだ信頼に足る大人であったから、当然のように優奈は従った。
他にも様々なことを話し合った。妹は分別の付かない歳なので特に見つからないように注意するだとか、日中は学校なので面倒が見れないだとか。
また、廊下に放置されたままになっていた抜け殻は、ポケットに鍵が入っていることを伝えて、部屋の中に戻してもらった。
「悪いね。こんな雑用みたいなことさせちゃって……」
「いえいえ。でもよその家の鍵を開けて入るなんて初めてで、キンチョーしちゃった……」
「ははは、そうだよね」
激動の連続で気の休まる間がなかった男も、ようやく夢を叶えた幸せを噛み締めることができた。全身に浴びせられるような、優奈の落ち着きのある声に酔いしれる。目に映る景色の隅々に優奈の気配があり、この上ない充足感を覚える。そして何より、優奈がいる。
そう、優奈がいる。優奈に拾われて、これからの人生にはずっと優奈がいて。優奈にお世話されて、甘やかされて、しつけられて。
それだけでいい、と男は今この時思った。確かに生前(以降はこの表現で統一しよう)、優奈のおみ足に屈服し、くちびるの誘惑に溺れることを幾度となく夢見た。だが、巨大隕石のように迫る優奈の靴底を仰ぎ見て、自分の考えがいかに楽観的であったかを思い知らされた。
喉元にナイフを突きつけられたなどと言う生易しいものではない。優奈が靴を踏み下ろすだけで、彼が軽く見積もって100人分殺されていた。思い出すだけでも動悸のする絶対的恐怖を男は味わった。
「そういえば、——さんって子供いたんですか?」
「いや?いないけど……」
なぜ、そんなことを聞くのだろう。
男は気づいていなかった。自分の犯した過ちを。
「あれ?ですよね……。でも、さっき服返しにいったとき、玄関に女の子用の靴があって」
(あ————)
どうせ戻ることもないのだからと、男は片付けを怠っていたのだ。観賞用として置いておいた、パステルカラーの子供靴を。それを、男の罪の証拠品を、優奈は見てしまったのである。
優奈は男をじっと見つめていた。他意はない。彼女は何も知らないのだから。返答を待つ者の当然の姿勢だった。
「あ、えと……」
だが、優奈に対して後ろ暗いところのある男は、その瞳に詰問されているような錯覚に陥る。
早く何か言わなければ。弁明しなければ。そう思えば思うほどに、土壺に嵌っていく。焦燥感で言葉がまとまらなくなる。
いい目をしている、優しい目をしている、などと言うのは幻想だ。確かに瞼の形には差異があるが、人間(アジア人)の瞳のその奥は、みな一様に暗く、漆のように冷たい光を宿している。
小人の目は、そういった人間の細部を誤魔化しなく映し出す。映し出してしまう。
「じ、じつは 「
何か喋ってます?すみません、なんにも聞こえなくて。
」
優奈の目もまた、冷たかった。睨まれてなどいないのに、睨まれているように感じる。
さらに————。
優奈には、手持ち無沙汰にすると親指と人差し指をしきりに擦り合わせる癖があった。男がその仕草に気づいたのは、小人の耳が、指先が奏でる微かな音を拾ったから。
しりしり、しりしり。
乾いた音。淡々としたリズム。
意図してそうしたわけではない。単なる癖なのだから。
だが、彼女の指先は、まるでその仕草を見せつけるかのように、男の方を向いていた。
愚かな小人にとって、それは自身を処刑する予行練習のようにしか見えなかった。
どくり、どくり、どくり————。
優奈の指は、しなやかで美しかった。先細りした指先の先端には、艶やかに光る爪。けれど、華奢で未熟でか弱い、少女の指だった。
男は、画面越しにその指を見たことがある。指紋がくっきりと浮かび上がるほどの近距離で、彼女の人差し指と親指が、お菓子の粒を弄ぶ。
その時に男は、暗闇の寝室で、乱れる心臓を抑えながら、ディスプレイに釘付けになりながら、あの粒になりたいと思った。あの指で、全身をしごかれ(たいと焦がれた。
優奈の指と指の間に囚われた自分。そこは、少女の指先のぬくもりが作り出す灼熱地獄。半狂乱になりながらもがいても抜け出せない。大人の男の全力は、少女の指先の力にすべて飲み込まれ、ほんの少しのこそばゆさを与えるだけ。
そして彼女は、0.01%の力加減で、おもむろに指の中の虜を弄ぶ。すり潰されるでもなく、押し潰されるでもなく、優奈のその指でこねられて死ぬ。それが自分の最期。
血すら出ない。消しゴムのカスでもこねるように、優奈の指にこねられて死ぬ……。
あの時の想像が、今この時になって蘇ってきた。
自分が追い詰められているのか、好機に立たされているのかすら、もう男には判断がつかない。どう弁明するか、という議題も、脳の彼方に流れ去った。
この小さな体で、優奈のそばにいることができる。それだけで幸せだと、言い聞かせたばかりなのに。
どこまで優奈は、自分を弄べば気が済むのだろうか——。
しかし、あくまで異常なのは彼の方である。指をこすり合わせるという極ありふれた癖からの行動に、性的興奮を引き出される異常者がいるなどと、幼い彼女がどうして想像できようか。
故に、優奈は容赦しない。
形勢は既に決していた。あとは詰めるだけという状況だった。
詰み————すなわち、男の罪を自白すること。
しり、しり、しり。
優奈が淡々と指を擦るたび、盤面は1手1手、終局に向かっていく。
敗北の後にはきっと、罰ゲームが待っている。
罰ゲーム。おしおき。しつけ。教育。
11歳の少女から、30手前の大人の男に対しての……と条件づけると、それらはたちまち倒錯的な字面へと変わる。
そして、あと1手で決着というとき。男が口を開こうとしたその時————。
場違いな電子音が鳴り響いた。


