優奈の唇が静かに動いた。
コ、ビ、ト。
それはコミュニケーションではなかった。だが、彼女が確かにそう呟くように見えた。
枝垂れ落ちる黒髪が、男の視線をその内側に幽閉する。頬の輪郭が逆光に照らされて、神々しく見えた。
何か言わなければ。何か、アクションを起こさなければ。
分かっているのに、全て見えない力に封じられている。
いつも彼は、優奈の前では、大人としてコミュニケーションを先導する存在であった。それが大人と子供の、当たり前の在り方だった。
しかし、今となっては疑い用も無いほどに、情けないという感情の付け入る隙もないほどに、主導権は一方的に、あの20歳も下回る少女の手が握っている。
男はただ震えながら、優奈の託宣を待つことしかできなかった。
みずから逃げ道を塞いでおきながら、生まれて初めて小人というものを目にした優奈は、その扱いに戸惑った。
縮小機で人を縮めることができないのは彼女も知っていた。それに、お話の中に出てくる小人は、どれだけ小さくてもせいぜい親指くらいのものであると認識していた。
けれど、これは。
ネズミよりも、カエルよりも、シャクトリムシよりも……ひょっとしたら、アリよりも、小さいかもしれない。ここまで小さいと、ヒトの形をしていることが、かえって不気味にさえ思えた。
しかし、優奈を戸惑わせているのは、現実からも虚構からもかけ離れたその小ささばかりではない。
「あの、————さん、ですか?」
優奈は、隣の部屋に住む男性の名を口にした。
仔細に顔が見ることはできないが、不自然に捨て置かれた彼の衣服や、背格好から、手元の小人が彼である可能性に行き着いた。
返事は聞こえない。けれど必死に、何かをアピールしているように見える。
間違いない、と思った。
「……、」
周りには、誰もいない。他に大人の人がいれば、判断を委ねることができたけれど。
かといって、このまま見捨てておくこともできない。これが赤の他人だってそう思うし、普段からお世話になっている人ともあればなおさらだった。
だとすれば。
優奈は壁にしていた右手を、男の前で仰向けに改める。
お話でよく見る合図。けれど伝わっていないのか、ためらっているのか、待っていても乗ってこない。
「あ、すみません。乗ってください」
クイクイと指先でジェスチャーしながらそう言った。するとようやく小人は優奈の指先に手をかけた。
くすぐったい。本当に蟻が這ってきたみたい。
ほんの少し手が震えた気がしたが、小人を振り落としてしまうことはなかった。
ところで彼のこの手をかけるという動作自体、優奈にとっては想定外のことだった。何しろ彼女は、階段を上るくらいに当たり前に手のひらに乗ってくると思っていたから。
たが実際は、たかが指の上に乗り上がるのに、20秒以上もかかっていた。優奈は男の奮闘中の様子を見て、チリトリの微妙な厚みに引っかかって入りきらないゴミを連想した。今の男にとって、指先の厚みが、体育館の舞台よりも高い段差となっていることを、彼女は知らなかった。
男は、優奈の手のひらの上で揺られていた。
それは男にとって、もはや一つの地形であった。だが、確かに優奈の手のひら。そのことを、肌に触れる温もりが教えてくれる。
少女の手のひらの温もりは、着実に男に恐怖の感情を忘れさせていく。それはつまり、恐怖に追いやられていた別の感情が勢力を取り戻しつつあるということでもあった。
蟻のような身である以前に、男は全裸だった。毛むくじゃらの汚らしい男の裸体を、優奈はその純潔な素手で持ち歩いている。その自覚が彼女には無いのだろうか?小さすぎて?それともこの後、男の見えないところで、手を入念に消毒したりすることがあるのだろうか?
それは分からない。ただひとつ確かなことがあった。男はあの時、見てしまったのである。これからの優奈との生活の中で、折に触れて男の脳裏によぎるであろう、少女が男へ提示したひとつの回答。
優奈は男の名を確かめた後、手を差し伸べた。
迫り来る手に多少圧倒されはしたが、それ自体、慈愛に満ちた行為だった。
たが、乗り上がろうとしたその時、男は見てしまった。
彼女が、男の緊張をほぐそうと向けた笑顔のその下、男に差し出したのとは反対の方の手を使い、スカートの内側を隠していたのを!
本来優奈は、魔性という2文字からはかけ離れた、どこにでもいる純朴でほんの少し恵まれない11歳の少女だった。だが結果だけを見れば、彼女は確かに、自分のために1人の男の人生を破滅にまで至らせた魔性の少女であった。
そして、破滅同然の状態に追いやられてもなお、男は少女が無意識のうちに発揮する魔性から逃れることはできない。今後優奈が優しさを見せるたび、あの光景がサブリミナルのように脳裏によぎり、男の理性を少しずつ蝕んでいくこととなる……。


