5.巨大
男は一心不乱に駆けていた。足場が不安定で滅茶苦茶な体勢になりながら、立ち止まってはいけないというただその一心だけで逃げ続けた。
(いっいやだ、いやだ、死にたくない……死にたくない、!!)
はじめ男は、優奈とのあまりのスケールの差に絶望した。この時点で既に、性的興奮など付け入る隙もないほどの恐怖の感情が男の心を席巻していたのである。
第二に、意思疎通が成立しないことへの焦燥。すぐ近くで叫んでいるはずなのに、優奈の耳に声が届かない。
いや、単に認識されないというだけではない。叫びながら次第に、優奈自身ではなく、彼女の片足のつま先に語りかけているという錯覚が男を支配し始めたのである。ドン・キホーテのように、表情を持たないパステルカラーのスニーカーに、成立するはずのない対話を試み続けている滑稽な存在、それが自分であると、既にそれは「人と人」のコミュニケーションではないのだと、徐々に徐々に理解させられていく。
そして決定打は、優奈に認識された瞬間に訪れた。
初めて彼女と目が合ったとき、男はしめたと思った。しゃがみ込む動作に圧倒されはしたが、ようやく心に安息が訪れた気がした。どんな形であれこれでようやくコミュニケーションが始められると疑わなかった。彼女が、耳を劈くような悲鳴を上げるまでは。
何が起きたか分からず、呆けたように優奈の動向を見上げているしかなかった。
優奈には、下等生物を左足で踏み潰す癖があるのだろうか。あの時のわらじ虫の残骸がこびりついた靴底が迫り来るのを見て、男はようやく自分の置かれている状況を理解する。
腰が抜けて立ち上がることすらままならない。しかし、仮に満足に動くことのできる情況であっても、22.5センチの影の中に捕らわれた蟻は、八方を敵兵に囲まれた王将に等しく無力だった。
結局、その靴底が男を押しつぶすことはなかった。しかし、死を悟り、しばらく伏せていた目を再び開いた先に待っていたのは台風一過の安息ではない。
優奈は、今度はあのティッシュで男を殺そうとしている。キャラクターの線画が薄水色でプリントされた、あのティッシュで。
男はその時になってようやく、逃げるということを思い出した。温室育ちの彼は、これまで死の危機に直面したこともなければ、人の殺意というものに触れたこともなかった。
年端も行かぬ、それも自分が恋焦がれていた少女からの剥き出しの殺意。
あまりにも幼児趣味な殺し道具。
静寂の中で淡々と行われる一方的な殺戮。
全てが歪で、男の理解を超越していた。故に狂ってしまったのである。
彼は走り続けるしかなかった。遥か彼方まで続いている廊下の景色の中を、後先も考えずひたすらに走り続けるしかなかった。目先の脅威から一刻も早く逃れたかった。
優奈は手でその行先を塞いだ。
(あ、あ……)
それは例えるならば、牧歌的な日常風景が、何の脈絡もなく次のページの見開きで阿鼻叫喚の地獄絵図に変わっていたようなものであった。寒々としたコンクリート色の風景が、気づいた時には人肌の色で塗りつぶされていた。こんな一瞬に景色が変化することなど、現実にあってはならない。
男には輪郭すら捉えることかができなかったが、壁に浮かび上がる生々しいしわによって、それが優奈の手のひらによって引き起こされたものだと理解した。
それは男の、少女の体に生じるしわへの異常なこだわりによりたどり着くことのできた理解だったが、この時ばかりは、ただただそのしわが恐ろしかった。
退路を失った男は、半強制的に後方に——優奈の待つ後方に、振り返らざるを得なかった。
ところで、優奈のいる方に振り返る、というのは妙な話である。男はそれまでも、優奈を前にしていたはずではないか。そう、優奈の手のひらだって、優奈なのだから。
その判断基準に則るならば、振り返った先にも、優奈はいなかった。
男には、優奈の居所にある程度の予測がついていった。だから少しずつ視線を持ち上げていく。
かさぶたのできた膝を越え、ギンガムチェックのスカートを越え、白地に爽やかなアクセントを与えるミントグリーンの襟ぐりを越え、焼けた肌に鎖骨の浮いたデコルテを越え、そして————天上から見下ろす、優奈がいた。


